幻想セカイ
七島新希
第1話
最近、彼女が冷たい。
別に話してくれないだとか、無視されるとかそういうことじゃない。優しく僕の話を聞いて、微笑んでくれる。
まあ以前よりも話し方が固くなった気がするし、どことなく違和感を覚えることもあるが、問題はそこじゃない。
僕が冷たいと思う点は別にあるのだ。
分厚く大きな入道雲が浮かぶ空から、うっすらとした筋雲やうろこ雲が見えるようになった夕空。まだ暑さは残っているけれど過ごしやすくなった中、今日も僕らは二人で大学からの帰り道を歩いていた。
彼女はセミロングの髪で可愛らしく、ワンピースにショートブーツを履いた森ガールファッションがとてもよく似合っている。
僕は彼女に向かって手を差し出す。
手を繋ごうという合図だ。
僕らは恋人同士。当然のことだ。
歩きながらも僕は手を伸ばしたまま待つ。彼女はシャイだから、手を繋ぐまでに人目を気にしたりして時間が掛かる。けれど最後にはいつも、はにかみながらも僕に向かって手を伸ばして指を絡めてくれる。
だが最近は僕が手を差し出しても繋ごうとしてくれない。曖昧に微笑んだまま、手を伸ばすどころかより引っ込めようとする。
恥ずかしがっているのとは何かが違う。でも僕は繋ぎたいから無理やり彼女の手を取る。
指を絡めてしまえば振りほどこうとはしないから、嫌われてはいないと思う。
「結菜(ゆうな)は僕のこと、好きだよね?」
僕は不安から彼女の名を呼び、そう尋ねる。
「……そうね」
彼女は照れ屋だからあまりはっきりとは言ってくれないけれど、やっぱりぎこちない。
僕はギュッと強く彼女の手を握る。
以前よりも骨張った結菜の手。
前にダイエットのために筋力トレーニングを始めたと言っていたから、きっとその影響なのかもしれない。
僕としては今の彼女のままで十分いいと思っているのだが。そもそも筋肉がより付くだけで、ダイエットにはならない気がしたのだが、指摘したりはしなかった。でもマッチョにはなって欲しくないから、そろそろやめるように口を挟んでおこう。
ツクツクボウシの鳴き声だけがわずかに響く閑静な住宅街を二人で楽しく話しながら歩いていると、いつの間にか僕が下宿しているアパートの前まで来てしまっていた。
まだ結菜と別れたくない。
「ねえ、僕の家に寄っていかない?」
僕は彼女を誘ってみる。日は沈みかけているものの真っ暗にはなっていないし、大丈夫だろう。
「……無理。今日は駄目」
「どうして? 今日はバイトもないはずだろう」
「……。お母さんが風邪で寝込んでいるから、看病しないといけないの」
食い下がる僕に彼女は言った。
「そうなんだ……。なら仕方ないね」
僕は落胆する。今日もまた断られてしまった。
「またね」
「待って」
手を振り立ち去ろうとする彼女を、僕は引き留めた。
「さよならのキス、しようよ」
僕は結菜に近づきながら甘える。僕の家の近辺は人通りが少ないから、周囲の目をすごく気にする彼女も、恥じらいながらもいつもは受け入れてくれる。
僕は彼女の顎を持ち上げる。
「私、急がないといけないから」
けれど彼女は、半ば僕を突き飛ばすような形でそう告げると、足早に去って行ってしまった。
僕はその後ろ姿を見送るしかなかった。やっぱり今日も最後まで冷たかった。
最近、彼女は僕とのスキンシップを拒むようになったのだ。手も繋ごうとしてくれなければ、何かと理由をつけて家にも来てくれない。さらにキスすら許してくれない。
どうしてなんだろうか?
別に何か悪い事をした覚えはない。にも関わらず、ここ一カ月程彼女は冷たい。頑ななまでに僕との触れ合いを避ける。
今日話された母親が寝込んでいるというのもきっと嘘だ。
結菜は家族と一緒に住んでいる。けれど彼女には双子の弟である結人(ゆうと)だっているし、もし本当なら僕とのんびり歩いてなんかいないはずだ。
どうして嘘をついてまで僕を拒むのだろうか?
結菜は僕の事を嫌いになった?
でもそれだったら何か言ってくるはずだし、僕と一緒にいてはくれないだろう。
不自然だ。結菜らしくない。彼女の行動、態度にもどことなく違和感がある。
どうしてだろう?
