娘と鴉4


 目の前を、一匹の蝶が真っ白で美しい翅の蝶がひらりと舞っていて、サリアは蓮華の花冠を作る手を止めた。

 彼女が座っているのは、小川の流れる森の中にある草原だった。辺りには蓮華の花が咲き誇り、甘い香りを漂わせている。


 小川の側では、フリッツが丸い石に腰掛け、川に釣り糸を垂らしていた。時々吹く柔らかな夏の風に、彼の髪の毛が揺れる。

 外に出る時にいつもしている仮面は、サリアと一緒にいるためか、この時は付けていなかった。


 サリアは蝶から手元に目を戻し、花冠の続きを作り始めた。

 養子にもらわれる以前は、よく姉妹や友達と一緒に作っていたことを思い出しながら、彼女は丁寧に花の茎を編み込んでいく。サリアは花冠を作るのが上手だと、皆が褒めてくれた頃と変わらない、美しい丸が形作られていた。


 釣りをしているフリッツは、気を抜いていて、文字通り羽を伸ばしながらぼんやりと釣竿を握っている。

 長い事釣り糸を垂らしているが、未だに一匹も当たりを引いていない。しかし、フリッツはそれを気にしている様子はなかった。

 小川のように、静かに穏やかに流れる時間に、サリアもフリッツも身を任せていた。


 カーディナルとジュリアンが塔を訪れて以来、フリッツは時々サリアを誘って外に出掛けるようになっていた。

 それだけではなく、フリッツは壊れていた塔の屋上の滑車を直し、途中で崩れていた階段の修理も進めていた。

 この一月近く、彼が外に対して積極的になっていることは気になっていたが、悪くない変化だとサリアはそれを受け入れていた。


 サリアも森の中を散策してみたいという気持ちが強かったため、フリッツが色々な所に連れて行ってくれるのはとても嬉しかった。外に食べ物を取りに行ったり、屋上から水を汲んだりといったフリッツの負担が減ることも。

 領主がもうサリアを連れ戻しに来ないのであれば、こうして変わっていくことは彼女も快く受け入れていこうと思っていた。

 ただ、フリッツの行為の真意だけは、まだ見抜けていなかったが。


 花冠が半分ほど出来上がった頃、フリッツがいつの間にか腰かけていた石から離れて、サリアの目の前に立っていた。


「どうしたの? 釣りはもういいの?」


 少し驚いたサリアが話し掛けると、フリッツは困ったように肩を下げた。

 釣り竿の針は小川に入れたままだが、全く喰い付きが無いために半ば諦めてこちらに来たらしい。

 フリッツもサリアの向かいに座り、蓮華を二本摘み取った。彼女の手の動きを見ながら、同じように茎を結び付きようとしている。


「フリッツも花冠を作りたい?」


 サリアが尋ねると、フリッツは顔を上げて頷いた。真剣な顔をした彼に対して、サリアは思わず笑みが零れた。


「そんなに身構えなくても大丈夫よ。すごく簡単だから」


 そう言ってサリアは、やり方をフリッツに説明しながらゆっくりと花を編む。フリッツは何度も彼女の手元と自分の手元を見比べながら、ぎこちなく花を編み始めた。

 五本目の花を何も見ずに編み込めた時に、やっとフリッツは肩の緊張を解いて、顔を綻ばせた。

 フリッツの編んだ花は、並びもばらばらで隙間も目立っていたが、サリアは嬉しそうに話しかけた。


「上手ね」


 褒められたフリッツは、照れて真っ赤になっていたが、また続きをサリアと一緒に編み始めた。


 しばらく二人は無言で作業に没頭していたが、ふとサリアが口を開いた。


「もうそろそろ夏至ね」


 その言葉に、フリッツがこくりと頷く。

 サリアは唇に微笑みを湛えながら続けた。


「私が小さい頃はね、夏至の日に花話を作って小川に流す占いがあったの。その花輪がちゃんと流れていったら、結婚できるんだけど、もし止まってしまったら死を意味するって言われていて、私は怖くて出来なかったなあ」


 懐かしそうに目を細めながら、サリアは話していた。

 その為、「結婚」という言葉が出た瞬間に、フリッツの体がびくりと跳ねたのには気付かなかった。


「フリッツがよく行っている村にも、夏至のお祭りはあるのかな?」


 フリッツは夏至祭りについてよく知らないのか、首を傾げた。


「ねえ、もしもあの村で夏至祭りが開かれるのなら、一緒に見に行きましょうよ」


 フリッツの顔を見上げながら、サリアは兎のように弾む声で言うと、フリッツは再び真っ赤になりながらも頷いてくれた。


「約束よ」


 次は湖に滴を落とすように、静かな声でサリアは言った。フリッツもまた頷く。

 少しだけ俯いたフリッツの顔の痣は、左頬の一番大きなもの以外は殆ど治りかけていた。今のサリアほどの距離で目を凝らさないと見えないほど、他の小さな痣は薄くなっている。


 あの村の祭りはどのようなものだろう。小さい頃に参加した祭りでは、サリアは新しい服を買ってもらって、花冠を被っていた。

 広場に立てられた夏柱の周りでは、人々の歌声が響いていて、日が暮れてきた頃には皆で踊った。

 幼かったサリアは日が落ちると家に帰らされたが、若者たちは皆でずっと楽しそうに踊っていたのが羨ましかったことを思い出す。夏至祭りでフリッツと一緒に、一晩中踊り明かせたら……。


 そんなことをふわふわと考えている間に、サリアが編んでいた花冠が出来上がった。

 フリッツの方も花冠を完成させたが、上手くいかずに手首ほどの大きさになってしまっていた。


「可愛らしいね」


 花冠の出来栄えに肩を落としていたフリッツに、サリアは優しく語り掛ける。


「ね、フリッツ、ちょっと頭を下げて」


 サリアに突然そう言われて、不思議そうな顔をしたフリッツが頭を下げると、彼女はその上に花冠をちょこんと載せた。


「ふふ、似合ってるよ」


 頭に嵌らずに載せられたままになっている花冠を、落とさないように半身を落として、フリッツはむず痒そうに笑っていた。


 今度はお返しにと、フリッツがサリアの左手をそっと取って、自分の作った花輪を付けてあげた。

 サリアは左手を自分の目の前に持ち上げて、手首を何度も半回転させながら、花輪を眺めている。蓮華の花が可笑しな方向に曲がってしまい、皮膚に花びらが当たって少しちくちくとするが、それよりも嬉しさの方が勝っていた。


「フリッツ、ありがとう」


 彼の目を見つめて礼を言うと、彼も目細めて頷いてくれた。

 その時、小川からばしゃんと大きく水を跳ねる音がした。フリッツが放っていた釣り竿に魚が喰い付いたために、釣り竿が小川に落ちてしまった音だった。

 フリッツが慌てて釣竿を取り戻そうと駆け出すが、その拍子に頭から花冠が落ちてしまった。


「あ、ちょっと、フリッツ!」


 サリアがそれを拾い上げたが、小川に入って釣竿を掴んだフリッツは、掛かった魚が大きいのか、中々吊り上げることが出来ずに苦戦している様子で、彼女の声も届いていない。

 そのうち小川の中腹へと、体が引っ張られていく。


「フリッツ、飛んで! そのまま、飛んじゃって!」


 川のほとりまで来たサリアの言葉に、フリッツははっとして、大きく羽をはばたかせて、宙に浮かぶ。だんだんと高度を上げていくが、それでも魚の抵抗力は緩まない。


 フリッツが力いっぱい腕を持ち上げると、やっと魚が姿を現した。

 しかし、勢い余って釣竿は彼の腕からすっぽりと抜けてしまい、翼のあるフリッツよりも魚は空高く弧を描き、蓮華畑の中にどさりと落ちた。


 サリアが抱えるほどの大きな鱒は、地面に落ちても未だに元気でびちびちと跳ねている。

 小川のほとりのサリアと空中のフリッツは、その様子を呆気にとられて見ていたが、サリアの方から大きく口を開けて笑い出した。彼女の隣に降りてきたフリッツも、口元を抑えて震えながら、笑い出すのを必死に堪えている。


