てるてる坊主、あるいは先輩のこと

冬栄

第1話

 ……そう言えば、あの日も雨だった。

 と言っても、放送室には窓がない。

 だから、穴の空いたボードやカーペットにまとわりつく湿気と、ぶ厚い鉄筋コンクリートの壁ごしに聞こえる雨音だけが、外で雨が降っているということを知らせていた。

 雑踏のような、あるいはノイズのような、その――音。

 そこに、五十嵐先輩が台本をめくる音が混じる。その音さえも、湿気を含んで重たい。

「……10ページの、徹の台詞だけど」

 五十嵐先輩はためらいがちに口を開いた。

 ……まるで、静寂を破ることを恐れるみたいに。

 部活が終わった後の放送室とか、人気のない廊下とか、そういう――静まり返った場所で口火を切る時、五十嵐先輩はいつもそんなふうだった。

「『月が綺麗ですね』って、漱石?」

 頷くと、五十嵐先輩は額に手を当てた。

「日向さあ……」

 日向、というのは私の名字だ。名前は……言いたくない。

「先輩だったら何て言いますか?」

 ……五十嵐先輩には好きな人がいる。

 そのことは、五十嵐先輩も認めていた。肝心の相手は、と質してみても冗談で躱されてしまい、聞けていないのだが。

「……その時になってみないと分からないな」

 だけど、と五十嵐先輩は強い調子で、

「私だったら愛の告白を、いや告白じゃなくたって、大事なことは借り物の言葉なんかで言いたくない」

「――」

 借り物の言葉、という言い回しが突き刺さった。

 ――自分の気持ちは自分の物だろ。

 五十嵐先輩は、口癖のようにそう言っていたから。

 ……それから、五十嵐先輩はこう付け加えた。

「そんなのさ、敗北宣言と一緒だよ。その台詞書いたやつに、『私はあなたに負けました、一生敵いません』って言ってるのと変わらないよ」


 五十嵐先輩の好きな人について、私が知っていることは少ない。

 寧ろ、嫌いな人――五十嵐先輩は「私が天方を嫌いなんじゃない、天方が私を嫌いなんだ」と認めないので、途轍もなく仲が悪い人、と言うべきかも知れないが――についての方が、良く知っている位だった。

