恋人を撃ち落とした日

濱野乱

第1話

「狙撃手になりたい」

と、彼女は言った。

「なればいい」

と、僕は一旦彼女を肯定する立場を取る。

それからアメリカと中東諸国の血なまぐさい摩擦を語って聞かせる。英雄などいない。FPSゲームと現実は違うのだと、噛んで含めるようにして。

「よもぎさーん! 三番テーブル片づけお願い」

呼ばれた彼女はまたねと、余韻の残る笑顔を投げかけ、僕のテーブルから颯爽と離れていく。

海老茶色の袴にブーツ、白いリボン、レトロな光景は、平成の世に輝かしく復活した。

ここは都内にある大学から、歩いて五分ほどの場所にある喫茶店。普通の喫茶店ではなく、所謂、コスチューム喫茶、コンセプトは大正浪漫。大正時代の女学生風の店員が給仕をしてくれる趣向だ。

表通りに面した一階は雑貨店で、大正喫茶は二階にある。エレベーターで上がってきても良いが、雑貨店に立ち寄った女性客がついでに立ち寄ることもあり、油断は禁物だ。

何せ男が一人足繁く通っている姿を、みっともないと思われたら癪じゃないか。

よもぎがテーブルを拭く姿を、僕は本を読む振りをして密かに監察する。よもぎの人差し指には皺の寄った絆創膏が巻かれている。恐らく昨日、割れたコップを片づける際切った傷を手当した名残りだろう。

だろう、などと推量の余地はなく、あの絆創膏は僕が彼女に与えたものだった。

昨日は子雨が降りしきっていた。大学を出たのは、十七時過ぎだったと思う。傘を持っていなかった僕は、濡れ鼠になりながらも駅までの道のりをとぼとぼ歩いた。

季節は皐月、大学に入学して一ヶ月で僕はノイローゼ気味であった。気味という言葉では不足すると言い添えてもいいほどに衰弱していた。

都内の大学に入学すると同時に、僕は一人暮らしを始めた。自分で決めたこととはいえ、生活リズムの維持は想像以上に困難だ。ゴミ出し一つままならぬ。つい粗食に寝不足、大学では従来の人見知りから孤立すると、まるで生きた心地はなく、消えてしまいたいとすら考えるようになった。

どうせ僕一人いなくなったところで、世界は変わらない。

それなのに、何故学問をするのか。お金を儲けるためか。学問とはもっと崇高なものじゃなかったのか。キャンパス内で、近いうちに企業をすると息巻いている声の大きな学生を見るたび、失望は膨らみ続けた。

僕は大学デビューならぬ大学ノイローゼにかかっていたのだった。

恐らく彼らが間違っているわけではない。僕が間違っているのだろう。

だって彼らは全うに生きているように思えたし、僕は何もなしていないのだ。

そんな矢先、彼女と出会った。

雨の中、時代錯誤な袴姿の女性が、チラシを配っている。

何もこんな雨の降る夕方に、そんな真似することはないだろうに。僕は道の端を歩いて通り過ぎようとしていた。

ところが彼女は、白い傘をふりふり僕の方にまっすぐ近づき、行く手を遮ろうとしてきた。

「よく降りますねえ」

柔和に話しかけてくる彼女を前に、僕は無視を決め込む。

「ねえ、見てこの傘、可愛いでしょう? 本当は日傘なんだけど、気に入ってるから雨の日でも差しちゃうの」

僕は立ち止まるふりをして、彼女の顔を盗み見た。

黒髪、色白で程よくふっくらした頬に、切れ長の目、口元にほくろのある女性だった。年齢は二十代前半から中頃といったところか。

視線に気づいた彼女が、傘の範囲に僕を入れてしまう。ふいに雨が止んだ。

「美味しい珈琲飲みたくありませんか?」

からかうような調子で言われ、僕の顔に赤みがさしたのは言うまでもない。

「それじゃ」

僕は断ろうとして、何故か建物のエレベーター前に立たされていた。

彼女は店の説明をし始める。まるで僕のことなど忘れたかのように滔々と。商売だから仕方ないけれど、正直興味がない。

どうせ僕はカモである。美味しい珈琲とやらを飲んだらさっさと退散するとしよう。

「ねえ、聞いてるの?」

彼女は僕の鼻すれすれまで、顔を寄せてくる。水を含んで若干濃くなった彼女の香りを嗅ぐだけで、理性が崩れ落ちそうになる。目にも毒だ。正視に耐えず、目を閉じ両手を挙げて苦慮を伝える。