頭が少しだけ痛む。知っている事柄のはずなのに思い出せない。ど忘れした時と似たような感覚に襲われる。でもそれよりもさらに霧が濃くて思考することすら拒絶する。
形容しがたい感覚を拭えないまま、今日もまた時間は過ぎていった。
次の日、大学のキャンパス内で見掛けた結菜は二人の男と楽しそうに話していた。彼女は人見知りして、男友達なんて全然いないはずなのに……。
結菜は笑うと右頬にえくぼができる。そこも魅力的で僕は可愛らしいと思っている。
今も彼女は笑顔を浮かべていた。当然できるえくぼは……。
あれ?
えくぼは彼女の左頬にできていた。
おかしい。結菜は右頬にえくぼができるはず。でも男達と仲良く話しているのは確かに結菜だ。
僕の記憶違いかな? 彼女の事に関しては自信があるつもりだったのに……。
僕は結菜に声を掛けることもできず、釈然としない気持ちを抱えたまま次の講義がある教室へ向かった。
お互いに全講義が終了し、僕はやっと結菜と話すことができた。
朝は別々に大学へ行くし、お昼だってそれぞれの友達と食べることが多い。しばしば僕が誘って一緒に食べることもあったけれど、最近は断られ続けている。今日は一コマも彼女と被らなかったから、話す機会が全くなかったのだ。
「ねえ、今日君が仲良く話していた男達は何?」
僕はさっそく尋ねてみた。
「友達」
「いつの間に知り合ったんだい? 最近、仲良くしている男友達が増えている気がするけど」
「いつの間にも何も、もともとよ。高校の時からの友達と大学に入ってからできた友達」
彼女は淡々と答えた。もう何回も繰り返している問いに飽き飽きしているのか、素っ気ない。
「そうなんだ」
僕もいつも通りの反応を返す。何回尋ねても彼女の回答は変わらない。いや、小学校や中学からの知り合いだと言うこともあったけれど、それならどうして今まではそこまで仲良くしていなかったのか。
ここ一カ月程でどうして急に仲良くしだしたんだろうか?
僕に隠し事をするなんて結菜らしくない。違和感と不信感が僕の中で募っていた。
今日も僕はまた彼女に向かって手を差し出す。だけど今日もやっぱり彼女は手を繋ごうとしてくれないから、僕は痺れを切らし、自分の手を半ば強引に絡めた。
結菜の手をしっかりと握ったまま、昨日と同じように二人で楽しく話しながら歩く。変わらずツクツクボウシの鳴き声だけが僕らの周りで響いていた。
「僕の家に寄っていかない?」
アパートの前まで辿り着いてしまい、今日もまた僕は彼女を誘う。日は少し傾いてきているものの、まだ青空が広がっている。それに今日はお互い早めに、全ての講義を受け終えたし、その後何も用事はなかったから、昨日より時間はさらにあるはずだ。
「……ごめんね、今日も駄目なの」
「どうして? 今日もバイトはないはずだよね」
僕は彼女を問い詰めると共に、自分のバッグに片手を突っ込んだ。手探りで中に入れておいた小瓶の蓋を開け、同じくバッグ内にあるハンカチに中身を染み込ませる。
「まだお母さんが寝込んでいるから……」
「……そう」
「だから私、もう行くね。さようなら」
結菜がそう告げると同時に、僕はバッグの中からそのハンカチを取り出した。そして彼女を引き寄せ、鼻にハンカチを押しつける。
結菜は一度目を大きく見開き抵抗しようとするが、すぐに力を失い眠ってしまった。
「ごめんね。僕も手荒な真似はしたくなかったんだけど、君とゆっくり話すためには仕方なかったんだ」
僕は彼女の身体を抱き留めると、催眠効果のある気化性の薬品を含ませたハンカチを取り去り、その寝顔に謝った。
僕は結菜の身体を抱きかかえ、自分の部屋へと運ぶ。誰かがやってきたら、酔い潰れたとでも言い訳するつもりだった。
意識のない人間を運ぶのは想像以上に大変なことだった。重いし、意識がないため手足は弛緩された状態だから、上手く僕自身に寄り掛からせないといけない。それに、物じゃなくて僕の大切な大切な恋人の身体だから、ぞんざいに扱うことはできない。
以前よりもがっしりとしている。
彼女を抱え、階段を上りながら僕はそう感じた。見た目は全然変わっていないのに、体格が良くなっている気がする。
華奢なままの結菜でいてもらいたいから、僕としてはこれ以上の筋トレはやめて欲しい。痩せるどころか筋肉がついてきているから、早急にやめるように言わないといけないなと思った。
幸いにもアパートの住人とは出くわさずになんとか自分の部屋まで辿り着くと、僕は結菜を自分のベッドに寝かせた。瞳を閉じて力なく、安らかに無防備な状態で眠る彼女はとても可愛らしかった。
このまま襲ってしまいたい衝動に駆られるが我慢する。意識のない相手に触れるなんて卑怯だし、両者の合意の上でなければつまらない。
何もすることがなかったから、僕は彼女が目を覚ますまで椅子に座って本を読むことにする。
いつ結菜は目を覚ますだろうか?
