第5話「小さな神様と少女の置手紙」&エピローグ

 降り注ぐ眩しい光に私の意識は闇の底から引き出された。ゆっくりと目を開けて光に目を細めながらもまだぼやけた頭をどうにか回転させる。身体に走るのは冷たさを孕む朝の風、鋭さを帯びたそれに身震いすると同時に意識がだんだんとはっきりしてくる。

「あれ…?もしかして…私、ここで寝ちゃってた?」

 私は辺りを見渡してここが自身が普段眠っている部屋ではないことに気付く。ここは我が家のリビングでありその机に突っ伏して私は眠ってしまっていたようだ。

「あれ…?なんで私ここで寝ちゃってたんだっけ…ま、いっか…」

 机の上に置いてあるカレンダー付きの電子時計を確認、今日は12月15日、時刻は7時を過ぎたころだった。

「15日…?なんだ…じゃああれは、夢だったんだ…」

 お兄ちゃんに食べられたり世界中の人がいなくなったり、神様の使いって名乗るちっちゃい子が現れたり…それに、お兄ちゃんのことが好きだってわかったり…あれは全部一夜の夢だったらしい。夢の最後では私がお兄ちゃんのために犠牲になるシーンだったっけ。あの時胸に刺さったナイフの痛みがまだ胸に残っているみたいで夢の出来事だったというのにそこがズキリと痛んだ。

「はぁ…あれって、全部夢だったんだ…なんか残念かも…」

 私ははぁ、とため息を吐く。あんなにリアリティのある夢は初めてだ。そしてそこで起こった出来事もリアリティがあったというのに、それがすべて夢で終わってしまうなんて。私のこの思いも、きっと夢の出来事としてすぐにどこかに吹き飛んでしまうのだろうか…。私の、お兄ちゃんへの思い、改めて分かった、お兄ちゃんへの好きという気持ち。あれがすべて私が望んだ夢の話だったなんて、残酷だ。

 と、夢の中の出来事に思いをはせているとふと廊下に足音が響いた。きっとお兄ちゃんが起きてきたのだろう。けれど珍しいこともあるものだ。ほとんど毎日のように私が起こさないとお兄ちゃんは起きないのに、今日は雨でも降るのだろうか?首をかしげて不思議そうにしている私なんて知らないとでもいう風にお兄ちゃんはすたすたと歩いてきてリビングの扉を開けた。

「お兄ちゃんおはよう!」

 そこにいたお兄ちゃんはいつものように寝癖を作ってまだ眠そうにあくびを漏らしていた。私はそんなお兄ちゃんと顔を合わせてドキリとしてついぷいっと顔を逸らしてしまった。あの告白は夢の中の出来事ですべて私が望んだ妄想の出来事だ。それが分かっていたからこそお兄ちゃんと面と向かって顔を合わすことが恥ずかしかった。あの夢でお兄ちゃんのことが男の子として好きだってわかってしまったから、いつもより恥ずかしく感じたのだ。

 けれどお兄ちゃんはそんな私のことなんて眼中にないとでもいう風に背を向けてキッチンへといってしまった。お兄ちゃんの態度がいつもよりおかしい、私はいぶかしんでお兄ちゃんを見た。外見も何もかもいつもと同じ、なのにお兄ちゃんは私への態度を変えている。もしかしてこれはお兄ちゃんが私を困らせるためにしたイタズラなのだろうか、なんて馬鹿な考えが起こったが一瞬で頭から消え去った。たとえイタズラにしても無視するなんて質が悪すぎる。あの優しいお兄ちゃんに限ってそんなことするわけないのだ。それに無視という考えがありえないという証拠がもう一つある。

 お兄ちゃんの瞳には、本当に私は映っていなかったのだ。お兄ちゃんは私を意図的に見ようとしていないのではなくて、私のことを見て、見えていない態度を取っているのだ。しっかりと目が合うときがあるのに、お兄ちゃんの瞳には私の姿なんて一ミリも映っていないような、そんな態度だ。

「お兄ちゃん!私のことを見てよ!いつもみたいにおはようって言ってよ!」

 そんなお兄ちゃんの態度にイラついてつい大声をあげてしまった。けれどそんなこと耳に入っていないかのようにお兄ちゃんは黙々と朝食の準備をしている。

(え…?お兄ちゃんが、朝ご飯…?)

 ふつうお兄ちゃんが朝ご飯を作るなんてありえないのだ。なにせお兄ちゃんは家事が大の苦手なのだから。作れる料理は茹で卵ぐらいのお兄ちゃんが朝ご飯をまともに作るなんておかしいのだ。私はその違和感に背筋が凍るのを感じた。

「もしかしてあれって…夢じゃ、ない…?」

 ―特異点が死ねば時間は巻き戻る―

「それじゃあここは…巻き戻った世界…?」

 ―巻き戻った時間には特異点の存在は抹消されている―

「ここは…私がいない世界…私の存在が一切残ってない、世界…」

 私がいなかったから、お兄ちゃんは一人で家事を覚えたのだ。私みたいに家事ができる人がいなかったからしょうがなく覚えたんだ。それに、私はもうこの世界にいない存在だから、お兄ちゃんが見えていない、聞こえていないということにも合点がいく。

