Gods And Death
鷲羽大介
第1話
でかい男たちであった。
日本人は小柄だ、と赤毛のジョージは聞いていた。
しかし、ヨコハマに現れたこの男たちは違う。どいつもこいつもでかい。6フィート2インチ、200ポンドのジョージと比べても劣らなかった。しかもただでかいだけではない。腹はでっぷりと肥っているが、凄まじい筋骨と、獰猛な攻撃性を持っている。こいつらは
海岸に係留されたボートへ荷を積むその現場には、ジョージ・フランプトン上等兵はじめ50人ほどのアメリカ海軍水兵と、異様な風体をした黄色い肌の男たちがいた。
20人ほどの男たちであった。日本人に特有の、奇怪な髪の結び方をして、裸に近い格好で、米の詰まった大きな俵を担いでいる。ひとつ130ポンドあるというその俵を、こいつらは軽々と運んでいた。両肩にふたつ担ぐ者もいた。この米は、日本の
「ヘイ赤毛、日本の奴隷はずいぶんでかいんだな。しかも
同僚のマクフライ上等兵が笑いながら言う。気のいい男だが、こいつは何もわかっていない。この男たちが奴隷でなどあるものか、とジョージは思った。
故郷のフィラデルフィアで、ジョージ・フランプトンはボクシングをやっていた。
ボクシングはただの喧嘩ではない。拳のほかに何も武器を持たないふたりの男が、パワーと技術を競い合うのがボクシングだ。兵役を終えて除隊したら、フィラデルフィアに帰ってまたボクシングをやろう。ジョージはそう思っていた。海軍に入ってからも、軍の訓練とは別に、ボクシングの
そんなジョージには、リキシとかいうあの男たちの肉体は、あまりにまぶしく見えた。あいつらを思い切り殴ったら、どんな感触がするのだろう。
20数名の巨体の中に、ひときわジョージの目を引く肉体があった。
ほかの男たちより頭一つは大きい。6フィート4インチはあるだろう。体重も300ポンドは下らないはずだ。裸の上半身は筋肉がすばらしく盛り上がり、膨れ上がった太ももが見事な下半身には、T字型の白い布を一枚だけ身につけている。中世のヨーロッパで男たちが身につけていたという、
その男は、130ポンドの米俵を両肩にひとつずつ担い、背中にもバック・パックのようにひとつ担ぎ、首からもロープでひとつぶら下げていた。500ポンドを超える重量を、ひとりで運んでいた。さすがに足取りは重かったが、藁のサンダルを履いた足で一歩ずつ着実に、ずっ、ずっ、と砂を削りながら、巨体が前進していく。
汗にまみれた黄色い肌は赤く染まり、首筋やこめかみ、二の腕には太い血管がどくどくと脈打っているのが見えた。黒い瞳がまっすぐに前を見つめ、怒りとも悲しみともつかない表情を浮かべている。日本人の年齢はよくわからないが、ほかのリキシより若いように見える。その表情を見ても、何を考えているのかジョージには想像できないが、この男が、何かとてつもなく強い感情を、こちらにぶつけているということはわかった。このリキシが今までの人生で流してきた、すべての汗の匂いを嗅いだような気がしていた。
上官たちが唸り声を挙げていた。これは我々への
ジョージの肉の裡に、自分の意志とは別のものが膨れ上がるのを感じた。ほかのリキシを目にしたときとは桁違いの強さだった。腰骨のあたりで竜巻が起こり、そこから全身に強烈なパワーが行き渡るようだった。唇が渇く。身体は燃えるように熱いのに、汗が引いていき、背筋を冷たいものが走り抜けていく。わずかでも緊張を緩めたら、全身の筋肉が弾け飛びそうな気がしていた。
「どうした、赤毛? 小便でもしたいのか?」
マクフライの軽口も、ジョージの耳には入っていなかった。
木と紙でできた、広いことは広いが、立派なのか粗末なのかわからない屋敷であった。
その庭に、リキシたちが集まる。ジョージたち水兵は、裸の男たちを囲んで彼らの肉体を眺めていた。
土の庭に、直径4ヤードほどの円形リングが書かれていた。土を木の棒でひっかいただけの簡単なものだ。今から、リキシたちが戦うのだという。オープンな作りになっている屋敷の中にしつらえた観覧席には、ペリー提督はじめ海軍の幹部たちと、縮こまった日本の役人たちが腰かけていた。リキシたちの肉体に比べると、役人たちはひどく貧相に見えた。腰には2本ずつサーベルをぶら下げているが、こんなひ弱な男たちに刃物が振れるのだろうか、とジョージは思った。
