鴇 六連先生作品★スペシャルショートストーリー

角川ルビー文庫

ドラゴンギルド&妖精は花蜜に濡れ

アナベルと銀の魔弾


   アナベルと銀の魔弾



 その人は春のおとずれとともにドラゴンギルドへやってきた。

 時刻は午後二時五十五分――。執務室まで案内するよう、リーゼから指示を受けていたアナベルは、定刻の五分前に正門へ行く。そこに琥珀色の瞳を持つ長身の男が立っていた。


「ヴェルレイン・ダンハウザーと申します。筆頭バトラーに――面会の予約アポイントメントは済んでいます」

「はい。うかがっております。どうぞこちらへ」


 ヴェルレインと名乗った男は上質の三つぞろいを身にまとい、革の鞄と形の良いハットを手に持っている。そして、遠方の異国から来たという彼は、とても流暢に帝国の公用語を話した。


「驚きました。先ほど大きな竜が飛んできて、間近に着陸したようで……。とても美しい――本当に、竜は存在するのですね」

「僕も最初に見たときはとても驚きました。御伽おとぎ話の中にしかいないと思っていましたから」


 そう答えると、ヴェルレインは整った顔に微笑を浮かべた。身なりや所作は洗練されていて、声はとても落ち着いている。年齢は二十代後半だろう。

 アナベルはヴェルレインを執務室に案内し、一旦退室した。ティーセットを運び、客人とリーゼに紅茶を出すと、上司の隣のソファに座る。そうするよう、あらかじめ言われていた。

話は少し進んでいて、ローテーブルにはヴェルレインが出したと思われる書類の束が幾つか置かれていた。なにかの資料だろうか。書類に目を通しながらリーゼが話す。その内容をアナベルは懸命に聞き取った。


「発祥は約六百年前……魔物の歴史としては新しくもないが別段古くもない。我が国の魔物が貴国に渡ったとも考えられますが、その可能性は低そうですな。我が国には大型の蝙蝠も棲息していますし、悪さをする魔物ももちろんいます。しかしこの蝙蝠こうもり一族というものは、魔物とはまた別の生き物でしょう。質が悪すぎる」

「貴国に棲息する魔物が、これに類似した行動を起こしたという事例はありませんか?」

「ありません。人間の女性に産ませた子の身体を使って金を稼ぐなど、そこまで豊富な知恵を持った魔物はいませんし、そのような下劣な行為はまず竜が許しません。蝙蝠一族がのさばった理由は、絶対的統率とうそつ者の不在。これに尽きます」


 ヴェルレインの国にも人間以外の生き物がいるようだが、話は少しも穏やかではない。リーゼが読み終えた書類を手渡してくる。アナベルはそれに目を通した。

 人間の生き血のみを糧として若さを保つ蝙蝠一族。彼らが経営するキャバレー・エカルラートと、そこで客を取らされている〝妖精ラフェリ〟と呼ばれる者たち。絶世の美青年であるラフェリたちは、蝙蝠王が人間の美女に無理やり産ませた子であり、その背には退化した羽がある。

ラフェリは、蝙蝠王の城を――エカルラートを出ることは決して許されず、加齢によって金を稼ぐことができなくなれば、蝙蝠一族に全身の血を吸われ、死んでいく。


「現在、蝙蝠王の城には五十人前後のラフェリがいると見込んでいます。彼らを出産した女性は皆、蝙蝠一族に殺害されました。証拠は完全に隠滅いんめつされています」


 背筋が寒くなる。遠い異国の、おぞましい御伽話を聞かされているような錯覚に陥った。

絶望と恐怖に満ちたギュスター城の日々が彷彿ほうふつとしてよみがえる。しかしラフェリたちが見せられている悪夢は、過去のアナベルのそれとは比べものにならない。今この瞬間も、彼らが残酷極まりない環境に縛られているのかと思うと、資料を持つ手が震えた。

 リーゼの言う通り、蝙蝠一族はアルカナ・グランデ帝国に棲息する魔物とは違う。

決定的な違いはふたつある。ひとつは、国のたみが蝙蝠一族を人ならざる存在として認識できていないこと。そしてもうひとつは、リーゼが言った、絶対的統率者の不在。

竜さえいたら、蝙蝠一族の酷悪な行為は絶対に成立していないのに。

どうにかできないのだろうか。蝙蝠一族を抑え、ラフェリたちを解放する手立てはないのだろうか。そう考えながら資料を読み進めるアナベルの瞳に、馴染みのない単語が映った。

――銀のだん? なんだろう……?


