第1話

さっきまでいた簡素な居酒屋で見えるはずのない景色、さっきまで座っていたはずなのに背中全体に固い感触を感じる。


ここはどこだ?


倒れたまま首を捻り右手を見る。動く。利き腕は無事だ。

腕を上げると土がパラパラと顔面に落ちてきた。口元にも落ちてきて、ペッと吐き捨てる。

最悪だ。医師が雑菌まみれになってどうするんだ。


とにもかくにもまずは現状の確認しなければ。そう思い立ち上がり、全身の土を払った。

周囲を見渡すと木々が鬱蒼と生い茂っていて、先を見渡す事も出来ない。

ここは日本なのか?少なくとも俺が住んでいた場所ではなさそうだ。歩き出そうとすると足に何かが当たった。

「これは…」

懐かしい気持ちになる。何故ここに落ちているかは分からないが、頼りになる物が落ちていた。

落ちていたのは元々いた病院の救急科で使っていた災害現場携行用バッグだった。バッグと言ってもリュックタイプの背負えるものだし、名前が長いから現場では救急バッグと呼ばれる事が多い。

中身は様々で、交通事故やアナフィラキシーショックなど多様な症例に対応できるように多種多様の器材、薬剤が入っている。

毎朝の救急バッグの中身の確認と足りない物の補充の役目は本来持ち回りだったが、最年少の俺がやることが多く、馴染みの深い物品だ。

中身も、その配置場所も知っている通りの物で、おそらくは俺がいた病院の物だろう。


さて、どうするか。


この救急バッグ、災害現場においては頼れる物ではあるのだが、健常の人間が生きていくのに役に立つような物はほとんど入っていない。あるとすれば、せいぜい生理用食塩水くらいのものだろう。

そして、一番の問題はこのバッグは非常に重い。今いるよく分からない森林を歩いて回るのに大体15㎏ほどあるバッグを背負って歩くのはかなりこたえる気がする。


だが、今の俺に頼れるのもこのバッグしかないのも事実だ。ここが何処かも分からないし、何よりも俺自身が怪我をしたり、感染症にならないとも限らない。


しゃーないか。思いっきり力を入れて救急バッグを背負って森の中を歩き出した。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


歩き始めて一時間、早くも俺は救急バッグを背負ったのを後悔していた。

リュックタイプのせいでとにかく肩が痛いし、一時間歩いても森は鬱蒼としたままで足下もよくないから余計に体力を奪われる。


一度休憩を取らないとヤバい。そう思い、救急バッグを背中から下ろし、木の根を覆っている草や葉っぱをどかして腰かけた。


「マジで、どこなんだココ…」


歩いて回ったのが正解だったのかもよく分からない。そもそも、今の日本において一時間歩いても抜けれない森なんてのはどのくらいあるんだろうか。

俺の知識では天然記念物に指定されているような森くらいしか思いつかない。

木漏れ日の方向で進路を決めたからとりあえず一定の方角には進んでいるはずだ。

今はまだ空腹感も渇きも感じないが、いつまでもつかは分からない。生理用食塩水があるものの、500mlのボトルが一本あるだけだ。


とにかく人がいる場所を探さないとジリ貧だ。この森の中で救助を待つ余裕はないはずだ。そう思い立ち上がった刹那、頬を何かが掠めた。


トンッ


先ほどまで背中を預けていた木の幹に羽のついた棒が刺さっていた。


頬が熱い。思わず頬に手をやると手が濡れる感覚があった。


血だ。


いきなりの命の危機に心拍数が跳ね上がる。


「ここで何をしている。人間」


声が聞こえた。だが、周りを見回しても姿は見えない。人の気配どころか音すらしない。この森の中を歩けば、葉っぱや枝を踏み鳴らす音が聞こえるはずだ。


「何もしていない。迷っていて困っていたんだ」


答える。正直自分の状況の説明すらできない。飲み屋で酒を飲んでいて、気づいたら森の中にいた。なんて自分でもわけが分からない。


「エルフの土地に入った人間が無事でいられると思うか?」


「は?」


思考が止まる。エルフ?何をふざけた事を言ってるんだ。普段なら鼻で笑って終わるような単語だが、今置かれている状況はそれを許さない。いつどこから矢が飛んでくるか分からない以上、俺の命はこの矢の持ち主の心次第だ。


