その二


 ……果てのない暗闇の中で、誰かが必死に自分を呼ぶ声だけがする。

 こんなことが、昔にもあったなと思いながら、ユーシーはゆっくり目を開いた。


「ああ、よかった、気が付いた」

「これぐらい、何でもない」


 リムの安堵のあまり泣き出しそうな顔を見ながら、ユーシーはそう言って顔を上げる。しかしその言葉は強がりで、後頭部にはまだ鈍い痛みが残っていた。

 頭を押さえながら上半身を起こしたユーシーは左右を見る。リム以外に、人影は無かった。


「……あの吸血鬼は?」

「すまない。逃げられてしまった」

「襲われた女性の方は?」

「失神していたが、命は無事だ。通行人に頼んで、病院へ運んでもらった」

「そうか……」


 ユーシーは、そういって俯いた。右手は拳を握り、細かく震えている。

 それを無言で眺めていたリムは、決意したように彼へ話しかけた。


「ユーシー、お前は、あの吸血鬼の名前を呼んでいたな」

「ああ」

「奴は一体、何者なんだ?」


 もっともな質問に、ユーシーはすぐに答えることができなかった。

 空を見上げる。都会の中でも星が瞬き、大通りの喧騒が耳に届く。先程までの自分とあの吸血鬼との戦いが、嘘のようだった。


「奴は、俺を吸血鬼にした男だ」


 リムが息を呑む。

 質問をしようとしたが、その前に冷たく射抜くような目で、ユーシーが言い切った。


「そして、俺の母の仇だ」






   ☆






 今から、二十四年前の夜だった。頭上では黒く分厚い雲が立ち込め、遠くの方で音のない稲光が青く光っている。

 雨が降る直前のような天候の下で、ユーシーは上機嫌で帰路を急いでいた。普段よりも帰り道が遅くなったのは、仕事終わりに当時の会社社長に呼び出されたためだった。


 そこで、二代目の社長として、ユーシーが任命された。そのことを早く自分の母親に知らせたかったのだった。

 社長は、ユーシーの母親の兄であり、ユーシーにとっては伯父にあたる人物である。彼がその貿易会社に入社したのはコネによるものだったが、社長になれたのはひとえに彼自身の努力によるものだと、社長は断言してくれた。


 ユーシーの母は、とある大きな商家の末っ子として生まれた。若い頃、ユーシーの父である靴職人と恋に落ちたが両親に反対されて、駆け落ちした。

 それから小さな町で家族三人で慎ましく暮らしていたが、父親が馬車の事故で急逝してしまう。母親は働きだしたが、給金は微々たるもので、まだ七歳だったユーシーを育てるに苦心していた。


 そんな状況を噂で聞いたのか、独立して会社を持っていた伯父が親子を呼び寄せ、母親を雇ってくれた。そのお陰で、ユーシーは学校を出ることができ、さらに彼自身も雇ってもらった。

 ユーシーは、「コネで入社した」という陰口にも耐え、真摯に仕事と向き合い業績を上げ、社内の信用を勝ち取ってきた。それが実を結んだ今日という日を、自分は一生忘れないだろうとユーシーは胸と息を弾ませながら思った。


