第3話 霧崎神殿の事件簿(某賞初応募、初玉砕作)
プロローグ
夜道には気をつけろなんて言われたことがない。
こんな山奥の街では、道は夜になれば真っ暗になるのが当たり前で、物心ついたときから細心の注意を払って歩むものだと教えられてきた。道を外れて側溝に落ちたりしないように、何かにぶつかって怪我をしないように。
だからいつだって気を付けていた。足元と前方には。
ウィリーはたっぷりの赤毛をきつい三つ編みにして背中に垂らし、家路を急いでいた。予想外の雨に降られたため、服も髪の毛も水を含んでいてとても重たい。そばかすだらけの顔は既にシャワーを浴びたように濡れていたし、他の女の子よりも大きな体の表面で水滴が新たな飛沫を生み出している。
くるぶしまでの粗末なブーツには泥水が満ちていて、歩くたびに不快な音を立てていた。
家には弟妹たちが待っている。もしかしたら兄の方が早く家に着いているかもしれない。兄の帰宅が早ければ、こんなに遅くなったことを激しく叱責されるのだ。
帝都の学校を出て最近家に帰ってきた兄は、頼もしくもあり、恐ろしくもある存在だった。年の離れた弟妹五人には愛情を持って接していると感じるのだが、ウィリーに対してはいつだって冷たくて厳しい。ただでさえ家事とささやかな農地の手入れで手いっぱいなのにこうして針仕事をもらうために長い田舎道を歩いて隣村まで行けという。
「仕方ないだろう。五人を学校に通わせるには金が要るんだ」
兄はそう言っていつだって真っ先にご飯を食べ、湯を使い、床につく。
どうして。
どうして「私だけ」学校に行けないの?
どうして「私だけ」遊べないの?
どうして。
ウィリーが物心ついたときには、既に母は下の弟を身ごもっていた。その後は立て続けに子供が増え、ウィリーは幼いながらも家事を手伝ってきた。読み書きは両親から学んだ。
兄が学校に通うようになり、下の弟が町の読み書き塾に通うになってからは、あと数年経ったらウィリーも通えるのだと思っていた。
両親が亡くなるまでは。
兄が帰ってきてホッとした。緊張が解けたようだった。
もしかしたら神殿の学びの場くらいなら行けるかもしれない。
もしかしたら複雑な刺繍の仕方を習いに行けるかもしれない。
しかし、そんなウィリーの希望はことごとく却下された。兄にとって弟と妹は四人なのだろう。ウィリーは数に入っていないのだろう。きっと都合のよい働き女くらいにしか思われていないのだ。
雨なのか、涙なのかわからなかった。
兄には感謝している。学生のころから決して少なくない仕送りをし続けてくれた兄。帰って来てからは希望の職をあきらめ、家から通えるところで仕事をしてくれている。
おかげで「食べていけない」と心から感じたことは無かった。だけど。
ウィリーは重たい脚をさらに激しく動かして泥をはね上げた。
その時、間後ろに重たい気配を感じた。
雨越しに感じる重たく冷たい気配。
次の瞬間、ウィリーの背中はぱっくりと裂けた。赤い線を描きながら体が地に落ちる。
雨音が彼女の異変をかき消した。不思議と痛みは無い。
何者かはウィリーの顔を覗き込み、少しだけ首を傾げたように見えた。
あいにくの夜道。顔は見えないが、わずかな光に輝く金色の髪が優しく光る。それはやがてウィリーから離れると先へと進んで行った。
それの先にはウィリーの家がある。幼い子供たちがいる家が。兄が家に帰っていることを祈りながらも、動かない体に怒りが湧いた。
アントンはとても賢くて、キュイナはとても優しいの。ポティは食堂顔負けの料理の腕前。マルは一番幼少ながらも一番の正義感。きっと素敵な大人たちになるはずだから。
だから行かないで。
だから辿り着かないで。
遠ざかる金糸に願う。
ただ体がどんどん冷えて行くのだけを感じながら、ウィリーは涙を流した。
第一条 「新米法律家到着」
山村に続く道は先の戦いにおいて疲弊し、賢帝と名高い当世バルバレイネⅠ世の力も未だ届かぬようであった。文献によればかつてはマーブル石の産地として世界中に名を知られていたこの地方では、細い山道にすら旅人の導として蓄光力の高い石でできた塚が存在していたらしい。
「塚どころか、そいつが壊れた跡や石の粉すらないけどな。シア、明かり強くして」
レインは持っていた分厚い本のページをめくりながら、顔も上げずにそう言った。
黒髪に青い瞳が強さを増した青白い光に浮かび上がる。
少年と青年の間というのだろうか、道を横切る木の根に腰を降ろし、まだ線の細い体をわずかに前傾させて、神経質そうな眉を寄せながら一心に文字を追っている。
肩に着くほどの髪は、昨日からの強行軍のために後ろに括られているが、長さの足りなかった幾房が顔に落ちかかっていた。いつもきっちりと法衣を纏い、身だしなみに気を配る彼らしからぬ雰囲気を醸し出している。
軍人の家系に生まれ、幼少のころから戦地を移動し、また時間があればふらふらと旅を重ねてきたシアにとって、今回のような徒歩の旅は大して辛い行程ではなかった。しかし、見るからにレインは無理をしている。直接訪ねてはいないが、彼にとって初めての遠距離旅なのではないだろうか。
今となっては馬車を借りるか、飛行列車に乗ったほうが良かったのではないかと思う。
たとえレインが極度の乗り物嫌いだったとしてもだ。
シアはそんなことを考えながら、腰にさしていた二本の杖を取りだした。
親指ほどの太さのある持ち手から、先端に向かってなめらかに細くなっていく赤銅色の杖だ。
大きな箱型のカバンに座って、真剣な表情で中空を見上げながら口の中で空気中のエネルギーを集めるべく呪文を組み立てる。今浮いているおぼろげな光源を核として周りに集めたものを張り付けるイメージだった。
杖は肘から手先ほどの長さがある。持ち手の部分には深緑の皮が巻かれ、杖尻には紺色の房がついている。シアはぐっと持ち手を握りしめ、杖の先端が震えないように気をつけながら空中に円を描いた。丁寧に描いた分、ちょっと大きめだ。
「そんなでかくしなくていいってば。ブレるだろ。もっとこう……」
「うるせえな。本、読めてんだから良いだろうが」
「光がちらつくと目が痛いんだよ。もっと小さくして、濃度を上げろよ」
シアと呼ばれた青年は、ぐぐっと唸りながら額に筋を浮かべた。
「濃度って言ってもな……こうか?」
光の球は輪郭を震わせながら小さくなっていく。
「ええと……力任せに丸めろって言った覚えはないんだけど……おい」
レインがぱっと上体を伏せた。
次の瞬間、ひときわ大きく光の球が震えた後、そこからは四方八方に小さな光が飛び散った。
「おっ、おお」
自分の作ったはじける光の球に歓声を上げたシアは、次いでバツの悪そうな笑みを浮かべる。
「花火作れって誰が言ったよ。まったく」
火花がかからない場所まで移動したレインは、袖の中から細いペンのようなものを取り出すと手早く空中に何かを書きつけた。軌跡はうっすらと金色の光を帯びて網となり、火花を散らす光源を包み込む。
それまであちこちにとげを出しながらうごめいていた白い塊は、しばらくすると楕円形の手のひらに載るほどの滑らかな物体に姿を変える。
震えることもちらつくこともない。
「エネルギーは満タンだからよしとするか」
レインは一人で納得すると、何事もなかったかのように再び本を開く。
「頑張って訓練しろよ、新米裁判官殿」
シアはわざとらしく顔をしかめた。
「お前も求刑レベルを間違うなよ、新米検事サマ」
レインはにやりと笑みを浮かべた。
「間違うも何も、今回はそんなに大きな刑を求めることは無いだろ。そもそも調査が目的なんだから。使うとしたら記録関係の魔法かな……俺たちは誰かの不正を暴いたり、犯人を捕まえたりする必要は無いの。万が一でも氷止くらいなら……って、シア先輩。まさかとは思いますけど、「止刑」は発動できますよね?」