「そもそも、お前はどうやって我々の土地に入った。どこから来た」


「どうやって入ったかは俺にも分からない。本当に気づいたら森の中にいたんだ。この森の中に来る前は中崎にいた、はずだ。」


「ナカザキ?そんな土地は知らないな。人間、お前は何者だ。」


「何者、と聞かれてもな…俺の名前は秦野栄だ。医者をしている。」


中崎を知らない、言葉が通じる相手でそれはあり得ない。地方とはいえ、大学病院があるような土地だ。こちらこそ何者だと聞きたい。


「ハタノサカエ、奇妙な名前だ。イシャをしているというが、イシャとは何だ」


医者が分からないだと。何なんだ。事態が理解の範疇を越えていくのを感じる。


「あー、医者は怪我人や病人の治療ができる人間の事だ。」


「お前、法術師か。」


そう声がした途端、目の前に人が現れた。いや、人というには耳が長い。それこそおとぎ話に出てくるような…


「エルフ…?マジで?」


「さっきから言ってるはずだ。エルフの土地に入って無事でいられると思っているのか、と」


耳の長い、日本では滅多に見ない透き通るような緑の髪をした少年がいきなり現れたのだった。


「何を驚いている透化魔法くらいなら人間でも使えるだろう」


「は?魔法?」


情報量が多すぎる。矢が飛んでくるやら、エルフやら、魔法やら。何だこれは、新手のドッキリか。

だが、とにもかくにもハッキリさせないといけない事がある。


「あんた、何で姿を見せた」


先ほどの会話では敵意しか感じなかった。いや、今も敵意はある。この少年が殺そうと思えばいつでも俺を殺せるのに、それをしないで俺の前に姿を現した。そうしないといけない状況だからだ。


エルフが苦い顔をしながら言った。


「我々の村に怪我人がいる。法術師が治療できない。治療をしろ。無理なら殺す。治療して悪化しても殺す。」


「早く案内しろ。ついでに向かいながら患者の容態を教えてくれ。」


俺は救急バッグを担いで立ち上がった。思った通りだ。俺の職業を聞いた途端、こいつの態度が変わった。そんな状況は患者がいる以外あり得ない。


「実践訓練中に治療のために来ていた法術師に弓矢が当たった。」


「自分で治せないのか?その魔法とやらで」


エルフがため息をついた。心底呆れたとでも言いたげな顔をしている。


「本当に何も知らないんだな。魔法は集中力を欠いた状態では使いものにならない。お前は自分で治せるのか?」


「程度によるな。矢が刺さるのは無理かもしれん」


「誰だってそうだろ。急ぐからしっかりと掴まっとけ」


「は?」


わけが分からず何もしないでいると、強引に手を掴まれた。


「急ぐって言ってるだろ。」


そう言ってエルフが小声で何か呟いた。その途端、体が宙に浮いた。


「は!?」


考える間もなく、全身に風を感じた。走っている車から手を出した時の風、それを全身に受けていた。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


再び足が地に着いた。思わず膝に手をついて息をする。髪がボサボサになったし、風を受けて口の中がカラカラだ。


「こっちだ。急げ」


腕を掴まれて体勢を起こされた。エルフのあとをついて木製の家に向かう。どうやらエルフの村らしい。周囲に耳の長い人達が数人いた。

先程のやり取りでも予想していたが、エルフという人種は他の種族に対しての警戒心が強いらしい。こちらには近寄って来ず、怪訝な顔をしている。


「残っていれば患者に刺さった矢を見せてくれ」


「これだ。」


渡された矢には泥が付いていた。訓練で何度も使っていたらしく、羽も汚れて元の白とはかけ離れた黒ずんだ色になっている。


まずいな。


口には出さないが、焦る。背中の救急バッグの中身を思い出す。抗菌薬は必ず入っているはずだが、他はどうだろうか。そもそも傷に対しての対応は出来ているのか。考える事は多い。


「傷の大きさは?傷に対してはどうした?」


「傷自体はかすり傷だ。傷に対して…とはどういう事だ。」


「消毒なり洗浄なりあるだろ。」


「傷は法術ですぐに治るだろ。今回はその法術師が負傷したから困っているんだが。」


「つまり、何もしてない?止血もか?」


「止血?血なら法術を使えば止まるだろ?」


マジか。


思わず頭をかく。話を聞く限り、ここの衛生環境は最悪だ。些細な怪我1つで死に繋がりかねない。そんな場所だ。


とにかく治療のプランを立てないといけない。頭の中で考えられる状態、対応を考える。


「この中だ。入ってくれ」


案内されて中に入ると、ベッドに女性が座っている。腕を押さえており、隙間から出血しているのが分かる。 思ったより傷は浅そうだ。


「話はできるか?」


女性が顔を上げた。エルフにしては耳が短い。しかし、人にしては耳がとがっているようにも思う。黒と青のオッドアイをしており、その瞳にこちらを見定めるように見つめられ、息を飲んだ。


