番外編その三 魔術師と農家

その一


 小春日和の、青空にぽっかりと太陽が浮かぶ昼間の農場、その中の二階建ての家の前に、魔術師のイノン・ニクロムは立っていた。


「……とうとう来てしまった」


 緑色に塗られた木のドアの前で、イノンはこの陽気とは正反対の溜息を深く吐いて、立派な煉瓦製の壁から、赤い屋根を見上げた。


 以前ホテルに泊まっていた退魔師のリム・サクラメントの助言により、いつも野菜や果物を頂いている、もとい盗んでいる農家に直接謝罪と礼を言いに行こうと決めてから早一カ月、やっとイノンは家の前まで辿り着いた。

 人間と会って話をする抵抗感もあったが、それ以上にこの家への後ろめたさが強く、訪問に二の足を踏ませていたため、訪問までに時間が掛かった。


 しかし、リムの指摘した通り、人間を傷つけないが信条ならば、迷惑をかけるのも悪いことだ、謝罪は必要だ。それには人間に一番姿が近く、案内人としてある程度の常識を持っている自分が適任だから……。

 イノンは何度も頭の中でそう言い聞かせ、持参してきたギギ、ググ、ゲゲのお手製クッキーと自作の万能薬が入った籠を持ち直した。


 そして、意を決してドアをノックする。

 こんこんという音が家の中で響いた――だが、いくら待っても誰も出る様子がない。


 イノンは肩の力が一気に抜けた。

 なんだ、留守か、それなら仕方ないと、納得して踵を返す。


「あら、お客さんかしら?」


 その直後、後ろの畑から鍬を持って現れた女性と目が合った。

 白い髪の毛を青のバンダナで覆い、臙脂色のロングスカートに白のエプロンを付けた五十代と思しきその女性は、緑色の目を丸くして、小さく首を傾げた。


「申し訳ございません!」


 イノンは考えるよりも先に、深々と頭を下げた。





   ☆





「じゃあ、今まで野菜や果物が少し減っていたのは、イノンさんの魔法によりものだったのね」

「ええ、まあ、そうなります」


 テーブルを挟んで向かい合い、温かなハーブティーを入れてもらい、相手はにこにこと笑みを絶やさないのに、イノンは所在なさげに目を晒してしまった。

 遠い昔に家の硝子を割ったせいで母親に叱られてしまった時のことを思い出す。


 だが、目の前の女性――名前はニジー・エランギスという――は、怒っている様子はなく、むしろ嬉しそうにイノンに話し掛けてきた。


「夫とね、ここの収穫物は妖精が持っていくくらいおいしいんだねって話していたけど、実際は魔法使いによるものだったのなんて。ねえ、何か魔法を見せてくれる?」

「……それは、構いませんが」


 イノンは戸惑いながらも、ティーカップに添えられたスプーンを指差して、呪文を唱えてみた。

 すると、スプーンはふわりと彼よりも高く浮き上がる。


「まあ、すごい!」


 ニジーはまるで子供のように目を輝かせ、椅子から立ち上がり、イノンの隣まで来て、浮かんでいるスプーンを手に取った。

 目の前で、じっくりとニジーはスプーンを観察した。裏も表も横を見ても、いつも彼女が使っているスプーンと変わりない。


「魔法って、ほんと何でも出来るのね」

「いえ、何でもって訳じゃあないですよ。出来ないことも多いですし、必ず呪文が必要です。あと、魔術師によって得意不得意もあります」

「そうなの? イノン君はどんな魔法が得意?」

「俺は、物を浮かせたり、瞬間的に移動させたりですね。薬の調合も少し」

「あ、よく野菜が無くなった後に置かれてある薬は、イノン君が作ったものだったの! 我が家ではとても重宝してるわ。ありがとう」

「いえ、どうも」


 イノンはニジーの反応が新鮮で、非常に戸惑っていた。ホテルで育ったジェンティレスを除いて、自分が怪物だと明かしたうえで、このように旧知の仲であるかのように接してくる人間は初めてだったからだ。

