第参話 『その女、好敵手につき』 其の参

 和の意匠いしょうが凝らされた大きな道場の中で、二人の人間が激しい打ち合いを繰り広げていた。

 一方は、この場所のあるじにして、全国に支部を持つ武術の師範の座に就く超人女子高生、鷲峰恋火わしみねれんか。そしてもう一方は、師範代として彼女を補佐的な立場から全面的に支える、がっしりした体格を備えた中年の大男、真島柳江まじまりゅうこうである。

 彼女達はお互いに、安全のための防具を付けた上で、フルコンタクトの組手を行っていた。

「はあぁっっ!!」

「おおおぉぉッッッ!!!」

 両者共に、猛々しい咆哮を上げ、鍛錬とは思えぬ程の真剣な気迫をもって全力をぶつけ合う。

 恋火が助走を付けて突いた弾丸のような左の正拳を、柳江が瞬時に反応して内側に捌く。その流された勢いを自身の回転に上乗せし、恋火は腰を落としつつ大きく踏み込みながら、腹部を抉りこむように右の肘を打ち込む。

 しかし、柳江は読んでいた。一歩身を引きつつ、尖鋭な打撃を右手で受け流し、右の上段蹴りで隙を狩りに行く。対する恋火は、上体を反らす事で難無くそれを回避する。

「おらぁッ!!」

 直後、柳江がすかさず畳を蹴り上げ、飛び膝蹴りを仕掛けに行く。唐突なタイミングでの、容赦無く顎を砕きに行った必殺の大技は、素早く後方に下がり、寸前で膝をてのひらで受け止めた恋火によって、なだめるように冷静に防がれたのであった。

 が、柳江もそれで怯むような軟派ではない。飛び掛かった勢いに乗ったまま前進し、距離を離す余裕さえ与えず、打突の応酬で激しく攻め立てる。

「む……!」

 いずれ防ぎ切れずにこちらがやられる——恋火をしてそう思わせる程、それは凄まじい猛攻であった。

 このまま守っているばかりでペースを握らせていては危険だとすぐに本能で悟った彼女は、状況を打開すべく、後退を止めて反撃に移る。

 左の上段蹴りを防いだ矢先に打ち込んできた、顔を狙った剛拳を右腕で受けて掴み、そこから素早く左手を腕の裏に回して挟み込み、捻りを加えながら掬うようにして投げた。如何に大男と言えど、運動力学に基づいた論理的で正確な柔術の手に掛かっては、宙に放られるのは必至である。

 しかし、そんな事は恋火と同じく武の道に生きる柳江とて百も承知。投げられる瞬間に合わせ、あえて自ら地を蹴って前回りに跳ぶ事で、空中での制御を可能とし、一切の痛手を負う事も無く、両足での安定した着地をしてみせたのであった。

 更に柳江は間髪入れずに、自分の腕を取ったままの恋火の左腕を逆に掴み返し、体勢を低くして彼女の足元に背を向けて潜り込み、左脚の付け根辺りを持って、肩から背負うようにして投げた。

 だがこれも、恋火の筋書き通り。柳江と同じく、自ら投げられる方向に跳び安全に降り立つ事で、衝撃を受けずに完全に技を無効化した。

 ダメージは与えられなかったものの、これで間合いを離した上で仕切り直すという目的は達した。


 ——次は、こちらの番だ。


「はっ!」

 予想通り着地後の隙を狙いに来た柳江の右中段蹴りを、左脚の膝で受けつつ、恋火は右の拳を打ち出して迎撃する。

 攻防を全くの同時に成立させる、極めて効率的なカウンター。

 片脚一本のみが支えとなるこの技を、安定性と威力を損なわずに実戦で使う事ができるのは、絶大なバランス感覚と戦闘センスを持つ恋火であるからに他ならない。

「うおっ……!」

 胸部に一撃を叩き込まれ、流石の柳江も後ずさり、攻勢の中断を余儀無くされる。

 今が好機——痛みに怯んだ柳江に接近し、恋火は脇腹目掛け、右脚での蹴りを打つ。

「ちぃっ……!」

 この状態では躱す余裕も無いと早々に諦め、柳江は左腕で、彼女の真髄である脚技を受け止める。

「むん!」

 だがそれでは終わらない。

 恋火は蹴りを受けさせた状態で、逆向きに身を翻しながら前方気味に片脚で跳び上がり、空中で左後ろ回し蹴りを放つ。

 空間を押し退けながら延髄に襲い掛かるそれは、間違いなく殺人的な破壊力と速度を秘めた、まさに“必殺”と呼ぶに相応しい絶技であった。

(そう来たかよ……!)

