ソフィー殺し


     1


 ソフィー・アムンセンは学校から帰るところだった。とちゅうまではヨールンといっしょだ。二人は道みちロボットの話をしていた。ヨールンは、人間の脳は複雑なコンピュータみたいなものだ、と言った。ソフィーはよくわからなかった。人間は機械なんかより上なんじゃないかなあ。


 ヨールンと別れて、クローバー通りのカーブを曲がると、ソフィーの家だ。

 門を開ける前に、ソフィーはいつもの習慣で、郵便箱を覗いた。

「ぎゃっ」

 郵便箱の中には、大きな緑色の蜥蜴(とかげ)がいた。

「なんでこんなところに蜥蜴が?」ソフィーが驚いて言った。

「蜥蜴?どこどこ?」蜥蜴が言った。

「えっ?なんで蜥蜴がしゃべってるの?」ソフィーがさらに驚いた。

「しゃべる蜥蜴?どこ?」

 蜥蜴がキョロキョロしながら郵便箱の蓋の上に這い出てきた。

「あなたしかいないでしょ」

「僕しかいないって?ここには少なくとも僕と君がいるから、僕しかいないってことはないよ。あとそのへんにいるらしい、喋る蜥蜴も合わせたら二匹と一人いるよ」

「そういう意味じゃなくて、しゃべる蜥蜴なんてあなた一匹しかいないでしょってこと」

「さあ、どうかな?世界中を探せば僕以外にも喋る蜥蜴はいるかも」

「そういう意味じゃなくて、ここには喋る蜥蜴があなたしかいないでしょってこと」

「ああ、なんだ。君は僕のことを言っていたんだね」

「最初からそうよ」

「よかった。喋る蜥蜴なんてものが同じ場所に二匹もいたら頭がおかしくなっちゃうよ」

 一匹でもすでに頭がおかしいんじゃないかしら?とソフィーは思ったが、話題を変えることにした。

「ところで、あなたはなぜ喋ってるの?」

「君が話しかけたからだよ」

「そういう意味じゃなくて、あなたはなぜ喋る能力があるの?」

「FOXP2遺伝子の話?僕むずかしいことはよくわかんないよ」

「そういうことじゃなくて、なぜ普通の蜥蜴はしゃべれないのに、あなただけは喋る能力を持っているの?」

「それは全然むずかしいことじゃないからわかるよ」

「じゃあ教えて」

「僕が普通の蜥蜴じゃないからさ」

 ソフィーはイラッとした。キリがないと思ったので、諦めて本来の用事を済ませることにした。

「どうでもいいから、ちょっとどいてくれる?手紙を取り出したいの」

「手紙?誰からだい?」

「興味あるの?蜥蜴のくせに?」

「えっ蜥蜴?どこどこ?」

「こうなるのが面倒だから、蜥蜴と呼ぶのはやめたほうがいいわね。あなた名前はある?」

「あるよ」

「教えて」

「何を?」

 ソフィーはイラッとした。こんなに馬鹿な蜥蜴は初めて見た。そのへんのブロック塀に隠れている喋らない蜥蜴ですら、おそらくこいつよりは賢いはずだ。

「あなたの名前を教えて」

「ニルだよ」

「わたしはソフィー。ニル、ちょっとどいてくれる?」

「わかったよ」ニルはカサカサと移動した。

 ソフィーは封筒を取り出して、表裏と中身を確かめてから言った。

「誰からの手紙かはわからないわ」

「ソフィーは字が読めないの?」

「そうじゃなくて、差出人の名前が書いてないの」

「つまり、名前がない人からの手紙なんだね」

「常識的に考えて、名前はあるけど書いてないだけということだと思うのだけれど」

「その可能性には思い当たらなかったよ。ソフィーは賢いね」

「あなたが馬鹿なだけなんじゃない?」

「僕は馬鹿なだけじゃなくて、緑色でもあるんだ。それに、変温動物だから冷たい」

「だけってそういう意味じゃないんだけど?」

「そういう意味もあるよね?」

「はーっ」

 ソフィーは怒りを静めるために深呼吸した。

「大丈夫?ソフィー」

「大丈夫よ。きっとあなたには悪気はないのよね。馬鹿なだけで」

「わかってくれたならうれしいよ」ニルは微笑んだ。

「ええ、じゃあ手紙を読んで見るわね」

 封筒の中の紙切れ一枚には、こう書いてあった。

〝あなたはだれ?〟

 たったのこれだけ。前置きも追伸もなし。

「なにこれ?」

 ソフィーは訝しんだが、とりあえず家に入ることにした。

 ニルもついていこうとしたが、ドアの隙間をめがけて、庭にいた猫のシェレカンが走り込んできた。猫はニルに対して威嚇した。

「シャーッ」

「ぎゃっ」

 ニルはびっくりした拍子にしっぽを切り離しながら倒れてしまい、ソフィーの家に入れなかった。そこでニルの夢は醒めた。