「うるせえな。氷止くらいできるに決まってるだろ」
「おし。んじゃ練習してみようぜ」
レインは音を立てて本を閉じると、布製の黒い袋から紙包と使い込まれた本を取り出した。
「これが対象物な。きっちり発動させろよ」
「任せろ」
レインはペンで包に独特の文法で高さと速さを書き込み、ペンでこんこんと二度ほどはじく。次に瞬間、包はまっすぐに夜空へと飛んで行った。木々の間を抜けてやがて姿は見えなくなる。夜空には無数の星があるだけだ。
「三十サバン位の位置で止まってからゆっくり落ちてくるように設定した。ちなみにランダムに角度と速度は変わるはずだ。目視できるようになったらはじめようぜ」
「三十サバンっていうと……大聖堂の塔くらいの高さか?」
「大聖堂はもうちょっと高いんじゃねぇの。十階建ての建物くらいだろ。ええと、アレだ、学院の図書館棟くらい」
シアはじっと夜空に目を凝らしながら「なるほど」とつぶやいた。次の瞬間鋭く息を吸う。レインはそれを合図にくたびれた法典をめくり、読み上げる。
「刑法第二九八条八則二補。不法浮遊にて氷止「囲」を求刑」
シアの二本の杖が青白く燃え上がった。両手に一本ずつ持った杖の先端を合わせるようにして夜空へと向ける。炎は杖先に集まって勢いを増した。
「発動!」
炎は一直線に包に向かって飛んでいくが脇を掠めるだけで包には当たらない。
「くそ! 発動! 発動!」
杖を回転させると続けざまに小さな炎が飛んでいくが、どれも包には当たらなかった。シアは何度も杖を回転させ、葉を散らせたが包は素知らぬそぶりでシアとレインに近づいている。
包の色がわずかに変わった。雨や風や野生動物などから身を守るために張った膜を突き破ったのだ。
「……安全膜を越えたぞ。いい加減にしろよ。安全膜ひとつで俺たちの一日分の給料が飛ぶんだからな。補修はシア持ちな。ちゃんと捕捉しろよ」
「わかってるよ。なんかもっと使い勝手のいいやつ出せよ」
「刑法第三五条六五特則。侵入罪にて氷止「索」を求刑」
「は? 索? ……は、発動!」
シアの杖からはうねるような光が伸びていくがこれも包を捕らえられなかった。光の紐は無様な軌跡ばかりを描いて包に絡まるどころか、触れることもできずにあちこちにうねうねと向かっていった。
「違うだろ、もっとこう。さっと、ぱっと、ぐっといけるやつ」
「あぁ? ふざけんなよへたくそ。俺のせいにすんじゃねぇよ。公務員保全法第三二条 接近防御求刑特則い-二 氷止「籠」を要請」
レインは不機嫌さも顕わに刑を読み上げる。シアは何度も「発動」と繰り返すが生み出される無骨な籠は、包の周りの空間を切り取るだけだった。
「……おいコラ。まじめにやってんだろうな」
「ちょっと調子が悪いんだよ。良いから次!」
「特法 公務執行妨害 氷撃「スピア」求刑」
「スピア!? は、発動!」
シアが右手に持った杖から放たれた強烈な光が夜空を貫いた。光の直径は両手でひと抱えほどはあっただろう。その光の一撃は包を跡かたもなく消し去った。
きらきらと光る粉が二人の上に落ちてくる。
レインはそれはそれは大きなため息を吐いた。
「アレだな、帝国の火炎大砲で鳥を落とすみたいなもんだな」
シアはそう言って消え去った包のあたりを目をこらして見上げていた。
「せーんーぱーい?」
レインの冷たくも美しい声を聞いて、シアの背中を嫌な汗が流れる。
「ま、訓練しろや。残念ながらシア先輩の夕食のおかずは消え去ったけど」
「あ、アレ、俺の!?」
レインは何事もなかったかのように再び本を開いて読み始めてしまった。
シアは空を見上げた。
体力同様有り余る魔法力を活用するために選んだのは軍人ではなく魔法使いだった。法律の世界を目指してからは記憶力のなさを悔みながらも、体力への自信から実務職である裁判官の道を選んだ。それが間違いだったとは思わないが、こうして落ち込む時もある。
もう少し、この力をコントロール出来たら。
この世界の半分以上を占める帝国と、帝国の同盟国において、魔法使いは公務員であり、公務員は皆魔法使いだった。どちらが先だったのかはわからない。
資質のあるものは幼いころに学院と呼ばれる専門学校に入り、力の理論と実際の使い方を学んでいくことが多い。ふつうの学校教育を受けている最中で魔法力に目覚めた場合は、半数ほどはそのままの生活を送り、半数ほどが途中入学で魔法を学ぶのだ。シアは後者だった。
学校を終えると地方公務員になる資格を与えられる。さらに専修過程に進んだものは試験を経て六等まで設定されている国家公務員になるのだ。専修過程で机を並べたレインとは、同じように二年間を過ごして任官された。
ちなみに法律職の資格は上から二番目。見習いのシアやレインはその一つ下の位を与えられている。
正式な身分は三等国家公務員。検事補のレインと裁判官補のシアだ。
任官二ヶ月目のほやほや法律家。
正直、これほどまでにコントロールが難しいとは思わなかった。攻撃属性の魔法を使うことを許された特殊職であるがゆえに「求刑」と「発動」という二段階で行使する魔法。自分一人ならタイミングや得意不得意を選択して魔法を使うことができる。使用する意志のない魔法を引きずり出され、自分と違うタイミングで発動を要求されるためにバランスを崩してしまうのだ。
きっとそれはレインも同じだろう。
思い描いている力を発揮できないレインもイライラしているに違いない。氷止などの空間固定系の魔法はレインの得意とするものだ。きっとレインだけで発動させれば、見事な氷の檻が出来上がるのだろう。しかし特殊職についてからは、一人で行使できる魔法は初等魔法に限られている。違反は懲戒免職の可能性もある重大な規則違反だ。
シアは知らず知らずため息をついていた。
「珍しく落ち込んでるな」
レインは小さく笑うと包をひとつ放って寄こした。
「……俺のは消し炭になったんじゃねぇのかよ」
「聡明な俺様は、裁判官殿のために練習材料を用意しておいてあげたわけ。食いものは粗末にしないように育ってるもんで」
「そりゃどうも」
レインは空になった包を手のひらの上で黄色の炎に変えた。すぐに燃え尽きる。
「んで。なに? コントロール不足に悩んでるわけ?」
「いや……」
シアが言い淀んでいると、レインは口の端を持ち上げた。
「言いたいことは何となくわかるけどな。でも新米法律家なんてこんなもんだろ。ばしばしやりたきゃ国防に行けよ。行っても大型の高度魔法は複数人で発動するんだっけ。だったら同じか?」
「別に、大きな魔法が使いたいわけじゃない。ただ……コツがつかめないだけだ」
シアはそう言うと無理やり包の中身を口に詰め込んだ。咀嚼している間はレインの言葉に返答しなくて済む。
「あらま。んじゃ、帰ったら良いもん見せてやるよ」
いたずらっぽい響きを含んだ声に、思わず無言で先を促した。
「金色の鏡のバッチを持つ検事と裁判官が実際に求刑から発動に至るまでの記録映像。見たくない?」
「みふぁい」
「すげえぞ。求刑は本院のシュラジニー検事。外法使いを含むテロリスト二十名に白昼堂々、しかも人の行きかう中心街でまさかの最高難度を誇る重力刑。収束「キューブ」の求刑だぜ? 発動は大神殿所属のスギウラ裁判官。多点高速捕獲のうえ、全員をきっちり一つの「キューブ」に入れきったんだ。発動させた裁判官ってものすごいし、求刑した検事もすごい。訓練している相棒っていうなら分からなくもないけど、面識すらないんだぜ? 失敗したら返し魔法で検事は多分圧死だ。なのに、ためらう素振りすら無い。求刑の理由がさ「重力刑は一般の人が見ても一番わかりにくく平穏だから」だって。しかも「彼なら狂いなく発動できると確信していた」だってさ。かっこいい」
いつになく饒舌なレインに、少し後ろめたさを感じて視線をそらした。