彼女は小さく可愛らしい寝息をたてながら、眠り続けている。
適当に理由をでっちあげて医療従事者の知り合いから入手した薬を使ったのだが、結菜の身体に悪影響を与えていないか少し心配だった。でも彼女をここに連れてくるためには仕方なかったのだ。
自発的には今の結菜ではまず来てくれなかっただろうし、必要以上に怖がらせたくもなかった。だからこの方法が最善のはずだ。
僕は机の本棚に常備してある文庫本を一冊手に取り、開く。何回も読んだ小説だったから適当にページをめくる。
とある名探偵が、有名な推理小説家の洋館で開かれたパーティーで起こった連続殺人事件を解決する話である。王道的なストーリーだが、最後が異色なのだ。
なぜなら殺人のトリックも暴くのだが、さらに色々な観点から小説家以外の登場人物は実在しない虚構の存在だったことがわかるのだ。つまり全ては現実ではなく、その小説家が緻密に書いた原稿用紙上の夢の世界での出来事。そしてそれを暴いた名探偵にも小説家にも、今この瞬間でさえ夢か現実かわからない。
読み物と現実ぐらい区別できるだろうと突っ込みたくなるが、この小説では虚構と現実が入り混じってしまっているのだ。
そんな何が夢で何が現実かわからない中、探偵は最後に小説家に一言、告げるのだ。
『僕は僕が信じる現実の世界に帰ります』
そして名探偵は洋館を去る。
すごく曖昧で、正確な解釈なんて何回読んでも導き出せないし、そもそも理解することすらいまだにできない。だけど最後の探偵のその言葉だけが妙に印象深い、そんな本だった。
僕はページをめくる手を止めた。物語のちょうど中盤辺りに何かが挟んであったのだ。
縦長で長方形型のそれは栞だった。四葉のクローバーを押し花のようにして作られた、手製の栞。栞の左下には小さく黒ペンで「Y.S.」と書かれていた。
結菜の栞だ。
「Y.S.」は彼女の名前である「真田結(さなだゆう)菜(な)」のイニシャルである。ちなみに僕の名前は「染井(そめい)雪(ゆき)」だから、彼女と同じくイニシャルが「Y.S.」になるのだ。
初めてそのことに気づいた時「同じだったんだね」って結菜は驚いていたけどとても嬉しそうにしていた。それから、イニシャルを彫ってもらったペアリングを買って「全部お揃いだね」なんて笑い合ったりもした。
結菜とイニシャルが一緒だったことに関してだけは、女みたいで嫌いだった自分の名前に感謝したいと思えた。
どうしてこの本に挟んであるんだろう?
僕はこの本を彼女に貸したことがあったのか?
でも栞を外し忘れたのにしてはおかしい。彼女が僕に返したのだとしたら、最後まで読んだ後のはず。その場合、栞は最終ページにあるはずだ。
なのに実際に栞が挟んであったのは物語の中盤。ここまで読んだのなら、最後まで目を通してもいいはず。それに僕が貸した本を、結菜が最後まで読まなかったことは今までに一度もない。
不自然だ。
僕はまだ眠り続けている結菜の顔を見た。僕の瞳に映るのはいつもと変わらない、ふんわりとした優しい雰囲気を持つ彼女。
僕は息を吐いた。気にしていてもしょうがない。
僕は栞が挟んであったページから読み始めることにした。
場面はちょうど第二の事件が起こったところ。ここには事件そのものが虚構だとわかる伏線もある。
文字を目で追っていくことで流れる時間。
僕は時々横目で結菜の様子を窺いながら、読書を続けた。
遂に探偵が全ての謎の真相に気づき、謎解きをしようとする場面まで読み進めた時、結菜が目を覚ました。彼女は黒に近い焦げ茶の瞳をぼんやりと彷徨わせる。
僕は本を閉じた。
「ここはどこ!?」
とろんとしていた瞳の焦点をすぐに合わせて、起き上った彼女は強い口調でそう言い放った。
「僕の家だよ。何回も来たんだからわかるはずだろう」
僕は平然と答える。
「私、帰る」
「待ちなよ」
ベッドから降りすぐさま玄関に向かおうとする結菜の腕を、強く掴む。
「離して」
彼女は顔を背けたまま、僕の手を振りほどこうとする。もちろん僕は離さない。逃がさないように、より手に力を込めた。
「ねえ、結菜はどうして僕を拒むようになったんだい? 僕が何かした?」
尋ねながらも彼女の腕を引っ張り、強制的に僕と向き合わせる。
「それは……」
答えあぐねながらも彼女は抵抗をやめない。掴まれた腕を振り回し、どうにかして僕から逃れようとする。
「結菜は僕を愛しているよね? それとももう愛してくれないの? だから抵抗するのかい?」
「だって私は……」
僕は最後まで話させず、結菜を抱き締めた。これ以上、彼女と言い争うようなことはしたくなかった。
温かい。久しぶりに感じる彼女のぬくもり。柔らかくて、抱き締めている僕の方が包み込まれるような安心感がある。
だけど結菜は僕の腕の中で暴れる。いつもの彼女だったらためらいながらも、僕の背中に腕を回してくれるのに。軽く、遠慮がちに、けれどギュッと抱き締め返してくれるのに。
どうしてこんなにこんなに嫌がるんだろう?