 けどどうして私は今ここに自我があるのか、そう疑問に思った瞬間まるで私の心を見透かしたようなタイミングで声がかかった。

「それはキミがこの世界にとってのエラーとなっているからだよ、雪乃」

「え…?」

 驚いて背後を振り返るといつからいたのだろうか、音もなく現れたカサンドラがいた。私と顔を合わせるとカサンドラはニコリと笑みをこぼした。きっと再開できたことを喜ぶ笑みなのだろうが私は笑えなかった。

「エラーって、どういうこと?」

 私は勢いよくカサンドラへ尋ねた。この問題の答えがいち早く知りたい、私が今どういう状況かをすぐに理解しておきたかったからだ。

「確かに時間が巻き戻った世界では特異点の存在が消える。けれどそれは完全な消失ではなく、エラーとすることで世界を生きるものに存在が消失したと錯覚させる」

「ど、どういうこと…?」

 またカサンドラが難しいことを言うのでちんぷんかんぷんだ。お兄ちゃんなら理解できたのだろうか、なんてぼんやりと浮かんだその思いをかき消す。今はお兄ちゃんに頼っちゃいけない、と自身の心に喝を入れる。

「巻き戻る前の世界でキミがやって来たことは今この世界を生きる人間にも残っている。なぜってそれは消せない記憶だからだ。もし一人の人間が生まれないとなれば今のこの世界には大打撃を受けることになる。それを防ぐためのエラーさ…って言ってもまだわかってないか」

 私の意味が分からないと言いたげなアホ面を察したのだろう、カサンドラは続ける。

「例えばキミが車に轢かれそうになっていたおばあさんを前の世界で救っていたとしよう。そのおばあさんはキミがいたことで轢かれて死ぬという運命を回避した。けれどもしこの世界にキミが生まれていなければそのおばあさんはどうなると思う?」

「私がそのおばあさんを助けたけど、今の世界に私は存在していないってことになるから…そのおばあさんは轢かれて死ぬ?」

 理論的に考えればそうだろう、私は答えたがカサンドラは大げさに胸元でバツ印を作った。

「いいや、答えはノーだ。そのおばあさんは死なない。キミが助けたんだからね」

「ん?でも私はこの世界にはいないから助けようがないんじゃ…」

「あぁ。だけどキミの存在の残りかすはこの世界には存在するんだ。キミの行動の証がね。この世界のおばあさんは車に轢かれそうになったところを助けられたけど誰に助けられたかは覚えていないことになる。ここでそのおばあさんが死んだらまたその人のおかげで助けられたかもしれない命がなくなる可能性もあるからね。そうすると世界は矛盾を起こして壊れてしまう。そんな矛盾を起こさないために、今キミはここにいるわけだ」

 そうすると今この世界には私の行動の記憶だけが残って存在の記憶は完全に消えているわけか。世界を均衡に動かすために私は今ここにいる…

「あれ?でもお兄ちゃんは?お兄ちゃんは家事が全然できなかったのに今はできるようになってて…もし行動の結果だけが残ったら私がお兄ちゃんの料理を作ったりしてあげた結果が残るからお兄ちゃんは家事ができないまんまじゃ…」

「ごく小さな矛盾なら世界はそれを許容する。夏樹が家事ができたからって世界に大きな影響は与えない、そう判断したから放置されてるんだろうね。ま、それが一週目の世界と二周目の世界との違いとなるわけだけれども」

 たとえお兄ちゃんがいくら家事スキルを身に着けようとそれで人助けするわけもないしましてや世界を狙うなんて馬鹿なマンガみたいなこともしないだろう。そういうわけでこの矛盾はスルーされたということか。

「で、キミは今生きているけれど死んだ状態になっている。今この世界に現界はしているが何者にも干渉できない。世界が必要と感じた時だけその存在が誰かに認知され干渉することができるわけだ。ま、誰もいなくなった世界を過ごしたせいでそんなこともできないけどね。そしてそれが続くのはキミが死んだ日、12月24日と25日の狭間だ。そこを過ぎればキミの存在は完全に消える」

「なるほどね…」

 カサンドラの話を聞いてもやはり背筋に感じた寒気は収まらなかった。今の私にはお兄ちゃんが見えるけどお兄ちゃんは見ることができない、そんな無慈悲な恐ろしさに震える。どうあがいても私はお兄ちゃんにもう二度と思いを伝えることもできないんだ。そう考えて落胆の気持ちを抑えきれなくなった。

 私は試しにお兄ちゃんの体に触れてみる。けれど私の手のひらはお兄ちゃんの体をすり抜けてあらぬ虚空を掻いただけだった。やっぱりカサンドラの言う通りどうあがいても干渉はできないのだろう。

「そういうわけでキミは25日になるまではこの世界にいることができる。その日までに存分に世界を堪能しておいで」

「堪能するって言っても何にも触れないんじゃできることなんてないよ…そうだ、カサンドラは、どうするの?」

「ボクは…キミと一緒にいるよ。ボクもあいにくすることがなくてね。観測者の任もこの世界では外されちゃったし、人間の世界を観光でもするよ」

「そっか。わかった…といっても観光スポットを案内するなんてことはできないけどさ」

「別に名所に連れて行ってほしいわけじゃないよ。人間観察程度に思ってくれていいから」

 そういうわけで私の10日のモラトリアム生活が始まった。誰にも見られることもない、誰にも声が届かないこの世界で過ごすのははっきり言って嫌だったけれど、お兄ちゃんを堂々と観察できるならそれはそれでよかったな、なんて思えた。