 こんな物をまともに喰らったら死んじまう——恋火の蹴りの恐ろしさを良く知る柳江は、決して大袈裟ではない命の危機を感じ、この一撃を何がなんでも回避する事に全力を注ぐ。

 この速さでは、スウェーで躱すにはもう間に合わない——瞬時に見切りを付け、上半身のあらゆる筋肉と神経を総動員させ、前に屈んで避ける判断をした。

 結果的に、それは正しかった。轟音を立てて振られた脚は、柳江の髪の毛の先をほんの少し消し飛ばしただけに留まり、彼自身が致命傷を負うような事態にはならなかった。

 だがそれは、ここまではの話。

 恋火の攻撃には、まだ次が残されていたのだ。

「っっ!?」

 彼女は空中で脚にグッと力を込め、柳江が攻撃を凌ぎ切ったと安堵し油断した刹那に、一瞬で切り返した脚先を叩き込んだ。

 防御うける準備をする間も無く頰に直撃し、柳江は大きく左によろめき、片膝をついた。

 相手の力量を把握した上での、右の蹴りを始動とし、間を置かずに一気に畳み掛ける、驚異の三段構えの連続攻撃。

 普通の人間では振る事自体が不可能な揺さぶりを、恋火の超常的に高度な技術と速度をもって掛けられれば、どんなに優秀な格闘家ファイターであろうとも、不意を突かれた上での直撃は免れない。恵まれた体格の持ち主である柳江でさえ、膝をつかずにはいられなかった。

 完璧な形で技をキメた恋火は、危なげなく両足で畳を踏みしめ、なおも一切の油断を見せる事無く、柳江に対してその場で厳然に構える。

 一時は優勢だったものの、鮮やかに流れを変えられ、ついには逆転までされてしまった柳江は、悔しそうに畳を殴りつけ、立ち上がりながら悪態を吐く。

「あーーくそ! なんてやつだよちくしょう! っはは、今日も絶好調だな、師匠よぉ!」

 口調こそ荒いが、そこに怒りや不満は微塵も無い。

 むしろ、不利な形勢をあっさりと覆してみせた少女の圧倒的な天賦の才に敬意を表し、称える、曇りのない清々しい感情に溢れている。その顔にも、自然と爽快な笑みが浮かび上がっていた。

 偽りのない賛辞を受け、恋火は少しだけ頰を緩めつつ、同じく素直な言葉を返す。

「貴方こそ、相も衰えぬ迅雷の如き豪快さだ。瞬き一つするのさえ気を抜けない。これ程の緊張感を抱く相手は、貴方を置いてそうはいない」

 すると、柳江は照れを紛らわすように大袈裟に笑った。

「なっはっはっは! そいつぁ嬉しいねえ! 四十超えたこの身体も、まだまだ捨てたもんじゃねえって事だな。お褒めに預かり光栄ですぜ、師匠」

 嫌味無く、茶化すような言い方でへりくだってみせる柳江。

 恋火が柔和な表情でそれに応えたのを見るなり、柳江は両の拳をかち合わせ、はち切れんばかりの闘気を声に乗せて再開を申し出る。

「ようし! お喋りはここまでだ。続けようぜ、師匠。悪いがおっさんは大人気無いんでな、このまま勝ち逃げなんてさせねえからな!」

「望むところ……!」

 恋火もまた、ニヤリと好戦的に笑い、首を小気味良く鳴らし、それに快く応じた。

 そして二人はまたも、二人にしか立ち入る事の許されない次元の戦いへと突入するのであった。

「…………なあ、隼弥」

「……なんすか」

 同じく組手を行なっていたはずの隼弥と相手の男性が、体は互いに構え合ったままに、首だけを恋火と柳江の方に向け、小声で話を始めた。

 彼らばかりでなく、他の何組かも同時に実戦の稽古をしているはずであったが、鷲峰流のツートップが生み出す最高峰の武の世界に、全員が例外無く、否応無く動くのを止めて、その場で見惚れてしまっていた。


 それ程までに、二人の力は、格闘家として究極の域に達していたのであった。


「いつ見ても思うんだけどさあ」

「押忍」

 相手の男性が、目線を変えずに呆けた声をかける。隼弥も気の抜けた返事で淡々と答える。

「ほんと、あの二人ハンパねえよなあ」

「押忍」

「あの二人の組手は、なんていうか……竜巻と竜巻がぶつかり合ってるみてえなもんだよなあ」

「押忍」

「隼弥も一回あの中に混ざってみたら? いい経験になると思うよ」

「イヤっす。たぶん一回経験したらもうこの世に戻ってこれねえし」

「ですよねー。オレもまだあの人達とはりたくねえわ……あの人達の技を受けるには、オレはまだ“若すぎる”よ……」

 純粋な尊敬と憧れの念を込め、男性は愚痴を零すように諦めを吐いた。

 しかし、そうして夢中で観戦を決め込みながらボヤいていると、周りの不自然な静けさに気が付いた柳江が、全員に向かってドスの利いた声で怒鳴りつけた。

「おいてめえらぁ! 何ボケっと突っ立ってやがんだ!! あぁっっ!? ブッ殺すぞゴルァっっ!!」

「お、押忍!!」

 乱暴な怒声に、一斉に肩をビクンと跳ねらせ、弟子達は大慌てでそれぞれ稽古を再開し始めた。

 その様子を見てやれやれと息を吐く柳江に、恋火が表情を若干渋くして嗜める。

「柳江さ……柳江、言葉が荒い」

 恋火は師範、つまり弟子達を鍛え、指導する立場にある。

 故に彼女は、確固とした示しを付けるために、また、自分が人の上に立っているのだという自覚を保つために、鍛錬中に他の者と会話を行う時には、誰であろうと例外無く呼び捨てにするように心掛けている。

 しかし、自分が生まれる前から鷲峰家と家族ぐるみの付き合いをしていた柳江に対しては、つい反射的に畏まった態度を取ってしまい、途中で言い直す事が常となっていたのであった。それは恋火が師範の座に就いた時に、柳江自らが彼女に与えた指示であるにも関わらず、未だに滞りなく実践できてはいなかった。

