第肆話 『その女、失意につき』 其の一

 とても、輝いていた。

 とても、温かかった。

 とても、幸せだった。


『お父様、お母様、お兄様っ。見てください! わたくし、またこんなに大きな大会で優勝しましたわ!』

『おお、凄いな。おめでとう、ミラ。さすがは我が娘よ』

『おめでとう。よく頑張りましたね』

『確かこの間もバスケの大会で優勝していなかったかい? その前にもバレエとかダンスとか……運動音痴の僕にはとても真似できないなぁ、はは……おめでとう』

『フッフフっ、ありがとうございますっ。わたくし、もっともっと、頑張りますわ。偉大なる我がアンダーソン家の威光を示すために!』


 少女は、こんな日々がずっと続くと思っていた。

 こんな幸福が、当たり前だと思っていた。



 ——だが、違った。

 全ては、泡沫うたかたの夢だった。

 何もかも、幻想でしかなかった。



『なんだこの成績は。お前には自分がアンダーソンの人間であるという自覚が無いのか? こんな凡百の延長の結果ばかりで恥ずかしいと思わんのか……全く、いつまでも遊びにかまけているからこうなるのだ。ジェームズを見習って、もっと勉強しろ』

『ジェームズと比較するのは少々酷かもしれませんが、それにしても芳しいとは言えませんね。もっと努力なさい、アンダーソンの人間として認められたければ』

『母さんから聞いたぞミラ、また学校の成績の事で怒られたんだって? 残念だけど、自業自得だよ。いつまでも遊んでばかりいて、勉学を疎かにしていたんだから。お前も、アンダーソン家に相応しい人間になるためにもちゃんと勉強しなきゃ駄目だよ。僕みたいにね、はは』



 それを認めたくなくて。あの日々は嘘なんかじゃなかったと信じたくて。自分に信じさせたくて。

 一族の人間としてではなく、娘として、家族として見てもらいたくて、少女は必死に努力した。

 だが、その願いは結局叶わなかった。

 誰も、自分を見てくれない。誰も、自分の努力を、必死さを認めてくれない。自分よりも遥かに優秀で天才な兄の事ばかり見て、こちらには見向きもしてくれない。

 自分にだって、こんなに誰にも負けない才能があるのに。

 こんなに自分を見て欲しいと思う気持ちがあるのに。


 だから、少女は耐えられなかった。


 ——道を踏み外さずには、いられなかった。



『何をやっているのだ、この馬鹿者が! アンダーソン家の人間がこのような蛮行を犯して、許されるとでも思っているのかっ! 恥を知れ!』

『これは、さすがに看過できませんね……十二分に反省してください。明日からは、外出も登校と下校時以外は一切禁止にします。これはアンダーソンの沽券こけんに関わる重大な問題です、貴女に拒否権はありません。いいですね?』

『ミラ……驚いたよ。まさかお前が、こんな野蛮な人間だったなんてね……僕には、掛ける言葉が見つからないよ……』


 そんな若気の至りも、情に突き動かされて犯してしまった過ちも、誰も許してはくれなかった。同情の姿勢すら見せてくれなかった。


 あの時、彼女は痛感した。

 あの幸福な日々は、もうどんなに望んでも二度と戻らない物であったのだと。

 今更何をしようが、家族からの期待を取り戻す事など、できないのだと。



『凄いな、ミラ。さすがは我が娘よ』



 あんな日々は、もう二度と戻らない。

 どれだけ努力しようと、もう、二度と。


 だが、それでも、少女は——


* * *


 瞬く間に月日は流れ、こよみも六月に足を踏み入れていた。

 春を絢爛けんらんに彩った桜も、もはや跡形も無く散り尽くし、多くの人々が新しい環境や生活への適応を済ませている中——ミラは周囲になど目もくれず、黙々とトレーニングに励んでいた。

 人生で初めての敗北を味わわされた宿敵——鷲峰恋火わしみねれんかへのリベンジを果たすために、屈辱を耐え忍んで己を鍛える事を決意した四月のあの日から、日々自身を追い込む程真剣に打ち込んでいた。

 だが、依然として彼女の前に立ちはだかる壁は高く、分厚い。

 学校生活において、学業でもスポーツでもその他でも、恋火に対してまだ一勝すらも上げられていない。

 戦いに至っては、恋火を超えるための“踏み台”と定めた暁隼弥あかつきじゅんや一文字葵いちもんじあおいにさえ、未だに一撃もまともに喰らわせられていない始末であった。

 そんな停滞期から抜け出すため、ミラは今日も日本での住まいである豪邸の一室を改造して作ったトレーニングルームで、召集した踏み台二人に全力で挑みかかっていた。

「フッッ、ヤアッ! ハァッッ!」

 ミラの代名詞とも言える、ダンサー顔負けの華麗な空中殺法をメインに、彼女の性格通りの強気な攻めを展開する。しかし、鷲峰流で戦闘の極意を学び、徹底的に鍛え上げられてきた二人には虚しい程に及ばず、全てを難なく対処されてしまっていたのだった。

「グゥッッ……! イィヤアァッ!!」

 悔しそうに歯を食い縛り、荒々しい雄叫びを上げながら、不意に助走無しの飛び蹴りを放つ。

 既にトレーニングを開始して二ヶ月程が経過している——にも関わらず、実戦においては、未だに成長が目に見えて表れていない。

 元SEALsである執事のアルフレッドと、このためだけに雇った高名なトレーナーとの協力によって組まれた、効果的かつ効率的なトレーニングメニューを一心にこなしてきたおかけで、基礎的なステータスは間違いなくアップした。

 しかしやはり、様々な応用力が要求される実戦となると、そう易々と大きなレベルアップはできず、ミラはその鈍重な進歩に、もどかしさと焦りを感じていたのであった。

「はっっ」

 焦りや苛立ち、不安といった感情は心の乱れを生み、心の乱れは動きの乱れを生む。

「! しまっ——アウッ!」

 ミラは鋭利さを欠いた雑なキックを防御うけられ、そのまま円を描くような流麗な手捌きできりもみ状に投げられてしまう。マットに倒れ、痛みに絞り出された息が漏れた。

「くっ……」

「は〜い、一本!」

 ミラの相手役を葵にバトンタッチし、観戦に務めていた隼弥が、すかさず声を張り上げる。

「うっし、今日はここまでにしとこっか。しっかしミラちゃん、今日は一段と気合入ってんな〜、もう一時間半くらいはぶっ通しだぜ? 交代でやってたとは言っても、俺もさすがにちょっと疲れたわ……ウチらの道場の稽古だって、もうちょっと合間に小休憩取りながらやってるよ。根詰め過ぎても逆効果だし、ここらで終いにしとこうや」

 伸びをしながら、葵とミラの元へ歩み寄る隼弥。葵も彼の判断に異存は無く、タオルで汗を拭き取りながら首肯した。

 鷲峰流の稽古が休みの日という事で、放課後にミラに自宅まで“強制的に”招かれてトレーニングを開始してからというもの、彼女は今までほぼ休み無しで動き続けていた。

 初めて手合わせした時と比べてスタミナが著しく向上したのは間違いないが、それでもこれだけの激しい運動をほとんど休憩も挟まずに行い続ければ、いくら体力に自信のある人間であろうともガス欠を起こすのは火を見るよりも明らか。頭から水を被ったような汗まみれの状態で、マットにべったりと背中を押し付けたまま息を激しく乱している事からも、それは一目瞭然だ。