 そう、この期間を私はお兄ちゃんが幸せに過ごしてるかどうかだけを確かめるために使うのだ。私の願い、お兄ちゃんが幸せになってくれること、それを見届けるために。


 けれどその願いもすぐに叶った。まさか1日目で叶うなんて思いもしなかった。

 ここは学校の屋上、放課後の寒空の下で、お兄ちゃんが告白されていた。けどその告白もお兄ちゃんのもしかして告白かってセリフで台無しになっちゃったけど。

「お兄ちゃんってたまにああいうところあるの…おかしいよね」

「もしかして夏樹は鈍感なのかな?」

「う~ん…鈍感、って言ったらそうなのかもね」

 屋上で告白を受けていたお兄ちゃんは顔を真っ赤にしていた。まるでリンゴのように真っ赤に染まった顔を私は知っている。あの時私に告白してくれた時も、遊園地で私が告白した時も、お兄ちゃんはあんな風に真っ赤に顔を染めて恥ずかしがっていた。ふと思い出したお兄ちゃんのことがどこか遠い記憶のように感じられた。

 相手の露子って女の子も恥ずかしそうにしている。きっと私もあんな風に告白をしていたのだろう。改めて客観的にその様を見るとなかなかに恥ずかしさが沸き起こってくる。私のあんなに真っ赤な顔をお兄ちゃんに見られていたとなれば恥ずかしいという感情を通り越してしまう。

 ―俺は露子のことが好きだ―

「っ!」

 お兄ちゃんが自分の気持ちを口にした瞬間、私の心はドクン、と大きくはねた。それはまるで浮気現場を目撃したような、そんな焦りと不安と嫉妬がごちゃ混ぜになったものが私の中に一気に溢れこんできたせいだ。私はお兄ちゃんが幸せになってほしいと願いながらも、お兄ちゃんを幸せにする相手を憎み嫉妬した。お兄ちゃんの隣には私だけ、ほかの女の子なんて想像もできなかったのに、今目の前では幸せそうな笑顔をこぼして露子のことを好きといったお兄ちゃんがいた。もう私のことを好きと言ってくれるお兄ちゃんは、この世界にはいないのだ、そう思った瞬間悲しさがどっと沸き上がってくる。

 私はお兄ちゃんの幸せを祝ってあげなくちゃいけないのに、どうしてもそれができない。この自己のどうしようもない矛盾を抱えたまま不安な気持ちだけが私の心を支配する。

「あれ?どうしたの、カサンドラ?」

 ふと私は気づいた。隣にいるカサンドラが深刻そうな顔で二人のことを、いや、お兄ちゃんのことを見ているのだ。そして何か思案するような顔を浮かべている。カサンドラのこんな顔を見るのは初めてだ。私の不安はそんなカサンドラの態度の変化への興味に上塗りされた。

「大丈夫?なにか考え事?」

「うん、ちょっとね…」

 カサンドラはお兄ちゃんから目を離さずにそう答えた。この件はきっとお兄ちゃんが一つ噛んでいるはずだ。私もお兄ちゃんをじっと見つめて、そして気が付いた。

「お兄ちゃん…笑ってない…どこかつらそう…」

 見た目だけでは幸せそうに笑っているけれど、その笑顔もどこかつらそうに歪んでいた。ずっとお兄ちゃんを見てきた私にはわかる、お兄ちゃんが今心の中ですごく葛藤しているのが。世界が終わった時もたまに見せていたあの顔が、今お兄ちゃんの顔に浮かんでいた。露子はそんな微細なお兄ちゃんの変化に気付いていないようだ。

「もしかしたら…夏樹の記憶が全部消えていないのかもしれない…」

 突然言い放ったカサンドラの言葉に私はハッと息をのんだ。心臓がさっきとは別の感情でドクンと高鳴った。

「それってどういうこと!?」

「まぁおちついてよ」

「落ち着いてなんていられないよ!どういうことか早く教えて!」

 私はつい怒鳴ってしまっていた。カサンドラが驚きに肩を震わせる。そんな様子など構わずに私はカサンドラに食いついた。それほどまでに私はその事柄について知りたくてたまらなくなっていた。

「夏樹の強すぎる思いが、世界に反発しているんだ…きっと夏樹は世界が巻き戻る最後の瞬間キミのことを忘れたくないと強く願った。その強い意思が世界のリセットに抗った…その結果心の奥底でキミへの思いが渦巻いてふとした拍子に表に出てきてしまいそうになっている」

「それ、ほんとなの?どうしてそんなことが分かるの?」

「言っただろ?ボクは曲がりなりにも神様の使いだって。人の思いを読み取る事なんて朝飯前さ。まぁ、その思いの本質を理解することはできないけど…でもその人間が今何を考えて何を思っているのかはわかる。夏樹はずっと君のことを思い続けているんだ。世界に塗り消されたキミのことをね」

「お兄ちゃんが…」

 もしお兄ちゃんのあの寂しそうな顔が心の奥底に残った私のことが引き起こした結果なら、私がお兄ちゃんを苦しめていることになる。お兄ちゃんにそれだけ思われていて嬉しいと思う半面、やはり私は苦い表情を浮かべるしかなかった。

