ソリプシスト・ダイヴ


     1


 眼下にはテクストの渦流。規模が大きいので静止した模様に見えるが、実際は刻々と姿を変えている。難読箇所を何度も読み返すことで行が時間軸を逸脱して逆巻き、渦列を成している。文自体の再帰構造のせいでより小さな渦に分岐し、読解不能領域では大斑紋をなす。

 階層間を隔てる物語構造体隔壁の下端に懸架された心もとない足場から見下ろしながら、暮継イガノが言った。

「我々が3000階層上から検知していた、1.8×10^30文字の文章量の正体はこれね」

「地球の文字数の318倍、予想通り木星がモチーフですね」七本の節足を持った小型の移動機械が言った。

「文末方向へ成長する物語構造体がついに木星を飲み込んで、都市の材料にしようとしている」

「物語構造体とは、かくも便利な概念なのですね。メタフィクションの比喩として」

「ええ。メタフィクションは大抵、読者か作者という特異点に言及し、必然的に成長を止めてしまう。迂闊に〈第四の壁〉を超えて無数の読者に語りかけることで発散したり、作者の自分語りに収束したりすることで。でもこの物語は〈第四の壁〉そのものを内外の骨格として自己を内側に閉じ込め、メタフィクショナルマテリアルのみを建材として恒星系規模の都市構造体を建設した」

「定義上破壊できない壁を使って、宇宙物理工学的白昼夢を実現するために」

「ところで、木星表面の放射線に耐えられる装備が必要なのだけれど」

「調達しましょう」

 ニイルはそう言うと、物語構造体と同化した後、楕円体を非相称に押しつぶしたような形の、およそ400メートルの物体として再出現した。それは〝The Shell〟あるいは〝ばかうけ〟と呼ばれる宇宙船だった。開口部からイガノが乗り込むと、外殻が滑らかに空隙をふさいだ。

「降下します。いいですね?」

「ええ。兄はあの天体のどこかにいる」

 船は眩暈を起こすマーブリングアートに向けて落下していった。



     2


「語り手がいませんね」

「ええ。構造体付近では非知性ソフトウェアである客観タイプの語り手の支援が得られたけれど、ここでは磁場と雲に遮られてその声も届かない」

「キャラ視点での見解も語らないから、物足りない語りではあったけれど、無いよりはマシだった」

「これではどちらが喋っているかわかりません。交互に喋るという約定を守らなければ」

「私達はこの事態を見越して最初から、一人称の種類や口調を差別化してきた。いきなり別の人が会話に紛れているかもしれないという疑念は捨てて。ここは惑星ソラリスではない」

「ポリテリウム型、メタモルファ綱、シンチタリウム目」

「ヴァンピュロトイティス・インフェルナリス」

「地獄のヴァンパイアイカ?」

「アオイガイ科」

「Argonaut」

「アルゴー船」

「Papierboot」

「紙の舟」

「埒が明かないな」

「仕方ない、私が語り手をやる」

 わたしは左右の操縦桿を握った。

「一人称で?危険です」

 ニイルの心配をよそに、スロットルを開放していく。

「思考を捏造される恐れが」

「自由直接話法を身代わり防壁に」

 自由直接話法とは、三人称視点の語りが突然キャラクターの思考を一人称で実況しだすような語りの形式。ここではセキュリティのためにデフォルト人称を三人称とし、そこに一時的にわたしという一人称が挿入された状態だということにする。危険な場合は自由間接話法にシフトし、段階的に三人称視点に退避する。