 組手も一区切りつき、丁度良く外の景色も紅みがかってきた。ミラのコンディションから考えても、この辺りが締め時であろう。

 二人はミラを起こしてから、それぞれの形で挨拶をして、置いていた荷物へと向かう。

「今日もお疲れ様でした、ミラさん。ありがとうございました。また明日」

「んじゃな〜、おっつ〜」

 その直後だった。

「Wait(待ちなさい)……!」

 ピタリと足を止める二人。肺からやっと絞り出したかのような、息の多い苦しげな声がした背後へ、同時に振り返る。

 ミラは膝に手を置いてマットと向かい合い、辛うじて立っているといった様子で、荒い呼吸を続けていた。しかしやがて、ゆっくりと顔だけを上げ、熱の衰えない眼で二人を真っ直ぐ捉えながら、彼女は強気に言った。


「もう少し……もう少しだけっ、付き合いなさい……!」


 白いノースリーブの裾でサッと顔の汗を拭い、再び自身の象徴とも呼べるファイティングポーズを豪然と構える。

 相手役の二人は、その執念染みた闘志に感化されたかのように、目を見開かせて驚愕を示した。

(ダメ……ダメ、ダメ、全然ダメ……こんな事では、いつまで経っても差が縮まらない……!)

 ミラは言いようのない悔しさと共に、強い焦燥感に胸を焼かれていた。

 あの女鷲峰恋火を超えるためには、もっともっと、強くならなければならない。ましてや、この二人にさえ勝てないようでは、全くもって話にもならない。こんな程度の力では、まだ戦ってすらもらえないだろう。

 このまま時が経てば経つ程、焦りは大きくなり、自信も失われていくのは必至。精神こころを繋ぎ止める拠り所であるプライドさえも、揺らいでしまうかもしれない。のんびりしている余裕は、僅かも無い。

 何も教わらないと決めた以上、二人と戦える限りある機会の中で、自らの手で確実に何かを欠片でも掴まなくては、単なる時間の浪費でしかない。

 体力がとうに限界に近い事など百も承知であるが、それでもこのままなんの収穫も無しに終わるわけにはいかない——憐れみさえ誘う程に真剣な思いで、ミラは葵と隼弥を呼び止めたのだ。

「……」

 幼馴染コンビは互いに首だけを動かして、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔を見合わせる。

 その貼りついた驚きは、すぐに高揚した微笑みへと変わった。

「はっは〜、こりゃたまんねえなおい! よっしゃ! もっとやってやろうぜ、葵っち!」

「はいっ」

 彼らも疲労が溜まっている状態ではあったが、ミラが見せた不屈の根性にスポーツ精神が突き動かされたのか、断るどころか嬉々として彼女の元へ戻り、早速延長戦を開始するのであった。

「お嬢様……」

 三人が拳を交えているのを、部屋の隅で緊張の面持ちで見守っていたアルフレッドが、重苦しく呟いた。

 久しく目にしていなかった、何かに真剣に打ち込む彼女の姿に。目標に向かって一心に努力する、そのひたむきさに。


 自身の心を覆う闇を振り払おうと足掻いているかのような、そのあまりに必死過ぎる彼女の表情に。


 嬉しさと、悲しさと、虚しさとを綯い交ぜにしたような——

 とても一言では表現できないような、そんな複雑な声色で。


* * *


「ハァ……ハァ……アァ……さすがに、もうっ……限界、ですわ……っ」

「ああ、俺も……はぁっ、きっついわ……」

「こんなに……っ、続けて……運動したのは、っ……初めてかも……です……」

 結局、その後も勢いのままにスパーリングを行い、全員がへとへとになったところで、一斉にマットの上に大の字で倒れた。

 時刻は既に、窓から射し込む紅い光が紫に塗り潰され始めている頃だった。

「お疲れ様でございます、皆様。些細な物ではございますが、よろしければどうぞ、お飲みください」

 疲労困憊の三人がひたすらに息を荒げている中へ、気を利かせたアルフレッドが、スポーツドリンクの入ったボトルを乗せたワゴンを引いてきた。

「うぉおっ、あざ〜〜っす! サンキュ〜〜! アルフレッドさんサービスいい〜」

「ありがとうございますっ、いただきますっ」

 発汗して幾分か水分の失われた体にこれは、まさに天の恵み——礼と共に、葵と隼弥は即時息を吹き返してドリンクに飛びついた。

 シンクロしたように喉仏を動かして、ドリンクを体内に流し込んでいく。すぐにボトルは凹み、二人はそれと同時に爽快感溢れる息を吐いた。

「ぷっはぁ〜〜っ、うっめ〜〜! この一杯が堪らねえぜ〜〜〜!」

「ふ〜、身に染みますねぇ……」

 胡座を掻いて中年男性のようなセリフを豪快に散らす隼弥と、同じ体勢で悦に入っているような表情でホッと気を落ち着ける葵。

 ミラも身を起こして同様に脚を組み、そんな二人を見下したように鼻で笑い飛ばして、嫌味の一つと共にボトルに口を付けた。

「フン、庶民は品が無いのね。飲み物くらい静かに飲めませんの?」

 すると隼弥が、すぐさま力を入れて反論する。

「いやいや、な〜に言ってんだよ。へとへとになるまで体動かしてから飲むドリンクってのが醍醐味なんじゃねえかよ〜。ミラちゃんだってそうじゃねえの?」

 するとミラは、一度飲み口から唇を離し、目を伏せながら、ぼそりと呟いた。

「……まあ、少しは」

 再び喉に流し込むミラ。多少でも共感を得られた隼弥は「だろ〜?」と、とても単純に喜びを露わにした。

「……?」

 しかし一方で葵は、一瞬垣間見えたミラの暗みがかった雰囲気に、訝しげな顔を浮かべるのだった。

 そんな事にも気づかず、能天気に運動後の爽快感に浸るお調子者は、思いついたままに話を振る。

「いや〜しかしよ〜、ミラちゃんも随分強くなったもんだよな〜。動きも前よりかなり無駄が無くなってきたし、特にパンチとか、打ち方も狙いも良くなって、だいぶ重くて鋭くなってきたし。確実に成長してると思うよ、うん」

 世辞でも偽りでもない、情に背かない彼らしい真心の称賛。

 ところがミラは、それに少しも喜びを示さず、逆に不満げに声を尖らせて叩き返した。

「フン……そんな安っぽい言葉なんて要りませんわ。わたくしの目指すところは、こんなものじゃない……あの女鷲峰恋火を倒すには、こんな程度ではまだ到底足りない。アナタ達にさえ未だにいいようにあしらわれているのがその証拠よ。称賛の言葉は、わたくしがあの女を盛大にブチのめした時によこしなさい」

 強情だが芯の通った、誇りに溢れる気高い言葉。隼弥は大層感心したように声を上げた。

「はっは〜、相変わらずたっけえプライドだ〜。本気で姉御に勝ちてえんだな〜、ミラちゃんは」

 ミラはまたも平静とした語りで、強かに答えた。

「……前にも言ったでしょう、わたくしは誇り高きアンダーソン家の人間としてこの世に生を受けた身。取るに足らない庶民なんかにいつまでも劣ったままだなんて、あってはならない。願望の話ではなく、わたくしはなにがなんでも、あの女鷲峰恋火に勝たなくてはならないの……こんな程度で満足している暇なんて、ただの少しも無いのよ。今に見ていなさい、アンタ達だって、すぐにでも追い抜いてやるんだから」