「……同じクラスに、好きな子がいるんです」

 そう打ち明けると、五十嵐先輩は切れ長の目を見開いた。

「同じクラスって、お前……」

 私は頷いた。

「女の子です」

 ――何故このようなやり取りが成立したのかと言うと、私たちの通っていた学校が女子高だったからである。

 と言っても、私立ではなく公立の、併設校のない高校のみの学校だった所為か、所謂「お姉様」や「王子様」にはついぞ会った試しがない。

「両想いなら、女同士でもいいって……」

 気の迷いだとか、間違ってるとか。五十嵐先輩は絶対、そんなこと言わない。

 確信していたのに、声が震えたのはどうしてだろう。手に、汗が滲んだのは。

「……先輩は、そう言ってくれますか」

 両想いなんだ。五十嵐先輩は小さく呟いた。

「あ、はい。それで……」

 ――先輩は、私たちの関係は……私たちの気持ちは、間違いなんかじゃない、異常なんかじゃないって、そう言ってくれますか。

「……っていうか、自分の気持ちは自分の物だろ」

「分かります」

 この人は、味方だ。そう思うと、胸に安堵が広がった。

「二人、愛し合っていれば、他人がとやかく言うことじゃないですよね」

「いや分かってないけど……まあいいや」

 五十嵐先輩は微苦笑を浮かべて、前髪を掻き上げた。癖がないものだから、切って少し経つと目に入って仕方ない、と零している黒髪がさらりと揺れる。

「……先輩は、好きな人いるんですか?」

「いるよ」

 手を下ろし、五十嵐先輩は真っ直ぐに私の目を見て答えた。

 目を見れば分かる。

 五十嵐先輩の言っていることは、本当だ。

 それ以前に、五十嵐先輩は「好きな子がいる」と打ち明けたばかりの後輩に嘘を吐くような人じゃない。

「それは……」

 中学校の同級生とか、塾――には五十嵐先輩は通っていなかったが、可能性はいくらでもある。それなのに、どうしてそう思ったのだったか。

「……女の人、ですか」

 五十嵐先輩は無言で頷いた。

「私の知ってる人ですか」

「――……」

 五十嵐先輩は答えを迷う素振りをした。

 しかし、それ自体が肯定と同じことだ。

 ……私がその人を知っているかどうか確信が持てなかったのでなければ、だが。

「……天方、とか言ったら?」

 誤魔化された。そう思った。

「なわきゃないじゃないですか」

「ひでえ」

 五十嵐先輩が小さく吹き出した。

「……だって、先輩、天方先輩と仲悪いじゃないですか」

 私は、五十嵐先輩がその時見せた表情を忘れることができない。

 ――まるで、私がそれに気が付いてしまったら、世界の破滅だとでもいうような。

「……知ってたのか」

「知ってたのかって……」

 天方先輩は五十嵐先輩の同級生で、同じくシナリオを担当している。「五十嵐も上手いけど、天方は別格」というのがその評価だった。

 髪の長い、綺麗な人で、部活の連絡で私のクラスを訪ねて来た時、彼女がひどく機嫌を損ねたのを覚えている。

 けれども、見かけによらず気さくな性格で、唐突に「マック行こうぜ!」と言い出して、コーラとポテトを奢ってくれたりもした。

 好きなアニメが一緒で、話も弾んだ。

 天方先輩は、好きな声優が端役はおろか、通行人に紛れてどうでもいいことを喋っていても絶対に分かるのだと、楽しげに話していた。

 ……それは、五十嵐先輩が薦めてくれたアニメで、天方先輩が絶賛していたのと同じシーンを五十嵐先輩も好きだと言っていたのだが、二人がそれについて話しているのは一度も見たことがない。

 それどころか、談笑しているところすら見たことがない。

 ……何度か、天方先輩と五十嵐先輩が話すを見たことがある。

 日誌の受け渡し。収録スケジュールの確認。

 話し掛けるのは大概五十嵐先輩で、天方先輩は五十嵐先輩を見ないまま必要最低限の返事をするか、下手をすれば、返事をしない時さえある。……そして、とても見ていられない、というふうに目を背ける先輩方。

「……気付かないとでも思ってたんですか。天方先輩はああだし、先輩にしたって、一秒でも早く話を切り上げたい、って感じじゃないですか」

 ――好きな人とは、少しでも長く話していたいって、そう思うのが当然じゃないですか。

 私は一人でいる時だって、明日彼女に会ったら何を話そうかと、そればかり考えているのに。

「そうだな。……そうだな」

「……先輩は、男に生まれれば良かった、って思います?」

「それは……思うなあ」

「ああ、やっぱり天方先輩じゃないんですね」

 ……だって天方先輩と五十嵐先輩は、男だとか女だとか、そんなことが問題になるような関係じゃない。

 そう言うと、五十嵐先輩はスタジオの方に目をやって、ふっと笑った。

 私もつられてそちらを見やったが、ガラス越しに、いつか五十嵐先輩が「黒いてるてる坊主」と言ったヘッドホンを引っ掛けたマイクが立ち尽くしているのが見えただけだった。


 ……昔は仲、良かったんだけどね。

 上級生がそう噂しているのを小耳に挟んだ時、感じたのは驚きよりも寧ろ、納得だった。勿論、五十嵐先輩と天方先輩の話である。

 実を言うと私にも、思い当たる節がないではなかったのだ。

 ……四月の、入部説明会の日のことである。

 放課後、放送室に行こうとした私は道に迷ってしまい、二年の教室の前をうろうろしていた。道を聞こうにも、皆、部活に行くか家に帰るかしてしまった後らしく、人っ子一人いなかった。

