3.亮太
林田が出発から四時間ほど運転した後、亮太は交代してハンドルを握った。
こんなぴかぴかのハイブリッドの高級車の運転席に座るのは、生まれてはじめてのことであった。
緊張する亮太の隣の助手席で、林田はリラックスしているように見える。
―――― とにかく、気に入ってもらわなければ。
じつは亮太は藍子と結婚の約束をしている。だが、藍子の父の林田は、亮太との結婚に賛成ではないという。フリーのライターなどという、誰でも名乗ろうと思えば明日からでも名乗ることのできる肩書しか持っていないからだ。
でも、藍子を幸せにしたいと思う純粋で熱い気持ちがあれば、自分の夢を追いかけながらでも、彼女を幸せにできるはずだと信じている。
「パパみたいな会社一筋で家庭を顧みない人は嫌」
藍子もそう言っているではないか。
ただ、一部上場企業で取締役にまでなった林田を、どうやって説得したらよいものか、亮太には自信がない。
どこかに、心を通じさせる道はないものか、そんな思いで長時間ふたりきりになる長旅のお供を申し出たのだった。
しかし、とぎれとぎれになってしまう話の接穂をみつけるのはなかなか難しかった。
涼子や藍子とは違い、仕事で企業人の人生を見ている亮太には、林田が常務にならず子会社の社長に転出した意味を十分にわかっていたから、会社のことを話題にするには注意が必要だった。
助手席に座ってじっと前を見て黙っている林田に、亮太は直近におきた経済事件についてどう思うか、尋ねてみた。
「会計事務所とぐるになって、利益の計上をごまかしたんですよね。日本を代表する企業がそんなことやってるなんて、驚きです。しかも、歴代三代の社長はみな、それを知ってたっていうんでしょう。結局、日本の会社って、どこもそんなもんなんですかね。トップが社会正義に反することをやっても、誰ひとりとしてノーと言えないんでしょうか?」
「そうだな・・・トップにノーと言うには、刺し違える覚悟が必要だからな。刺し違えるところまで階段を登るには、そもそも、ノーと言わないことを信条にしないと、そこまで到達できないんじゃないかな」
「組織って、どこでも、そういうものなんでしょうか」
「ああ、たぶんな」
「林田さんの会社もそうですか?」
林田は亮太のその質問にはすぐには答えず、助手席の窓から山並みに目をやっていた。そして、窓の外に目をやったまま、言った。
「君も一度は会社に勤めてみたらどうだい? 会社がどんなところかよくわかるよ」
亮太は苦笑した。
「はあ、それも考えましたが・・・でも、もう、新卒チケットは使っちまいましたから、ろくな会社には入れそうにありません・・・会社で偉くなられた林田さんからすれば、勝ち残って、偉くなる人っていうのは、やっぱり能力ですか?」
返事はない。おそらく、頷いたんだろうと思い、亮太は続けた。
「ありきたりですけど、能力と運の両方が必要ってことでしょうか?」
林田はハンドルを握る亮太の横顔を見て、
「もちろんそうだが・・・どこまで行っても、最後に残るのはひとりだからな。最終的にはひとりを除いて、みんな負けるようにできている」
「はあ・・・社長になれなければ負けっていうならみんな負けですが・・・それじゃあ、ひとりを除いて誰も幸せにならないシステムってことになりますね。ほんとうにそういうところなんですか」
沈黙。
林田はヘッドレストに頭をもたせかけて、目をつぶったようであった。
ナビに従って車をすすめるうち、富士山の威容がだんだんと大きくなった。
河口湖畔のあるレストランが目的地に登録されており、その駐車場に車を停めると、待っていてくれと言葉を残して、林田は助手席を出てレストランに向かって歩いていった。
大きなレストランで裏にはバンガローや遊戯施設や専用の森が広がっている。ペット同伴可の看板の横には犬のイラストが描かれていた。
林田の後ろ姿がレストランの建物の中に消えて一〇分も経っただろうか。
林田が建物から出てきた。
右目あたりをハンカチでおさえている。
車の助手席に乗り込んできた林田のその顔は、誰かに殴られでもしたかのようにしか見えなかった。
「どうされたんです?」
「へんなところに棚の棚板が突き出ていてね、ぶつけちまった」
林田は力なくそう言って、笑った。
「血が出てますが、大丈夫ですか?」
「ああ、病院へ行って縫ってもらうほどじゃない。で、やっぱり駄目だった。引き取った家族の連絡先を、いまさら教えるわけにはいかないの一点張りだ」
亮太にはわけがわからなかった。ムンクをその家族に届けたのは、林田本人のはずである。
「おっしゃっていることがわかりません」
亮太は失礼と思いながらも、怪我の程度によっては病院へ連れて行かなければならないと思い、林田の右手をつかんで強引に顔から引き離した。右目周りの頬骨と額が青黒く腫れ上がっており、一センチかニセンチは切れて血が見る間に玉になった。
「ほんとに、どうされたんですか? 大丈夫ですか? 自分で何かにぶつけた傷じゃないですよね」
林田は亮太の手を引き離し血だらけになったハンカチを投げ捨てて、ティッシュボックスからティッシュを数枚引き抜いて額にあてた。
「その傷は誰かに殴られたんでしょう? 警察を呼びましょう」
亮太はスマホを取り出して、緊急通報を押そうとした。そのスマホを林田の掌が覆った。
「いいんだ。頼むからやめてくれ。早くここを出よう。わけはちゃんと話す」
亮太は駐車場から出し、しばらく走らせて別荘や保養所が森のなかにポツポツと立ち並ぶ道の路肩に車を停めた。
亮太が聞かされた話はこうであった。