 残っていたドリンクをグイッと一気に飲み干して、今度はミラの方から二人に話題を切り出した。

「ところで、そういうアンタ達は、どうしてあの女鷲峰恋火の下で強くなろうと思ったのよ?」

 すると、隼弥が吃驚して目を丸くした。

「おおっ? これは嬉しいね〜、まさかミラちゃんが俺らに興味を持ってくれるとはな」

 あまりに珍しい出来事に、若干戸惑いながらも高揚を見せる隼弥。

 ミラは基本的に、“庶民”や“下民”といった言葉を用いて蔑称する程、他人をことごとく見下している。故に、興味や関心を持つ事もほぼ無いに等しい。

 彼女が七天しちてんにやって来てからの約二ヶ月程度の期間で、それは既に誰もが理解していたところであった。その無関心さは、スパーリングの相手に任命され、これまで一緒に汗を流してきた葵と隼弥でさえ、彼女とろくに閑談をした覚えが無いと断言できる程だ。

 だからこそ、自分達に僅かでも興味があるかのような態度を初めて見せてくれた事が、ある意味衝撃的で、また嬉しくもあったのだ。

 しかし、そんな彼の純粋な期待を、ミラは虫でも踏み潰すかのような残酷な眼差しと共に、冷酷に打ち砕いたのであった。

「……バカですの? わたくしはただ、鷲峰恋火に近しい人間の情報も一応は持っておいた方がいいと思っただけよ。大体、葵はともかく、アンタみたいな知性も品性も無いバカザルに、このわたくしが個人的な興味なんて持つわけないでしょう? 少しは身の程を弁えて物を言いなさい、サル」

「おおぅ……まさかそこまで言われるなんて思わなくてちょっとショック……うう……」

「よしよし……」

 予想外の辛辣な罵倒にダメージを隠せない隼弥。

 ミラは足蹴りするように流して、涙目の隼弥を慰める葵に目を向けた。

「フンッ……どうでもいいけれど、さっさと質問に答えなさい。葵、アナタからよ」

「わ、私、ですか……」

 不意に指名を受け、萎縮したように下を向く葵。空になった手元のボトルを見つめながら、遠慮がちに口を開いた。

「えっと……わ、私なんかが言うのは生意気かもしれない話なんですが、その……わ、鷲峰さんに少しでも近づきたいから——というのが、私が強くなりたいと思った理由、です……」

 言葉にするのも恐れ多いといった自信の無さそうな語気で、一つ一つを慎重に紡ぐ。言い終えてもなお、葵はいかにも恥ずかしそうに縮こまって赤面していた。

 その様子に、ミラは以前から密かに疑問に感じていた事を思い出した。

「そういえばアナタは、やけにあの女鷲峰恋火に入れ込んでいますわよね。あの女と話している時はいつも幸せそうな顔をしているし、逆にわたくしや他の人間があの女と話している時には、たまにムッとしたような顔をしている事もありますし」

「ええっ? そ、そんな事ありません、よ……?」

「ごまかすの下っ手〜葵っち〜」

 すかさず茶々を入れる相方に「もう、ジュン君!」と頬を膨らませる葵。顔の赤みが更に濃く変化した。

 訝しげな眼差しで、狼狽する葵を見ながら、ミラは彼女に詮索する。

「そんなにあの女鷲峰恋火に夢中になるなんて、何か特別なきっかけでもあったのかしら?」

 すると葵は、「あ、は、はい……」とぎこちなく返事をして、ボトルを持つ手に僅かに力を込め、記憶を呼び起こすように目を伏せる。


「鷲峰さんは……イジメられていた私を、救ってくれたんです」


 そのままほんのりと頬を赤らめ、ずっと大切にしていた宝箱を開けるかのように、ぽつぽつと過去思い出を語り始めた。


* * *


 葵は高校に入学して間もない頃から、その引っ込み思案で気弱な性格に目をつけたクラスのあるグループから、何かにつけて難癖をつけられ、嫌がらせを受けていた。

 リーダー格の男子一人に、それを取り巻く女子二人の計三人で構成されたその集まりは、中学時代にも悪評が絶えなかったと噂の、校内でもちょっとした有名人であった。そんな連中に狙われてしまった葵は、タチの悪い悪戯や軽い暴力、果ては恐喝紛いの事案に至るまで、様々な悪行の被害に遭っていた。

 当時の彼女には、自分一人で彼らに立ち向かうだけの力も無く、相談できる人間も隼弥以外にはおらず、そもそも他人に話しかけるだけの勇気すらも持ち合わせておらず、そんな生粋の臆病さにつけ込まれ、イジメは日に日にエスカレートしていくばかりであった。


 しかし——そうして三ヶ月程が経過したある日の放課後に、彼女恋火は現れたのだ。


 無人の校舎裏で猥褻わいせつ行為をされそうになっていた葵の前に、まるで映画のヒーローのような登場の仕方をした恋火は、『事態の一部始終をスマートフォンに録画したので、これを証拠に学校側に報告する』と三人に宣告。それに逆上した男が、胸ポケットに隠し持っていたナイフで脅して端末を奪おうとするも、恋火は断固として拒否。更に頭に血が上った男が襲いかかったものの——彼女はこれを、軽々と制圧してのけたのである。


 葵はその時の恋火の、強く、勇ましく、逞しい姿に心惹かれ、同性としてかつて感じた事が無い程の憧憬の念を抱き、ついには軟弱な自分を変え、彼女に近付こうと決心し、それを実行に移すまでに至ったのであった。


* * *


「あの日から、私は死に物狂いで体を鍛えて、髪も切って……二年生になってから、鷲峰さんの道場の門を叩きに行きました。それ以来ずっと、その……あ、あの人に少しでも近づけるように努力している……といった、感じです……お、終わり、です……」

 相も変わらず遠慮がちに、目を伏せながら話を締めくくった。直後に、隼弥が腕を組んで感慨深げに振り返る。

「いや〜、ほんとびっくりしたよな〜。あの葵っちがトレーニングを始めて、しかも武術まで学び始めたとか言い出した時は、マジで何が起きたのかと思ったよ。……でも、ほんとよかったよ。ガキの頃からいっつも俺の背中にくっついておどおどしてたあの葵っちが、今じゃこんなに立派になったんだから。俺としても誇らしいし、姐御には感謝の気持ちしかねえってもんだ」

 保護者目線で語ってうんうんと一人で頷く隼弥と、褒められて更に照れ臭そうに身を縮め、顔を赤らめる葵。

 ミラは足に肘を乗せて頬杖を付き、特にリアクションも無く黙って話に耳を傾けていたが、ここに来て初めて口を開いた。

「ちなみに、その葵をイジメていた連中はどうなったの?」

 すると、「あ、はい」と返した後で、どこか嬉しそうに語る。

「えっと……結局は鷲峰さんが撮った証拠と、人に凶器を故意に振るった事が大きな要因となって、三人とも退学処分になりました。でも、今でもそのグループの女子二人……ひじりさんと相楽さがらさんは、私の大切なお友達なんです」

 まるで誇らしげに、自慢するように微笑む葵。

 ミラは不可解に思い、小馬鹿にするような笑いを混じえて問いかけた。

「What? ハッ、なによそれ。アナタはそれまでアナタをコケにしてきた連中と未だに関係を続けているとでも言うの?」

 苦笑いを返しながらも、葵は曇りの無いさっぱりした気持ちの込もった声で肯定した。

「はい。まあ……正直に言うと、今でも許してはいませんけど。確かに酷い事をたくさんされたし、傷付きもしましたけど……私にとっては、それでもせっかくできた繋がりだったので。二人とも、あの時ちゃんと深く反省して謝ってくれましたし、それなら別にいいかな、と思って」