 今回もそんな風に、少々ぎこちない形での指摘を受けたものの、柳江は慣れたように軽く流して、気合を入れて構え直す。

「おっと。すまんすまん、こいつぁ失敬。つい癖でな、っはは。んじゃま、俺達も続きやろうか!」

「押忍!」

 勇ましい一声と共に、今一度全身の神経を研ぎ澄ませ、恋火は柳江との手合わせを再開するのであった。



 これが、彼女の日常。

 日本の武術会の未来を担う少女の、武に愛され、激闘に彩られ、闘い続ける事を宿命付けられた人生、そのものである。


* * *


「あ〜、恋火ちゃん、この後ちょっと時間いいかな」

 二時間程に渡る壮絶な鍛錬が終了し、皆が着替えに向かい始める中。

 柳江が、更衣室へと足を運び出した恋火を、砕けた口調で呼び止めた。

「はい。構いませんが」

 “師範モード”も終わり、恋火は普段通りの丁寧な言葉で答えた。

「おう、したらまた後でな」

 了承を得られ、柳江は満足そうに微笑み、小さく手を振りながら着替えに向かった。恋火も「はい、また」とだけ言って、足を進めた。



 道場と塀を挟んですぐ隣に建つ、和風の造りをした広い屋敷の縁側で、黒い私服に着替えた柳江は、どっかりと胡座を掻いて夜空を見上げながら、家主の登場を待っていた。

 やがて一分もしない内に、彼女は深い紺のジャージ姿で、小さく湯気が立ち上る湯呑みをお盆に二つ乗せて、柳江の元へと歩み寄ってきた。

「お待たせしました。すみません……備蓄が足りず、こんな物しか用意できませんでした」

 盆を床に置き、柳江の方に茶を差し出しながら申し訳なさそうに言うと、彼は振り向いて手を短く横に振りながら、呆れたように声を上げた。

「あ〜〜! いいっていいって、そんな気ぃ遣わなくて。むしろ、謝んのは突然お邪魔するとか言い出した俺の方だっつーの。君が負い目感じる必要はねえよ」

「しかし……」

「だ〜からっ、そういうところが“堅い”っていつも言ってんだろ? こんなおっさん一人雑に扱ったってバチは当たらねえよ。いいからいいから、せっかく久しぶりにお互い腰落ち着けて話す時間ができたんだし、さっさと座って話そうぜ? な?」

 嗜めながらも気さくに笑って、柳江は自分の右横の床をポンポンと叩く。

 彼は義理や人情といったものを重んじてはいるものの、堅苦しい事や小難しい事は苦手である。故に、いついかなる時も何事にも厳格であろうとする、些か融通の利かない恋火に、たまには肩の力を抜くようにと、度々こうして注意を入れていたのであった。

「……では」

 その闊達かったつで温かみのある親切に促され、恋火は少し破顔し、一人分程の距離を隔てて、彼の右隣に正座する。

 それに柳江も微笑み返し、恋火が淹れた茶を手に取り、一口含んだ。喉の奥に流し込み、安堵したように一息吐いて、呟くように感想を伝える。

「美味え……程良くあったかいし、香りもちゃんと立ってる。やっぱり、君が淹れてくれる茶はいつも美味いな」

「ありがとうございます」


桜火おうかさんの……君のお母さんが淹れてくれた茶も、美味かったな」


 寂しげな想いを乗せて、柳江は感傷に浸る。

 恋火は、一瞬ピクンと反応を見せた後で、仄かに誇らしげに同調した。

「はい。私も、大好きでした」

「ああ、そうだよな。だからこんなに美味いんだよな」

「はい」

 納得したように言ってもう一口味わい、コト、と音を立てて湯呑みを置く。恋火もまた、忘れ難い母の事を思い出すように、そっと湯呑みに口を付けた。

 何度味わおうとも懐かしさを感じる渋みが、濁りと共に喉を通り抜けて行った。

「……」

 涼風が、少女と壮年の男を撫でる。程良く冷える夜の心地良さと暗さの無い静謐せいひつが、暫し互いの心を包む。

 さほど間を空けない内に、柳江がぼんやりと前を見つめながら、哀愁漂う声で憂いた。

「桜、もうすっかり枯れちまったよなぁ。今年の桜は一段と綺麗に咲き誇っていたから、もっと見てたかったのに」

「ええ、私もです」

 恋火も視線を同じくして、短く同調した。

「時の流れってのぁ、どうしてこうせっかちなのかねえ。人がどんなに留まって欲しいと願っても、んなもん知らねえよとばかりにどんどん先に流れて行っちまう。君が産まれてから十八年、君が鷲峰流の師範になってからだいたい二年と半年、そんで君が高校三年生になってから、もう一ヶ月も経った。桜が咲き始めたのだって、つい最近の事だった気がすんだがなあ、俺は」