レインは優秀だ。いつかその検事のように語られる存在になるのではないだろうか。しかし、そのためにはきっと裁判官はシアではなく。
「でもさ、スギウラ裁判官ってアビリティチェックでは黄色ラインまでなんだって。シアって緑ラインだろ。先生も最上値を超える魔法力保持者って初めて見たって言ってたしさ。俺は天才だしさ。俺たちのタイミングが合ったら、鳥肌ものの裁判ができると思わない?」
「お前、ほんと、ごくごく当たり前のように自分のことを天才って言うよな」
「だってホントのことだもんよ」
レインは大きな欠伸をした。
「俺じゃ無理だろ。そりゃ、魔法力の容量には自信があるけど、コントロールできないし」
「へぇ、ほんとに弱気なんだ。めずらし」
シアは何も返せなかった。
「じゃぁ、天才の俺様が何か方法を考えておいてやるよ。そのうちな。というわけで、そろそろ寝るわ」
レインは傍らにあった本をカバンの上に置いた。
「明日は……そうだな、明るくなるころには出発したほうがいいだろうな」
言いながらもレインは布でできた道具入れからマフタの葉を取り出すと口に放り込んだ。何度か噛んでから地面に吐き出す。口元をぬぐって、木の根を枕に身体を横たえた。その眉が少しだけ寄せられたのは、持病の片頭痛の発作とやらだろうか。
「痛むのか?」
シアの問いかけに緩慢に首を振るとレインは目を閉じた。六歳年下の相棒は、こういったときに本音を隠す悪い癖があるのだ。
色を無くした寝顔を確認してから自分の外套も身体にかけてやると、少しだけ身体の力が抜けたようだった。冷えたのかもしれない。
こうして野宿をするのは今日で二晩目だった。
旅慣れているうえに体力に自信のある自分とは違い、初めての野宿旅に疲れていても仕方がないだろう。
シアは高等裁判所から送られてきた命令書を腰に付けた小さな入れ物から取り出すと、近くを漂っていた光を手で引き寄せて内容を確認する。
「アンジェラ地区アバナ村における神殿近辺の性質調査。精査ののちほころび等があれば修繕せよ。なお、原因を確認した場合は本部神殿へ速やかに報告すべし。
任務にあたっては器物破損、人体被害は言うに及ばす、村人の精神的平穏を壊すことを禁ず。
法曹規定に基づき、任務は最長一ヶ月の乙号とし、杖は第三段階までの携帯を許可する」
掴みどころのない任務としか思えなかった。
担当官から渡された書類には、これまでの経緯が簡単に記されている。
最初はアンジェラからの気候に関する調書だった。例年よりも寒い冬を迎えそうだという。原因は不明。その後半月を過ぎて現地のA・ブラム神官から出された調書には地面から噴き出すような冷気を観測したと書かれていた。アンジェラではこれを「四百年に一度の氷鳥の飛来」と認定したらしい。これはアンジェラ地方で伝わる伝説の一つで、山間の村を襲う大寒波のことだと担当官から説明を受けた。
「氷鳥、ね」
「伝承は何か原因があって口に上るもんだろ」
思わずつぶやいた言葉に、静かな返答が返る。
「すまん、起こしたか」
「まだ、寝てないよ」
レインは体を丸めて目を閉じたままふっと息を吐いた。
「アンジェラは多分神族が納めていた土地だろ。俺は地障の一種だと思ってる」
「神族だとなんで地障なんだ」
シアの疑問にレインはうっすらと目を開けてからまた目を閉じた。
「まったく、少しは座学の記憶も残しておけよ。種族は五つ、火属性の龍族、土属性の人族、木属性の精霊族、水属性の神族、金属性の魔族。ヴィッカリーももともとは神族の土地だから水に恵まれているだろ」
シア達が住む街(ヴィッカリー)は水路の町と呼ばれている。
「アンジェラも水には恵まれていたと思う。でも何かのきっかけで土地にたまった神族の力が噴出した。結果がこの寒波。アンジェラは大雪だっていうし。今までの事例からいっても天候被害の多くは神族がらみだし。多分、アンジェラはその、なんだっけ、四百年前? その時にも同じような「障」を経験してるんだよ」
レインはもそもそと手を動かすとさっきまで読んでいた本から紙片を一枚取り出した。二日前に泊まったアルデナ市の新聞記事を挟んでいたらしい。ひらひらとレインがその紙片を振る。シアは受け取って記事に目を通した。
アンジェラ近辺は異常な寒波に襲われており、例年では降りもしない雪に住民たちが苦労しているということだった。記事によれば積雪はすでにシア達の腰ほどはあるという。これからの寒さを考えてシアは小さく身震いした。記事を返そうとしたとき、隅にレインの字で「コトリ?」と書かれているのを見つけた。
「なぁ、コトリって何のことだ」
「さぁ。新聞を買ったときにアンジェラへ行くと言ったら、新聞売りの子に「コトリがいるよ」って言われんたんだよ。何のことか聞いてみたんだけど「コトリがいるから私は行けないの」ってさ。結局意味はわからないし、とりあえずコトリってやつがいたらどんなものなのかを見てみようと思って」
「かわいらしいピヨピヨじゃなくて?」
「だったら「行けないの」とは言わないだろ。なにか小さな女の子にはよろしくないモノなんだよ、多分」
「小さな女の子によろしくないモノ……少女趣味のおっさんとか……やべ、そんなもんしか浮かばねぇよ。レインは?」
ちらりとレインを見れば、既に首を縮め、体を丸めて眠っている。膜の内側とはいえ、冷え切った体が寒さを感じているのだろう。
調査書にはアンジェラ神殿前の噴水が凍りついたと書かれている。噴水が凍る気温とはどれほどだろうか。寒波についてはアンジェラ神殿側が対処するということに落ち着いたらしく、大神殿側もそれ以上の言及はしていない。地方分権を掲げている以上、大神殿も事件性の無い事象においては、おいそれと地方神殿の仕事に口出しはできないのが現状らしい。結果、近くの暇そうな魔法使いにとりあえず現地を見てこさせようというが上の判断なのだ。
そこで初任研修直後のシア達に白羽の矢が立ったのだ。
研修最終日、やっとヴィッカリーに帰れると思っていたところでこの任務を受けた。あの日のレインの不機嫌さは今でも思い出したくない。
研修を受けていた中空都市ワルダからアンジェラへは、どうしても飛行列車に乗らなくてはならないからだ。
乗り物に弱いレインは、乗り込むなり自分自身に睡眠系の魔法をかけて、実に十五時間以上を寝て過ごした。それでも残りの三時間で盛大に酔い、乗り継ぎ予定だったアルデナからは徒歩を選んだのだ。ちなみにアルデナからアンジェラへは、どう急いでも徒歩で四日はかかる。幸いなことに途中で「遠路」と呼ばれる魔法道にたどり着き少しばかり近道が出来たが、順当に行っても、あと丸一日は歩かなくてはならない。レインはこのあたりにアンジェラへの遠路があるとにらんでいるらしいが、地質学にも空間魔法系の読み取りにも疎いシアにはわからないことだった。
星が中空に差し掛かる。
真夜中に近いことを知って、シアはひとつあくびを漏らした。
夜の間に雨が降り始めていたらしい。
一枚三万パルもする安全膜は所有者が許可した魔法や物質だけを透過し、それ以外の小さな衝撃や雨風を凌いでくれるという優れものだ。昨晩の包みにはレインの魔法がかかっていたため、膜は無傷だった。膜の中は雨にぬれることも、急激に冷えることもない。吸音素材だからか、静かな空間は快適に保たれていた。
シアが目を覚ますと、すでに身支度を済ませていたレインが珍しそうに透明の膜を見上げていた。シアの黒とは色違いの深緑色の長衣と紺色のズボン。悪天候を想定してアルデナで購入したブーツにズボンの裾を入れ込んでいる。昨晩は乱れていた髪も今はある程度まとめられ、顔の周りにかかる幾房が時折レインの頬に影を作っている。寒かったのだろう首元に真っ赤な襟巻が巻かれているが、シアがよっぽどの記憶障害でも無い限り、昨日までシアが使っていたものだ。
