1-8

 ふう、と綴さんが肩の力を抜いた。名残惜しそうに本の最後のページを撫でて、ゆっくり閉じる。ぱたん、と小さな音が鳴って、なんだか恥ずかしくなった。


 どうでしたか、とは聞けなかった。


「お客様の記憶を読んで、感想を言うのは控えているので何も言えませんけれど、文章、結構しっかりしていましたよ」


 それはよかった。上手い文章ではないのはわかっているけれど、小説指南サイトを読み込んで書いたから、日本語としておかしいところは多くはないだろう。


「では、こちらの書類に記入をお願いします。タイトルはこちらで、氏名はこちらです。公開と非公開が選べますが、どちらにしますか」


 書類に書き込みながら、この本をどうするか悩む。公開することにしたら、本棚に並べられる。非公開にすれば、閉架として奥にあるらしい金庫室に入れられるという。公開にしても、私が自ら書いた原本はそこに入れられて、本棚には綴さんが書き写したコピーが並べられると説明を受けた。


 正直に言って、あまりひとに見せられる記憶ではない。暗いし、ひどいし、そもそも『彼女』の了承を得ていない。フェイクを練り込むようにと注意されていたので、個人の特定まではされないだろうけれど、万が一にも『彼女』に迷惑がかかってしまうことは避けたい。


 けれど、あの本棚に、自分の記憶を並べたいとも、思った。


 客のほぼ九割は、公開にすると綴さんは言った。自分の記憶を誰かに知ってほしかったり、認めてもらいたかったり、または誰かの記憶として受け継いでもらいたいのかもしれない。

 私はそんなことは思わないけれど、できれば自分の記憶を本棚に並べたい。理由は、一応はある。恥ずかしすぎて言えないけれど。


 公開で、と答えて、費用の五千円を支払う。これで、私の記憶は百年先まで保管されることになった。百年先といえば、私はもう百三十歳か。そんなに長くは生きられないし、これから家庭を築く予定もつもりもないから、期間が終わったら返却ではなく燃やしてもらうことにした。


「念のため、フィクションということにしておきますか。お客様のご希望であれば、記憶をフィクションとして扱うこともできます」

「じゃあ、それでお願いします。あんまり実話だと思われたくないですし」

「では、最後に、表紙にタイトルと著者名のイニシャルを記入してください」


 言われた通りに、タイトルを書く。少し不格好な字になってしまった。表紙は本の顔だと、いつだったか『彼女』が言っていた。でも、この不格好さが、私によく合っているのかもしれない。


「……このタイトル」

「どうかしましたか」


 綴さんが不思議そうに呟いた。そして、カウンターから出て本棚から一冊の本を取ってくる。


「同じタイトルの記憶があるんです。先程読んでいたときも思ったんですが、内容も、ほとんど同じでした」

「……それ、もしかして」

「わかりません。ですが、偶然にしては、珍しすぎます」


 その本を綴さんから受け取って、イニシャルを見る。

 イニシャル、T・A。『彼女』のイニシャルと、まったく同じだ。


「……きっと、『彼女』の本です」

「こんな偶然、あるんですね。同じ記憶を持つお客様がいらっしゃるなんて。どうしますか、読みますか。もし、ご自分で読めないなら、朗読しますけれど」


 ここに『彼女』が来た。その事実に、ただただ驚く。私を変えてしまった『彼女』が、私と同じ、あのときの記憶を書いて残していった。とても不思議な気持ちになった。


 綴さんの朗読というのは、とても魅力的だったけれど、丁重にお断りする。


「私は、これを読むつもりはありません。もしかしたら、本当に『彼女』なのかもしれませんし、よく似た経験の持ち主が書いた、偶然なのかもしれません。どちらにせよ、私はもう、『彼女』のことを引きずってはいないんです」


 そうですか、と綴さんは私がカウンターに置いた、『彼女』が書いたのかもしれない記憶を抱えて、元の場所に戻しに行った。


 あの出来事は、本当に、私を根本から変えてしまったと言っても過言ではない。

 私は女だけれど、女の人が恋愛対象になった。男にひどい暴力を受けたから、というのもあるかもしれない。けれどそれ以上に、『彼女』との短い交際が、とても幸せなものだったからだ。もしかすると、『彼女』に惹かれたのは、私が潜在的にそういう人間だったからかもしれない。


 私はこれまで、色々と経験したし、あの出来事を上回るものはなかったとはいえ、つらいことも幸せなこともあった。女のくせに女が好き、ということで大変な目にもあった。


 それでも、私は何も後悔はしていないし、恋愛は自由なものだ。同性を好きになったって、何もおかしいことじゃない。人間顔じゃない、というのと同じように、人間、性別じゃない。大切なのは中身だ。そして、心の底から好きだと、愛しいと思えたなら、それは立派な恋愛だ。本当の意味で、恋愛は、自由なのだ。


 綴さんが戻ってくる。手には、ここで販売されているコーヒーの使い捨てカップが二つ。


「甘いの、飲めますか」

「はい、どちらかといえば好きです」

「それはよかった。どうぞ、記憶を預けてくださるお客様には、無料で一杯、振る舞うことにしているんです」


 礼を言い、綴さんからいただいたそれに口をつける。甘い、優しい味だった。

 その甘さが身体に染みこむようで、少し、勇気が出る。


「綴さん、もしよろしければ、今度、食事でもどうですか」

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キヲク書庫 小林マコト @makoto_kobayashi

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