愛子、メルカリ、バズーカ
オジョンボンX/八潮久道
愛子、メルカリ、バズーカ
想像できるか? 客が店から評価されないのが当たり前だった時代を。
ネットオークションでは出品者が落札者を評価する仕組みがあった。Uberでは運転手が利用者を評価する仕組みがあった。誰もがそれは、赤の他人の素人同士の取引にとって必要なだけだと思い込んでいた。おかしな客、招かれざる客というものはいつだって一定数存在している。しかし個人ではそのリスクに耐えられない。それは客の側も同じだ。だから寄ってたかって評価し合っていく仕組みが生まれた。規模のある店にとってはそうしたリスクを吸収できた。実際長らくずっとそうだったのだ。だからそれは当たり前だと思われていた。ところがそんな牧歌的な光景が一変した。Bazookaが登場したからだ。
Bazookaは手始めに、様々なネットサービスに偏在していた個人の評価情報をまとめ上げて見せた。Uberでのドライバーとしての彼、Airbnbでの宿泊者としての彼、あるいはネットオークションの買い手としての彼の素行が、ひとまとめに評価されるということだ。それからBazookaは一般の店舗にも売り出し始めた。まずは高級飲食店だった。評価の低い客を排除し店の雰囲気を保つこと、そして悪い客を排除しているということそのものが売り文句として機能するのが高級飲食店だったからだ。評価の悪い客は店の入口でスクリーニングされてしまう。その後庶民的な飲食店や量販店へと手を広げていった。そしてクレジットカード等金融の信用情報もまとめ上げていった。はじめはBazookaがそこまで普及するとは思われていなかった。何せ店頭で「この客は誰なのか?」を特定する機構などなかったからだ。しかしそれを後押しした背景が二つあった。貨幣形態とテロだ。
貨幣は、羊や米から貴金属へ、そして紙幣へ、さらに電子決済へと、その形態を抽象化し純粋な数字へと姿を変えていった。そして電子決済は個人の名前と貨幣を紐づけることを可能にした。それを後押ししたのがテロだ。かつて「ホームグロウンテロ」という言葉が存在した。自国民が感化されてテロ行為に及ぶことをわざわざ「ホームグロウン」と冠して呼んでいた。奇妙に思うだろうか? 「車」と言って馬車や人力車ではなく自動車を指すのが当然となったように、「メール」と言って紙の手紙ではなく電子メールを指すのが当然となったように、単に「テロ」と言えばホームグロウンテロを指すのが当然になった。そうして国民の行動をより詳細に追う必要に迫られた。現金での購買はトレーサビリティの点で難がある。それで個人の名と紐づいた電子決済の導入が急速に進んでいった。今では現金決済を許している店はテロに荷担しているとさえ非難される始末だ。そして私たちは何をいつどこで買ったのか完全にトレースされている。そして「行為を可能にする組み合わせ」の物品購入が成立した時点で拘束を受ける。もちろん当初は他人に買わせて後から受け取るなどして回避しようとしていたが、金の流れと物の流れを完璧にトレースしていくようにシステムが洗練されていった。
日本の場合はテロもそうだが、むしろポイントカードが大きかった。ちょうどその少し前から、日本ではポイントカードを廃止して生体認証に切り替えるのが流行ってたことも都合が良かった。財布に何種類もポイントカードを入れていた、そんな頃もあったんだよ。それを生体認証に切り替えてカードを持ち歩く必要をなくした。ついでに支払いもそれで済ませるようになった。当然個人名と結び付く。例えばアメリカほどクレジットカードでの清算が浸透していなかった日本でもこうしてBazookaが馴染む素地が作られていったわけだ。みなしぶしぶ受け入れた、便利だったし、隣人のテロで死ぬのは御免だったからだ。
わずか10年だ。冗談のようなスピードでBazookaに世界市民が取り込まれた。そんなふざけた世界にようこそ、心の底から歓迎するよ。