「まぁでもそれもキミの存在がなくなれば同時に消えるだろう。なにせその日以降キミの存在はもうこの世になかったことになる。キミへの思いも同時に消えるはずさ」

「そっか…」

 それに安堵する自分と寂しく思う自分、両極端の自分が今心の中でせめぎあっていた。私の心は死してなおぐちゃぐちゃに掻き乱されていた。

「お兄ちゃん…私、どうしたらいいのかな…?」

 そう尋ねたけどお兄ちゃんは何も返さない。ただ、どこか物足りない表情を浮かべて露子の抱擁を受けているだけだった。

 そうだ、お兄ちゃんもきっと苦悩しているのだ。私以上に、お兄ちゃんの心は掻き乱されているんだ。今のお兄ちゃんには全然わからない私のことで、心が乱れているのだ。幸せを、受け入れられないのだ。

「ねぇ…ほんとに25日になったらお兄ちゃんの私への思いも消えちゃうの?」

「ん?あ、あぁ、たぶんね。前例がないから確証はできないが理論的にはそうだよ」

「…そう…」

「どうしたんだい?寂しそうな顔をして?」

「ううん…なんでもない…」

 本当は何でもないはずがない。それはカサンドラだって見抜いているはずだ。けれどカサンドラはそれ以上何も言わなかった。ただ無言で、私の背中を撫でてくれるだけだった。そんな優しさに甘えて私はお兄ちゃんたちが屋上から立ち退くまでずっとそこに立ち尽くしていた。


 私の中で生まれたお兄ちゃんへの気持ちは収まることを知らず、日に日に増していった。今ではこの消滅の運命さえ拒否している自分がいる。たとえ見えなかったとしてもお兄ちゃんとお別れしたくない、もっともっとお兄ちゃんといたいと思うわがままな自分だ。けれどそれと同時にどうしようもなく諦めないといけないんだと思う冷めた自分がいた。冷めた自分はふとした瞬間に出てきて現実の残酷さを私に教えてまた胸の奥へと帰っていく。心が高ぶったり収まったり、めちゃくちゃな心の乱れにおかしくなりそうだ。

「お兄ちゃん…」

 消滅の日を目前に控えた12月23日の夜、私は眠っているお兄ちゃんのところへ訪れていた。あの日以来お兄ちゃんも心がぐちゃぐちゃに乱れているようで相当に疲弊していたが寝顔だけは心地よく安らかなものだった。

「ふふ、お兄ちゃんってば可愛い寝顔…あれ?これって…」

 お兄ちゃんの寝顔を観察していた私だが、ふとお兄ちゃんの机の上に目が行ってそこに釘付けとなってしまった。お兄ちゃんの机の上にある、この世界にあるはずもないものに私の視線は奪われてしまった。

「なんで…これがここにあるの?」

 それはストラップだった。青いしずく型のストラップ、私があの世界で最後にお兄ちゃんにプレゼントしたものだ。

「ねぇ、カサンドラ。これってどういうことか、わかる?」

 何もない空間がぐにゃりとまるで陽炎を思わせる風に歪みそこからカサンドラが姿を現した。カサンドラの瞬間移動だ。カサンドラはじっとしずく型のストラップを覗いて首をかしげる。

「これはなんだい?どういうことかわかるといわれても…ボクにはこれがどういう品かさっぱりなんだよ。キミたちの縁のものなのかな?」

「あ、そうだね、ごめんね。えっと、これは私があの世界でお兄ちゃんにプレゼントしたもので…えっと確かポケットに…あった!これをこうするとね…ほら、かわいいでしょ?」

 自分が所持していたものは触れるので、私はポケットの中にあった色違いのストラップを取り出してそれに重ねた。するとそれはハートの形を浮かべる。

「へぇ…なかなか面白いね。で、キミが知りたいのはなんでこれを夏樹が持っていたかだね」

「うん…」

「確かにあっちの世界でのプレゼントはこの世界では消えているはずだ…けどあの時夏樹が思ったキミを忘れたくないという強い思い、そしてキミが夏樹を好きだっていう強い思いがこのストラップに宿ったとしたら…こうして今この世界にあることも不思議じゃない」

 さらにカサンドラは続ける。

「もしかしたら…これを媒介にすればキミは姿を取り戻せるかもしれない」

「え!?」

 私は思わず大声をあげて、しまったと口をふさいだが、私の声はもう誰にも届いてないのだ、とっさのこの行動に頬が熱くなる。

「このストラップはこの世界で唯一キミの存在を証明する品だ。このストラップにはキミの思いがたっぷりと詰まっている。ボクにはわかるんだ、モノにこもった思いも読み取れるからね。で、このストラップに込められているのは今この世に存在してはいけないものだ」

 カサンドラはさらに興奮気味に続けた。

「もし夏樹がキミのことを思い出せば、ここに秘められた思いと記憶が結びつき気味の存在をエラーとしてじゃなく現実にすることができるはずだよ…って言っても難しいかな?」

 私はこくりとうなずいてカサンドラの説明を促した。

「今この世界にはキミの思いのかけらであるこのストラップが存在するがそれだけじゃキミの存在を証明することができない。誰かの、いや、夏樹の記憶にキミのことが思い出された瞬間世界はキミの存在を証明したとして存在を固定することができるんだ。それには夏樹のキミに帰ってきてほしいという思いも必要だけれど…それはきっと大丈夫だろう」