「お願いします。銀の魔弾を譲ってください」


 そのとき急にヴェルレインが声を大きくした。驚いたアナベルは、銀の魔弾の説明を読む直前で資料から目を離す。見つめたその表情には、強い苦悩と怒りがあった。


「銀の魔弾と、ドラゴンギルドの存在にたどり着くまで十五年以上かかりました。私は命と人生のすべてを賭けて、ラフェリたちを解放します。それが蝙蝠一族を唯一目撃もくげきした私の使命です。銀の魔弾を譲ってください。どうか――」


 強い憤怒を宿す琥珀色の瞳は恐ろしくはなく、アナベルには希望の色に見えた。誰一人として認識できていない蝙蝠一族のことを、ヴェルレインだけが知っている。彼だけが、五十人近くいるというラフェリたちを解放できるのだろう。そのためには銀の魔弾が必要不可欠だということは、彼の言葉からよく理解できた。しかし、譲ってくれとはどういうことなのだろうか。


「資料や情報がまったくない環境で、よくここまで調べたものだ」


 リーゼが片眼鏡をカチャリと鳴らす。いつものように、淀みない早口で言った。


「銀の魔弾の存在は帝国の人間もほとんど知りません。隠しているわけではなく、表に出る機会が非常に少ないのです。ダンハウザー伯爵の資料にある通り、銀の魔弾は竜の鱗をだんしんとし、竜のみが製造できる弾丸です。ありとあらゆるものの命を奪う。蝙蝠王も必ず殺傷できます。一発、百三十万ペルラー(約二億二千八百万円)、一括前払いです。よろしいか」

「リーゼさんっ……」


 絶対に口を出すところではないと理解しているが、その法外な金額に声をあげてしまった。

 竜だけが作り出せる銀の魔弾。その希少性ははかり知れない。だが、ヴェルレインはここに来るまでに十五年以上かかったと言った。若い彼は、いったい何歳のときからこの苦悩を抱えているのだろう。長い年月をかけて調べ、遥か遠くの異国から銀の魔弾だけを求めてアルカナ・グランデ帝国に来たというのに。リーゼが提示したその金額は、あまりにも無慈悲に思えた。


「わかりました。百三十万ペルラーをすぐに用意します」


 しかしヴェルレインはあっさりと承諾した。驚くアナベルの隣で、リーゼがぴんとつり上がった猫の瞳を半分にする。


「問題は金じゃない。――弾芯だ」

「弾芯……竜の鱗ですか?」

「そうだ。資料にもあった通り、蝙蝠王のようなわけのわからん存在は燃やすのが賢明だろう。ダンハウザー伯爵は、火竜サラマンダーの鱗を弾芯にした銀の魔弾を希望されている……そうですね?」

「はい。蝙蝠王を確実に殺すためには、火竜の鱗を弾芯にして作った銀の魔弾を、奴の心臓に撃ち込む必要があります。それ以外にたおす方法はありません」


 無理です――そう言ってしまいそうになった。ナインヘルは絶対に鱗を渡さない。リーゼもそれをよく理解している。硬い表情で指示を出してくる。


「現存するサラマンダーは一機のみです。――アナベル。ナインヘルを連れてこい」


 イエス・サーと言いたいのに言えなかった。どうにか小さくうなずいて席を立ち、執務室を出る。確認した懐中時計は午後四時をさしていた。ナインヘルは帰還している。アナベルは巣に向かって駆けだした。



 しかし結局、一人で執務室に戻ることになった。


「ナインヘルは……、鱗は誰にも渡さない……ので、会う必要もない、と言っています……」

「そんな、――」


 そのようなことしか伝えられないのがたまらなく心苦しい。実際はナインヘルにもっとひどい言いかたをされたし、物凄ものすごく怒られた。リーゼは火竜が執務室に来ないことも、どう返事をするかも予想していたのだろうか。怒りもせず文句も言わず、大きな溜め息をひとつつく。