「あなたは…?」


「医者だ。君らの言葉では法術師と言うらしい」


「イシャ…?」


「とりあえず傷の治療をさせてもらう。ながらで悪いが、怪我をしたときの状況を教えてくれ」


「分かりました。よろしくお願いします」


救急バッグの中から生理用食塩水と膿盆を取り出した。まずは傷の洗浄と観察をしないといけない。血の勢いからして動脈は切れてはいなさそうだ。


「傷を洗う。少し染みるかもしれない。怪我をしたのはいつだ?」


「今日の…昼過ぎです。お聞きかもしれませんが、訓練中に不意に矢が飛んできまして…避けきれずに腕をかすりました」


「自分で治療は出来なかったのか?俺は魔法をさっき初めて見たが、何でもできるように感じた」


正直自分が空を飛ぶなんて体験をするとも思っていなかった。


「魔法を見た事がなかったのですか?」


「あぁ、あれは凄いな。空を飛べるなんて思ってなかった」


魔法なんて物と出会って気持ちはワクワクしていた。患者の前で抑えているつもりだったが、そうでもなかったらしい。女性が少し笑った。


「法術というのは治療に莫大な精神力を使います。ですので集中力を欠いた状態で法術を使おうとすると、失敗して反作用が起こる可能性があります。なので、使えるけど使わなかったというのが正しいかもしれません。」


反作用。また聞き慣れない言葉だ。イメージで魔法は便利で簡単に使っているものだと思っていたが、そういうわけでもないらしい。


「意外と大変なんだな。しかし、だとしたら治療はどうするつもりだったんだ?」


「ええ、ですからワットさんが町へ向かって法術師の方を呼んで来てくれるはずでした。もっと時間がかかると思っていたんですが…」


「向かう途中で見つけた。軽い傷だしコイツを試してからでも遅くはないと思ってな」


俺を連れてきたエルフはワットというらしい。ワットは壁を背にしてこちらを見ているが、俺の手元の一挙手一投足を観察している。何か彼女を害するような事をしたら殺すと言っていたのは本気のようだ。


傷の洗浄が終わった。矢が掠めた際に裂けたらしい、5センチ程の傷が開いている。が深くはなさそうだ。表皮の縫合だけですみそうだ。


「縫わないとダメだな。これは」


「縫う…?」


ワットと女性の表情が曇る。俺の知っている医療はこっちでは異端の物になりそうだ。


「傷を合わせてくっつける。そのために皮膚に針を通させてもらう。大丈夫か?」


「ええ、よろしくお願いします」


救急バッグから持針器、ピンセット、針、糸、手袋、消毒用の綿球を取り出す。


「待て」


ワットに腕を掴まれた。


「お前は何をしようとしている。針を通すだと?言ったはずだ。悪化させたら殺す、と。」


「ワットさん、私は大丈夫ですから。」


「エリス、何が大丈夫なんだ。今からコイツがしようとしていることが分かっているのか!?」


ずっと落ち着き払っていたワットが声を荒らげる。針を通すと言われて落ち着いている女性の方がおかしいのだろう。


「針を通すだと!?馬鹿げている!?それで傷が治るわけないだろう!」


「そうですね。普通に考えればそうです。」


「だったら何故…」


「今までの作業でこの方の動きが止まる事はありませんでした。今も話しながら傷の様子を見ていたようです。」


エリスと呼ばれた女性も俺の動きをしっかりと観察していたらしい。


「ですから、この方の方法は私達の魔法と同じく基づく物がある。そう思います。」


「だから信用するというのか?」


「いえ」


「は?」


俺もワットも変な声が出た。そこで否定するというのなら、何をもって縫合に許可を出したのか。


「お恥ずかしい話ですが、今、とてもワクワクしているんです。」


「どういう事だ」


「この方の治療は私達の知らない技術です。その力を直に見ることが出来るのなら、私は腕に針を通すくらい構いません。」


その言葉を聞いてワットは絶句していたが、俺は笑みがこぼれた。


「どうしました?」


「いや、凄い傑物に出会ったと思ってな。」


かつて、日本ではポリオという病気が年間8000人程のペースで発症していた。ポリオはポリオウィルスによって感染する。乳幼児で感染する事が多く、麻痺を引き起こす。治療の特効薬がいまだ見つかっていない恐ろしい病気だった。

