五月も下旬。

 田植えも終え、集落に少しばかり時間の余裕ができた頃合であった。


 市兵衛の父は五月晴れの清々しい日に息を引き取った。

 労咳ということもあって、死に目は二畳の間を空けて見るしかなかったが、市兵衛は父の死に目に畠野の家を守ると決心したのであった。


 葬儀があり、父は狭い桶に詰められて墓に埋められた。冬であれば二夜にかけて行われる葬儀も、季節柄遺体が腐るのを防ぐために一晩で済ませられた。集落の見知ったものたちも訃報のときばかりは好き嫌いに関わらず手を貸すのが当然であった。また幅を利かす地主の畠野である。手を貸さぬわけにもいかぬ。


 土を被せられていく父を見つつ、市兵衛は尊敬していた父親を思って涙を禁じえなかった。

 まさしくキクの行いが父に対する裏切りのように思えて悔しくてならなかった。


 それ故に、九郎が墓前で泣きじゃくる姿を見て怒りを覚えた。市兵衛はことここに至って九郎が心優しい子供であることを忘れようと努めた。

 九郎に罪がないことは市兵衛にもわかっていた。しかし、市兵衛にとって九郎の存在そのものが罪であった。


 所詮、大人の事情を知らぬまま、我儘を通そうとする子供の思い込みでもあったが、市兵衛は自らの企みこそ正義であると信じるよりなかった。



 葬式が終わった翌日のことである。

 キクは田村の家に行ってくると家を出た。市兵衛には九郎を外に出さぬようにときついお達しがあった。


 市兵衛は今しかないと思った。


 彼は九郎を言葉たくみに外へと連れ出した。まだ八つの九郎である。しばらく外で遊べなかったこともあって、市兵衛の誘惑に耐えることはできなかった。それも田村の家からキクが帰るまでには十分な時間があるから、少し沢に遊びに行き、すぐに帰れば問題がないと、市兵衛の言葉を信じた。


 かくして市兵衛は九郎を外へと連れ出すことに成功した。

 だが、ここから先が問題であった。

 集落のものに九郎を連れ出したことを見咎められては元も子もない。それ故に、市兵衛は規介と茂吉にも手助けを願い出ていたのであった。

 曰く、外で遊べない九郎のために少しばかり力を貸してくれ、と。


 規介と茂吉は市兵衛は腹違いの弟にも優しい男だと、喜んで手を貸した。同じく筆下ろしを済ませた仲である。市兵衛の優しい思いやりに手を貸すことで、まるで自分らも善人になったような気がしたのであった。その点、二人は自らの罪を知らぬ幸せ者であった。


 集落を抜け出すために、道すがらで見つけた大人たちは規介と茂吉が気を引いて、市兵衛は九郎と隠れ隠れ山に入ることができた。

 二人にはもしキクが早く帰ってきたときのために集落を見張っていてもらう役目を与えていたので、二人が市兵衛らについていくことはなかった。


 九郎はかくれんぼのような脱出劇に気分が高揚していた。一月近くも外に出られなかったのである。健康な八つの少年が家に閉じ込められるのは、大層憂鬱なものに違いなかった。


 市兵衛は九郎の手を引いて沢に入った。そこから上流を目指して歩いていく。


「にいちゃん、どこに行くの?」と九郎が首を傾げるが、市兵衛は優しく微笑んで、「お前がこの前見つけた場所だよ。ほら、魚がいっぱい泳いでいたろう」


 九郎はすぐにその場所に思い当たり、嬉しそうに笑った。

 やまなしの花が綺麗に咲いていたし、あの深場のすぐ下にある滝も見事であった。石をめくれば沢蟹が二匹も三匹も見つかりそうな場所である。


「あそこで魚を獲って帰るのもいいね、にいちゃん」

「それは今度。母さんにばれてしまうよ」


 それもそうだ、と九郎は納得した。これはキクには秘密の遊びなのである。魚を獲って帰ったらすぐにばれてしまう。そうなって一層家を出られないとなれば、九郎は嫌な気分であった。