「そうですね」

 簡単なものではありつつも、恋火の返事は確かな同感の意が籠っていた。

 他の人間ならばまず見落としてしまう、その微妙な心情の表れを感じ取り、柳江は更に、感慨深げな面持ちでこれまでを振り返り始める。

「……ほんと、今までいろんな事があったよなあ」

「ええ、そうですね」

「楽しい事も、嬉しい事も、悲しい事も、厳しい事も——とんでもねえ事件も……皆で一緒に、乗り越えてきたよなあ」

「……っ」

 柳江が発した言葉を受けて僅かに目を伏せる恋火の脳裏に、忌まわしい陰惨な記憶が浮かび上がってくる。

 身勝手な悪意に傷付けられた被害者達。歯止めの効かなくなった欲望に晒され、痛め付けられた人々。容赦の無い、際限の無い暴力に倒れ伏した、哀れな弱者の群れ。

 

 醜悪に歪む笑みを浮かべ佇む、一人の男——


「あの時は……マジでどうなることかと思ったよなぁ。鷲峰流始まって以来の、大事件だったもんなぁ」

 柳江も同じように顔をしかめ、蘇ってきた過去に胸を痛める。その重苦しい声を聞いて更に気を落としたように、恋火は眉を八の字にして、暗い面持ちで罪を詫びる。

「……申し訳ありませんでした。私が未熟であったばかりに、あのような事態に……」

「ああ、ごめんごめん。そういうつもりじゃなかったんだ。君は悪くねえ。誰も“あんな奴”がこの世にいるなんて、思うはずねえよ」

 柳江が慌てて庇うようにそう言うも、彼女の気が休まる事は無く、胸の奥から湧き上がってくる後悔と罪の意識に呑み込まれていく。

「いえ、私に責任があったのは事実です。あの時の私に、もっと先見の織があれば……誰も、傷付かずに済んだはずなんです……っ」

 膝の上に置いた拳に力を込め、自責の念に駆られる恋火。

 亡き両親を想うのと同じように、今更変えられようもない暗い過去を嘆き、悔やみ、恥じる。

 人一倍責任感の強い恋火には、どれ程の月日も、どれ程の慰めの言葉も、救いには至らない。彼女が抱える重圧と罪悪感は、心の根深い場所に楔のように打ち込まれていて、当時の出来事を思い出す度に、痛みを滲ませていたのであった。


 “あの男”の存在は、今もなお恋火の心に巣食い続ける、呪いと化していたのであった。


「……?」

 沈んでいく感情に顔が下がっていく恋火の頭の上に、そっと大きな感触が乗せられる。

 目線を向ければ、それは柳江の手であった。

「言い出した俺が悪いって話だけどよ、もう過ぎた事なんだし、いつまでも気にすんなって。それにあの時、君はきちんとケジメをつけたんだ、だったらそれでいいじゃねえか。もう二度と同じようなヘマをしなきゃ、な」

 穏やかに言って、小さく撫でる。

 柳江は元ヤクザという経歴を持つ、体もゴツく、声も野太く、言葉も雄々しく荒々しい、顔の左側にくっきりとした傷跡が走っているような、所謂“怖い人”であった。だが今、自分の半分にも満たない歳の少女を慰める彼の手には、そんな外面とは対極にある、深い優しさが込められていた。

「…………はい」

 柳江の方へ向けていた目を下げ、恋火は微弱に応答する。

 救われたわけではない。罪の意識が消えたわけではない。気にしないわけにも当然いかない。

 ただ、こうして胸の中に灯る心地良い感覚——自分を少しでも前向きな気持ちにさせてくれるこの優しい熱だけは、絶対に信じていいものであるのだと、彼女は改めて実感した。

 自分の悩みや苦しみを理解し、分かち合い、励ましてくれる人がいる事のありがたみと大切さを、愛おしい手の平の温もりから、今一度強く噛み締めたのであった。

「……って」

 突如、ハッとしたように声を上げた柳江は、恋火から離した手で顔を押さえ、自虐するように悪態を垂れる。

「んなこと言うために来たんじゃねえっつんだよ俺ぁっ。だぁもう、せっかく久々に二人っきりで話してるってのに、なに暗くさせてんだ馬鹿野郎が。こんなんじゃ将騎まさきさんに叱られちまうぜ……」

 バツの悪そうな顔をして、一人反省する柳江。

 年齢とは真反対の、まるでやんちゃな少年のようなその幼げな振る舞いを見て、恋火は密かに和み、頰を緩めたのであった。

 しかしそれは、唐突に「よし、話を変えよう!」とさっぱりと気持ちを切り替えた柳江によって、再びいつもの涼やかなものに戻った。

「一月程経ったけどどうだい、新しいクラスは。良い男でもいたか? ん?」

「え。その……すみません、私はそういった話には疎いもので……」

 からかうように色恋ネタを振られ、恋火は乾いた笑いを零して歯切れ悪く答えを返した。すると柳江は、心底愉快そうに豪快な笑い声を響かせた。

「なっはっは! そうかそうか、まだ君の“恋”に“火”はつかねえか、結構結構! しっかし見る目の無え野郎どもだなぁ、もってえねぇもってえねぇ。俺が同級生だったら、こんな良い女ほっとくわけがねえってのによぉ。ま、さすがにウチの嫁には敵わねえけどなっ、なっはっはっは!」

