抱擁
橘遼治
抱擁
男の爵位は高かった。
しかし首都には住んでいない。彼の祖父の代で自分の領地に引っ込み、田舎貴族をやっているのだ。中央に比べればのんびりとしたものでも、領主である以上、領民のためにすべきことはいくらでもある。
先祖伝来の館は、時折改築を加えたこともあり、古くはあっても住みやすかった。彼は私室兼第二書斎として使っている部屋で机に向かっている。今日は朝から仕事が重なり、夜になってようやく書類関係に目を通せるようになったのだ。実年齢より若く見える顔立ちは、育ちの良さから来る浅さを年輪で深めた穏やかさがあり、相対した者にごく自然な安心感を与える。
その彼も四十代になって数年、まだ無理は利くが無茶はできないとの自覚もあり、常より疲労のある今日、これ以上の執務はやめた方がよいだろうと思われた。それにもうすぐ、彼女が来るはずだ。
ペンを置き、目を指で抑えていると、扉が控えめに叩かれた。彼女が来たのだ。
「お入り」
椅子に深く腰かけながら、疲労の中にも安堵が含まれた声で応じる。と、扉が控えめに開いた。
「失礼いたします」
お茶の用意を載せた脚輪付きの卓を押して入ってきたのは十九歳の侍女だった。一年ほど前から館で雇っており、黒髪と白い肌の見目は美しく、少女から成女への過渡期にあるそれは、男にあやうさと安らぎ与えていた。相反する感情は、容易に彼女への好意に変わっている。
「お茶のお時間ですが、いかがいたしましょう」
「頼もうか」
「かしこまりました」
侍女は控えめに低頭すると、音を立てずにお茶の用意を始める。彼女は領内の娘で、一年前、父を亡くし家族共々窮乏しているところを男に拾われた。男としては一時的に預かり、どこかよい嫁入り先や働き口を探そうと思っていたのだが、彼女が心配≪こころくば≫りよく、また控えめで、そして美貌でもあったため、侍女として自分のところへ来ないかと誘ったのだ。彼女にすれば、家族も含めた窮状をどうにかしのがねばならず、そうでなくても恩人の誘いである。家族の面倒も見てくれるとなれば、なおのこと選択肢などなかった…ということを男は自覚していた。それゆえに後ろめたさもあり、彼女へは手を出すまいと思っていたのだが。
侍女が静かに机にお茶を置き、男は礼を言う。
「ありがとう」
侍女は静かに、しかしうれしさを控えめににじませながら頭を下げる。
そんな侍女を見ながらカップを手に取り、一口飲むと、それを卓に戻し、そして男は侍女を引き寄せた。
「ぁ……」
男は椅子に座ったまま侍女に抱きつき、彼女の胸に顔をうずめていた。大きく呼吸し、彼女のあたたかさとやわらかさと香りとを、内側にまで満たしてゆく。
それを受けた侍女は小さく声を漏らした後はなにも言わず、父親ほどの年齢の男の頭をやさしくだ抱きしめ、表情はそれ以上のやさしさ――慈しみで見おろす。
よくあることなのだ。侍女にとって男は恩人であり、自分などが足下にも及ばない身分と人間性を持っている。それなのに男はこうして自分を求めてくれる。そのことがたまらなくうれしく、たまらなくもどかしい。今の自分に男を受け入れられる器がないことを自覚しているだけに。
だが男の方は思う。女である侍女はそれだけで男の上位にいると。すべてがではないにしても、こうして女の胸に顔をうずめ、抱きしめられると、他のどんなことより癒される。侍女が形だけでなく心から抱擁してくれていることが伝わり、それがさらなる癒しと彼女への愛情を呼ぶ。妻もなく、館の他の侍女は老齢に近い者ばかりなだけに、今男を癒してくれるのは彼女だけだった。
男の頭にかかっていた疲労からくる霞≪かすみ≫が消えてゆき、乾いていた身体が潤い、磨耗していた心が復元してゆく。
侍女は、男から離れていた間に覚えていた寂寥≪せきりょう≫が心身から急速に消え、代わりにあたたかな幸福が満たされてゆくのを感じる。
男は癒されてゆくがゆえにさらなるそれを求めて侍女に強く抱きつき、侍女はわずかな苦しさと、それをはるかに凌駕≪りょうが≫する、求めれられる喜びに表情をなごませる。
「ふぅ……」
抱擁の時間はさほど長くなかっただろう。男は大きく息を吐≪つ≫きながら、ようやく侍女から離れた。侍女は男が満足してくれたことに、安堵と新たな寂寥を感じつつ、静かに姿勢を正す。
その侍女を見て、男は安らいだ顔をさらにゆるめた。
「お茶を片づけたら、戻っておいで」
そう言うと、男は右手を伸ばし、侍女服の上から彼女の胸に触れた。手に込められた想いは先ほどの抱擁とは少し違う意味を含んでおり、それ察した侍女は頬を染めると羞恥を隠すように、彼女にしてはやや性急に頭を下げると、ほとんど残っているお茶を脚輪付き卓に戻し、それを押しながら部屋を出ていった。
彼女が帰ってくるまでさほどの時間はかからないだろう。男は椅子に深く腰掛け、大きく呼吸をして彼女を待つ。
寝室は隣の部屋だった。
抱擁 橘遼治 @bunshuk
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