 ヴェルレインは落胆の表情を隠せないでいる。アナベルは彼よりも気落ちしていた。多忙なリーゼは早々に見切りをつける。


「これ以上の進展は期待できません。本日はお帰りください」

「――また、うかがいます。銀の魔弾の代金も用意します」


 送る必要はないのだが、アナベルはあと少しだけ話がしたくて、正門までの道をヴェルレインとともに歩いた。自分の名を伝え、火竜の鱗を入手できなかったことを詫びる。するとヴェルレインは笑った。


「アナベルのせいではないだろう。それに、諦めるつもりはないんだ。銀の魔弾を手に入れるまでは帰国しないし、何度でも来させてもらうよ。仕事の邪魔はしたくないが、俺にも譲れないものがある」


 ヴェルレインは正門で迎えたときよりもくだけた言葉で話す。アナベルはそれが嬉しかった。

自分に兄弟はいないけれど、もし兄がいたらこんな感じなのだろうかと想像する。

 そして、ふとした思いがよぎり、それをたずねた。


「ヴェルレインさんは、どうしてここまでするのですか? 十五年以上も調べつづけてこの国に来て、あんな法外なお金を用意するとまで言って――」

「弟がいるんだ」

「えっ……?」

とらわれているラフェリたちの中に、血を分けた弟がいる。幾つになっているのかはっきりとはわからないが、おそらくアナベルくらいか、もう少し年下かと」

「そんな……!」


 ラフェリの中に弟がいる――それは、ヴェルレインの母親が悲劇に見舞われたことも意味していた。身体がわずかに震える。恐怖のせいもあるが、それ以上に怒りやいきどおりのほうが強い。


「すみま、せん……僕、軽率に……」

「アナベルは謝ってばかりだな。そんなに気にしないでくれ。たとえラフェリの中に弟がいなくても、仮に母親がさらわれていなかったとしても、俺はこの国に来ている。俺は必ず蝙蝠王を斃し、ラフェリ全員を解放する。それ以外に亡くなった女性の魂を救済する方法はない」


 ヴェルレインの綺麗な琥珀色の瞳に、先ほど見た激しい苦悩や憤怒はなかった。それらは瞳の奥に潜み、今はラフェリや彼らを産んだ母親たちへの親愛が映っている。

 銀の魔弾を渡したい。酷悪を浄化させる魔力を持つ、炎色ほのおいろの鱗をヴェルレインに渡したい。


「では、また」


 ハットをかぶり、去っていくヴェルレインの、その広い背中が小さくなるまで見送る。

 そうしてアナベルはナインヘルの巣へ駆けて帰った。

 


寝台に横たわるナインヘルの機嫌はまったく直っていない。裸の背に浮かぶ赤い鱗が、少し逆立っているほどだった。アナベルが寝台に近づくとわずかに振り向き、縦長の瞳孔どうこうをぎゅっと狭めた金色の瞳で睨みつけてくる。しかし伸びてきた大きな手は、力強いだけで怖くはない。

アナベルはよくわかっていた。ナインヘルはいつも、乱暴にしないよう気をつける。アナベルを怖がらせまいと思いやってくれる。


「ナイン……」


腰を取られ、寝台に寝かされる。覆いかぶさってきたナインヘルの首に両腕をまわして、逆立つ鱗を撫でた。

指先で感じる、美しく並ぶ赤い鱗たち。いつ見ても溜め息が出る。ナインヘルの鱗は一枚一枚がさかる炎の結晶みたいだった。彼が世界最強であることを示す、鮮烈な炎の色。

 たった一枚の鱗が、五十人もの妖精を救う――アナベルは鱗が欲しいあまり、無意識にナインヘルの鱗を引っ掻く。巨躯きょくがびくりと揺れた。


「おい、アナベル」

「一枚でいいんだ。お願いだよ、ナイン。銀の魔弾を作るために、一枚だけ……」

「おまえまだその話してんのか? 鱗はやらねえと言っただろ」

「どうして? ナインは僕に百枚くれるって言ったよ。一枚くらい譲ってもいいでしょう?」

「………。くだらねえことばっかり言いやがって」

「くだらないことないよ! 五十人ものラフェリが囚われているんだよ。僕がギュスターに捕まってたときと同じように……ううん、それ以上に、身体も精神も命も拘束されて、望まないことばかりをやらされて――」


