ムンクの帰還
和田一郎
1.涼子
ムンクが隣のミヨちゃんの二の腕を噛んだのは、桜の花びらが降る頃だった。
ムンクは盲導犬になることでお馴染みの雌のラブラドールレトリバーで、なぜあの不気味な絵の画家の名前をつけられることになったかというと、娘の藍子が、単に語感がいいからと提案して、家族がそれを受け入れたからであった。その名前に反して、ムンクには、代表作に見られるような不気味なところはなく、すこしやんちゃで優しいな成犬に育った。
家にやってきてすでに六歳、かなり落ち着きをみせはじめたムンクを、涼子が春の陽気を存分に味あわせてやろうと庭に放していた。涼子が知らぬ間に、裏庭のゲートから隣に住む幼稚園の年少組のミヨちゃんが入ってきていた。ミヨちゃんはムンクに近づいて、噛んでいた豚耳にでも手を伸ばしたのだろう。ふだんは人に牙を剥いたりしないムンクだけど、よほどミヨちゃんがしつこく触ってきたのだろう、左の二の腕に噛みついた。火がついたように泣き出したミヨちゃんの声に、家に入っていた涼子が駆けつけたが、すでに反省している表情のムンクの横で、ミヨちゃんはだらだらと血と涙を流していた。
ミヨちゃんの腕は20針以上縫うことになった。
ミヨちゃんの母親と救急車に同乗して病院に行った涼子は、待合室から会社にいる夫の林田彰(あきら)に電話をかけた。
いつものように、夫は忙しそうだった。すぐに退社して駆けつける余裕はない。後で自分も一緒に詫びにいくから、それまでは君がしっかり対応してくれ、夫はそう言って電話を切った。
涼子は怒り心頭になりながらも、ひとりで病院にもつきそい、ミヨちゃんの父親が帰ってきたころを見計らって、改めてお詫びにも行った。だけど、仕事が忙しいからと言って、その日の夜も翌日も、詫びに来なかった夫に対して、ミヨちゃんの父は怒りを沸騰させてしまった。
ようやく日曜日の朝に、夫と菓子折りをもって正式にお詫びに行った時は、すでに決着がついていた。
ミヨちゃんがゲートを開けてうちの敷地に入ってきて、ムンクにちょっかいを出したのも、事故の原因のひとつである。だが、ミヨちゃんの父は、人を噛むような犬を庭で放し飼いする方が100パーセント悪い。危険な犬がそばにいては安心して住むことができないから、ムンクをどこか他のところへやるか、保健所で「処分」せよと頑強に主張した。
「裁判所」という言葉まで持ちだされて、仕事のことしか頭にない夫は、自分の大切な時間がこの面倒で大幅に削られのではないかと心配になったのだろう。
ろくに反論せず、二週間以内にという条件までつけた相手の言い分を、そのままで飲んだ。
隣を辞してから夫に猛然と抗議したが、夫の返答は、「仕方がない」であった。
夫は、ムンクが右耳を食いちぎられたあの時と同じである。
ムンクはとっても美人だと涼子は思っていた。
犬に興味のない人には笑われるに違いない。ラブラドールレトリバーにも様々な顔つきがあり、いかついものから、少し寸詰まりのような顔をした子もいるのだが、ムンクはたしかに雌らしい優しい顔つきをしていた。
性格も穏やかで、水が欲しいとか散歩に行きたいというような時でも、けっして吠えることはなく、ただじっと涼子や藍子を見上げて待っていた。相手が決める序列を常に受け入れて、尻尾を下げているようなところがあった。夫は自分のあるべき姿を投影したのか、こんな風に嘆いた。
「ムンクは逃げてばかりいるな、情けない」
まだ三才だったムンクは、珍しくでかけた家族旅行の間に預けた犬の宿泊施設で事故にあった。そこはドッグランに併設された施設で、林田一家は、経営者とは馴染みであった。そこでは宿泊で預かった犬は、昼間、ランに放して遊ばせてくれる。常連の利用者たちと経営者の関係は良好で、経営者は犬たちのランの中での行動の監視を常連の人たちに任せているようなところがあった。
石垣島のホテルに滞在中、経営者から連絡があった。犬同士の喧嘩で怪我をしたが、病院で必要な治療は済ませ命に別状はないということであった。翌日、家に帰ってきた時はすでに十時を過ぎていたが、経営者が待っているというドッグホテルに駆けつけた。
涼子たちに気づいたムンクが飛びついてきた。避妊術の時もつけた大きなエリザベスカラーをつけている。経営者が握るリードをピンと張り前足で宙を掻いたムンクの右の耳は、垂れた部分がなくなっていた。
傷を負ったとしか聞いていなかった涼子と藍子は激怒した。
はじめてやってきたハスキーがランの中に入れられた時、興奮していたのでオーナーがリードをつけたままをなだめようとしていた。ほかの犬に追いかけられて逃げていたムンクがハスキーにぶつかり、その時にハスキーがムンクに噛みついたのだと言う。
ランの中の犬同士が傷つけあわないように注意を払うのは経営者の仕事でしょう、常連に任せているようなやりかたに問題がある、と涼子は怒った。
が、夫は怒るふたりを引き止めた。
「仕方がない、ムンクの耳は返ってこない」
あの時と同じだった。
林田一家は、ムンクの引取先を探した。だが、すでにムンクは十才、人間で言えばおばあちゃんと言ってよいぐらいの歳で、片耳がない。
引き取ってくれる先はなかなかみつからなかった。
二週間以内にみつからなかったらどうするのかと、事務機器の会社に勤めている娘の藍子に尋ねられて、夫は答えた。
「保健所へ連れて行く、仕方がない」と。
結局、引き取り先を必死で探したのは涼子と藍子であった。夫は相変わらず、遅くまで働いて、ムンクのことは気にはかけている様子を見せてはいたが、実際はほったらかしであった。
約束をしてから十日も過ぎた頃、やっと、涼子の元に一件の里親希望の連絡が入ってきた。
それは遠く、富士吉田市の若い夫婦からの連絡であった。
ちょうど、二週間の期限の最終日、夫はムンクを後部座席に乗せて、富士吉田市の引き取り手の元へ出かけていった。
そもそも、涼子も藍子も、簡単にムンクを手放す決断をした彰に怒っていたし、別れが辛く、とてもムンクを引き渡しに行く気にはなれなかった。ひとりでは運転が大変だと怒りながら、夫はやむなくひとりで出かけて行った。
土曜の深夜に出かけ、月曜の朝方、夫はひとりで帰ってきた。
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