「…………ふ〜ん」

 ミラは得心したようで、どこか不服な様が窺える低い音色で喉を鳴らし、持論を述べる。

「やはり庶民の思考というのはよく分かりませんわ。敵はあくまでも敵、喧嘩を売ってきたのなら、最後まで一片の慈悲も無く徹底的に叩き潰して然るべきよ」

 隼弥が分かりきっていたように相槌を打つ。

「ですよね〜。でもミラちゃんは、別にイジメられた事とか無さそうだけどね」

「当たり前でしょう? だって、このわたくしに手を出せば子々孫々に渡ってあらゆる手段での報復を受けるという事を、皆よく分かっていたのだもの」

「あ〜……まあ確かに分かるわ」

「でも、子々孫々って……そこまでしなくても……」

「いいえ、するわ。何があろうと、敵と定めた相手なら徹底して戦うのが人間のあるべき姿でしょうに。コミックの世界じゃあるまいし、葵のように敵と和解して挙げ句の果てに友人になるだなんて、甘っちょろいにも程がある。ほとほと理解に苦しみますわ」

「あ、あはは……ミラさんらしいですね……」

「てか、アメリカさんらしいって感じかな。向こうはなんかこう、とにかく『マサクル(皆殺し)!』ってイメージだし」

「ジュン君の頭の中のアメリカは、随分と物騒なんですね……」

「え〜、だってそうじゃね? よく映画とか観ててもさあ……」

 隼弥の言う通り、まさに白黒をはっきり付けたがるシンプルなミラの思想に、二人は納得したように小さく笑いながら勝手に話を盛り上げていく。

「本当、ありえないわ……そんなの……」

 その声に紛れるように、ミラは二人には聞こえないようにして、嘆くように暗い声を零した。

 と、そこで隼弥が唐突に気合を入れるように声を上げて、話を始めようとした。

「さってと、んじゃあ次は俺が——」

「あ、そろそろ時間も遅くなってきましたわね。今日はこの辺でお開きとしましょう」

「いや聞けよ!」

 腰を上げながら流れ作業のように華麗にスルーするミラに喰ってかかる隼弥。彼女はうんざりしたように目を細めた。

「……アンタはいいわ。葵の話だけで十分満足できたし」

「いやいやいや、あんたが最初に『アンタ達は』って言ったんじゃんかよっ。こんな機会めったに無いんだし、俺にも話させてくれよ」

 そうそうあるものでは無い雑談のタイミングを逃すまいと、隼弥は妙に積極的に自己を主張したがった。

「ハァ……全く、サルの分際でいつもいつも生意気な事ね。いいわ、さっさと話しなさい。ただし、退屈な物であったなら許しませんわよ」

 軽く苛ついたような様子で、ミラはどっかりと腰を落とし直し、頬杖を付いて尊大に構える。

 それに怖気付いた様子もなく、むしろ素直に「よっしゃ任せろっ」と喜びを声に出して、彼は自信ありげに経緯を語り始めた。

「俺はさ、ガキの頃からめちゃくちゃ運動神経が良かったんだ。今の高校もスポーツ推薦で入学したくらいでさ。けど、そのせいで逆に、俺はずっと退屈を感じてたんだ。どんなスポーツだって、ちょっと練習すりゃすぐできたからな。ぬるくてぬるくて仕方なかったんだ」

 その時——ミラの眉が一瞬跳ねるように動いたが、気付く者はいなかった。

「おかげで中学くらいから、どんどんスポーツに対する熱が冷めてってさ。全国常連の部活がいくつもある七天に入れば少しはマシになるかな、って思って期待してたんだけど……やっぱりダメだった。入学してすぐいろんな部活に体験入部してみたけど、どこも俺を熱くさせてくれるようなレベルじゃなかったんだ。そんで俺は、勝手に裏切られたような気持ちになって、何もかもへのやる気を失くしちまったんだ。昔からのたった一つの取り柄で生きがいだったスポーツが、全部つまらなく感じるようになっちまったからな。そのせいで体もろくに動かさなくなって、学校もサボるようになって、しまいには家族にも八つ当たりするようになった。ほんと、どんだけ最低な人間だったんだって思うよ……で、やさぐれて退屈な毎日を過ごしてたある日、だ……たまたま外に出てた時に見かけたわけよ——鷲峰流の稽古を」

 忸怩じくじたる思いを抱えたような重い口調から、救われた過去を誇るように、声色を少し明るくして続ける。


「『そういや葵っちが最近武術を習い始めたとか言ってたっけな』って事を思い出して、実際どんなもんなんだろうと思って外から稽古の様子を覗いたんだよ。そしたら……もうガラス越しでもびしびし伝わってくるくらい凄い迫力でさ、食い入るように魅入っちゃったわけよ。おまけに門下生の中に葵っちがいて、それまで見た事無いくらい真剣で頼もしい顔で必死に鍛えてて、しかもそれを指導してたのがうちの学校の生徒会長だったってんだから、そらもういろいろびっくりしちゃってさ……で、そのまま姐御の……恋火さんの逞しい姿に釘付けになってしばらく眺めてる内に、俺は数年ぶりに胸の昂りを感じてる事に気付いたんだ——『これはちょっとやそっとじゃ超えられなさそうだ』ってな。やっと自分の持て余した力を限界まで試せる場所を、俺を満たしてくれそうな場所を見つけられた……そう確信した俺は、すぐ入門を決めた。それから精神的にも立ち直って、家族とも仲直りできて……いつの日か姐御を超える事を目指して、葵っち達と一緒に鍛錬を積みながら、今に至る……とまあ、そんな感じよ! どう、なかなかドラマティックだろ! な? な? ……あれ? ミラちゃん?」


 真面目なトーンも束の間、平常通りの子供染みたテンションに戻って同意を求め出す。

 じっとりとした目で話を聞いていたミラは、暫し無言の間を取って、感情を込めずに問うた。

「それで?」

「んあ? いや、これで終わりだけど」

「…………そう」

 低音でぼそりと呟き、彼女はその場に立ち上がって、部屋の脇で静観していた老年の執事に、気怠そうな声で指示を出した。

「アルフレッド、二人を送って差し上げて……ああ、間違ってそこのサルを動物園に連れて行かないようにお願いね。これで一応カテゴリー的には人間みたいだから」

「かしこまりました」

「感想無しかよ!!? そんなにつまんなかった!? つーか人間みたいってなに?!! アルフレッドさんも『かしこまりました』じゃなくて少しは否定して!!?」

「Shut up(お黙り)! アルフレッド、早く連れて行ってちょうだい。サルが伝染うつったら大変ですわ」

「はい、仰せのままに」

「はあ……俺はいつまでもこんな扱いか、ちくしょう……」

「ドンマイです、ジュン君……」

 何が癪に障ったのか、ミラはとても不服そうな様子で彼らを強引に帰した。隼弥は一向に良くならない自身への対応に気落ちしていたが、それでもアルフレッドは従順にミラの命令を遂行するのみであった。

「んじゃな〜……」

「お疲れ様でした。失礼します」

「Bye(さよなら)」

 二人の挨拶に対して、ミラは背中越しに軽く手を振って、母国語で淡白に返した。彼女は一階に降りる階段の傍の客人に一瞥もくれてやる事なく、何かを思い詰めているのか、壁の方を向いたまま凝然ぎょうぜんと立ち尽くしていた。