 せっかく平たくなった鱗が、ばっ、と逆立つ。ナインヘルが牙をき出しにする。


「だったらおれが今から行って、そのキャバレーとやらも蝙蝠の化け物も燃やしてやる! 全部、跡形もなく燃やし尽くしてやるから、場所を言えっ」

「ちがう……そうじゃないよ、ナイン」

「魔弾がなけりゃなにもできねえ人間より、おれが行ったほうがよっぽど早い。妖精を好き勝手してる奴ら全員、おれが始末してやる。どこなんだ、場所を言え!」

「ひどいよ。そんな言いかたしないで」


 苛立つナインヘルの言葉に胸が痛んだ。竜の唇はラフェリたちを救うと確かに言っているのに、アナベルは悲しい。どうしてこうも食い違ってしまうのだろう。ナインヘルも眉間みけんに深いしわを刻む。優しくすべきだという思いと、抑えがたい怒りがせめぎ合っているようだった。


「なにがひどい? ひどいのはどっちだ。おまえはなにもわかってねえ」

「なにもわかってないってどういうこと? 僕はただ、一枚だけ――」

「もうしゃべんな! この話は終わりだ」


 アナベルの最後の一言で、怒りのほうへ針が振れたようだった。口づけではなく、唇に噛みつかれる。口内に牙が当たって血の味がする。

いつも怖がらせまいと思いやってくれるのに。その夜の交合は、ひどく乱暴なものだった。


   *   *   *


「あらら。それは可哀想かわいそうだねえ……。――ナインヘルが、とっても可哀想」

「えっ……?」


 翌日の午後。アナベルは中庭でサリバンのアフタヌーン・ティーの相手をしていた。正しくは、相手をしてもらっている。アナベルは昨日のできごとをサリバンに相談した。彼はリーゼからも事情を聞き、詳細を知っている。そのサリバンから出た言葉にアナベルは驚いた。


「リーゼくんもアナベルも、かわいい顔してこくなことするよね」

「ど、どういうことですか……?」

「アナベルは、鱗なんて簡単に取れると思ってるでしょ? ぼくらがちょっと引っ張ればすぐに抜けるって思ってる。――違うよ、耐えられないくらいの激痛があるんだから。鱗は身体の一部だよ。アナベルたちについてる手足の爪と同じ。そんなものがさないし、絶対にほかの誰かに渡さないでしょう?」

「え……! ごめん、なさい。知らなかった……。でも、ナインはいつも鱗を取って、顔を隠すための仮面を作ります。それに、鱗を……つけようと、してきます。何度も……」


 それは今も見せられる竜の所有行為だった。拒んではいるが、ナインヘルは折々にアナベルの身体に鱗を増やそうとしてくる。ナインヘルもサリバンも『本当は身体じゅうに鱗をつける』と言っていた。

サリバンは金色のまつげを揺らし、まぶたを半分閉じて、心底あきれたという顔をする。


「激痛があったって、いちいち表に出さないよ。ぼくがリーゼくんに鱗をつけるのは本能だから、ぼくの意思でどうこうできるものじゃない。つけないと気が済まないんだよ。激痛なんてどうでもよくなる。ナインヘルが鱗を百枚わたすと言ったのは、アナベルだからでしょう。百回の激痛があってもいいからアナベルだけにつけたいんだよ。それを、会ったこともない生き物のために一枚ゆずれだなんて、ひどすぎるよ。本能に抗って鱗を抜けば精神だって傷つく」

「………」

「かわいいラフェリちゃんたちを救いたい気持ちはよくわかるよ。ナインヘルが今すぐキャバレーと蝙蝠こうもり一族を燃やしに行くと言ったのは、守護の本能が働いたからでしょう? ギュスター城にいたときのアナベルと同じだなんて聞かされたら、もうたまらないよね。助けに行きたくてしかたなかったはずだよ。アナベルはそれもダメって止めながら『激痛と精神的せいしんてき苦痛に耐えて鱗を抜け』って言ったんだ。ナインヘルが怒るのも無理はない。誰かのために鱗を取れだなんて、アナベルだけには絶対に言われたくないもの。上司に『鱗を一枚提出しろ』って命令されたほうがまだまし。リーゼくんはわかってるのに、どうしてしないのかなあ? リーゼくんもアナベルも、どっちもひどい子。今回ばかりは弟に味方しちゃうよ、お兄さまは」