 その上、薬の礼まで言われてしまい、どんな罵倒も叱責も受ける覚悟をしていたイノンにとっては、目を回して倒れそうなくらい混乱していた。


「……あの、すみません」

「何かしら?」


 席に戻ったニジーは、イノンに声をかけられて、不思議そうに小首を傾げる。

 その素直な反応に、イノンは一瞬躊躇したが、やはり気になっていた疑問を口にした。


「魔術師の俺のこと、怖くないのですか?」

「平気よ」


 ニジーは、ただそれだけ言った。しかし、何故か自信に満ち溢れた、力強い一言だった。

 その後、ぽつぽつと優しくイノンに語り掛ける。


「魔法は初めて見たのだから、びっくりはしたけれど、ただスプーンを浮かべただけで、誰かを傷つけるのが目的ではない魔法なのだから、怖がる必要なんてないわよ」

「でも、今あなたの目の前にいるのは、人間とは全く違う力を持った怪物ですよ。それでも怖くないのですか」


 まだ、留飲の下がらないイノンは、前のめりになりながら、語気も荒く尋ねた。


「そんなことは関係ないわ。イノンさんは、確かに野菜を盗んでいたけれど、それをちゃんと謝りに来てくれた、優しい人だもの」


 ニジーはそう言って、まだ温かいカップを両手で持ち上げると、それに口を付けた。

 イノンはそれを見て、体全体の力が抜けていくのを感じた。


「初対面で、しかも俺の正体を知っている人間に、優しいって言われたのは初めてですよ」


 ニジーはふふっと笑って、カップをソーサーの上に戻した。


「実はね、あなたたちとホテルのことは、たまに聞くのよ。あなたたちに驚かされたって、うちに避難してくる旅人さんがいるからね」

「あ、そうなんですか」

「みんな、こんな目に遭って大変だったって、顔を真っ白にして話すけれど、別に怪我をさせられたわけじゃないのよね。走る途中で転んだ人はいるけれど。だから、あなたたちは別に、人間を追い出すために脅かしているだけで、傷つけている訳じゃないって、予想していたの」