僕は結菜を愛していて、結菜も僕を愛してくれているはずなのに。
抱きたい。
彼女の全てを感じたい。それで愛の証明が成り立つだなんて思わないけれど、彼女が僕のモノでいてくれているって感じたい。
結菜はいつだって僕が求めれば、戸惑いながらもちゃんと応えてくれた。今の彼女はどうかわからないけれど……。
僕は彼女の背中に回していた手を動かし始める。
僕を受け入れて。
たとえ拒否されても優しくするから、ごめん。君を愛して愛されていることを確かめたいんだ。
「やめて、やだっ」
今の彼女はやっぱり僕を拒絶した。でも僕は手を止めない。いや、止められない。
怖がらないでよ。いつものように優しくするからさ。僕の事を受け入れてよ。
僕は結菜にキスを落とそうとする。だが唇に触れる前に避けようとする彼女と、頭同士をぶつけてしまった。
リーチが違う? 距離感が掴めていなかった?
彼女には何回も触れているから感覚的にもわかるし、視覚から距離もきちんと計れていたはずなのに。
ぶつけた衝撃で頭が痛かったが、押さえる訳にはいかない。いくらなんでもカッコ悪すぎる。
背中から移動させた方の手で、僕は彼女の胸を揉もうとする。けれどその手は空を掴む。結菜はそこそこの膨らみを持っているはずだし、視覚的には確かに掴んでいるのに。
記憶と視覚、今と触覚が一致しない。
どうして?
僕は内心動揺しながらも彼女の下半身へと手を伸ばし、触る。
「!」
「ッ」
あり得ない感触に驚く間もなく、次の瞬間僕は思い切り殴り飛ばされ、壁に叩きつけられた。
右ストレート。平手ではなく拳で、本気で殴られたのだ。
頬に走る衝撃。じんわりとした感覚から瞬時に激痛へと変わった。たぶん内出血を起こしている。後で絶対に痣になるレベルだ。
しかし大の男を殴り飛ばせるなんて、結菜にあるまじき力だ。
僕は痛む頬を押さえながら、座り込んだまま彼女を見上げた。
「ッ……」
何か言おうと口を開きかけて、僕は目を大きく見開いたまま驚きに硬直する。
肩を震わせ涙目で僕を睨みつけていたのは結菜じゃなかった。可愛らしいふんわりとした、ワンピースにショートブーツという森ガールファッションではなく、ロゴがプリントされた白Tシャツ、羽織られた黒ベストに七分丈のズボン。そして彼女よりもずっと髪が短い。けれど髪質だとか目尻、鼻梁、口元、輪郭、全体的なパーツが結菜とすごく似通っている。
「結人……?」
僕は目に映る人物の名前を訳がわからないまま呼んだ。
「やっと気づいたのかよ、このトンチンカン野郎!!」
結人は怒鳴った。僕を睨む瞳には怒りしかなかった。
「結菜は……?」
僕は周りを見回す。この世界で最も愛しくて大切な彼女の姿が見当たらない。
そもそもなんで結人がここにいるのだろう?