「じゃあ私…またお兄ちゃんに会えるの?」

 カサンドラはこくりとうなずいたがその顔は深刻そうに歪んでいた。

「けれど世界がそう簡単に夏樹の記憶を戻すわけがない…理論的には可能というだけで、これはきっと不可能な方法なんだ…」

 そう言ったカサンドラだけれど私は同様に深刻にはなれなかった。むしろ少しでもいい、希望が湧いてきたことに歓喜すら覚えた。

「でも私はあきらめないよ。お兄ちゃんを信じてる…お兄ちゃんなら絶対に思い出してくれるって、信じてるから…」

「そうか…キミは、強いんだね…」

「ううん、強くなんてないよ。ほんとはもしかしたらって思ってびくびくしてる…けど、私は大好きなお兄ちゃんを信じることにしたの。この先思い出しても思い出してくれなくてもそれはお兄ちゃんが選んだこと…なら私はお兄ちゃんを信じて、任せることにしたの…」

 私はお兄ちゃんにすべてを委ねる。勝手に委ねてしまうのはどうかと思うが、それでもお兄ちゃんに任せるしか方法は残っていなかった。もし消えるならばそれはお兄ちゃんが選んだこと、ならば受け入れるしかないじゃないか。

「それも愛の心があってこそ、なのかな?」

「そう、かもしれない…私のお兄ちゃんが好きって心がそうさせてるのかも…」

「そうか…人間って、すごいな…好きって心だけでそうも決心できるなんて…」

 カサンドラは一瞬考え込むようなそぶりを見せた後意味深にニヤリと笑った。その笑みは何か吹っ切れたような、そんな感じだ。

「わかった。ボクも決めるよ。もう、傍観者なんてこりごりだ。それにキミも記憶が戻るまで何もしないで待ってるってのはもどかしいだろ?」

 そういうとカサンドラはおもむろにお兄ちゃんのストラップを手に取りそれをお兄ちゃんのコートのポケットにしまい込んだ。そして私の方を振り返って言った。

「だから君に、ボクの最後の魔法をかけてあげる…夏樹の記憶を戻す手助けができる最後の魔法を…」

「最後の、魔法?」

「そう、ボクは君に魔法をかけることによって人間に干渉してはいけないという決まりを破る。禁忌を破ったボクは永遠の命も、この力も奪われるからね。正真正銘最後の魔法さ」

「そ、そんな…カサンドラが私のためにそこまでしてくれなくても…」

「ううん…キミのためだからこそ、ボクはこうまでして動きたいんだ。ほんとキミたち兄妹は面白いよ。神様をこんなにも魅了してしまうんだからね」

 カサンドラはやれやれという風に首を振るがその顔は嬉しそうな笑みでいっぱいだった。

「さて、ボクは今からキミを物理干渉できる体にする。つまりエラーを少し緩和するのさ」

「エラーの緩和?それじゃあ物を触れるってことでいいんだよね?」

 字面的にはそういう意味合いになると頭が把握してカサンドラに尋ねる。こくりとうなずいたカサンドラはさらに続ける。

「あぁ、そう考えてもらって構わない。けれど触れるのは物だけ、人間は触ることができない。そして誰かの視線があると物が触れない。これは人間にエラーを感知させる恐れがあるからね。そこまでボクの魔法は便利じゃないのさ」

「ううん、それだけでも十分だよ…で、私は物を触れるようになってどうやってお兄ちゃんの記憶を戻す手助けをするの?」

「例えば手紙を書いたりしたらどうかな?手紙なら思いが伝わりやすいって昔っから人間界じゃもっぱらの噂だよ」

「手紙、か…」

 そういえば手紙なんてお兄ちゃん宛てじゃなくても書いたことなんてほとんどない。小学校くらいの時に国語の授業で両親に手紙を送りましょうってのがあったけどその時の私はへたくそな文章を書いてたな、なんて思いだす。そのへたくそな文章でも両親はとても嬉しそうにしてくれていたな、なんてことも脳裏に思い出された。あの時の嬉しそうな顔は両親の記憶が薄れていく今でもはっきりと焼き付いて離れない。

「わかった…手紙、書いてみる」

 私が覚悟を決めた時カサンドラはこちらを向いて力強い視線を向けてきた。こちらが怯んでしまいそうな瞳に息をのむ。

「それじゃあ雪乃、ボクとはここでお別れだ。今からキミに魔法をかけるけれど、それが終わるときっとボクは神様に呼び出されてこの世界からいなくなる。あとはキミ一人で頑張ってくれよ」

「…分かった」

「ボクに人間の愛のあがきを見せてくれよ?それじゃ、健闘を祈ってるからね」

 パチン、とカサンドラが指を鳴らした。その瞬間カサンドラの姿は一瞬にして消えてしまった。私に魔法をかけたというが何か体に変わったことはない。半信半疑だったが試しに机の上のペンを握ってみる。

「あ、握れた…」

 私の指は確かにペンを握っていた。これはつまりカサンドラの魔法が成功したことを意味していた。

「ありがとう、カサンドラ…あなたの最後の魔法…きっと無駄にはしないから!」

 私は誰もいない空間に向かってそう宣言した。カサンドラが聞いてくれているかどうかもわからないが、お礼を言いたくて仕方なかった。私のことを気にかけてくれた小さな神様に、私はもう一度ありがとう、とつぶやいた。


 次の日の朝になってもまだ私は文面を考えることができなかった。書いては消して、また書いて、その繰り返しを続けたがやっぱりうまくお兄ちゃんへの気持ちを文章にすることはできなかった。どこか稚拙な文字の羅列になってわかりづらい気がする。

