やまなし

裂田


 これはある兄弟が最期に見た水底を写した、二枚の青い幻燈である。




 *



 畠野家といえば、奥谷の集落を代表する地主の家柄であった。


 村人たちは畠野の家の者には逆らわぬというのが暗黙の決まりごとで、何かにつけて畠野家は幅を利かせていた。

 もっとも、家格で全てが決まるような田舎である。元を正せば本百姓の地主に、下賤な水呑百姓が口をきけるわけもなかった。



 四月下旬。

 奥谷の集落では村人たちが毎月寄り合いをするのが決まりであった。すなわち近況報告のようなもので、田植えの順序を決めるのみならず、男衆が愚痴を零す場所でもあり、若衆の筆下ろしを隣村の誰ぞに頼もうだとか、水揚げは畠野の当主に頼もうだとか、そういう話がなされたのであった。

 古い慣習に錆びついた集落であった。



 大人たちの下世話な話し合いが行われている間、集落の子供達はとくに仕事を手伝うわけでもなく、外で遊びまわるのが常であった。

 五月になれば田植えがあるので子供も駆り出されるが、それでも間に合わぬ。近隣の集落から人を集めて田植えをするのが習わしで、奥谷の集落もよその田植えには人を出していた。つまりはそれが集落としてのご近所付き合いのようなものであった。

 さらには田植えの時期ばかりは羽目を外すことが許されており、妻を持つものも、夫を持つものも、ろくに知らぬ相手に夜這いをしたりされたりすることで、いわゆる憂さ晴らしをするのも、もはや慣習であった。



 畠野家の長男たる市兵衛は集落の子らをまとめる、つまりガキ大将のような役回りであったが、市兵衛自身はがさつな性格をしているわけでなし、むしろ優しい部類の子であった。

 とはいえ、畠野家の息子であるからして、周りの子たちは自分らの両親の教え通り、市兵衛の言うことには文句も言わずに従うのである。ともすれば、市兵衛は子らをまとめるのにそれほどの苦労を強いられず、かえって気楽なものであった。


 寄り合いがある間は市兵衛も楽しかった。

 子らを連れて山の浅い場所に入り、沢で水遊びに興じ、時には枯れ枝を見つけてちゃんばら遊びに興じることもあった。

 規介や茂吉あたりは歳も同じで、接しやすい友人であった。


 市兵衛には弟があった。

 六つも離れた弟である。色黒で、九郎と言った。

 故に大人たちは九郎坊だとか、色黒もあって、訛りまじりにくろん坊だとか呼ぶのであった。

 九郎の由来は市兵衛の姉が生まれてから九年後に生まれたからというものであったが、村人らはしきりに色黒だから九郎と名付けたのだろうと思っていた。

 畠野家の三兄弟であるが、市兵衛は正直に言って九郎のことが好きではなかった。


 そうというのも、市兵衛とその姉は畠野家の前妻の子であった。一方で九郎は後妻の子である。離婚の理由は大したことではないが、当主である市兵衛の父親には三行半を突きつける理由があったのであろう。

 いずれにしても、市兵衛が面白くないのは事実であった。

 来年には元服である。今でこそ元服は大したものでもないが、村人らにとっては数えの十五が一区切りだと思っていたし、その考えを聞かされ続けて育った市兵衛も、元服こそが大人になるきっかけだと思っていた。


 市兵衛が思うに、父親は長くない。

 重い咳を続けているし、日々痩せていくばかりであった。稀に血痰を吐くこともある。金を払って呼んだ医師の話では流行病の労咳だそうで、人に感染るから気をつけなければならぬという。

 ゆえに市兵衛の父親は奥座敷で寝たきりの生活を強いられている。


 だが、村のものたちはそこまでのことを知らぬ。だからこそ、生娘の水揚げを頼もうなどと言うのであるが、市兵衛には露知らぬことであった。まさかひっそりと思いを寄せているタケの純潔が父親に汚される恐れがあることなど、年若い市兵衛には想像もつかぬことであった。