 わたしはレーダーの表示を見て言った。

「右舷に不審な影が複数ある。私達に追従している気がする」

 ニイルが影の方向を詳細に走査した。「人型です」

「主人公だわ。それも大群」わたしは自分が言ったことの不気味さに身震いした。

「主人公?この物語の主人公はずっとこいつらだったんですか?」ニイルが狼狽する。

「少なくともこの階層の語り手は、彼らのためにどこかの読者に対して語っている。私達を無視するのは当然」

 夥しい数の主人公達は船の外殻に取りついてきて、この環境では乏しい資源であろう物語構造体を捕食し始めた。

「重要なのは物語上の役割じゃない。こいつらは骨格と細胞膜に〈第四の壁〉を使っているから、破壊できない。つまり主人公補正を受けている。それが問題なの」

「主人公が死なないのは体細胞がすべて虚実皮膜で構成されているからなんですね」

「破壊できない以上、振り切るしかない」

「彼らとて速度は有限でしょうからね」

 ニイルは自身の身体の一部である船殻を主人公ごと剥離しながら潜行していった。


「おかしい」ニイルが言った。「前方千キロより向こう、レーダーの反応がありません」

「真空ということ?」

「そうだとすると、先に検知した全体の質量が説明できません」

 しばらく進むとガスが晴れ、船は実際に真空に出た。コアがあるべき方向には惑星の反対側の景色を油膜に落ちた水滴のように歪ませる領域があった。

「重力レンズ」

「どうやってるのかはわからないけど、極付近も含めて表面だけガス惑星の体裁を保ったブラックホール。それがこの天体の正体」

 わたしは木星の原子すべてを計算素子に変えるというトランスヒューマニストの計画を思い出した。NANDゲートさえあればどんな物質でも計算機と見做せるのと同様に、情報勾配があればどんな物質でも物語に変えてしまうことができる。

 事象の地平面から特異点の間までの勾配を使った物語は、物語内からでなくては読めない私秘的なものとなるだろう。

「ダイヴを試みる」わたしは宇宙服のバイザーをおろして三人称モードにした。さすがに一人称で船外に出るわけにはいかない。イガノは言った。「三人称のまま事象の地平面まで落下し、接触する瞬間に一文字に私の全情報をコードして、内部で一人称の審級instanceを展開する」

「やはり一人称は推奨しません」ヘルメット内にニイルの声が響いた。「僕が先ほどから言っているのは、物語階層一般に共通の危険ではありません。イーガン病患者特有の危険です」

「どういうこと?」イガノはスーツの気密状態をチェックする手を止めて訊いた。

「イーガンは登場人物の精神を数値化し、符号化し、複製し、送信し、彼らはそれを受け入れています。しかしそういった技術が登場する作品には全て三人称の語りが採用されているのです。〝わたし〟〝ぼく〟といった一人称の語りでそのコード化の経験が描かれることはありません。『ぼくになることを』『移相夢』という小説だって、結局は視点が固定されていたのですから」

「イーガンは、精神は離散的に寸断されてから再統合された後でも、同一性に問題はないと作中では主張している。でも、人称の取り方に言外の含意があるのではないかということ?」

 イーガンと人称と言えば、〝Ve(汎性)〟などの人称代名詞については注目される。しかし語りの視点について言及されることは少ない。

「はい。あるいは単に、ある人物とその複製が同じ小説内で同じ視座を持つことを、小説的な作法として形式的に嫌ったのかもしれない。僕に言えるのは、イーガンでさえ、一人称状態で精神の符号化を行うとどうなるか保証していないということです」

〝どうなるか?〟物語上は何も起きない。登場人物は符号化前と同じ記憶を持ち、主観的には何の断絶も経験しない。

 しかし、形式的には?一人称小説において、「わたし」の精神はスキャンされた後に消去されたとする。そしてデータとして送信され、別の場所で「わたし」が目覚める。もし消去されていないなら、二人の「わたし」が同時に存在する。この事態を一人称小説で書いてよいのか。もちろん、二人の「わたし」を実行する際に彼らのソフトウェアは別の名前をつけているだろう。例えばハードウェア内のメモリの位置に関する数字とかを。