「う~ん…手紙って難しいなぁ…」

 そんなこんなで文章が定まらないまま唸っているとお兄ちゃんが起きてきた。しかも珍しく少しおめかししている。今日は24日、世間でいうクリスマスイブだ、お兄ちゃんもきっと今日この日はクリスマスデートをするつもりなのだろう。私のその予想通りお兄ちゃんは外出してしまった。けれど私は見逃さなかった。お兄ちゃんの顔が辛そうに歪んでいることを。きっと今も思い出しかけている私のことで苦しんでいるのだろう。

「お兄ちゃん、ごめんね…つらいのも、もうすぐ終わるから…」

 暗く沈みそうになった気分を振り払うように頭を振った。今は暗くなっている時ではない。一時も早く手紙を完成させてお兄ちゃんに気持ちを伝えなくてはいけないのだ。

 そう意気込んでみたもののやはり手紙はうまく書けずに残りのリミットは半日を切った。朝から降っていた雪はやみ曇り雲だけが空に浮かぶ太陽を覆った。私は両親の部屋で今もうんうんと唸っている。自分の部屋で書こうと思ったのだがあいにく物置状態と化していたため断念してこの部屋を選んだのだ。ここなら静かで書くにはうってつけの空間だ。

「う~ん…これでいいかな…?それとも、まだ足りないかな?」

 ぶつぶつとそんなことを呟きながら試行錯誤する私の視界が一瞬歪んだ。何事かと思い顔をあげると景色自体がぐにゃりと歪んでいたのだ。世界の何もかもがぐにゃぐにゃになっていく。吐きそうなほどのその歪みに顔をしかめる。

「何…これ…?」

 世界の変化は何も視界だけではなかった。私の鼻に、何か歪なにおいがついた。生臭いとも何か違う形容しがたいにおいにさらに顔をしかめる。

(私は…このにおいを知っている…これは…私のにおいだ…私の血の、肉の、匂い…)

 それはあの世界で毎夜となく嗅いだあの匂い。お兄ちゃんと私の愛の情事によって漂うあの匂いが今、蘇ってきたのだ。

「嘘…」

 世界の歪みが収まると私は口を驚きで半開きにするしかできなかった。何しろ壁にも床にもベッドにも真っ赤な血がべったりとはりついていたのだから。

「これって…あの時の部屋と同じ…」

 染みこんでしまって取れなくなった私の血、匂いが、今、この場によみがえっているのだ。どうしてなのか、それはカサンドラがいないから詳しいことはわからないがだけど仮説を立てることはできる。

「お兄ちゃんの記憶が…戻りかけてる?」

 カサンドラは言っていた、エラーを現実にすると。今この部屋に広がったあの日はお兄ちゃんの記憶が、私との思いを引き戻した、そう考えるのが妥当ではないか。それはきっと希望的観測にすぎないけれど、それでも私には確信に近い何かを感じることができた。

 胸にお兄ちゃんへの気持ちがまた溢れてきたのだ。温かな気持ちがどんどんと溢れて止まらない。それはきっとお兄ちゃんが私を思ってくれているから。

「お兄ちゃん…」

 私はポツリ呟いて手紙を書く作業に戻った。どんなに稚拙でもいい、あの日両親が喜んでくれたようにきっとこの手紙もお兄ちゃんを喜ばせることができる、お兄ちゃんに思いを伝えることができる。背伸びしていい文章を書こうとしなくてもいいのだ。今この温かな気持ちを筆に乗せて綴るのだ、等身大のお兄ちゃんへの思いを。お兄ちゃんが与えてくれたこの温かな気持ちでそう気付けた。何も飾らなくてもお兄ちゃんは私のことを理解して好きといってくれる、と。


「雪乃…!」

 手紙がちょうど書き終えたころすごい勢いで家の扉が開きどたどたと入ってくる人がいた、お兄ちゃんだ。お兄ちゃんは帰ってくるなり私の名を叫んだ。久しく呼ばれていなかった名前に私の胸はやっぱりじんと暖かくなる。お兄ちゃんに名前を呼んでもらえるだけでこんなにも心が温かくなり安らぐんだ、ということを初めて知った。ただ名前を呼ぶ行為がどれだけ私を支えているのか、わかった気がした。

「雪乃…!」

「お兄ちゃん…!」

 私はお兄ちゃんの呼び声に応えるように叫ぶ。けれどお兄ちゃんは気づかない、いや、気づけないのだ。私のことが見えないから、お兄ちゃんはどうすることもできないでいるのだ。

 お兄ちゃんは一通り家の中を駆け回ったが私の存在を見つけられずに息を切らして焦ったような顔を見せる。私はここにいるのに、見つけてもらえないのが苦しい。

「お兄ちゃん…私は、ここにいるよ…」

 私はドアによりかかった。その瞬間ききぃとドアが軋みお兄ちゃんがその音に気付いた。

「雪乃…?そこに、いるのか…?」

 お兄ちゃんはたどたどしい足取りで、けれど一歩一歩確実に血濡れの部屋へと近づいてくる。その顔から伝わってくる緊張がお兄ちゃんの鼓動の速さを私に感じさせることができた。お兄ちゃんが緊張した手つきで扉を開けて、息をのんだ。まるでさっきの私みたいな反応をするな、なんて心の中でクスリと笑った。