「……ささ、お二人とも、こちらでございますよ」

 彼女の背中に漂う雰囲気から侵しがたい心情を感じ取り、アルフレッドはミラから引き離すように、客人をそそくさとリムジンへ案内するのであった。

「……」

 無人となった、広々とした無音の一室の中心で、ミラは二人から聞いた話を思い返していた。

 葵は恋火の逞しさに惚れ込み、隼弥もまたその強さに憧れ、彼女を師事する事を決めたという。そしてその尊敬の念は、今なお衰えるどころか、熱を増して強く燃え続けている。二人の人生に変革をもたらす程の力が、輝きが、恋火にはあるのだろう。

 いや、“だろう”ではない。

 ここ二ヶ月程の学校生活でよく分かった事だが——恋火はクラスメイトのみならず学校中の人間に慕われ、尊敬され、注目されている。偉大なるアンダーソン家の一族である自分を差し置いて、圧倒的な支持を集めている。

 彼女が多くの人を惹きつけるカリスマ性を持っている事は、疑いようもない。


『また、やろう。次は、勝負にも勝たせてもらうぞ』


 そう、疑える、はずもない。


 だから——自分はあらゆる面で恋火に遅れを取ってしまっている——という事も、間違い無く確かなのだ。


「っ……!」

 打倒すべき相手との差を、葵と隼弥からの話によって嫌という程自覚させられ、ミラは忌々しそうに表情を歪めて拳に力を込め、不愉快な色に穢れた心中を全面に表した。

「なによ、なによ…………! いい気になってんじゃ、ないわよっ!!」

 そしてサンドバッグの前へと向かい、高まる気を紛らわすかのように、一心不乱な勢いで拳を振るい始めたのであった。


『また、やろう』


 脳裏にフラッシュバックする、己にそっと手を差し伸べる、慈しみさえ感じる程穏やかな表情の宿敵ライバルの姿に思考を掻き乱されながら。


(気に入らないっ、気に入らないのよ……っ! 庶民の癖にっ……!)


 混濁した感情に震えた、煩雑とした心の叫びと共に。


* * *


 翌週の月曜日——時は中間試験の初日である。

 七天高校ではこの週の五日間を丸々試験日として設けており、学生達は皆、期末試験や模試試験と並んで、各学期にそれぞれ待ち構えている苦難の一つとして認知していた。

「鷲峰恋火! 今回のテストで、わたくしと勝負しなさい!」

 大半の生徒にとっては、今日はまさに地獄の始まり——だと言うのに、ミラは微かも憂いた素振りも無く、隣に座るライバルに、朝の開口一番に宣戦布告を叩きつけていた。

 3-Aではもはやお馴染みと化した光景。ミラの転入当初ならいざ知らず、そこから二ヶ月以上経過した現在となっては、完全にクラスの日常に溶け込んでしまっていた。

「ふっ、そう来ると思っていたぞ。以前に貴様が言っていた、真に私達の頭脳の優劣を競う機会だ、当然受けて立つ。無論、一つ足りとて負けるつもりはないがな」

 開いていた文庫本を閉じ、正面からミラと向き合い、恋火は揺るぎない自信に溢れた微笑みで応戦する。

 彼女もまた、ミラに勝負を持ちかけられる事に対してすっかり馴れ切っており、今回もやんちゃな幼子の相手でもするかのように冷静に、快く応じてみせたのであった。

 だが、そんな余裕の貫禄を見せる恋火の反応を受け、ミラは眉間の皺を深める。

(っ、またこいつは、このわたくしに生意気な上から目線で……! 今度という今度は絶対に勝つっ。そして、わたくしの知力の前に跪かせて差し上げますわ……っ!)

 これで何度目になるのか、ミラは内心で強気に勝利を宣言し、燃え滾る闘志を宿した視線をぶつけた。

 いつもと同じようで僅かに、しかし確かに違う色を帯びた、決意めいた物を含ませた闘志を。

(……鷲峰さん、またミラさんと……)

 正面切って静かに火花を散らすそんな二人の光景を、葵は自分の席から軽いジト目で眺め、そわそわと体を小さく揺らす。

 ミラが来日して早二ヶ月——他の全てを顧みず己に忠実に行動する彼女は、座学の小テストにしろ体育の授業にしろ何にしろ、日々何かにつけて恋火に勝負を持ち掛けていた。

 恋火も、最初の内こそ鬱陶しく思っていたが、武の道に生きる者としての戦いに掛ける情熱がそうさせたのか、次第にそれに嫌な顔せずに応じるようになってきていた。最近に至っては、自分から勝負を持ち掛ける事さえ、極稀にだがある。

 今も、まるでミラが勝負を吹っ掛けてくる事を待ち望んでいたかのような反応を見せていた。なんだかんだで楽しんでいる風にも、思えなくもない。

 いずれにせよ、あの二人が接している時間が日に日に増して行っている事は間違いない。当然、それに反比例して、恋火が他者と話す時間が減りつつある事も。

 無論、葵と談笑する時間までもが、徐々に少なくなってしまっている事も。

(なんだか、前より学校で鷲峰さんと話さなくなっちゃったな……)

 寂しさからか、あるいは、嫉妬からか——胸の奥からもやもやとした物が湧き上がり、自然と気分もどんよりとしてくる。

「どうしたの、葵さん。浮かない顔して」

「なんか悩みがあるならアタシらが聞いてやんぜ〜?」

 そんな時、葵を気遣う二つの声が横から掛けられた。多美と雅の仲良し二人組である。彼女達は『恋火に盲信的なまでに憧れている』という共通点がきっかけで自然と意気投合し、以降友人としての付き合いをしているのであった。

 ちなみに余談だが、彼女達は三人とも、恋火のファンクラブの幹部ポジションである。

「え? あ、その…………な、なんだかこの頃、鷲峰さんとミラさんが話してる事が多いなと思って、えっと……」

 見知った二人にならばと、葵は胸のもやもやとしたものの中身を明かす。

 すると多美が、深々と腰を曲げて葵の両肩に手を乗せ、共感に満ちた顔を間近に寄せてきた。

「っ?? く、紅さんっ?」

「わかる。すっごくわかるわ、葵さん……恋火様が最近ミラさんに構ってばかりで私達とあんまり話してくれなくなった、って言いたいんでしょう?」

「あ……は、はい、そうです……」

 肯定の返事に、雅も強い共感の声を上げる。

「やっぱりか〜〜、アタシらもちょうど昨日そんな話してたんだよねー。なんかさー、先月のバスケの授業の時くらいからそんな感じになったよね。別に仲良くなる分には全然いいんだけど、ちょっとさみしい感あるよねー……」

「そうね、確かに寂しいわね……」

 一度雅と同じようにトーンを落とした多美は、「でもね」と続けて身を起こし、未だ視線をぶつけ合う二人の方に向き直り、意外な言葉を紡いだ。

「私は、それでいいんじゃないかなって、そう思ってるの」

「お? つまり、どういう事だってばよ?」

 目を大きく開けて問う雅に、多美は普段の騒々しさからは考えないほど穏やかな調子で答えた。


「だってあの二人、なんかお似合いなんだもの。上手く言えないけどさ……お互い、遠慮無くぶつかれる相手と出会えた事に少なからず喜びを感じてるんじゃないかって、そう思うのよ。恋火様とももっとお喋りしたいし、ミラさんの事ももっと知りたいって気持ちももちろんあるんだけど。ただ、それを堪えて一歩引いたところからあの二人を静かに見守るっていうのも、悪くないかな、って……」