「スモーはただのレスリングではない。リキシはレスラーであると同時に、
通訳の男が、スモーについて解説している。リングの中では、選ばれた6人ほどのリキシたちが、内側を向いて円型に並んでいた。いっせいに右脚を地面から放す。股を大きく開くと、右脚が信じられないほど高く上がった。そして、肩幅より広いぐらいのスタンスで、脚を降ろす。地面を踏みしめて、腰を大きく落とした。
ゆっくり立ち上がると、今度は左脚を上げて、同じ動作をする。
「あの
マクフライがげらげらと笑っていた。未開人の野蛮な風習、としかこの男は思っていないようだ。しかし、これは合理的なトレーニングだ。股関節の
ウォーミングアップを終えたリキシたちは、次いでスパーリングを始めた。
その獰猛さに、さっきまでへらへらしていたマクフライの顔が、見る見る青くなる。
ふたりのリキシが、リングの真ん中で向かい合い、腰を落として手を地面につく。
リキシのボスらしい、年かさの肥った男が声で合図をすると、ふたりの男は勢いよく立ち上がり、頭からぶつかり合う。
頭蓋骨と頭蓋骨が激突する鈍い音が、その場にいる全員の耳を貫いた。
ジョージの背骨にまで、その音は響いた。
頭から激突したふたりの男は、それでダウンすることもなく、そのまま組み合っていた。
腰に巻いた布を、お互いに両手で掴んでいる。あれがレスリング・パンツなのだろう。
「スモーでは、相手をリングの外に出すか、相手を地面に倒すと勝ちになる」
片方の男は、さっき500ポンドの米を運び、ジョージの裡に竜巻を起こさせたやつだった。額にうっすら血がにじんでいる。もうひとりは、背たけは5フィート半ほどと低いが、身体が分厚く、体重は300ポンドほどありそうなリキシだ。
「背の高いリキシはグリーン・ボーイのシロマユミ、背の低いほうがチャンピオンのコヤナギだ」
通訳の男が、ふたりのリキシを紹介している。妙ちきりんな名前は、いちど聞いただけでは覚えられそうになかった。
「むおおおおおっ」
絞り出すような声を挙げた背の低いリキシが、相手を投げ飛ばそうとする。しかし、背の高い男は、バランスを崩しながらこらえた。お互いに掴んでいたレスリング・パンツから、手が離れる。
コヤナギが、シロマユミの顔面に
「ナックル・パンチは反則だが、オープンハンドは認められる」
ジョージのやってきたボクシングとは、正反対のルールだった。コヤナギは、顔面に一発の次は、胸のあたりをめがけて、両手で立て続けにオープンハンドを打ち込む。このままリングの外に押し出すつもりなのだろう。
肉と肉が、皮膚と皮膚がぶつかり合う高い音がした。
背の高いシロマユミは、胸を突かれつつもコヤナギのパンツを掴もうと手を伸ばす。しかし、コヤナギの両手の回転に阻まれて届かない。
徐々に、シロマユミの巨体が後退していった。
海の匂いがかき消されるほど、濃密な血と汗の匂いが漂う。
ペリー提督が、眉をひそめているのが見えた。
「がああっ」
シロマユミの喉からも声が漏れた。コヤナギの手が、シロマユミの喉を掴んで押していた。リングの線ぎりぎりでこらえていた足が、外へ出た。そのまま2歩、3歩とたたらを踏み、飛び退くようにリングから離れていった。
提督が手を叩いて勝者をたたえる。下士官や水兵たちも、それに倣った。
ジョージも周りに合わせて、拍手を送る。だが釈然としない思いがあった。
こんなものか。
お前の力はこんなものじゃないだろう。
なぜ、同じ
余興の
外国人に、本当のスモーは見せられないというのか。
それとも、グリーン・ボーイだから、チャンピオンに遠慮したのか。
そんなやつはファイターではない。いくら強くてもただの奴隷だ。
俺の拳で、目を覚ましてやる。
「上官殿!」
ジョージは声を挙げた。
「合衆国と日本の親善のため、
水兵たちがいっせいにどよめく。歓声が挙がる。口笛を吹くものもいた。賓席に腰掛けていたペリー提督が、鷹揚にうなづいた。
両手の拳に、布を巻いていく。
きつく締めて、手首から指のつけ根までかっちりと固める。
「本当にやるのか、赤毛よお」