水滴が滑り落ちるさまは、まるで滝の内側にいるようだ。激しい雨は無音で形を変えている。
「しばらくやみそうに無いんだけど、これ以上行程を遅らせるわけにもいかないしな」
シアが起きたのに気がついたのだろう、レインは空を見上げたままそう言った。
こんな場所で雨が止むのを待つより、調査地についてから休むほうが賢明だろう。今から出発すれば、遅くても日付が変わる前には辿り着けるはずだ。確かし悪天候ではあるし、アンジェラはいつにない大雪に見舞われてはいると言うが、たどり着けば、神殿で体を温めることも、もちろん地面ではなく快適な寝台で寝ることも可能だろう。無人の街に行くわけではないのだ。
シアは「もちろん」と返して、勢いよく体を起こした。
シアたちが所属している地方神殿は、帝都マルジャの北西に位置するヴィッカリーという地方都市にある。一年を通して気温は帝国平均よりやや低く、冬は雪が降ることが多いが、夏は水都と名高い地方なだけあって快適。地下に張り巡らされた水路が住人の足になっており、神殿はその水路を束ねた中心に存在している。生憎、東都のように医療や機会設備が発達しているわけではないため、神殿には東都への「遠路」を使用するための長蛇の列ができることも珍しくない。特に医療費の割引がある毎月朔日はほとんどの事務職員が整列業務にあたらなくてはならないくらいだった。
その行列もほとんどが船だ。住んでいる人の数だけ船がある。ヴィッカリーとはそういう都市だった。つまり、ほとんどの人が長距離を歩かない。
レインは肩で息をしながら木に手をついていた。「大丈夫か」と声をかけると、背後にどす黒い空気を背負ったままレインが顔を上げた。
「大丈夫じゃないけど、どうしようもないから我慢する」
「賢明だな。運んでやるにしろ、この荷物だからな。同じように後ろにくくりつける羽目になる」
シアはレインの倍はあろうかという荷物をゆすって答えた。
「……我慢するって言ってるだろ」
レインはため息をついて腰を伸ばした。
大柄なレインより頭一つ分小さなレインは、雨にぬれて濃さを増した黒髪を掻きあげた。地図を広げると方石を使って方向を確かめる。
「……やっぱ。やめた。我慢しない」
レインはそう言ってすっと一点を指差した。
そこには古びた石の塚があった。
「あ、ほんとだ」
掻きわけて見れば、見慣れた神殿のシンボルマーク。ここには「遠路」のマーキングがあるらしい。下に書かれた行き先は、東十八ポイント、南三十一ポイント。つまりはアンジェラ神殿近辺を示している。これで目的地までひとっ飛びできるのだ。
レインは恐ろしいほどの速さで荷物から法律書を取り出した。
「公務員特別法第七十八条 移動手段「遠路」要請。目的地修正なし」
これはまかり間違って失敗なんてしたときには、昨日の比じゃない文句が返ってくるだろう。何せ疲れに疲れて手負いの獣のような気配を発しているのだ。この相棒は。
シアは手の先に集まる力を丁寧に感じながら杖を取り出した。右手に構えたその杖を、余すところなく緑色にひからせてから塚に軽く触れる。大丈夫だと確信した。
「発動」
次の瞬間。塚からは波紋のように魔法陣が生み出され、二人を取り囲んだ。そして二人の姿はぬかるんだ山道から消え去った。
第二条 「アンジェラ・ポダ」
「アンジェラの神殿は聖獣神殿でしたか」
遠路で到着したのは大きな扉の前だった。石造りの扉は精密な彫刻で飾られている。モチーフは翼をもつ獅子や馬。足を持ち、空を飛ぶ大きな龍。蜘蛛の背には背徳を禁ずるてのひらの紋章が刻まれている。
到着した直後に座り込み、青白い顔のままにうなだれているレインに代わってシアは口を開いた。冷え切った空間に白い呼気が漂った。
「はい。当殿は聖獣ジャバウォクを奉じます聖獣神殿です。田舎の神殿ではありますが、西の七十番の認可を受けております。御二方は……天文神殿からの?」
人の良さそうな男はルパートと名乗った。この神殿の書記官をしているという。年はシアよりも上であるようだが、せいぜい三十を少し超えた程度だろう。シアよりも明るい栗色の髪を短く整え、金色のメガネをかけた要望はさぞや女受けするだろうとシアは少しうらやましく思った。
「はぁ。まぁ。バレバレですかね。こいつのバテっぷりじゃ」
「いえ。お二人ともがお疲れの様子でしたら、天文神殿の方だと推察の範囲ですが……その、あなたは平気なようでしたので、確信とまでは。また、今の時期アンジェラは寒いですし」
「俺は体力だけは自信があるんですよ」
シアは苦笑すると、自分の荷物とレインの荷物をまとめて抱え上げた。
「おい。歩けそうか? ダメならもう一度戻ってくるけど」
レインは緩慢に首を横に振るとふらふらと立ち上がった。
「すみません……無様なところを、お見せして」
遠路使用を察知した神官の一人が案内役として出てくるまで、シア達がこの神殿に着いてからゆっくりと扉を観察するほどの時間があった。レインにしてみればここの空気になれるだけの時間があって幸運だったと言える。すぐに神殿内に案内などされていたら卒倒していたかもしれない。
「いえいえ。天文神殿は聖獣神殿とは対極ですから。ここの空気に馴染めないのも仕方ありませんよ。しかも遠路直後であれば酔いもあるでしょうし」
「……お言葉通りで」
「御二方はどのようなご用件でこちらに?」
「失礼しました。俺はシア。こっちがレインです。ヴィッカリー地方神殿の庶務課から来ました。まだ補佐官なので今はあちこちを見て回りながら主に水路関係の調査に当たっています」
法律職はその身分を基本的に明かさないことになっている。実際に犯人調査に当たる公安職や違法薬物等の取り締まりにあたる更生職も同じだ。シアはかねてから用意していた「水路調査員」という身分を持ち出した。ヴィッカリーから来たのだから信憑性は十分だろう。
「水路調査……ですか。初めてお聞きする職名です。専門は土木ですか?」
「いえ、私は建築を。レインはええと農業と微生物学だったと思います」
「へぇ。私も生物学専攻だったのですよ。歴史生物学なので現在はあまり役に立ちませんし、事実ずっとここで事務官をやっています」
苦笑交じりに言うルパートにシアはどう返せばよいのか分からず、曖昧に笑うだけにとどめた。
ルパートは短く刈り上げた髪を掻いて笑った。人の良さそうな瞳が細く笑みの形を作る。
「建築なら歴史神殿や空間神殿もあるでしょうね。私の友人は文書神殿に配属になって泣いていましたが。もちろん五大神殿ならなんでもありですし」
「五大神殿! それは考えてもいないですよ。まぁ、遠くから見て楽しむくらいなら……」
神殿は大きく六つに分かれている。
シアたちのヴィッカリー地方神殿は天文神殿だ。気候や歳時、農耕等をメインに扱う神殿である。このアンジェラ地方神殿は聖獣神殿。もっとも多いタイプの神殿で、地方にあまた存在する伝説の生き物を祀った神殿だ。大概の神殿には地下に祭壇と祀りの間があり、そこに未だ伝説の聖獣が祀られているという話が残っていることが多い。この地方では生命、とくに動植物の品種管理等をメインに扱うという。
歴史神殿には歴史家と政治家が集い、文書神殿では大量の書物を管理し、空間神殿は移動手段や道路などの整備を行い、物質神殿では物流の調整を行うことが多いのだ。もちろんその仕事だけをしているわけではなく、各神殿がさまざまな職務を担って地方自治の中心となっているのだ。
「人生、どんなことが起きるかなんてわかりませんよ。あなたはまだ若い。五大神殿を目指してもおかしくなんてありません」
ルパートはまだ三十代に見える相貌を優しく崩してそういった。
「この神殿では遠路使用はあまり無いのですか?」
案内役の神官の後を歩き始めたシアはレインを気にしながらもそんなことを口にした。