父さんは僕が15歳になった日にそう語った。昔は良かった、そう言っているように聞こえて父さんが急に老人になったように思えた。15歳、各種サービスが一気に解放される年齢で、同時にBazookaによるレーティングが全面的に始まる年齢だった。父さんの話はすっかり忘れていた。無数にある教養や知識のひとつとして頭の奥にしまい込んでいた。Bazooka自体意識することなんて一度もなかった。普通に買い物をして、普通に飯を食って、普通に生活していれば意識する必要がなかった。
正確にそれから10年後、僕が25歳になった日に父さんの話を思い出したのは、僕のレートが突如無に帰したからだ。その日の朝、いつものスタバでいつものホットコーヒーを頼んで静脈認証のためにレジの端末に手をかざしたら、支払えないと穏やかに端末が拒否した。3度試しても駄目だった。おばさんの店員は「あらあ。やだあ。調子が悪いのかしらね」なんて言って隣の端末に僕を案内したが、そこでも駄目だった。そんな事態を経験したことがなかったからうろたえてしまった。後ろに並んでいた人たちもいぶかしげに僕を見ていた。急に恥ずかしくなった。
「ごめんなさい。ちょっと確認してみます」
そう言って慌てて店を出た。しかし一体何を確認するのか、自分でも全くわからなかった。とにかく出社しようと駅に向かったが改札を抜けられなかった。スタバのレジと違い、つつしみもなく大仰に真っ赤に光って改札が僕を通さないと怒っていた。この時になってようやく、自分が支払えない体になっているらしいという可能性に思い至って恐怖がこみ上げてきた。
「んっふふ。『支払えない体』、とかそうゆうの。なんかやーらしい」
パパピッピはそう言ってくすくす笑った。4年前、父さんは突如パパピッピになった。そう呼ぶよう僕に強制し、虹色のセーラー服とスーツを取り混ぜたような奇抜なファッションに身を包み、妙な口調を使い始めた。恥ずかしくてパパピッピとはほとんど連絡を取っていなかったが相談できる相手が他にいなかった。パパピッピは年々若々しくなっているようだ。以前は緩んで衰えていた身体が筋肉で盛り上がっていた。電話をしたら「すぐいくぽよ~」と言ったわずか12分後に、僕のいる地点に猛烈な速度で走って現れた。息切れもまるでなかった。無許可でパパピッピに端末を向けて映像を撮る連中が群がったが「ぱぱぴっぴ!」「ぱぱぴっぴ!」という決め台詞と共にすすんでポーズを取っていた。パパピッピは一種のアイドルのようなものとしてネットの中では名が知られて一部の世間には許容されていた。
「ばややでゅーかの、おれーちんは、もう見たぽよ~??」
何度か聞き返してBazookaのレーティングのことを言っているのだと理解できた。口座の残高を確認した、しかし金が不足していないのに支払えない、と僕が訴えた直後にパパピッピはそう指摘したのだった。僕は一瞬、呆然としてしまった。支払いができない理由が、レートの不足だなんて一切想像していなかった。その瞬間に、ぴったり10年前の今日、まだパパピッピじゃなかった父さんの語った昔話の記憶が、いきなり目の前に物のようにくっきり現れた。僕が端末をまごまご扱っていたらパパピッピはそれを軽やかに奪い取ってしばらく操作してから突き返してきた。「Total Rate」の題目があり、その数値は「0.000」だった。その下に明細が載っているようだったが全項目で数値は「0.000」になっていた。スクリーンから目を上げるとパパピッピは無言で肩をすくめてみせた。突然泣けてきた。何か急にとても懐かしいような感覚があった。すっかり忘れていた、父親に縋るという子供のころの感覚にいきなり襲われてどういうわけだか涙が出てきてしまった。一体自分はどうなってしまうんだろうという不安の中で、でも父親が守ってくれるような安心感が懐かしかった。しかし目の前の人物は全く父親の顔をしていなかった。庇護者としての顔ではなく、ただパパピッピというキャラクターでしかなかった。口をすぼめて突き出して、かわいい顔をアッピールしていた。赤の他人のようだった。
