Good Night ―荊の怪物と眠り姫―
白雨 蒼
『Good Night ―荊の怪物と眠り姫― 』
とある時代の、とある地方の、その片隅。人里から遠く遠く離れた森の中に、一軒の古いお屋敷があります。
そしてそこには一匹の――いえ、一人の名もない怪物が住んでおりました。
人に似た姿をして、人にはない長い手足を持った――だから彼は怪物です。
彼はその森の中で、ひっそりと長い間生きていました。
彼はその屋敷の中で、ほんの山に囲まれて生きてきました。
友達もいません。仲間もいません。家族もおりません。あるのは
怪物は一人、孤独に生きておりました。
ですが、怪物は決して寂しいと思ったことはありません。
一人で生きることを苦しいとも感じたこともありません。
何故なら怪物は、一人でいる寂しさも苦しさも知らないからです。
人も踏み入らぬ森の中で、一人きり。
誰も寄り付かぬお屋敷の中で、一人きり。
本に囲まれ独りきり。
森に囲まれ独りきり。
どれだけ物語を読み込もうと、怪物は孤独やさみしさの意味を知らないのです。
そんな場所にいるものだから、怪物は己が
◇◇◇
そんなそんなある日のこと。怪物はいつものように長い足で本を摑み、長い手で本のページを捲っていました。
その時です。
こんこんこん こんこんこん
屋敷の入口を叩く音が聞こえてきました。
――頼もぅ。頼もぅ。どなたかおられませぬか?
屋敷の入口から怪物を呼ぶ声が聞こえてきました。
――はて、一体何事だ?
怪物は首を捻りながら玄関に向かいました。
がちゃりと扉を開けると、そこには全身をすっぽりと隠す外套(マント)を着た男が一人おりました。
男は屋敷から出てきた怪物を見上げると、
――おお! 貴方が願いを叶える怪物か?
男は喜んだように声を上げました。
ですが反対に、怪物はねめつけるように男を見下して尋ねるのです。
――お前は何者か?
すると、男がお辞儀をしながら名乗りを上げた。
男は言いました。自分はこの土地にほど近い国の王であると。
怪物は驚きながらも再び尋ねます。
――して、その王が私にどのような用向きか?
王様は言いました。
――私の国は、長い間作物が出来ずにいる。喰うに困り、民は苦しみ続けている。それを救うために、私は貴方に願いを叶えてもらいに来たのです。そのためならば、私はこの命すら擲つ覚悟だ。
王様の言葉に、怪物はゆっくりと首を振ります。
――貴方は二つ、間違えている。一つ。今の私には、願いを叶えるほどの力はなく、私の知識を貸し与えることくらいしかできない。
もう一つは、私は貴方の命など欲していないということだ。
――ならば私の国は救えないのか?
王様は悲しそうに言います。しかし、怪物はまたまた首を振るのです。
――願いを叶える力はなくとも、
王様は言います。
――その知恵で我が民草を救えるのならば。して、何をお望みか?
怪物は言います。
――友が欲しい。友というものを、私は知らない。だから友を欲する。どうだ?
怪物がそう言うと、大様は声に出して笑いました。突然笑い出した王様に、怪物は驚きました。そんな怪物を見て、王様は手を差し出します。
――ならば、私が貴方の友人となりましょう。如何だろうか?
差し出された手を、怪物はその長い手で握り返します。
――初めての友が王とは、実に愉快だ。
こうして怪物は、初めて友達を得たのです。
◇◇◇
それから暫く、怪物は王様の国に住処を移しました。
怪物は持ち得る知識のすべてを使って、王様の国を救いました。
その甲斐あってか、暫く前までは草木も生えていなかった国は、今では緑に覆われ、食べ物もたくさんできるようになりました。
王様を始め、国に住む人たちは大いに喜びました。
怪物もまた、友人の力になれて嬉しく思いました。
◇◇◇
王様には一人の娘がいました。とても可愛らしく、沢山の人に愛されているお姫様です。
お姫様は近頃気になることがありました。
それはたびたびお城で見かける、大きな大きな影です。
大好きなお父様と一緒にいるのをときどき見かける、真っ黒な影に、お姫様は興味津々です。
しかし周りの人は言うのです。
――お姫様。あれは怪物です。悪い奴なのです。近づいたら食べられてしまいますよ。
周りの人はそう言うけれど、お姫様にはよく判りませんでした。
だってお父様と一緒にいる人が、悪い奴なわけがありません。
お姫様の怪物への興味は、日に日に強くなっていきました。
◇◇◇
王様と話さないとき、怪物はもっぱらお城の書庫にいました。
此処には怪物がこれまで読んだことのない
だから怪物は、暇さえあればその長い手で本を摑み、細い指で本の項を捲っていました。
そんなある日のこと。
――初めまして、怪物さん!
