その三


 北風の吹き荒ぶ夜だった。雲の流れも速く、満月に一歩近づいた半月が、瞬く間に現れては消えるを繰り返している。

 そんな中を、一人の男が歩いていた。寒そうに肩をすくめて、コートの襟を立てている。


 びゅうびゅうと吹く風の音に掻き消され、彼は、自分の背後を付かず離れずの状態で追いかける足音に気付いていない。

 彼を追いかけるのは、ボロボロの服を着た男だった。茶色く長い前髪の奥から、青紫の瞳がらんらんと輝いている。


 コートの男が、辻で立ち止まった。左側を見て、何かを探しているように目を細めている。

 背後の男は、口元を吊り上げると、彼の背中に向けて一気に歩を進めた。


 その二人の間に、何かが落ちた。

 轟音とともに、石畳が砕かれ、舞い上がる土煙の中に見えたのは、ユーシーの姿だった。


 追いかけていた男……フィスは、驚きに目を見開きながらも、行動は早かった。咄嗟に、前を向いたまま大きく後ろへ跳んだ。

 一方、狙われていた男は、フィスよりも一泊おいて、驚き、悲鳴を上げて逃げ出した。ユーシーはそちらの方へ一瞥もせずに、フィスへ向かって走り出す。


 昨晩よりも奴の速度が遅いと、ユーシーは駆けながら思っていた。相手の方が身体能力が高いのは確かのため、この状況でも油断ができない。

 フィスが逃げる先には、一軒の家の壁が聳えていた。ここから曲がるのか、無理にでも屋根へ上がるのか、ユーシーが注視していると、フィスは壁を蹴って、空高く舞い上がった。


 驚いたユーシーは頭上のフィスを見上げながらも、突然止まることはできない。

 ユーシーの背後を取ったフィスは、姿勢を崩しかけながらもこちらに体を向けようとするユーシーの背中を蹴り飛ばした。そのやせ細った足から繰り出されたとは思えないほどの、丸太が直撃したかのような重さを感じ、ユーシーは真横に吹っ飛ばされた。