「お誕生日プレゼントだぽよ~~☆」
といってパパピッピは、握ったこぶしを僕の方に突き出してきた。くしゃくしゃの紙が十枚ほど握られていた。紙幣だった。僕はそれにまじまじと見入った後、
「これって……えっ。使えるの?」
と言ったらパパピッピは
「んもう。バ・カ」
と言ったあと、唇をすぼませて、チュッとした。
Bazookaお客様相談窓口に電話をしてたっぷり32分間きれいな音楽を聴いて十分に僕の心が澄み渡ったところでオペレーターにつながり、「大変申し訳ございませんが個別のお客様のレーティングに関するご質問には一切お答えできかねます。」と繰り返されるばかりで、わざわざAI案内じゃなく人間のオペレーターにつないだのに何なんだ。こんなに意味もなく時間を浪費するなんて経験を久しぶりに思い出していた。今でも人間のオペレーターを用意しているのは日本法人だけだと聞いたことがある。心がないといって怒る老人がいるから仕方なくわずかな人数の人間のオペレーターを残しているそうだ。
裏通りのマーケットに入りかけて、やっぱり気が重くて、入らない言い訳のためにBazookaお客様相談窓口に電話をしてみたけれどこの始末だったから、あきらめてマーケットに足を踏み入れた。ホームレスみたいな人ばかりの中で僕は浮いていて、みんなにじろじろと見られて居心地が悪かった。食料と雑貨の店に入ってとりあえず瓶詰めの水を手に取った。現金で決済するなんてしたことがないから、誰かがレジで支払ってるのをこっそり見て真似しようと思った。けれど誰もこない。レジの中の店主が僕を怪しんで注視してきた。狭い店内をそれでも商品を探すふりして移動しようとしたら棚から人が急に出てきた。かろうじて避けたその目の前を、真っ白のワンピースを着た女が横切った。僕と同じくらいの歳で長い髪をまとめ上げてうなじが涼やかだった。
「やだ白のワンピかーわいいー」
えっ。女が一瞬振り返って僕をにらんだ。自分でもどうしてそんなことを口走ったのか全くわけがわからなかった。パパピッピの悪影響かもしれない。女はそのままのスピードで歩きながら棚から何かを手にとって会計した。僕は遅れないようについていって後ろから見ていた。女はコインを出したみたいだったが僕はコインじゃなく紙幣しか持っていなかったから不安になった。女が会計を済ませたあと、僕も平静を装って瓶と紙幣を置いた。店主のおっさんが紙幣を受け取ってほっとした。僕が瓶を手にとって手慣れた調子のふりして店を出ようとしたらおっさんが
「ツリィッ!?」
と怒った。声に反応して振り返ったけど、意味がわからなくて僕は突っ立っていた。一瞬で、フィッシングとか樹木とか色んな解釈が頭のなかで点滅した。おっさんは
「ツリー、いらないんですかぁ?」
と握った手をつき出していて受け取ったらコインだった。ようやく、ああ、差額が少額貨幣として返却される制度だと理解した。ツリーが結局なんなのかはわからなかった。「ヘイ」とか「ちょっと」みたいな、呼び掛けの一種なんだろう。社会階層が違うと言葉も違う。
「もともとグリーンだったんだけど。洗ってたら白になったんだよね」
女は僕を待っていたみたいな位置で店の外に立っていて、いきなりそう言った。さっきの混乱も尾を引いていたし最初は何を言われたのかわからなかったけれど、すぐにワンピースのことだと気が付いた。
「あっあっそう、なんですね……」
失礼にならないように上手く返事をしたけれど、女が黙ってるので不安になって、
「えっでも、白、ワンピース、似合ってると、思いますけどね……」
と念のため言ったら、
「ンオオォォオッ!!」
と急に牛みたいな声で女が低く吠えて、どういう感情なのかよくわからなかった。怖かったけど、この人にこの世界の仕組みを聞くより仕方がない。Bazookaのレートがゼロになった以上もうここで生きていくしかない。他の人たちよりは見た目もちょっとまともっぽいし、歳も近そうだし、この人を逃したらダメだと思った。