「はあ……、張り合がない人なのねえ、君」

がっかりしたように、彼女はエレベーターに乗り込んだ。

信じがたいが彼女一人でだ。

僕は取り残され、途方に暮れた。

彼女は本当に客引きだったのだろうか。何故、客に文句を言い、袖にするような真似までするのだろう。

ここで家路についていれば普段と変わりのない日常が続く。

逡巡の末、僕はエレベーターで二階の喫茶店にのこのこ参上した。

彼女はエレベーターの扉の前で待ち構えていた。

「あら来たの」

愛想がなく、すぐに背中を向けられる。

彼女の後について入った店内は古民家風で、それほど広くない。木の柱を照らすアンティーク照明と、落ち着いた色のソファーが置いてある。恥ずかしいことに、僕はもっと如何わしいものを想像していた。

「ごきげんよう」

カウンターにいた大人しそうな袴姿の少女が腰を曲げ、僕を迎えてくれる。初々しい姿につい見惚れてしまう。

忙しく動き回っていた他の店員もごきげんようと呼応した。どうやら入店の挨拶らしい。

彼女が僕のシャツの袖を引いた。

「お席用意してますからね、こっちへいらっしゃいよ」

行動の主導権を常に握らないと気が済まないらしい。この頃には僕も慣れてきて、返事をするくらいの余裕が出てきた。

「何飲みます?」

席に着くと、メニューを渡されたので目を走らせる。

珈琲の代金は六百円と明記されていた。都心の物価は高いとはいえ、よほど特別な事情がない限り、手が出しにくい価格である。

「珈琲……、ください」

ここまで来た以上、水ですませるわけにもゆくまい。

彼女は注文を聞き届けると、屈託のない笑みを浮かべ、カウンターの方に移動した。

見回してみると、女性客が多い。男性は僕だけだ。居場所がないのは、どこに行っても同じようである。

「すぐに出来ますからねー、待っててねー」

彼女はタオルを持って、甲斐甲斐しく舞い戻って来たのだが、そこで問題が起きた。

彼女のブーツは雨で濡れていた。床を滑るのに十分過ぎる程に。彼女は前方につんのめり、銀のトレイで水を運んでいた別の店員を突き飛ばす。コップは粉々、床は水びたし。不幸中の幸いか、怪我人は出なかった。

