五月上旬。

 もう明日には田植えが始まるという時分であった。

 市兵衛は父に呼ばれて奥座敷へと向かった。

 襖の向こう側に声をかけると、父の掠れた返事が返ってきた。

 わずかに襖を開けて父親の顔を見た市兵衛であったが、一目で悲しくなった。元気だったころの父親の姿は消え失せ、その顔には死相が浮かんでいたのである。

 父は言った。


「わしはもう長くあるまいよ。来年になればお前も十五。もう少し生きていられると思っておったのだがなあ。すまぬが、市兵衛。畠野家のこと、お前に頼んだぞ」


 市兵衛は何も言えなかった。それもそのはずである。継母であるキクは市兵衛を田村家へと養子に出し、九郎を後継に据えようとしているのである。まさか継母の罪を夫である父親に告げ口など、市兵衛にできるはずもなかったのである。

 病に苦しむ父親に、余計な心労を与えたくはないという心配りであった。


 父親は沈黙を守る市兵衛に向かって言葉を続けた。


「墓は毎月綺麗に掃除をしなくてはならん。お稲荷様とお地蔵様の水は毎日変えること。毎朝仏壇に手をあわせること。困った時は祈った分だけ神様仏様が助けてくれるでな。キクは気性の荒いおなごだが、情の厚いおなご故、きっとお前を助けてくれるはずだろう」


 確かに自分の息子を後継にしたいと思うぐらいには情が厚いのであろう。市兵衛は悔しい思いをひた隠して頷いた。


 それきり、市兵衛は父と顔を合わせることはなかった。



 翌日。

 奥谷の集落には他所の集落から人を集めて田植えが始まっていた。

 市兵衛ももちろんそれに加わっていたし、集落の子らのほとんどが泥まみれになって田植えをしていた。ここにいないのは乳呑み子か、九郎ぐらいのものであった。

 見知らぬものが多くいることもあって、疲れを紛らわすように陽気な歌を唄いながらの田植えであった。


 ——はあ、よいさ、こいさ。


 独特の節回しで、皆が声をあげて唄っている。市兵衛は苗を植えながら、隣で同じく苗を植える若いおなごの姿をしばしば盗み見た。

 市兵衛が密かに思いを寄せているタケという少女であった。薄汚れた浴衣の裾を捲り上げているおかげで、白い太ももがちらちらと彼の視界に入ってしまう。

 汗に滲んだ胸元もどこか艶やかさを感じさせた。タケも視線に気づいたのか市兵衛に振り向き、頬を赤らめて微笑んだ。


 市兵衛は目を背け、気を紛らわそうと、一層声を大きくして田植え唄を唄った。



 夜、他所の集落から来たものたちは集落の中にある寺に間借りをしていた。

 闇に紛れて男と女の声が聞こえてくるのは毎年のことであった。

 田植えは五日ほど続く予定であった。翌日の休憩の折、集落の見知った大人から声がかかり、市兵衛と規介、茂吉は寺の方へと連れて行かれたのである。


 三人は数えの十四であった。来年には昔でいうところの元服を控えた年齢である。

 男はまず三人を井戸の方へと連れて行き、そこで井戸水をぶちまけて泥を落としてやった。


 それからまた浴衣を着させ、今度は裏手の小屋に連れて行かれた。男の手によって、小屋の中に規介が放り込まれ、続いて隣の蔵に茂吉が放り込まれた。

 ややあって、市兵衛は少し離れた空き家に連れて行かれた。


 男は「今日のことは他言無用だ」と言った。とくに女衆には決して言うべからずということであった。


 空き家の中には三十路を過ぎたばかりの女が身なりを整えて待っていた。

 市兵衛はしどろもどろになりながらも説明を求めたが、要するに集落の大人たちが元服前の子供を連れ出して行う筆下ろしであった。

 狭い集落の中で、昂ぶる性欲を抑えるには早めに女を知る方がよい、といういい加減な考えであったが、なまじっかその慣習が長年続いているために、誰もおかしいとは思わなかったのであった。


 はたして女は隣の集落に住む未亡人であった。

 女が言うには、子供の作り方を知る必要があるということであった。数えで十五を過ぎれば、二、三年内に親の決めたまま結婚するのが当然であった。

 つまりは子作りの練習である。


 ふと市兵衛は気になり女に「それはおなごも同じことか?」と尋ねた。未亡人はそうだと頷いた。これには市兵衛も驚いた。別に女の水揚げがどうかということは考えなかったが、もしかするとタケも水揚げされるのではないかという不安が襲ったのであった。

 かくして市兵衛は「おなごはいくつで水揚げされる?」と尋ねたが、未亡人はくすくす笑うばかりであった。


「よほど好いたおなごがいるんでしょうねえ」と物知り顔で笑って見せたのであった。

 だが、心配は及ばず、おなごも同じく数えの十四にならねば水揚げはせぬという。市兵衛はそれを聞いて安心した。タケはまだ十三であった。すなわち水揚げは来年のことであった。


 また、それはそれとして、未亡人にこんなことをして嫌ではないのかと尋ねもしたが、未亡人は嫌ではなく、むしろ喜んで手を挙げたのだと教えてくれた。女一人で子を育て、田畑を耕すのは限界がある。だが、筆下ろしの手伝いをすれば奥谷の集落からいくらかの融通が利くし、住んでいる集落でも暗黙裡に助けてくれるということであった。