「そん、な……どうしよう、僕……」


『ひどいのはどっちだ。おまえはなにもわかってねえ』――ナインヘルの声が脳内に響く。

 胸が苦しい。息がしづらくなった。思い起こせばすべてサリバンの言うことに当てまる。

 激しく逆立った鱗と、『妖精を好き勝手してる奴ら全員、おれが始末してやる』という言葉には、ラフェリたちを守りたいというサラマンダーの強い思いがあった。

 鱗を取るときに激痛をともなっているなんて知らなかった。自分の鱗を誰にも渡さない竜。その竜が、激痛などものともせずに惜しみなく鱗を抜くのは、長い生涯でたった一人と決めた相手だけ――昨日のアナベルは、ナインヘルに本能に抗うことばかりさせようとしていた。


「ナイン。ごめん……」


 ひどいことをしていたのはアナベルだった。昨夜は乱暴にされたけれど、傷ついていたのはナインヘルのほうだった。そうわかっても、銀の魔弾を諦めることができない。どうしたらいいのかわからずに、アナベルの心は激しく揺れ動いた。


   *   *   *


 ヴェルレインは三、四日おきにドラゴンギルドを訪ねてくるようになった。巨額の代金はすでに用意されている。しかし銀の魔弾についてなんの進展も見られない。話をしかけては怒られることを繰り返して、アナベルはナインヘルに魔弾の話ができなくなっていた。竜に鱗の提出を命令できる筆頭バトラーは、そうはしないで事態を静観している。

 訪ねてくるヴェルレインに対応するのはリーゼだったが、彼が不在のときはアナベルが代行した。それすら気に食わないと言うナインヘルに、とうとうヴェルレインと話すことまで禁じられてしまう。

『次、会ったらあの男を燃やす』――そう言われたアナベルは、ヴェルレインとの面会を諦めた。でもあまりにも理不尽で悔しくて、その日はナインヘルの巣に帰らなかった。アナベルは、オーキッドの巣や、先輩バトラーであるジュストの宿舎で休ませてもらうようになる。

どうにもならないまま時間だけが流れていく。ヴェルレインとともにやってきた春は、盛りを過ぎようとしていた。



晩春に差しかかろうとしていたその日、アナベルはナインヘルに付いた。

これは仕事なので避けようがない。帰還したナインヘルはいつものように巣へ直行する。

アナベルを抱いたままソファに座る火竜は、機嫌が悪いのを通り越して怒っていた。

わかっている。魔弾のことはもうどうでもよくて、ナインヘルにとっての問題はアナベルが巣にいないことだけだった。


「いつまでそんなふくれっつらしてるつもりだ? 二度と巣を出るな。またジュストのところに行くなら宿舎を燃やす」

「やめてよ。燃やすばかり言わないで」

「ぶすっとするな。二度と巣を出ないと誓え」

「……っ」


 信じられないほどの剛力で握られて、赤い指輪の煌めく左手がつぶれそうになる。このまま本当に手を潰されて、薬指が千切ちぎれてしまったらいいのにと思った。そうしたら、赤い指輪を弾芯だんしんにできるのに。もうヴェルレインを待たせたくない。でもそれ以上に、ナインヘルを傷つけたくない。どうしたらいいのかわからなくて、涙が滲んでくる。それに気づいた竜の巨躯が、ほんのわずか揺れた。


「……もう巣を出ないよ。ナイン。怒らないで、僕の話を聞いて。――僕、知らなかったんだ。鱗を取るときに激痛があることも、本能に逆らって鱗を抜いたら心が傷つくことも。なにも知らないで、鱗を譲ってなんて言ってごめんね」