僕がここに連れてきたのは結菜だけのはずだ。
「はあ!? アンタまだわかってねーのかよ。なら教えてやる。アンタのためだったが、もうこんな茶番はおしまいだ」
彼は大声で続けた。
「結菜姉(ゆうなねえ)は一カ月前に事故で死んだ!!」
僕は結人の言葉に眉をひそめる。
「……何を言っているんだい。冗談にしては笑えないよ」
声を低めて僕は彼に言った。結菜が死んだなんて笑えないどころか不快極まりない。
「俺が冗談で結菜姉の事をそんな風に言うとでも思っているのか!? アンタがずっと俺のことを結菜姉だと思い込んでいただけだ!」
「僕が……君のことを?」
僕は結人の話が理解できず、聞き返す。ひやりと何かが脳裏をかすめそうになったがその正体は掴めなかった。いや、掴むべきじゃないとシャットアウトしていた。
「そうだ。結菜姉の葬式の後から、アンタは俺のことを『結菜』と呼び始めたんだよ。俺自身や周りがどんなに否定したって、アンタは俺を結菜姉だと思い込んだままだった」
吐き捨てるように結人は話す。
「俺は素で喋っているのに全然気づかないし、なんとか結菜姉じゃないって認めさせようとすると、アンタは頭を抱えて叫び出すしさ」
「……」
僕が叫んだ? そんなみっともない真似、記憶にないしするはずがない。けれど結人の言葉がどこか引っ掛かり、頭がズキズキする。
「俺も周りも途方に暮れて医者に相談したら、アンタは無理矢理俺が結菜姉に見えるように自己暗示を掛けているって言われたんだ。全ての感覚を騙すことで精神に相当の負荷をかけているだろうから、アンタの心を壊さないよう負担を軽くするためにも、むやみに否定せずにできる範囲内で結菜姉のように接してやれって。一時的なものだろうからってな」
結人は一息つき、改めて僕を射抜くような眼差しで突き刺す。
「だから俺は結菜姉が悲しむだろうから、結菜姉のために、今までアンタの前では形だけでも結菜姉としていたんだ」
結人の話が本当ならば、僕がずっと結菜だと思って接してきたのは結人だったということになる。
彼女がここ一カ月、最近冷たかったのは結人だったから?
不自然さと違和感があったのはそのため?
骨張った手、がっしりした体格、リーチ差。視覚と触覚の相違。
全ては僕の無理な思い込みから生じたことだった?
強くなる頭痛。当て嵌めたくないのに一つ一つのピースが勝手に組み合わさり、全体像を描いていく。
一ヶ月前のあの日、結菜がトラックに轢かれたと連絡を受けた僕。
慌てて駆けつけた時にはすでに虫の息だった結菜。
そして次の日。朝日が昇る頃には冷たくなっていた結菜。
通夜に告別式と葬儀が執り行われて行く中、身体は機械的に動いたけれど、心は状況を把握できずに置いてきぼりだった僕。
火葬場で焼かれ、灰になった結菜。
一つ一つ思い出されていく記憶が、僕に真実を突き付けていく。
『これ、結菜姉がアンタに借りていたみたいな本。遺品を整理していたら見つかったから、結菜姉の代わりに返しとくよ』
心が空っぽなままだった僕のところへ、本を返しに来た結人。わざわざ僕の家までやって来て、遠慮がちに本を差し出した結人は結菜にそっくりで……。
それから結菜はまた僕の傍にいた。彼女は僕の傍にいてくれた。
僕の隣にいたんだ。
でもその『結菜』は結菜じゃなくて、本当の彼女は死んでいたのだ。
嫌だ。嫌だ。
頭が、心が、全身が、その事実を拒否する。
そんな世界、認められない。
両手で痛む頭を抱えた。僕は喉をひくつかせる。声を上げたくなった。全てをうやむやにしてしまいたい衝動に駆られた。
さっき結人に指摘された時には、僕が叫んだりしたなんてあり得ないと思っていた。けれど、どうやら僕は大声を出したりしていたようだ。
結菜がもういないという事実から目を背けたくて、拒絶していたのだ。
それに気づいてしまった今、もう声を上げて全てをうやむやにすることはできない。
「お、おい、大丈夫か?」
僕の様子を見かねたのか、結人が声を掛けてきた。僕は彼に目を向けた。
引き気味だけど戸惑っている彼の顔。柔らかそうな髪、黒に近い焦げ茶の瞳、よく通った鼻梁、ふっくらした口元、少し子供っぽく見えてしまう丸めな輪郭。
似ている。結菜に似ている。そっくりなんだ。一つ一つのパーツが彼女を彷彿とさせる。
吊り気味の目つきをもっと柔らかくすれば。優しく、穏やかな表情をすればきっと……。