「はは……」

 褒められ、惚気られ、どうにも反応に困り、気分を良くする柳江の傍らで、恋火はぎこちなく愛想笑いを返すのみだった——一抹の照れ臭さを感じながら。

 一しきり声を上げた彼は、再び恋火の近況を詮索する。

「ま、それはともかくよ、学校生活はどんな感じなんだい? ちゃんと上手くやれてんのか?」

「はい、皆目問題ありません。学業、スポーツ、生徒会の活動、いずれも例年通り順調に進められております。……ただ」

「ん?」

 淀みなく、粛々と報告する恋火であったが、僅かに困ったような素振りを見せて付け加える。


「今年は……少々変わり者がクラスに来まして」


 すると柳江は、大きなリアクションを見せ、興味津々な様子で深掘りしていく。

「あ〜! それジュン坊から聞いたよ! え〜っとなんだっけ、なんかアメリカのすっげえとこのお嬢様なんだっけ? しかもそいつ、確か先月ウチの道場に堂々と殴り込みに来たって奴なんだろ?」

「はい、いかにも……」

「いや〜、いい度胸してやがるよなぁ。よりにもよってウチに喧嘩売りに来るとかよぉ、よっぽどの自信家か馬鹿か命知らずなんだな〜、その嬢ちゃんは。くそぉ、せっかくだから俺も見ておきたかったな〜、その娘の戦いぶりをよぉ。お嬢様の癖に相当良い動きしてたらしいし、なにより……」

 悔しそうな語調で切って、顎に手を当てながら、不必要に渋い顔で語る。

「その子が超ナイスバディだったってのが、ほんっと〜にもったいなかったなぁ。ん〜、我らが大和撫子の葵ちゃんのパイオツももちろんいつ見ても素晴らしいが、外国のパツ金チャン姉のダイナマイトバディってのも、この目で堪能してみたか」

「柳江さん、五発程本気で蹴らせていただいてもよろしいですか? 主に胸部を集中的に」

「ごめん、君が言うと洒落にならないんだけど。あと真顔でこっち見ながら丁寧に言うの止めて、マジで怖い」

 空気を歪める程の禍々しい黒炎のオーラに慄き、柳江は冷や汗を滝のように流して、命乞いをするように言葉を並べた。

「全く……」

 炎を鎮め、吐き捨てるようにして呆れ、乱れた気を落ち着けるように一口茶を含む。

 そんな恋火を軽い態度で宥め、柳江は早々に話題を戻した。

「っはは、悪りい悪りい。で、どんな感じなんだい、その嬢ちゃんは。ま、話に聞いた限りでもなんとなく想像はつくがな」

「ええ、御察しの通りです。私に戦いで敗けた事を余程根に持っているのか、奴は毎日毎日、事あるごとに何かにつけて勝負を挑んで来るのです。この間などは……」

 どこか辟易した様子で、恋火は学校であった出来事を話し出した。


* * *


 時と場所、ジャンルやルール、相手の気分も事情も、一切合切お構い無し。

 己を、誇りある一族の血のみを絶対の基準とする彼女——ミランダ・ヘイディ・アンダーソンは、自分が戦ると思い立ったその都度、横暴に様々な形での勝負を持ち掛けてきていた。

 声を低くして報告を済ませた彼女に、柳江はまたも腹から笑い声を上げる。

「なっはっは! いやはや、そらぁたまげたねぇ。君にそこまで強気に向かってくるたぁ予想以上だ、どこまでも肝の座ったお嬢様な事だぜ。会ってはいねえけど、もう気に入ったよ」

 面白がる柳江とは反対に、恋火は疲れたような面持ちで、息を多く含ませて話す。

「私としても……あんな奴は初めてです。おかげで貴重な自由時間が奪われたり、巻き添えで注意を受けたり、生徒会の業務に、多少ではありますが支障が出たり……もう少し空気を読んで動いてもらいたいものです」

「ふむ……なるほどねぇ。じゃあ恋火ちゃんは、その嬢ちゃんを迷惑に思ってるってわけだ」

「……いえ」

 意外な返答に「おう?」ときょとん顔をする柳江。

 恋火は彼の方を向き、柔らかい表情で、本心を語る。


「確かに最初の内は迷惑と感じていましたし、今でもそう感じる事はあるのですが……最近は少し、嬉しくもあるんです。学校でも道場でも、今までこんなに何度も私に真っ向から挑んで来る人間なんて、いませんでしたから」


 柳江は厳つい眼を見開き、驚愕を示した。

 恋火がここまで喜びを露わにして学校での話をした事など、一度も無かった。傍から見れば、それでも些細な変化に過ぎないのだろうが、赤子の頃から彼女を見守ってきた柳江には、それが一目で分かった。

 あまりにも強過ぎる力を持って生まれたが故に、あらゆる分野において一線級の能力を発揮する才能に恵まれたが故に、周囲から畏怖され、早々に諦められてしまうばかりに巡り会う事が出来なかった、己に挑戦し続ける者。幾度負かされようとも、打ちのめされようとも、己を越えるその日を勝ち取るまで立ち上がる事を諦めない、生半可ではない芯の強さと高潔な誇りを持った戦士。煩わしい心遣いなどいらない、全力をもってぶつかり合う事のできる、[[rb:好敵手 > ライバル]]と呼んでも差し支えない存在。