支度を手伝いながら、マクフライが声を震わせていた。普段は威勢のいいことを言っていても、いざ戦闘となるとこんなものだ。
「ああ、あの
握り込んだ右の拳を眼前に突き出すと、マクフライは両手をすくめて、やれやれというゼスチャーをした。
リングの中で、シロマユミは腕を組み、こちらを見ていた。
上官と役人の話し合いにより、試合はすんなりと決まった。ルールはスモーに合わせて、リングから出されたら負け。ダウンしたら負け。投げられたら負け。ただし、スモーでは反則となる、ナックルパンチが許される。それを考えても、明らかにこちらが不利だ。
しかし、かまうものか、とジョージは思った。
とにかく、こいつのボディにパンチを打ち込むことさえできればいいんだ。
もう、俺の中で起こっている竜巻を、自分ではどうすることもできない。
ジョージはすでに歓喜していた。女の待つベッドへすべり込む、その直前と同じ気持ちになっていた。上半身裸になり、リングの中に入る。
シロマユミのそばに、リキシのボスがやってきて何か話しかけている。
日本語はまったくわからないが、シロマユミも何か返事をしているようだ。ふいに、嬉しそうな顔になって大きな声を挙げる。
――
英語でそう言ったように、ジョージには聞こえた。リキシはシャーマンも兼ねている、ということだったが、勝利の栄光を神に捧げ、相手の生命を死神の贄とする、と宣言したのだろうか。こちらにもわかるように、わざわざ英語で。
嬉しいぞ、シロマユミ。
お前は、コヤナギとのスパーリングでは、明らかに本気を出していなかった。
それが、俺には本気を見せてくれるんだな。
俺を殺すつもりで、戦ってくれるんだな。
だったら、俺もお前を殺すつもりでいくぞ。
いいんだな。
「楽しもうじゃないか!」
ジョージは、初めてシロマユミに声をかけた。シロマユミが、初めてこちらを見た。黒い瞳が、ジョージの赤毛を、青い目を、胸毛のびっしり生えた肉体を見つめた。口の端がかすかに上がる。
シロマユミも、楽しんでいるのだ。言葉はわからないはずだが、言いたいことは伝わっているようだ。
どうせ、男たちが闘いを前にして思うことなど、
強く拳を握った両手を胸の前に出し、ファイティング・ポーズをとる。
シロマユミはしゃがみ込むと、前かがみになり、両の拳を地面につけた。さっきのスパーリングで見せたのと、同じ体勢だ。ここから立ち上がって、突進してくるのだろう。
「
貴賓席のペリー提督が叫ぶ。同時に、リキシのボスが両手を叩く。それが合図だった。
シロマユミの頭が、ジョージの顔面をめがけ、悪魔のような速さで低いところから浮き上がってきた。
ジョージの身体は、反射的に左へと飛び退いていた。そこへ、シロマユミの手が飛んでくる。
オープンハンドでの打撃だった。右の掌が、顔面を狙う。ジョージは、握ったままの左拳でその手をガードした。
重い。
石炭を満載したバケツで、ふりかぶって叩かれたような衝撃を感じた。
今まで感じたことがないほどの、重い一撃だった。試合時間の長いボクシングでは、拳や手首を痛めないよう、序盤は軽く当てて様子を見るのが
オーケイ、それなら俺も最初から思い切りいく。どうせこのルールなら、先に当てたほうの勝ちだ。だらだら様子を見るヒマなんて、あるはずがない。
ジョージは心の中でそう言うと、右の拳にさらに力を込めながら、一歩踏み込む。シロマユミの、顔面の中心をめがけてストレートパンチを放った。
鼻の軟骨が潰れる感触があった。
パンチが当たった瞬間、拳から右手首、右ひじ、右肩を通じて、背中へと快感が走り抜けた。射精の瞬間に似た感動が、背骨から頭のてっぺんまで、内臓を揺らしながら突き抜けていった。
これまでのボクシング人生で最高のパンチだ。それがこのタイミングで出たことを、ジョージは神に感謝した。おそらく、自分の拳もただではすまないだろう。しかし、その痛みはまだやってこない。あまりに強い歓喜が、苦痛を寄せ付けないのだ。右拳の悲鳴が脳に届く前に、ジョージは左拳でシロマユミの
その瞬間、ジョージは胸郭に強い衝撃を受けた。
ごう、という吐息が口から漏れる。