「あっ、お名前、あっ僕、三浦っていいます」
「私は、別にちゃんとした名前もないし、好きに呼んでもらっていいけど」
すごく困った。どうしてそういう決定権をこっちに渡すのかと思って腹が立った。なに食べたい? なんでもいいよ、決めていいよ。そういうやり取りが大嫌いだ。それでうどんって言うと、えーうどんー? とか言う。せめて最初から選択肢を出してくれよ、と頭の半分で怒りながら、頭の半分では大忙しでなんか失礼じゃない呼び方、こういうときに最もふさわしい名付けが何なのか必死で考えてた。
「えっと、あの、ワンピ女……あのー……ワンピ女って呼びますね……」
「別にいいけど、私毎日ワンピース着てるわけじゃないし」
「そんなこと言われても知らないです……」
実際その次の日、ワンピ女はワンピースを着ていなかった。僕は軽く手を上げて、ちょっと勇気を出して、
「ツリー!」
と言った。ワンピ女は軽くうなずいた。通じた。ちょっとだけ、自分がこのコミュニティに馴染んだような気がした。ワンピ女は今日はジーンズを履いて、上は世紀末覇者って感じのプロテクターをつけていた。ゆっくり話ができる店、カフェかどこかに行きたいと言ったら、昨日と同じ店でワンピ女は僕に缶コーヒーを二つ買わせて、公園に行った。
「カフェなんてあるわけないじゃん」
とのことだった。わざわざ金を払って酒でないものを飲んでゆっくり過ごす空間を提供するなどという商売は成り立たないという。とにかく色々聞きたいことがあった。まずは現金だ。みんなどこで手に入れているのか知らないとまずい。
「メルカリって知ってる?」
知ってる。世界最大の臓器売買マーケット、メルカリだ。しかし今はもう存在していないはずだ。僕が物心もつかない頃に各種人権団体、国連、国際社会から強い圧力を受けて国に潰されたと父さんから聞いたことがあった。もともとはヤフーオークションに代わって、より個人に根差したネットフリーマーケットサービスとしてスタートしたメルカリだったが、どういうわけか臓器売買の温床になってしまって潰されたのだ。
「メルカリはね、今もあるよ。電子的なネットワークであることをやめただけ」
各スラムにいる「メルカリおじさん」が仲介してくれるという。臓器を売ればそこそこまとまった現金が手に入るという。でもメルカリおじさんはどうやって臓器を現金に換えてるんだろう。僕なんか現金なんてほとんど見たことなかったし、だってほとんど流通してないし、銀行で引き出そうたって完全にトレースされちゃうのに、どうやって現金の世界と電子マネーの世界を仲介してるんだろう。メルカリおじさんは何でも現金に換えてくれるというから当面はうちにある売れそうなものを売っていけばなんとかなるみたいだ。それでも、本当にお金がほしければ臓器が一番いいという。
「だって私も腎臓いっこないよ?」
「えっ……でも……でも、iPS細胞で拒否反応のない臓器を、作れると思いますけど、どうして……」
「めちゃくちゃお金も時間もかかるでしょ。お金持ちがバックアップで作ってるだけじゃん。メルカリで買った方が安いんだよ」
腕まるごと切っちゃう女の子とかも結構いるんだってワンピ女は言った。保存処理して女の子の腕をコレクションするお金持ちがいるらしい。顔がかわいいと値段も高い。女の子の切った腕の中にロボットを仕込んで、動かして遊んだりもするらしい。でも腕がなかったら困るじゃないかって言ったらバカなんだよって。このお金を元手に成り上がってお金持ちと結婚するか自分がお金持ちになって、後で本物と変わらないような義手を買えばいいって腕を売っちゃうんだけど、みんなダラダラお金つかって一生そのまま片腕で暮らすんだよ。だって腕がない非人の女なんてまともに扱ってもらえるわけないし。