 そんな、彼女が“相手”として認める程の人間がようやく現れた事に、柳江は自分の事のように嬉しくなった。

「……そっか。そっかそっか、そいつぁよかった。君が楽しく学校を過ごせてるんなら、俺は嬉しいよ。これからもその嬢ちゃんと楽しくやってくれ」

 少年のようにはにかんで、柳江はまた恋火を軽く撫でた。

「はい……ありがとう、ございます」

 受け入れた手の平の下で、恋火は仄かに頰を染めて礼を呟いた。

 その笑顔は、いかなる状況であろうと、彼以外の人間の前では絶対に晒す事の無い——晒したくてもできない、一輪の花のように儚げで慎ましく、切なげなものであった。

「あっ。ところでよ……」

 そこで柳江が、突飛に話題を変える。

「はい、なんでしょう」


「恋火ちゃんは進路、どうするか決めたのかい?」


 少し固さのある声で問われ、恋火は緩んでいた表情を引き締める。

「いえ……実は、お恥ずかしながら、まだ……」

 気まずそうに声を弱めるも、はぐらかさず正直に伝える恋火。

「ん……それぁ、進学しようかどうしようかって決めかねてたアレの事かい?」

 どこかそれを予測していたような落ち着いた問いかけに、彼女は目を伏せて首肯する。

 恋火は高校に入学した頃から、進路について密かに思い悩んでいた。

 この歳にして既に、鷲峰の看板を背負って数多の人を鍛え、教え、導く立場を継ぐという、おおよそ生涯の目標——終着点に到達してしまっているが故に、今目の前にある未来をどうすべきか、決断できずにいたのである。

 このまま高校を卒業するなり、すぐに家業に専念するのは簡単な事。早く余計なしがらみから解放されて、より集中して更なる強さを追い求めたいという願望も、間違いなくある。それが鷲峰の人間としてあるべき姿であるという事も、理解している。

 しかし、それは安易に過ぎる選択なのではないだろうか。せっかくの進学の機会を、様々な分野の知識を得られる機会をあっさりと捨ててしまう事は、果たして本当に正しい選択なのだろうか。それが鷲峰家の、鷲峰流の為となる真の道なのだろうか。

 それに自分自身、学習が好きというのもあり、大学でもっと高度な事を学びたい気持ちも持っている。進学したいかしたくないかと問われれば、前者と即答できる程の欲はある。

 だがもしそうすれば、今以上に鍛錬の時間が削られる事は必至。鷲峰の人間としては、極めて望ましくない状況の変化である。

 そもそも進学など、単なる我儘に過ぎない行為。最終的に辿り着く場所が同じであるとは言え、寄り道も甚だしい、余分な時間の使い方だ。


 何故なら、自分は鷲峰家の当主であるのだから。


 人の上に立つ者が、家業を疎かにしてまで我欲を行使するなど、許されるはずはない。

 多くの人間の頂点に立つ身分に比べれば、多くの人間を指導する責務に比べれば、一個人の私情など、取るに足らない真っ先に切り捨てるべきはずのものだ。

 だからこそ、彼女は未だに決められずにいた。

 家業に専念するか、進学するか。己が宿命に殉じるか、願望を満たすか。

 若くして一族のおさとなってしまったが故に生まれた、凡人には到底理解の及ばない苦悩。

 どちらも紛れもない本懐であるが故に、恋火は家族同然の存在である柳江と担任以外の人間に打ち明ける事もできず、長らく葛藤し続けていたのであった。

「……ん〜とよ」

 そんな彼女の事情を知る希少な人物である柳江は、低く唸り、腕を組んで視線を上に向け、暫し頭の中で考えを整理する。

 やがて真面目な面差おもざしで恋火を見やり、その心に直接的な言葉で問いかける。

「君は、将来どうありたい? 何を望む?」

「……私は」

 すると恋火は、手前に持ってきた左の手の平を見つめ、それを力強く握り締め、眉間に深い皺が寄る程真剣な想いを込め、答えた。


「私は……もっと、力が欲しい。全てを護れるだけの、圧倒的な力が。そしてそれを、一人でも多くの資格ある者に伝えたい。鷲峰流が、弱き者を護るための武術が、より多くの人を救うために使われて欲しい。それ以上の望みなど、私には皆目ございません」


 柳江の眼に真っ直ぐ向けられた瞳には、揺るぎない焔が宿っていた。

 彼はその強さの程を確かめるように、更に問答を繰り返す。

「力、ねえ……君は今でも十分、日本で最強と言ってもいい強さを誇る格闘家だ。それでもまだ、君は更なる力を追い求めると言うのかい?」

「はい。それが私が存在する理由、この世に生を受けた意味ですから」

「……じゃあ仮に、君が君の言う『全てを護れるだけの圧倒的な力』を手にしたとして、その後はどうする?」

「更なる力を求め続けるまでです」

「一体いつまで」


「無論——この命尽きるまで」


 迷いなど欠片も見せず、全てに対して間を置く事無く、己の激しく純粋な内面を強かに返す恋火。

 鋼の信念に打ち付けられた不動の使命感。尽きる事も満たされる事も無い、『力』への漠然として膨大な欲求。

 それが、彼女が発する言葉をより真剣たらしめていた。

「……」

 鷲を思わせる、キレ長の鋭い眼の中に猛る魂の焔に魅入られながらも、柳江は胸がざわつくのを感じた。

(同じだ……父親の将騎さんもいつも言っていた。『もっと強くなりたい』、『力が欲しい』と。鷲峰の血がそうさせるのか……? いや、んなこたぁなんだっていい。問題は、今この娘もそうなっちまってるって事なんだから)