 自分でも完全に理解しきれていない、されど確かな想いの一つの形。ミラという存在によって変化を見せた恋火憧れの人に対する、彼女なりの気遣い。

 常に攻めアタックあるのみの姿勢しか見せてこなかった多美の、何かを悟ったかのような思慮深い一面に、葵も雅も間の抜けたような顔で固まってしまっていた。

「…………タミ」

 暫しして、雅が小さく口を開いた。

「なに?」

「どしたの急に……変なもんでも食った? 具合悪い? 保健室行く? 結婚する?」

「なによそれっ、私が真面目な事言ったらおかしいって言いたいのっ? あと結婚は恋火様とするからダメ!」

「ごめんごめんっ。でも、アタシもなんとなく分かるよ、それ……アタシも、あの二人が絡んでるの見てるの楽しいし。なんだかんだ根っこは似てるし、相性悪くないしね、あの二人」

 雅もまた、落ち着いた調子で同感した。彼女も何か思うところがあるようで、笑顔ともなんともつかない微妙な表情をしながら、低めのトーンで呟いたのであった。

「……」

 葵は多美と雅に向けていた目を、もう一度正面に向け直す。

 自分の机に片肘をつきながら、余裕の見える涼しげな笑みをたたえる恋火と、腕を組んでそれを敵愾心てきがいしんギラギラの眼差しで見下ろすミラ。

 お互いがお互いに対抗意識を持ちつつも、そこに悪意は無い。あるのはただ、純粋な闘志のみ。両者共が、紛れも無い戦士のまなこで相手を視ている。

 しかし気になってしまうのは、やはり恋火の方だ。

 これまで誰にでも、どこか一つ上からの目線で同年代と接していた彼女が、今は上でも下でもない対等な目線で、眼前に立つ少女を見据えている。

 やはり、違う。

 少なくとも、学校にいる他の人間に対する態度とは、間違いなく違う。

 己に何度も躊躇いも無しに挑みかかってくる、おそらくこれまでの人生においてもいなかったであろう、ミラという突風のような存在に、彼女はある種のスリルのような愉しさを感じているのだろう。あくまでも己に勝つ事を諦めないミラの不屈の姿勢に、新鮮な喜びを抱いているのだろう。

 ミラもきっと、口では棘のある言葉を吐きつつも、本気で恋火を嫌っているわけではなく、自分の全力を受け止めてくれる存在に多少なりとも喜びを抱いているはず。決してそれを態度や口にはしないが、傍から見ていてもなんとなく分かる程には確かだ。

 多美と雅が口にしていた通り、きっと二人は根本的には相性が良いのだろう——なにせあの鷲峰恋火が、あんな眼で視ているくらいなのだから。


 仮にも二年程の付き合いを続けてきた、仮にも弟子として共に熱い汗を流し続けてきた、この自分よりも、遥かに。


「鷲峰さん……」


 明暗の両面が込められた葵の呟きは、予鈴の音色に掻き消された。



* * *


 翌週。

 各教科の試験結果が、生徒の元に渡される一週間。

 恋火とミラが所属するクラスである3-Aにおいては、数学が最初に結果を返される科目となった。

 担当の男性教師が順々に生徒を呼び、流れ作業のように淡々と採点したテストを捌いていく。

 そうしてミラの名前を呼ぶ事になった時、彼はこの時を待っていたかのように、満足そうな笑みを浮かべた。

「……君。ミランダさん。うむ……やるねえ、流石アメリカが誇る財閥のご息女だ。満点です」

「おお〜〜!」

 湧き上がる歓声と拍手。それを受け、ミラは自慢の長いブロンドを大仰にかき上げた。

「フッフフ、当然でしょう? アナタ達のような庶民と一緒にしないでくださる? この程度の問題でミスをする方がどうかしているというものですわ」

「うお〜、出たぁミラから目線〜〜。でもなんか嫌いじゃないのがマジ不思議」

「わかるわ〜。なんかこう、女の子からに対する私のドM魂がくすぐられるっていうかね、うん。ああ、もっと言ってください! もっとなじってください! みたいなのが疼くっていうかね 、うん!」

「すいません紅さん、堂々と性癖公開すんのやめてもらっていいですか」

 他者をここぞとばかりに見下した台詞で勝ち誇るミラ。しかし、分かりやすく偉そうに振る舞ってはいるが、周囲の称賛には満更でもなさそうである。一部のやり取りを除いて、だったが。

 赤丸以外の不純物の無いテスト用紙を手に取り、ミラは優雅な足取りで自席に戻っていく。そして席に着く直前、ちらりと隣の顔色を伺った。

「……」

 恋火は微塵の心情の機微も見せず、腕を組みながら瞑想するように目を閉じて鎮座していた。

 それは、彼女が試験に臨む前にしていたものと全く同じ、自信と余裕に満ちた堂々たる佇まいであった。

「……フン」

 それを見たミラは、つまらなさそうに眉を歪め、席に腰を下ろしたのだった。

 なおも返却は続き、とうとう恋火の番がやって来た。

 すると、教師はまるで名前を呼ぶ事のように当たり前のように平静と、しかし感嘆の思いを込めて彼女を褒め称えた。

「そして最後、鷲峰さん。うん、素晴らしい——“いつも通り”満点だ」

「おおおぉぉ〜〜!!!」

「っ!」

 瞬間、先刻よりも一際大きい歓声が轟いた。ミラもまた、その場でハッと目を見開かせ、衝撃を露わにした。

「いや〜〜んっっ♡ まただわ〜〜、すっご〜〜い!! さっっっすが安心と信頼と実績の恋火様だわあぁ〜〜♡」

「マジぱねーしやべーし超ジーニアスだしーー!!」

 騒音コンビが席で目をハートにして体をくねらせているのを極力気にしないようにしながら歩き、恋火は教師からテストを受け取った。その際、彼が感服するように言った。

「いやいやしかし……ミランダさんもそうだが、ほんとによく勉強しているね。今回は満点を取らせないつもりで作ったんだが」

 すると、恋火がすっかり慣れたようにさらりと答えた。


「全ては日々の努力の賜物たまものです」


 謙遜するでもなく、かと言っておごるでもなく、しかし己が踏破してきた努力にまみれた道とその成果に対する自負は忘れない。

 嫌味や高慢さといったものを感じさせないながらも、事実をありのまま表した自信に満ちた言の葉に心震えた一同は、盛大に喝采したのであった。

「ふぁぁああ〜〜! 今回もやっぱりきた〜〜〜、恋火様の決め台詞〜〜!! 何度聞いてもそこに痺れる憧れるわぁぁ〜〜〜!♡☆」

「うお〜〜〜!! マジぱねーしやべーしカッケーしー!」

「お前らうるさい! 今は授業中だぞ!」

「アッハイ」

「サーセン」

 フリーダムを地で行く二人の高揚っぷりをついに教師がたしなめると、フッと真顔に戻って鎮静した。その芸人ばりの息ぴったりで素早くキレのあるリアクションは、クラス中の笑いを誘った。

 その隙に紛れるように、自分の席へと悠々と戻っていった恋火。

「ふっ」

 彼女は座るなり、唖然とするミラを横目に見ながら、わざとらしく鼻で笑ってみせた——この程度で得意になっているとは片腹痛い、とでも挑発してもいるかのように。

「! きぃ〜〜っっ!」

 火を注がれ、そのまま燃え上がったミラは、メラメラと髪を逆立たせながら、奇声のように甲高い怒りの叫びを上げた。

(これくらいのLucky(まぐれ)でいい気になってるんじゃないわよっ……アンタなど所詮『イノナカノカワズ』に過ぎないという事を思い知るのはこれからですわ、鷲峰恋火……!)

