三十九、出立
年が明けて、寒さはこれからが本番だが日はまた少しずつ伸びていくという頃、俺は正式に親父に弟子入りして徒弟になった。
徒弟になる前から手伝いはしていたので、正直いうと単に再開したみたいな気分だった。もちろん任される仕事も増えたし、親父が以前よりぐっと厳しくなったのは確かなのだが。
始めて数日、まだまだ鎚は握らせてもらえないのだけれど、仕入れや納品をやるようになってだいぶ鍛冶屋の見習いらしくなった気がする。常連客の中には以前からの顔見知りもいて、そういう人は俺に愛想良く接してくれた。親方になって鍛冶屋ギルドに正式加盟したのに徒弟も職人も雇わず、ひとりですべてこなしているのを見てずっと心配していたんだぞと言う人もいた。もしかしたら親父は、この狭い家にさらに人を入れたら悪いだろうと俺に気を遣っていたのかもしれない。
朝、起きて火をおこすのは俺の仕事になった。火の近くだから身を切るような寒さは感じなくて済むものの、ふいごで風を送るのは結構大変な作業だ。
いくら夜明けが遅いとはいえまだようやく空が白み始めたという時間なのに、家の前に一台の馬車が停まった。そこから聞こえる俺を呼ぶ声に、俺は飛び出すように表に出た。
「リル! もう行くのか?」
「うん、このあとすぐ街を出るよ」
ポーラさんの馬車から落ちそうなほど身を乗り出して、リルは俺に手を振っていた。
リルが俺に教えてくれた夢は、世界中を見て回るというものだった。そのためにポーラさんに頼み込んで弟子入りさせてもらう約束まで取りつけたらしい。思い立ったら即実行の、その行動力にはつくづく恐れ入る。
「にしてもリルが商人になるなんて予想もしてなかったぞ? 確かに好奇心を満たすのには適しているのかもしれないけど」
「へっへん、ソラがあっと驚くような大商人になっちゃおうかな」
「……リル、この前の算術の成績は?」
「わぁああ! それは聞かないで!」
「はぁ、なんだか心配だなぁ。ポーラさん、こんな感じでいいんですかね? 俺としてはもっと真剣に取り組んでほしいんですが」
「問題ないさ、商人の仕事は私が順々に教えていこう。私の予想では、リルくんは誰からも愛される立派な商人になると思っているよ。ああ、でも大商人にはなれる気がしないなあ」
ポーラさんは笑いをこらえて言った。
「だけどきっといい人にはなれるから、心配しなくても大丈夫だろうよ」
そんなものなのだろうか。そう言われてもなかなか実感が湧かないのは、きっと小さい頃からの染みついた先入観のせいにちがいない。いつだってリルは頼りなくて、守ってあげなきゃいけなくて、リルには俺が必要だった。
しかしいつの間にかそれも過去のことになっている。人は変わりやすいものだが、それにしてもリルは本当に急激に変わったように思う。いつも俺に頼ってきた、あのリルはもういないのだ。それは喜ばしいことでもあり、同時に少し寂しいことでもあった。そして今、リルは俺から離れていくのだ。
「寂しくなるな……」
思わず柄にもないことをぽつりと漏らしてしまう。産まれてからずっと一緒にいて、兄弟にも等しい関係だったのだ。今さら離れ離れになるなんて想像できなかった。
「おりょ? へぇ、意外。ソラもそんなこと思うんだね」
「当ったり前だ。こんなに手のかかるやつがいなくなったんじゃ、たとえ体にぽっかり穴が開いたってこんな気分にはならねぇな」
半ば本気で、半ばちゃかして笑う。
「ほらよ、行ってこい、リル」
門出だ。何はともあれ祝ってやらねばなるまい。
「うん、もう行くよ。それじゃまたね、ソラ」
リルを乗せた馬車がゆっくりと動き始めた。晴れ晴れとした顔で荷台から手を振るリルに、俺は手を振り返すこともできず突っ立っていた。これから先、もう二度とリルに会えないかもしれないのだ。
言葉にならない何かが込み上げてきて、俺はぐっとそれをこらえた。
「蹄鉄換えに戻ってこい、リル!」
こらえた代わりに出てきたのはそんなせりふだった。それを聞いてリルがふっと笑う。馬車は石畳の上をがたがたと音を立てながら、速度を緩めることなく進んでいった。
リルはもう自分で決めた道を歩き始めたのだ。商人という仕事は決して楽ではないし、旅を続ける以上それには絶えず危険が伴うだろう。俺にはただ安全を祈ることぐらいしかできないが、これからリルが進む先ずっと、道中何事もなく無事であればと思う。
馬車が見えなくなってから、俺は思い出したようにのろのろと家に入り、仕事に戻った。
遠くで開門を告げる鐘の音が、乾いた空の彼方まで響くような音色で鳴った。
ダンジョンと魔法と、頼りない幼馴染み 東西 遥 @rtt398
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