「よもぎさん! 何回教えたらわかるんですか? ブーツをちゃんと拭いてから入店してないからこんなことになるんです」

明らかに年下の少女に、彼女は説教を受けている。下を向き、時折横目で僕を睨む。

何も僕の目の前でやらなくてもいいじゃないか。しかも根に持つような顔をするのだ。

彼女にとって、この境遇は不服なのだろう。僕の濡れた体を拭くためのタオルで床を拭き、乱暴な手つきで割れたガラスを掃除し始めた。

「いたっ……!?」

彼女の人差し指に、赤い滴がもくもくと湧き出た。ガラスで切ったのである。

「大丈夫ですか」

僕はつい寄せなくていい同情を寄せていた。

「平気よ。このくらい」

強がる彼女に、僕は絆創膏を差し出す。

「君がつけてくれる? 片手じゃやり辛くって」

僕は母親以外の女性の手を握った経験がない。たかが絆創膏を貼るだけとはいえ、悲しいかなためらってしまった。

息を止め、彼女の傷口を覆い隠す。余計なことを考えないように一気呵成に。思いの他小さな手で、絆創膏が余りそうだった。

「なんか曲がってない? 不恰好だし」

「すみません」

彼女は、絆創膏を執拗に確認していた。

「でも大事にするわ、お客さんに何かしてもらったの初めてだから」

単なる接客上の礼儀だろうが、僕の心は高揚していた。

それが彼女、よもぎとの出会いである。



よもぎという名前は、彼女が着物の胸につけているプレートで知った。恐らく本名ではないだろう。

「星の王子さまはね、一流の狙撃手だったのよ」

よもぎの絆創膏から僕は目を離す。

昼前に、前日よもぎに借りた傘を返しに来たのだが、それだけでは済まされず、割高なオムライスを食べることになった。食欲はなかったけれど、頑張って食べた。

「一人になるのが耐えきれなくなった王子さまは、飛行機を念力で墜落させるの」

そう言って彼女は苦しげな顔で右手を開いたり、閉じたりした。

「不時着したって書いてあったと思うけど」

僕が水を指しても、彼女は動じなかった。

「想像力よ! あの可愛い挿絵に騙されちゃダメ。王子さまがゴルゴみたいな容姿をしていても不思議じゃない」

力説する彼女だったが、背後から別の店員に肩を掴まれる。

「よもぎさーん。お客さまがご到着ですよー、はいご挨拶ー」

「ゴキゲンヨウオジョウサマ」

腹話術の人形のように、口を上下させお出迎えに行った。

その日は傘を返しに行っただけだから、オムライスを食べてすぐに店を出た。彼女は接客で忙しそうにしていて、僕に見向きもしなかった。

想像力を働かせて僕は声かけせず、会計をすませた。

店に行く動機はもうなくなった。あれ以来、彼女が店の外でチラシを配る姿は見かけない。

店の前を通り過ぎる時、要領の悪そうな彼女はちゃんとやっているだろうかと、ふと考える。

不思議なことに他人の心配をしている間は、自分の悩みを忘れることができた。

そのうち、大学にいてもアパートにいても、彼女のことを考えない日は皆無に近くなってきた。

五月の終わり、日曜日の午後、僕はふらふらと店に足を運んでいた。まるで誘蛾灯に向かう虫のように。

「ごきげんよう」

彼女はそっけなく僕を迎え入れ、席に案内した。

「ご注文はお決まりですか?」

「えっと……」

別人のようなテキパキした客捌きに、僕は動揺していた。もしや、忘れられたのだろうか。無理もない。客は引っ切り無しにやって来る。二度くらい顔を合わせた程度で知己を気取り、彼女を責めるのは酷であろう。

僕が煩悶していると、彼女は怒りっぽい声を発する。

「また美味しい珈琲にします?」

彼女を見上げると、目だけで笑っていた。

「急にいなくなられるからびっくりした。話の途中なんだから、また付き合ってね」

狙撃手の話は僕にしかしないようだ。彼女の鉄板ネタかと思ったが、他の客にそのような話を振っているところは見たことがない。

自分は特別だと自惚れていたのかもしれない。たとえ彼女のセールストークだったとしても、僕はその時充足していた。




当初、大正喫茶に通う頻度は、週に一度だった。意図せず忘れて二回足を運んだことがある。

「また来たの。学生さんって暇なのね」

よもぎは、呆れたように首を振る。意地の悪さを隠そうともしない。

僕はどうしてこの店に来たのだろう。わからなくなった。値段の割にまずい珈琲を飲み、対して可愛いくもないよもぎが、皿を割る姿を見たいがためか。自分より出来の悪い人間に安堵しているのだろうか。僕がそこまで落ちぶれていたとは俄かに信じがたい。

