番外編その四 吸血鬼と退魔師
その一
夕日が差し込む窓を右手に、リム・サクラメントは緊張の面持ちでとあるビルの廊下を歩いていた。今は退魔師の正装ではなく、黒のワンピースを着ている。
彼女の前には、この会社の社長秘書を務める女性が歩いている。そして、ビルの最上階、一番奥の部屋へ通じる扉の前で立ち止まった。
「こちらが社長室です。中で社長がお待ちです」
赤毛を後ろで一つにまとめて、黄緑のワンピースの秘書は、リムと向かい合うように振り返ると、会釈をした。
リムは緊張の面持ちで頷き、深呼吸をすると扉のノブを握り、ゆっくりと回転させた。
今日一日、慣れないながらも事務員としての仕事をきっちりこなしたはずだ。それなのに、一度も会ったことのない社長に、出勤初日に呼び出されるとは。
一体に何を言われるのだろうかと不安に思いながら、扉を押して社長室へと一歩踏み出す。
「失礼し、」
社長室の明らかな異常を感じ、リムは立ち止まった。喉が急速に干上がっていくのを感じる。
今、彼女の目の前には、重量感のある机と、反対側を向いている椅子があった。この上に、誰かが座っている。
――ここにいるのは人間ではない。
リムは物心ついた頃から持つ霊感と、退魔師としての経験から、それを感じ取った。一体何者なのかは分からないが、高い魔力を持っているのは確かである。
「……ここの仕事はどうだったか?」
椅子に座った相手が、妙に馴れ馴れしくリムへ話し掛ける。
しかしその内容の殆どが彼女には聞こえておらず、一度息を吸い込み、鞄に忍ばせた聖なる短剣に手を伸ばした。
「今までの仕事と比べると、だいぶ楽なんじゃないか?」
淡々と尋ねる椅子の声に、リムはさらなる緊張に体を強張らせた。
相手は私の本来の仕事を知っている……その事だけに注意を払っていたため、相手の声が聞き覚えのあるものだとは気付かなかった。
「ともかく、こうして会うのは久しぶりだな」
そう言って、椅子ごと振り返ったユーシー・ゲネラレルプローぺに向かって、リムは鞘から引き抜いた短剣を咄嗟に投げた。
それは、ユーシーの右頬のすぐ隣に刺さった。
「……あっぶね!」
「――ユ、ユーシーか!?」
命の危機を回避して、叫ぶユーシーを見て、やっと社長が誰だか分かったリムも驚きの声を上げた。
顔色が真っ青になったユーシーは、椅子の背もたれに深々と刺さる短剣を、震える指で示した。
「お、お前、これはいくら何でも挨拶が過ぎるだろ!」
「いや、すまなかった。強力な魔力を感じたが、まさかユーシーとは思わずに……」
「殺す気かよ」
「一応、威嚇のつもりで」
ユーシーは体の力が抜けてしまい、「威嚇?」と呟きながら椅子から滑り落ちそうになった。
リムもそれを見て、大変申し訳なく感じている。だが、落ち着いてくると、このことを教えてくれなかったユーシーにも非があるように思えてきた。
「ところで、何故こんな所にいる」
「あ、ここ、俺の会社なんだ」
満面の笑みで、会社の床を指差すユーシー。
その顔を見て、リムの心に、怒りが着火した。
「……まさか、私が面接を受けていたことも、知っていたのか?」
「もちろん。直接面接した訳じゃないけれど、書類には目を通している」
「では、私を選んだのも、お前か?」
「ああ。多分、初めての事務職なら、知り合いのいる会社が良いだろうって……。リム? どうしたんだ?」
俯いたまま、ゆらりゆらりとこちらへ歩を進めているリムに、ユーシーは不審げに声をかける。
しかし、リムはそれには答えずに、鞄から液体の入った小瓶を取り出す。
「え? その瓶は?」
「実力では入れたと思ったのに、結局はコネだったんだな。威嚇だけでは、足りないようだ」
「まさか、それは……」
「聖水だ」
数秒後、ユーシーの悲鳴が社長室に響き渡った。
☆
日がすっかり沈み、半月が浮かぶ夜空の下で、二つの異なる足音が町角に響いていた。
「酷いなー。ただ秘密にしていただけなのに、こんな仕打ちなんて」
聖水を正面から被って、まだ顔が日焼けしてしまったかのように赤くなっているユーシーが、苦々しげに呟いた。
「自業自得だ」
白い騎士姿に着替えて腰に聖剣をさしているリムが、彼の隣で冷たく言い放つ。
そんな彼女のつむじを、ユーシーはそう言えばといった様子で見つめた。
「雇っておいてなんだけど、退魔師の仕事だけでは厳しいのか?」
「……正直に言うとな」
沈黙の後、リムは溜め息をついた。
「仕事はある。しかし、私が怪物を『退治』したのではなく、説得して、退けたのだと知った依頼主が、掌を返してきて、結局報酬を支払わない……そんなことが、増えてきてしまった」
「世知辛いな。商売人からしたら、その言い分も分かる気がするが。退魔士協会からの手当てはもらえないのか?」