僕らの目の前を猫が歩いていった。ワンピ女はゴオオーッとジェットエンジンのものまねみたいな音を出して、急に指を口に突っ込んだと思ったら、たぶん痰だと思うけどネバネバした白い塊を口の奥から取り出して猫につけた。猫は「にゃごーっ」と言ってそのままの速度で歩み去った。
「愛子帝もね、メルカリ使ってるって噂」
「ふふふ不敬だよ!!」
「男の子の赤ちゃんと、生理迎えたあとの女の子を、買ってるんだって」
メルカリでは人身売買も横行しているという。それを、こともあろうに、エンプレス愛子陛下がお買いになっているだなんて、とんでもないこと、このクソワンピ女を衝動的に殴りかけて、でももう縋る相手はこいつしかいないんだと思って何とか耐えた。
先帝は即位からわずか1年で退位された。健康上の理由とされたが、エンプレス陛下の圧倒的なカリスマのためだと誰もが信じていた。皇女時代から国際的なプレゼンスをグンバツに発揮されていた。叔母である清子氏から幼少のみぎりより直々に叩き込まれたBL帝王学を武器に、世界中の国家に腐元首を生み出していった。時には自ジャンルの沼に引きずり込み、時には腐に転ばぬ愚か者に圧力をかけて権力の座から引きずり落とし、この世界を手中に納められた。国内に議論の起きる暇もないまま皇室典範がさりげなく改正され、約260年ぶりの女性天皇として即位された。元号が「イージードゥダンス」に改められた。
そして男系天皇論さえあざやかに無視してすでに11人の男子、4人の女子をもうけられていた。源氏物語の六条院に似た広大な皇居を新たに構え、四季をテーマにした平屋づくりのそれぞれに当代一の美青年を住まわせられた。まるでマンガから出てきたような才色兼備の青年4人は、共同して子供たちを育成されていた。美しいイクメンがまばゆい笑顔で子供たちをあやす映像を何度も目にしたことがあるだろう。男の僕でさえ美青年たちのその、エロスにも似た母性に気持ちが乱れた。エンプレス陛下はまだ35歳だった。
「メルカリで買ってきた男の子の赤ちゃんは、こっそりたくさん育てて、その中から優秀なのを選んで親にするんだって。女の子たちは、お腹に愛子帝の受精卵を入れられて子供を生ませられるんだって。借り腹だよね。自分で生むのは負担かかるし、どうしたって年に一人しかできないし、ほんとはもう30人くらい『子供』がいるらしいよ。インペリアルパレスの地下に内親王生産工場があるんだって」
下らない陰謀論だ。スラムの連中は結局頭が悪いから、本当にどうしようもない。
僕はもうBazookaのレーティングがゼロだから、来月の家賃支払いができなくてアパートを追い出されることになる。それまでに現金で払える住処を探さないといけない。
「うちに来れば?」
「あのう僕、ド汚いところは、ちょっと……」
それでも現金を減らさなくても済むのはやはり助かる。これから一緒に住むのに名前も歳も知らないなんて変だと思った。でもワンピ女はホントの名前なんてないしホントの年齢なんてわからないと言った。戸籍がないんだと言った。メルカリで売られた赤ちゃんの一人だったと聞かされて育ち、生理がきた時に金持ちに捨てられた、記憶は消されてしまったという。たぶん今は17歳かそれくらいだと思うけど、と言った。
スラムにいる医者にうつ病の診断書を書いてもらって仕事は長期休暇にした。さしあたり家にあるものをメルカリで色々売って作った金で生活はできそうだった。メルカリおじさんは怖かったからワンピ女が仲介してくれた。お金が減るばっかりっていうのはすごく不安だった。でも働くのがむずかしい。大昔は肉体労働とかの日雇いがあったみたいだけど今はマシーンでやる方が早いし安いからそんな仕事がない。あとは裏稼業みたいなのばっかりだった。男たちはそういう仕事についてるか、床屋とか医者とか商店とかをやってる。でもスラムにそう何件も床屋も医者もいらないわけで、そうしたところでは働けない。職にあぶれた男たちは、ホームレスになるか、死ぬか、女のヒモになっている。女は売春しているか死んでいる。ワンピ女はしばらくして働け働けとくどく言うようになって、もちろん僕もそうすべきとは思っているけど、難しいんだからしょうがない。僕は電気設計者だったし、経験年数は低いとはいえ手に職はあって、こういうスラムにも闇の仕事で設計者の需要はあるにしても、そういうのが記録に残っちゃうと、じゃあ元の会社や社会に戻るときにバレたら困っちゃうじゃんね。