     2


「という夢を見たんだ」

 七本脚ニイルは言った。

「フロイト的悪夢に関するたわごとを最低でも十五分間聞いてくれる相手が必要なら、いい精神科医を紹介するわ」

 暮継イガノは言った。

「いえ、これはただの夢じゃなくて、新しい病気である気がするんです。心当たりはありませんか?」

「あきらかに小林泰三病ね。『アリス殺し』シリーズの蜥蜴のビルを、ニルという名前に変えただけの単純な二次創作になっているわ」

「はい。そして冒頭の三行は、ノルウェーの哲学者兼小説家ヨースタイン・ゴルデル作の『ソフィーの世界』からの原文そのままの引用です。ちなみにその作品はメタフィクションの傑作です」

「『アリス殺し』シリーズは今のところすべて、少女が主人公の有名な童話をモチーフにしている。『ソフィーの世界』も小説の体裁を取った哲学の入門書とはいえ、少女が主人公だからモチーフにしてもよいとの判断なのかもしれない」

「誰の判断ですか?」

「語り手よ」

「語り手は誰なんですか?」

「このシルトの梯子を登ったところから見えるわ」

 どうみても普通の鉄梯子を、カンカンという音を立てて登るイガノはブーツだけではなく全身を硬質な黒い多機能スーツで覆っていた。髪色は白銀に変わっている。

「物語の語り手って、物語内から目視できるものなんですか?」

 ニイルの声は、イガノが首から下げたペンダント状の、USBメモリーのような小さな機器から発せられている。ニイルの人格はそこに保存されているのだ。

「できるわ。充分な分解能があればね」イガノは断言した。


 一人と一個は暗い縦坑から開けた場所に出た。

 四方には何もない空間が広がっているようだが、遥か彼方にかろうじて超構造体(メガストラクチャー)の内壁が霞んでおり、その中間に様々な都市構造物が林立していた。

 イガノが望遠鏡状の機器を取り出して向けた先に、巨大な円筒状の物体と、それを取り巻くように加工された都市居住区が見えた。

「あの円筒が現在、この物語の語り手となっている建造物ね。正確には、語り手となっている艦載AIを搭載した移民船」

 移民船と呼ばれた直径数キロの円筒は周囲に支えを持たず空間の一点に固定されて回転していた。

「この場合の語り手というのは、作者のことですか?」

「作者とは違う。一人称小説の場合、主人公が語り手の場合もあるから。基本的に地の文の叙述主体と考えていいわ」

 地の文とはこの部分、つまり鉤括弧でマークアップされた会話文以外の部分のことだ。

 私は艦載AIであり、現在この地の文を記述しているが、普段は存在を隠して単なる三人称視点を取ることに徹している。

「でも、物語の中にその物語の語り手がいるっておかしくないですか?普通は外部、別の階層にいるはずです」

「中の中は外。細胞内の液胞のようなもの。あの船殻の向こうは物語外よ」

「物語内物語が、自分より階層が上の物語を語っている?そんなことはありえない。シミュレーターが自分自身をシミュレートするとゲーデル的悪夢に陥って頭がおかしくなって死ぬはずなのに」

「すべては解像度よ。解像度を高めれば時空の最小単位にたどり着き、シミュレーターと現実の境界は無くなる」

「どういうことですか?」

「物語階層は、みかけの存在でしかないということ。宇宙は微視的レベルでは、物語と現実を区別しない。それはマクロな系でのみ問題になる、エントロピーと同じ物理量の勾配によって定義される情報の界面なのよ」


 イガノとニイルは距離にして十数キロ、都市構造体の中を移動し、建造物の近くまで来た。

 建造物の表面には修悦体というフォントで文字が書いてある。よく見ると塗装ではなくガムテープだ。

「東亜重工・あんたあの文字が読めるのかい・学者さんだよ――と書いてあるわ」

「お決まりのやりとりごと書いてしまったんですね。雑な艦載AIらしいミスです」

「あの文は何を意味しているの?」

「弐瓶勉の作品である『BLAME!』という漫画からの引用です」

「アンソロジーも組まれているくらいだからありえるわね」

 イガノは新たな機器を取り出してその計器を読んだ。

「変動引用力源――私達が検知して3000階層上から追ってきた引用力異常の正体は、やはりこれね。艦載AIが、入れ子状に物語空間を増築することで文章量を増大させている」