「ねえ、笑ってよ」
僕は言った。そうすればきっと結菜みたいに、いや結菜になるからさ。
「は?」
僕の言葉に結人は怪訝そうな表情をする。頬が引きつっている。
結菜だったらそんな顔はしない。
「そんなに固くならないでさ。柔らかく微笑んでよ。結菜にそんな顔は似合わないよ」
「アンタ、気づいていながらもまだ俺のことを結菜姉扱いするのかよ。いい加減にしろよ! 結菜姉が死んで辛いのはアンタだけじゃないんだ!!」
彼は怒りに目を吊り上げ、頬を紅潮させる。
「そんなに怒らないでよ。今みたいな表情、結菜はしないよ」
「そりゃあ大人しかった結菜姉はこんなに怒ったりしなかっただろうよ。だが俺は結菜姉じゃない!!」
彼はより激昂する。大声に僕を突き刺す視線。それらが、似てはいても目の前の人物が結菜じゃないことを突きつけてきて不快になる。
だって結菜はもうどこにもいないんだって実感させられるから。僕がいる世界から、彼女はとっくに欠けてしまっていたんだという現実を思い知らされるから。
認めたくない。結菜がいない世界なんて、そんな空虚な世界なんて認められない。
『僕は僕が信じる現実の世界に帰ります』
結菜に貸していた小説の主人公である探偵の台詞が脳裏に浮かんだ。虚構と現実が入り混じりその境界を見失った中、探偵は自分が信じる世界を現実と定めたのだ。
結菜がいない世界なんて僕は認めない。そんな世界、僕には耐えられない。
結菜が僕の傍にいてくれる世界こそが正しいんだ。
僕が信じる世界こそが現実。だから、目の前にいるのが『結菜』だ。
『結菜』にするんだ。
「ねえ、結菜はそんなに大声を出したりしないよ。怒る時はもっと話すのにいっぱいいっぱいで、呂律が回らなくなるんだよ」
「結菜姉は確かにそうだっただろうが、俺は結菜姉じゃないんだ。アンタ、何回言わせれば気が済むんだよ!」
僕が指摘すると目の前の人物はますます怒り狂った。僕を睨みつける視線をより険しくする。その表情は完全に結菜と異なっていた。
僕にはそれが不快だった。なぜなら目の前にいなければならないのは『結菜』なのだから。
僕は話し相手に近寄り、両手をその頬に添えた。そして両方の親指を使って、その吊り気味な眉尻を無理矢理下げる。
吊り目から垂れ目気味にすれば、結菜に似る。いや、結菜になるから。
「何すんだよ! 離せ!!」
手を思い切り振り払われた。結菜だったら困った顔をして「どうしたの?」とでも訊いてくるのに。そもそも言葉遣いがなっていない。
「そんなに突っかかってこないでよ。結菜はもっとお淑やかにしないと、ね」
僕はやんわりとそう言い、微笑んでみせた。
「だから俺は……」
相手は何か話しかけたが、一旦言葉を切った。そして声を低めてまた口を開く。
「アンタ、俺が結菜姉の真似事をすれば満足なのか?結菜姉に似ていれば誰でもいいのかよ」
そう言いながら語尾を震わせた。それから再び大声を出す。
「アンタにとって結菜姉って一体何だったんだよ!? 代わりが利く存在なのかよ!!」
僕は眉をひそめた。
結菜が僕にとって代わりが利く存在? そんなわけないだろう。
僕は誰よりも結菜のことが好きだ。結菜のことを誰よりも愛している。結菜以上の存在なんて僕には考えられない。
故に結菜がいない世界も考えられないし、認めない。
僕は目の前の人物を結菜の代わりにしているんじゃない。目の前の人物を結菜としているんだ。
それが僕の信じる現実。そうしないと僕の世界は成り立たないから。
だから今、ここにいるのが結菜だ。結菜とするんだ。
「僕にとって結菜はかけがえのない存在だよ」
「じゃあなんでぬけぬけと俺を結菜姉扱いできるんだよ! 結菜姉はただ一人だろう。あの世にいる結菜姉に失礼だとか思わないのかよ」
「……」
僕に畳み掛けられる言葉は、全て結菜の存在を否定するもの。僕が信じる現実世界にそぐわないもの。それがひどく不快だった。
結菜はここにいる。これからも僕の隣にいなければならない。
「何を言っているんだい? 結菜はここにいるじゃないか。君が結菜だよ」
僕は平然と言った。だってそれが僕の信じる現実のあるべき姿なのだから。
「俺は結菜姉じゃなくて結人だ! アンタ、ふざけんのも大概にしろ!!」
『結菜』は怒鳴り拳を振り上げ殴りかかってきた。
