娘と鴉3


 ……体中が痛む。心臓の鼓動が鳴る度に、鈍い痛みが全身に走る。


 出血はそれほど酷くなかったが、内臓への損傷が激しい。片翼も折れてしまっているようだった。

 足の指一本も動かせず、森の中で翼を広げたまま倒れているだけ。瞬きすら、出来なくなっている。


 森の中、地面からの噎せ返るような枯葉の香りを常に嗅ぎながら、彼は後悔の念に押し潰されていた。

 自分をこのようになるまで、石を投げたり棍棒で叩いたりしてきた男達への怒りは殆ど無い。ただ、悲しそうな顔をした彼女を救えなかった悔しさだけが、彼を苛める。

 体の痛みが増していくと、彼の後悔もさらに押し迫ってくる。自分がもっと強かったら……、こんなちっぽけな鴉の姿ではなかったら……と、本末転倒な事まで考えてしまう始末だ。


 その時、四足歩行の獣の足音が、こちらに近づいて来た。

 茂みから彼の目の前に現れたのは、一匹の犬だった。体全体は黒いが、足と口周りと、ピンと立った耳の中が橙色で、尻尾の短い、見たことのない種類の大きな犬だった。


 犬は真っ直ぐにこちらへと向かってくる。

 彼は犬に食われることを覚悟して、身を固くした。しかし犬は、彼に顔を近づけて匂いを嗅ぐだけだ。


 一方彼は、犬の顔を目の前にして、恐怖よりも違和感を抱いていた。見た目は犬だったが、気配が犬のものと多少異なっているように感じる。

 彼は不思議がっている間も、犬は遠慮なく匂いを嗅ぎ続けている。すると、犬が出てきた茂みから、今度は人間の声が聞こえてきた。


「ジュリアン、どうしたんだ?」


 姿を見せたのは、薄い茶髪と血のように真っ赤な瞳をした、目鼻立ちのくっきりとした中肉中背の男だった。

 シャツ一枚に足元はブーツと動きやすい格好で、藍色の鳥打帽を被り、背中には背嚢を背負っている。


 彼は、男のことも本当に人間なのかと疑っていた。黒い犬と近しい気配を感じる。しかし、何故か男に対して親近感が湧いていた。


 ジュリアンと呼ばれた犬は振り返り、男は彼を見つけると目を丸くして歩み寄ってきた。


「こいつ……鴉か? 酷い怪我だな」

「俺が見つけた時にはこうなっていた」


 犬はごく当たり前のように口を開き、人間の言葉を喋った。それを聞いた男も、「ふーん」と何でもないように受け止めていた。


 彼も、さほど驚きはしなかった。不可解な気配を漂わせる二人なら、会話を交わしても可笑しくないと思っていたからだ。

 ジュリアンは、こちらに向き直ると真っ直ぐに彼を見詰めた。意識を集中させているようである。しばらくすると、頭の中にジュリアンの声が響いた。


『その怪我は、一体どうしたのだ?』


 彼は、ジュリアンが人間の言葉を喋った時よりも驚いた。

 人間以外の動物同士は、意識を集中させると思念で話すことが出来るのは知っていたが、仲間の鴉以外にそのようなことをしてくる物好きはいなかったからだった。


 彼は痛みに耐えながら、それに応える。

 わざわざ理由を尋ねてくることから、犬と男には敵意がないと判断したからだ。


『友達を、助けようとしたからなんだ。悲しそうな顔をして、嫌な場所に連れて行かれようとしている、大切な友達を……』


 彼はその友達の少女の家の庭で生まれ育ち、五年前にそこから旅立っていた。だが、時々彼女に見つからないように、家を見に来ていた。

 いつもどこか悲しそうな顔をしていた彼女だったが、ある時から悲しみの影が色濃くなっていた。

 それから新しく家に出入りするようになった人々を観察し、彼女は好きでもない相手と一緒にされそうになっていることを知った。


 彼はいてもたってもいられなくなり、人間たちが「結婚式」という儀式を行う場所に飛び立っていた。

 そこで、不吉の象徴として忌み嫌われる鴉が居座っていれば、式を開くのを諦めてくれるだろうと考えていた。


『でも、出来なかった。地面に落とされて、殴られてぼろぼろに……。情けないよ。サリア、ごめんよ……』


 最後に飛び出したのは、目の前のジュリアンに対してではなく、遠くへ行こうとしている友達への謝罪だった。体が痛むのも構わずに、彼は小さく震えている。


 ジュリアンが彼の言葉を男に伝えると、男は真剣な顔をして腕を組み、何かを考えているようであった。

 そして男はにやりと、口元だけで冷ややかに笑った。


「お前、まだその子のこと、諦めてないだろ」


 胸の内で未だ燻る思いを見破られ、彼は激しく動揺した。

 サリアを助けたいという気持ちが、この状態になっても消えるところか、さらに強くなっている。

 しかし、もうどうしようもない、万策尽きてしまったと、彼が男に何と返答すればいいのか思いあぐねていると、男は彼の前で腰をかがめた。


「俺なら、お前の願いを叶えることが出来る。ただ、お前から代償をもらうけどな。どうするか?」


 再び、不敵に男は笑う。

 その言葉が嘘ではない事はわかっていた。だからこそ、彼は深く悩まなかった。


『代償なら、なんでもくれるよ。だから、僕に彼女を救い出せる力を』


 ジュリアンを通してその言葉を聞いた男は、「いい返事だ」と言って小さく笑ったが、すぐに真剣な顔になった。


「だが、俺に出来るのはお前に力を与える事だけだ。余計なお世話かもしれないが、その子救い出した後はどうするつもりだ?」

『横槍を入れるようだが、必ず追っ手は来るだろうな。いくら力を手にしたとはいえ、ずっと彼女を連れて逃げ続けることは難しい』


 ジュリアンも、心底心配そうな様子でそう尋ねてきた。

 彼は、奇妙な雰囲気を漂わせながらも妙にお節介な一人と一匹に大きな信頼を寄せ始めていた。その為、正直に『大丈夫』と答えた。