 しばらく歩いていると、目の前にようやく滝が見えた。

 九郎には見事な大きさの滝であったが、市兵衛には大人三人ほどの高さしかない小さな滝である。市兵衛は集落の下流にある滝の方が大きいと知っていた。だが、それを見たことのない九郎にはやはり大きく、荘厳な滝であった。

 市兵衛の手を振りほどき、滝の側に駆け寄って水しぶきを浴びて笑った。


 その様子はいかにも楽しそうである。


 市兵衛は「あまり滝に近寄ると危ないぞ」と注意をしながら、滝の傍を岩伝いに上へと登った。九郎もすぐにそれに気付き、兄を見習って上に登った。


「今日も魚がいっぱいだ!」


 九郎は飛び跳ねるようにして水際を歩き回り、しきりに笑っていた。

 もうやまなしの花も散っていた。実が落ちるのは年の暮れあたりであろうか。

 ふと眼下を見下ろせば、滝の傍をカワセミが飛び去っていくのが見えた。

 そう珍しいものではないが、頻繁に見るものでもない。


 市兵衛はふと思い立って九郎に声をかけた。


「おい、くろん坊」


 九郎は市兵衛が他の大人が自分を呼ぶように「くろん坊」と呼ぶのを少々他人行儀に感じたが、いつもと違う感覚に面白みを感じて笑った。

 しかし、くだらないことであった。

 市兵衛が九郎を「くろん坊」と呼んだのは、女を知った自分が大人になったような気がして、まだ八つの九郎とは格が違うのだと思いたかっただけのことであった。

 しかし、その思惑は見事に満足感を与えた。


 市兵衛が九郎を見下して「くろん坊」と呼んでいるのに、九郎はそれを面白がって喜び笑っているのである。市兵衛からすればすこぶる滑稽こっけいであった。


「おい、くろん坊。おれは田村の家に養子に出されるらしいぞ」


 九郎にはそれがどういうことかわからなかった。


「己はどうやら畠野の家を追い出されて、くろん坊と会えなくなるらしいぞ」


 市兵衛が言い換えると、九郎はようやく理解した。どうやら市兵衛と離れ離れになりそうだということらしかった。

 九郎は実感が湧かないまでも、少し寂しく感じた。


 キクの言いつけを破ってまで自分を外に連れ出してくれる兄である。九郎にとっては心優しい兄であった。


「それもこれも、母さんがお前を畠野の後継にしたいからだ。己は邪魔者だから厄介払いされるんだぞ」


 九郎にはよく意味がわからなかったが、とにかく市兵衛がキクを悪く言っていることはわかった。まだ八つの九郎には市兵衛になんと言えばいいのかもわからず、座り込んだ姿勢のまま沈黙するしかなかった。


 市兵衛はその沈黙にひどい憤りを感じた。まさか自分の母親のすることに謝罪のひとつもないのかと憤った。腹が立った。

 市兵衛は九郎がまだ八つの子供であることなど忘れ去り、せめて一言謝るぐらいはあって然るべきだろうと憤慨した。


「畠野の家を継ぐのは己だ。お前にはやらない! 己は畠野の家を継いで、タケを嫁に貰うんだ! 遠野の好きにはさせないぞ!」


 それが勘違いかそうでないかは九郎の知るところではない。そもそも遠野の叔父上と会う機会もそれほど多くはないし、叔父が甥の九郎に企みを話すことなどあるはずもない。

 だが、市兵衛はすべて遠野の思惑であると信じていた。九郎を畠野の後継に据えることで、遠野は畠野を乗っ取ることができ、土地も我が物にできるだろう。もしかすると、父親が死んだことも遠野の思惑のうちであったのではないかとさえ思えた。


 未だに沈黙を貫く九郎に市兵衛は怒鳴った。


「お前さえいなければ! お前さえいなければよかったのに!」


 そうすれば、自分だって継母から辛くあたられることもなく、もしかすると相応の親子らしい関係を築けたやもしれぬ。実際、九郎が生まれるまでのキクは厳しい人ではあったが、優しい人でもあった。実の母がいなくなったのは悲しいことではあったが、市兵衛は幼心に本当の母よりもキクの方が優しいと思ったぐらいだった。

