冷凍みかんと新聞紙
nagai misturu
第1話
それは大学1回生の夏だった。
それなりに苦労して入った大学ではあったのだが、決して安くない授業料になんの見返りも求めない同級たちに、平気で休講にするタレント教授に、刺激のない毎日に、半年も経たずに、私は、大学生活に絶望していた。
私の期待が大きすぎたせいかもしれない。
前期試験が終わる頃には、言いしれぬ空しさと膨大な時間に立ちすくんでしまっていた。私は時間を使う事に慣れていなかったのだ。
だからあの夏、あの男に隙を与え、引きずり込まれてしまったのだ。
*
七月の末、大学は2ヶ月あまりの夏休みに突入していた。
私は多くの学生がそうするように、一夏のアバンチュールも、自動車の免許を取る事も、アルバイトに勤む事をしようとも思わないでいた。右へ倣う事を好まないといえば格好もつこうが、その実、大学生活があまりにつまらなく、私はただただ拗ねていたのだ。生まれもっての天の邪鬼な気質も助け、大学生活を謳歌する者たちの横で、私は如何にこの膨大な時間を静寂に食い潰してやろうかと考えていた。そして考えあぐねた末、図書館でこの夏を過ごす事にした。
法学、哲学、自然科学、西洋思想、ロシア文学。
大学生活を早い段階で納得しなければ4年間を無駄にしてしまうという焦りがそうさせたのだが、次第にストレスを感じない本は広辞苑第4版である事に気づき、朝から晩までそれを眺めていることにした。そしてその時、初めて努力して大学へ入ってよかったと思った。
大学というのは広辞苑を一人黙々と読んでいる人間が
[8/10〜17 図書館閉館]
館内でその張り紙を見つけた私は、両手に抱え借りられるだけの本を借ることにした。
「相変わらず不機嫌そうな顔をしているね、君島くん」
背後から声がした。
私は、またあの男かと思い、男を見やった。
「別に不機嫌ではありません。こういった顔なのです」
私が、そういうと男は小さく嗤った。
「『こういう顔なのです』、か。君、友達いないだろう」
相変わらず不躾な男だ。
「それがなんですか」片目を細め男を睨むと、男は白衣のポケットから手を出し、私の手中にある広辞苑を勝手に本棚に戻してしまった。
「辞書は買った方がいい」
「買えないから借りるんです」
月々の仕送りで何とか生活をやっている私には、それがどれだけ高価な物なのか、男にとくとくと言って聞かせると
「それじゃあ、私のところで小遣い稼ぎをしてみないか?」
男は言った。
前髪で表情が見えなかったが、歯を見せたのできっと嗤ったのだと思う。私は男が戻した広辞苑を再び手に取ると、男の云う事を聞かず貸出しカウンターへ向かった。
男と初めて遭ったのは、数週間前だった。
いつものように窓際の席で広辞苑を眺めていると、いつの間にか閉館時間になっており、閲覧席には誰もいなくなっていた。私は慌てて、広辞苑を本棚に戻し、帰り支度をしていると、同じ階に自分以外にもう一人いる事に気がついた。異様に肌の白い、白衣を纏った男が雑誌コーナーに本を置くところだった。なんとなくその白衣の裾が揺れるのをしばらく目で追っていると、はたと男と目が合った。すると、男は私に近づいてくるなり、突然、きらりと光るものを私の眼前に差し出してきたのだ。
差し出されたのは、銀色のゼムクリップだった。
「持っていくがいい」
むろん、日本語の意味としてはわかる。が、彼の意図がさっぱりわからず立ちすくむと、男はもう一度、私にそれを受け取るように促した。
大学から徒歩15分、老夫婦が道楽でやっているおんぼろ下宿で私は暮らしている。ヘアピンでも開けられそうな共有玄関のそこには、1階に4人、2階に4人、貧乏学生が暮らしている。いつものように、共有玄関のドアに手をかけた。鍵が掛かっている。鍵を持たずに出てきてしまったことに気づいたが、携帯電話を持たない私はただ戸を叩いて中にいる誰かに鍵を開けてもらうほかない。何度か戸を叩き、開けてくれないかと叫んでみたが、夏休みだからであろう。珍しく誰も出ない。
「……弱ったな」
これまた無駄使いはしまいと部屋に財布を置いてきた自分の行動を後悔した。しかたなくコンクリートの段差に腰かけ、誰かが帰って来るのを待った。しかし、数分と経たず、通りを歩く人が私を訝し気に見ているような気がして落ち着ず、気を紛らわすために鞄から借りた本を取り出そうとすると、きらり、光る物が目に入った。
『持っていった方がいい』
男に無理矢理渡されたゼムクリップが私の鞄の中でひと際輝いていた。
こうして無事、自室へ帰る事が叶った次の日、図書館で
「それでは」
礼を述べた私が立ち去ろうとすると、男はおもむろに手を差し伸べてきた。
「用が済んだのなら返して頂こう」
昨日私に渡したゼムクリップを返せと言っているらしい。私は直線状に伸ばされたゼムクリップが自室の机の上に投げ置かれている姿を思い出しそのことを男に謝ると、
「では学食へゆこう」
男は読んでいたニュートンという科学雑誌を最新雑誌コーナーに戻すと図書館を出て行ったので、私は慌てて彼を追った。
夏休み中でも学食は開いていた。男は白衣のポケットに手を入れたまま「味噌カツ定食にしていい?」と言った。どうやらおごらなくてはいけないらしい。残念ながら今日は財布を持って来ている。私は仕方なく頷き、自分は冷やしきつねうどんにした。先にテーブルについている男の前にセルフディスペンサーから持って来た冷たい麦茶を置いた。