『近くの山の中に、石造りの塔がある。今は誰もいないが、人が住んでいた形跡があって、中にあるものもいくつか使えると思う。そこに彼女を連れて行く』


 以前、森の中で大雨に見舞われた際に、彼はその塔を見つけて、そこで雨宿りをした。それから時々、寝床代わりにそこを訪れるようになった。

 他の鳥と違い、人間の家の近くで生まれ育った彼は、人工物をあまり恐れなかった。その塔の内部には階段がついていたが、途中で崩れており、野生動物も入ってこない。


 男はそれを聞いた後、「意外と考えているな」と顎に手を当てて感心していた。 しかし、これは彼が先程力を手にしたらどうするかを考えた時に思い付いた案であり、元々は教会から人を追い出すという行き当たりばったりな事しか考えていなかった。彼は自嘲を心の中で浮かべていた。


 男がじっと彼を見詰めながら尋ねる。


「そこには紙やペンは置いてあるか?」

『あったと思う』

「あったらしいぞ」

「それなら、その塔で契約を結んだ方が早いな」


 男は一人納得したように呟くと、何も言わずにひょいと彼の体を抱きかかえて、立ち上がった。


 彼は勿論驚いたが、抵抗する力などはない。しかし、打撲だらけの体を直接触られても、痛みはほとんど感じなかった。

 その時になって初めて、彼は男たちと会話を交わす度に、自身の痛みが少しずつ引いていることに気が付いた。


 だが、次の瞬間、彼のその疑問がは跡形もなくどこかに吹き飛ばされてしまった。


「じゃあ、早速、その塔に案内してくれないか?」


 男は赤い瞳を好奇心に輝かせながら言った。

 と同時に、男は背中に真っ赤な翼を生やしていた。ただそれは単純な赤色ではなく、橙や黄色や紅など、炎のような複雑な色合いにきらめいていた。


 彼は人間の背から生えた、美しい翼に目を奪われていたが、恐怖感は沸かなかった。しかし、また別の疑問が頭から滑り落ちてきた。


『君は、一体、何者なんだ……』

「おい、お前の事を何者だと言ってるぞ」


 男の足元にいた犬が、面倒臭そうに彼の言葉を訳した。

 それを聞いた男が、「そういえばまだ名乗っていなかったな」と失念したように言い、改めて彼の方に目を向けた。


「俺は、カーディナル・スタンダール、悪魔だ。こっちはジュリアン。お前の名前は?」


 悪魔、という種族を、彼は初めて聞いた。見た目は人間と似ていたが、根本から違うのだろう。

 それを感じ取ると、彼は今までこのカーディナルという男に違和感を抱いていたことも納得できた。ただ、犬の正体は説明されていないが、ジュリアンもカーディナルと気配が似ているため、悪魔なのだろう。


 彼は自身の名前を尋ねられて、沈黙する。彼にも母からもらった名があった。

 しかし、ここでは友達からつけてもらった名を語っていた。


『僕の名前は、フリッツだ』

























 フリッツの案内でカーディナルは空を飛び、石造りの廃墟の塔に辿り着いた。

 右手にフリッツを、左腕でジュリアンを抱えていたが、彼は涼しい顔をして飛んでいた。


 ペンと紙の置いてある、塔の上から二番目の部屋へ入る。少し薄暗いその部屋は、誇りと古い本の匂いで充満していた。

 赤い翼をしまったカーディナルは怪訝そうな顔で塔の中に降り立ち、床にジュリアンを降ろす。


「この塔、随分と使われていなかったようだな」

「しかし、物は多い」


 ジュリアンがそう言って辺りを見回す一方で、カーディナルは真正面に机が置いてあるのを見つけると、真っ直ぐそこへと歩んでいった。


 机の上には一本の羽ペンが立ててあり、その傍らにはインクの入った壺が置いてある。

 カーディナルがそれを持って揺らすと、インクの殆どが固まっていたが、上澄みの方が水面を作っていた。まだ少しだけ使えることが分かると、彼はほっとした表情を見せた。


「さて、フリッツくん」


 カーディナルは突然大仰な口調になり、余裕のある笑みを浮かべながら机の上にフリッツをのせる。

 フリッツは戸惑ったが、足に力を入れると、いつも通りに立つことが出来た。痛みは完全に消えたわけではなく、歩くことや羽を伸ばす事は出来なかったが、彼と出会う以前よりもだいぶ良くなっていた。


 不思議がるフリッツとは無関係に、カーディナルは大袈裟に手を広げて話し掛けてくる。


「君は力を得ることを望み、晴れて私と契約を結ぶ決心をした訳であるが、先程も話した通り、その為には代償がいる。しかし、ただ単純に代償と力を交換すればいいという話ではないのだよ。分かるかい?」

「分かるかどうか以前に、なんだその話し方は」


 カーディナルのすぐ横に座ったジュリアンが、冷たい言葉と視線を投げかける。

 それを受けて、カーディナルは肩をすくめた。


「いや、でも、前に契約するためにはこちらに威厳があるように見せた方がいいって聞いて」

「今までの会話から突然この喋り方になったら、威厳があるというよりただただ滑稽なだけだぞ。やめておけ」

「……それもそうだな」


 カーディナルはすぐに自身の可笑しい点を認めて、背もたれに背嚢をかけた机の椅子を引くと、体をフリッツの方に向けたままそれに座った。

 そして、机の上で頬杖をつくと改めて、まだ彼らのやり取りについていけないフリッツへ話しかける。


「簡単に言うとだな、ただ力が欲しいという漠然とした願望だけでは、どのような代償を支払えば釣り合うかが分からないという事だ。『力』と一言で言ってもその種類は様々ある。魔法が使えるようになりたいのか、巨大な姿になりたいのか、とか」

