2.林田彰

林田彰の帰りはいつも遅い。出張でない限り、たいて帰ってくるのは午前様で、タクシーを飛ばして帰ってくることが多い。休みは休みで、やれ出張だ、接待ゴルフだと出かけていく。

 稼ぎは良いので、一戸建てに住み、車は最新型のクラウンで、娘の藍子は私学の大学に通い、妻の涼子は小さな書道教室を開いているが、ほぼ専業主婦で、世間一般から見れば、絵に書いたような優雅な生活である。

 大手の製造メーカーに勤めており、まだ五〇才を少し超えたところだが、すでに取締役になっていた。学生時代、運動もできず、口が立つわけでもなかった林田は、その劣等感をバネにひたすら会社で走り続けてきた。取締役にさえなれたら、この苛烈なレースも上がりに違いないと想像していたが、そのレースはいまだ終わらない。あろうことか、ここで気を緩めるとライバルに負け、ライバルの元に下って部下となる運命である。ライバルの間で熾烈な競争をしていることを知っている外野は、競争に負けたと思えば、全力で嘲笑し引きずり落としにかかる。とにかく、負けられないのである。

 だが、夫婦仲が良いとは言えなかった。涼子と週に二、三回は、深夜に派手な喧嘩をした。冷静な林田は手を上げないが、涼子はときどき手近にあるものを投げつけて大きな音を立てて、ベッドの足元に丸くなっているムンクや、二階で寝ている藍子を驚かせた。

 リッチな不自由のない生活をさせてやってるじゃないか。そのために、会社で死ぬほど頑張ってるんだ。家のいろんな問題で、俺の足を引っ張らないでくれ。いったい何が不満なんだ、と林田は思う。

 妻の望みをわかってはいる。自分を、娘の藍子を見て欲しい、ちゃんと話を聞いて欲しい、不満の核にあるのはそういうことに違いない。

 わかっているのだが、会社での戦いに神経を使い果たして、家にたどり着いたころには、家族の悩みを聞いたり、望みをかなえたりするリソースがもう残っていないのである。

 涼子はすでに離婚を口にしていた。

 林田は承諾していない。いまでも涼子を好きなのか、涼子を伴侶に残りの人生を生きたいのか、自分でもよくわからない。だが、離婚はいかにも世間体が悪い。人格的にも優れていると思われている自分が、妻の「運転」もできなかったのかと思われれば沽券に関わるではないか。


 中心にいたムンクがいなくなった林田家は、その日以来、ますますバラバラになった。

 林田の帰りはさらに遅くなり、夫婦の会話はほとんどなくなっていった。

 その時、林田は次期社長レースのまっただ中にいた。次期社長への確実なステップと思われている常務の椅子を目指して、死に物狂いで戦っていたのである。

 家庭を顧みないで、すべてを犠牲にして三〇年近く走ってきたのだ。今さら、このレースを負けで終わらせることなどできるはずもない。

 が、その時は突然やってきた。

 出世レースの決着がついたのである。

 林田はどの方向からみても将来性のない小さな子会社の社長に転出することになり、ライバル関係にあった取締役が常務に指名されたのだ。

 なにをそんなに落ち込むことがあるんだ、有名企業の取締役までなったんだからいいじゃないか、社外の友だちは林田に言った。

 だが、そんな慰めは話だの胸には届かない。理屈ではそのとおりでも、同僚や部下や取引先の微妙な態度や視線が、敗残者になった自分を鋭利な刃物で突き刺してくるような気がするのだ。

 林田は羅針盤を失った。


 ちょうどその頃、ムンクを手放してから三か月ほど経っていたある日のこと、お隣のミヨちゃんの家族が突然、引越していった。

 林田の一家は腹を立てた。引越することはわかっていたんじゃないのか。ほんとうは、ムンクをどこにもやらなくてよかったんじゃないか、と。

 涼子と藍子は、ムンクを返してもらえないか交渉しようと言い出した。

 林田は反対した。

 すでに、向こうの家族との生活が始まって三か月になる。すでに歳をとっているムンクが新しい家族の一員になって溶けこむには、それなりの苦労や忍耐が、家族とムンクの双方にあったはずである。今さら返してくれとはムシが良すぎると。

 しかし、喧嘩はしても最後は譲ることが常となっている涼子が、今度ばかりは引き下がらなかった。

 とにかく、事情を話して頼んでみて。あなたが行かないなら私が行く、と。


 渋々、ムンクを引き取った家族の元へ行くことを約束した林田に、同行を申し出たものがいる。

 藍子の彼氏の亮太である。

 一度、家族の夕食の場に招いて、藍子が紹介した亮太は、フリーのライターであった。専門分野はビジネスや社会問題全般であるという。雑誌やネット媒体から注文を受けて記事を書いているだけで、単著があるわけでもない、完全な駆け出しのライターであった。

 いったい、なぜ、このすこしぼんやりしたみかんのような男を、夕食に招いて俺に合わせたのかな、と林田は訝った。

 藍子が連れてきた男は二人目で、前の彼氏とは別れたと言っていたから、亮太と結婚すると決めたわけでもないらしい。

 亮太が帰った後に、藍子にどうと聞かれて、林田は答えている。

「フリーのライターって、無職のバイト生に近いんじゃないのか。結婚相手として考えてるなら、厳しいかもしれないぞ。堅気の会社に正社員として勤めるか、せめて、作家として将来の活躍の片鱗を見せてくれないと、両手を上げて賛成というわけにはいかないな」

 その亮太が、林田の車に同乗して、一緒に富士吉田までの半日にも及ぼうかというドライブに、控えの運転手として同行してくれるという。

 長距離の運転が心配だから、ちょうど仕事が開いている亮太を一緒に連れて行ってと、藍子は強引に亮太をおしつけた。

 ちょうど月曜日の振替休日を含む連休で、大渋滞に巻き込まれるかもしれないと恐れていた林田は、亮太の同乗を許すことにした。

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