「えっ。あっちの社会に戻る気でいるの?」
えっ。当たり前だよ……こんな糞みたいなところいつまでもいるわけないじゃん。
「覚悟が足りないんじゃないの? 戻れるわけないじゃん」
「なんでそういうこと言うんだよぉ……」
僕はぽろぽろ泣いた。最近よく泣く。自分でも不思議なくらいだ。どうしてこんなに涙もろくなってるんだろ。ワンピ女は僕が泣いても口調やその場の態度は変わらないけど、全体的に行動や僕に対するあたりが弱くなる。別に、だから泣いてるってわけじゃないけど。ワンピ女は僕に顔を寄せて、涙で濡れたほっぺを手のひらで包んだ。でも目が完全にやさしさゼロだった。
「三浦は、はめられたんだよ。システムに。だから戻れるわけないんだって」
ワンピ女は淡々と説明を始めた。これは愛子帝のせいだって言った。僕は小さな声で「不敬だよ」って言ったけど、ワンピ女は2秒だけ黙って、説明を続けた。僕は対象者にされたんだって言った。対象者になった男は、Bazookaのレートをゼロにされる。するとまともな社会生活が奪われてスラムに落ちる。仕方なくメルカリに手を出す。メルカリおじさんに奇妙な提案を持ちかけられる。精液を売れという。それで多少の現金が手に入る。精液はインペリアルパレス地下の内親王生産工場に運ばれ、遺伝子スクリーニングにかけられたあと、愛子帝の卵子と体外受精され、メルカリで調達した少女たちに着床される。多様性を確保し、優秀な皇帝を生産するためのシステムだという。対象者がどういう基準で選ばれているのかはわからない。ワンピ女は、だからメルカリおじさんの仲介をして直接僕が接触しないようにしていたんだと言った。バックドアが設けられて時々レートを操作されていることに、Bazookaは薄々気づいているけれど、愛子帝に逆らって日本で生きていけるわけがないから黙っている。メルカリはこのおかげで政府に潰されずに商売ができている。帝、メルカリ、Bazooka、この三者が曖昧に手を結んで、ちょっと犠牲者を出しながら円滑にシステムを運用してる。その犠牲者のたまたまの一人が、僕だという。
だから、とワンピ女は言った。三浦はもう社会復帰なんて無理なんだよ。ここで一生暮らすんだ、と言った。
でも働くのは嫌だなあと僕は思った。
「やだぁあたしこれ、かっこよくなぁい?」
いつか社会復帰するために売らずに一着だけとっておいたスーツを久しぶりに着た。他の服がもうボロボロになっててスラムの外では着られないからだ。部屋の中でそこだけ曇りなくピカピカな姿見の中、あたしの隣でワンピ女がピカピカ笑ってた。ワンピ女の笑顔なんて久しぶりに見たと思った。
「あのー……僕のせいじゃないと思うんだけど……だってレートがなくなったのって、被害者なわけじゃん……。なのに、こんな生活で我慢して、もともと、約束した一日500円でご飯とか、ちゃんとやってるのに、そういう言い方するのとか……意味わかんないんだけど……」
ワンピ女は「ンゴオオーッ」と言ってがに股で足をめちゃくちゃに踏み鳴らした。僕の額からは血が出てた。ワンピ女が500円玉を僕の顔めがけて投げつけたからだ。
「とりあえずその話し方やめろ! むかつくんだよ!!」
「そういうこと言われても……最初っからこういうしゃべり方なんですけど……」
「違うだろ。三浦お前最初に会ったときおネエ口調だったじゃんか。あれで話せ。ぐちゃぐちゃ言い訳並べるのも治るでしょ?」
もうほんとに、あと5秒後に殺しますわよ、みたいな顔をワンピ女がしてたから、恥ずかしかったけど、
「えっと……えー……わかった、わよ」