涙の気配を遠くに追いやって、アナベルは懸命に言葉をつむいでいく。左手を握りしめてくる力がゆるんで、いつも通りの強さになった。


「今すぐ蝙蝠一族を燃やしに行くって言ってくれてありがとう。すごく嬉しかった。僕、夢で見たよ。ナインの背中に乗って、ラフェリたちを助けに行く夢。本当はそうしたいけど、でもきっと、それじゃだめなんだ……」

「なにがだめなんだ。意味がわからねえ」

「うまく言えなくて、ごめん。……たぶん、ヴェルレインさんの手で、決着をつけることなんだと思う。人間は蝙蝠の化け物より弱いから、殺されてしまうかもしれない。ヴェルレインさんは命を懸けてラフェリたちを解放する覚悟を決めてる。それを手伝えるのは、ナインだけなんだよ」


 ナインヘルの表情には困惑があった。でも、もう怒っていなくて、アナベルの言葉をどうにか理解しようとしてくれているのが、よくわかる。金色の瞳に青い瞳を重ねて言う。


「ラフェリたちを解放するのはヴェルレインさんだけど、その現実を導き出せるのはナインだけなんだ。広い世界で、僕の火竜サラマンダーだけ……。鱗を取るときの激痛が、僕にも起こればいいのに。本能に逆らって心が傷ついたら、僕が必ずいやしてみせるよ。だから、ナイン――」

 

前とはまったく違う気持ちで、一枚の鱗を希望しようとした。それをナインヘルの言葉にさえぎられる。


「おれは、アナベルになら鱗を全部やっていい。おまえ以外の奴には一枚もやらねえ」

「………。うん。ありがとう」

「指輪だけじゃ足りねえといつも言ってる。今から増やす。両耳につける」

「う、ん……」


 ナインヘルはわかってくれたような気配がしたけれど、幻だったのだろうか。落胆を隠せない。これまで鱗を増やされることを避けてきたが、今はこばめる雰囲気ではなかった。

 ナインヘルがうなじに手をまわす。引き抜いた鱗に、ふっと息を吹きかけた。激痛を感じていると教わってもなお、そのようにはまったく見えない。もう何度感じたか知れない竜の強靭さにアナベルはまた触れる。赤く煌めく火竜の鱗が、耳に近づけられた。


「……っ」

「痛いか?」

「ううん、大丈夫……」

 

 耳朶じだを舐められる。痛みはほんの一瞬で、あとは竜の熱い舌の感触だけになった。

アナベルの耳朶を口に含んだまま、ナインヘルはふたたびうなじに手をまわす。反対側の耳も同じだった。竜の舌がわずかな痛みを消していく。

 両耳が熱い。小さな炎がそこに宿るようだった。ナインヘルはまだ耳から唇を離さない。

 どうしてかまたうなじに手をまわした。その手が下げられて、アナベルの手に重なってくる。


「ナイ、ン……?」

「おれは、おまえにしか鱗を渡さねえ」


 重ねられた手のあいだに、小さな塊がある。それはとても硬く、そして熱い。

ナインヘルが耳から唇を離す。縦長の瞳孔を狭くした金色の瞳で見つめてくる。


「この鱗をおまえにやる。これはもうアナベルのものだ。好きにしろ。巣に置くのも、制服のポケットに入れて持つのも自由だ。誰かに渡したいならそうすりゃいい」


 ナインヘルは少し苦しそうにして、小さく「くそ……」とつぶやきながら大きな手を離す。

 アナベルの掌で赤く輝くサラマンダーの鱗は、先が鋭く尖った弾芯だんしんの形をしていた。


「ナインっ! ナイン!」

「なん、だよ、っ」


 喜びが弾けて名を叫ぶ。力いっぱい体当たりしてしまって、いつも絶対にぶれない巨躯きょくがソファに倒れた。そこに乗り上げ、首に腕をまわして抱きしめる。


「ありがとう! ありがとうね、ナイン!」

「なんで泣くんだよ。ふくれっつらとか、泣くのがいやだから鱗をやったのに、意味ねえだろ」

「ち、ちがうよ、嬉しくて」

「とにかく泣くな。あと、絶対に巣を出るな。次、宿舎で寝たら燃やすぞ」


 ナインヘルが長い指で涙を拭ってくる。うん、とうなずいた。本当に嬉しくて嬉しくて、この喜びをどう伝えたらいいのかわからない。先ほどまで落ち込んでいたのに、手の平を返したように言うのは軽率に思われるだろうか。でも口にしていないだけで、ずっと想ってきた。

