4.藍子

ムンクが乗っていないのはわかっていた。

 土曜日から月曜日に続く連休の最終日、藍子は母の涼子とふたり、父と亮太の帰りを待っていた。ふたりの乗ったクラウンが家に着いた時は、すでに夜の十時を過ぎていた。

 父の右目の周囲が赤黒く腫れていた。

「パパ、どうしたの? まさか、亮太と?」

「馬鹿。俺は生まれてこのかた人に手を上げたことはないよ。部屋に突き出ていた柱にぶつけられたそうだよ」

 憔悴した表情の亮太がそう答え、父があいまいな笑顔を見せた。

 L字型に組まれたソファに三人は腰を降ろし、缶ビールとビールグラスをテーブルに運んだ母涼子もそこに加わった。

「ふたりで一日余計に、観光でもしてたの?」

 藍子が訊ねた。

「富士山も素晴らしかったし、河口湖の周辺の森の様子も、ステレオタイプな感じだったけど、それでも凄くよかったよ。ムンクのことは残念だったけど、楽しかったですね」

 亮太はそう言って父を見た。父は缶のままビールを喉に流し込んでい、ただ頷いた。

 あの話はどうなったんだろう。ムンクが新しい飼い主のところから帰ってこないことは、亮太のメールでわかっていたから、藍子の気がかりは結婚話の方であった。ふたりで一日余計に過ごしたということは、よい兆候なのだろうか。だが、それにしてはふたりの表情に明るさはない。

「飼い主のご夫婦って、お若いんでしょう?」

 母が訊ねた。

 父は、ああ、とだけ答えた。

「事情を話せばわかってくださるって期待してたんだけど。いくらでもラブはいるのに、なぜ、ムンクにそんなにこだわられるんでしょうね」

「耳はないし、情けなさそうに見えるから、余計に情が移ったんだろう」

「それにしても、写真ぐらい、撮らせてくれてもいいのに・・・会わせてもくれなかったの?」

「ああ」

「ムンクはほんとうに、その方々に愛されて、幸せに暮らしてるのかしらね」

「大丈夫だ」

 夫婦の会話に、藍子が口をはさんだ。

「なぜ、大丈夫だってわかるの? 会わせもしないって、変じゃない?」

「俺の言い方も悪かったのかもしれない。頑なになってるんだろう」

 突然、母が「しいっ!」と言った。

「庭になにかいるわ・・・・」

 母は立ち上がってサッシの前にいき、カーテンを開けた。鏡のようになったガラスに室内の様子が映しだされた。そこには四人の不安そうな表情が写っていた。

「まさか、ムンクが・・・そんなことはないよね」

 母はそう言うと、鍵を上げてサッシを引き開けて、暗い庭に身を乗り出した。

「ムンク!」

 母はときどきおかしなことを言う。

 霊感が強いというのが母の口癖で、昨夜は天井に亡くなった親類が浮かんでいて、自分を見下ろしていたから眠れなかった、などと言うことがあるのだ。

 藍子はまた始まったと思い大きな溜息をついた。

「ママ! 変なこと言わないで。ムンクがいるはずないじゃない」

 母は藍子の声を振りきって庭に降り、そこにあったつっかけで家の周囲を一回りしたらしく、数分で部屋に戻ってきた。

「変ね、なんだか、ムンクが帰ってきたような気がしたんだけど」

「まさか。富士山からここまで、車で飛ばしても八時間もかかるし、何百キロとあるのよ。一〇才を超えたおばあちゃん犬が、そんな距離を歩いて帰ってこれるはずがないじゃない」

「そうね、もちろん、そうだわね」

 納得した風でもない表情の母は、なにかを小さく呟きながらキッチンに戻った。

「お父さん!」 

 突然、そう言ったのは、亮太だった。

―――お父さん

 亮太はたしかに、「お父さん」と言った。

 藍子が、父のことを亮太がそう呼ぶのを聞いたのは、はじめてのことであった。

「もう、嘘を言うのはやめてください。嘘をつけばつくほど、お父さんも、家族も、悪いほうへ悪いほうへと行ってしまいます。お父さんには嫌われるかもしれないけど、もう構いません。言わせてもらいます。お父さんは、ほんとうのことを言うべきです」

 亮太はそう言うと、スマホを取り出して操作し、目的の画面を表示させて、父に手渡した。

 スマホを受け取った父は文面を読むと、頭を垂れた。

「藍ちゃん、お母さん、お父さんがムンクを連れて行ったその若い夫婦は、ムンクの耳を見て、引取を拒否したんです。お父さんはにっちもさっちもいかなくなって、河口湖畔のレストランにムンクを置き去りにした。オーナーは仕方なしに、しばらくムンクを預かって引取先を探した。このメールの写真がそのときの掲示板に貼られたムンクの写真です。きのう、一昨日と、どこかに引き取られたと思っていた僕は、お父さんを連れ回してムンクを探していたんですけど、その時知り合った人から、さっきいただいたメールです。その方の情報でわかりました。結局、引き取り手はみつからなかったんです。何度もそんな目にあっているオーナーはなんとかしたかったんでしょうけど、どうにもならなくて、ついに、遺失物として警察に届けた。お父さんの顔の傷は、謝りにいったオーナーに殴られたものです。ひょっとしたらオーナーが引き取り手をみつけてくれたかもしれないと、お父さんは恥を忍んで土下座して謝ったそうです。・・・で、遺失物として警察に届けられた犬は、飼い主が現れなければ、保健所へ移されます。あとはわかりますね」

―――殺処分。

 どんと大きな音がして振り向いたら、母はキッチン・テーブルの椅子に捕まって、死んだ魚のような表情をしていた。

 藍子は叫んだ。

「パパ! 嘘でしょ?嘘って言って!」

「すまない」

 父は下を向いて唇を震わせていた。

「すまない。俺はどうかしていた・・・最後の勝負の最中だったんだ。ムンクのことに、あれ以上手をとられているわけにはいかなかった。かと言って、ムンクを保健所に連れて行って自分の手で殺すこともできなかった・・・すまない」

 藍子の喉元から嗚咽が漏れた。

 そして、母がどこか遠くの異世界で呟いているのが聞こえた。

「やっぱり、帰ってきていたんだ。ほら、ムンクが庭を走ってる。嬉しそうに、今、庭を走り回って、また、はなみずきの根っこを掘り返してるわ」

 


 霊なんていうものが本当に存在するなら、人間や殺処分される犬たちの苦しみはどれほど軽くなるだろうか。その種の母の話はまったく信じなかった藍子だが、今回ばかりは信じることにした。

 ムンクは、霊となって帰ってきたのだ。

 だが、帰ってきたのはムンクだけではなかった。

 会社一辺倒だった父は、時には早く帰ってくるようになり、母や藍子の話に真剣に耳を傾けるようになった。

 あの日、いつの間にか家からいなくなっていたあの優しい父も、ムンクの霊といっしょに家に帰ってきたのだ。

 亮太との結婚式で号泣する父の姿を見て、藍子はしみじみと思ったのだった。

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ムンクの帰還 和田一郎 @ichirowada

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