「そうですね……神殿のものであれば使用することもありますが、村の方々は定期馬車を使うか、空挺団の切符を買う方が多いですよ。隣のゴビ村まで行けばどちらの手段も採れますし。遠路使用の申請をするよりも手軽ですしね」
「申請は……」
「お恥ずかしながらアルデナ本殿まで行かないと取れないのですよ。ここは支殿でして。一般の方の遠路申請を受理するだけで許可出来ないのです。歴史だけは古い小さな神殿というのが実情です。着地点が殺風景で驚かれたでしょう? 身内しか使わないので休憩できるような場所も用意しておりませんし」
「あ、いえ。そういうわけでは……すみません」
シアは知らず知らずのうちに到着した場所が荒れていたと言及した形になったことを詫びるしかなかった。レインが小さな声で「バカ」とつぶやく。
シアがなんと返すべきか頭を悩ませている間にルパートが金属制の扉の前で立ち止まった。音もなく扉が開かれる。
「まあ、何はともあれ。ようこそアンジェラ神殿(ポダ)へ」
薄暗い石造りの廊下に一斉に灯りが灯った。天井は高く、歴史ある神殿らしくさまざまな神話のモチーフがふんだんに施されていた。揺らぐろうそくの炎が緩やかに空間を照らし出し、きらきらと雲母を含む壁が幻想的な雰囲気を作り出していた。
「正直助かった」
レインは部屋に入るなり手に持っていた外套を床に投げ出し、背中から寝台に飛び込んだ。
掌で目のあたりを覆って深いため息をつく。
「臭いんだもんよ。もう……カビ臭いっていうか、獣臭いっていうか」
寝台の上でのたうちまわるレインを尻目にシアは苦笑しながら荷物を解いた。
シアたちに用意された部屋は、神殿中央の職員宿泊施設ではなく、神殿外壁にほど近い宿屋の一室だった。重厚な神殿の作りとは違って、清潔な白い壁紙と光沢を放つ木材の家具が置いてある。
小さいながらも衣類用の収納に書き物が出来る机、何より冷たい水が入室前に用意されていることに思わず心が和んだ。きっと気がつく従業員がいるのだろう。ルパートの指示かもしれない。
「こんなもんだろ。そういやレインは他系列の神殿って初めてだっけ」
「研修で空間神殿には行ったよ。なんか、あそこは寒かった気がする。ここも外は寒いけどさ」
確かに神殿を取り囲む塀の外に出た途端、身を切るような寒さに襲われた。道路わきに寄せられた白い塊は既に堅く凍りつき、雪というよりは氷塊にしか思えない。凍てつく夜空に星を見つけることはできたが、雲が無いぶん寒さは増しているのだという。通りを吹き抜ける風に氷の結晶が舞い踊り、きらきらと独特の光を放っていた。
幻想的な光景。案内をしてくれた神殿働きの女性が、苦笑交じりに「氷鳥の羽根」と呼ぶのだと教えてくれた。
レインはひとしきり唸った後、よろよろと起き上って靴を脱ぎ始めた。ふくらはぎに巻きつけていた布が床に落とされる。泥で汚れきったそれをはじによけて「明日洗お」と小さくつぶやいている姿は十六の少年そのものなのだが、ひとたび法律を語らせれば専門課程の教授も真っ青の論客だ。外見はあてにならないと思う。
「明日から、どうする?」
レインがそんなシアの心を知ってか知らずか、小首を傾げて問いかけてきた。
青い瞳はころんと丸くなっている。首をすくめるように伸びをしてから、はだしで移動する様はまるで猫のようだった。青い目の黒猫。
「そうだな……思ったほど天気も荒れてないし、雪は積もってるけどな。明日はちょっと村を回ってみようか。さっき神殿長が言ってたのも気になるし」
「ああ、アレね。コスカスからだとか言ってたな。コスカスってことはどうせ国防か民間の護衛を引き連れて来てんだろ」
シアたちは神殿に入るとまず神殿長にあいさつをする機会を得た。
お決まりの文句で自己紹介をした二人に、神殿長は恰幅の良い身体をゆすりながら歓迎の言葉を述べ、部屋を用意してくれたのだ。実際用意に気を配ってくれたのはルパートだが。
その際聞いたのが「最近頻発する山賊被害を防ぐためコスカスから人員が送られてきている」という話だった。シアは暦を思い浮かべて眉を寄せる。
「それもそろそろ二月だって。派遣団にしちゃ長すぎるよな。これを機に常駐したりして」
「今までだってここを牛耳ってたのはコスカス民だろ。まぁ、それ以上に山賊被害ってのが収まるまでは大っぴらに武器を持って居座れるだろうな。山賊だとか寒波だとか、今年のアンジェラの冬は試練の季節だな」
レインは早速部屋着に着替えると嘆息した。白いシャツに黒のズボン。はだしのままの足をプラプラとさせながら寝台に腰かけている。シアもボタンの無い黒いシャツとゆったりしたズボンに着替え、近くの椅子を引いてきて背もたれをまたぐようにして腰を下ろした。
表情~するとレインはどうやらコスカス地方にはあまり良い印象が無いらしい。
「シアはコスカスって行ったことあるのか?」
レインは荷物に手を突っ込むと自分の持ってきた鏡を覗き込みながら、瞳に装着していたアルダバ蛇の鱗を取り外していた。視力を補強するものとして数年前から広く使われるようになったその鱗だが、シアはアルダバ蛇そのものを見たことがあるために、どうも気持ちが悪い。なるべく視界に入れないようにしながらレインの問いに「ああ」と答えた。
「ガキの頃、親父があっちの領主だか何だかの会に招かれてな。それ以来数年行き来があった」
「へぇ。そんな話を聞くと、お前も一応貴族の一員なんだなって感じがするよ」
「一応じゃなくて、れっきとした貴族だぜ。それも帝国五指には入る大貴族様だ」
レインはちらりとこちらを見ると首をすくめた。いたずらっぽく笑う。
「本人ははぐれ貴族じゃん。公務員なんかになっちゃってさ。術力出ても登録だけして貴族やってたほうが楽だったんじゃねぇの?」
あけすけに問いかけるレインだが、これが意外といらつかない。それはレインが心の底から貴族に興味がないと分かっているからだろう。彼にとっては身分や権力はその人の髪の毛が長いか短いかくらいの違いでしかないのだ。
「お前だって俺とおんなじ立場だったらこっちを選んでるんじゃないか? 毎日着飾って誰かの顔色と政治のタイミングを見て、大きな仕事といえばやれ宰相の息子の剣術の相手だの、将軍の娘のエスコートだの、やんごとなき皇太子殿下の絵本読み上げ係だの」
「わーたのしそー」
シアは持っていた布をレインに投げつけた。
「楽しい妄想のまま、風呂に入ってこいよ。なんなら大貴族な俺様が直々に背中でも流してやろうか?」
「やだよ。気持ち悪い」
レインはやはり裸足のまま部屋の奥にある浴室へと、跳ねるように消えていった。
その扉が閉まる瞬間、ほんの少しだけレインがこちらを振り向く。その瞳がこちらを鋭く射抜いた。大丈夫、わかっていると視線だけで返す。
シアはレインが水音を立て始めたのを確認してから、勤めてさりげなく窓を開けた。
ひとしきり伸びてみたり体を動かしてみたりしてからテーブルに合った赤い果物をかじり、大げさに顔をしかめてからその実を窓から放り投げた。
三階の部屋から放られた実は、前庭の木と葉を揺らす。一晩の寝床としてその木を選んでいた鳥が数羽、暮れ始めた空に消えていった。目視で二、三羽、他の鳥とは色と大きさの違う鳥がいる。
それを確認してからきっちりと窓を閉め、覆いをかける。
「ろくな趣味じゃねぇな」
シアは唇だけでにやりと笑った。
第三条 「合法的盗聴」
昨日の鳥はおおかた、土着の術師かコスカスお抱えの魔法使いが放った使い魔だろう。
とりあえず様子を見るということで落ち着いた。
都市部で頻繁に遠路使用のある神殿ならば使用余波を遮断する施設が整っていたりもするが、ルパートの言によれば身内しか使わないらしいのでそれも必要無いと言う。めったに感じない遠路余波を感じた魔法使いが「誰が来たんだ」とばかりに使い魔を放った。それがシア達の結論だった。飛んで行ったうちの一羽か二羽が使い魔だろう。