『姿を変えることが出来るのか?』


 フリッツは、カーディナルの言葉を途中で遮り、前のめりになった。

 ジュリアンがその言葉を訳して間もなく、フリッツは次の思念を彼に伝えていた。


『僕は、君のような姿になりたい』

「カーディ、お前みたいになりたいと言ってるぞ」

「俺みたい? 悪魔になりたいってことか? それはちょっと、いや出来ない事はないが……」


 カーディナルは初めて難色を示したが、フリッツは『違う』と答える。


『君のような、人間に翼の生えた姿になりたい。そうすれば、サリアをあの教会から連れ出せるし、ここで一緒に暮らすこともできる』


 知らず知らずのうちに、フリッツの黒い瞳は輝きを取り戻していた。これが彼女の側でずっと守ってあげられる、一番の案のように感じられた。

 それを伝えられると、カーディナルは「なるほどなぁ」と感心したように、腕を組むと椅子の背もたれに身を任せた。


「それは面白い。人間には出ない発想だな」

「それは分からないだろ。そういう考えに至る人間も、どこかにいるのかもしれん」

「つれないなあー、ジュリアンちゃんは」


 カーディナルは口ではそう言いながらも意地悪く笑い、わしわしと乱暴にジュリアンの頭を撫でる。

 ジュリアンは、「やめろ、ちゃん付けするな」と言いながら、嫌そうにその手から逃れようとしていた。


 その時フリッツは、人から撫でられるのを嫌がる犬を始めて見た。

 ジュリアンの事は普通の犬ではないと出会った当初から思っていたが、この一人と一匹の関係も、ただの飼い主と飼い犬の関係ではないのだろう。


 ふと、カーディナルはジュリアンを撫でようとする手を止めた。


「確か、この部屋には箪笥があったな」


 そう言って振り返ると、彼の言葉通り、幾つもの本棚と一つだけの箪笥が置かれていた。

 ジュリアンが匂いを嗅ぎながら話しかけてくる。


「この部屋を使っていたのは男性のようだな。微かに匂いが残っている」

「ちょうどいい。おあつらえ向きだ」


 満足気にそう言って、カーディナルは箪笥の方へ向かった。そして、真ん中の引き出しを豪快に開ける。

 埃っぽい匂いがむわりと舞って、ジュリアンが口を曲げて顔をそむけた。


 カーディナルは箪笥の中からシャツを一枚取り出して、広げてみた。埃の匂いがすることを覗けば、虫食いの跡もなく、白さも保たれているシャツだった。自分の体に宛がってみると、彼より少し背の高い人物が持ち主だったようである。

 カーディナルはそのまま、彼の行為の真意を読み取れないフリッツの方へと体を向けた。


「どうだ? これくらいの大きさなら、女の子を抱えて飛ぶぐらい簡単にできそうじゃないか?」


 そう尋ねられて、やっとフリッツはカーディナルが、この服の大きさに合わせて、フリッツの姿を変えようしていることが分かった。

 わざわざ新しい服を用意する手間を省くためだろう。フリッツは頷いてみせた。


 それを確かめたカーディナルは、次々に引き出しを開け、ここの住民だった者の服を取り出していく。

 その度に埃が舞い、それを嫌ったジュリアンはフリッツの立っている机まで引き返してきた。


『ちょっと、訊いてもいい?』

『なんだ』


 フリッツがジュリアンの方に顔を向けて、頭の中で呼びかけると、ジュリアンは横眼で彼を見て、ぶっきらぼうに答えた。


『さっきまで僕は沢山の人に殴られて、死にかけていた。でも、今は大分痛みも引いている。君たちが何かしたの?』

『悪魔と契約を結ぶと言っただろ。たとえ口約束でも、きちんとした契約書を作る前に死なれたら元も子もないからな。多少だが、寿命が延びているだけだ』


『根本的な事を聞くけど……悪魔って、人間とどう違うの?』

『人間とは色々違うところがあるけどな、一番は魔力を持っているところだ。その魔力のお陰で、人間よりも寿命が長いし、怪我しても回復が早い。それから、その魔力は自分の能力の源でもある』


『その魔力を使って、僕の願いを叶えてくれるのかい?』

『いや、魔力は基本的には一つの能力の為にしか使えない。契約を結ぶとは、契約者の代償を自分の魔力に変換し、相手の願いを叶えるという事だ』


『……結構ややこしいんだね。そこまでして、何で誰かの願いを叶えようとするのだろう』

『さあな。大昔からそうするって決まっていた。天使もこの件に関しては黙認しているらしい』


『そうじゃなくて、君達は、どうして鴉の願いを聞こうとしているのか、気になるんだ』


 今まで、面倒臭そうにだが丁寧に答えていたジュリアンは、目を丸くして、フリッツの方をじっと見つめた。


『そんなことを聞かれたのは初めてだ……。正直、俺にもあいつの考えていることは分からない。多分、いつもの気まぐれだろ』


 ジュリアンは何故か忌々しげに返した。彼の口ぶりから、カーディナルの気まぐれは今に始まった事ではないらしい。

 二匹がそのような会話を交わしている間に、カーディナルは箪笥の中から選んだ服を両手に抱えて、妙に嬉しそうな顔をして戻ってきた。それらの服は、乱雑にベッドの上に投げられた。