「……ッ」
僕はその手首を掴んだ。
「いつから結菜はすぐに手を出すようになったんだい? 殴られたら痛いんだよ」
引っ込めようとする手首を、僕は逃がさないように強く握る。その苦痛に『結菜』は顔を歪めたけど仕方ない。
僕は掴んだ手首を引っ張り、『結菜』を自分の懐に収まらせた。少し身長が高くてがっしりとしているけれど、温かくて『結菜』は確かに存在しているんだって思える。
「離せ!」
僕の腕の中で『結菜』はもがく。身体をよじり、僕を押し返そうと胸を叩く。
「ねえ、暴れないで僕を抱き締め返しなよ」
僕は声を掛けた。君は『結菜』なんだからそうするべきなんだ。
「誰が、そんなことするか。いい加減にしろ!!」
語尾を強め『結菜』が怒鳴った瞬間、鈍い音がした。僕の鳩尾に『結菜』の膝が食い込んでいた。
吐き気が込み上げてきて、僕はたまらず拘束を解き、腹部を押さえた。
痛い。鳩尾に膝蹴りを喰らわされたのだ。
僕は吐き気を押さえながらなんとか息を整える。
『結菜』だからと甘くみていた。ここまで結菜らしくない行動をとるとは思ってもみなかった。まずは完全に『結菜』にするところから始めなければならないようだ。
「さすがに僕も怒るよ。こんなに殴る、蹴る、されたらさ」
僕は立ち直るとすばやく近づき、『結菜』の顎を掴んだ。
「僕が一から結菜がどんな風だったか教えてあげるよ」
そう口にしながら僕は『結菜』に顔を近づける。
唇を重ね、舌を絡めてお互いの合意であることを確認。それと同時に彼女の緊張を解いてやり、ベッドに押し倒す。僕と結菜はそうやって愛情確認の一環の一つをしてきた。
身体からというのは僕のポリシーに反するけど、『結菜』と以前のように愛し合えるようにするためには仕方ない。
僕は抵抗し続ける『結菜』に唇を重ねようとする。その瞬間、『結菜』が白い綺麗な歯を見せた。
「痛っ」
僕は『結菜』から顔を離し、舌で自身の切れた唇を舐める。口の中で血の味が広がり、さらに床にも赤い滴が落ちた。
やられた。キスする直前に唇に噛みつかれたのだ。
『結菜』はその隙に僕から距離をとると、口から血混じりの唾を吐いた。
床が汚れる。それに何より結菜なら絶対にしない動作の数々が、僕を苛立たせる。
「いつからそんなに反抗的になったんだい? 『結菜』は僕のことを愛しているはずだろう?」
まだ血が滲む唇をまた舌で拭う。じんわりとした痛みと、鉄の味がした。
「アンタ、最悪だよ。本当は結菜姉じゃないって気づいていながら、男の俺を結菜姉扱いするだけじゃ飽き足らず、抱こうとするなんてさ!! しかも嫌がってんのを無理矢理さ。本物の結菜姉だったとしても、アンタは拒否されたら手込めようとするのかよ!?」
『結菜』はひとしきり喚き散らし、さらに捲し立てる。
「結菜姉が好きな奴だったから大目に見てきたけど、もう限界だ。人を何か知らねーけど薬まで使って家に連れ込んだりしやがって。結菜姉が付き合っていたのがこんな奴だったなんてな。知ってたらアンタみたいな狂った野郎、結菜姉には絶対に近づけさせなかった!!」
後半部分が鼻声になりながら、目尻にうっすらと涙を浮かべて『結菜』は僕を睨み続けた。その間にじりじりと『結菜』は玄関の方へ後退し始めた。僕はその分、『結菜』へと徐々に近づく。
『結菜』なんだから優しくする。その考えが甘かった。反抗的な態度を改めさせ、完全に『結菜』になってくれるまで、厳しくしなければならないようだ。
僕は口角を吊り上げた。
もう容赦しない。
「ひどいな。別に僕は狂ってなんかいないのに。薬を使ったのはね、君ときちんと話し合う時間を作りたかったからなんだよ。それに僕は結菜を手込めたりなんかしない。だって僕と結菜は愛し合っているんだから、そもそも手込めになんてならないよ」
今の君は嫌がるけど、その内完全に『結菜』になってくれるんだから問題ない。僕が信じる、あるべき現実世界を構築するために。
「ふざけるな。そんなことが理由になると思ってるのか!? アンタのやっていることは犯罪になるんだぞ! 警察に通報してやってもいいくらいだ」
「通報? 警察を呼んだところでどうってことないよ。僕は別に君を何日間も監禁したわけじゃないし。不本意だけど、痴話喧嘩で処理されて終わりだよ。それに君に僕を通報することができるのかい?」