「……君、どうしたの」

 そこに通りかかったのが、五十嵐先輩だった。

 肩に鞄を引っ掛け、手には傘を持っている。家に帰ろうとしたはいいものの、昇降口で雨が降っているのに気付いて、傘を取りに戻った、という風情だった。

「放送室に行きたいんです」

「――……」

 五十嵐先輩は瞠目した。

 ……五十嵐先輩は放送室の場所を説明しようとしてくれたが、私が理解できずにいるのを見て取ると、案内を買って出てくれた。

「放送室ってことは……放送部に入りたいの?」

 道すがら――私がうろうろしていたのは新校舎で、放送室は旧校舎にあった――五十嵐先輩は私に尋ねた。

「はい! 去年の文化祭の声劇に感動して!」

「え、うちの文化祭って十一月……」

「推薦貰えるの分かってましたから」

 五十嵐先輩はうわあ、と呟いた。

 後に五十嵐先輩は、英数国理社の成績は良かったのだが、音楽や体育の成績が悪く、推薦には見向きもされなかったと語った。

「……何て言う話?」

「え?」

「その、声劇」

「『てるてる坊主』です」

 ……あの時、五十嵐先輩はどんな顔をしていたのだろう。

「主人公の女の子が、ひょんなことから体育祭の実行委員になって、そこで出会った男の子に淡い恋をするって話なんですけど、最後の方の『明日は晴れるかな』って台詞が印象的で。実行委員として、無事に体育祭が終わって欲しいって気持ちもあるけど、そうしたら今までみたいに話せない、いっそ雨が降ればいいのに、永遠に準備していられたらいいのに、って。でも、そんなこと言えなくて……」

「……着いたよ」

 五十嵐先輩は、私に背を向けた。

「あっ、先輩……」

 ――名前だって聞いていない。それどころか、お礼だって言ってない。

 そう、五十嵐先輩を呼び止めようとした、その時だった。

「――五十嵐!」

 ……天方先輩が五十嵐先輩の名前を呼ぶのを聞いたのは、あれが最初で最後だった。

「遅いんだよ、お前いないうちにお前が後輩の面倒見係って決まったからな」

「は……?」

 五十嵐先輩も驚いていたが、私も驚いた。

「え、先輩、放送部だったんですか」

「――」

 五十嵐先輩は、当惑の表情で、私と天方先輩を見比べるようにした。

 それから私の方に手を差し伸べて、こう言った。

「……放送部二年、五十嵐桂。これから宜しく」

 私は、五十嵐先輩の手を取った。

「宜しくお願いします」

 体温の低い手には、しかし、強い力が籠められていた。

 ……まるで、命綱でも握るみたいに。



 そういう経緯で私は、二人が疎遠になったのは、二年生の四月か五月の出来事だと思っていたのだ。

 だが、先輩方の証言は、その予想を裏切るものだった。

 ――高校一年生、十月。

 事件は「てるてる坊主」の収録時に起こった、というのが多数意見だった。

 そのシナリオを担当していたのが天方先輩、主役を演じるはずだったのが五十嵐先輩だった。するはずだった、というのは、五十嵐先輩が収録の途中でスタジオを飛び出したからである。

 どうしてそんなことになったのかについては、見解が分かれる。

 と言うより、五十嵐先輩が何も言わなかったので、本当のところは誰も知らない、というのが正確なところだ。

 体調が悪かったんだろう、トイレで吐いているところを見た、と言っている先輩もいた。何も言わずに飛び出したのも口を開いたら吐きそうだったからではないか、と。

 ……そうだとしても、何故、体調が回復してからも何も言わなかったのか、という謎は残るが。

 それからというもの、五十嵐先輩は部活に出てこなくなり、「てるてる坊主」は急遽代役を立て、収録を行うことになった。

 文化祭が終わってから、五十嵐先輩は部員全員に謝罪し、部活に復帰した。

 今でこそ五十嵐先輩の熱心な働きぶりは誰もが認めるところだが、復帰当初の風当たりは相当強かったらしい。

 ……天方先輩に至っては、五十嵐先輩に向かって、土下座を要求したと言う。

 現場を目撃したという先輩は、怖かった、と語った。

 端から許す気などなく、どうしてもって言うんなら土下座でもすれば、と言い放った天方先輩も怖かったが、顔色ひとつ変えずに、お世辞にも綺麗とは言えない旧校舎の廊下に膝をつき、額を擦り付けた五十嵐先輩はもっと怖かったと。