「思ったより充実していたな。下着も、靴まで置いてあった」

「しかし、背中の翼はどうするんだ?」

「それは、変身した後に、翼に合わせて肩甲骨辺りを切り裂けばいいだろ」


 ジュリアンの疑問を適度に流しつつ、次にカーディナルは机の引き出しを開けて、中を探り出した。

 そうして見つけ出したのは、二枚の上質な羊皮紙だった。長い間机に入れられていたにも拘らず、何も書かれておらず、目立つ汚れもなかった。


 フリッツがテーブルの上に置かれた二枚の紙を覗き込んでいると、カーディナルは腕を組み、ちらりとフリッツの方を見た。フリッツも彼の方を見上げる。


「これを契約書にする。俺の分とお前の分だな。問題は、お前が支払う代償だが……」


 カーディナルは言葉を切り、微動だにせずにフリッツを見詰めていた。

 沈黙がその場を支配している間、彼の視線は全く動いていなかったが、フリッツはその赤い瞳に、魂の奥まで見られているように感じられた。

 緊張感に、羽毛が逆立っていく。


「……言葉」


 唇だけを震わせて、カーディナルが沈黙を破った。どうやら、見合う代償を見つけ出したようである。


「彼女を守るための姿は、フリッツ、お前が自分を表現する為の言葉が代償となる。それでも構わないか?」

『君は喋ることは勿論、字を書くことも出来ない。聞くことと読むことは可能だがな。だが、人間に近しい姿となっても、彼女と会話することは叶わない。それでもいいのか?』

 カーディナルとジュリアンは、今までの感情豊かだったやり取りが嘘のように、淡々とした様子で語り掛けてきた。

 その冷淡さはフリッツの骨の髄まで震わせて、これが悪魔と契約することなのかと、ひしひしと思い知った。


 しかし、何を差し出すこととなろうとも、彼には二の足を踏む理由とはならなかった。


『それでもいい。覚悟はできている』

「覚悟はできている、と言ってるぞ」

「よし、決まりだな」


 カーディナルがぱんと手を叩くと、張り巡らされていた緊張の糸がぷつんと切れた。

 そして楽しそうに、インク壺の蓋を開けて、羽ペンを右手に握った。


「それじゃあ、契約書の文面は、そうだな、『汝、鴉のフリッツは、悪魔との契約によりて、言葉を代償に大切な人を守る姿を得んことを、ここに記す。』でいいか?」

『う、うん』

「それでいいらしぞ」


 未だ空気の変化に慣れないフリッツとは対照的に、ジュリアンは呆れた様子でフリッツの考えを伝える。

 承諾を得たカーディナルは、妙に嬉々として、羊皮紙の上にインクを充分に染み込ませた羽ペンを走らせた。


「この契約書は、契約が破棄されない限りは、燃やしたり破いたりできずにずっと残るものだからな。威厳のあるものにしないと」

「どうでもいいこだわりだな」


 ジュリアンは退屈そうに欠伸をしていた。

 対してフリッツは、胸を高鳴らせながらじっと羽ペンの動きを見ていた。

 やっと、非力な鴉ではなく、彼女を守ることが出来る姿となって、彼女に寄り添うことが出来るのだ。気分が高揚してくるのも、無理ない事であった。


 二枚目の契約書を書き終えたカーディナルは羽ペンを机に置いて、ジュリアンの方を見た。


「確か、契約書を代筆した場合は、契約相手の拇印か血痕があれば成立するんだったよな?」

「ああ、間違いないな」


 石畳に伏せたジュリアンは、気だるげに尻尾を払いながら答える。

 それを耳にしたフリッツは、自ら契約書に一歩近づき、右の羽の怪我をして血の滲んだ部分を擦り合わせた。

 擦り合わせるときは勿論、足を踏み出すだけでも痛みが走ったが、なりふり構っていられなかった。もう一枚の契約書にも、同じように血を擦り付ける。


 彼の一連の動きを、カーディナルは目を丸くして眺めていた。


「積極的だな。まあ、友達が連れて行かれそうになっているんなら、仕方ないな」

「誰かさんの無駄口の所為で、遅くなっているんだがな」

「うるせぇ」


 ジュリアンの一言を苦い顔をしてぴしゃりと跳ね除けたカーディナルだったが、急ににやりと人の悪い笑みを浮かべた。


「さて……、これで契約が結ばれた」


 カーディナルは音も無くフリッツの体を持ち上げると、椅子から立ち上がった。血のように赤い両目は、らんらんと輝いている。

 その気迫に飲まれ、フリッツは身動きが取れない。


 そして、フリッツを自身の胸の辺りまで持ち上げ、カーディナルはぶつぶつと何かを呟き始めた。なんと喋っているかは聞き取れるが、フリッツが初めて接する言語だった。

 自分を見下ろし未だ呟いているカーディナルの赤い目を見詰める内、フリッツは頭全体が鈍く痛み出し、激しい眩暈も感じ出した。

 静かに、カーディナルはフリッツを床の上に下ろした。ジュリアンは椅子のすぐ隣に移動して、カーディナルと共にフリッツの様子を見守っている。


 眩暈は止まらず、その場でうずくまっていた。目も強く瞑ってしまった。その為、自身の体が少しずつ大きくなっていることに気付かなかった。

 体は大きくなるだけではなく、ごきごきと音を立てて、骨格の方も変わっていく。

 翼以外の羽毛が抜け落ち、黒い足も引き伸ばされたように色が薄くなり、固く鋭い嘴が柔らかく小さくなって顔に収まっていく。


 眩暈によって感覚が感じられなくても、フリッツの体は瞬く間に人間と近付いている。広くなった肩の後ろへと翼は後退し、代わりに脇腹の肉が盛り上がって離れ、腕の関節と掌と指に分かれていった。