「すごかったね、今の! 私、魚が空を飛んだの、初めて見たよ」


 目元から零れそうになった涙を指で拭って、サリアは快活な声で言うと、フリッツも体を曲げたままこくこくと頷いた。


 まだ跳ね回っている魚を前にして、二人はずっと笑っていた。

 後々振り返ると何故笑っていたのかが分からないほど下らない出来事だったが、それでも二人は笑いが込み上げてくるのを止められなかった。


 ……森の境目の茂みの中で光っている、水晶玉の存在にも気付かずに。



























 何処かも分からぬ、薄暗い部屋の中。真ん中に置かれたテーブルの上には、水晶玉が置かれており、そこには蓮華畑の中に落ちた鱒を見て笑い合っているサリアとフリッツの姿が映されていた。


 それを眺めているのは、二つの身長が全く違う影。

 一つは、屈強な男。領主がサリアを連れ戻しに来た時に隣にいた、領主の側近の男だった。

 彼は、領主の他の従者よりも幾分か良い服を着て、眉間に皺を寄せて水晶玉の中の二人を眺めている。


 もう一つは、その場に似つかない、十二三歳の少女だった。短い髪は、黄色よりも黄緑色に近く、水晶玉をじっと見つめる伏せた目も、濃い緑色をしている。

 マントのようなものを羽織り、短い裾から覗いたか細い腕には、包帯で爪の先まで隙間無くぐるぐる巻きにされていた。領主の側近と違って、彼女の表情は冷ややかなものだった。


 ちらりと、隣の男が少女に目を向ける。その視線は異質なものを見るような、非常に不躾なものだったが、彼女は意に介さず、水晶玉を眺めたままだ。

 男は、この少女が魔女だということも、魔法で蓮華畑に置かれた水晶玉からこの水晶玉へと、二人の姿が送られていることも知っていた。だからこそ、より不気味さを感じていた。


「いかがでしょうか、ムイ様」

「……わざわざ、様付けしなくてもいいよ」


 ムイと呼ばれた魔女は、側近に対してぼそりと呟く。声には感情が全く籠っていなかった。そして、溜め息を一つ吐いてから、続けた。


「やっぱり、事前の情報が正しかったのね。ここにも罠を仕掛けましょう」

「かしこまりました」


 側近は、言葉だけでは従順な様子である。

 彼女の言う罠とは、魔法陣の描かれた紙の事だった。この魔法陣は一定距離に近付くと作動して、掛かった人間を気絶させるというものだった。

 領主の私兵たちは彼女の命によって、この魔法陣をフリッツの立ち寄るあちらこちらに仕掛けていた。


 側近は再び水晶玉を見つめる。その中には、鱒を抱えたフリッツが、笑顔のサリアに話しかけられていた。その声までは聞こえてこないが、非常に楽しそうな雰囲気が伝わってくる。

 その姿に厳しい目を向けたまま、側近は苦々しく口を開いた。


「奴の魔術は非常に巧妙ですね。サリア様も、何の違和感も無く過ごしているようだ」

「……ええ」


 一瞬だけ奇妙な沈黙を挟んで、ムイは頷いて見せた。


 フリッツ達が暮らす塔に、サリアを連れ戻しに向かった領主だったが、サリア本人から投げつけられた拒絶の言葉によって、一月近く塞ぎ込んでいた。

 しかし、ある日突然自室から出て来た領主は、血走った眼で、「サリアはあの化け物に操られている。だから、私に対してあのようなことを言ってきたのだ」と捲し立ててきた。


 その聞かされた部下たちは、突然何を言い出したのかと困惑したが、今は彼の話に同意しなければ、後々酷い目に遭うことがよく分かっていたので、とにかく首肯して、領主を煽てる言葉を並べ立てた。


 そんな中、町内で占いをする魔女が現れたという噂が、領主の耳に入った。領主は、魔法の事は魔法の専門家に訊くべきだと、早速自宅に魔女を招き入れた。その魔女が、ムイであった。

 ムイは、実際に二人の様子が見たいと言い、領主の側近と共に遠くから、塔に入っていくフリッツとそれを出迎えるサリアを観察した。そして彼女の下した結論は、「サリアはフリッツに操られている」というものだった。


 最初は領主の戯言だと思っていた部下たちも、魔女であるムイの言葉を信じ込み、フリッツの魔法を解いてサリアを救い出すという荒唐無稽な領主の計画にのることになった。

 だが、領主の部下は全員、魔法に関しては素人だった為に、普段は魔法を使う者たちを化け物呼ばわりしている領主は、仕方なくムイを計画の要として据えることになった。


 ただ、ムイが協力者となっても、領主たちの彼女に対する不信感が消えた訳ではない。

 領主の魔女嫌いとは別に、いつも伏し目がちで、会話の時も決して目を合わせようとしないムイには、領主の部下達も気味悪さを感じていた。

 よって、ムイを利用するだけ利用して、都合が悪くなれば何かしらの理由を付けて、約束していた賃金も支払わずに捨ててしまおうという領主の提案に、反対する者は一人もいなかった。


 領主の立てた計画では、フリッツが一人でいる所に仕掛けた罠を作動させて彼を捕らえ、ムイの手によってフリッツがサリアにかけている魔法を解くというものだった。その後、塔にいるサリアを助け出すために、巨大な梯子と縄も準備されている。

 しかし、魔法を解くと一言で言っても、中々骨の折れる作業らしく、ムイが要求した巨大な魔方陣を敷ける場所を用意するだけでも、手間がかかっている。


 その上、フリッツを捕らえる罠を用意するのも領主の部下たちの仕事であり、得体の知れない、信用しきれない人物の指示に従う彼らの疲労が大きいことも、側近はよく知っていた。

 従って、言葉遣いでは恭しく接していても、態度の端々に側近の不信感が滲み出していた。

 それに気付いているのか元々の性格なのか、ムイも決して彼らに心を開こうとしない。側近とムイはもう数日間行動を共にしているが、二人の他人同士のようなぎこちない空気は未だ強く残っていた。


 ……水晶玉には、鱒を持ち、改めて花冠を付け直してもらったフリッツが、サリアと手を繋いで楽しそうに帰路につく所だった。

 側近はそんな二人の姿に、終始憎しみの籠った視線を送っていた。彼は彼なりの正義感で、愚直にサリアを操っているフリッツの事を許せないと思っていた。

 そして、早くサリアにかかっている魔法を解いて、元に戻してあげたいとも。その後、サリアが領主の嫁に迎え入れられることについては、あまり深く考えていなかったが。


「では、罠を仕掛けて来ます」


 フリッツとサリアが水晶玉から見えなくなるまで見届けた後、側近は動いた。ムイが小さく頷いたのも見ずに、扉を開けて外へ出ていく。

 扉が閉まる音が響くと、ムイは蓮華の咲いた川辺を映した水晶玉を見つめたまま、誰も聞かれないように呟いた。


「ごめんね、しばらく利用させてもらうよ」

























 初夏の木漏れ日の中を、仮面を付けたフリッツは籠を持って一人で歩いていた。 川の近くの冷たい風が心地よく吹き抜けて、小鳥たちが唄を歌いながら飛んでいくのを見上げる。