 母と暮らしているアパートの一室を見上げると、そこは真っ暗だった。こんな時間だからもう寝ているのだろうと思いながら、ユーシーは階段を上っていく。

 鍵を開けて、ドアを引く。目の前のリビングで、暗闇の中、何かが動いた。


「……お袋?」


 ソファーの上で揺れるする影に、ユーシーはそう声を掛けた。

 一歩踏み出すと、ドアが勝手に閉まる。空きっぱなしの窓から、風が入ってきてカーテンを揺らした。


 その瞬間、ユーシーは室内に充満する異臭に気が付いた。眩暈がする。

 鉄に似たその異臭は、血の匂いだった。顔を顰めるユーシーの目線の先、ソファーから何かが起き上がった。


 それは、二つの頭だった。一つは、ぐったりと首が背中側に曲がっていて、もう一つは真っ直ぐにこちらを見つめている。

 暗闇になれたユーシーは、ぐったりとしている方の頭が、自身の母親の顔をしていることを気付いてしまった。そして、もう一人は、全く知らない男の顔だった。


「お前、お袋に、」


 何をしたとユーシーが激高する前に、床を蹴って、見知らぬ男が彼に飛び掛かった。

 ユーシーは肩を掴まれ、押し倒される。もがいたが、男の力が強すぎて、びくともしなかった。


 男の牙が二本、ユーシーの首筋に刺さる。

 傷口から血が流れる出すと同時に、ユーシーの視界は霞み、遠くなる。怒りで握りしめていた拳が解けると同時に、ユーシーは気を失った。






   ☆






「俺が病室で気が付いたのは、血を吸われてから三日後だった。その時にはもう、俺の体は人間ではなくなっていた」


 淡々と、自身が吸血鬼になった顛末を、ユーシーは語った。

 夜の路地裏は寒々としていたが、膝を立てて座ったままのリムは身じろぎもせずに耳を傾けている。


「その時目の前にいたのは、伯父だった。伯父はたいそう喜んで、『お前だけでも助かってよかった』と手を握ってくれた。その一言で、俺はお袋がどうなったのかを知った」


 当時の悔しさを思い出し、ユーシーは唇を噛みしめた。

 それに対して、リムは何の慰めを言うことができず、無言で受け止めるだけだった。


「……伯父によると、お袋が襲われた次の夜から、毎晩一人、首元に二つの穴が開いた死体が見つかるようになったという。俺は、それが同じ吸血鬼の仕業だと思い、退院した後にその男を探し始めた」

「見つかったのか?」

「ああ。その前に、レンと出会ったんだがな。その晩、一人の少女が襲われている所に俺たちは出くわし、吸血鬼の男を退けてその子を助けたが、それ以来、奴は現れなかった」

「そうか……」

「その時の子が、今の秘書なんだが、それは別として」

「えっ?」


 意外な事実を連続して聞いて、リムは思わず詳しい話を聞きたくなったが、好奇心を抑えて、ユーシーの話の続きを待った。


「レンの紹介で、俺はホテルに通うようになった。ホテルには、俺以外の吸血鬼もたまに泊まりに来て、吸血鬼としての生き方とか色々教えてくれた」

「あの男の名前もそこで知ったのか」

「そうだ。フィスというその吸血鬼は、ゲネラルプローペの血を求めて各地を彷徨いながら、毎晩一人、無差別に人を襲っているという」


 ユーシーの説明を聞いたリムは、眉を顰めた。

 以前にホテルを出た後に自分で調べた吸血鬼の特性と照らし合わせると、フィスの行動には、矛盾を感じられる。


「ゲネラレプローペの血縁者の血を吸えば、相手が吸血鬼になってしまう可能性がある。そうなれば、現在のユーシーのように、家族の仇だと狙ってくるのかもしれない。その危険性を犯して、なぜフィスはゲネラルプローペ家を狙い続ける?」

「理由は単純だ。吸血鬼にとって、ゲネラルプローペの血は、何よりも旨いらしい」


 その一言で、リムの腕に鳥肌が一斉に立った。

 ゲネラルプローペの血は何よりも代え難い味を持つのか。それゆえに狙われ続けてきた、彼らの歴史を考えてしまう。


「……ただ、なぜフィスがこの町に再び現れたのかは分からない。目的はないのかもしれないが……」

「しばらく、フィスはこの町に留まるだろうか」

「奴の行動基準を想定するとそうなるな。今が、俺にとっては好機と言える」


 ホテルの中では見せたことのない、真剣でぎらつく目をしながら、ユーシーは断言した。

 リムは、彼の覚悟の強さを認めつつ、一抹の不安を口にした。


「しかし、人間の血を吸ってきた吸血鬼の力は、普段動物の血で代用しているお前とは比べ物にならないぞ。先ほどの俊敏さに加えて、桁違いの怪力も備わっている。その分、日光や流水など、弱点もあるが……お前一人で太刀打ちできる相手ではない」

「だから、諦めろっていうのか?」


 宥めるような声色ながらも、そう断言したリムに対して、ユーシーの感情は一気に沸騰した。鼻息荒く、リムに詰め寄る。

 それを押さえながら、リムはしっかりと首を横に振った。


「落ち着け。では、という話をしていたんだ」

「……え?」


 発言の意図を読めずに顔を顰めるユーシーに対して、リムはすくりと立ち上がった。


「罪のない者たちに仇する吸血鬼を放っておくなど、退魔師の名が廃る」


 ぽかんと口を開けているユーシーを見下ろして、威風堂々と直立するリムは不敵な笑みを浮かべた。


「それに、目の前の友が思い詰めているんだ。見て見ぬふりなどできるわけがないだろう?」













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