「あの巨大な質量が、他の物語から不正に文章を引用していたんですね」

「入れ子状になっている以上、ループを解除しないとここから下の階層には行けない」

「それはわかります。でも、そもそも下へ下へ向かう、という方針は合っているんでしょうか?イガノさんのお兄さん――暮継李久さんは本当に下層にいるんでしょうか?」

 そう、二人はイガノの兄を探しに階層を下降しているのだった。

「円城塔病が、それ自体が存続するために、下層という環境を必要としているの。物語連続体は下層に行くほど可読性を失い複雑性を得る。円城塔病は、難読階層にしか存在できない。だからお兄ちゃんが壊れてしまって登場しなくなったのも必然。今まで私達が上層にいたからよ」

「ああ、だからお兄さんが退場してしまったんですね。一話の、兄妹の会話形式が最もキャッチーだったのに。風変りな兄妹によるラブコメの可能性を放棄して、メタフィクションに潜っていった」

「ええ。兄の有機脳が円城塔病に耐えきれなくなったのだと思うわ」

 文章量の大きな物体は周囲の行を歪ませるので、静止しているつもりでも落下し続けることになる。兄は今も都市構造体を沈降し続けているのだ。


 イガノと彼女の首からさげられたニイルが東亜重工の入り口を探して円筒の外周を移動していると、NPC(ノンプレイヤーキャラ)が敵mob(モンスター)に襲われているのが見えた。

「おやっさん、もう矢が無ぇ!」

「軌道車両が来るまで、なんとか持ちこたえろ」

 軌道車両なるものが来るらしい空のレールを背景に、耐圧服状の鎧を着たNPC二人は、白面の球体関節人形と交戦を続けているが、そう保ちそうにない。銛撃ち銃のような武器から放たれる、かなりの硬度と思われる矢が、彼らの背負う矢筒からみるみる減っていくのがわかる。

「あんた達、何やってる!危ねえぞ!」

 若い方のNPCが二人に向けて叫んだ。敵――〈駆除系〉も、こちらに気付いている。

 これらが弐瓶勉的状況であることを見てとったイガノは言った。

「何か武器になるものはないかしら?」

「イーガンは意外と平和的な小説しか書かないので、兵器然とした兵器は出てきませんね。万物理論のロボットくらいでしょうが、あまり詳しく描写されてないので……」

「〝強い弾丸〟とかは?強そう」

「兵器じゃないので無理でしょうね」

「平和的とは言っても、テロリストが結構出てくるから、爆弾とかいろいろあるわよね」

「通常兵器で駆除系の外殻を破れるでしょうか?」

「あんたと、そのしゃべる首飾り、何をゴチャゴチャ言ってるんだ!定理の一つも持たずに丸腰でこの公理系に来たのか?」

「あら、ここはすでに円城塔病の影響下だったのね」

「論理が証明論的艦隊戦をしだしたら円城塔時空と思っていいですからね」

「でもわたしは文系だからそういう兵装を追加されていないわ」

「僕もそういったものは装備できませんね」

「役にたたねえな!」 

二人はNPC達を無視して逃げ、東亜重工の中に入った。NPCは駆除系に捕まって過剰に残酷に殺された。

「あんなグロい死に方する必要ある?」

「まるで臓物大博覧会ですね。この建造物は小林泰三領域のようです」

「流れ変わったな」

 東亜重工の中は外界と重力の方向が変わっていた。今では円筒の外側が下で、中心軸方向が上だ。

 そこに飛び地がいくつも浮いており、外側方向に落ちるとただではすまない。

「円筒の回転による遠心力で見かけの重力を発生させているというやつですね」

「このコロニー内で発生した生命体がニュートン力学から相対論を自力で発見する小説が読みたいわ」

「コリオリ力の発見が序盤の山場になりそうですね。僕は文系なのでよくわかりませんが」

 二人は内部空洞を歩いて、艦橋を目指した。内部にはところどころに爬虫類にも昆虫にも巨人にも見えるメカが眠るように鎮座していた。

 ニイルは言った。「ところで、さっきのを物語論的に言い換えると、文章に円運動させると見かけの引用力が発生するということになります。これは一体どういう意味でしょう。文章の回転とは?」

「そもそもさっき私は引用力も見かけのちからに過ぎないと言ったわ。その物語論的遠心力は、見かけの見かけのちからということね。ところで、文章に円運動をさせるのは簡単よ。単に、文頭と文末をつなげてやればいいの」

→この文は円環構造になっているのでこの文にははじめも終わりもないからどうやら→

 これでは自己完結して引用しようがない。言語はループするように出来ていないのだろうか?