「ねえ、ちょっと」

僕が本で意識を散らしていると、彼女は思いつめた顔で話しかけてきた。

「珈琲の味、どうかなって」

「どうって別に……」

運ばれてきたものに口をつけたが、いつもと変わらなぬ香味に感じられる。しいて言うなら生温く苦味が少ない。

「そうね、学生さんには早かったわね!」

両腕を大きく振り上げ、彼女は早足で去った。

入れ違うように、別の店員が僕の元にやって来た。

「駄目じゃないですかー、ちゃんと美味しいって言ってあげないとー」

お下げ髪の千草さんが、間延びした声で僕を咎めた。よもぎより年下のようだが、店を仕切るチーフとして活躍している女性だ。

「それ、よもぎさんが淹れてるんですよー、居残り特訓もして、一人前になろうと努力してるんですから」

「へえ……」

半人前が店で接客するのは、咎めないのだろうか。寛容な店だ。

「美味しかった。缶珈琲よりは」

帰り際、僕が精一杯の感謝を述べると、

「バカ!」

彼女はトレイを振り上げ、店に響く声で怒鳴った。

面倒な店だった。




僕は単なる客で、よもぎは単なる従業員である。

その線引きは、正確になされるべきだろう。

お互いにとっても、それが多分一番いいはずだ。

「あれいいなあ」

接客の最中、僕をそっちのけで、よもぎは別の対象に目を奪われていた。

外の通りを、高校生らしい男女が自転車で走り抜ける姿がよく磨かれた窓から、見下ろせた。

「自転車、持ってないの?」

僕は一応義理で訊ねた。

「ちがーう! 二人乗り」

「ああ、そっちね……」

よもぎと二人で乗る空想が一瞬だけよぎったが、余りに絵にならず断念した。

「ねえ、今週の土曜日ヒマ?」

これが店員と客の会話だろうか。僕の心痛をどなたか察して欲しい。

「講義があるよ」

「代弁っていうのしてもらってさ、八王子に行こう」

要領が掴めず、難儀する。始終この調子なのだ。

「八王子で何をするつもり」

「フリマ。自転車買いたい」

ああ、いけない。これはまずい。何故こうもズケズケ立ち入ってくるのだ彼女は。巻き込まれる方の身にもなって欲しい。

「まず、八王子のフリマに自転車が出品される保障はあるのかな」

「ないよ。わかんないのがいいんじゃない」

「店の外で僕と会うのは、どうなの」

よもぎは、困惑したような表情を浮かべる。

「何それ? 変な風に捉えないでよ。ただ自転車見に行くだけなのに」

却って断り辛くなった。僕の考え過ぎだったのだろう。

週末、午前十時に八王子の駅で待ち合わせ、そこから近くの神社に向かった。

よもぎは、ボーダーのトップスにワイドパンツ、僕は高校の友人に貰ったメタリカのカットソーを着ていた。冴えない奴だと、よもぎは内心思っていたかもしれない。

初夏の暑さここに極まれり。歩き初めて間も無く僕の額に汗が滲む。

この日のよもぎは、別人のように口数が少なく、肩透かしを食らう僕だった。

神社の境内では人でごった返し、雑貨や衣類などがシートに並べられていた。

僕が巨大な狸の置物に気を取られると、よもぎは一人で歩こうとする。

僕は自然、彼女の手を強く握りしめていた。迷子になるのを恐れた子供の心境に近いものがあったのかもしれない。

「何処にもいかないよ」

彼女は白い日差しを背に受け、光って見えた。

僕がすまなそうに手を離そうとすると、彼女の方から握り返してきた。離すタイミングを失し、神社を出るまでそうしていた。

目当ての自転車は見つからなかった。そもそもよもぎの所望は、ママチャリではなく、外国製のロードバイクだったというから驚きだ。

よもぎは、ビーズのアクセサリーと、古い算盤を買った。僕は古本を数冊。よもぎは、値切り交渉に余念がなかったけれど、僕は気後れしてできなかった。よもぎは、経験者なのだろうか。実に手際がよかった。

昼にはあんみつを食べて一休みすると、駅に向かった。

「自転車持ってないなら、僕のお古でよかったらあげるよ。ママチャリだけど」

そう言って、僕はフリマで密かに買っておいた自転車ヘルメットを彼女の頭に被せた。

よもぎの落胆を見兼ねてのサプライズに、彼女は別人のようにはしゃぎ、あわや通行人とぶつかりそうになった。

今度、店に持っていく約束をして駅で別れる。ヘルメットをしたままで、駅員に捕まっていた。責任の一端は感じる。

さては初めからたかるつもりだったのか。そんな邪推をしてしまいそうなほど、彼女の背中は嬉しそうだった。



梅雨に入ると、講義の帰りの雨宿りの口実に、僕は店の扉を開ける。扉についた風雅な鈴が鳴り、お出迎えの声も心なしか、ゆとりを持って感じられた。

よもぎは、相変わらず僕の接客担当を自任している。珈琲はまずいままだ。

「あー、これいいな」

よもぎが指差したのは、上野美術館のポスターである。珍しいこともあるものだ。

「そういうの、興味あるんだね」

「ギャップ萌えしただろ? 学生さん」

憎たらしい顔で、口の端を曲げるよもぎ。萌えの定義は難しい。少なくとも、よもぎと芸術では、月とすっぽんと同じ不等式が当てはめられてもよさそうである。

「ここに、なんとー、チケットがー」

カウンター越しに、チーフの千草さんが、美術館の前売りチケットを振るっていた。彼女は、よもぎが買ってきた算盤をいたく気に入ったらしく、暇さえあればカウンターで磨いている。