 首と顔の輪郭がはっきりと分れる頃には、羽毛は全て抜け落ち、代わりに黒い髪の毛や眉毛などが生え始めていた。


 フリッツは無意識に、出来たばかりの両手で頭を抑え、広くなった足の裏で地面に踏ん張り、綺麗に生え揃った歯を喰いしばって眩暈に耐えていた。

 しばらくして、段々と脳を直接揺さぶられているような気持ち悪さが収まっていき、彼はやっと目を開けた。


 最初にその黒い瞳に映ったのは、自分の腕だった。白っぽくて、あちこちに痣のついている手を、フリッツは何度も半回転させて、裏も表もしげしげと眺めた。

 そして、その手で自分の顔を触ってみる。すべすべとした頬、飛び出た鼻や湿った唇、瘤のある左の瞼も乱暴に触って確かめた。

 顔に触れるたびに、痛みが走るが、興奮した彼はあまり気にしていない。


 ぱあっと花が開くように明るい表情になって、フリッツは視線をカーディナルへと定めた。


「多少問題は残っているが、うまくいったな」


 腕を組んで立っていたカーディナルは、口元を歪めて笑った。

 フリッツはその言葉の意味を吟味せずに、カーディナルに対して感謝と喜びを伝えようとしたが、口がぱくぱくと動くだけで何の音も出てこない。腕を大きく動かしても意味を与えられず、鴉の時の名残か、肩甲骨から生えた黒い翼が落ち着きなく開閉している。


 カーディナルは苦笑を浮かべて、フリッツをなだめるように、その肩に手を置いた。


「言いたいことはよく分かるから、とりあえず服を着ろ」


 はっとして、フリッツは素っ裸の自分の腰を触った。背の高い、程よく筋肉の引き締まった体をしている。すぐ横に置かれたベッドの上の服を着始めた。

 初めての行為なのに、服の着方は分かっていた。彼女を守るための姿を得たと同時に、人間のように振る舞うための知識も手に入れたようだった。

 シャツや黒い背広に、翼を出すための切れ目をカーディナルに入れてもらった点以外は、滞りなく着替えることが出来た。


 これで手筈は整ったと、フリッツが安堵している一方で、カーディナルは渋い顔をして、彼の新しい姿を見ていた。


「お前、その顔のまま行くつもりか?」


 フリッツが首を捻ると、カーディナルは持参していた背嚢の中から手鏡を取り出し、彼の顔に向けた。

 鏡の中には、新しく生まれ変わった自分がこちらを見詰めていた。その顔は青痣だらけで、左瞼の上には瘤も出来ている。視界が悪い事や最初に顔に触った時に違和感があったが、ここまで酷いとは思ってもいなかった。

 フリッツは左頬の一番大きな痣に触りながら、体から血の気が引いていくのを感じていた。


 成り行きを黙って眺めていたジュリアンが、口を開いた。


「顔の傷までは治らなかったようだな」

「体の面積が増えた分、傷も浅くなっているようだが。あの契約内容では、彼女の救出に支障が出る怪我しか回復しなかったらしい」


 カーディナルは渋い顔で語る。

 その言葉も、フリッツの耳には全く入ってこなかった。この顔を、サリアが見たらどう思うのだろうかをずっと考えていた。

 嫌悪することはないだろうが、この怪我を負わせたのは自分だと思い込んでしまうのかもしれない。


「あ、そうだ」


 カーディナルは何か思いついた顔をして、机の引き出しの中を探り始めた。そうして彼が取り出したのは、一つの変わった形の仮面だった。茶色い革製で、目の部分には黒眼鏡が嵌められて、口元は鳥の嘴のような形をしている。

 フリッツがその仮面に釘付けになっていると、カーディナルは仮面の埃を払いながら説明する。


「二百年ほど前に流行った、黒死病の医師が付けていた仮面だな」

「では、ここに住んでいたの医者だったのか?」

「いや、医療器具や医学書が見当たらないから、多分予防のために持っていたんだろう」


 ジュリアンの疑問に答えたカーディナルは、片手で仮面をくるくると回しながら、フリッツに向き直った。


「これを付けていくか?」


 フリッツは唇を真一文字に結んで頷いた。サリアに余計な心配をかけたくなかった。

 カーディナルは仮面をフリッツへと手渡しながら、どこか慰めるように提案した。


「その怪我、時間は掛かるが治ると思うから、その間はつけておくのはどうだ?」


 フリッツは頷いてそれを受け取る。そしてすぐに、顔に嵌めて、後頭部の紐を結び始めた。

 その間、カーディナルはきょろきょろと辺りを見回していた。


「それにしても、ここは随分汚いな。少しでも掃除して帰ろうか?」

「ただの契約者相手に、そこまでしなくてもいいじゃないか」

「いや、ここまで関わったら気になってな……。それに、帰ってもやることなくて暇だし」


 正直なジュリアンに対して、カーディナルは無邪気に笑いかけた。


 仮面を付けて、これも付けとけとカーディナルから渡された白い手袋を嵌めて、黒い帽子も被ったフリッツは、改めて一人と一匹に頭を下げて感謝の気持ちを伝えた。


「おお、様になってるじゃないか」

「結構不気味だがな」

 