静かな書庫には不相応な、とても元気な声が響きました。
怪物は顔を上げ、声の主を見ます。
とても可愛らしい女の子が、にこにこと笑いながら立っています。
――貴方がお父様の呼んだ怪物さんだよね?
怪物は僅かに首を傾げ、そしてゆっくりと頷いてみせました。
――君のお父様が、我が友人であるのならば、然り。
――しかり? 怒られるの?
怪物の言葉に対し、女の子――いえ、お姫様は見当違いなことを言ったので、怪物はゆっくりとかぶりを振りました
――その通り、という意味だ。
言うと、お姫様はぱっと花開くような笑顔で言います。
――怪物さんは難しい言葉を知っているのね!
怪物は言います。
――君が知らないだけだ。
すると、お姫様は言いました。
――なら、貴方が私の知らないことを教えてくださる? 怪物さん。
何故そうなるのだろうか? 怪物は不思議で仕方がありませんでしたが、どういうわけか、嫌だとは思いませんでした。
◇◇◇
それからお姫様は何度も怪物の元を訪れました。
怪物もまた、お姫様に沢山のことを教えました。
人のこと。動物のこと。木々のこと。空のこと。海のこと。昔のことや新しいこと。怪物の持つ知識の限りをお姫様に語るのです。
お姫様もまた、その日その日にあったことを楽しそうに、時に哀しそうに怪物に語りました。
怪物にとって、それは知識とはなり得ない些末なことだったけれど、でも聞きたくないとは思いませんでした。
怪物は楽しみにしていたからです。お姫様に色々なことを話して聞かせるのが。そしてお姫様の話に耳を傾けるのが。
お姫様も楽しみにしていたのです。怪物の話す様々なことを耳にするのが。そして怪物が自分のどうでもいいような話もちゃんと聞いてくれるのが。
それは怪物が、この国での役目を終える頃まで続きました。
◇◇◇
月日が流れると、可愛らしかったお姫様は、美しく、そして聡明な姫君に育っていきました。
国の人々は口を揃えて姫君を褒め讃えるのです。綺麗で頭もよい、この国が誇る美しき宝石だなんて謳う人まで出てきます。
そしてそれは怪物も知っていました。
いえ、怪物が誰よりも知っていました。
だって――気づけば怪物が、一番お姫様の近くにいたのです。
その可愛らしい姿も、美しくなっていく姿も、ずっと傍で見ていたのです。
だからこそ、怪物は思いました。
このまま姫君の傍に居てはいけないのだと。
だから怪物は、初めての友に言ったのです。
――私の役目はそろそろ終わりだ。私は元居た森に戻ろうと思う。
これには王様も驚きました。
――何を言うか、我が友よ。私を始め、この国にはまだまだ貴方の力が必要だ。そうでなくとも、貴方は私の大切な友人。いなくなっては寂しくなる。
王様を始め、怪物の叡智に助けられた人たちが口を揃えて彼を引き留めるのですが、怪物は頑なにそれを拒み、言いました。
――もし我が叡智が必要ならば、それはすべて姫君にお教えしてある。そして我が友、心優しき王よ。私は貴方と良き友人でありたい。だからこの地を離れるのだ。
王様は怪物の言葉の意味が判りませんでした。
しかし、怪物の意志の強さを理解したのか、最後には怪物が去ることを許しました。
――判った。しかし何かあればすぐに尋ねてくれ。貴方が私たちを助けてくれたように、必要とあらば、私はすぐに君の助けとなろう。
――ありがとう、我が友よ。
王様の言葉に感謝し、怪物はお城を去ることになりました。
◇◇◇
――怪物さん、怪物さん。どうしてお城から出て行くの?