 日が沈みかけた頃合で、市兵衛は子らにそろそろ帰ろうと呼び集めた。ほとんどの子らがすぐに集まったが、どうしても九郎だけが見つからぬ。

 市兵衛は規介と茂吉に子らを連れて帰るように伝えて、一人沢の上流へ向かって行ったのであった。


 時折大声を上げて九郎を呼ぶが、返事はなかった。

 段々と夕日の色合いが強まってくると、さすがの市兵衛も恐ろしくなった。

 だが、小さな滝を登った先でようやく九郎を見つけて胸を撫で下ろしたのであった。


「九郎!」と大声で呼ぶと、まだ幼い弟はハッと顔を上げて決まりが悪そうに頭を掻いた。しかし、それも束の間、すぐに沢を指差して、しきりに訴えた。


「にいちゃん、ここは魚がいっぱいおるねえ!」


 見れば、確かに大小多くの魚が泳いでいた。市兵衛は感心しつつも呆れて溜息をついたのであった。

 周りを木々に囲まれた場所であった。ちょうど沢も深くなっており、魚が住まうには良い場所だったのであろう。すぐ近くにはやまなしの花が咲いていた。


 まだこの場で魚を眺めていたいという弟の手を引いて、市兵衛は集落へと無理やり帰った。継母に怒られるのは面白くないことであった。


 集落に戻ったころにはすっかり暗くなってしまっていた。

 屋敷というには少々狭い家の前で、継母が心配そうに彼らを待っていた。

 九郎の母——キクは九郎を認めるや、駆け寄ってきてすぐに九郎を抱きしめたのであった。

 何度も心配したと彼の頭を撫でてやったのである。九郎も何度か謝り、市兵衛が見つけて連れて帰ってくれたことをキクに教えた。市兵衛は褒められるのではないかとわずかに期待した。けれども、褒め言葉ではなく、平手打ちが彼を襲ったのである。


「市兵衛! 兄ならば九郎から目を離してはなりませぬ! 九郎に何かあったらどうするのです! 畠野家はどうなると思っているのですか!?」


 市兵衛は頬を叩かれて驚き、継母の言葉に耳を疑った。まるで九郎が家を継ぐように聞こえたからであった。

 畠野の長男は自分であるはず。ならば、自分が家を継ぎ、次男である九郎は他所に婿にやるのが普通だと思っていた。あるいは田村の家が子を亡くしていたから、遠縁だが九郎が養子に入るかもしれぬとさえ思っていた。


「市兵衛は田村で養子になるからいいのです。けれど、九郎は畠野の家を継ぐのですから、何かあっては大事です。これからは九郎を外に連れ出して怪我をさせぬように! 九郎も悪い兄の誘いにのって遊んでいてはなりません!」


 市兵衛は腹の底に言い知れぬ憤りを感じたが、本来味方であるべき父親も、今は病床に伏せている。畠野の家に愛着があるかと言われれば、市兵衛にはまだ実感のわかぬことであったが、田村家に養子に出されれば、今ほどの生活ができぬことはわかりきったことであった。

 実際、隣の集落に嫁いだ姉は暮らしぶりの違いに驚き、苦労ばかりしていると、いつぞや市兵衛に漏らしたことがあった。それを聞いていなければ、市兵衛も少しは気楽に聞こえたやもしれぬ。



 その夜、市兵衛は罰として家に上がることを許されず、キクの言いつけ通りに蔵で茣蓙ござを敷いて横になった。

 だが、どうにも腹が空いて眠れぬ。

 そんな折、蔵の戸が静かに開けられた。九郎がこっそりと入ってきたのであった。


「九郎。ダメだ。母さんの言いつけを守らなくちゃいけない」

「でも、にいちゃんも腹が減ったろう?」


 九郎は小さな器を持っており、その上には歪な形をした握り飯が二つばかりあった。


「あんまり上手にはできなかったけど……」


 といいつつ、九郎は市兵衛に握り飯を渡した。

 市兵衛はひどく赤面した。

 真っ暗な蔵の中で恨みごとばかりを考えていたのである。恥ずかしくなった。

 同時に苛立ちもあった。

 自分は嫌いにしかなれぬのに、どうしてこの弟はこんなにも心が清らかなのであろうか。市兵衛は奥歯を噛み締めて憤慨を隠し通した。

 すまぬ、ありがとう、と九郎の思いやりを労い、母に見つかってはかなわぬとばかりに早々に蔵から追い出したのであった。


 市兵衛は自分が惨めに思えた。継母から嫌われ、畠野の家を追い出されようとされれば、恨むのも当然である。だが、恨まれている当事者たる九郎は市兵衛を兄として慕っているのである。

 市兵衛は九郎が家に上がった頃合を見計らって、握り飯を裏の林に投げ捨てたのであった。

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