三か月前、林田はムンクを連れて連絡のあった家族の元へ行ったが、事前に了解していたはずの若い夫婦はムンクの耳を実際に見て、引き取りを拒否した。次の引き取り手を探す時間の余裕はなかった。連れて帰れば、保健所行きだ。引き取り手がみつからない以上、約束を守りたければ、自分で保健所へ連れて行くのが大人の責任のとり方だとわかっていた。だが、林田にはどうしてもそれができなかった。保健所にも連れていけず、自宅にも連れて帰れない。どうしようもなくなって、ムンクと最後に一緒に食事をとったこの店に戻ってきて、ムンクのリードをあの手すりにくくりつけて、置き去りにした。ひょっとして、ムンクを飼ってくれる人がみつかるかもと思って。
林田はそのレストランのオーナーに殴られたのだ。
ムンクを置き去りにしたことを土下座して詫び、どこに行ったのか教えてくれと林田は頼んだ。
ごついガタイをもつ中年のオーナーは、ムンクは愛犬家に引き取られたが、それが誰か、いまさら教える気はさらさらないと怒った。
そして、すがりつく林田に拳をふるったということであった。
オーナーもきっと愛犬家なのだろう。だから、林田を許せず、つい手が出たに違いない。しかし、そこまで詫ている林田にとる態度にしては、オーナーも大人げないではないか。
亮太はオーナーに頭を下げて真実を告げた林田の行動に、別の一面、企業人として成功を収め、多くの人に見上げられることに慣れきった人と思っていた林田の、別の一面をみた。
林田は、自分の非を打ち明けて、詫びることもできるのだ。
亮太は明るい声で言った。
「教えてくれないなら、探してみましょうよ、ふたりで。ムンクは耳がない。耳がないラブって、めったにいないでしょう。同じ犬種の犬の飼い主ならある程度交流もあるだろうし、案外簡単にみつかるかもしれませんよ」
林田は黙りこくって、返事をしなかった。
目には涙が滲んでいるようであったが、亮太はもう顔をじっくりと見つめることはしなかった。そして、きっと、みつけてやろうと決心した。
林田は低く沈んだ声で言った。
「ムンクを置き去りにしたことは、妻や藍子には内緒にしてくれないか。引き取ってくれた家族が、ムンクを譲ってくれなかった、怒って、写真を撮ることも、会うことも許されなかった。そういうことにして欲しい」
妻と娘の前では、あくまで威厳のある夫、父でありたい、卑怯なやり方で逃げた情けない無責任男であるところは見せたくない、そんな思いなのだろう。
顔を腫らして打ちひしがれた様子の林田を見ていると、そうしてやるほかないと思えた。
「ええ、わかりました」
―――しかし、ほんとうに、それでいいのだろうか。
亮太の胸に渦巻く感情には、そのように同意しても、まだ消えてなくならない異物のようなものが残っていた。
その日と翌日、車中泊をはさんで、ふたりは犬の集まる場所、主に周囲のドッグランを回って、ムンクを見た人はいないか訊ねて回った。
とくに、ラブラドール・レトリバーの飼い主を見つけた時には、片耳のラブを見たことはないかとしつこく訊ね、みつかったら連絡してもらうように頼んだ。
林田は運転席にいることが多く、亮太にひっぱり回されているかのような、受け身な態度であった。
いかにも殴られた後の顔であったし、おそらく、オーナーに殴られことが、林田の気持ちを沈めているんだろう、亮太はそう考えて自ら積極的に行動した。
が、片耳のムンクはみつからなかった。手がかりもなかった。
帰りの車中、東名高速道路を西に走らせ、暗闇の名阪国道を家に着くというころ、ハンドルを握っていた亮太が、オーディオから流れていたストーンズの音量を落とした。
もう、時間がないあと一時間も走れば家に着いてしまう。心臓が高鳴り、口中が乾いている。意を決してついに言った。
「藍子さんと結婚したいんです。許していただけませんか」
林田は前を見たままである。横顔を伺うと、たしかに目は開いている。
やがて、林田がひとりごとのように言った。
「藍子には、なに不自由のない生活をさせてきた。できることなら、生活力のしっかりした、安定した男に嫁がせたい」
「僕も頑張ります」
「頑張るって、君。なにかの文学賞をとったとしても、ほとんどまともな定収入のないのが、作家だろう」
「たしかに、かつてはそうでしたが。今の時代は、ネットのおかげで色々な収入の道があります。僕はぜったいに、藍子さんを不幸せにはしません」
「俺も大昔、開高健みたいな作家になりたいと思ったことがあるよ。作家とか映画監督とか、若い人は誰でも夢にみるんだ。君も、一度、しっかりした会社に勤めてみたらどうだ?」
「はい、でも・・・」
有名企業に勤めて、林田のように取締役まであがったとしても、それがほんとうに自分にとっても素晴らしいことなのだろうか。しかも、亮太の目には、何十年も突っ走ったあと、最後の最後に子会社へ転出した林田が、一〇〇パセント自分の人生に満足しているようにも思えないのだった。
今の林田は暗い。
会社に入って取締役にまで昇進したところで、そこに幸せが待っているとは限らないんじゃないか、亮太にはそう思えてならない。
思い切って口に出して訊ねてみた。
「あの・・・いまの林田さんは、とても幸せなようにも見えないんですけど・・・」
林田は怒った顔を運転席の亮太に振り向けた。
だが、一言も発さず、頭をヘッドレストにあずけて目を閉じてしまった。
―――まずいことを言ってしまったか・・・
その時、亮太のスマホが震えた。
藍子からだろうか、それともムンクの情報を誰かがくれたのだろうか・・・
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