 流石の天方先輩もそれには狼狽し、もういい、やめろ、というようなことを言ったらしいが、それからも、天方先輩が五十嵐先輩を許すことはなかった。

 但し奇妙なのは、それを境に五十嵐先輩がライターに転向したこと、それから。

 ……天方先輩は十月以前から五十嵐先輩を嫌っていたと、そう話す先輩もいることだった。



 ――そして、二人は卒業した。

 結局、二人が雑談しているのを見たのは一度だけ、五十嵐先輩と天方先輩が二年生、私が一年生のクリスマスのことだった。

「クリスマスまで部活かよー」

 部活中、天方先輩がそう零した。と言っても、不平めいた言い方こそすれ、全く不満そうではなかったが。

「……彼氏もいないのに」

 天方先輩は何気なく後ろを振り向き、目を見開いて固まった。

 ……それはそうだ。天方先輩が誰かにそう言われることを待っていることは明白だったが、それは五十嵐先輩でだけはあってはならなかった。

 五十嵐先輩自身、言葉が口を衝いて出た、という風情で、天方先輩と目が合うと、ばつが悪そうに視線を逸らした。

 硬直が解けた天方先輩は、珍しく――本当に珍しく、こう言った。

「お前こそ、来年も一人だったら笑ってやるからな」

 ……それだけだった。



 五月のある日の放課後、五十嵐先輩が私の教室を訪ねてきた。

 ――回想、ではない。

 高校三年生の私の教室を、大学一年生の五十嵐先輩が訪ねてきたのである。

「揃いも揃って……先輩方、本当に卒業したんですか」

 五十嵐先輩は先輩方? と首を傾げてから、

「卒業したって。だから進路説明会に来てるんじゃん」

 進路説明会というのは、大学に入学したばかりの卒業生が高校にやって来て、大学受験を控えている三年生に自分がいかに志望校を選び、受験勉強をしたかを話す、というものである。