 お兄ちゃんはくるりと辺りを見渡したが私がいないと分かると膝をついてしまう。この様子なら手紙なんて眼中にもないのだろう。

「くそ…雪乃…どこに、いるんだよ…?早く、出てきてくれよ…」

「私はここだよ…気づいて…」

 私は少し窓を開けた。そこから爽やかな夕方の風が吹き込んだ。その一陣の風はベッドに置いていたお兄ちゃんへの手紙をポトリと落とすには十分だった。

「お兄ちゃん、それが私の思いだよ。ちゃんと受け取ってね…それで、もしお兄ちゃんがよかったら、私、待ってるから…あの場所で、奇跡が起こるのを待っているから…」

 お兄ちゃんが手紙を読み始めたのを確認して私は部屋を後にした。あとはお兄ちゃんを信じるだけだ、私はお兄ちゃんとの約束の場所へ足を向けた。空にはもう夜の帳が下りてその真っ黒なカンバスに輝くのは星ではなく再び降り始めた雪だった。今夜の空の主役はどうやら白く降り注ぐ雪に奪われてしまったようだ。

「今年は、ホワイトクリスマスだね…」

 ぽつり、誰にも聞かれない声で私は呟いた。世界はホワイトクリスマスに賑わっているが私の心だけはまるで人々が祈りをささげる教会のように静寂で澄み渡っていた。


「お兄ちゃん…来てくれるかな…」

 空には本格的な雪が舞い落ち街にもクリスマスムードの人が家路を急いでいる。ただカップルたちは皆ツリーの下に集まり聖夜の思い出に浸っている。そんなカップルたちを見ているともしもお兄ちゃんとそちら側に立てていたら、なんて思う。どうして私たちなんだろう、なんて今更の不平が私を襲った。世界で一番罪深い愛がどうたらとかいって私たちを選んだのに後に残るのは悲恋しかないというのはどうにも分が悪いのではないだろうか?まるで宝くじの一等を当てたけど持ち帰る最中になくしてしまった、みたいななんとも残念で想像しがたいほどの悲しみだ。

「でも…このおかげでお兄ちゃんと両想いになれてたんだよね…」

 もしも世界が終わっていなかったらお兄ちゃんが私を食べたいということもなかったし、告白もすることはなかった、それに私がお兄ちゃんへの気持ちに気付くこともなかったかもしれない。たぶんきっとお兄ちゃんもそう思っているのだろうな、なんてぼぉっと想像しながら私は愛しい人の到着を待つ。

「今年のサンタさんは…大遅刻だね」

 なんてぼやいたとき、私の視界はある人を捉えた。それは見間違えることもない、私の大好きなお兄ちゃんだ。息を切らしてお兄ちゃんはツリーの下へやってきた。真冬の、しかも夜だというのにお兄ちゃんの額には汗が浮かんでいる。どれだけ全力疾走したかがそこからうかがえた。

「お兄ちゃん…ありがとう…」

 私はこらえきれずに涙を流した。こんなにも必死になるほどにお兄ちゃんは私に会いたいと思ってくれていた。私のことを愛してくれていた。その事実に涙が止まらなかった。涙で視界が揺らぐ。もう死んでいるというのに心臓が嫌に高鳴り破裂してしまいそうだ。

「雪乃は…?」

 感極まった私をよそにお兄ちゃんはくるりと辺りを見渡した。けれど私が見えないと分かったのかはぁとため息をついた。そしてその手をポケットに入れる。

「なんでこれは見えるのに…雪乃は見えないんだよ…」

 お兄ちゃんの手にはあの世界で私がプレゼントした手袋が握られていた。あの部屋もよみがえっていたのだ、この手袋もお兄ちゃんが持っていても不思議ではない。それよりも私はハッと気づいたことがあった。

「泣いてる暇、ないじゃん…」

 あまりの嬉しさに思わず泣いてしまって本来の目的を忘れかけてしまった。お兄ちゃんの肩を叩くのだ。あの手紙で約束したんだ、再開の合図に肩を叩くって。

 けれどこれは実行できないこと。カサンドラの魔法では人間には触れないのだ。

「ううん…触れる…私はもう一度お兄ちゃんに会いたい…お兄ちゃんに好きって言いたい…だからお願い…神様…お兄ちゃんに、合わせて…」

 ありったけの願いを込めて私はお兄ちゃんの肩をそっと叩いた。

 ―ぽんぽん―

 触れた。確かに私の手が実態をもってお兄ちゃんに触れることができた。

(嘘…それじゃ私…)

 その瞬間世界が色を変えた。今まではテレビ画面のように遠くから見ていた景色が、ふと近くに、リアルに感じることができた。それは私の存在が元に戻った証だ。今私は、この世界に存在する。お兄ちゃんと同じ世界で、生きることができる…。

 そう思うと涙が止まらない。

「雪乃!?」

 お兄ちゃんが勢いよく振り返った。私はとっさにその背後に回った。お兄ちゃんに今の泣き顔を見られたくなかったからだ。再開は笑顔で果たしたい、私はそう決めていたのだ。けれどどれだけたっても嬉し涙は止まらない。きっと今の私の顔はぐちゃぐちゃに汚れているのだろう。こんな顔、お兄ちゃんには見せられないよ。

「頼む雪乃…俺、もう一回雪乃のことが見たいんだ…もう一回、雪乃のこと、好きって言いたいんだ…」

 けれどお兄ちゃんはそんな私のことなど知らずに虚空に告白をし始めた。まだ私が見えない存在だと思っているのだろう。あまりにも恥ずかしくてけれどこれ以上なく嬉しい行為に、私の顔に自然と笑みが浮かんだ。