「ちょうどー、二枚きりです」

「はあ……、頂けるんですか」

算盤が、パパンと、無慈悲な音を立てた。

「二枚で二千五百円になります」

押しに弱い僕は、チケットを買い取ることにした。その時、よもぎは、別の客の見送りしていた。

一枚でよすつもりだったが、千草さんが、お金を払ってもチケットを渡さない。

「二枚ですよ、わかってますよね?」

謎の念押しに、僕は狼狽える。

よもぎが振り向くと、ようやくチケットは僕の手元に残った。

千草さんが、よもぎを手招きする。

「よもぎさん、よもぎさん、さっきの個展はいつ行くの?」

「え? そのうち」

「今でしょ」

笑顔のまま、千草さんは激しい音を立て、算盤を弾く。

「有給あるわよね? 使って行ってください。シフト変えとくから」

有無を言わせぬ迫力に、よもぎは冷や汗を流している。

そして千草さんは、鋭い目で僕に何かアクションを起こすように促す。

僕は一念発起し、曰く

「あの……これ」

よもぎがトレイで顔の下半分を隠しながら、僕を上目遣いで見つめる。彼女も千草さんの策略に気づき僕の誘いを待っているように思えた。

その時、団体の客が押し寄せ、よもぎたちは、てんてこ舞い。好機を埋没せしめた。

「あー、残念でしたね」

僕の帰り際、 一人で店先にまで見送りに来てくれた千草さんが、無念そうに語尾を落とす。

「彼女にチケット渡してくれませんか?」

僕は機転を効かせたつもりだったが、千草さんは、首を振る。


「それは酷ですよ。淡い期待を持たせて突き放すみたいじゃないですか」


元々、千草さんが要らぬ爆弾を投下したせいではないか。自然、非難めいた発想をしてしまう。


「学生さんはよもぎさんが、狙撃手になりたい理由わかります?」


僕が答えられずにいると、チケットを二枚とも引きちぎるように剥奪された。


「寂しいんです、彼女。もっと察してあげてよー


なじるような口振りで、千草さんは店の扉を素早く閉めた。


返金、してもらってない。



住めば都という言葉の通り、僕の学生生活も一応、様になりつつあった。地図が塗り分けられるように、大勢を占めるウェーイ系の学生とそうでない学生の住み分けができたのである。

僕は勿論、後者なので冴えないとこには変わりないが、幸いなことに既知ができた。学部と学科が同じため、講義の重複も増える。顔を覚えない方が至難だった。

自然、生活にメリハリができた上、前期試験も重なり、大正喫茶のことも忘れかけていた。忘れようとしていたのかもしれない。よもぎの寂しさにつけ込もうとした自分を冷静に見つめ直す良い機会だと内心思っていた。

文系とはいえ、経済学には多少の数字は付き物だ。侮っていたこともあるが、苦戦を強いられる。友人の助けを借り、辛くも試験を終えた。結果の通知は一月以上先になる。人事は尽くしたのだから天命を待つばかりだ。

突然、胸にぼっかりと空いた穴を埋めるように大正喫茶に人目を忍ぶように向かった。ここに通う姿は誰にも知られたくない。

清廉な店舗が、僕を出迎えることは永遠になかった。表にひっそりと置かれていた看板が撤去されている。エレベーターを上がったものの、店の扉は閉ざされ、営業していない。

一階の雑貨店もシャッターが下り、建物自体が死んだ感じだった。

定休日だろうか。僕はなんとなく落ち着かなかった。

ふと、電信柱の陰から忘れようもない白いパラソルをさした女が、こっちを恨めしそうに見つめている。

「店は閉店したの」

よもぎは、少しやつれていた。

築六十年の建物が建築基準法に引っかかり、営業ができなくなったそうだ。オーナーはこれを機に、秋葉原に新店舗をオープンするつもりらしい。

従業員もそっくりそのまま移転すると思いきや、よもぎは例外だった。

「私、解雇された。年いってるし、勤務態度も悪いからって。そんなに若い子が好きか! ロリコン共め!」

パラソルを乱暴に振り回し、往来の邪魔になる。僕は控え目に押しとどめることしかできない。

「どうしよう。住むとこなくなっちゃった……」

彼女は会社の寮で暮らしていた。解雇されたため、住む場所も同時に失ったのだ。

「それだったらさ」

僕は彼女から目線を外して、暫定措置の提案を試みる。

「僕のアパートに来ない?」

よもぎは、だらりとパラソルを地面に下ろした。

「住所もないと、次の仕事見つけるのも大変でしょ? 僕は夏休みに入るし、友達に誘われた住み込みのアルバイトで一ヶ月くらい留守にするから。その間、居てくれると助かるっていうか、えっと……」