 昼を過ぎ、日も傾きかける頃合。

 市兵衛は空き家を後にしながら物思いに耽った。

 すでに子を産んだというあの未亡人でさえも、市兵衛の若い男の部分を満足させるのには充分であった。未亡人は久しぶりだと言って、市兵衛の滾る性欲を三度受け止めたのであった。市兵衛は相手が未亡人であれ、少々気まずい思いをした。

 まさか隣の集落に未亡人が三人もいるはずはあるまいと尋ねたのだが、二年ほど前の洪水と土砂崩れで夫を亡くした未亡人が三人いると答えが返ってきたのである。余計に市兵衛は気まずく感じた。


 だが、それはそれとして、市兵衛は何かを達成したような心持ちであった。まるで一皮むけたような気さえしたのである。まだ一人の女を抱いただけだが、女の一端を知ったような気がしたのである。それはまさに市兵衛が若いという証拠でもあったのだが、同時に不安でもあった。


 まさしくタケのことである。

 父はもう長くあるまい。下手をすれば冬までもつかしらん。

 水揚げも他所の集落の男がするというのであれば、なぜだか市兵衛には公平なような気がして納得もできた。だが、女を知った後では市兵衛の考えはまるで変わった。

 女を抱くのは気持ちのいいことであった。


 市兵衛はしばらく考えて推測を立てた。

 何かにつけて初物をありがたがる大人たちが、生娘にも初物であると下品な考えを持たぬことがあるだろうか。もしそれが事実ならば、女に限ってはこの奥谷の集落内で水揚げが行われるのではないか。それこそ、集落で地位のあるものがそれを受け持つことも考えられた。

 市兵衛も自分がその地位にあるのならば、喜んで水揚げの相手を担ったであろう。


 妄想は膨らむばかりであった。

 市兵衛が後継にさえなれば、父の死後、タケの水揚げどころではなく、娶ることもできるであろう。畠野にはそれだけの権力がある。

 だが、もし自分が田村に養子に出されれば、畠野家を継ぐのは九郎である。まさかまだ八つの九郎がタケの水揚げをすることはないだろうが、もしかしたら畠野と親類である遠野の叔父上が水揚げをするやもしれぬ。


 そもキクも叔父上の姉であるから、市兵衛には遠野の叔父上が九郎の後見人になることはすぐに想像がついた。


 そこまで考えて市兵衛ははたと気づいた。これはまさか畠野家が遠野家に乗っ取られるのではないか。父が病にかかったのは偶然であるが、今が好機とばかりに自分を畠野から追い出し、畠野の持つ土地を根こそぎ奪ってしまう算段ではないのか。


 考えれば考えるほど、市兵衛にはそうとしか思えなくなった。



 市兵衛は男たちのいる場所へと走り出した。

 ちょうど今日の田植えは終わったばかりで、諸々の道具を小屋に戻しているところであった。女衆は夕飯の準備もあってすでにいなかった。


 市兵衛の姿を認めた男衆は口々に筆下ろしのことを尋ねた。女はいいだろう、初めてはすぐに終わってしまったか、と下世話な質問ばかりであった。

 市兵衛は適当に返事を返しながら、女の水揚げについて尋ねた。

 すると男衆は揃ってだんまりを決め込んだ。市兵衛はひどく苛ついた。


 何度か尋ねてようやく聞き出したのは、生娘の水揚げは誰と決まっているわけではないということであった。例年通りならば畠野の当主であったり、寺の住職が受け持つという。市兵衛はとんだ生臭坊主だと思ったがそれを無視した。

 男衆が渋々教えてくれたところによれば、市兵衛の父親が労咳であり、また先も長くないことが寄り合いで知れ渡ったらしく、今年の水揚げも来年も畠野を頼ることはないということであった。

 ならば色狂いの生臭坊主が行うのかと思えば、やはり候補は遠野の叔父上であった。


 奥谷の集落に住まう村人からすれば、畠野の次に偉いのは遠野に違いなかったし、小作人である彼らからすれば、少ない土地でも地主である遠野は敵対すべき相手ではなかったのである。市兵衛がいるからこそ、畠野の家は守られるだろうが、まだ若い市兵衛に媚びを売るよりも、親類でもある遠野に媚びを売る方が良かったのであった。


 村人からすればただそれだけのことであったが、市兵衛には違った。


 水揚げを遠野の叔父上がするのだと聞いて、まさしく遠野が畠野を乗っ取る心算なのだと早合点した。市兵衛は畠野の家柄があれば若さは関係ないと勘違いしていたのである。


 かくして市兵衛は胸に決意を抱いた。


 自分こそ、畠野の後継だ。先祖代々守ってきた土地を奪われないためには、遠野の思惑を潰さねばならぬ。このままでは自分は田村に養子に出され、慕うタケも遠野の叔父上に汚されることだろう。

 ああして微笑んでくれるタケも自分を慕っているに違いない。


 なるほど、遠野の血は自分に畠野を継がせまいと邪魔をしているようなものではないか。

 一番の邪魔者は九郎に違いない。

 九郎さえいなければ、自分が継母に辛くあたられることもなく、自然な成り行きで後継になれたのであろう。汚れを知らぬタケをすっかり自分のものにすることもできたはずである。

 しかし、まだ間に合うではないか。

 なにせ、九郎さえいなければ、畠野家の後継は自分しかいないのだから。

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