今朝になって宿を出ると、新聞に取り上げられた寒波がどれほどのものなのかを身をもって知ることになった。朝日に地面が光り輝いている。
シアもレインも念のためと買い込んだ綿入りの外套の襟をきっちりと閉め、皮の内側に布を縫い込んだ手袋を付けている。それでも外気にさらされている顔や耳は、吹きつける冷気に負けそうだった。
宿屋の主人には滑らないようにと注意を受けるくらいだ。顔面がしもやけになったらどうなるのだろうかと妙な心配をしながら地面を踏みしめる。氷の粉末が舞い上がった。
シア達は慎重に歩を進めて神殿前の大通りに辿りついた。家数件ほどの道のりが、やけに長く感じた。
神殿前の広場には、問題の噴水が凍りついている。早起きの子供たちが手に金属製の匙を持って氷を削り、器に入れていた。家に持ち帰って砂糖でもかけるのだろうか。
「さすがにここまで来ると氷も溶けてるな」
シアは知らず知らずのうちに強ばっていた体をぐっと伸ばしてそう言った。
「溶かしているみたいだぜ。結構壮観だ」
レインが通りの南側を指さした。
大通りの両側には商店が立ち並んでいる。街道沿いのこの町では、旅人相手の商売で生活をたてている者も少なくないのだろう。早朝にも関わらず忙しそうに開店準備をする人たちが通りを行き来していた。
昨晩閉めた店の扉を開け、中からバケツを持ってくると通りに中身を撒く。撒いているのは熱湯らしく辺りにはもうもうと湯気が上がるのだ。
道路中央には一定の間隔で櫓が組まれており、赤々とした炎が踊っている。
日差しの力も借りて、通りにこびりついていた氷は姿を消そうとしていた。これならば通行に支障はないだろう。
シアは炎のそばへと歩み寄った。
「お。見ない顔だな。コスカスさんかい?」
櫓は長身のシアの胸のあたりまでの高さがあり、一部薪を足せるように穴があけられている作りだった。まさに薪を継ぎ足そうとしていた男が人好きする笑みを浮かべてそう言った。
「いや。旅行者みたいなもんだ。それにしても寒いな。こいつが有るってだけで有りがたいよ」
「そう言ってくれれば俺たちの苦労も報われるよ。一晩中こいつと付き合ってんだ」
「……一晩中って……そりゃ」
「一度火を落とすとこれだけの大きさの炎にするにも時間がかかるしな。何しろ通りが冷えちまったらああやって熱湯ぶちまけてもあっという間に凍っちまう。いろいろ試してみたんだが、これが一番効くんだよ」
男はそう言って笑った。
「ま、ここらの男連中で持ち回りでな。これでもマシになったんだぜ。兄さんたち昨晩は宿屋だろ?」
「そこの路地を入ったところの、銀匙亭ってとこで」
男は首に巻いていた布を取り、腰を伸ばした。
話している間にやってきた細身の男にその布を手渡す。どうやら交代の時間が来たらしい。細身の男は布を腰にはさんで薪の様子を覗き込む。布が当番の証のようだ。
「ああ、老舗だな。いいところに取ったと思うぜ。最近は御隣からのお偉いさんが一杯で宿屋も取りにくくて……って、こいつは聞かなかったことにしてくれ」
男がにやりと笑って自分の耳のあたりを指さす。
「ああ。もちろん。それにしても室内には寒さは届かないんだな。冷気避けを?」
シアがそばにあった一軒に視線を移すと、男は「ああ」と返事を返した。
「冷気よけっていうか、邪札を貼ってんだ。神殿の人たちが効くって言うからな。確かに効くよ。寒さもそうだが、夜中に一人外にいるってのはなぁ。……最近物騒だからよ。俺もほら」
そう言って袖をめくりあげた男の腕には、細い紙が巻き付けてあった。紺色の模様が見て取れる。
シアがレインに視線をやると、レインはじっとその文様を見つめていた。
「んじゃ、俺はそろそろ寝に戻るわ。俺の店はあのオレンジ色のやつだからよ。気が向いたら寄ってってくれよ」
男が去った後、シアはレインを促して通りを歩き始めた。
「あの、邪札ってやつ。わかるか?」
レインは商いを始めた露店を冷やかしながら口を開く。
「わかるかって聞かれれば、わかる。ただし……ありゃ、冷気避けじゃねぇよ」
「冷気避けじゃない?」
オレンジ色の幌を張った店は青果店だった。品数は少ないものの、量は申し分ない。レインは言いながらリンゴを二つ購入した。シアに一つ渡し、自分は雑に掌で周りを一撫でしてかぶりつく。軽やかな音とともにかすかに香りが漂った。
「……邪札ってのはさ、対極札なんだよって……ホントに学校卒業したの?」
「したよ。したけど俺は論法も展開法も計算法も陣学も取ってねぇの。専科ではもっぱら構成法メインだったからな」
「陣学の初級は基礎科で習ってるはずなんだけどな……まぁ、いいや。とにかく、邪札ってのは通称名で、正式名称は対極札。この地が神族の地で神殿が神族の属性なら、対極は龍族の力だ。つまり、あれは龍族の札だよ。シアには効力の無い札だろうな」
「龍か。それでなんで冷気が弱まるんだ?」
レインはシャクシャクと音を立てながらリンゴを頬張っている。
「冷気が神族の力だからだろ。対抗力で弾いてんだ。そもそも土地に染みついた属性の力ってのは人の力でどうにかなるもんじゃない。だったら自分の周りの空気を反対値にする方がはるかに楽なんだよ。神殿もそう考えたんだろ。だからどっかの歴史神殿辺りに頼んで龍族札を手配した。それより、俺にはあの男の行動のほうが不思議だよ」
シアもレインにならってリンゴを一口齧った。もごもごと不明瞭な声を出す。
「何が?」
「……寒いなら家にいりゃいいじゃねぇか。こんだけでっかい篝火だぜ。しかも通りには……ええと、四つか。それだけ有るなら篝火の周りの家で窓越しに見てりゃいい。多少窓がくもっても気にならねぇだろ。消えてなきゃいいんだから。それに、もっと簡単に神殿に頼んで燃焼系の魔法でもかけてもらえば一晩丸々見張らなくちゃならないなんてことにはならない」
確かに、燃焼魔法をかけたなら一晩は無理でも、数時間は放っておいても支障は無い。効果が切れそうな時間に起きだしてくれば良いだけだ。
「でも、現状はこのとおり。燃焼魔法を使えない理由があるのか、それとも篝火の近くにいなくちゃならない理由があるのか」
シアは先ほどとは違う篝火をじっと見つめた。なんとなく魔法の残滓を感じられるが、それが対極札の気配なのか、切れてしまった燃焼魔法の気配なのかは判断できなかった。
街を一回りすると、神殿周辺だけ異様に寒いことに気がついた。
先ほどと変わらず神殿前の小ぶりな噴水は、その流れもあらわに凍りついている。
流動していた水を凍らせるほどの冷気が存在し、そして今もまだ凍りつかせている。地面が冷え切っていることを考えると原因は確かに地面の下、土地の属性にあるというレインの意見ももっともだった。
今までバランスを保っていた土地の属性が、なにがしかの理由で拮抗を崩し神族の力が噴き出す結果となったのだろうとレインは言う。指令書によれば、ここを調査するのが二人の仕事だがそう上手く事は運ばない。
神殿の許可がそう簡単に出るとは思えないのだ。そもそも「アンジェラ神殿で対応する」とした案件だ。基本的に地方自治を尊重する神殿組織で、外部からの調査に簡単に首を縦に振ってくれるとは思えない。
噴水を調べられないとなると、性質の揺らぎという漠然とした問題にどこから取り組めば良いのか、新米公務員を悩ませるには十分な課題だった。
アンジェラは地図上では台形に近い町だ。三方を山に囲まれ、南の長辺に街道を持つ。街道は西のアルデナと南東のコスカスを結んでいる。町の北部にはシア達が到着したアンジェラ聖獣神殿があり、そこから放射状に伸びる大通りが三本。中央の通りは街道に直結しており、神殿の街道の中間にはマルクト広場と呼ばれる小さな緑地公園があった。