 その先にある壁に叩き付けられて、激しく頭が揺れたが、ユーシーは何とか崩れ落ちるそうになるのを持ちこたえた。

 正面を見たユーシーの目に入ってきたのは、鋭い牙を光らせて笑いながら、こちらに殴りかかってくるフィスだった。


 フィスの拳を、右腕をあげて受け止めるユーシー。しかし、その力を全て逃がしきれずに、さらに激しく壁に叩き付けられてしまう。

 だが、今度はユーシーが左の拳を振るう。それはフィスの右頬に当たった……が、彼の顔は一切動かずに、その愉悦に満ちた笑みを浮かべたままであった。


 一瞬動揺したユーシーの姿を、フィスは見逃さなかった。さらに拳を、激しく連打してくる。

 ユーシーは、それを受け止めるだけで必死だった。加えて、何度も壁に体を打ち付けられて、反撃の余地など全くない。


 その為、ユーシーは自身の足元に全く注意を向けていなかった。ともかく、倒れないように踏ん張るだけで精一杯だった。

 その隙をついて、フィスが足払いをした。虚を衝かれたような顔をしたユーシーの体がふわりと舞い、背中から石畳に落ちた。


 仰向けから立ち上がる前に、ユーシーの胸をフィスが右膝で圧迫してくる。ユーシーの呻き声に、あばらがメリメリと折れる音が混じる。

 吸血鬼としての回復力は、あばらの修復に集中してしまっている。相手を押し返すことも出来ないまま、ユーシーは呼吸が浅くとも構わずに口を開いた。


「……なぜ、」

「うん?」


 自信の勝利を確信しているフィスは、余裕があるために、ユーシーの言葉を聞こうと、話は出来るが反撃は不可能という境界線まで膝の力を抜いた。

 冷や汗を流し続けながらも、有利に立つフィスをユーシーはあらゆる憎しみを込めて睨んでいた。


「……この町に戻ってきた。……俺がお前によって吸血鬼にされていたとは、予想していなかったのか?」

「ああ、そのことか」


 相手の疑問を聞いたフィスは、途端につまらなさそうな顔になった。このような質問など、飽きるほど耳にしたと言った様子だ。

 しかし、すぐに答えようとはしない。その事に苛立ちながらも、ユーシーはさらに疑問を重ねた。


「しかも、この辺りは俺の家が近い。あの日から引っ越していないから、お前も知っているはずだ」

「そりゃそうだ。俺は、狙ってここに現れたからな」


 にやつくフィスに対して、ユーシーは酷く眉を顰めた。相手の言いたいことの意図が、未だに汲み取れなかった。

 フィスは、ユーシーの耳元に顔を近づけ、体温の無い声で囁いた。


「俺の狙いは、お前の家族だ」

「お、お前……!」


 ありありとユーシーの瞳に浮かぶ激怒の炎を見て、フィスはそれを消してしまうほど冷たい笑い声を上げた。

 これが見たかったのだという喜びを表面化させて、フィスは堂々と宣言する。


「お前を殺さなかったのも、お前が生き延びて、家族を作った時に、その子供たちの血をいただこうと思っていたからだ」

「……お前はっ、どこまで非道になれれば気が済むんだ!」


 叫ぶそのユーシーの声も、フィスにとってもそよ風ほどにしか感じないらしい。

 せせら笑いながら、フィスはその膝に力を再び加えた。ユーシーのあばらが、再び折れるが、それに対して呻くことすらできない。


「これで、終わりだ……」

「……いや、違う」


 フィスの言葉に、苦しみながらもユーシーはそれをはっきりと否定した。

 怪訝そうなフィスに、最後の力を振り絞り、ユーシーは零れ落ちそうなほど大きく目を見開き声を荒げる。


「俺の、勝ちだ!」


 フィスがその一言の意味をユーシーに問い質そうとしたとき、胸に違和感を抱いた。

 開きかけの口のまま目線を落とすと、心臓から生えた銀色の細長い刃が月の光に照らされているのが見える。


「あ、ああ……」


 こうして確認した瞬間に生まれた鋭い痛みに、色を失ったフィスは、よろよろと立ち上がり、ユーシーの真上から後ろへ下がる。

 引き抜こうと、フィスは刃を両手で握った。その途端に、両手は炎で焼かれたかのような音を立てて、焦げた匂いを発した。


「これが報いだと思わなくとも良い」


 銀製の聖なる刺突用の剣を握るリムは、退魔師の正装でフィスに対してそう話しかけた。彼女の声色は、冷酷さも慈愛も感じさせるような、不思議なものだった。

 両手と心臓の痛みに声を上げることのできないフィスは、虚ろな目でリムの言葉を聞き入れている。


「ただ、自身の行いを、ほんの僅かでも悔いてほしい」


 リムが、聖剣をフィスの心臓から引き抜いた。

 ゆっくりと右側に倒れたフィスは、目を閉じていた。瞬く間に、その体が細かな灰へと変わっていく。


 その様子を、剣を鞘に戻したリムは無言で見届けた。灰は、微風にも耐えられず、人の形を保っていられなかった。

 着ていた服以外、完全に灰の塊と化したフィスに対して、リムは胸に手を当てて、目を閉じた。しばらくして、目を開いた彼女は、ユーシーの方へと顔を向けた。


「ユーシー、大丈夫か?」

「……悪い、少しだけ、休ませてくれ」


 駆け寄ってきたリムに、上半身を起こして壁に身を預けていたユーシーは、肩で息をしながらそう断った。

 それを見て、リムは悔やむように唇を噛む。


「いや、謝らねばならいのは私の方だ。お前たちの動きに追いつくのに必死で、作戦実行が遅れてしまった」

「……正直、かなり窮地だったな。時間稼ぎに話しかけてみたが、奴が乗ってくれてよかった」


 昨晩、フィスとの正面対決では勝ち目がないことを悟った二人は、作戦を立てた。

 フィスと戦いながらも、ユーシーは相手に催眠術を書ける。そして、相手に気付かれることなくリムが背後を取り、止めを刺す……ユーシーがフィスよりも催眠術に長けているからこそ、実行出来た作戦だった。


 しばし沈黙した後、ユーシーは先ほどまでフィスだった灰の体を眺めた。

 彼が、あの日母親を殺し、自身を吸血鬼にした相手だということを、うまく呑み込めないでいるのが正直な気持ちだった。


「……俺たちは、フィスを倒せたんだな?」

「ああ、そうだ」


 静かなリムの肯定に、ユーシーの心の底から湧き上がってくるものがあった。


「そうか……そうか……」


 震える声でそう繰り返しながら、ユーシーは右腕で両目を覆った。

 その隙間から、涙が流れ落ちて、彼の頬を濡らす。


「……随分、長いことかかって、ごめんなぁ」


 ユーシーの脳裏に浮かんだのは、母親の笑顔だった。

 あの日、社長になったという報告を聞いて、誰よりも喜び、嬉し涙を流しながら自分を抱きしめてくれるはずだった、母親の姿であった。


「……お袋、やっと仇、討てたよ」


 子供のように膝を抱えて泣きじゃくるユーシーの姿を、何も言わないリムと点在する星々が見つめていた。






   ☆






 終業後、会社から出てきたリムを、帽子と手袋をしたユーシーが、真っ赤な夕日を背負うような形で待っていた。


「お疲れさん」

「どうも」


 軽い挨拶と共に、二人は連れ立って歩き出す。

 リムは、隣のユーシーの姿を盗み見た。特に疲れを見せてはいない。


「……昨日の今日というのに、仕事に出たのか?」

「仕事と昨晩の出来事はあまり関係ないからな。いや、働いていた方が気が紛れるか」


 コートのポケットに手を突っ込みながら、ユーシーは苦笑を浮かべる。

 そうかと頷いたリムは、退魔師の格好をしていたため、歩いていると聖剣が音を立てていた。


「今日もパトロールか」

「そうだ。そっちは、今日も付き合うつもりか」

「まあな。この前言っていた、地縛霊のところに案内しないといけないからな」

「ああ、そうだったな」


 そんな言葉を交わしながら、二人はゆっくりと歩を進める。

 ただ、リムはユーシーがともに来た理由が、他にもあるような気がしていた。それを尋ねることはせずに待っていると、ユーシーが「実はな」と口を開いた。


「お袋の墓に行こうかと思っていて」

「私も一緒でいいのか?」


 意外な目的に驚いたリムを見ながら、ユーシーは優しく微笑んだ。


「もちろん。一緒に戦ってくれた友を、紹介したいからな」








 町の共同墓地に来たユーシーとリムは、真っ暗な夜空から温かい月光が降ってくる中で、ユーシーの母の墓の前で手を合わせた。












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ホテルの怪物たち 夢月七海 @yumetuki-773

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