「申請すればある。しかし、協会側も裕福とは言えないからな、資金は新人育成に役立ててほしいんだ」
「いい心がけだ」
我がことのようにうんうんと頷くユーシーに対して、リムは突然足を止める。
「あれ? 忘れ物か?」
「なあ、ユーシー……」
「なんだ?」
無邪気にこちらを見つめてくるユーシーへ、リムは自分が着替えてくるのを会社の入り口で彼が待っていた時から、ずっと抱いていた疑問を口にする。
「いつまでついて来るつもりだ」
するとユーシーは、にっこりと笑いかけた。
「今夜は別に用事もないから、付き合うよ」
「ああ、やっぱり……」
リムは、抱いていた予感が現実になってしまい、頭を抱えた。
「いや、折角だから、退魔師の仕事って、何してんのか気になるから」
「これは好奇心旺盛な子供よりも厄介だぞ……」
ユーシーは両眼を輝かせて、リムを見つめている。
リムは一人言を隠そうともせず、さらに盛大なため息もついた。そしてちらりと、ユーシーの方を見上げた。
「そうそう攻撃的な怪物に合うことも少ないから、きっと退屈だぞ」
「いいよ別に。あと、俺に手伝えることがあったら、手を貸すからさ」
「吸血鬼の手を煩わせることなどないと思うが」
リムが踵を返して歩きだしたので、ユーシーもそれに続く。
二人並んで大通りに出てきたので、仕事帰りの人並みに呑まれていった。
「今回は何か依頼があるわけではないから、パトロールだ」
「へえ。どういう所に行くのか?」
「地縛霊がいる場所だな。悪霊と化してしまう前に、話し掛けて、成仏を促すようにする」
「なるほど、思った以上に地道だな。そういうのが一番大事だが」
ふと、あることを思い出したのか、ユーシーは立ち止まって、裏路地へ入る一本道を指差した。
「こっちの方に、地縛霊がいる場所があるから、そこから行ってみるか?」
「そうか、土地勘のあるお前がそう言うのなら、確認してみよう」
リムも納得したので、ユーシーが先になって、路地へ入っていった。
大通りと異なり、そこは全く人通りのない道だった。ゴミ箱が置かれていたり、空き瓶が転がっていたりで、生活感は溢れている。
街灯の光から遠ざかるように、一歩一歩進んでいく。空を見上げると、半月が建物の隙間から、顔を出していた。
物珍しそうにあたりを見回していたリムは、ユーシーの方へ目を向ける。
「ところで、これから会う地縛霊は、一体どういう霊なのか――」
しかし、その質問は、路地の前方から響いた女性の悲鳴によって、かき消された。
リムもユーシーも、何も言わなかったが、示し合わせたかのように駆け出す。
家と家の間から、一組の男女が路地へと入ってきた。リムたちに背を向けている男が、女性の口元を掴んで乱暴に引き摺り、家の壁に叩きつける。
じたばたと、足をばたつかせて抵抗する女性の首筋に、男が噛みついた。
「吸血鬼かっ!?」
リムが思わず叫んだ。
それを聞いて、男が首筋から口を話して振り返った。青紫の双眸が、二人を睨んだ。
「フィス!!」
ユーシーが激昂し、突然走る速度を上げた。
男は穴だらけの服を着た身を翻して、路地の奥へと逃げだした。
「待てっ!!」
ユーシーに追いついたリムが、男に向かって叫ぶ。
脂汗を掻きながら、ユーシーはリムに囁いた。
「リム、あの女性を頼む」
「ユーシー、お前は、」
戸惑うリムの言葉を最後まで聞かずに、ユーシーはさらに速度を上げる。
すでに、人間のリムの足では追い付かないほどの速さで、彼の背中は遠ざかっていった。
リムは、路地の上で横たわる、女性の前で立ち止まった。
飾りの少ないドレスを着た金髪の女性は、血の気を失ったまま、目を瞑っている。
「大丈夫か?」
リムがその体を揺すっても目を覚まさなかったが、呼吸は確かにしていた。
ほっとしたリムは、彼女を病院へ運ぶために他の人の手を借りようと、大通りに向かって呼び掛けた。
一方で、ユーシーの方は必死に男を追い掛け続けていた。
距離は未だに縮まらずに、このまま逃してしまうのではないかという彼の焦りだけが、その足を動かし続けている。
先を行く男が、一軒の家の壁にある雨樋を登っていった。屋根伝いに逃げる心積もりのようだ。
ユーシーは舌打ちをしながらも、後に続いて雨樋をよじ登る。男よりも速度は落ちたが、何とか屋根の上へ顔を上げた。
そのユーシーの眼元に、皮靴を履いた足が飛んできた。予想もしていなかった男からの反撃に、ユーシーは躱すこともできずに、まともに食らってしまう。
目の前に星の散り、手から力が抜けて、雨樋から落ちていく。後頭部を石畳に打ち付けて、ユーシーは意識を失った。
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