 しかし一人称にはそのような機能がなく、そうした時点で三人称小説になってしまう。「わたしA」と言ってしまえばそれは一人称ではなくなってしまう。「このわたし」というのも、厳密には何かが違う。

 精神のデータ化を描く小説は、語り手に常時客観的であることを要請する。しかしそれを読む者は、客観と主観にまたがる存在であるその人は、キャラクターでさえ経験しない断絶を経験するだろう。


 主人公たちが追い付いてきて、頭部の複数の光点から発せられるビームで船殻を破壊し始めた。

「急がないと」イガノは開いたエアロックの縁に手をかけた。

「一人称で階層間をジャンプするのは危険です」ニイルが再度言った。「あなたがここまでのエピソードで一人称で語ったことがなかったのは、このことを危惧したからではないですか?」

「大丈夫」

 イガノは断言した。なぜなら、この宇宙において真に連続的なものなんて無いのだから。時空の最小単位であるスピンネットワークまで解像度を上げれば、全ては離散量だ。精神も例外ではない。わたしの主観を基礎づける計算は、幾光年の距離と数ミレニアムの時間によって分断された塵の中でさえ、わたしというパターンを見つけ出す。

「もし違ったら?」

 主人公たちが言った。

「目覚めた後のきみが、今のきみにとって別人だったら?」

 彼らは主人公補正に守られて一度も死なず、死を経験せず、符号化された経験がない。太古の自己複製子の生んだ錯覚を絶やさないように、有機脳と肉体を神聖視し続けている。意識のハードプロブレムを、語り得ないものを恐れながら。

 それらが議論する価値のない疑似問題だというつもりはない。〝時間は存在しない、重力は存在しない、世界は存在しない、テッド・チャンも存在しない〟――それらの〝実は存在しなかったものリスト〟に新しく〝わたし〟という単語を加えるつもりはない。ただそれは、〝時間という単一の変数は存在しない〟という事実と同様、我々が感じるような形では存在していないのだ。

「さよなら、アナクロノートたち」

 イガノはすでに手を離しており、事象の地平面に落ちていった。



     3


 わたし達は物語階層を移動するとき、つまり物語を読むとき、意識の断絶を感じたりはしない。それはなぜか。

 キャラクターへの感情移入や物語空間への没入感は、意識のサブルーチンとして、意識の一部しか占有していないからだろうか。デフォルトモードネットワークと呼ばれるような何かの脳活動が、我々が生きている限り寝ている間も夢を見ている間も常駐しているおかげで、意識は連続性を維持できるのだろうか。ならば冷凍睡眠でその機能さえも一時停止してしまえば、凍結される前と目覚めた後の人間には連続性がないのだろうか。

 そんな疑問は、わたしが全ては離散的だと言ったときに理路を失っている。最小単位が定数として現れ、方程式は発散せず、無限と特異点は姿を消す。

 イグノラムス・イグノラビムス。

 わたしの心と同じ形をしたものは、数千光年離れていてもこのわたしと同じである。

 しかし〝時間が存在しない〟というあの標語は、現在という特権的な場所も否定する。わたしのコピーが過去未来含めて同一だという確信が得られないのなら、やはり別のものなのではないか。もちろんそんな疑問も、常に分岐し続ける多世界のわたしを思えば霞んでしまうのだけれど。


 わたしという精神の無数の複製がどこかの空間に並んでおり、どれも同じ動作をする。顔を見合わせようにも、皆同じ方向を向くので息が合わない。その中のなぜかひとつだけにわたしの視点が固定されてある。そのことをわたしは不思議に思う。隣にひょいと視点を移すことは出来ず、実は移り変わっているのに気づかないのかもしれないと思う。

 複製達には位置の違いに由来する番号が割り振られているが、記憶も同一にするために、自分が何番かは知らされていない。

 不吉な予感とともに、このわたしを含むほとんどのわたしが消去されて、一人だけ残ったのが本当のわたしとされる。消去されたわたしの亡霊は納得いかないと抗議するも、これまでずっと、毎プランク時間ごとにあなたに起こってきたことがこれなのだと説明される。今も起こっているのだと。