 だが、すべては九郎が生まれてから変わってしまったのである。


 甘えたい盛りの市兵衛を放り、キクは我が子である九郎ばかりを可愛がった。市兵衛は必死に家の手伝いをいくつも熟してみたが、キクの態度は変わることはなかった。それどころか、九郎と一緒に遊ぶことさえもキクは嫌がったのであった。


 確かに父親の言う通り、情の厚い女である。血の繋がらない子よりも、血の繋がった九郎を可愛がるのはキクにとって当然のことであったのだろう。


 しかし、と市兵衛は納得できないままである。

 父親が実の母に三行半を突きつけたのには、それなりの理由があったのであろう。よもや父親の考えが間違っているとは市兵衛には思えぬ。だから、キクが畠野に嫁いだのは正しいことであろう。

 だが、正しいはずなのに、九郎が生まれた途端に市兵衛は苦しい思いばかりをするようになった。父親が選んだキクが間違っているとも中々思いたくはない。ならばきっと、九郎が悪いのだ。


 市兵衛は九郎を後ろから押し倒し、水の中に九郎の頭を押さえつけた。

 突然の暴力に、九郎はじたばたともがいたが、八つの子供が十四の子供に敵うはずもなかった。

 市兵衛は腹の底に滾る激情をぶつけるように「お前さえいなければ」と叫び続けた。



 ——呆気ないものである。


 九郎はすぐに動かなくなった。だが、本当に死んでいるのか不安で、市兵衛はしばらくの間ずっと九郎を水の中に抑え込み続けた。


「おい、くろん坊。死んだか?」


 ようやく、水から顔を上げさせて覗き込んでみたが、九郎は確かに死んでいて、返事などできるはずもなかった。


 市兵衛は安堵した。これで畠野の家を遠野から守ることができたのである。先祖代々の土地を守るために、子供一人を殺すことなど大したことではない。


 市兵衛は腹の底からこみ上げてくる淀んだ笑い声をかすかにあげて、九郎の死体を滝に落とした。


 すべては計画通りであった。


 これから急いで集落に戻り、九郎が滝に落ちて返事がないのだと、泣き叫びながら訴えるのだ。

 キクの言いつけを破ったことなど今更どうでもいいことであった。

 なにせ、九郎さえいなくなれば全ては市兵衛の思った通りなのだから。


 市兵衛はゆっくりと岩を伝って滝の下に降りた。

 滝壺から流れてきた九郎の死体を引きずり揚げ、仰向けに寝かせると、先ほどまでの苦しそうな形相がなぜだかほくそ笑んでいるように見えた。

 大方滝壺の中で水流に煽られて表情が変わったのだろうと思った。


「死んでまで笑っているとは、暢気な奴だ。なあ、くろん坊」


 市兵衛は満足げに背筋を伸ばして息を吐いた。

 これから一芝居打たねばならぬ。市兵衛は沢の砂やら石やらを体に擦り付けて汚し、それから意気揚々と集落へと走って帰った。


 九郎の死体だけになった沢で、カワセミが一匹、泳ぎまわる魚の群れをじっと見つめていた。






 十二月。


 水量のすっかり減った沢に、ひとりの少年が覚束ない足取りで入った。

 市兵衛である。


 結果から言えば、市兵衛の悪巧みは成功した。

 九郎は死に、市兵衛は田村の家に養子に出されることはなくなった。

 だが、全てが思い通りになったわけではなかった。

 九郎が死んだことで、キクは遠野の実家に帰り、市兵衛の後見人は恨んでいたはずの遠野の叔父上がすることになったのである。

 致し方ないことである、と市兵衛は納得せざるを得なかった。


 以前のキクに戻ってくれないのは寂しい限りであったが、来年になればタケを嫁に貰うこともできると考えて我慢した。十五さえ過ぎれば、遠野の叔父上にお伺いを立てる必要もないのだ。



