第2話
古諺堂へつくと、越智はまるで私を待ちかねているかのように店先に立っていた。
「おや、どうした」
いつになく明るい声で私に声を掛けた。
私は白々しいと一瞬思ったが、実家からハウスみかんを送って来るなど彼が知る由もない事を思い出し、勝手な被害妄想だと反省した。
「家から届いたので、お裾分けで」
私はコンビニの袋に入ったみかんを越智に渡した。
「ほお。それはそれは。わざわざすまないね」
この男からの初めての労いにぎょっとすると、さらに私をぎょっとさせる物があった。
越智が本気で喜んでいるのである。
普段、表情を隠している長い前髪が風でフワリと浮かび、その異常なまでに端正な顔が微笑むのを見てしまったので、私は少しどきりとした。
「それじゃあ、これで」私が帰ろうとすると、
「すまない。一つ頼まれてくれないか」と言われた。
むろん、ここ数日仕事もなく給料をもらっている私は、頭を縦に振った。
配達品は古い備前焼の器だった。
私は大事にそれを抱き抱え、越智に渡された地図をもとに大きな屋敷にたどり着いた。立派な杉の木が立つ屋敷で、私が呼び鈴を押して屋敷に上がるまでには広大な庭が広がっていた。
「こちらが、商品です」
私が木箱を差し出すと、天城は中を見て、これはこれは、と、目を輝かせた。私は仕事を終え、お
そして、あの古諺堂に置いてあった冴えない備前焼の数々はとんでもない物だと知った。
「まったく、古諺さんにはとんでもない物が沢山転がっている。私みたいな数寄者にはもってこいです」
そうこうしているうちに私は天城さんとも打ち解け、私が下宿生活をしているというとそれならまともな物も食べていないだろうと言う話になり、食事をご馳走になった。この天城という男も越智に負けず劣らず不思議な男で、日本酒を二人で一升開ける頃にはすっかり私は彼に心を許してしまっていた。
そして、どうやら彼も私を酷く気に入っているようであった。
酔っていた事もあり、私はその晩、天城のもとに泊まった。
次の日、二日酔いと寝不足とに打ちのめされながら、私はいつものように古諺堂に行くと、越智が抹茶を立てていた。
「おはようございます」
私が挨拶をすると、越智はいつものように前髪で表情を隠しながら、淡々と茶を立てている。
「昨日はすまなかったね、急な頼み事をしてしまった」越智は言った。
私は、思わずその言葉に過剰に反応してしまった。何しろ昨日、その宅配先で酒を飲んだ上に淫らな事までしてしまっていたからだ。私は越智が何もかも知っているような気がして居たたまれなかったが、越智はそんな私とは裏腹に黙々と茶を立てている。
「随分いいものだったようですね、あの備前焼」
私が聞くと越智はお茶が立ったのか店に響く音が消えた。
「天城さんは蘊蓄王だからな。さぞ、いろいろ話してくだすったろう」
越智は言った。
「ええ、骨董なんかには全く感心がなかったのですがなかなか興味深いお話をして頂きました」
「ほお、それはよかった。相性は大切だからな。幾ら時間をかけても合わんものは合わん。合うものはすぐにぴったり合う。衝動買いも悪いものではない」
私には越智が含み笑いをしたかのように見えた。
「どういう意味です」私が不機嫌に聞くと、
「ただの出会いについてだよ」
そう言うと、越智は私に抹茶を差し出した。
「ありがとうございます」
私はそれを受け取って、口へはこんだ。まったりとしたその抹茶は舌に絡み、今まで飲んだ事のあるものの中で一番美味しかった。
「美味しいです」
「喉が渇いているからであろう」
越智の口の端が僅かに笑みを浮かべた気がした。
私は自分が酒臭いので昨日、しこたま酒を飲んでしまった事を見破られたのかと思いながら、碗の底を見ると、なにやら、絵が書かれているのが見えた。
よくよく見るとそれは二匹の蛙だった。
蛙はただの蛙ではなく、交尾をしている蛙であった。一匹の蛙がもう一匹の背中を押させつけて乗っている。私は組敷かれて身体を反らす蛙と押さえつけている蛙が私と天城さんのように見え、はしたなく声を上げた昨夜の自分を思い出して、茶碗を投げ捨てた。
「おやおや。口に合わなかったのかな」
越智はそう言って、茶碗を拾った。
「割れなくてよかった。この茶碗結構高いのだよ」
私は越智を殴りつけてやりたかったが、そうするための理由がなかった。
その日も客は来ず、ただただ、越智との息苦しい一日を過ごして、終わった。
その夜、私はクーラのない部屋で、寝返りを数回打ちながら魘された。二匹の蛙の夢だ。まぐわう二匹の蛙は、始めは天城さんと私だった。だが、いつの間にか、事が進むに連れて、越智と私になっていた。
『天城さんとはどうだったのかね』
夢の中の越智は執拗に私を問いつめていた。
次の日、越智は私が店に行くと
「熱帯夜は寝付きが悪くなっていけないね」と言った。
私は奇妙な夢と暑さで朝から体力をすっかり消耗していた。
「窓の開けっ放しは不用心だからよくない。アルバイト代でクーラーでも買うがいい」
越智はそう言うと、また、いつものように番台席へと戻った。
私はぐったりとして、店の隅で客が来るのを待った。夕方になり一人の客も来ないまま、店の外に出したものを中にしまおうとして、目眩がした。ふと、意識が遠のきかけ、体が異界へと一段落ちるような感覚がすると、気づいたら越智が腕を掴んで支えてくれていた。
「いいものをあげるからそこで休みなさい」
越智はそう言って一段高くなった入り口のヘリに私を座らせ、私に冷凍みかんを渡した。
「最期の一つだがしょうがない、君にあげよう」
私は凍ったみかんを受け取るとそれを額にあてて頭を冷やした。
ひんやりとみかんが私の熱を含んで溶け始める。
それが気に食わなかったのだろうか。
越智は私からみかんを奪うと、半分にみかんを分け、一つは私の手の中へ、もう一つは自分の口の中に運んだ。私は、彼の行動を、早く食べろ、という意味に解釈した。
半分に割られたみかんから一房千切って口の中に入れると、しゃりと音を立て、冷凍みかんは私の舌の上から熱を奪っていった。
そこで私は漸く一息をついた。
越智は番台の机の前でえんぴつを両手で掴みクルクルと横に回転させながら、私の方を見ている。私は手の中のみかんを欲しているのかと思っていると、
「ちがうよ」と、聞く前に、断られた。
「悪いが、また配達をお願いしたいんだが構わないか?」
越智は言った。
それが私の仕事なのだから構わないが、なにも仕事終わりに言わなくてもいいのにと思っていると「天城さんの所へなんだが」と言われ、固まった。当然、嫌ですなどと言う理由はない。否、理由があるからこそ、厭だと言えなかった。
もし、嫌そうな素振りを見せればきっと越智はいやらしい笑みを浮かべるのは容易に想像がついた。なので、私は黙って頷いた。
「またあの方から注文を受けてね。ついでにこの請求書も渡して来てくれたまえ。そして、その紙と引き換えのものを貰って来るように」
越智はそう言って大きな黒い箱を私の目の前に置いた。
黒くて重い箱だった。
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