シア達はその中央通りを南下しながら両脇に立ち並ぶ商店を冷やかしていた。朝方二人で街道までを歩き、その後レインを宿に残してシアはぐるりと街の外周を歩いた。それほど大きくない町だ。昼前には宿に戻り、こうしてレインと昼食を取るために中央通りを歩いている。
「さすがに昼間は気温が上がるな」
シアは宿を出るときに巻いてきた首巻を外しながらそう言った。
「それより、昨日の鳥。また飛んでくるならそれも仕方ないけどさ。四六時中見張られてるかもって思いながら過ごすのは気持ちが悪いな。やっぱ偉そうなお隣さんかな」
アンジェラ神殿は地域保安に力を入れているという隣地コスカスの領主兼神殿長が取り仕切っている神殿だ。近隣の治安にも気を配っていると言えば聞こえはいいが、保安という大義名分でもって統治者のような振る舞いをしているのが実情だろう。
神殿のにいるコスカス人神官も、コスカスから来たという保安官も「自分たちが他の地域を守ってやっている」という考えに取りつかれているのか、横柄な態度を取るものも多かった。とりわけ国防職や公安職の魔法使いを侍らせているコスカス貴族は厄介だ。
「俺たちがあの部屋に入った時にはいなかったと思うんだけどさ。陽が沈みかけたころに湧いたんだよね。気配が」
レインは露天で買った飲み物入りの袋に口を付けながら、やる気の無い口調でそう言った。
辿りついたマルクト広場には多くの露天が立ち並んでいた。小さな噴水の縁に腰をおろし、晴れた空を見上げるレインは空の一点を指さした。
そちらを見れば、昨日追い払ったのによく似た鳥が飛んでいる。
「俺も、部屋に入った時には気がつかなかった。窓の外だったって言うのと、まさか見張られるとは思っていなかったってのもあったから「絶対にいなかった」とは言い切れないけどな」
「でも、シアの家柄を明かしても鳥は消えなかった。だったら家柄身分は『気にしていない』か鳥には音が『聞こえない』か。どちらにしろ大した客じゃねぇな」
レインがずるずると音を立てて袋の中身を飲み干す。
縛り口をあけて袋から地面に水滴を垂らし、完全に空になったことを確認してから袋を握りつぶした。
青い瞳に険呑な色が灯る。
「まぁ、雑魚は放っておいて、さっさと調査しちまおうぜ」
にやりと笑ったレインの口元には、わずかに犬歯が覗いた。
そんな笑い方をしても猫っぽい。
ああでもないこうでもないと思案を巡らせているレインを見ながら、思わず口元がゆるんでしまう。
「まぁ、ほどほどにな」
大柄で腕っ節も強いが基本的に平和主義のシアは、苦笑とともに少しだけ水を差すことを忘れなかった。
「とりあえず聞き込みだ」
レインは健全な方法で責めることにしたらしい。
広場を見渡すと、露天や屋台には主に子供や若い男女が集まっており、広場を取り囲むようにして営業している食堂には比較的年齢層の高い人たちが集まっているようだった。食堂からは広場で遊ぶわが子を見ている親もいるのだろう。温かな視線を感じる気がした。
「んじゃ。とりあえず食堂に行くか。ここでガキんちょに声をかけても怪しまれるだろ。まずは親を責めようぜ」
「シア先輩。僕、お肉が食べたいな」
急に眼を輝かせたレインがするっと近寄ってくる。
いつも寄ると触ると「臭い」だの「うざい」だのと騒ぐくせに、こんなときだけは調子が良い。
「自分の分は自分で出せよ」
「えー。そんなこと言わずに、ね?」
「ね? じゃねぇよ。おんなじ給料だろうが」
レインはつっと距離を取ると、眉を寄せて胸を張る。
「うるさいな。俺は仕事に必要な本を買うので精いっぱいなんだよ。良いから肉。とりあえず肉。肉食わせろ。じゃねぇと寝起きのはしたない姿を広間に投影すんぞ。男の通常反応だって言っても、こんなところでオープンにされるのは恥ずかしいだろうな。あー、先輩の真っ赤な顔が浮かぶなぁ」
「お前な……だったら俺だって投影するぞ。おんなじような恥ずかしいものをな」
「投影できるならどうぞ。俺はそんな姿を無防備にさらしてなんかいないし、そもそもシアに正確な投影が出来るとも思わないし」
レインは華奢な杖を袖口からちらりとのぞかせた。
緑と青のマーブルがきらりと光った気がする。「ここに記録しています」と言わんばかりだ。
確かに自分の赤銅の杖にはレインのあられもない姿など記録していないのだし。だからと言ってこのまま引き下がるのもなんだか間違っている気がした。
「考えんな、考えんな。熱が出るぞ」
楽しげに笑うレインの姿に、ため息ひとつで折れることを決めたシアは、店は俺が選ぶとばかりにシンプルな装飾の一軒へと足を向けた。
はたして食堂は大衆向けのものだった。
壁に張られた膨大なメニューはこの地域特有の癖字で書かれており、シアには読みにくいことこの上ない。それでもレインよりは読めるだろうと適当に注文しようと店員を呼びつける。
シアが口を開こうとした瞬間、横からレインがいつもと違って人懐っこい笑みを浮かべて声を上げた。
「お姉さん。僕、辛いのがダメなんだけど、お薦めって何ですか。できればお肉がいっぱい食べたいんですけど」
レインの口から出てきたのは、流暢な現地語だった。
思わずレインの顔を見ると、口角が得意そうに持ち上がる。「驚いた?」とでも言っているようだ。
驚いたさと心で返してシアは口を噤んだ。
レインが直接やり取りができるなら、口下手なシアが話すよりよっぽどうまく事が運ぶだろう。
「やだよ、お姉さんだなんて。あたしにはあんたくらいの娘がいるんだよ。まったく、そんな言い方どこで習ってきたのさ」
「シア先輩が、年上の魅力的な人には「お姉さん」って呼ぶべきだって、ね。シア先輩」
突然振られたシアは焦りを隠してゆったりとうなずいて見せた。寛容な先輩。この場ではそれが役割だろう。
「あらま、なかなかに旅慣れた先輩のようさね。じゃぁ、先輩にアグランっていう鳥の煮込みとブライナッツっていう香草焼きを食べさせてもらったらいかが。白パンよりはちょっと固めの茶パンがお薦めよ。出来ればオルバーンのサラダを付けるとさっぱりしてたくさん食べられるよ」
「アグランってあれ? 僕チーズ大好きなんです。じゃあお姉さんのお薦めので。シア先輩?」
「あ、ああ。じゃあそれに果実酒を一つこいつに。俺にはベンダービールを」
「おや、ホントに旅慣れた兄さんだったんだね。すぐに持ってくるよ」
店員は慣れた様子でテーブルを抜けて行くと、カウンターでグラスを二つ掴んで戻ってきた。
レインがグラスを受け取ろうとするのを小声で止めて、ひとつだけグラスを受け取る。不思議そうに見やるレインに視線で「任せろ」と合図を送った。現地語を仕入れていても、こういうことは情報誌には書いていないのだろう。
シアはビールのビンを受け取ってグラスにビールを注いだ。レインの前に果実酒が注がれるのを待って、店員にはビールの入ったグラスを渡す。自分はビール瓶を直接手に持った。
「わかってるねぇ。んじゃ、これはサービスだ」
店員が出したのは小皿に入った茶色のペーストだった。
「この地方で取れる土の味噌なんだよ。独特の風味がたまらないよ」
グラスとビンを合わせて乾杯すると、早速レインがペーストにトライする。なめた途端に顔をくしゃっとゆがませてテーブルに突っ伏した。
それを見た店員は楽しげに笑い「こっちの彼にはダメだったみたいだね」と言いながら、自分はうまそうに茶色を口に含む。
シアもそれにならって指で味噌をつまんだ。
「へぇ、結構苦みがきついんだな。果実酒よりはビールに合うみたいだぜ。次はビールで試してみろよ」
「ん……」
レインはきゅっとグラスを傾けて半分ほどを飲み干した。
あまり酒には強くない彼は、既に頬を染め始めている。
「兄さんたちはどこから来たんだい?」
「ヴィッカリー。水路の町です。ご存知ですか」
シアは店員に席を勧めたが、彼女はやんわりと断って盆の角をテーブルに押し付けた。