僕は冷笑で返す。今の『結菜』はプライドが高いはずだから、自分がされたことを誰かに話すなんてきっとできやしない。
「くっ……。アンタ、全部わかってて言っているだろう。……だが俺を薬で眠らせたのは立派な犯罪行為じゃないのか? 懲役とまではいかなくても、すくなくともアンタに犯罪履歴を残すことはできるんだぞ」
「どうやってそれを証明するつもりだい? 仮に君が通報して警察を連れて来るまで、僕が君を眠らせたという証拠品を残しておくわけがないだろう」
「俺がアンタを見張っていれば……」
「僕がそれを黙って見ているとでも思うのかい? 僕の目の前で電話なんて掛けさせないよ」
僕は今なお後退り続ける相手に余裕を持って返答する。実際問題、薬のような証拠品の処分は、短時間じゃ完璧にはできない。普通に捨てればすぐに足がつき、僕がしたことはバレてしまうだろう。そうなれば、僕に薬を譲渡してくれた知り合い共々お縄だ。しかしそんなことをわざわざ馬鹿正直に話す必要はない。
ハッタリの一つや二つ、相手に気づかれなければ問題ないのだ。
後退していく『結菜』に同じだけ接近していくうちに、僕達は玄関まで来ていた。
そろそろ追いかけっこはおしまいだ。
それにしても『結菜』は口が悪くて反抗的過ぎる。僕を罵る口と、殴ったり蹴ったり噛みついたりする態度を改めさせるには、多少手荒になってしまっても仕方ないだろう。
僕は大股で一気に『結菜』に近づこうとした。
「ッ」
その瞬間に『結菜』は僕の顔面目がけて何かを投げつけてきた。僕は当たってしまうなんて愚行はせず、片手で受け止めた。手に掴んだそれは僕の靴の片割れ。玄関に常時出してある二足の内、一足の片割れだった。
「アンタとは話が通じそうもないことがよくわかったよ。だが俺は結菜姉でも結菜姉になるつもりもないからな」
もう半足を持ち『結菜』はそう宣言した。そしてその間に『結菜』自身も靴を履く。
黒が基調のスニーカー。結菜はショートブーツとか、動きやすいというよりは可愛らしい靴をいつも履いているのに。
結菜らしくない事柄が僕の頭を蝕む。信じる現実を真実が揺るがそうとする。
目の前にいるのが結菜だ。結菜なんだ。
結菜にするんだ。
結菜がいる世界が僕の信じる世界なのだから。
「何わけのわからないことを言っているんだい? 君が結菜じゃないか。今の結菜はなんだかちょっとおかしいみたいだから、僕がどんな風だったのか思い出させてあげるよ」
僕は笑みを浮かべた。僕は僕が信じる世界を構築するまでだ。『結菜』がいることが僕にとっての事実で真実なんだ。
「おかしいのはアンタだ!」
『結菜』はまた怒鳴ると靴を投げつけてきた。僕はもう片方の手でそれをキャッチする。
「こっちにおいでよ。僕が時間をかけて結菜に教えてあげるからさ」
そう呼び掛けても『結菜』はこっちには来ないだろうから。僕は前へ足を踏み出す。
すかさず飛んでくる靴。
僕の両手はさっき投げつけられた靴で塞がれていたため、顔を背けることによってそれを避けた。
「これ以上アンタとは付き合い切れない」
『結菜』はさらにもう半足を僕に投げつけると、ドアを開け逃げ出した。僕は避けていたため反応するのが遅れ、なんとか靴を持ったまま手を伸ばすものの捕まえ損ねてしまった。
僕は手に掴んだ靴を元の位置に戻した。そして床に転がったもう一足分も拾い、きちんと揃えた。
今ならまだ『結菜』に追いつけるかもしれない。だが今の『結菜』を捕まえるのは容易なことじゃない。薬を使った不意打ちだってもう通用しないだろう。ならば無理に追う必要もない。また次の機会を狙えばいいだけの話だ。
僕はドアを開けて外を出た。映るのはコンクリートの廊下とそこに差し込む夕日のオレンジだけ。『結菜』の姿は最早どこにもなかった。
僕は結菜がいないと生きていけない。結菜がいない世界なんてあり得てはならないんだ。
結菜がいる世界が僕の生きる世界。
結菜がいる世界が僕の信じる世界なのだから。
今は反抗的だけど、また一カ月前までのように愛し合えるようになるよね?
ねえ、結菜。
今はもう姿の見えない恋人を思い浮かべながら、僕はそう呼び掛けた。
END.
幻想セカイ 七島新希 @shiika2213
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます