飛び級医師、異世界に行く
@nonjun
序章
『優秀な人物の社会参画を早めるため、大学入学試験の年齢制限が引き下げられる事になりました。ついに日本でも飛び級が認められるようになりましたが、今年18歳未満で大学入学する事になった学生は956名と発表されました。中でも注目されているのは中崎大学医学部に12歳で入学した秦野栄さんです。医学部に入学した学生は27名ですが、秦野さんはその中でも最年少で…』
プツッ
10年前に報道されたニュースが途切れた。
「いきなり消さないでよ。せっかく見てたのにさぁ」
隣のデスクの女医がニヤニヤとしながら声をかける。
「加藤先生、4日くらいずっと同じ番組見てるじゃないですか」
ため息をつきながら答えた。転勤してきてから4日経つが、このオバサンは昼休みの度にこのニュースを流している。
「栄君の事を知りたいと思ってるから見てるんじゃない。」
嘘だ。
「でも話題のすごく優秀な飛び級医師さんがこんな所にいるなんてねぇ」
この女はこの台詞が言いたいがタメに毎日録画したニュースを見ているのだ。
「優秀だと思ってるならもっと患者回してくださいよ。肺炎の患者なんて研修医が持てばいいでしょう。そもそも僕は…」
「救急医です、ね。まぁ救急医かもしれないけど、君はその研修医と同じ年か年下でしょ?患者さんも不安だって」
このやり取りも4日目になる。この言葉が出ると俺は何も言えなくなる。
それが分かっていて、いや、この言葉を言いたいがために、このオバサンは俺が休憩に入る時間に必ずニュースを見ているのだ。
「君の担当の患者は肺炎で入院してる佐藤さんだけ。君の事は『私が』三和先生からも頼まれてるからね。文句は言わせない」
眉間に皺が寄るのを感じた。三和は前にいた大学病院の副院長で、俺を今の病院に押し込めた張本人だ。
頼まれていると言うが、それがこの扱いか。もしかしたら頼まれているからこそ、俺を重篤患者から遠ざけているのかもしれない。
「文句でもあるの?」
「いえ…」
逆らう事は出来ない。
俺が問題を起こせば、俺を育ててくれた恩師に迷惑をかける事になる。既に一度迷惑をかけてしまっている。二度目が起これば恩師の立場はいよいよ危ういものになってしまう。
「あら、もう5時ね。栄君、帰っていいよ」
「まだ仕事が…」
「ないでしょ。まだ分かってないの?君は9時に来て5時に帰る。担当する患者はcommon diseaseのみ。それを破れば…分かってるでしょ?」
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
これ以上話しても無駄だ。苛立ちを扉にぶつけて外に出る。一度だけ下を向く。顔を上げた時には穏やかな表情をしていなければならない。休憩室を出れば俺は『医者』だ。
スタッフが、患者が、助けを求めやすい人間でいなければならない。
この病院で俺に助けを求める人間がいなくても、だ。
日が高いうちに病院を出るなんて前の病院では考えた事がなかった。
「する事…ねえなぁ」
思わず声が出た。加藤の対応はおそろしく早かった。
転勤初日は救急病棟の様子を見に行ったのが報告されて救急病棟への入室自体を禁じられた。
2日目は外科医に頼んで手術の助手として入室させてもらった。3例目の手術が始まった時に加藤が乗り込んで来た。手術を中止するわけにはいかないと主張してくれた外科医のおかげでその症例は参加できたが、手術室への入室も禁止された。
そして昨日、加藤の所属する総合診療科に正式に配属された。総合診療科とは名ばかりで一人も患者がいなかった。呼吸器内科の先生に頼んで何人か患者を回してもらおうとしたところ、2日後に退院予定の患者が回ってきた。
内科の先生の申し訳なさそうな表情を見て、加藤が根回しをしていたのだと気づいた。
先に救急病棟なり手術室なりで治療実績を作ってしまえば、動きやすくなると思っていた。だが、俺の予想よりも三和の影響力は強く、人の足を引っ張る、苛立たせるという点での加藤の才能は際立っていた。
「どうするかなぁ…」
自宅に帰るにも、徒歩5分のアパートを借りているから早く着きすぎる。
たまには酒を飲むのもいいかもしれない。病院の近くの居酒屋に入る事にした。
時間が早いせいか居酒屋の客は俺だけだった。カウンターに座って「とりあえずビール」と頼んでみた。
注文を取りに来た店員がまだ立っている。「どうしました?」と聞くと、「食べ物はどうしますか?」と聞かれた。
そういえば居酒屋に一人で入るのも始めてだったかもしれない。今までは、いつ急患が来てもいいように、そう考えて酒を飲むことはなかったし、学生の頃は未成年だったから飲酒はしていない。
俺は何も知らなかったんだな。
そんな自嘲の言葉が脳裏をよぎった。医学部に入学して10年、俺は医学の勉強ばかりしてきた。30歳の医者と同じ知識は持っていても、人としての力は持ち合わせていなかった。
もし、その力があれば加藤を丸め込んで今頃救急病棟で働けていたかもしれない。いや、そもそも恩師の立場を失わせる事も、俺自身が大学病院から左遷されるような事もなかったのかもしれない。
届いたビールを一気に飲む。
苦い、病院では絶対にしないくらい顔をしかめる。だけど、今は少しそれが心地よい気もする。
「秦野栄さんですね?」
そんな時にいきなり声をかけられた。
今まで気づいてなかったが、席を1つ空けた隣に見知らぬ男が座っていた。
居酒屋には似つかわしくない燕尾服を着て、ハンチングハットを深くかぶっており、目を見る事は出来ない。分かるのは細身であることと無精髭を生やしている事だけだ。
誰だ…?