 説明会まで今しばらく時間があったので、大学生活はどうか、などと当たり障りのない話をしていた五十嵐先輩は、不意に押し黙った。

 そして――こう言った。

「会いたかった……いや、会いたくなかったのかな、とにかく、そういう相手がいたんだけど」

 殆ど意味を為さない言い回しだったが、好きな人のことだとすぐに分かった。

「この前、そいつに会って……ずっと昔に言えなかった言葉を言ってきたんだ」

 先輩はそう言って微かに笑った、のだが。

「それ……天方先輩のことですか」

「……え」

 五十嵐先輩は目を見開いた。

「……この前、天方先輩が学校に来たんです」

「先輩方って……そういうことか」

 私は頷いた。

「その時言ってました、先輩に会ったって。……五十嵐先輩、先輩が好きだったのは、天方先輩なんですか」

「あぁー…」

 五十嵐先輩は、額に手を当てて呻いた。それは悲嘆に暮れているようでもあったし、安堵に溜め息を吐いているようでもあった。

「……天方、何て言ってた」

 私は、天方先輩から聞いたままを話した。

 偶然、五十嵐先輩に会ったこと。

 高校の同級生だ、と思って――事実そうなのだが――話し掛けてしまい、それから五十嵐先輩の名前や、関係を思い出したこと。

 意外と普通に話せるもんだね、と笑っていたこと。

「あと、何故か天気の話になったって……」

 そう話しながら、私は強烈な違和感を覚えた。

 ……さっき、五十嵐先輩は「ずっと昔に言えなかった言葉を言った」と言わなかったか。

 それがどうして「普通に話せる」になるのだろう。勿論、天方先輩が全て正直に話したとは限らないのだが。

 ……それで、何故か天気の話になったんだよね。

 天方先輩はその瞬間、ふっと目を細めはしなかったか。

 まるで、何かを思い出したような。

 あるいは、何かを思い出しそこねたかのような。

「……教えてください」

 私は言った。

「五十嵐先輩と天方先輩に、何があったんですか。何を言ったんですか」

 うん、と先輩は頷いた。

「日向には、聞いてもらいたい。……君に出会わなかったら、私は多分、放送部を辞めてたと思う」

 先輩はそう言って話し始めた。



 私と天方が出会ったのは、高校一年生の四月だった。

 同じクラスで、出席番号が前後だった。

 ある日の授業中、天方がルーズリーフを落とした。落としたよ、って声を掛けても気付かなくて、もしかしたら気付いていたのかもしれないけれど……いや、やめよう。

 それは小説だった。

 休み時間になって、私は天方に声を掛けた。ルーズリーフを拾ったことを話して、勝手に中身を読んだことを謝って、とても面白かった、できたら続きが読みたい、と告げた。

 それ以来、私は何かと天方に話し掛けるようになった。

 放送部の入部説明会に行ったのは、中学の時の先輩の勧めだった。中学の時、私は演劇部だったんだ。それで、放送部のキャストをやらないかって。

 実を言うと、入部説明会に出れば先輩の面目は保てるだろう、部活は演劇部にしようって思ってたんだ。そこで、天方に会うまでは。

 どうして気付かなかったんだろうな。天方は、私に放送部の説明会に出るって言わなかったことに。多分、友達になれた――と思ってた――ことに浮かれてたんだと思う。

 ……最初は、音楽のテストだった。

 前に出て、楽譜を見ないで歌を歌う。その時不意に……無意識に目をやったのかもしれないけど、それはともかく、天方が目に入った。

 天方は耳を塞いで、膝の上の楽譜に目を落としてた。その時は自分のテストに備えてただけだろうって、深く考えなかった。

 でも、そう思って見ると、思い当たる節はいくらでもあった。

 ……天方が「てるてる坊主」を書いたのは、そんな時だった。原案は、私が天方に話し掛ける切っ掛けになった、あの小説。

 私は、迷わず主役に立候補した。

 天方に嫌われてるって薄々気付いていたくせに、気付かない振りをしたんだ。

 いや、それだけじゃない。

 天方が私を嫌いでも、主役を演じ切ればそれだけは認めてくれるって、そう信じてたんだ。縋ってた、と言ってもいい。

 ……皮肉だよね。天方が嫌いだったのは、私の声だったのに。

 そう聞かされたのは、収録の直前だった。

 五十嵐、今日古文で当てられたでしょ? 伊勢物語の音読。天方、耳塞いでたよ。いっつもそうなんだよね、五十嵐が当てられると――。

 収録中もずっと、その言葉が頭を巡ってた。考えてみれば、ちゃんと演技できてたかも怪しいな。今となっては確かめる術もないけど。

 どうしても言いたい台詞があったんだ。この台詞を言うために、私はこの役を獲ったんだって、そういう台詞が。

 それを言おうとして息を吸い込んだ瞬間、天方と目が合った。

 月も星もない夜の底のような、冷たく光のない目の色だった。

 鋭い刃物を体に差し込まれたような気分がした。胸が、痛い。目が熱くなって、喉が詰まる。声帯を震わそうとして、それができないことに気づいた。

 ――だめだ。

 声が出ない。それよりももっと強い悲しみが込み上げてきた。

 そんな目で、私を見ないで。空気が肌を刺す。圧力で体が潰れそうだ。背中が冷たくなり、嫌な汗が伝う。

 背中に回した右手で、左手を掴む。濡れた指先が制服越しに万力のように左腕を締めつけ、さらに鋭利な痛みが走っても、それでも私の喉は声を出そうとしなかった。

 ……そして、私はスタジオを飛び出した。



 私が部活に復帰したのは、単に、年度途中では部活を辞められなかったからだ。しかも部活は必修になっていて、欠席が多いと単位が付かないのだと言う。

 ……後悔はしていた。

 役を獲るんじゃなかった。

 そして、役を獲ってしまったのなら、何が何でも言うべきだったんだ。露と答えて消えなましものを。言って、嫌われて、それきり近付かなければ良かった。それが一番良かったんだ。

 勿論、許されるものなら許されたかったけれど、本当は分かってた。

 天方は、絶対に私を許さない。あの日したことが許せないっていうのもあるだろうけど、そもそも天方は私が嫌いだったんだ。だから……嫌う正当な理由ができたなら、それを手放すはずなんてなかったんだ。