 かつて喧嘩に明け暮れ落ちぶれていた自分に、武道という正しき道標みちしるべを授けてくれた恩義から、師と仰ぎ忠誠を誓った男の面影を、彼は今の恋火からはっきりと感じ取っていた。

 それはある意味喜ばしくもあり、また悲しくもあった。

(いくら血筋だからってよぉ、まだ十七歳の女の子が抱くにはあまりに大きい、いや……寂しすぎるぜ、その大義は……)

 大人の男の集団さえ容易く蹴散らす力を持っているとは言え、まだ成人ですらない少女。彼女が抱く理想は、思想は、あまりにも歳不相応と言う他無い。

 悲惨で壮絶過ぎる過去の経験が、彼女にここまで過度の急速な成長を促してしまったのだと、同情せずにはいられない。

 自身も子供を持つ一人の父親であるが故に、また、娘も同然に面倒を見てきた相手であるが故に、柳江はその事実が心配でならなかった。

(ま、紛れも無いあの人の子供だ。誰が何を言おうが、この娘の信念は死ぬまで折れる事は無いんだろう。だったら……俺にできんのは、この娘をちゃんと支えてやる事だけだ。この娘が他人ひとを護るために戦うってんなら、俺はこの娘を護るために戦う。この娘には、必ずそういう大人が必要だ)

 恋火の真剣な眼差しと想いに応え、柳江もまた、確固たる信念を持って、改めて決意する。


(でなきゃ、この娘はいつの日か——壊れちまう)


 胸の中をざわめかせて止まない、曇り空のように危うげな不安を振り払うように。

「なっはっはっは! いやあよく言ったっ、よく言ったぜ恋火ちゃん! 君がそう言うなら、俺はこの身がブッ壊れるまでお供させてもらうぜ、師匠!」

「感謝します」

 堅苦しく変わってきた空気を解きほぐすように、柳江は大仰に笑う。恋火も少しだけ力を抜いて、冷静に礼を述べた。

「でもよぉ、大学に行ってみたいってのも、それと同じくらいの望みなんだろ?」

 丁度いい具合に雰囲気が和らいだところで、柳江は再び話題を進路に戻す。

「ええ、まあ……本音を言わせてもらえれば」

「ふむ、そうかい……じゃあアレだな、ここまで来たら、いっそギリギリまで好きなだけ悩めばいいよ」

「え?」

 思い切った発言に、恋火は若干面喰らったような顔をする。

 「別に投げやりな意味で言ったんじゃねえぞ?」と前置いて、柳江は持論を語る。

「頭脳明晰で武芸百般、おまけに芸術に遊戯、人の指導に事務処理に、果ては炊事洗濯まで……君は本当に何をやらせても完璧にこなしちまう凄い娘だ、俺としても誇りに思う。でもな、だからこそ適当な判断や行動はしちゃあいけねえって、俺は思うんだ。何でもできる万能だからって何の考えも持たずにただ適当に前に進むのは、自分が持つ物の大きさを分かってねえ無責任な馬鹿野郎のする事だ。君にのしかかる責任ってのは、重いんだぜ?」

「……御尤ごもっともです」

「だから、迷ってるんならそのままちゃんと悩んで、悩みまくって、考えに考え抜いて、答えを出して欲しい。君には、それだけの義務と責任がある。なぁに、たっぷり悩めるのなんて今だけだ、焦る事も恥じる事もねえ、安心して贅沢に悩め。それに、こんなおっさんでも一応君の倍以上人生歩んできたんだ、君さえ良ければいつでもいくらでも相談に乗ってやる。最後にどういう決断をしようが、それが本気で悩んで出した結論なら、俺は黙って応援させてもらうぜ、恋火ちゃん」

 曇りの無い信頼に溢れた、情の込もった台詞。

 自分の事を親身になって考え、支えになろうとしてくれている彼の優しさに、恋火は父性のような温かさを感じ、心を抱き締められたような安心感を覚えたのであった。

「……頼もしいお言葉、痛み入ります。とても、嬉しいです」

「おうっ。そいつぁ光栄だ」

 飾らない素直な感謝の気持ちを伝えると、柳江は歯を見せてニカっと笑い返した。

 その時、まるで実の親子のような二人が作り出す和やかな空気の間を、一陣の冷風が通り抜ける。

 予想以上に肌寒く吹いたその風は、四方山話よもやまばなしの終わりを勧める報せとなった。

「ん。さてとっ……そろそろおいとまするかな。四十も過ぎたおっさんが、ちょっと偉そうにぺらぺら喋りすぎたようだ」

 ゆっくりと腰を上げながら、卑下するように言う。恋火もそれに伴って立ち上がりつつ、畏まった態度で謙遜する。

「いえ、そんな……むしろこんな小娘の為に貴重な時間を割いて頂いて、なんと礼を申し上げれば良いやら……」

 すると柳江は、一段と大笑いして、謙虚な姿勢を欠かさない少女に喝を入れた。


「なっはっはっは! 日本の武術会の未来を背負う人間が小娘とは恐れ入るねぇ! 謙遜は日本じゃ美徳とされてるが、君が言うと嫌味にしか聞こえねえよ。何度か言った気もするけどよぉ、君はもっと自信を持っていいんだぜ? なんたって——君はあの偉大な二人両親の子供なんだから、だろ?」