あのパンチを受けてなお、シロマユミは戦意を、意識を失っていなかった。鼻から血を流しながら、シロマユミは憤然と頭を上げ、反撃してきたのだ。
さっきの、コヤナギとのスパーリングではやらなかった、
心臓が止まりそうな衝撃とともに、ジョージの身体は重心が浮き上がり、足をふんばることがまったくできなくなった。
「どすこい!」
シロマユミが、鼻と口から血を噴き出しながら、吼えた。
左。
右。
左。
右。
一瞬のうちに、ジョージの胸には4発の
つい1秒ほど前までリングの中央にいたジョージは、5ヤードほども突き飛ばされて、リングの外に転がり倒れた。囲んでいた水兵の列が、そこだけ割れて、地面に仰向けに倒れていた。
立ち上がれない。
倒れたときの衝撃で、頭がもうろうとしている。胸に強い痛みがあるから、肋骨が折れたのかもしれない。さっきパンチを打ち込んだ右拳も、ようやく痛みを訴えはじめた。
――負けた。
極東の島国まではるばるやってきて、野蛮な風習を持つ未開の民族の、異形の闘士に、俺は敗北したのだ。霧のかかったような意識の中で、ジョージはそれを理解していた。
悔しさより、嬉しさが勝っていた。
どうせ正式なボクシングではない。勝ち負けなど最初から問題ではない。
それは負け惜しみではなく、右手の感触がそう思わせていた。あのパンチを打つことができたのだから、ほかのことは何もかも瑣末事に過ぎなかった。
マクフライが駆け寄ってきた。
「大丈夫か、赤毛」
上体を抱え起こされると、視界がいくらかすっきりしてきた。
「ああ、たいしたことはない。マッキー、あの黄色いグリーン・ボーイはマーベラスだ。あいつと話がしたい。通訳を呼んでくれないか」
鼻血を布でふきながら、シロマユミと、通訳の日本人が、地面に座ったままのジョージのところにやってきた。
「あんたのパンチは痛かった、こんなパンチは初めてだ。そう言っている」
「俺の拳も痛いし、お前のプッシングほどではないさ。そう伝えてくれ」
血まみれになりながら、シロマユミは笑っていた。大きな赤ん坊のように見えた。
「ひとつ聞きたい。なぜ英語を話せた? 神々と死神――そう言っていたよな。どこで英語を覚えたんだ?」
シロマユミは、困ったような顔をしてから、通訳の男にぼそぼそと日本語で何かを話す。
「あんたの言っていることが、シロマユミにはわからない。英語なんて知らないし、そんな言葉は言っていないそうだ」
「そんなはずはない。たしかにGods And Deathと言っていた」
通訳の男と、シロマユミが顔を見合わせ、そして突然、大きな声で笑った。
「あんたは勘違いをしている。それは英語じゃない、日本語だよ。
――ごっつぁんです――
リキシがよく使う言葉で、サンキュー、という意味さ。リキシのボスが、シロマユミがあんたに勝ったらボーナスをやる、と言ったんだそうだ。それでサンキューと言っただけだよ」
ジョージは拍子抜けがした。そんなどうでもいい言葉に、俺は命を懸けていたのか。
「そうか……。じゃあ、生死を懸けて戦うつもりなんてなかった、というわけか」
通訳の男が伝えると、シロマユミは首を大きく横に振った。
「とんでもない、と言っている。リングではいつも相手を殺すつもりでやっているし、殺されても恨みはしない、と決めている。きっとあんたもそうなんだろう、とシロマユミは言っている――」
歓喜とともに、ひゅう、と声が漏れた。
やはり、こいつは俺と同じタイプの人間だったのだ。俺の目に間違いはなかった。ジョージはようやく立ち上がると、シロマユミに握手を求めた。戸惑っている様子だった。日本には握手という習慣がないらしい。通訳の男に促されて、やっとシロマユミはジョージの手を握った。痛む右手だが、気にせずにジョージは言った。
――ゴッツアンデス――
リングでは、チャンピオンのコヤナギが自分の腹をぽんぽんと叩き、俺の相手は誰だ、とでも言いたげな笑みを浮かべていた。
すぐに、何人もの水兵が我も我も、と手を挙げる。
男たちの宴は、まだまだ終わらないようだ。
(了)
Gods And Death 鷲羽大介 @washburn1975
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