 だからあの頃の私は、男に生まれれば良かったって、そればっかり考えてた。男に生まれてたら、声が変わったかもしれないじゃないか。

 一年生の終わりになって、三送会をしながら、私は心底安堵してた。ああこれでもう部活を辞められるんだ、会わなくていいんだって。



 そして、君に出会った。ここまで話せばもう分かると思うけど、私はあの日、部活説明会に出ずに帰るつもりだったんだ。

 でも、君に放送室の場所を訊かれて、その時ふっと思い出したんだ。まだ天方と話せていた頃、後輩が欲しいって言ってたなって。

 最後のつもりだったんだ。最後に、天方に何かしてやろうって。

 それだけ後生大事に抱えて、それで終わりにしようって。

 ……後は君の知っての通り。

 天方に呼びとめられて、私は部活を辞め損ねてしまった。

 これは後から分かったことだけど、天方は私が入部したのを、先輩に誘われたからだって完全に思い込んでた。だから、私が部活を辞めるつもりでいるなんて思わなかった。

 それから、文化祭の事件を知らない君の前では、仲が悪いのを隠し通すつもりでいるってこと。

 だから私も君の前では調子に乗って、天方に話し掛けたりした。そうしたら一応、返事してくれるしね。それでも、君には仲が悪いように見えていたみたいだけど。



 ……天方に会ったのは、故意ではなかった。

 ただし、偶然でもなかった。

 学生街だから、というのは私の頭にあったし、誰から聞いたのかは思い出せないが、天方絡みであることは自明だった。

 ――その日、一限は休講だったが、私がそれを思い出したのは、いつも通り電車に乗ってしまってからだった。

 二限は空いているから、大学に行ったところで午後まですることはない。

 どうしたものかと考えて、語学の参考書を探していたことを思い出し、私はその駅で途中下車をした。

 改札を出て、横断歩道を渡って駅ビルに入ろうとして、私は自分の失敗に気がついた。当然のことながらその駅は、大学の最寄り駅よりも手前にある。そんなわけで、時刻は一限にも余裕がありすぎるぐらい、したがって八時半を回ったばかりで、書店どころか、時間をつぶせそうな店もほとんど開いていなかった。

 私はかろうじて開いていたコーヒーショップに入り、カフェ・モカとスイートポテトを買うと、教科書を眺めて時間をつぶした。

 ようやく十時をまわり、私はもう一度駅前に出た。

 未明に雨が降ったのか空気は湿っていて、アスファルトに散らばったプラタナスの葉も、露とも雨ともつかないものに濡れていた。二限に合わせて出てきたのか、反対方向に、駅から出てくる学生らしき群れがいて、私は困ったな、と思った。とはいえ、人波もいずれは収まるだろうし、時間はたっぷりある。

 そう考えたとき、向かってくる人影が足を止めたように思った。

 思い浮かんだのは、天方のことだった。

 天方だ、と思ったのではない。ただ、思い浮かべただけだ。

 ここから一番近い大学には、天方が通っている。天方だという気はしなかったが、髪を染めたという話を聞いているから、たとえ天方であったとしてもこの距離では分からないだろう。

 人影はイヤホンを外し、肩にかけていた鞄に入れた。はっきりとは分からないが、顔はこちらに向いているように見えた。

 本当に知人なんじゃないか、という考えが浮かんだ。

 近づいてくる人影を見つめながら、私の頭にあったのは天方かそうでないかというそれだけだった。

 思い出せないだけで他の知人なのではないかと思い、私は天方以外にその大学に進学した人間を思い出そうとした。天方しか浮かばないのにもかかわらず、きっとこの考えは訂正されるという確信めいたものがあった。

 それは、いくら髪の色が変わっていても天方ならこの距離で分からないはずはない、あるいはそんな偶然が起こるはずはないと思ったせいかもしれない。さもなければ、天方なら足を止めることなどしないだろうと考えたのかもしれない。

 そしてようやく顔が分かる距離まで近づき――、その考えが訂正されることはなかった。

 天方は何かを言った。それはきっと言われると身構えていた、「何してんの」という言葉ではなかったし、私の名前でもなかった。

 ……何を話したかは、よく覚えていない。

 ただ、これじゃあまるで道で偶然高校の同級生に会ったみたいじゃないか、と思って、ひどく可笑しかったことを記憶している。

 多分、他愛のないことしか話さなかったのだと思う。それ自体が夢のような出来事ではあるのだが、だからこそ、こう思ったのだ。

 私には何か他に、言うべき言葉があるんじゃないか、と。

 そして私は、思い出した。私には、ずっと昔に言えなかった言葉があった。

 目に入ったのは、濡れたアスファルトだった。

 その時の私にとって、それは天の啓示に思えた。

 もし雨が降らなかったら言えなかった。もし雨が降っていたら、傘で気付かなかったろう。

「……なあ、天方」

 今なら、言える。今しか――言えない。

 昔の私は、この言葉を言ったら、全て終わりになるのだと思っていた。今でも、そう思う。そして私は、終わらせたいと願っているのだ。

「『明日は晴れるかな』」

 天方は普通の友だちにするみたいに、さあ、と答えた。たったそれだけのことが、泣きたくなるほど嬉しかった。

 ――ああ、よかった。やっと言えた。これで終わるんだ。これで、終われるんだ。

 胸の中で何かが崩れた気がした。ひどく呼吸が楽だった。緊張から解放されたかのように、膝はがくがくと震えていた。


 明日、にも、晴れ、にも何の意味もなかったのだけど。

 翌朝目を覚ますと、私はカーテンを開けて、窓の外に目をやった。

 ――そこには雲ひとつない、綺麗な青空が広がっていた。

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