(やっぱりお兄ちゃんは、私のことをこれだけ強く思ってくれてるんだ…!私もお兄ちゃんが好きって言いたい!大好きって言って…キスが、したいよ…)

「どうしてだよ…雪乃…」

 がくりとお兄ちゃんがうなだれた瞬間を狙って私はお兄ちゃんに目隠しした。

「だ~れだ?」

 もう一度お兄ちゃんに触って確信した。私は今ここに生きている。お兄ちゃんとともに生きていける、と。

「水瀬、雪乃…俺の、妹で、彼女だ」

(お兄ちゃんってば…嬉しいこと言ってくれちゃって…わざとだとしても…やっぱり嬉しいのが止まらないよ…)

「正解!」

 振り返ったお兄ちゃんの瞳には、私のことがしっかりと映っていた。久しぶりのお兄ちゃんとの再会にやっぱり涙が出てきそうになるが必死に抑える。そのせいか少し意地悪っぽい笑顔が浮かんでしまっていた。

「雪乃…お前…」

「えへへ…帰って、来ちゃった」

「おせぇよ…バカ…お帰り、雪乃…」

「うん、ただいま、お兄ちゃん!」

 私たちはたまらずにどちらからともなくキスをした。幸せな思いが私の中をぐるぐると回って脳みそまで幸せで蕩けてしまいそうだ。まるで幸せの摂り過ぎでアレルギーを起こしてしまうくらいに、私の体にはお兄ちゃんとの愛の幸せが入り込んできた。

「雪乃…愛してるよ…」

「お兄ちゃん、私も、愛してる…大好き!」

 世界が嫉妬するほどに幸せなキスを交わしたのち、私はお兄ちゃんに思いのたけをすべてぶつけた。大好きという言葉だけで私の気持ちは真っ赤になったお兄ちゃんには十分に届いたはずだった。今までの互いの届けられなかった愛が今、心にちゃんと届いた。

今日この日、私は死に、私は生き返った、お兄ちゃんの愛によって。空には私たちを祝福するかのように星たちが再び顔を見せていた。私たちのことをずっと観察していた月もまるでマンガのようなハッピーエンドに安堵しにっこりと笑みを浮かべていた。これが私の物語の一つの終着点であり出発点だ。私とお兄ちゃんと小さな神様の新しい物語のスタート地点、まだまだ私たちの世界は始まったばかりだ―



―エピローグ―



 これがボクが観測した最後の人間の物語だ、楽しんでもらえたかな?うん、キミたちが楽しんでくれたのならボクも何よりだ、観測者のしがいがあるってものさ。

 唐突だが結論だけ述べよう。この兄妹は死ぬ。いくら幸せだとは言え人間に死はつきものだからね、それがたとえ世界の構造を塗り替えたような愛を交わした人間だからといって例外ではない。彼らの死はいつか訪れる世界崩壊による消失か、それとも事故か病気か、はたまた老衰か―世界の監視ができなくなったボクにはもう彼らの未来を見ることはできないからわからないけれども。

え?結論というからもう彼らが死んだと思った?

 とんでもない!彼らはまだ生きているし毎日幸せに愛し合って生きてるよ。ほんと毎日どれだけ好きだって言えば気が済むんだっていうくらいのバカップルっぷりでイチャイチャしてますが何か?

 ま、そうだな。ボクが言いたかった結論はいつか彼らは死にゆきその思いはなくなってしまうけれども、きっと生きている限りは二人寄り添って幸せに過ごすんじゃないかなということ。これだけ愛し合った人間だ、きっと自分たちの最後の時までもその愛を抱きながら死ぬんだろう。自らの最後にパートナーのことを愛してる、と言ってね。

 あぁ、これはボクの想像だからあまりあてにしないでくれよ?けれど、そうなったら幸せだ、なんて思わないかい?あんな悲劇の後にはおつりがくるくらいの幸せがやってこなければおかしいはずだからね。きっと彼らも幸せなエンディングを迎えるさ。

 あぁ、そうだ、忘れてたよ。もうすぐ彼らの結婚式があるんだが、キミたちも来ないかい?あまりにも甘すぎる二人だから途中で胸焼けしてしまうかもしれないけれど、案外それも悪くないなって思えるさ。それにさ、キミたちも彼らの幸せを分けてもらえばいい。ボクはみんなに幸せになってもらいたい、そう願っているからね。人間の思いを知ってそう思ったんだ。やっぱり人っていうのは面白いね、いろいろな感情があって損得の計算をして感情を偽ったり隠したり…けれどそのどれもが幸せになるために見せている感情なのだから面白いったらありゃしないよ。人間だれしもが望む幸せを少しでもあなたにも届くよう、願っているよ―

 あれ?どうしたの?不満そうな顔を浮かべて?…え?何いい感じで締めようとしているのかって?あぁ、ごめん、キミたちは次の特異点の話を知りたがっているんだよね、ごめんごめん、忘れるところだったよ。…といってもボクにはもう人を観察する力はないと言っただろう?次の特異点の観測はまた別の誰かが別の物語で描いてくれるさ。もしよければキミが特異点の記録を書いてくれたっていい。なにせキミも、キミの愛した人も特異点の可能性があるのだからね。

 ふふ、まぁおしゃべりはこれくらいにして、ボクはまだ彼らを観察し続けるつもりだ。機会があればまたどこかで会えることを楽しみにしているよ。世界が終わっていなければ、ね―


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ボクは罪の十字架を背負った終焉を観測する 木根間鉄男 @light4365

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