咄嗟に彼女を安心させようと口に出したが、失敗だったかもしれない。顔見知りとはいえ、客がいきなり同棲めいたことを口走ったら、身構えるのは当然である。軽蔑も覚悟した。

「いいね……、それ」

捨て鉢になっていた彼女の顔に明るい兆しが出ている。

「そうしてくれるとほんと助かる! よろしくね、学生さん!」

その日のうちに、彼女は少ない手荷物を持って、僕のアパートの一室に転がりこんできた。

これぞ僕の危惧していたことに他ならない。彼女の弱味につけ込んで、距離を縮める。まるで星の王子さまのように。

「ポンカレーの辛口ないの? 学生さん」

彼女は、断りもなしに冷蔵庫を物色して言った。

「ねえよ、そんなもん」

僕は悪くない。多分。




「撃ち落とされちゃったねー」

僕のアパートの間取りは1DKで、玄関を入ると4帖ダイニングキッチンと奥に六畳の和室がある。家賃は六万円、駅まで徒歩十分の距離。近くにコンビニはあるが、スーパーは踏み切りを渡って線路をまたぐ必要がある。自転車はよもぎに貢いだため、生活用品は週末にまとめ買いしてしのいでいた。

「え? なんだって?」

「なんでもないよ。それより、福神漬け置いてないなんて頭おかしくない? 今度買いに行こうね」

彼女はなんの衒いもなく、僕に接してくる。

こうして、ろくに知らぬ男の部屋でカレー頬張っていても、よもぎは、よもぎのままだ。

「食べ終わったら、ゲームやろうぜ」

彼女は、寮から持ち出したスーパーファミコンをリュックから出した。なんでも同僚に餞別として貰ったものらしい。

マリオカートをしながら頭をよぎったのは、これからの生活のことだ。バイトのことは、よもぎを安心させるための口実であった。僕は一度友人に紹介された口を断っている。後でよもぎの目を盗んでもう一度頼んでみることにした。