城を去ろうとした怪物の元にやって来た姫君が、涙ながらにそう尋ねてきました。
怪物は言いました。
――私の役目は終わったからだ。
――私は怪物さんに居なくなって欲しくないわ。
怪物の言葉に、姫君は言いました。
怒りながら言いました。
泣きながら言いました。
――貴方が居なくなったらつまらなくなるわ。貴方が居なくなったら寂しくなるわ。大好きな怪物さんが居なくなると、悲しくなるわ。
怪物は、真っ直ぐ姫君を見ながら言いました。
――だからこそ、私は此処を去るのだ、姫君よ。
怪物は、姫君の言葉が嬉しくてたまりませんでした。
怪物は、姫君の傍から離れるのが寂しくてたまりませんでした。
怪物は、姫君と一緒に居られなくなるのが悲しくてたまりませんでした。
でも、だからこそ怪物は去らねばならないのです。
だって自分は怪物なのです。
美しい姫君の傍は、眩しすぎるのです。
だから去らねばならないと――そう怪物は思ったのです。
――さようなら、愛しい姫君。
そう言い残して、呆然とする姫君を怪物は一度も振り返ることなく城を去り、かつて住んでいた森の古屋敷に戻るのでした。
◇◇◇
屋敷に戻ってから、また幾つかの季節が過ぎました。
屋敷に怪物は一人きり。
友達もいません。仲間もいません。家族もおりません。あるのは
怪物は一人、孤独に生きておりました。
ですが、怪物は寂しいと思っておりました。
一人で生きることを苦しいとも感じていました。
何故なら怪物は、一人でいる寂しさも苦しさも知ったのです。
人も踏み入らぬ森の中で、一人きり。
誰も寄り付かぬお屋敷の中で、一人きり。
本に囲まれ独りきり。
森に囲まれ独りきり。
変わったことは、季節の毎に王様の使いがやってくるくらい。その年あった出来事を伝え、その年のもっとも出来の良い作物を届けに来てくれた。
それ以外は昔と同じ。王様たちと出会う前のまま。
独り孤独の森の中、怪物が独りきりで住んでいるだけ。それでも構わないと、怪物は思っていました。
◇◇◇
こんこんこん こんこんこん
真夜中に、屋敷の扉を叩く音。怪物は不思議に思いながら玄関に向かいます。
扉を開けると、其処には血だらけの兵士が倒れていました。
それは怪物の友人――王様に仕える兵士でした。
――どうした? 何があった?
怪物は驚きながらも兵士に尋ねます。兵士はぜぇぜぇと息をしながら言いました。
――戦争が起きました。隣の国が姫君を寄越せと攻めてきたのです。王様が貴方に助けを求めています。
そう言って、兵士は息を引き取りました。
怪物は信じられませんでした。
何故戦争が起きているのか、どうしてそんなことになったのか。
だけど、考えても考えても答えは出ません。
ただ怪物に出来ることは一つでした。
――よくぞ知らせてくれた。
怪物は死んだ兵士にそう手向けの言葉を送って庭に埋め、迷うことなく王様の国に向かいました。
◇◇◇
怪物が国に辿り着くと、そこにはたくさんの死体が並んでいました。街やお城は燃えて炎に呑まれ、あちらこちらで兵士たちが戦っています。
怪物はお城へと走りました。
襲い掛かって来た知らぬ国の紋章を付けた兵士たちは、その長い手足でなぎ倒します。
そうしてお城に辿り着き、怪物は王様を探しました。
そして玉座に辿り着くと、其処には血だらけになって倒れた王様が居ました。
怪物は慌てて彼の元に駆け寄ります。
――王よ。我が友よ。
呼びかけると、王様は苦しそうに怪物を見上げました。
――ああ、我が友よ。良く来てくれた。しかし、すまない。私はもう助からず、この国は戦に負けてしまうだろう。どうにか娘だけでも助けてくれまいか。
――ああ、承知した。
怪物の言葉を聞いて安心したのか、王様はそのままゆっくりと目を閉じ動かなくなりました。
――さようなら、王よ。我が友。貴方と友となれたことは、我が一生の誉れだ。
怪物は悲しみにくれながら必死に涙を堪え、王を横たえて姫君の元へと向かいました。
◇◇◇
怪物が姫君の元に辿り着くと、姫君は信じられない者を見たように目を見開いて叫びます。
――ああ、怪物さん! また会えるなんて夢のよう! でも、どうして此処へいらしたの?