と言った。完全に忘れてた。ワンピ女と本当にはじめて会った瞬間、ワンピースを着てた彼女に、おネエ口調を口走ったんだったってことを。それからあたしはおネエ口調になった。この方が全然しゃべりやすかった。今まで気づかなかったけどあたし、話す時に他人に気を遣いすぎてたんだ。思ってることをおネエ口調ならすっきり言える。ワンピ女は普段化粧を全然してなかったけど、マニキュアだけはオレンジ色に近い赤いのをいつもしていた。ワンピ女はあたしの手足の爪に塗ってくれた。ワンピ女がお湯を含ませたタオルであたしの手足を丁寧にふいて、あたしの手や足を持ち上げてマニキュアを塗ってもらいながら、こんな風に自分の体をだれかがケアしてくれるなんて、子供のころ親にしてもらって以来なかったかもしれないと思ってとても懐かしい気がした。ワンピ女の手はとても小さかった。
そうやってあたしなんか元気になったじゃない? 頑張ろうって気持ちになったから、パパピッピに一度きちんと挨拶しようと思って。お金だってくれたんだし、そのあとどうしたこうしたって連絡もしてなかったし。あなたの息子はおネエになって元気だょ? って。スマホは通信費が払えていなかったから、スラムで電話を持ってるおじさんにお金を払って借りてパパピッピに電話をした。病状が進行してしまったのか、パパピッピは「ぽよ~?」「ぽよ~?」しか言わなくなっていた。一方的に待ち合わせ場所を決めて、スーツを着て歩いて街に行った。
本当にちゃんと待ち合わせ場所に来てくれるのか不安だったけれど、パパピッピはもうそこにいた。おネエ口調で話してマニキュアを塗ってるあたしをパパピッピは受け入れてくれた。というより「ぽよ~?」「ぽよ~?」しか言わないから本当はよくわからない。パパピッピは勝手にスタバの中に入ってしまった。あたしは慌ててついていってパパピッピの後ろに並んだ。てっきりおごってくれるのかと思ったらパパピッピは自分の分だけさっさと支払ってレジを抜けてしまった。あたしは焦った。後ろにももうお客さんは並んでるし、店員も早く注文してほしそうな顔してるし、せっかくおネエ口調になって自信がついてきたのにまた急に不安になってきてしまった。「キャッフェ・ラティェー。クランテ。」と言って端末に手をかざしたら何事もなく支払いができた。あたし驚愕したじゃん。でも後ろの人も店員も、パパピッピもみんな普通の顔してたからあたしもなるべく普通のふりしてキャッフェ・ラティエー。クランテを持ってお席についた。あたし何が何だかわからなくてドキドキしてパパピッピに
「あたし、今ふつうに支払できたんだけど何なのよお」
って言った。パパピッピは黙ってあたしの顔を見ていた。だけどあたしの目は見てなくて、あたしの顔をすかして後ろの景色を見てるみたいだった。何も見ていないのかもしれない。
「ぽよ~?」
あたし涙でてきたじゃん。子供のころからのお父さんの思い出がいっぱいでてきて、もう何にもそのころのお父さんとは全部違ってて、もうお話もできないのかと思ったら、全部がかなしくなってきた。パパピッピは黙ってる。2,3分後だったり10分間も明けたり、特に何かに反応しているというわけでもなく不定期に、「ぽよ~?」という音を発するだけだ。にわかに店内がざわついた。みんなが窓の外を見てる。指さしたり口に手を当てたりしている。店の外では大量の小型犬が走り回っていた。小型犬は歩行者に襲い掛かっていた。
「軍用チワワだ……」
誰かがそう言った。皇軍がひそかに開発しているというのは噂で知っていた。窓の外で人々が軍用チワワに食われていった。
「ぽよ~?」
パパピッピはたんに人につられただけという様子で窓の外に顔を向けていた。その横顔を見ながらあたし、いきなり脳がピッカピカに光り輝くような感じがして、びっくりした。これってもしかして、あたしがおネエになったからBazookaのレートが元に戻ったってこと? 4年前父さんがパパピッピになったのも、あたしと同じことが起こったから?