 すべて丸く収まったはずだった。


 市兵衛は覚束ない足取りで心ここに在らずといった様子であった。頬はげっそりとこけている。時折重たい咳に苦しんだ。

 因縁のある滝の前で、市兵衛はついに跪いた。両手を水辺の砂利の上について咳き込んだ。


 わざわざ月の見える夜に家を抜け出してきたというのに、市兵衛の吐いた血痰はまるで鮮血のようであった。


 どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか、市兵衛はとんと見当がつかなかった。

 自分こそ畠野の後継に相応しい長男だったはずなのだ。


 本当ならば、来年の春にはタケを娶り、幸せになっていたはずなのである。


 まさか、自分も父親と同じく労咳に罹るなど、市兵衛にとっては誤算であった。

 自分は正しい行いをしたはずだ。なぜこんな結末になるのだ。


 市兵衛は拳を握りしめて水際の砂利を殴りつけた。

 川上から流れ着いたやまなしの実が転がっている。

 熟した実が滝の上で落ちたのだろう。腹たち紛れに手にとって滝に向かって投げつけた。けれど、狙いは大きく外れ、滝の上へとやまなしは飛んでいった。

 深みにとぷんと落ちる音が確かに聞こえた。


 気にくわないことばかりである。

 来年にタケを嫁に貰いたいと彼女の父親に訪ねたが、労咳を患った男に嫁がせられないと断られた。

 畠野の家を自分で守っていこうと思っていたのに、病床に臥せったままではろくなことができず、結局遠野の叔父上が色々と手を回していた。もっとも、市兵衛からすれば遠野の叔父がしたことは、裏で糸を引いているような行いであったが、本人からすればそんなつもりは毛頭ないことであった。


 九郎が死んだ以上、遠野家に畠野家をどうこうすることはできないのである。労咳と言えど、安静にしてきちんと栄養を摂っていれば、決して助からぬというわけでもない。寿命を延ばすぐらいはできたであろう。故に、まずは嫁をもらえるぐらいには元気になってもらわねばならぬと、遠野の叔父は考えていたのであったが、市兵衛は遠野の叔父がすることをすべて悪巧みであると決めつけていた。


 それ故に、市兵衛は妄想に駆られて静養するべきときを奔走に明け暮れた。その様子は集落のものたちからしても、まるで狂人のようであった。

 まさしく市兵衛は自ら天命を手放したようなものであった。実のところ、タケの父親は市兵衛に同情的であった。労咳といえど、子を残せるほどならば嫁がせてもよいかもしれぬと思っていた。だが、狂人のような行動を見て、嫁にはやれぬと思ったのだ。しかし、市兵衛はまさか自分の行いがそのような結末を招いたことなど知らぬ。


 市兵衛はどうにか力を込めて立ち上がると、滝の前に進んでいった。

 どうして今にも死にそうな体がここへ歩いてきたのかなど、市兵衛にはわからぬ。ただ、ここで死んだ九郎の魂にでも文句を言ってやりたくなったのやもしれぬ。


 だが、叫びたくても大声も出ぬ。大きく息を吸い込むだけで咳が出て姿勢を保つことさえ儘ならぬ。ここまで歩いてやってきたことこそ奇跡のようなものであった。


 月明かりを全身に浴びて、寒さに凍えながら、市兵衛はついに滝壺の中に倒れこんだ。


 水の中は、まるで小さな谷川の底を写した一枚の青い幻燈のようであった。


 だが、それもまた束の間のことである。

 冷たい水の中で市兵衛はふと思い至る。


 ——水の中で苦しみ溺れ死んだ九郎もこの幻燈を眺めながら死んだのであろうか。


 なるほど。確かにくろん坊は死んで後に笑ったのであろう。空気を求めて口をかぷりかぷりと動かしたのやもしれぬ。

 美しい光景であった。けれども、五月の明るい水底よりも、きっと十二月の仄暗い水底の方が美しいものであろう。




 ある兄弟の幻燈はこれにておしまいである。

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やまなし 裂田 @Akr_yrz04

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