 感心するカーディナルだが、ジュリアンはふんと鼻を鳴らした。

 じゃあ最後に、と付け加えるようにカーディナルは契約書を一枚手に持った。


「これは一枚、俺が持って帰るから、もう一枚は大事にとっとけ」


 フリッツが頷くと、カーディナルはにっと笑って親指を立てた。


「上手くやれよ」


 フリッツも親指を立ててそれに応えた。仮面の内側の顔は、真剣そのもので。

 そして窓に駆け足で行くと、枠の上に足をのせて、翼を大きく伸ばした。距離を測り損ねて、翼が枠の上の方に少しぶつかってしまったが、気にしない。そのままの勢いで窓枠を蹴り、宙に飛び出す。


 翼を横に広げて、一回目の羽ばたきをする。多少よろけてしまったが、二回目の羽ばたきでバランスを持ち直し、空へと舞い上がった。

 真っ直ぐに、森の中の教会へと向かう。頭の中では、サリアの笑顔を思い描いていた。
























 ……切り株に座り、フリッツはぼんやりと空を眺めながら、あの日自分がこの姿になった時のことを思い返していた。


 今日は町の方まで遠出して、小麦粉と沢山の野菜を買って帰る途中だった。重たい小麦粉の袋を運ぶ途中で、山の中の開けた場所に残された切り株に座り、少し休憩していた。


 悪魔と契約した日から、早一月と数日が経っていた。

 あれ以来、フリッツはカーディナルとジュリアンとは会っていない。

 サリアを連れて戻って来た時にはもう、彼らの影も形も見えなくなっていたが、塔の中が綺麗になっていた点を見ると、本当に掃除してくれたらしい。そのお礼を言いたかったが、彼らがどこに帰っていったのかすら見当もつかなかった。


 その間に、様々な出来事が起きた。一度、サリアが寝ているフリッツの仮面を外したことがあった。

 あの時は驚きのあまり外に飛び出してしまったが、自分と彼女の関係をあのままにしてはいけないと、素顔のままでサリアと向き合うことを選んだ。

 それが功をなして、今ではサリアとの距離が縮まったと、フリッツは顔に嵌めた鳥のような仮面の輪郭をなぞりながら考える。


 それから一度、領主がサリアを連れ戻そうとやってきたことを思い出した。

 領主と共に現れた私兵にマケット銃で塔の中を撃たれてしまい、非常に危険な状況だったが、サリアが領主に珍しく怒りの形相で抗議をしたため、大事には至らなかったこと……そしてその際に、フリッツの事を「好き」だと、改めて向き直った状態で自身の本当の気持ちを口に出そうとしていたことを思い出してしまい、フリッツは誰も見ていなくても真っ赤になって俯いた。


 あの時のフリッツは突然の事に目を回してしまい、気を失って彼女の言葉を最後まで聞けなかったが、その心の内は十分に伝わっていた。

 いつの日か必ず、サリアの気持ちに応えなければならない事は、よく分かっている。


 勿論フリッツにはサリアの事を嫌っているのではなく、むしろ同じ日々を過ごしていくうちに彼女が「友達」から「大切な人」だという認識に変わっていったという自覚もあった。

 しかし、いざ彼女に口づけするとしたら……そう考えると頭の中が沸騰して、真っ白になってしまった。このままではいけないと、フリッツは片手で火照った顔を仰ぎながら考える。


 だが、サリアの告白をすぐに受け入れる気骨が足りない事も、意識していた。幸い、あの日以来サリアは特に何も言ってこない。

 これからゆっくり、時間が解決してくれるのだろうと、フリッツは無理やり気長に構えることにした。


 そろそろ戻ろうかと、フリッツは立ち上がり、大きく伸びをする。そして小麦粉の袋を抱えて、野菜の入った籠を腕にかけると、悠々と翼を広げて地面を蹴った。
























「あ、おかえりなさい」

「おう。久しぶりだな」


 塔に帰ってきたフリッツを出迎えたのは、テーブルに座っていたサリアと、彼女の向かいに座っていたカーディナルの姿だった。よく見ると、彼の足元には伏せたまま目を閉じているジュリアンもいる。

 テーブルの上には、湯気を立てているティーカップが二つと、皿に山盛りになったクッキーが置いてあった。


 フリッツはカーディナルの方へと歩きながら、仮面を取って驚いている顔を見せた。

 突然の訪問にも驚いたが、先程までカーディナル達の事を考えていたために尚更だった。


「元気そうで何よりだな」


 カーディナルは椅子から立ち上がり、両手を出してフリッツに握手を求めた。

 フリッツも持っていた荷物を降ろして、笑顔で彼の手を握り、強く手を振って頷いた。それから、小首を傾げて、彼の突然の訪問の理由を聞こうとした。


「いや、別に深い意味があって来たわけじゃあないんだよな。この近くの町に来ていたから、そういえばお前はどうしてるかなって気になってな」

「正確には、あの町に友人を訪ねに行ったが、たまたま留守だったため、せっかくだから寄っただけだ」


 興味なさそうに眼を閉じたまま、ジュリアンが注釈すると、カーディナルは振り返って苦虫を潰したような顔になり、「本当のこと言うなよ」と抗議した。


 そのようなやり取りを見て、サリアはふふっと笑い声を漏らした。

 ジュリアンが口を開いたのは彼女の前で最初ではないのか、犬が人の言葉を喋ったことに対しては特に驚いていない。


「カーディナルさんの訪問がいきなりだったから、私、付けてたなべつかみを投げようとしちゃった」

「悪魔だから、石とか水とかを投げ付けられるのには慣れっこだったけど、鍋掴みは初めてだったな」


 カーディナルは何故かしみじみとした表情で言う。

 するとサリアは、本当に申し訳なさそうに頭を下げた。


「ごめんなさい。数日前に領主が塔に来てから、神経質になっちゃてて……」

「気にしてないって。そりゃ、背中から翼を生やして、犬を小脇に抱えた男がいきなり窓の外に現れたら、誰だって驚くから」


 妙にへらへらとしながらカーディナルが返した。

 それから、サリアが「フリッツもお茶する?」と尋ねてきたため、フリッツは小麦粉と野菜は暖炉のわきに置き、改めてサリアの隣に腰を降ろした。彼女の入れていくれた紅茶を飲み、ほっと息をつく。