「父さん、あのさあ」
と期待もせずに呼びかけたら父さんはこっちを振り向いて、しっかり僕の目を見て、ひとつうなずいた。
ワンピ女は別にさみしくもうれしくもないみたいだった。念のためおネエモードと通常モードで支払いを試してやっぱり、おネエだと支払えるしレートも戻ることがわかった。ひょっとするとおネエの血は皇家にはいらないということかも。やばーい。そんなに多くない荷物をまとめて、ワンピ女の家を出る支度をした。ワンピ女は最後まで普通に出かけるときと同じような態度だったからあたし、なんか言った方がいいのかなと思って
「これ以上内臓売ったらほんとヤバいからね。ダメだよ」
って言ったら
「内臓ぜんぶあるよ」
とワンピ女が言った。あたし、
「ヤダー。きゃるーん。」
と言った。全部ウソだって。内親王生産工場の話も、メルカリで内臓や人を売ってるって話も、みんなウソだって。
「そういうお話にしてほしそうだったから」
メルカリの存在自体ウソだったって。あたしの荷物は普通の質屋のおじさんに売ったんだって。なあんだ。わっはっは。あたしが出てくときになって急にワンピ女ったら何かちょっとだけ言いたそうにしてた。
「あの挨拶って、そっちの世界ではやってるの?」
ツリーのことだった。あたしびっくりして、何言ってるの、あんたんとこの世界の挨拶じゃないのォってゆったら違うって。もうあたしすっかり「ツリー」って挨拶いたについちゃって、もともと何で覚えたんだっけって思い出してて、そうそう最初にワンピ女と出会ったあのお店のおじさんが言ってたんだってこと話したら、ワンピ女が「それは『お釣り』のことだと思うけど」と言って、なあんだ。わっはっは。じゃあ、
「ツリー!」
「ツリー!」
ってお互いに挨拶して、バイバイした。
元の会社に復帰してあたし、急におネエになったのはうつ病の治療でキャラが変わったんだってことにして、みんなそういうもんだってわかってくれてかえって、元のキャラより親しみやすいって受け入れられてる。仕事も順調で毎日が楽しい。
それから3か月後に、Bazookaからユーザーへのお知らせが届いた。レートが極一部のユーザーでリセットされてしまう不具合があったという。元号が「イージードゥダンス」に変わったことによる影響だという。日本へ進出する際に、元号は漢字二文字を前提に設計されていたための不具合だという。4年前から発生はしていたものの件数が少なかったために発見が遅れたのだと説明されていた。
その2日後、自宅にドローンちゃんが空からやってきた。ドローンちゃんが人工音声で「お手ェッ!!」とあたしに命令した。あたしが手を差し出すと、ドローンちゃんが透き通ったきれいなクリスタルを吐き出した。物理詫び石だ。台座もついてきた。お部屋にかざった。きゃるーん。
愛子、メルカリ、バズーカ オジョンボンX/八潮久道 @OjohmbonX
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