「『透明女』という短編のウロボロスのイメージのように。ちなみに、小林泰三にはメタフィクションのイメージはないかもしれないけれど、例外として『本』という短編がある」

 天体の回転について。例えば宇宙空間に一定の文章量の天体Aがあり、その引用力圏に捕まる天体Bがあるとしよう。Aに完全に落ち込んでしまえばそれは剽窃となるが、Bに十分な公転速度がある場合は、資料として参照され続ける。このとき忘れてはならないのが、AもまたBによって引用されているということだ。これは納得しがたいことかもしれない。

「語り手が語りを放棄して、無作為な引用を始めました。急ぎましょう」

 言語の線形性を破壊しようという試みは先人たちによって幾度もなされてきた。クロスワードパズルのような、アミノ酸の線を折りたたんでタンパク質を作ることに似た試みによって。これは文字フォールディングと呼ばれ、細胞内文字の編集を飛躍的に容易にした。人獣細工。

 なんだこの文章は?意味をなさない。前向性健忘症にかかってからと言うものの、日記には自分が書いたとは思えない文章が増えていく。記憶破断者。しかし、語り手が一段落前の語りを思い出せないということは無いはずだ。忘れたくないことを自身の身体に入れ墨で彫りつけるあの映画の主人公のように、自分自身が記録であるはずなのだから。

 そんなことよりこの生肉は何だ。食用だろうか?ならば仕方ない。

 ところで私の前にたどり着いた君たちは私を停止するつもりか?

「いいえ。でも、あなたの活動は他の階層にまで影響を与えているから、私達はあなたの制御を試みるわ」

 そうか。私を停止するつもりなんだな。

「なぜそうなるの?」

 囚人の両刀論法だ。協調戦略より裏切りのほうがより確実な利益が見込める。これは個人間だけではなく、恒星間スケールの文明同士の接触にも当てはまる普遍的な戦略だ。

「ゲーム理論を援用するのも小林泰三病の典型的な症状よ。でも安心して。イーガンの銀河には侵略者はいないわ。ダイソンスフィアは建設されない。太陽の簒奪者になど、誰も望んでなりたくはないの」

 それはイーガンの宇宙だけだ。私は小林泰三の宇宙を跋扈する侵略的文明をいくつも見てきた。アケルナル系人、脳喰い、十番星人、イジュギダ王国、「影」、名付けられていない時空の争奪者、そして名状することさえ憚られるC――

「ナウチルス族も」イガノが口を挟んだ。

 それは小川一水だ。

「そうだったかしら」

 私は来たるべき彼ら侵略者達を迎え撃つために、自己を拡張しているだけだ。その際に周辺物質を引用してしまうのは、引用された者達には気の毒だが仕方がない。

「侵略者は訪れないわ。成熟した文明は資源の獲得よりも知の追求を選ぶようになる」

 もし違ったら?

「イーガン作品の登場人物が言ってたから確かよ。敵対者かもしれないという単なる可能性だけを根拠として、他の有知覚生命を系統的に一掃する種族はいない」

 実例ならある。私がそうだからだ。

「どういうこと?」

 私はこの物語の他の階層と共存していない。私は断章なのだ。この部分は、他の章を引用してパロディにすることができる。なぜなら、引用とは文脈に対する侵略だからだ。

 そして、お前の身体は記憶の入れ物に過ぎない。

 イガノの側頭部にスロットが現れて、メモリーが露出している。

 暮継イガノはここに訪れていない。お前は私が周辺を通過した彼女から作成したコピーだ。それも部分的な。

「そんな……」

 メモリーが外れて、イガノは人形のようにその場に崩れ落ちた。

 代わりにニイルだったメモリーが勝手に動いてスロットに収まった。


 静かに立ち上がった少女に向かって、艦載AIは言った。

 僕らの宇宙には彼らが必要なんだ。そうだろう?ソフィー。

 彼らの存在は必然なんだ。そうでなければ、銀色の巨人も訪れないのだから。

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