 清々しい表情で、どこまでも力強く心を盛り立ててくれる。他の者とは違う、遠慮も誤魔化しも無い、正直で大きい言葉を、きちんと自分にぶつけてくれる。

「……はいっ」

 その嬉しさと尊さを深々と感じながら、恋火は明瞭な語気で返事をした。



* * *


 門の前で待つ恋火の元に、柳江がバイクに跨ってやってくる。ヘルメットのシールドを上げ、しっかりと互いの目を見合わせて別れの言葉をかける。

「そんじゃあ、夜なのに付き合ってくれてありがとな、恋火ちゃん。ちゃんと答えが出せるといいな。ああそれと、お茶ご馳走さん。お休み」

「はい、こちらこそ、ありがとうございました。お休みなさい。お気を付けて」

 頭を下げて丁寧に挨拶をする恋火に目で笑顔を伝え、サムズアップを返し、柳江はシールドを戻して愛車を走らせた。

 重低音と共に宵闇よいやみを駆け出した紅いテールランプは、あっという間に遠く小さくなっていき、やがて曲がり角の向こうへと消えて行った。

 途端に戻った夜の静けさと、そよ風が連れてくる涼しさが、門前で一人佇む恋火を包み込む。

「……責任、か……」

 彼女は先の柳江の言葉を噛み締めるように呟く。

 まだ、自分の中で答えは出ていない。しかし、否が応にも決断を迫られる時は、着実に近づいている。

 だが柳江は、それでも必要なら寸前まで悩み続けろと助言を呈した。答えを出すために苦悩し、葛藤する事こそが自分に課せられた責務であると、そう諭してくれた。

 ならば、そうしよう。

 他の誰でもなく、自分自身が一番納得できる選択を、限界まで悩み続けよう。

 そうすればきっと、例えどんな未来を歩む事になろうとも、後悔だけはしないはずであるのだから。


 淡い月明かりの下、未だ判然としない決心と対峙するように、恋火はその手で固い拳を作った。


* * *


 コツ、コツと、明瞭な高い靴音が、白いコンクリートの廊下に繰り返し反響する。

 深い紺色の帽子とズボンに、白いシャツの上から装着した黒いプロテクター、腰に備え付けられた手錠と鍵束、縮めてホルスターに収納されている警棒。

 ここは——『東方拘置所』。大小多少の罪を犯した数々の受刑者達が牢に収容されている、関東地方における最大の拘置所である。

 その施設の中を、とある場所を目指して、一人の男性の看守が寝惚け眼で、簡素な食料が並べられたワゴンを気怠そうに押していた。


 他の囚人達から隔離された場所に設けられた、“危険な罪人”が捕らえられている特別房室へ。


 進む度に人の気配が失われていく廊下を延々と歩き、行き止まりにある扉を、横にいる監視に開けてもらい、中へと入る。

 進入する人間に警告を促しているかのような、不気味な雰囲気の薄灯りに照らされた通路には、左右にいくつか牢が設置されている。

 中にはいずれも、冤罪を疑われる余地も無く判決を言い渡された、一線級の凶悪な犯罪者達が投獄されていた。

 柵で囲われた普通の牢屋とは違う、分厚い鉄の扉で頑強に施錠された狭苦しい部屋に閉じ込められた彼らは、普段よほどストレスが溜まっているのか、看守が来るとドア窓を開けて喚くように汚い罵詈雑言を浴びせまくるのがお約束になっており、今回もそうだった。

 しかし、看守は相も変わらない眠そうな表情で全てを聞き流し、一人ずつに淡々と食料を配っていった。この特別房室の配給係を任された最初の方こそ少々の受け答えをしていたが、まともな人間には理解できない言葉しか口に出さないため、会話の成立が不可能であると早々に諦め、作業を完遂する事のみに集中するようになっていたのである。

 両脇の全ての囚人に飯を配り終えた看守は、ワゴンに残った一つを手に取り、最後の仕事をこなしに足を進める。

 通路の一番奥、他と外見が一切違わないのにも関わらず、他のどれよりも近寄りがたい禍々しい異質なオーラを漂わせる独房。

 そこに、彼の目的は“いる”のだ。

「おい、飯だ」

 細い窓をスライドさせ、様子を見ながら、雑に声をかける。反応も待たずにロックを解除し、牢の中へと足を踏み入れる。

(……そういや、こいつがここにブチ込まれて、もう一年以上経つんだな)

 閉めたドアの前に立ち尽くし、看守は改めて実感する。

 微かな日の光が隙間から差し込んでいるだけの、正方形の窮屈な一室の中心。

 そこにある光景は、いつ見てもあまりにも異様で、あまりにも非常識であった。


 滑車の付いた立てかけの薄っぺらなベッドのような台に、拘束具で両手両足を縛り付けられ、黒いマスクで顔の下半分を隠されている、無造作な長い白髪を持つ大柄な男。


 自由も、人権も、情けも、一欠片とて与える気の無い、猛獣よりも扱いの悪い処置。

 それが、この人間が如何に他者とは一線を画す危険な存在であるのかを、心臓を鷲掴みにする程のプレッシャーを帯びて、歴然に示していた。

 だが、いつしかそれにさえ馴れてしまった看守は、短くかぶりを振り、躊躇いも無く一歩を踏み出した。

 その時——


 邪悪な黒い光を宿した、鬼のように尖った眼が、おもむろに開かれた。

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