男は味噌カツを既にほとんど食べあげている。
「さて、君の名前は?」
男はそう言いながら、私が持ってきた麦茶を勝手に奪いとり飲み干してしまった。
「…君島といいます」
「ほぉ!君島くんというのか。漢字で書くとカイブンだな、君島君」
私は、男が言っているカイブンが回文である事にしばらく気づかずにいると「山本山と同じだと言ってるんだよ」と言われた。
「貴方は?」
私が聞き返すと、男は「越智 道夫」と答えた。このとき、私は彼の名を少しも疑わなかったが、後になってその時の彼はどこか楽しんでいたに違いないと考えると今でも苦虫を噛む思いだ。だって、山本山の話の後だ。気づいても良さそうなものだ。〈おちみちお〉。明らかに偽名ではないか。
さて〈越智道夫〉こと陰気な白衣を着た男の素性はというと、電子工学研究室の大学院生なのだという。それを聞いて、妙に合点がいった。不健康な白い皮膚、目にかかる前髪、舌峰の鋭さ、大学院という仄暗い洞の中で研究しているからなのだろう。そんな事を思っていると
「君はカテゴライズされるのを
私の思考を見透かすように男は言った。実際、見透かされていた。一方で、私にはこの男のことがさっぱり理解できないでいた。だがそんな奇妙な出会いの後も、私には男と出くわす機会をなくす事は不可能であった。なぜなら、彼は図書館をよく利用し、私もそうであったからだ。無論、図書館にいかないという選択肢もあったのだろうが、唯一大学に見つけたオアシスを、奇妙な男を回避するためだけに失いたくなかったのだ。
「僕はね、ハウスみかんが好きなんだよ」
男は、また素っ頓狂な事を言ってきた。
「…そうですか」
「ハウスみかんを冷凍庫でカチカチに凍らせて食べるのが大好きなんだ」
越智がそんな事を言いながら、白衣を靡かせ、工学楝へと歩いていった。
私はやっぱり越智という男がどうも理解出来なかった。気まぐれに訳のわからない事を話しかけてくるこの男をなぜか不躾な態度で突き放す事ができなかったのは、時折、風で前髪が揺れるとその容姿が実に端正だったからか、それとも男の持つ独特の雰囲気のせいか、私にはよくわからなかった。
*
そんな数週間前の越智とのやり取りを思い出しながら、私は貸出しカウンターで10冊の本が手続きされるのをぼーと眺めていると、広辞苑を手にした図書館員の手が止まった。辞書類は館内のみの閲覧だと言う。みると、背表紙に〈貸し出し禁止〉のシールが貼ってある。
やむなく私は広辞苑とのサマーバケーションを断念せざるを得なくなった。
少々落胆し、図書館の出口の扉に手を掛けた時、嫌な予感が過った。私は学習能力はあるほうだ。思った通り、図書館を出ると、そこには越智が立っていた。
「だから辞書は買った方がいいと言ったろう?」
越智はどこか嬉しそうに私に言った。
そういうわけで、私は奇妙な大学院生〈越智道夫〉の持ちかけた手伝いをすることで広辞苑を手に入れる事が、この夏の目標となった。
越智が私に手伝って欲しいといったのは宅配だった。
奇妙な骨董品屋とも古本屋ともとれない〈古諺堂〉と呼ばれるそこで商品をお客さんに届けるというのが私の主な仕事らしい。
「時給2500円プラス広辞苑。悪い話じゃないだろ?」
確かに悪い話じゃない。時給だっていい。950円で笑顔も時給のうちなんて指導される飲食店よりよほど自分に向いているし、広辞苑ももらえるのなら願ったり叶ったりだ。だが、……。私はちらりと越智を見た。
客のいない店の奥の、銭湯の番台のように一段高くなったそこで、越智は黙々と本を読んでいるのだ。
よくよく考えると、盆中に骨董品店なんかに来る人が来るのだろうか。一体どこに私にこんな高い時給を払う必要があるのだろうか。居心地が悪いのではたきで商品の埃を取ろうとすると、掃除なんてしないでくれ、と注意されてしまった。
これなら普通に求人雑誌をみてアルバイトでもやってみれば良かったのかもしれないなどと思っていると、越智は「アルバイトの面接が嫌なくせに」と何も言っていないのに見透かすように言った。
私はここ数日と同じように店先で商品に数マイクロの埃が積もっていくのを見守り、下宿に帰ることになった。帰り際、「君は私が前に言った事を覚えているかな」また変な事を越智がいったが、私はその言葉を苦笑いで返し、古諺堂を出た。
下宿に家ると実家からの荷物が踊り場に置かれていた。段ボールを抱え、6畳の自室に帰ると蒸せかえす暑さだった。段ボール箱の中には、新聞紙に包まれた食材が沢山入っていた。私は、嬉々としてお菓子や米を取り出すと一番奥に新聞紙に包まれた四角いものが5つ入っている。新聞紙を取り外すと、[ハウスみかん6個入り]のパックが入っていた。そこで、私はぞくりとした。
『君は私が前に言った事を覚えているかな』
いつもそうだ。彼の言葉は、私の少し未来に話しかけている。私は、一つパックを手元に置き、残りを冷蔵庫にいれた。明日になれば、またアルバイトで彼に会いにいかなくてはならないのだから放っておけばいい事なのだが、『僕はハウスみかんが大好きなのだよ』と何処からともなく、越智の声が聞こえてくる気がする。
居たたまれず、私はみかんをコンビニ袋に入れ、古諺堂へと向った。
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