アナベルは、大きな喜びの力を借りて唇を動かす。


「ナイン……。あの、――あ、……」

「あ?」

「あ……、愛してる……」


 そのあとのことは、よく憶えていない。怒濤の交合のさなか、ナインヘルに「さっきのもう一回」と何度も求められ、繰り返し言わされたことしか憶えていなかった。

 目が覚めたら寝台に移動していた。アナベルは大慌てで応接セットへ駆ける。

 ローテーブルには、朝陽を受けて赤く輝く炎の結晶があった。


   *   *   *


「よくやった。ご苦労だったな。ここまで完成度の高い弾芯は、俺も初めて見る。美しい……。さすがはナインヘル」


 普段あまり褒めない筆頭バトラーが、そう言ってくれた。ナインヘルの魔力の強さだけではなく、技術の高さまでめてもらえたことがたまらなく嬉しい。リーゼはアナベルの掌に弾芯を戻す。そうして少しだけ意地悪そうに笑い、心の中を読んでくる。


「なぜ業務命令にしなかったのか――そう思っているんだろう?」

「はい……。ヴェルレインさんはもっと早く魔弾を手に入れていたはずです」

「そうだな。俺が言えばナインヘルは鱗を提出するしかない。ダンハウザー氏が最初に来た日に命令することもできた。だが、その弾芯で作った銀の魔弾では、蝙蝠こうもり王をたおせない可能性が出てくる」

「えっ……どうしてですか?」

「大事なのは、念、だな」

「念……思いが籠っているか、どうか――、ですか?」


 アナベルの問いに、筆頭バトラーはパイプの煙をくゆらせながら深くうなずく。


「俺の命令によって無理やり作られた銀の魔弾でも、心臓に当たれば蝙蝠王は死ぬ。しかし、心臓に当てられる確率は低い。これはダンハウザー氏の射撃しゃげき技術のことを言っているのではない。極限状態で当てられる者はほとんどいないということだ」


 蝙蝠王との対峙――その恐ろしい光景をアナベルは想像する。どれほど覚悟を決めていても、思いが強くても、たった一発の魔弾が外れてしまえば、そこですべてが終わってしまう。


「だが、おまえが持つ弾芯にはナインヘルの魔力と、なにより強い意思が宿っている。アナベルにしか鱗を渡さないという本能をみずから超越して、おまえの向こうに視たラフェリたちを解放するという強い意思――その弾芯で作った魔弾なら、たとえ心臓を外しても……希望は見えてくる。さっそく魔弾に加工させよう」

「はい! ……加工は、どうやってしますか?」

「魔弾の加工は土竜ゲノムスがする」

「土竜? エドワードさんや、シャハトですか……?」

「竜とは非常におもしろい。サラマンダーの魔弾は、当たれば炎を吹くそうだ。シルフィードの魔弾は風をとらえ、標的を貫くまで絶対に止まらない。オンディーヌの魔弾は地下水脈や河川かせんを逆流してでも標的を撃つ。しかし土竜の魔弾だけは飛ばないんだ。発砲しても地に落ちる」

「えっ! ――あ、土竜は人間を殺せない……」

「そうだ。そして、土竜だけが金属や鉱石を自在にあやつる……火竜、風竜、水竜が弾芯を提供し、土竜が加工して銀の魔弾ができあがる。――エドワード老に加工させるのは忍びないな。シーモアも落ち込むからやめておこう。バーチェスは雑だからだめだ。やはりシャハトがいい。あいつ、でかくて丸い手をしてるのにめちゃくちゃ器用だからな。いいものを上げてくる」

「はい! 今からシャハトに頼みに行きます」



 シャハトは加工を快く引き受けてくれた。三日後にエントランスホールにあるラウンジで待ち合わせ、銀の魔弾を受け取る。


「わぁ……! すごい。すごく綺麗だ」

「三日も預かってごめんね。本当は一瞬で加工できるんだ。でも、どうしても彫刻したくて」

「ううん、本当にありがとう。シャハトはすごいね。この魔弾、宝石より素晴らしいよ」


 シャハトは箱まで作ってくれていた。それにおさめられた銀の魔弾には、精巧な彫刻がほどこされている。小さな弾丸の中で、退化した羽を持つ妖精が弓矢をかまえていた。それは蝙蝠王を貫く矢だ。


「ラフェリさんたちが早く解放されたらいいね」


 土竜はたまらなく優しい。シャハトのまっすぐな言葉に、アナベルは泣きそうになった。

 隣にいるキュレネーが、兄弟の脚にころんと寝そべり、「見せて~」と甘えた声を出す。


「ずっと見てたでしょ。キュレネーは飽きたって言ってたよ」

「最後にもう一回見とくの。――飽きた、じゃないよ。シャハトが魔弾のほうばっかり向いてぼくのこと見ないから退屈って言ったの」


 ぷく、と頬を膨らますキュレネーに、アナベルはシャハトと一緒に「ごめんね」と言った。

キュレネーは「必ず妖精たちを解放してね」と言って銀の魔弾にキスをしてくれる。

 そうして皆の想いが詰まった銀の魔弾を、アナベルはヴェルレインに手渡した。


「アナベル。本当にありがとう。アナベルがもたらしてくれた奇跡を、俺は生涯忘れない」


 この人は、必ずラフェリたちを解放する。どうしてかわからないけれど、そう確信できた。

強く美しく輝いていた琥珀色の瞳を、アナベルもずっと忘れない。



 ヴェルレインが帰国してほどなく、ドラゴンギルドは忙しさを増した。

 帝都に連続猟奇殺人が発生したため、竜たちは夜間警邏けいらに駆り出されるようになる。緊急案件も多く入るなどして、アナベルは毎日、目がまわるくらいに働いた。

 晩春も過ぎ、初夏の匂いがしはじめたその日、時刻は正午すぎ――。


「ナイン、早く、こっちに来てっ。出動、遅れるよ!」


 時間ぎりぎりまで惰眠をむさぼり、ようやく脱衣室にあらわれたナインヘルの軍服を脱がしていく。そのとき、大あくびをしていたナインヘルが、突然「うお」と言った。


「ど、どうしたの? びっくりした」

「あいつ、ぶっ放しやがった」

「あいつって?」

「銀の魔弾の奴だ。撃ちやがったぜ」

「えぇーっ! ヴェルレインさんっ? ナイン、そんなことまでわかるの? どうなったの? 当たった?」


 思わず裸の腰に抱きつく。ナインヘルはくうを睨みつけながら「外しやがった」と言った。


「そ……そん、な……」


 信じたくなかった。皆の想いがたくさん詰まっているのに。縦長の瞳孔をした金色の瞳が、泣きそうになるアナベルを見おろしてくる。薄い唇の、片方のはしがわずかに上がった。


「心臓は外したが腹には当たった。気に食わねえ野郎だから、腹ん中、燃やし尽くしてやった」

「そ、それじゃあ……」


 世界最強を誇るアナベルのサラマンダーは、ニッと笑う。


「再起不能だ」

「ナイン! ありがとう!」


 巨躯を力いっぱい抱きしめ、そのたくましい胸に、ぎゅっと顔を押しつけた。ジュストが「はい、そこの火竜と魔女、脱衣室でイチャイチャしなーい」と笑いながら叱ってくる。

もうなんでも嬉しかった。嬉しすぎてにやけてしまう。興奮ぎみでナインヘルに言った。


「今日、早く帰ってきてね! お祝いをしようね。お酒、準備しとこう」

「酒? おまえ匂いだけで酔うだろ」

「それでもいいの。ナイン、絶対だよ、早く帰ってきてよ!」


 ゲートへ歩いていくナインヘルの、赤い鱗が浮かぶ大きな背。それを見つめながら元気よく叫ぶ。ナインヘルは片手をほんの少しだけ上げて応えてくれた。

 ゲートを渡る薫風くんぷうには初夏の匂いがある。海の香りまでもするようだった。

 青空に向かって飛んでいく炎の塊を笑顔で見送る。

透明度の高い初夏の光を受けて、アナベルのピアスが赤く煌めいた。

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