 フリッツはのんびり歩きながら、昨日サリアが作ってくれた鱒のムニエルもおいしかったなあと思い返していた。

 余った部分は、塔の屋上に干して、干物にしている。出来上がりが今から楽しみだった。


 夕食の後は、階段修理の続きを行った。一月前から少しずつ直していった階段は、あと五段ほどで崩れていた部分がなくなる。草木が好きなサリアも、これから塔の周りで好きなだけ庭いじりが出来るようになるだろう。

 とは言っても、階段が完全に直るまでは、まだ数日かかりそうだった。


 これで、カーディナルが訪問した時に、フリッツが決意したやらねばならないものは、すべて達成されたことになる。その後は、サリアの告白を、きちんと受け入れようと考えていた。


 フリッツはサリアの気持ちに応えるために、自分の思いに正直になるために、その前段階の準備として、様々な身の回りの整理を行っていた。

 彼女を今まで以上に支えられるようになりたかったのと同時に、すぐに照れて真っ赤になってしまう初心な自分から、もっと彼女を大きく包み込めるように変わりたかった。

 そのための時間の猶予として、塔の修理を行っていたが、それも終わりに近付いている。


 果たして自分は変われただろうか。フリッツは立ち止まって考える。

 変わっていて欲しいと思いつつも、昨日サリアから「結婚」という言葉が聞こえた時に、思考が停止してしまったことを思い出すと、まだまだ理想の姿にはなり切れていないのかもしれない。


 しかし、サリアを愛する気持ちは、誰にも負けていないことは、自覚している。ただ、そう考えると、また頬が火照っていくのを感じるのだが。

 サリアと手を繋げるようにはなれた。抱き締めることは、ずっと前から出来ている。だが、口づけをするとなると……やはり気恥ずかしさの方が勝ってしまう。 

 もっと、覚悟を決めなければと、前を向いて、再びフリッツは歩を進める。


 彼が目指しているのは、グミの実の生っている木だった。この前サリアが作ってくれた杏のジャムはきれてしまい、これから新しいジャムの材料を探しに来たのだ。

 そのグミの木には、一度上空から見かけて立ち寄ったことがあったが、その時はまだ杏子のジャムが残っていたため、取らずに去っていた。


 夏が近付くにつれて、気温も少しずつ高くなり、フリッツも仮面を付けたまま外に出ると、汗が滲み出るようになってきた。

 歩きながら、ズボンのポケットから白いハンカチを取り出し、仮面と接着した肌の汗を拭う。


 誰も見ていないのならば仮面を取っても一向に構わないのだが、妙に意地になってそのまま汗を拭いながら歩き続けて、グミの木まで辿り着いた。

 今日もたわわに実を結んだその木は、気ままに風に吹かれて、木の葉を鳴らしている。


 もう少し近くに寄ろうと一歩足を踏み出した時、足元でぱちりと、小さな火花が散った。

 しかし、その瞬間を見ていなかったフリッツは、何の音だろうと目線を動かそうとした直後に、体が硬直し、そのまま横に倒れ始めた。


 このままでは不味い、何とかしなければと、頭ではよく分かっているのに、体は全く動かず、為す術なく倒れこんでしまった。

 一体誰の仕業なのだと、瞬き一つ出来ない状態で、フリッツは必死に考えて、領主の姿が脳裏に浮かんだ。

 まさか彼が、このままではサリアが危ない、そこまで考えることは出来たのに、非常にもフリッツの意識は遠くなり、気を失ってしまった。


 フリッツは最後まで気が付かなったが、彼の足元には、魔法陣の描かれた紙が青い光を放っていた。































 ……テーブルの上に伏せて眠ってしまっていたサリアは、自分の横顔に朝日が差し込むのに気づいて、目を開けた。


「……フリッツ?」


 すぐに体を起こして、辺りを見回してみたが、恐ろしいほどの静けさを保った塔の中に、自分の声が吸い込まれていくだけだった。


 昨日、フリッツが帰ってくる夕方の時間になっても、日が暮れても、彼は戻って来なかった。

 サリアは、そわそわしながら、一晩中彼の帰りを待っていたが、結局途中で寝てしまったようだった。


 下の階にいるのかもしれないと、サリアはざわつく胸を僅かな希望で鎮めながら、フリッツの部屋へと続く梯子を下りて行った。

 しかし、そこには誰もいなかった。サリアは絶望に包まれ、思わずその場に座り込んでしまう。


「そんな、どうして……」


 頭の中は答えの出ない疑問と果てのない不安でいっぱいだった。フリッツが一晩帰ってこなかったことなど、一度も無かった。

 昨日、外に出る時も、いつもと変わらない様子だったのに……。


 外で、何かあったのだろうか。例えば、大怪我をして動けないとか、誰かに連れ去られたとか……。もしかしたら、領主と何か関係があるのかもしれない。

 カーディナルは、領主はサリアの事を諦めたのではないかと言っていたが、それは彼の主観であり、本当にそうだとは断定出来ない。

 もしも、領主が再び動き始めていて、フリッツに何かしらの危害を加えていたら……。


 当てもなく想像してしまい、余計に自分自身で不安に陥っていく。このままではいけないと、サリアは強く頭を振って、嫌な考えを全て振り落とした。

 今は、自分に出来ることをしよう。一度、外に出て、フリッツを探しに行ってみなければ。憶測の範囲内なら、何を考えても仕方のない。サリアはやっと決心して、立ち上がった。


 もしもフリッツが帰ってきた時の為に、机の上に置き手紙を書き残す。それから、部屋の隅の床板を持ち上げて、下へと続く階段を降り始めた。

 駆け足で、サリアは階段を下りていく。フリッツが一月かけて修理してくれたお陰で、崩れていた階段は殆ど真新しい装いをしていた。

 しかし、作業しているフリッツを、時々に見に来ていたサリアは、階段の修理がまだ終わっていない事も知っていた。


 そしてサリアは、途中で階段が途切れてしまっている箇所で立ち止まった。そこには、五段分の穴が開いていたが、そこを超えても外に出る扉まで、残り十段ほど残っている。

 もしもこの穴に落ちてしまったら、きっと自分一人だけでは出ることは出来ないだろう。しかし、サリアは最初から覚悟していた。


 体裁も気にせずに、スカートを捲し上げて、数段登り、そこから助走をつける。たったったっと、彼女の皮靴が小気味良い音を響かせ、途切れた箇所の一つ前の段を勢いよく踏みしめ、飛び上がった。

 手足をばたつかせて、飛距離を伸ばし、五段分よりも三段余分に飛び越えて、サリアは反対側の階段に降り立った。少しよろついてしまったが、壁に手をついて、何とか持ち堪える。


 思い切った行動に、サリア自身もまだ驚いていて、心臓の鼓動が大きく響いていた。こんな無茶をしたのは、まだ生家にいた七歳の頃、登った木から飛び降りた時以来だった。

 ただ、思い出に浸っている暇も、息を整えている時間すら惜しくて、サリアは再び足を動かしていた。


 そして、目の前に現れた扉を押し開けて、サリアは二月ぶりに一人だけで塔の外に出ていた。

 だが、その事実を一切気にせずに、夏の木漏れ日を落とす木々に囲われて、南からの風に吹かれながら、辺りを見回した。しかし、いくら目を凝らしても、フリッツの姿や彼に関するものを見つけることは出来なかった。


 ここで落胆してもいられない。サリアは、フリッツが行っていそうな所を一つずつ訪ねてみることにした。とは言っても、彼女はフリッツがどこに行っているかをあまりよく知らない。

 まずは、一昨日行った小川を見てみようと、サリアは方向を変えて、再び走り出した。


 走って走って、サリアは蓮華畑の中に流れる小川に辿り着いた。しかし……そこにもフリッツの姿はなかった。

 だが、蓮華畑の中にぽつりと、こちらに背を向けた少女の姿があった。黄緑色のような短い髪をして、外套のような上着に、短いズボンと黒いタイツを履いている。何より気になったのは、細い手が包帯で指先まで巻かれていたことだった。


 この森の近くに住んでいる子だろうかと、サリアは目を瞬かせながら、そっと近付いてみる。

 「あの……」と声をかけると、少女はこちらを向いた。しかし、その視線は下を向いていた。


 声をかけてみたものの、フリッツの事を何といえばいいのかをサリアは少し悩んでしまった。彼は翼を持っていて、化け物だと言われても仕方のないのかもしれない。

 しかし、嘘をつくのは彼に対して失礼だと思えて、正直に言うことにした。


「この辺で、男の人を見なかった? 鳥のような仮面を付けていて、黒づくめの格好をしていて、背中に……」

「背中に、翼の生えている人でしょ?」


 サリアが言い切る前に、少女が淡々と口を開いた。

 サリアは驚いて、思わず早口で尋ねていた。


「彼を見かけたの!?」

「見かけたも何も、彼を連れ去ったのは、私だもの」

「えっ……」


 少女の答えがどういう意味なのか分からず、サリアは混乱していた。こんな華奢な少女が、背の高いフリッツをどうやって連れて行ったのだろうか。いや、それよりも、何故そのような事をしたのだろうか……。


 そんなサリアを差し置いて、少女は話を続ける。


「私は魔女としての力量を買われて、あなたを娶ろうとしていた領主に雇われたの。魔法によって、彼の意識を奪い、連れ去った……あなたと離れ離れにするためにね」

「フリッツは!? 彼は無事なの!?」


 領主の名を聞いて、目の色を変えたサリアは、前のめりになって語気も荒く少女に尋ねた。

 少女はサリアの剣幕にも顔色を変えずに、訥々と答える。


「今はまだ大丈夫。でも、領主の様子を見る限り、彼に何をするか分かったものじゃないわ」


 それを聞いて、サリアの胸の内には安心ではなく、不安が広がっていた。早くフリッツのもとへ行って、彼を助け出さなければ。

 勝算はなかったが、領主を何とか言い包めて、フリッツを解放させようと考えていた。

 サリアが考え込んでいると、少女の包帯だらけの右手がすっと動いて、サリアの背後を指さした。


「この小川を下っていったら、使われなくなった古い水車小屋があるわ。その中に、彼と領主はいるから」

「本当に!? 教えてくれてありがとう」


 ぱっと表情が明るくなったサリアに対して、今まで感情を表に出さなかった少女は、初めてたじろいだ。


「お礼なんかいらないよ。私は、彼を誘拐した張本人だし」

「じゃあ、あなたの名前を教えて」

「……」


 何処か無邪気さの滲んだサリアの言葉に、少女は沈黙を返した。

 不思議そうに首を捻るサリアに、少女は多少躊躇しながら、語り始めた。


「あなたは怖くないの? 私は、さっきも言った通り魔女で、彼を捕らえるのに協力しているのよ?」

「魔女ってくらい、私はあまり気にしないわ。フリッツは元々鴉で、今は背中に翼の生えた人間で、私は悪魔にも会ったことあるから。それに、あなたが誘拐犯でも、あまり悪い人だと思えないの」

「……私はあなたが買い被るほど、人が出来ていないよ」

「ごめんなさい。会ってまだ数分なのに、馴れ馴れしかったわ。でも、あなたのことが知りたいから、名前だけでも教えてほしいの」


 サリアの真剣な眼差しに根負けしたのか、少女は溜め息を一つ吐いて、やっと彼女の質問に答えた。


「私は、ムイっていうの」

「そう。ムイ、本当にありがとう。後で、フリッツと一緒にここに、戻ってくるから」


 サリアはぎゅっと拳を握って、踵を返そうとする。するとまた、ムイと名乗った少女は、溜め息を吐いた。


「結局お礼を言ってるじゃないの」

「あっ、本当ね。でも、とても嬉しかったんだから」


 そういってサリアは後ろを向くと、真っ直ぐにムイの指示した水車小屋を目指して、走り出した。

 ドレスは捲し上げたままで、汗で髪も濡れていたが、そんな事など全く気にせずに、希望だけを見据えて走っていく。


 ムイは呆れ顔で、彼女の後ろ姿を見送った。


「信じられないくらいお人よしね。これが罠かもしれないのに。でも……」


 一度言葉を切ったムイは、伏し目がちだった目を、さらに下に向けて呟いた。


「これで、ちょうどいい。私の望み通りの展開よ」


 自分自身に言い聞かせるかのような呟きの後、ムイの姿は夏風に掻き消されて、彼女がいた場所の足元には、一つの水晶玉が無機質な光を放っていた。


























 ばたんと音を立てて扉は閉まり、ムイはその部屋に戻ってきた。


 彼女に背中を向けて立っていた領主は、一瞬だけ彼女の方を振り返ると、皮肉気な表情で文句を言う。


「遅かったな。急に席を離して、何をしていた」

「ちょっとね」


 ムイは短く答えて、まだ何か言いたげな領主を気にせず、伏し目がちのまま彼の背後を見ようと、体を傾けた。領主も彼女の動きを受けて、顔を前に戻す。


 二人の眺める先には、黒い鉄の檻に入れられた、フリッツがいた。目を覚ましたばかりのようで、力なく座ったまま、領主を睨み付けている。彼は仮面を外されており、それは今、領主の手に握られていた。

 領主はフリッツを見下ろしながら、ふんと鼻を鳴らした。


「やはり鳥は鳥籠に入れておくべきだな。それにしても、見れば見れるほど醜い顔をしているな、この化け物は」


 フリッツは何と言われても、檻から出る手段はなく、悔しそうに唇を噛むだけだった。

 対して領主は、彼よりも優位に立てたことが愉快でたまらない様子で、笑いが止まらない。


 ムイは二人のやり取りには無反応のまま、抑揚のない声で言いながら、檻の方へと歩み寄る。


「ちょっとどいててくれる? 彼の魔法を解かないといけないから」

「魔法というのは不便だな。奴が目覚めた後ではないと、使うことが出来ないとは」

「奇跡みたいなことをやっちゃうから、誰でも簡単に使えちゃあ困るのよ」


 にやにやと邪に笑う領主の言葉をぴしゃりと跳ねのけて、脇に退いた領主の立っていた位置にムイは立った。

 フリッツは初めムイも憎々しげに眺めていたが、彼女の目を見上げた瞬間に、はっと驚いた顔を見せた。

 そして、困惑した表情を浮かべて、何か彼女に声を掛けたくても、喋る事が出来ないため、もどかしそうに口を動かしている。


 私が領主になぜ協力しているのかが分からないのねと、ムイは冷静に彼の様子を分析する。でも、これが絶好の機会なのと、感情に波風を立てることなく、掌をフリッツの頭の上にかざした。

 ムイが小さな声で呪文を唱え始めると、フリッツのいる檻の床に、青白い魔法陣が光りながら浮かび上がった。

 危険を感じたフリッツは、慌てて翼を広げ、飛び上がろうとするが、まだ罠にかかった時に損傷が残っているのか、背中が強張り上手く動かせない。


 その内、フリッツの体から力が抜けていき、目をゆっくり閉じるとその場に倒れこんでしまった。その間も、ムイは呪文を唱え続けていたが、それが途切れると床の青白い文字も消えた。


「……終わったわ」

「そうか。よくやった」


 だらりと手を下したムイに、領主は表面上だけの謝礼を言い放った。


「彼はどうするの」

「今は放っておけ。サリアを救い出すのが先だ。その後に、じっくりと奴を苦しめる……」


 領主は卑しい笑顔を浮かべながら、踵を返して、部屋を出て行った。ムイは一度だけ、倒れたままのフリッツを見やると、無言でその後に続いた。


 そのまま、領主は廊下を横切って向かいの部屋の扉を開ける。

 そこには、側近を初めとした彼の私兵たちが待っていた。部屋の中には、縄や梯子、マケット銃なども置いてある。

 皆、一律に真剣な顔をして、領主の指示を待っている。ムイが部屋に入り、扉を閉めた後、領主は高らかに宣言した。


「これより、サリアの救出へと塔へと向かう! 皆急いで準備するように!」

「はいっ!」


 私兵たちは声を合わせてそう言うと、ガチャガチャと音を鳴らして、忙しなく準備を始めた。


「ねえ、見てほしいものがあるんだけど」


 彼らの様子を今まで黙って眺めていたムイが、不意に声を掛けた。

 側近と私兵たちは手を止めてきょとんとした表情で、領主は怪訝そうな顔で、ムイの方を見る。

 すると彼女は、黙ったまま両手の包帯の結び目を、一つずつ解いた。ゆっくりと包帯が落ちていき、彼女の生身の腕が、初めて彼らの前に示された。

 ムイの肘から手の甲までの間に、濃い緑色をした鱗が、所々に生えていた。刺青などではない、非常に小さくても固そうな鱗だ。一見すると、何の動物の鱗なのかは分からない。


 それを目にした者たちの反応はそれぞれだった。「ひい」と声を上げる私兵や、ぽかんとした顔で瞬きを繰り返す側近。その中でも、一番分かりやすかったのは領主だった。彼は大きく身をのけぞらして、ムイに向かってはっきりと言った。


「ば、化け物め!!」


 領主の声にはっとして、私兵たちはマケット銃を持って身構える。

 それらを、目を伏せたまま聞き取っていたムイは、諦めきったように「ああ」と溜め息と共に声を漏らした。


「最初から期待はしていなかったけれど、やっぱりあなたたちもそうするのね」


 再び、ムイは掌を地面に向けると、私兵たちがマケット銃を撃つよりも早く、小声で呪文を呟いた。


  すると、彼らのいる部屋の床に、黄色く光る魔法陣が現れた。ムイの魔女としての力量を知っている彼らは、これから何をされるのかが分からない恐怖心で、顔を歪める。しかし、咄嗟に動くことは出来ない。

 その光が収まった瞬間に、領主と側近、私兵たちはばたばたとその場に倒れた。皆、穏やかに寝息を立てている。


 終始、彼らに冷たい視線を投げていたムイは、地面に転がったマケット銃に交じって、領主の持っていたフリッツの仮面も落ちていることに気付いた。

 ムイはそれを拾い上げると、彼らには目も向けず、部屋の外へ出た。そのまま、フリッツの眠る部屋と領主たちの寝る部屋の間の廊下に立つ。彼女の向かいには、水車小屋の出入り口である扉があった。


 黙ったままムイは、右手に持っていたフリッツの仮面を眺めた。

 鳥の嘴を模した口元や色眼鏡をはめた目元など、その仮面は医師が使用していたとは思えないほど、冷酷で人を寄せ付けない雰囲気を放っている。


 黒い色をした硝子には、ムイの姿が反射して映っている。

 いつも通りの伏せた目に、固く結ばれた口元をしている自分自身と見つめ合いながら、ムイは「彼女」の姿を待った。























 走り続けていたサリアの目の前に、やっとムイの言っていた古い水車小屋が現れた。

 水車小屋は酷く荒れていて、側面の木の板には穴が開いている所が見える。水車は崩れかかっていて、川の流れを受けて辛うじてゆっくりと回っている。その水車のぎいぎいと軋む音が、静かな森の中に木霊していた。


 サリアが見ているのは、水車の側面で、そこには窓硝子があった。そこから、部屋の様子が見えるのかもしれないと、今まで走ってきたサリアは慎重に歩き出す。


 ムイの言葉を疑っているわけではなかったが、前回塔に現れた時のことから考えて、領主がまた私兵を連れてきていることを予想したサリアは、何処かに領主の隙があるのかもしれないと、まずは窓から部屋の様子を伺うことにした。

 サリアは窓の下に移動して、耳を澄ませてみる。しかし、不気味なほど中は静まり返っている。

 そっと、頭を上げて、中を覗いてみたサリアは、その光景を見て言葉を失った。


 その部屋には、数人の男性が倒れ込んでいた。顔はよく見えなかったが、服装と状況から、領主と彼の側近、私兵達のようである。

 ぴくりとも動かないが、上下している胸を見ると、呼吸をしているようである。


 サリアは少し考える。何が起きたのかは分からないが、フリッツがここにいる可能性がある限りは、たとえ罠でも入って確かめなければならない。

 サリアは一度深呼吸すると、音を立てないように静かに移動し、入り口の扉の前に立った。

 再度耳を澄ましてみる。音はしないが、誰かが小屋の中にいる気配を感じた。覚悟を決めて、扉をゆっくりと開ける。中に立っている人の姿が、サリアの目に飛び込んできた。


「ムイ……」


 蓮華畑で別れたはずなのに、フリッツの仮面を持ち、鱗の生えた腕を見せているムイの姿に、サリアは聞きたいことが数多くあり、言葉に困ってしまった。

 一先ずは、一番気になることを尋ねてみる。


「フリッツは、ここにいるの?」

「ええ、いるわ」


 ムイはあっさりと認めて、仮面を持っていた方の腕を下した。目は伏せたままだが、顔はサリアの方に向けている。

 サリアは、ほっと息をついた。しかし、まだ油断のできない状況なのは変わりない。

 彼の無事な姿を確認出来ていないうえに、サリアが覗いた領主たちの倒れている部屋の謎も残されている。

 サリアは、その領主たちの部屋を指差して、再びムイに尋ねた。


「あの部屋の中、何があったの?」

「別にどうってことないわ。ただ、みんな私が魔法で眠らせただけなの。この腕を見て、勝手に騒ぎ出すから」


 ムイはそっけなく、だが冷え込んだ声色でそう言い放った。何も持っていない左手が、無意識に右腕の鱗を擦っている。


 サリアは、そう言われてどのように反応すればいいのか戸惑っていた。

 確かにムイの腕を見た時に一瞬驚いたが、普段は翼の生えた人間と一緒に暮らしているサリアにとっては、それくらいの違いで騒ぐのは可笑しいように感じていた。

 加えて、あの部屋に散らばっていたマケット銃を見ると、ムイはそれらを向けられたのかもしれない。ムイに何か慰めの言葉を掛けたいと思ったが、このようなことに慣れてしまっている様子の彼女には、如何なる言葉も空虚に響くのかもしれないと、考えてしまった。


 迷っているサリアの様子を察したのか、次はムイの方から口を開いた。


「あなたは、私の腕を見ても驚かないのね」

「ええ、フリッツと再会してから、今まで不思議なものばかり見てきたから、きっと慣れたと思うわ」


 そう答えたサリアは、にっこりと笑いかける。

 するとムイは、サリアから礼を言われた時のように、たじろいていた。


「この腕を見た上で、笑顔を見せてきた人間も、初めてよ」

「そう、色々あったのね……」


 ムイの言葉の裏側を読み取り、サリアは小さく溜め息を吐いた。

 しばらく、ムイは無言で板張りの床を見ていたが、漣を立てるようにサリアに語りだした。


「昨晩、彼の記憶を魔法で覗いてみたの。雛鳥の時にあなたと出会ってから、教会での再会、あなたとの暮らし、グミの実を取りに行く最中まで。彼は、思い出の中であなたの事を大切に思っていて、彼もあなたから大切に思われていることが、よく分かった。人間と、化け物と呼ばれている存在が、そんな風に心通わせている様子を、私は初めて見た。だから、二人の絆を、確かめてみたいと思ったの」


 ムイの最後の言葉の意図が読めずに、サリアは小首を傾げる。

 その時、二人の立つ廊下の左側の扉から、ばたばたと何かが暴れるような羽音が響いた。


 サリアははっとして、固く締められた扉を見つめる。音は激しさを増し、羽音と共に何かがぶつかる音もする。

 それが、フリッツによるものだということは、直接見ずとも予想がついた。


「……フリッツに、何をしたの」


 不安と怒りが渦を巻き、それでも激高することはせずに、両手の拳を強く握って、サリアは絞り出すように言った。その声は、自分でも聞いたことないほど低く、震えていた。

 対してムイは、泰然自若として、やはり伏目のまま、訥々と喋りだす。


「彼の記憶を封印したの。今は、あなたの事やどうしてこの姿だったのかすら忘れて、辛うじて鴉として生まれた瞬間しか覚えていない状態よ。気が付くと、自分は人間に近い姿になっていて、何故だか人間の言葉や知識も頭の中にあって、けれどもその理由が全く思い出せないから、彼は今混乱の極致にいるようね。本当は、元の鴉に戻す魔法を掛けたかったけれど、悪魔との契約が強かったせいね、跳ね返されて、出来なかったわ」

「どうして、そんなことを……」


 サリアはただ、今にも泣きだしそうな顔でそう呟くしかなかった。

 あまりに衝撃の大きいムイの告白に、怒り出す気力も失っていた。


「……あなたたちに恨みもないし、あの男に恩を売る理由もない。これは完全に、私の為なの。人と、それ以外の生き物の間にある絆を確かめたいがために、あなたたちに目を付けただけよ」

「絆を確かめたい?」


 サリアが瞬きしていると、ムイは小さく頷き、顔をさらに俯かせて、続きを話し始めた。


「私は、人間の父と、蛇の魔物の母との間に生まれた」


 ムイはそう言いながら無意識に、自分の腕の鱗を触っていた。


「私の物心つく頃には、父は病気で亡くなっていて、母からいつも父がどれほど母を愛していたのかを聞かされながら育った。幼い私は、それを全く疑わなかった」


 自分で言葉を探すかのように、ムイは下に向けた目を泳がせながら、ゆっくりゆっくり話している。

 自分自身の生い立ちを語るのは、辛ものがあるのだろうと、サリアはフリッツの様子を気にしながらも、根気強く彼女の言葉を待った。


「成長した私は母のもとから旅立った。自分の魔法で、困っている人を助けるんだと、希望で胸を膨らませながら。だけど、出会った人々は皆、私の姿を見ただけで悲鳴を上げて逃げ出した。殺されかけたことも、数えきれないくらいあった。そうして段々と、自分の心が閉ざされていくことがよく分かった。だから、体の蛇の特徴を隠して、正体が気付かれないように各地を転々としながら、占いなどで最低限のお金を稼いで暮らしていた」


 ムイの声は、当時の事を思い出しているのか、小さくて消え入りそうだった。

 それを聞いているサリアも、まるで自分の事のように、胸の締め付けられるような思いを感じていた。


「もちろん、優しくしてくれる人もいた。けれどもそれは皆、魔女や私と同じような魔物との間の子で、純粋な人間は皆、驚くか恐怖するかの反応しか見せなかった。だから私の中に、父と母との仲を疑う気持ちが芽生えてくるのに、それほど時間はかからなかった」


 静かに息を吸ったムイは、抑えられなかった感情を吐き出すかのように、突然語気を荒げて喋りだした。


「父は、魔法が全く使えない普通の人間だったと言う。そんな人間が、完全に『化け物』の姿をした母を、愛するなんてあり得るのだろうか? 母は、人の心を操る魔法が得意だった。それを用いて、父が自分を愛するように仕向けていただけなのではないのだろうか? そんな、二人の娘として考えてはいけないことまで、頭を過ってしまった。けれども、その考えは、私の中で、どんどん大きくなっていき、歯止めが利かくなって……」


 ムイの声は、段々と小さくなり、一度途切れた。

 丁度その時、フリッツの暴れる音も止んだ。

 フリッツの仮面の輪郭を優しく撫でながら、ムイは言葉を紡いでいく。


「そんなある日、この近くの町で占いをしていた時に、私はそこの領主に呼び出されて、あなた達の話を聞いた。人間と『化け物』が仲良く暮らしているなんて、まるで両親のようだと思った。でも、本当にそんなことがあり得るのだろうか? 事実を確かめるために、私は領主に話を合わせて、数日間あなたたちを観察したり、実際に記憶を見たりもした。そして、二人が損得とか関係なしに、互いを信用していることは分かった。それでも、まだ完全に信じ切れない私がいる。あともう一押し、あなた達を信じる何かが、欲しかった」

「私たちを試すために、フリッツの記憶を消したのね」


 ドレスの捲し上げた裾をぎゅっと握ったサリアに対して、ムイはしっかりと頷いた。


「全て私のわがままだということはよく分かっている。でも、人間と『化け物』が愛し合うことが出来るのなら、私の両親の愛も、本物だという証明になるような気がして。もしも、あなたのことを今の彼が受け入れたなら、彼の記憶を元に戻すと約束するわ」


 そう言いながら、ムイはズボンのポケットから鍵を取り出し、フリッツの仮面と共にサリアに差し出した。

 そして初めて、顔を上げてサリアを正面からサリアを見た。


 ムイの緑色をした瞳は、彼女の生い立ちが由来しているのか、まるで蛇のように縦に細長い形をしていた。この瞳が、人々に怖がられていたのだろう。


「私に、見せてほしいの。あなたたちの絆を。あなたたちの愛を」


 サリアは、驚きも騒ぎもせずに、ムイの目を真っ直ぐに見据えて固く決心の結ばれた表情で、彼女から仮面と鍵を受け取った。

 そして、左側の扉に行き、躊躇なくそれを開けた。


























 部屋の中は、太陽の光が殆ど届かず、薄暗かった。それでも、部屋の真ん中に巨大な檻が置かれ、その中に人影が一つあることは辛うじて見えた。


 フリッツは、檻の出入り口のすぐ側で、満身創痍の様子で座り込んでいた。虚ろな目をして、だらしなく垂れた翼は地面についている。

 服装も髪の毛も乱れて、きっちりとしているいつもの彼とは正反対の姿をしていた。そして、疲れ果てたフリッツは、サリアが部屋に入ってきたことにも気付いていない。


 サリアは、この状態のフリッツを見て、心臓が早鐘を叩いていたが、それは表に出さず、口元に優しい笑みを湛えながら、少しずつ彼の方へと歩み出した。

 その足音に気付き、フリッツが顔を上げる。サリアを見ても、彼は怯えた表情を見せて、座ったまま後ずさった。


 檻の前まで来たサリアは、ムイから預かった鍵を用いて、さらに中へと入っていく。

 フリッツは、困惑を滲ませながら、彼女から出来るだけ距離を取ろうと下がり、とうとう檻の反対側にぶつかってしまった。


 痛みに顔を歪めるフリッツの前で、サリアはぐしゃぐしゃになったドレスで、右手には彼の仮面を強く握ったまましゃがみ込んだ。

 フリッツにかける言葉は、歩きながら決めていた。にっこりと笑みを浮かべて、口を開く。


「初めまして。あなたの名前はフリッツ、私はサリア。あなたの事を、誰よりも愛しているの」


 突然目の前に現れた少女の言葉に、フリッツをきょとんとしていた。

 彼女の言葉の意味は分かっていたが、何故か自分が人間のような姿になっている上に、自分の事を愛しているという人物が登場してしまい、フリッツの頭は混沌の中に投げ込まれてしまったかのように感じていた。


 しかし、不思議とサリアと名乗る彼女に対して、恐怖感は抱かない。その理由は、彼女が笑っているからというだけではなさそうだった。

 だから、檻が開いた今でも、そこから飛んで逃げ出そうとはせず、彼女の声に耳を傾けていた。


 サリアはゆっくりと、いつもの編み物をするように、自分とフリッツの思い出を語り紡いでいく。


「あなたは、私の家の庭の木の上で生まれた。体はとても小さくて、翼には白い羽も混じっていたから、他の鴉にいじめられるんじゃないかって心配だったけれど、あなたすくすくと大きくなって、兄弟の中で一番最後に、無事に巣立っていった。それから五年間、私たちは一度も会えなかったけれど、あなたはきっと、ずっと私の事を思ってくれていた。だから、私が不本意な結婚をされそうだった時に、自分の言葉を捨てて、教会まで私を助けに来てくれた。私はあなたが死んだものだと思っていたから、あなたが生きててくれただけでも本当に嬉しかったのに、森の中の塔で一緒に暮らせると分かった時はもっと嬉しかった。塔の生活は今までのとは全く違ったものだったけれど、あなたがそばにいてくれる、それだけで幸せだった」


 その言葉に耳を傾けるうちに、フリッツの心は、混乱の波が徐々に収まっていき、落ち着きを取り戻しつつあった。

 サリアの話を聞いても思い出せるものは何一つなかったが、今得たこの安らぎは、ずっと彼女の側にいたからであろうかと考えていた。


「私たちの生活は、いつも楽しいものばかりではなかった。苦しい事や怖かった事だってあった。穏やかで、何でもない日だってたくさん過ごした。でも、それらも全て愛おしくて、大切な思い出で……」


 話を続けていたサリアだったが、ここまで言って、突然涙が溢れ出そうになり、慌てて天井を仰いだ。

 それを見るとフリッツは、急にそわそわしだす。今の彼には全く知らない人の筈なのに、彼女の涙は、どんな理由があっても見たくなかった。


「ごめんなさい、やっぱり記憶を封印されたっていうのが、結構堪えていたみたい。どうでもいい思い出なんて一つも無くて、あなたがそれらを忘れてしまっているのが、とても悲しいの」


 サリアは涙を拭って、気丈に笑って見せた。

 フリッツは無理をしている彼女の笑顔に、どのような反応をすればいいのか、何か言葉をかけてあげたいが、口がぱくぱくと動くだけで、何の意味を模らない。


 サリアは少し俯いて、「でも、大丈夫」とだけ呟き、再びフリッツの、痣だらけの顔を見詰めた。


「これから、今までに負けないくらいたくさんの思い出を作っていけばいいから。不安な事もたくさんあるとは思うけれど、フリッツがどんな姿をしていても、私があなたを愛していることには、何ら変わりがないから。私の事を信じて、一緒に帰ろう」


 サリアは力強い笑顔で、フリッツに手を差し伸べていた。

 あの日、教会とは逆に、今度は自分がフリッツを守っていくのだという決意と共に。


 一方フリッツは、サリアの笑顔を見上げながら、生まれて初めて目にした太陽の光を思い出していた。

 何も覚えていない自分でも、この輝きの源が愛と呼ばれるものだということは知っている。

 そのため、フリッツにも、彼女の手を取らない理由はなかった。安堵した表情でサリアの小さな手をぎゅっと握り締め、その場に立ち上がる。


「ありがとう、フリッツ。わたしを、しんじて、くれて」


 サリアは笑顔のままだったが、早くも涙声になっていた。

 するとサリアが泣き出してしまうと思ったフリッツは、慌てて両手でその手を握って、弱々しくも笑ってみせる。焦りからか、まだ慣れていない背中の翼がばさばさと鳴っていた。


「フリッツこれから、よろしくね」


 仮面を持ったままの右手の甲で、涙を拭ってサリアが笑うと、フリッツは力強く頷いた。






















 サリアとフリッツの不器用なやり取りを、領主たちが倒れている部屋の中でムイは水晶玉を通して終始見ていた。

 ちなみに、この水晶玉に映像を送っているもう一つの水晶玉は、向かいの部屋の隅にこっそりと隠しおいていた。


 フリッツがサリアの手を取った瞬間、ムイは背負っていた重りを下ろしたかのように、すっと心が軽くなるのを感じた。

 ムイは初めて、人間と『化け物』が心を通わせた瞬間を目にした。フリッツの記憶を覗いても、未だにサリアとの絆を疑っていたムイも、その瞬間には胸を打つものがあった。


「お父さんとお母さんも、こうだったのかな……」


 二人の姿に、会ったことのない父と蛇の魔物の姿をした母の姿を重ねていて、ムイは知らずに微笑んでいた。

 しかし、いつまでもこうしている場合ではない。二人がまだ檻の中にいる間に、ムイはサリアとの約束を果たそうと、水晶玉に手を翳した。そして、再び呪文を唱える。


 すると檻の床に再び青白い文字の魔法人が浮かび上がり、水晶玉に映っていたフリッツが、突然倒れ込んだ。

 檻の中で慌てるサリアを横目に、ムイは部屋の中に倒れたままの領主たちの姿を見渡した。


「今まで私のわがままに振り回してきたんだから、ちゃんと埋め合わせをしないとね」


 ふと、小鳥の泣き声が聞こえて、ムイは顔を上げて窓の外を見た。硝子の向こうの世界は光と緑に溢れていて、風に乗って三匹の小鳥が飛んでいく。

 下ばかり見ていたから、夏がこれほど近くに来ていたことに、全く気付いていなかった。


「これからは、私も前を向いて歩いて行きたいな」


 晴れ晴れとした顔のムイの呟きに返事をするように、小鳥が再び鳴きながら飛んで行った。
























「フリッツ! どうしたの、フリッツ!!」


 魔法陣の光が消えても、まだ倒れたまま目を閉じているフリッツを、サリアは必死に揺さぶって、起こそうとしていた。

 しばらくして、ゆっくりとフリッツが目を開いた。それから、体を半分起こすが、頭が痛むのか、放心状態のまま額を抑えている。


 サリアはフリッツの顔を覗き込みながら、彼に声を掛ける。


「フリッツ、大丈夫? 頭痛がするの?」


 その時、屈んで膝の上に置いていたサリアの左手を、フリッツが優しく手に取り持ち上げると、彼女の左手に自分の唇を重ねた。


「えっ……」


 嬉しいながらも驚きを隠せないサリアだったが、以前サリアの告白を聞いた後に気絶したフリッツに対して、「私のことを愛していたら、口づけしてほしい」という願望を呟いていたこと思い出す。

 それはフリッツ自身に実は聞かれていた上に、彼の記憶が戻ったことを現していた。


「……フリッツ、記憶の封印が解けたの?」


 サリアの問いに、フリッツは赤くなった顔を上げて、頷いた。

 その瞬間、サリアの胸底からこみ上げてくるものがあり、抑えきれずに彼女はフリッツに飛びつき、今度は自分の唇を彼の唇に重ねた。


「!!?」


 突然の出来事に、顔を真っ赤にして目を白黒させるフリッツだが、サリアは中々離れようとしない。

 やっと唇を離したサリアだったが、その両腕はフリッツの首元から離れずに、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、フリッツを見上げていた。


「良かった、本当に良かった……」


 再びフリッツに抱き着いて、サリアはしゃくり声を上げていた。

 フリッツの前では安心させようと振る舞っていたが、やはり彼の記憶が失われたことが、自身でも分からないほどの大きな衝撃だったらしい。


 子供のように泣きじゃくるサリアを、フリッツは優しく抱きしめた。閉じた瞼の裏では、サリアといつの日か見た流星群を思い浮かべていた。

 あの時、流れ星に願い事をすれば叶うとサリアから教えてもらったフリッツは、サリアといつまでも一緒にいたいと願った。

 その願いが今、確かに叶ったように感じた。


 しばらく泣いていたサリアだったが、はっと何かを思い出して顔を上げた。


「そうだ、ムイにもう一度会わなくちゃ」


 ムイとはまた、きちんと話をしたいとサリアは思っていた。彼女が自分たちを見て、どのような結論を出したのかが気になっていた。

 フリッツの記憶の封印を解いてくれた点から、サリアとフリッツの絆を認めてくれたようではあるのだが。


 フリッツも真剣な表情で頷いてくれたので、サリアと二人で部屋の外に出る。しかし、廊下にムイの姿はなかった。


「どこに行ったのかしら」


 サリアがきょろきょろとあたりを見渡していると、フリッツは玄関近くに落ちている一枚の小さな紙に気が付いた。

 それを拾い上げてみると、裏に文字が書いてあったため、サリアを手招きして、共にそれを読んだ。


『あなたたちを今まで振り回してごめんなさい。お詫びにはならないけれど、領主のサリアに対する執着心を魔法で全て消したから、もうあなたたちの前に現れないと思う。二人の塔での暮らしが、穏やかでいつまでも続きますに』


 サリアは読み終わるとすぐに領主達のいる部屋の扉を開けてみたが、そこにムイの姿がなかった。

 サリアが悲しそうな顔を見せると、フリッツも仕方ないというように首を振った。


「きっと、ムイとまた会えるよね? その時は一緒にお茶しながら、たくさん話をしたいな」


 隣に戻ってきたサリアの寂しげな横顔に、フリッツはこくりと頷いた。


 それから、二人で外に出た。

 ずっと薄暗かった小屋から出ると、外の日差しはただただ眩しい。目を細めるサリアに、フリッツが彼女を抱き上げようと手を伸ばした。


「あっ……」


 それに答えようとしてやっと、サリアはずっとフリッツの仮面を右手になったままになっていることを思い出した。布製の仮面は、くしゃくしゃに皺がついている。


「ごめんなさい、皺になっちゃった」


 申し訳なさそうに仮面を差し出したサリアに、フリッツは気にしないでというように笑って手を振り、仮面を受け取った。

 そして、その仮面をズボンに入れて、サリアを抱き上げると翼を大きく羽ばたかせて、空へと飛び上がった。


 フリッツの翼が風を切る音に耳を澄ませながら、サリアは自分たちの住む塔へと向かっていた。眼下に広がる森の緑は、夏の陽光を浴びようと、精一杯背伸びしているようだ。

 前を向いて、濃い青空の中を白い雲がのんびりと流れている様子を眺めていたサリアは、フリッツへと話しかけた。


「今日は本当に長い一日だったね。フリッツも、一日半も檻の中にいて、疲れたでしょ? 先にお風呂に入ろうか、それともご飯を食べようか」


 するとフリッツは、唇を固く結んで、真剣に悩みだした。

 彼の顔が可笑しくて、サリアはふふっと笑い出していた。

 不思議そうにサリアを見つめるフリッツに、彼女が返した。


「私たち、恋人同士になっても、あまり変わらないなって思っちゃって」


 恋人と言われて、急激にフリッツの顔が赤くなっていく。誤魔化すように、彼は前を向いて、飛ぶ事に専念した。

 でも、このままで良かったと、サリアは心の中で続けた。二人の間に愛が息づいていることを確認できただけでも、いつもの日常が、また別の輝きを持つように感じられた。


 サリアは初めて塔に来た時のような浮き立った気持ちで、これからの事を考えていた。

 必ず夏至祭りにはフリッツと一緒に行こう。それ以外の日も、フリッツと町に出掛けて買い物をしたい。その前に、まずは今日のお昼ご飯をどうしようか。


 楽しそうな笑みを浮かべていたサリアの前に、二人の暮らす石造りの古い塔が見えてきた。

 上から見ると鍵型の変わった形の塔だが、最早サリアとフリッツにとっては馴染み深いものであり、今は目にしただけでも安心する建物だった。


 見えてきたかと思うとすぐに、フリッツは最上階の窓枠に飛び移った。最初にフリッツがサリアを下し、次にサリアがフリッツの手を取って、部屋の中に入った。


 そうして二人並んで、改めていつも見ているこの部屋を眺める。左手の暖炉、右手側のサリアのベッド、向かいの台所、風呂場前の新しく設置された梯子、そして真ん中の机。

 

サリアが飾ったり、育てたりしている花の香りが、微かに香ってくる。領主の襲撃の時につけられた銃痕が残っていたが、それも最早景色の一部と化していた。


「ただいま」


 サリアの声に、フリッツが頷く。二人とも笑顔だった。


 こうしてまた、サリアとフリッツは、穏やかで静かで、なんも変哲もないが幸福な日々が始まった。


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娘と鴉 夢月七海 @yumetuki-773

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