「それは、まあ、合っています」


 イノンは真面目な顔で大きく頷いた。

 まさか自分たちの信条が人間に伝わっていただなんて、妙な気持ちになった。


「だからね、あのホテルにいる怪物さんたちは、きっと恐ろしいけれど、とても優しい怪物さんたちなんだろうなって」

「そこまで言われると、もうお手上げですよ」


 イノンは苦笑して、椅子に深く座ると両手を上げた。今は恥ずかしながらも、嬉しくも感じられる。怪物として、それが正しいのかは分からないが。

 ニジーはニジーで、ああ、やっぱりと答え合わせの後の安堵の表情を浮かべていた。


「ああ、そうだ。謝礼代わりと言いますか、薬とクッキーを持って来たんです」

「ほんと? ありがとう」


 イノンは思い出して、持参してきた籠をテーブルの上に置いた。

 ニジーは嬉しそうに籠の中身を覗き込む。色とりどりのクッキーの山と、三本の茶色い薬の瓶が見えた。


「クッキー、いただいてもいいかしら?」

「どうぞどうぞ」


 早速ニジーはクッキーを一枚手に取り、口に運んだ。

 サクサクとした食感と、程よい甘さを楽しみながら、ハーブティーも口に含む。


「うん。うちのハーブティーともよく合うわ。夫もきっと、喜んでくれるでしょうね」

「ありがとうございます」

「これも、イノン君が作ったの?」

「いえ。うちのホテルのシェフたちが作ったんです」


 イノンは簡単に、ホテルの凄腕シェフ、ギギ、ググ、ゲゲたち三兄弟を紹介した。

 ニジーはあまり驚かずに、イノンの話に耳を傾けている。


「ねえ、もしかして、そのホテルには、ソド王子もいるの?」

「……え、オーナーを知っているのですか?」


 しばらく黙っていた二ジーの質問に、思わずイノンは問いを返した。

 ニジーはただ、ええ、もちろんと微笑み、イノンはますます困惑した表情を作る。


「オーナーのことは、怪物になった王族として、国の中では語ることさえ忌避されていると聞いたのですが」

「そうね、大体の人はそうよ。だけど、私たち一族は違うの」


 イノンはにこやかに説明してくれるニジーの真意が掴めず、瞬きを繰り返した。


「この農場は、私たちの先祖が、ソド王子の別荘に提供する野菜を育てるために開拓したものだからね。あの事件の後も、王子のことを忘れることも、悪く言うことも無いのよ」


 あの事件というのは、ソドが実の兄と結託した黒魔術師の呪いによって怪物に変えられてしまったことを指す。それ以降、国の歴史の中から、ソドの存在は抹消されてしまった。

 しかし、ここに少なくとも一人、今もソドのことを知ってくれている人間がいたのだ。イノンは、それを嬉しく思いながら、ニジーに話し掛けた。


「もう、オーナーのことは誰も知らないのだと思っていました。ずっと、語り継いでくれたのですね」

「ソド王子が国のために色んな事をしてくれたのだと、私のおばあちゃんが夜眠る前に話していたからね。きっと、怪物になってしまったとしても、王子のことを慕い続けた人々は、残っていると思うわ」

「俺も、そう信じたいです」


 イノンは、素直に自身の気持ちを口にすることが出来た。

 人間を嫌い続けてきた彼が、ジェンティレスと出会い、リムとの交流の後に、人間を信じるのだと、初対面の人間の前で宣言できるのは、それほど大きな成長だった。


 ニジーはその言葉に大きく頷くと、粛々と続けた。


「だから私、妖精さんが野菜を持っているんじゃなくて、本当に良かったと思ったの。私のご先祖と同じように、ホテルの王子に役立てることが出来たんだなって」

「しかし、盗みは盗みですから……。これからは、必ず野菜のお礼を持ってきて、ニジーさんと交換するようにします」


 イノンは改めて、テーブルに向かって深く頭を下げる。


「ええ。そうしてもらうと、嬉しいわ。私もイノンさんと色々話したことがあるから」

「……はい。ありがとうございます」


 ニジーがそう返したのを聞いて、イノンは苦笑しながら顔を上げた。

 この人には敵わないなという気持ちに、イノンはなっていた。その性格や経験によって、彼女はどんな怪物も恐れないだろう。


「ねえ、ホテルには、他にどんな方々が暮らしているの?」


 よって、人間には決して話さないことも、ニジーに尋ねられれば、イノンは丁寧に説明した。ホテルの仲間たちのこと、自分たちの暮らし、最近起きた珍事件など、話題は尽きない。

 特に彼女が喰い付いたのは、ホテル内の唯一の人間、ジェンティレスのことだった。


「……じゃあ、そのジェンティレス君が、ホテルの中で暮らす、ただ一人の人間なのね」

「はい。ジェンは、十四年前、まだ赤ん坊の頃にホテルの前に捨てられていました」

「それは、十四年前のいつのことだったの?」


 イノンがジェンティレスを拾った日付を言うと、ニジーはただ「そう……」とだけ呟いて、黙り込んでしまった。

 その瞳は、どこか安堵感を含んでいるようだった。


「ジェンと出会ってから今まで、色んなことがありましたが、メデューサが名前に込めた『優しい子になってほしい』という願い通りに育ちました」


 しかし、イノンは当時から今までを思い返していたため、ニジーの変化には気付かなかった。

 ニジーは、溢れ出しそうになる涙を隠すために、瞳をゆっくりと閉じて、深い感慨を込めていった。


「そう。その子は、とてもいい名前をもらったのね」






   ☆






 すっかりニジーと話し込んでしまったイノンが外に出た頃には、西の空は真っ赤な夕焼けに染まっていた。


「すみません。なんか長居しちゃって」

「いいのよ。こっちは面白い話がたくさん聞けて、楽しかったわ」


 頭を下げるイノンに、ニジーは笑顔で手を振る。


「また来てね。今度は夫がいる時でも」

「はい」


 ニジーはこの日、町に野菜を卸しに行っているために不在だった夫のことを口にして、イノンも口元を緩めながら頷く。

 彼女の話では、この家に入り婿として入った夫も、それなりに変わった人物らしい。彼と会うのもまた、イノンにとっては新しい楽しみになっていた。







 家の扉の前で大きく手を振るニジーに対して、歩きながら手を振り返していたイノンの籠には、持参したクッキーや薬の代わりに、今日採れたばかりの野菜が入っていた。
















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