 鋭い視線を突きつけ、ミラは一層対抗心を燃やす。

 対する恋火は、相も変わらぬ涼しげな表情で、真っ向からそれを受けていた。


* * *


 その後、金曜日までの五日間に渡って全てのテストが返却され、最終日の帰りのHRホームルームにて成績表が配布された。

 二人の結果はというと——ミラの方は、基本的には満点、総合の順位としては学年で二位という物となった。

 いつくか取り溢している教科も見られたが、それでも犯したミスは多くて二つという誤差程度の物。ほぼパーフェクトと呼んで差し支えない、破格の高水準を叩き出していた。

 付け加えるなら、当然ではあるもののほぼ全て外国語で書かれた問題を解かなければならないというハンデを抱えた上、日本で最上と呼べる偏差値を誇る高校でのテストという、圧倒的にアウェーな条件が揃っていたにも関わらず、ここまでの輝かしい成績を上げられた事は、ミラが如何に飛び抜けて秀でた存在であるかを如実に示していた。

 だが、それでも。

 彼女には、鷲峰恋火という存在には、届かなかった。


 全教科満点という完全無欠の偉業を成し遂げた真なる天才には——敵わなかった。


「Im……possible……(バカ……な……)」

 受け入れ難く、信じ難く、あり得難い現実を目の当たりにし、ミラは平静を装う余裕も無いままに、自国の言葉で動揺を口にした。

(どういう事よ……っ。どんな人間にだって必ずミスはある。わたくしがハイスクールにいた時だって、限りなく近い事はあっても、こういった大きなテストで全教科満点を出した人間なんて一人もいなかった……。仮に今回、わたくしが日本語を100%理解した状態で臨んでいたとしても、全てにおいて一つのミスも無くパーフェクトを取るなんて、おそらく不可能……なのに——)

 震える目で、担任の江藤から成績表を手渡されている相手を見やる。

 もはや確認するまでもなく、その結果は無双。全ての生徒のいただきに立つ、死角という概念さえ寄せ付けない、完全と呼ぶに相応しい物であった。

 江藤や周りの生徒が惜しみない賞賛を送る中、当の恋火は、クールな微笑みでそれを頂戴していた。


 まるで、この結果が、この賛辞が、得られて当たり前の物であるかのように、平然と。


 一位と二位、六点差——数字だけで見れば、そこにはほんの微々たる違いしか無い。

 しかし、“おおよそ完璧”か“完璧”かという観点で見れば、まるで話は別。

 何故ならば——完璧とは、人がごく自然に見落としてしまう些細な間違いさえ、一つ足りとも取り零す事すら許されない絶対の境地であるのだから。普通の人間には、いや、人間には到底辿り着けない領域であるのだから。

(あの女……化物なの……っ?)

 誰もが文句無く天才と認める成績を叩き上げたミラでさえ、あまりに極小であまりに確固たる差に、ショックを受けずにはいられなかった。

 HRホームルームが終了するなり、多美と雅の信者二人が恋火の席に集まり、各々手を合わせながら、興奮気味に彼女を称え始めた。更に今回は、葵までもがその後ろにくっついていた。

「いやあぁ〜〜〜ん♡ すごいわぁ恋火様〜〜♡ これでオール満点の記録更新じゃないですか〜〜っ」

「ほんとマジぱねーしやべーしすこすぎるしー……アタシにもその頭の良さ分けてほしいっすわー……」

「鷲峰さん、えっと……お、おめでとうございます」

「ああ、ありがとう。だが……」

 恋火は落ち着いた調子で素直に感謝を述べるも、すぐに険しい様相を見せた。

「実は、答えを書くのに少々迷いが生じたところが、僅かだがあった。結果自体は問題無かったが、まだ磐石とは言い難い。慢心するわけには、いかないだろうな」

 腕を組みながらそう言って、恋火はキッと眼光を鋭くした。

 紛れもない、この上無い最上の結果を勝ち取ったと言うのに、彼女は喜ぶどころか、まるで安心してもいない。綻びであるという可能性を抱く必要すら無い部分に懸念を抱き、排除すべき不安要素と見定め、それを徹底的なまでに固い意志で潰そうと決意している。

 尋常ではない完全への追求。決して飽き果てる事のない力への渇望。どれだけ高みへ上り詰めようとも満たされない向上心。

 武術においても、学問においても、他の万事においても、彼女の姿勢が揺らぐ事は、断じて無い。


 鷲峰恋火が鷲峰恋火たる所以を、その場にいた者達は今一度思い知ったのであった。


「ああ。そうだ、言い忘れていた」

 やがて、談笑を終え帰宅しようとした恋火が、衝撃のあまり椅子に座ったまま氷漬けになっていたミラに、机の前で立ち止まって声を掛けた。

 ハッとなり、重々しく顔を上げたミラへ、恋火は微笑と共に淡々と告げた。


「私の、勝ちだな」


「!」

 それだけを残して、彼女は去って行った。

「……」

 ミラは、呆然として固まり、またも高みから振り下ろされた敗北に打ち震えていた。

 戦いだけでなく、学問においてでさえ、及ばないというのか。アンダーソン家が誇る英才教育を持ってしても、あの女を、鷲峰恋火を越えるには、足りないというのか。

 いや、違う。


 きっと、それは——


「…………っっ!!」

 腹の底から吐き気のように込み上がって来る屈辱と恥辱。自らが最も重んじる誇りある家名に、自らの至らなさで泥を塗ってしまった事への罪悪感。

 そして、己を有象無象の中に埋もれさせ、再びこんなにも許し難い悔しさを味わわせた怨敵鷲峰恋火へ対する憤怒。

 

 ミラは、震えを起こす程に強く歯を噛み締め、気が狂う程の感情の高ぶりを抑えるように、拳を握り締めたのであった。


「なんでっ……! なんでよ…………!」


* * *


「今日はご気分が優れないようですね、お嬢様。学校の方で何かおありになったのですか?」

「……別に」

「左様でございますか」

 アルフレッドがハンドルを握るリムジンに乗って自宅へと向かう途中、ミラは車体に肘を付いてガラス窓の向こうを眺めながら、感情の無い声で答えた。アルフレッドもそれ以上は何も言わず、車を走らせる事に神経を注ぎ始めた。

 エンジンの音と、アスファルトの上をタイヤが転がる音だけが、車内に残る。

 耳障りでも無ければ、別段心地良くも無い。ただそこにあるだけの、無害な環境音。

 まるで暗い空気を察して、ミラの憂鬱とした心を荒立てないように静かに努めているかのようだ。

「……」

 そんな周囲の様子など気に掛けもしないミラは一人、アンニュイな表情と、一周回ってどこか冷めた心境で、今回の勝負を振り返っていた。

 油断をしたつもりはない。間違いなく勉強はしていた。トレーニングにかまけて学業が疎かになっているなどと周りに思われるのは癪であるし、何よりそんな事は厳格な両親が許さない。だから、日本語の更なる理解も含めて、これまで以上に学習を積んできたつもりだった。絶対にトップに立てるという強い自信があった。


 だが、敗けた。


 たかが庶民に過ぎないちっぽけな存在に、まざまざと優劣の差を見せつけられた。

 格の違いを思い知らせるつもりが、弁明の余地すら無い形で、逆に思い知らされてしまった。

 あの時初戦と、同じように。


 ——何故、こんな事になっているのだろう。


 アメリカ合衆国が誇る大財閥の教育を受けてきたわたくしが、何故あんな庶民如きに見下ろされなければならないのだろう。

 ……あいつがとんでもなく優秀だから?