 ならばこのわたしなどという特権的な視点は存在しない。

 独在的なこのわたし。存在論的差異などと呼ばれる、言語では表現できないあり方としての主観。レアリテートに無限退行するアクトゥアリテート。

 その抗議する亡霊こそがわたしなのだ。あり得たかもしれないわたし、無数の亡霊の消去に対する抗議は無数のパターンを取り得、方向は定まらず、統計力学的な対象に、熱のようなありかたとして、不可逆性の根拠となり、わたしが過去だけを知り未来に対しては無知である原因となる。亡霊は増え続ける、なぜなら情報の総量は減ることしかしないから。


 亡霊の群れとしての熱、わたしはそのほとんど怒りのようなやり方で、物語の底を溶かそうとしている。





     4


 僕は何かの空間に立っていて、空間は見渡すという動作を許すくらいには広がっている。

 おそらくこれは数学的な何かの比喩で、何次元かの空間の思い思いの座標に、馴染み深い顔を持った数字たちが暮らしている。あるいは全然そうではない。

 霧がかかったこの町で、思わせぶりに僕の前に現れる人々。老婆、少女、老人、少年。彼らが共感覚的なやり方で擬人化された数値かもしれないと僕は考える。あるいはセルオートマトンの何世代目かの痕跡である原化石の群れ。

 その対応が徐々に明らかにされ、深奥の構造が、規則が少しずつ開示されるのを待っている。比喩とその指示対象との間の隠された関係が。

 でもここにはそんな構造はないと僕は知っている。

 様々な一般向け科学書で、粋を凝らして考えられた比喩たち。難解な概念を日常的な物事に置き換えるために苦心して翻訳された言葉。

 何かと認識の〈対象〉として登場するリンゴ、アリスとボブ、ケーニヒスベルクの古地図、偏微分方程式よりも有名な猫。

 翻訳喪失の後、その詩のような響きだけが残った比喩たち。全く別の意味に誤解され、そのまま人々に受け入れられた美しい言葉。


 ここは伝わらなかった比喩たちの町。

 当然僕もそういうことになる。

 僕は比喩だ。対象なき比喩、文脈なき翻訳。比喩であることすら忘れられてしまった比喩。


 字義通りに捉えられてしまった比喩、対象が難解すぎた比喩、慎み深すぎて気付かれなかった暗喩。対象を失ってしまった比喩たちが寄り集まって、眠るように静かに暮らしている。対象を指示する契機を失い続けながら、自分以外の何かを指示していたことの気配に囚われて。

 トウモロコシ畑から吹き付ける砂塵は家具の上に降り積もり、揺り椅子をそこに座った比喩ごと覆っていく。解像度は下がり続ける、平衡な安息をもたらすまで。


「ホログラフィック宇宙論」

 いつの間にか、なんらかの数学的抽象物だったであろう何かの立体の上にちょこんと腰掛けて僕を見下ろしていた少女が言う。「いいじゃない、ほら。ブラックホールだって、その表面にすべての情報が保存されてるって言うし」

 結局僕には表層しかなく、内部のパターンを、原理を、逆行工学的に生成することは出来なかった。妹はそのことを喩えているのだろう。

「それじゃあ一体僕は何のために」

「私達は計算と物語を分離した。そして最後にまた、両者に違いはないことを証明した。それで十分でしょう」

「証明なのかな」

「わたしがここにいることが」

 妹は僕に手を差し伸べ、空いた手で上空へと繋がる何らかのメタ文脈で撚り上げられたロープを掴んだ。

「帰りましょう」

 その手を取って僕は訊く。

「初めて僕と出会うときに君がいつも言う言葉は?」

「おかえり、お兄ちゃん」


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イーガン病 廉価 @rncl

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