「そういえば、領主がここに来たのか?」


 カーディナルが何気ない口調で、皿の上のクッキーに手を伸ばしながら尋ねた。

 サリアが一瞬だけ体を強張らせたのを、フリッツは気付いていた。しかし、彼女は無理やり笑顔を作って話し始めた。


「ええ。ほんの数日前に。塔に入れずに、すぐに帰っていったので、私たちは大丈夫でしたよ」


 フリッツもその言葉に、真剣な顔で頷く。

 カーディナルはしばらくクッキーをじっくり味わっていたが、それを呑みこんだ後に話を続けた。


「そうか。それなら良かったけど。町の方でな、噂になってんだよ。領主がここ数日、家に籠りっぱなしでいる、あの夜遊び好きの領主が塞ぎ込んでいるようだってな」

「あ、そうなんですか?」


 それを知り、サリアは拍子抜けした声を出した。

 てっきりまた、自分の事を連れ戻そうと息巻いているのかと考えていたが、塞ぎ込んでいるとは夢にも思わなかった。


 フリッツは当時の領主を思い出して、あれ程衝撃を受けている様子なら、家から出られなくなっていても可笑しくないのかもしれないと考えていた。

 サリアの叫んだ言葉が効いていたのかもしれないと、隣の彼女を見たが、本人はその自覚がない様子で、何故領主がそうなっているのだろうと不思議そうに眼を瞬かせいた。


 二人のことなど気にせずに、カーディナルはもう一枚クッキーに手を伸ばしていた。


「多分、その様子だとサリアの事は殆ど諦めているんじゃないか? あと、このクッキーすごくうまいな」

「ありがとうございます」


 先程の作り笑顔とは打って変わって、サリアは心底嬉しそうな顔で小さく頭を下げた。

 カーディナルは、円の中心に杏子のジャムの入ったクッキーを見ながら感心したように口を開く。


「このジャムもサリアの手作りか?」

「はい。フリッツが杏子をたくさん採ってきてくれたので、それをジャムにしたのです」

「フリッツ、お前……こんな器量良しで料理も上手い娘と一緒に住んでるとか、正直羨ましい」


 目を細めたカーディナルにそう言われて、フリッツは恥ずかしくなって下を向き、頭を掻いていた。

 それからしばらくは、他愛のなく和やかな話をしていた三人だったか、急にサリアは押し黙り、気不味そうに目を伏せたまま切り出した。


「カーディナルさん、一つお尋ねしたいことがあるのですが……」

「ん? 何?」


 紅茶を飲んでいたカーディナルは、ティーカップの縁から口を離して、彼女を見た。


「私の育ててくれた夫婦が経営している毛織工場が町外れにあるのですが、そこがどうなっているのかを知っていますか?」


 かたんと、カーディナルがソーサーにカップを置く音が、やけに大きく響いた。今まで、黙って目を瞑っていたジュリアンの耳が、ぴくりと動く。


 フリッツは、こんなことをするのは失礼だと分かっていても、真剣な顔をしたサリアの横顔をまじまじと見詰めていた。

 今まで、サリアの養夫婦の話題は一度も上がった事はなかった。二人とも意図的にその話題を避けてきたが、フリッツはサリアの育ての親と離れる覚悟は出来ていたという言葉を信じて、彼等の事は吹っ切れているのだと思い込んでいた。


 しかし、フリッツの瞳に映るサリアの姿は、唇を噛みしめ、カーディナルを見据えて、テーブルの上に並んだ両手は小さく震えて、体全体に緊張を漲らせていた。  無理もない。自分の選択が辿り着いた末を、これから知ろうとしているのだから。


 カーディナルはサリアとは正反対に、ゆったりと椅子に座り直して、肩の力を抜いた状態で、何でもない事のように語った。


「俺の友人が話してたんだけどな、領主が花嫁をもらう代わりに工場を再建する予定だったらしいが、肝心の花嫁が連れ去られて、再建をどうするかでかなり揉めたらしい。だが、貰っていた前金で、準備が勝手に始められていたために、結局領主側が折れたようだってな」

「そうなんですか。お父さんもお母さんも、結構たくましいですね」

「娘をいきなり異形のものに連れ去られたことは、夫婦の心にも響いていたらしいが、娘を売ろうとしたからだと反省して、今は自分たちができることをやっておこうと動いているようだ。多分、気を紛らわせる意味合いも、強いとは思うけど」