「あなたとお話がしたいと思って参りました。こんな所で声をかけて申し訳ありません」
俺の戸惑いを気にする事なく男が話を続ける。
「どこかでお会いしましたか?申し訳ありません、失念してしまいまして…」
可能性として一番高いのは俺の元患者だ。人の顔は忘れないつもりだったが、記憶にない。
「いえ、初対面です。ですが、あなたの事はよく存じ上げております」
「そう…ですか」
「秦野栄さん、前の病院は過ごしやすかったでしょうね。いえ、やりがいがあったと言うべきでしょうか」
頭の中で警戒の鐘が鳴った。
コイツは俺の過去を知っている。
「そんなに警戒しないでください。あなたに害を与えるつもりはありません」
「顔も見せない人にそんな事言われてもね」
「おや、それが素の秦野さんですか」
「精神面の成長はあまりしてなくてね。人前で取り繕うのだけ覚えたけど、あんたにはそんな気遣い必要なさそうだ」
男が軽く笑う。正体が見えない。三和の身内か、それとも加藤の仲間か、それくらいしか考え付かない。どっちにしても俺の味方とは言えなそうだ。
「これは確認事項です。そうですね…あなた方が行う問診みたいなものだと思ってください」
「あいにく俺は健康だよ」
「まぁまぁ、悪いようにはしませんから」
この男の意図が分からない以上、下らない問診とやらに付き合ってやらないといけない。
黙って先を促した。
「秦野栄さん、22歳。医師4年目…優秀ですねぇ」
「聞きあきたよ、知り合った人はみんな言うからな」
「時には素直に、時には皮肉で、ですね。存じております。さて、確認を続けましょうか…」
男は話を続ける。
俺は幼い頃から頭が良い方だったのだと思う。両親は教育熱心で幼い俺に色んな事を教えてくれた。道を走る自動車の仕組、雨は何故降るのか、そんな子どもの他愛ない質問に言葉や絵でしっかりと答えてくれた。
大好きな、自慢の両親だった。
両親が交通事故で死んだのは俺が10歳の時だった。原形を留めていないからと死に顔は見せてもらえなかった。
医師は手を尽くしてくれたが、どうしようもなかったと聞いた。
「それが医師を志したきっかけですね」
男の言葉に無言で頷く。
その翌年に飛び級制度の導入が行われた。絶好の機会だと思い、引き取ってくれた祖父母を必死に説得した。最初は反対していた祖父母だったが、俺の意志が固いと知ると最終的には応援してくれた。
「そして応援してくれた祖父母もあなたの在学中に病気で亡くなって、天涯孤独になってしまった」
言葉が出ない。コイツは何者なんだ。祖父母が亡くなったのを知っている人はそこまで多くないはずだ。
黙っていると更に男は話し続けた。
大学も救急科の力が強い大学を選んで入学した。在学中から俺は救急科の教授の元に通い詰めていた。その教授が恩師である朝田教授だ。朝田教授は要職につきながら現役で医師として活躍されていて、卒業後も救急科に入局し様々な事を学ばせていただいた。
朝田教授は大学病院の病院長に就任し、俺は救急科の医局員として働いていた。
しかし、半年前に状況が一変してしまった。
きっかけは交通外傷で来た患者だった。
骨盤を骨折し、大量の出血をしていたが、俺は完璧に処置をしたはずだった。丁度居合わせた教授と確認し合い、閉創を行った。
その患者が、入院病棟に移動した後急変した。委員会の捜査の結果、原因は手術中の手技の手違いとされ、朝田教授は責任を取り辞任。俺は今の病院に出向となった。
今思えば選出された委員会の人員は、三和の息がかかったメンバーで構成されていたのではないか。その疑念は「三和先生に頼まれてるからね」と言った加藤の言葉で確信に変わった。
「あなたは三和先生と朝田教授の政争に巻き込まれてしまったわけですね。可哀想に」
「お前喧嘩売ってんのか」
淡々と述べる男の最後の一言に思わず言葉が出た。
「気を悪くされたのなら申し訳ありません。ですが、本題はここからなのです」
「早く言ってくれ。もう帰ってしまいたいくらいなんだ」
聞いてしまったら帰るつもりで財布を取り出した。
「もし、もしあなたがまた以前のようなやり甲斐のある現場に戻れるとしたら…」
「あなたは自分の身以外の全てを擲つ《なげうつ》覚悟はありますか?」
男のその言葉を聞いて、上げかけた腰を下ろした。この問いに対する答は一つしかない。
「当然だ。医療に携われないなら、俺は死んでるのと変わらない」
それを聞いて、男の口元がニヤリと笑うのが見えた。
「その言葉が聞きたかった。それでは行ってらっしゃいませ」
男の手が素早く俺の目を覆った。そのスピードが早すぎて何の反応も出来なかった。
そして目を覆われた途端、俺は気を失った。
目を覚ました時に目の前に広がっていたのは、生い茂る木々とその隙間から見える青い空だけだった。
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