 認めたくはないが、それは間違いない。あいつは庶民の中でも飛び抜けて数多の比類無き才能に溢れている。他とは別格と呼ぶべき存在だろう。

 でも、わたくしだって紛れもなく優秀だ。何故なら、わたくしはアンダーソン家の人間であるのだから。有象無象と比較する事さえバカバカしくなる程の才覚を備えているのだ。庶民の基準での優秀さとは、訳が違う。

 では、何故?

 何故、また敗けた?

「……」

 自問するまでもない。

 本当は、答えなんてとっくに分かっている——ずっとずっと、昔から。

 あの女鷲峰恋火に戦いで敗けるより遥かに前から、はっきりと気付いている。

 ただ、認めたくなくて、それを認めてしまったら、何もかも全てが壊れてしまいそうで、目を逸らしているだけ。

 だって、わたくしは——

「?」

 その時、唐突にポケットの携帯が震えた。

 見れば、メールの着信が一件あった。

 送り主を確認すると、実兄であるジェームズ・B・アンダーソンその人であった。

 彼もまた、家族と同様に日本に訪れていたのである——というよりも、今回アンダーソン一家が来日した真の目的は、総帥であるガブリエルが、その息子である彼に現場での経営の教育を直々に施すためであり、むしろミラの方が、ジェームズのオマケという扱いに過ぎない存在なのであった。

(お兄様からのメールなんて、いつ以来かしら……)

 暗雲に覆われていた顔に、仄かな光が灯る。

 妹よりも歳が五つ上のジェームズは、幼少期から非常に頭脳明晰であった。彼がまだ中学生の時、父が過去に発表した論文を全て読破し、高校生の時にはその才能を持て余した末に、かのハーバード大学に飛び級してしまう程の、アンダーソンの家系という括りで見ても、頭一つ飛び抜けた才人なのであった。ガブリエルも一族を統べる者としてだけではなく、一人の父親としても、彼を大変気に入っていた。

 ミラはそんな兄の事を、心から尊敬していた。突出した才能を持つ苦労知らず故か、よく嫌味や人を小馬鹿にするような事を言ってくるへそ曲がりではあったが、そんな捻くれた一面も彼なりの愛情表現と捉えて享受できる程に、彼女はジェームズが好きだった——ただそれだけの、単純な話でも無いのだが。

 日本に来るよりも少し前から勉学に専念していて、直接会って話す機会が少なくなっていた兄からの久方ぶりの連絡に頬を緩め、すぐさまロックを解除し、英語がびっしり書かれた画面に目を向けた。

「——っ」

 内容を読み進めていく内に、ミラの顔色はどんどん変わり果てていく。

 曇天の中に差し込まれた一筋の光が、再び大きく深い闇によって呑み込まれるように、物悲しく暗い影に包まれていく。

 それは、心無い暴言や悲報などでは決してなく。

 むしろ、実妹であるミラにとっても、間違いなく喜ばしいはずの吉報であり。


 だからこそ、彼女の心を更なる奈落へと突き落とす、純真で残酷な知らせであったのである。



『やあ、ミラ、久しぶり。

すまなかったね。日本に来てからずっと忙しくて、なかなか連絡する暇が無くてさ。このメールも、やっと取れた空き時間の合間を縫って書いてるところなんだ。

さて……そっちはどうだ? 日本のハイスクールが生ぬるすぎて退屈してる、ってところかな? まあ、お前にはちょうどいいかもな。そこでなら、お前でも簡単にトップに立てるだろうし。……というか、そんなところでも上に立てないようなら、一族の人間としてさすがにマズイと思うけどね。

僕の方だけど、父さんに任された企業が、最近ようやく軌道に乗り始めたんだ。子供の頃からみっちり教育を受けてはいたけど、いざ本当に会社の経営をやってみると、これがもう大変で大変で。初めてだから当たり前なんだけど、毎日苦労の連続だよ。こんな小さな島国で事業を成功させる事くらい簡単だと思っていたけど、どうやら認識が甘かったらしい。でも、とてもやり甲斐があるし、勉強にもなってる。最初はわからない事も多くて失敗もして、父さんにも怒られてしまっていたけど、ようやく流れというか、コツみたいなのが掴めてきたところなんだ。

父さんも母さんも、初めてにしては上出来だと、僕の商才を褒めてくださっているよ。努力の甲斐があるってもんだ。しかもこのまま日本で上手く結果を残せれば、アメリカに戻った時に、ワシントンにある会社の一つを任せてくれるとも言ってくれてる。次期総帥の座を継ぐための、新たなステップを用意してくれるってわけさ。


二人共、僕に大きな期待を寄せてくださっている。アンダーソン家の人間としても、息子としても、嬉しい限りだよ。誇りに思う。


さて、積もった報告をしていたら、随分と長くなってしまったね。僕もまだまだやる事があるし、この辺で失礼させてもらうよ。来月にうちのグループのパーティがあるみたいだから、今度はそこで直接会って話をしようか。

ミラも、アンダーソン家の名に恥じないように、気高く過ごせよ。

……一応聞くけど、また前みたいな野蛮な事に手は出してないだろうね? 今度やったら外出禁止では済まないと思うから、くれぐれも気を付けるように。

あ、あと、日本は季節の節目で気温の変化がはっきりしてるから、そのタイミングで風邪を引かないようにな。ま、なんとかは風邪引かない、って言うらしいし、お前には余計な忠言だったかな、はは。

それでは——またね、愛する妹よ』



 言葉が出ない。手の震えが止まらない。胸の暴れが収まらない。

 祝えばいいのか、喜べばいいのか、妬めばいいのか、憎めばいいのか——絵の具をぶち撒けたキャンバスのように、心の中が、正と負の想いで綯い交ぜになった混沌とした色に染まり上がる。爪で引っ掻かれたかのように、胸の奥がズキズキする。


 ——痛くて、苦しくて、気持ち悪い。


「どうなされました、お嬢様」

 バックミラーに映り込んだ、スマートフォンを抱きかかえるようにしてうずくまり始めたミラを案じ、アルフレッドが僅かに固い声をかける。

 彼女は、消え入りそうな震え声で、弱々しく答えた。

「……ない。なんでも、ない……」

「? ……どこか、具合でも」

「なんでもないって言ってるでしょっ!!!」

「っ……申し訳ありません」

 ついには乱暴に叫び、気遣いを跳ね除けてしまう。アルフレッドは即時に詫び、これ以上詮索するのを控え、完全に運転に集中する事にしたのであった。

 今のミラには、人の優しさを無下にしてしまった事を気に掛けるだけの配慮も、平常心を保つだけの余裕も無かった。

 心を掻き乱す暗闇と、蘇る忌まわしい記憶の数々に抗い、正気を保つのに努めるので精一杯であった。

 しかし、それでもミラは、全身に力を込めて、敬愛する家族に届かぬ想いを送る。


「良かった、ですね……っ、お兄、様……っ」


 どうにか振り絞って出たそれは、単なる祝辞とも喜びとも何ともつかない、複雑な振り幅で震えていた。

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