「やったー! クッパ強いぞ。カッコいいぞー」

よもぎは、謎の盛り上がりを見せたが、九時を過ぎると、彼女はコントローラーを握ったまま、眠りこけた。

「よもぎさん、風邪引くから」

僕は控え目に、彼女のなで肩を揺すった。ショートパンツから伸びる嘘のように白い太腿から目を背けるのが大変だった。

僕は諦めて収納から掛け布団を取り出し、よもぎにかけたようと身を屈め、彼女と目が合った。

「優しいねえ、学生さん」

よもぎは、ぱっちり目を見開いていた。初めて会った時のようなからかうような笑みも浮かべている。

「連れこまれたから、てっきりその気があるのかと思いまして」

「人聞き悪いな。僕は君が困ってたから」

「その気、ないの?」

よもぎは寝転んだまま、僕の足に足でちょっかいをかける。

僕はふらふらと彼女の脇に座り込み、

「うわっ!」

よもぎは、素早く僕の上にのしかかってきた。そしてこしょっと、耳打ち。

「しー、お静かに。隣近所に聞こえちゃうよ」

情けないことに僕は何の抵抗もできず、よもぎのお世話になった。



よもぎは、ほどなくして居酒屋のアルバイトを見つけてきた。そのため夜は不在であることが多い。

「我慢しなくていいからね」

何も裸で言うことないだろうに。どちらが気を使っているのかわからなくなってきた。

僕のアルバイトの件は不問に処させれた。一緒に暮らした方が楽しいというが、彼女は家事をするのが面倒なだけなのだと気づくのに時間は要らなかった。

「二人で生活するには、想像力を働かせるの」

舞台稽古する役者のように、部屋を落ち着きなく動き回るよもぎ。

「相手がして欲しいことを率先して行える立派な人になろうね、学生さん」

「当番制はやめないからな。掃除くらい自分でやれ」

譲る場面とそうでない場面、お互いに遠慮があるうちは手探りで、議論を重ねていった。

「私の実家、お寺なの」

ある夜、彼女がぽつりと漏らした過去は、僕の興味を著しく誘った。

「そこでは秘仏を祀っているの。楠木正成の霊を鎮めるために」

僕は想像力を働かせる。仰々しい曼荼羅と、楠木正成の御霊を鎮める僧侶の陰影を。

「だから私、狙撃手になろうって決めたのよ。檀家さんと付き合うのって大変そうでしょ?」

そうだねと、僕は彼女の乳房を弄りながら応えた。楠木正成と付き合う方が大変だろうに。



人生は、よく荒波に例えられる。その日は唐突に訪れた。

よもぎの居酒屋のバイトが終わるのは、終電を過ぎた時間である。片道二十分、自転車通いをしている。

バイトのある晩は、僕はいつも先に眠るのだが、その日は寝付けず、酒を飲んでよもぎの帰りを待っていた。

聞き慣れないバイクのエンジン音したと思うと、アパートの前に止まる気配がした。

僕は胸騒ぎを感じ、窓を少しだけ開き様子を伺う。

二人の男女がいた。一人は、ガタイのいい体育会系の若い男。もう一人は、今朝よもぎが着ていたのと同じワンピースを着た女だった。僕はカーテンを閉め、電気を消して床に入った。

「ただいまー」

弾んだ声で玄関を上がるよもぎ。

すぐに和室に侵入してきた。

「何で電気消してんの? さっきまで明かりついとったし」

僕はよもぎから逃れるように、寝返りを打った。

よもぎは、ため息をついて僕の脇に正座していた。

「さっきの人はバイトの先輩。遅いから送ってくれたの。変な想像ばっかり働かすねー、君は」

笑い話で誤魔化しているように思える。実生活では意外と饒舌には程遠い彼女からは想像できない言い訳だ。

「自転車はどうした?」

僕は低い声で詰問していた。

「置いてきた。明日取りに行くね」

よもぎは、酒を飲んだ。僕も飲みなおす。

「浮気してたら追い出す?」

「しないよ、そんな薄情な真似」

僕ははっきりそう告げた。

だよねーと、彼女は寂しげに笑う。

「もうダメか、私たち」

僕は息をするのも忘れ、彼女に駆け寄った。

「いや、意味わからんし! 」

「わかるでしょ、想像力を働かせるんだよ」

僕は、異常なほど平静な彼女の体にしがみつく。

「行かないで……、ください」

彼女は僕の髪をうっすらと撫でる。

「よくできました」

翌日の日曜、僕とよもぎはお揃いのメタリカのTシャツを着て自転車を回収し、二人乗りで街を走り抜けた。

よもぎの願いがこんな形で実現するとは思わなかったけれど、僕らは言葉にせずに想像力を働かせる。

よかった

よくない

よかった

よくない

よかった君に会えて

よかった

「ねえ、学生さん」

僕が渡したヘルメットを被り、よもぎが指差したのは、、丁度開店したばかりのゲームセンターであった。

「学生さんって呼ぶの、いい加減やめて欲しいんだ」

クレーンゲームに僕らは熱中した。景品に魅力を感じているのか達成感というカタルシスに酔いしれたいのか、僕らは曖昧な境界を楽しんでいる。

「じゃあなんて呼べばいいの?」

「下の名前でいいよ」

「学生さんの方が想像力があると思えるけど」

僕らは幾度目かの挫折を乗り越え、目当てのぬいぐるみを落下寸前まで追い込んでいた。あと一回。

「狙撃手になるには、想像力が不可欠なんです」

よもぎは、あくまで頑固に想像力を盾にする。

思えば、大切なことは目に見えるし、手に触れるし、狙撃可能な対象でなければならないのだ。彼女の不味い珈琲が舌に思いだされる。

仮に、彼女の家が寺だろうと、楠木正成と関係あろうが、浮気しようが……、もう止そう。

奈落に落ちるように、ぬいぐるみが縦穴に吸い込まれるのを、二人で手に手を取り確認した。

「あーあ、撃墜されちゃった」

よもぎは、落胆したような安堵したような複雑な声音で作戦の終了を宣言する。

狙撃されたのは、僕の方だったのかもしれない。想像力を働かせると碌なことにならない。

よもぎのような一流の狙撃手と出会った時点で、僕の命運は尽きていたのだ。


(了)






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