だが、今ではそこまでの驚異ではない。特効薬が見つかっていないというのにも関わらずだ。

ポリオは治療は出来ないが、予防が出来る。ジョナス・ソークという人物がポリオワクチンを開発したからだ。

ジョナス・ソークはポリオワクチンを開発した後、その正しさを証明するために自分にポリオワクチンを射ったという話がある。


この女性はまだ見ぬ技術のために自分の体を実験台にしようとしている。


同じ穴の狢


そんな言葉が思い浮かんだ。俺も法術とやらが見たくて仕方なかったのだ。


「じゃあ縫わせてもらおうか」


「よろしくお願いしますね」


まずは感染予防に傷と傷の周囲を消毒する。

傷から外側に向かうようにするのが感染を予防するための方法だ。


消毒が終わり、手袋をつける。手袋をするのにも手順があり、素手では手袋の中しか触らず、手袋をしてからは他の物を触って汚染を起こさないように留意しなければならない。

普段であれば、手袋を付け替えるだけでよいが、今は替えの手袋の数が限られる。


「ワットさん、中身に触らないようにしてそこの袋を開けてもらえるか?」


「…ほら」


「ありがとう」


持針器に針と糸をセットをした。左手で持ったピンセットで傷を合わせて縫い合わせる。


2針通したところで開いていた傷が閉じた。


「こんなところか」


傷の上にガーゼを当てて、テープを貼って処置は完了した。


「糸はどうするんですか?」


エリスが聞く。まぁ当然の疑問だろう。


「傷が完全に塞がったら抜く。まぁ7日くらいの辛抱だな。」


「なるほど」


「とりあえず毎食後にこれを飲んでくれ。もし、口が痺れたり喋りにくかったりするようになったらすぐに教えてくれ」


エリスが驚いたような顔をする。


「あなたはこれから何が起こるか分かるんですか?」


「掠めた矢は使い込まれてるのかかなり汚かった。破傷風…傷が汚染されて毒が出たりするかもしれない」


「あなたの知識はどこで得たものですか?いや、初めて会ってする話じゃないですね。でも、ほんとに見たことのない手法でした。まだ成果は分かりませんが、うまくいくならすごいですね!時間はかかりそうですが…」


どうやら法術というのは即効性があるらしい。傷の治りは患者次第なところがあるが、こっちではそういうわけじゃないらしい。


「法術だとどのくらいで治るんだ?」


「傷が塞がるのは2日…くらいですね」


それは凄い。


「法術についても聞きたいんだが」


「お教えします。ですので…」


ゴホン。ワットが咳払いをする。どうやらお互いに興奮しすぎたらしい。近くなっていた距離を戻す。


「今のところは大丈夫なようだが、エリスの容態が悪化するかも分からない。しばらくは逗留してもらうぞ。」


「でしたら私の家で世話をさせてもらいますね。」


ワットがため息をつく。


「エリス…そこまでする義理があるのか」


「先程の話の中で殺すとかいう言葉が聞こえましたが。」


エリスが怒った顔をしてワットを見る。ワットもばつが悪そうな顔をしている。


「エルフの方々はこの人を良く思わないでしょうし、一番信頼できるワットさんが殺すなんておっしゃるなら私が匿うしかないでしょう」


ワットがまた深いため息をつく。


「本当のところは?」


エリスはイタズラがばれた子供のような顔をして言った。


「新しい技術の話を伺いたいです。」


「任せる。他の連中には俺から説明をしておく。頼むぞ。」


そう言うとワットは俺の肩を叩いて出ていった。


「事態が読み込めてないが、世話になる」


エリスに頭を下げる。


「いえいえ。ところで、何とお呼びすればいいですか?」


「秦野栄だ。栄と呼んでくれていい。」


「サカエさん、ですね。それでは私の治療、よろしくお願いしますね。」


エリスが微笑む。


行き当たりばったりだったが、何とか生き延びる事が出来たらしい。

ホッとすると床に倒れこんでしまった。


「サカエさん!?」


「大丈夫、疲れてるだけだから少し眠らせてくれ」


そう言って目を閉じる。


固い木の床の上だったが、すぐに意識が遠のくのを感じた。

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飛び級医師、異世界に行く @nonjun

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