「そうでしたか……」


 サリアから言葉と一粒の涙がぽろりと零れた。口には出せなかったが、夫婦の事はずっと心に引っかかっていた。

 自分の幸せを優先して、二人に迷惑が掛かっているのではないのかという思いも強かった。

 だが、夫婦が前を向いて進もうとしているのなら、自分も振り返ってはいけないのだと、決意を新たにする。


 フリッツは、そんなサリアの様子を見て、声をかけたかったが、思いが内側で渦巻くだけで、言葉は出てこない。

 こんな時、いつも喉の奥からもどかしさが込み上げてくる。


 それでも、思いを伝える方法は残されている。フリッツは、テーブルの上のサリアの手に、自らの手を重ねた。

 驚いてこちらを見たサリアに、優しく微笑みかける。大丈夫だからと、言い聞かせる代わりに。

 その思いは彼女にも伝わり、頬を染めながら、「ありがとう」と応えてくれた。


「さて、俺はそろそろ帰ろうかな」


 突然そう言って、カーディナルは腰を浮かせた。その直後にジュリアンも立ち上がる。暇を弄んでいたのか、微かに尻尾を振っていた。

 それを見て、サリアは慌てて立ち上がった。


「カーディナルさん、お土産に杏子のジャムを持っていきませんか?」

「え? いいのか?」

「はい。私たちでも食べきれないくらい作ってしまったので。おいくつにしますか?」

「じゃあ、五つくらいで」

「一人暮らしなのに、それほど食べきれないだろ」


 ジュリアンが呆れ声で言うと、カーディナルは緩やかに首を振った。


「いや、友人にも配るんだよ。こんなにうまいもんだからさ」

「ありがとうございます」


 嬉しそうに頭を下げたサリアは、そのままジャムの余りを保管している下の階へと向かった。


 彼女が梯子を下りて行った時に、腰を下ろしたカーディナルは感慨深げにフリッツの方を見て話しかけた。


「フリッツは、彼女の前でも仮面を外せるようになったんだな」


 フリッツは首肯する。目の上の瘤はなくなり、顔の痣も薄くなっているものの、全てが消えたわけではない。

 だが、フリッツもサリアもその事を負い目には感じずに、普通の生活を送っていた。


 カーディナルは目を細めて、彼の言葉を反芻する様に頷いていたが、いきなり口を開いて、とんでもない一言を放ってきた。


「お互いの事を意識はしているが、もう一歩踏み出すことが出来ないみたいだな」


 フリッツは魔法にかけられたかのように、ぴたりと動きを止めた。そのまま、顔だけがみるみる真っ赤に染まっていく。

 のらりくらりとしているようで、二人の関係を鋭く言い当てたカーディナルは、にやにやと意地悪く笑いながら、追い打ちをかけてきた。


「サリアの方から告白してきたが、まだフリッツは答えを言っていないんだろ」


 つい先日の出来事まで見透かされて、思わずフリッツは両手で自分の顔を覆った。しかし、真っ赤になった耳はしっかりと見えている。


「これ以上はやめろよ。フリッツが爆発しそうだ」

「こいつの反応が随分ウブだから、つい悪戯心が……」


 フリッツを憐れむように見上げるジュリアンに対して、カーディナルはにやにや笑うのが止められないようだ。

 フリッツは恨みがましく、指の隙間からカーディナルを睨む。彼は悪人ではなさそうだが、からかい上手なのは確かだ。


 しかし急に笑うのを止めたカーディナルは、真剣な眼差しでフリッツを見据えた。


「お前が返ってくる前にサリアが話していたんだ。今がとても幸せで、これ以上望むものはないって」


 はっとしたフリッツは、顔を覆っていた手を下げて、姿勢を正し、彼の声に耳を澄ます。


「だからこそ、彼女の思いを受け止めてやれよ。幸せすぎたって、別に罰が当たるわけじゃあないんだからな」

「悪魔が罰とか言っても、あまり信用できないが」

「……ジュリアン、水を差すなよ」


 徹底した現実主義のジュリアンに言われて、格好の付かなくなったカーディナルは所在無さげに頭を掻いていた。

 それでも、フリッツは彼の言葉を受け止めて、力強く頷いた。


 その時、背後の梯子ががたがたと揺れ、サリアが上ってくる音が聞こえた。

 最上階に戻ってきたサリアは、申し訳なさそうに笑いながら、五つのジャムの入った袋を、カーディナルに差し出した。


「ごめんなさい、袋が中々見つからなくて、時間がかかってしまいました」

「いいんだよ。こっちの方こそ、勝手に来たんだから」


 二人のやり取りを見ていると、サリアには先程の話は聞こえていなかったようだった。フリッツは、別にやましい事はないものの、ほっと胸を撫で下ろす。


「じゃあ、俺たちはこれで」

「やっとか」


 片手を上げたカーディナルと、冷静な声色に対して尻尾を大きく振っているジュリアンは、並んで窓の方へと歩き出す。

 そして、窓の前でカーディナルは、ジュリアンを抱えて、鮮やかな赤い翼を背中から生やして、窓枠にのった。


 フリッツがあの日見た、美しい翼越しにカーディナルは振り返り、笑顔で「じゃあな」と袋を持った右手を振る。


「また、遊びにいらしてください」


 そう言ってサリアは頭を下げて、フリッツが大きく手を振ると、彼はそのまま飛び立っていった。

 ばさばさという羽ばたきの音を聞きながら、サリアが口を開いた。


「……契約書の名前を見た時に、恐ろしい人を想像していたけど、思ったよりも面白い人だったね」


 フリッツは頷いたが、少し意地悪い所はあるけれどと頭の中で付け加えていた。


「ね、フリッツ。紅茶とクッキーが余っているから、もう少しお茶会しない?」


 サリアの弾む声を受けて、フリッツも微笑みながら頷いた。そして、カーディナル伝いに聞いた、サリアの言葉を思い出す。

 今がとても幸せで、これ以上望むものはない……その気持ちは、フリッツも同じだった。だから、この関係をもう一歩進めたいという気持ちも。


 しかし、彼女の思いを受け止める前に、まだまだ出来ることは沢山ある。

 もっとサリアと外に出て、様々な美しい景色を一緒に見たい。領主が彼女の事を諦めたのなら、塔の階段を直してもいいのかもしれない。それから、サリアが一人でも屋上の水瓶から水を汲めるように、滑車をつけ直そう。


 これからの事を考えると、胸の高鳴りが止まらくなる。

 サリアの入れてくれた紅茶に口を付けて、その温かさに浸りながら、フリッツは身近な未来に思いを馳せ続けていた。


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