――王が私を呼んだのだ。そして頼まれた。姫君を助けるように、と。
そんな怪物に、姫君は言いました。
――ありがとう、怪物さん。ですが、もう手遅れでしょう。城下も城も火に呑まれました。隣のお国は、私を手に入れためならば地の果てまで追ってくる。そしてわたしはこの国を捨てるつもりはありません。だから――
そう言って、姫君は涙を流しました。
あの日怪物が城を去るといった時と同じように。
涙を流したまま、姫君は言います。
――怪物さん。もしも私の願いを叶えてくれるのならば、どうか聞いてください。
――なんでも申すがいい。私はそのために来た。
姫君の流す涙をその長く細い指で拭いながら、怪物はそう答えました。
姫君は、泣いていましたが、同時に嬉しそうに微笑んで言ったのです。
――何者の手にも届かぬように、私を守ってくれませんか。愛しい怪物さん。
その言葉を最後に、姫君の身体がゆっくりと傾ぎます。怪物がその身体を受け止めると、その背中には一本の矢が突き刺さっていました。
矢には毒が塗られていました。
見るでもなく、調べるでもなく、怪物にはそれが判ってしまうのです。
だって怪物は――この世の叡智を持つ怪物だから。
野に込められた毒は姫君の意識を奪うものであり、永い眠りへと誘う呪いでもありました。
だから怪物は判ってしまったのです。
姫君の瞳が再び開かれることは――もう、ないのだと。
怪物は、姫君の身体を抱きしめながら涙を流します。
生まれて初めて、怪物は涙を流したのです。
怪物にとって、姫君は何物にも代え難い存在でした。
そんな姫君を失ってしまった怪物は、涙を流しながら、その場に崩れ落ちそうになりながら、それでも必死に立ち上がり、姫君の身体を彼女のベッドに横たえさせました。
何処か安心したように目を閉じる姫君を見下し、怪物は一度だけ、その額に口づけを落とします。
――ああ、愛しい姫君よ。約束しよう。何者のお前に近づくことは許さない。何者も、お前の眠りを妨げることは許さない。お前の愛した国と共に、私はとこしえにお前の眠りを守ることを誓おう。
そう言って、怪物は姫君を見つめ――微笑みます。
――だから安心してお休み、我が愛しの姫君。
そう言葉を口にすると、怪物の身体に変化が起きました。
一本、また一本と生えてくるのは、鋭い棘を宿した荊の茎でした。
それはゆっくり、でもはっきりと数を増して行き、姫君を取り巻き、部屋を覆いつくし――それでもなお勢いを失わず、やがて怪物の身体のすべてが荊と化しても尚大きくなって行って、ついにはお城を、そして城下町すらも覆い尽くすような巨大な茨の群れとなったのです。
◇◇◇
国を攻めていた隣国の兵士たちは、その沢山の荊になす術を失いました。
剣を突き立てても槍を突き立てても斧を突き立てても炎を放っても、その荊には傷一つつけることが出来ないのです。
美しい姫を欲した隣国の王様は、あらゆる手段を講じましたが、結局どれ一つとして成功はしませんでした。
姫の美しさを耳にした、勇敢な若者たちがこぞって荊に覆われたお城を目指しましたが、誰一人として帰って来る者はいませんでした。
◇◇◇
それから長い長い月日が過ぎました。
荊に覆われたお城は、今も変わらずそこにあります。
だって荊が守っているのです。
お姫様の眠りを妨げる者から、その身をずっと護っているのです。
それは勇敢で精悍な騎士様でも。
たとえ心優しい王子様であろうとも。
姫の眠りを妨げることはできませんでした。
姫の望みを叶える荊の怪物が、それを許さないからです。
だからいつまでも、いつまでも、姫君は荊の中で眠り続けます。
彼女が愛した王国に抱かれて。
彼女を慕った民草に守られて。
彼女が恋した怪物に抱かれて。
彼女を愛した怪物に守られて。
だから――
その眠りを妨げることは、
目覚めの口付けをすることは、
何者に適わないのです。
END
Good Night ―荊の怪物と眠り姫― 白雨 蒼 @Aoi_Shirasame
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