「ああ。一度だけだけど、行ったこともあるよ。うちの娘がヴィッカリーの学校に通ってるんだ。向こうで刺繍職人の家に下宿しながらね。ちょうど、ほら兄さんの長靴にあるような伝統刺繍の工房なんだ」
「アグダネルですね。神殿にも分室がある」
一瞬、場が凍った。
レインがちらりとシアに視線を送ってくる。反応したのは「神殿」という単語だろう。
「あんたたちは、神殿の人かい?」
「ええ。水路の町の公務員ですから、水路検査ばっかりしていますけど」
レインがにこやかに答えると、店員はあからさまに息を吐いた。さらにレインが何かを言いかけると、店の奥から声がかかる。
店員はカウンターに行き大柄な白髪頭の男と何やら話していたが、神妙な顔でうなずいてから皿を受け取り戻って来る。
「ごめんよ、あんまり油売ってると怒られちゃうんでね。ビールありがとさん」
店員がさっと皿だけを置いてテーブルを離れるのをシアは視線をやらずに確認した。レインは早速料理を取り分けているが、意識は店の奥、店主と店員のやり取りに向いているのがわかる。皿を受け取るタイミングでレインに声を掛ける。レインは上着から小さな帳面を出し指先で一枚を切り取った。手早く書きつけたのは魔法陣だ。
「増幅させるか?」
「上手くやれよ。調査第二種補則「不可知」展開要請。展開後調査第二種補足「ゲイン」要請」
「了解。任せとけ」
小声でやり取りをした後、シアは杖ではなく指先でレインの書いた陣をなぞりゆっくりと文字と陣だけを浮かび上がらせた。レインの描く陣はいつだって芸術クラスの構成だ。持ち上げると綺麗に空気に溶け込み広がっていく。これならよほど敏感な魔法使いがこの店に居ない限り、陣が発動したことすらわからないだろう。店に陣がなじむのに時間はかからなかった。すぐにシアはまっすぐに聴覚をカウンターに向ける。
これでシアは気づかれることなく、遠いカウンターの声が拾えるのだ。繊細な感覚魔法はシアの不得意なものの一つではあるが、若き相棒の仕込みのたまもの。聴覚系と視覚系の増幅魔法だけは自信がある。
「彼らはなんだって?」
「ヴィッカリーから来た魔法使いだってさ。でも、アレの調査に来たわけじゃないんだって。水路調査員だって話だよ」
「だとしても、あまりかかわらない方がいい。魔法使いだって言うだけで危険だろ」
「……でも。噂じゃあの人たちはアレを家出だって片づけてるそうじゃないか。せっかく他のところの人が来たのに」
「めったなことを言うな。あの人たちがそう言うなら、そうなんだろう」
「でも……」
「とにかく。彼らは公務員なんだろ。あの人たちとも同じ考えかもしれないし、あの人たちに繋がりがあるかも知れない。めったなことを漏らして俺たちがこんなことを話していると知られたら、何をされるかわかったもんじゃない。良いか、黙って過ごすんだ。でないと、リラも危ない。一人娘だろう。危ない橋は渡るなよ」
「……そうね。居なくなった人たちには……悪いけど」
「もう、手遅れさ。あとはこれ以上被害が広がらないように祈るだけだ」
「……そうね」
「大丈夫だ。昨晩青年団が確認してきたんだ。井戸は閉じられてる。いいか、忘れるんだ」
レインは不服そうに耳飾りをいじっていた。レインには声は聞こえない。
かいつまんで内容を話すと、綺麗な眉が一層寄せられた。
「あの人たちってのが気になるな」
シアのつぶやきにレインは眼だけで肯定する。
「……コスカスなのか、他の誰かなのか。ただし「公務員」だから「同じ考え」だというのなら、あの人たちってのも公務員だ」
「アレってのはなんだろうな。で、村の人たちは少なくともアレを家出とは思っていないし、上がそういう判断をしていることに不満を感じてる。これって……レインはどう取る?」
スプーンを動かして最後の一かけらを口に放り込んでから、レインはふっと息を吐いた。
「まだわからない。俺はもう一つ、井戸ってのがすっごく気になる。攻めるならそこからじゃないか。何せ俺たちは水路調査員だからな」
シアは伝票を持って立ち上がった。
ならば早速井戸を調べてみるべきだろう。
第四条 「コスカスってやつは」
携帯用測量セットと同じく携帯用水質調査キット。この地方の地上地図に水脈地図。
どれもアルデナ到着時に受け取れるよう、ヴィッカリーから取り寄せた品々だが、適度に古びているのは歴代のヴィッカリーの法律家たちがいかに「水質調査員」を騙ったことが多かったかを示していた。
手に入れてきたレインいわく「普通に購買に注文した」そうだから、そういうものなのだろう。
用意を整えて部屋から出ると、ルパート付きの学生事務員がすぐに近寄ってきた。
「これからお仕事ですか」
「は、あ」
突然話しかけられて驚いたのだろうか、レインが珍しく口ごもりながら答えた。
よくよく見ていると、どうやら話しかけてきた少年と自分の顔が近すぎて困っているらしい。
「あの、レインさんって十六歳だって本当ですか」
「あ、あの。もう少し離れて、もらえません?」
レインがやんわりと身体を押し返すと、少年は顔を真っ赤にしてぱっと一歩退いた。身長はレインより少し小さい。小柄な部類に入るだろう。
陽に焼けて白っぽくなっている金髪はあちこちにはねていて、大きな褐色の瞳が表情を豊かに彩っていた。
「す、すみません。あの……」
レインはすぐに笑みを浮かべた。こういうところは本当によく躾けられているというか、装っているというか。
「僕の年齢ですか。確かに十六ですよ。来月には十七になります」
「本当ですか!? ああ、やっぱり凄いな。専門課程を十六で修了したのでしょう。僕なんて、まだ実務過程への進学許可も出ないんです」
少年はショアと名乗った。レインよりひとつ年下だという。
「五歳の時の帝国試験で適性が出たんです。両親が喜んで学院に入れてくれたんですけど……どうもいろいろと上手く行かなくて。準備科と基礎科を出てからは実務科入学試験準備のためにここで働かせてもらいながら勉強しています。あの……」
「まぁ、焦るなよ。俺は十八で実務科に行ったぞ。まだまだ平気だって」
シアがカラカラと笑うと、レインが苦笑を浮かべる。
「シアとは違うって。目指してるのは実務系じゃないんでしょ」
実務系魔法使いは実地で学べとばかりにきっちり決まった年数を学院で過ごせば仕事に就けるが、レインのような学術系魔法使いは実務登用試験に合格しなくてはならない。厳密にはシアは実務系とも学術系とも区別しきれない職のひとつである裁判官なのだが、ここでは水路敷設にかかる実務系魔法使いとして通っていのだからこのやり取りで正解だろう。
「あ、そうか。……んじゃ、実務やってから学術試験でもいいじゃん」
「はは。それもそうですね。僕も頑張ろうっと」
ショアはにこやかに笑いながら頭を掻いた。
「今度、僕が使ったのでよければ本を送りますよ。ちょっと書き込みあるかもしれないけど」
「え! 良いんですか。書き込み大歓迎です。むしろあった方が嬉しいです」
ショアは興奮した様子でレインの手を握ってぶんぶんと振り回す。
「ちょっ、っと。近いって」
シアは二人を軽く手で制してから、ふとショアを見た。
「ショアはこの村で暮らしてるんだよな」
シアの問いかけにショアは背筋を伸ばして返答した。
「はい。神殿に泊まることもありますが、町はずれの部屋を一つ借りていますのでそちらで過ごすことも多いです」
「じゃぁ、村の地理とかって」
「ばっちりですよ」
ショアは薄い胸を張った。
ショアに案内を頼んで、とりあえずは敷設水路をチェックする。
世間一般の平均からすれば、少し浅い井戸ではあるが水質にも工事にも問題はなさそうだ。
この村では、山から神殿を囲み中央通りに沿って流れている川から支流を作って水を得ていた。村の中心部には上水施設が整っており、商店が立ち並び、噴水や公園等の公共施設が集まっている。その中心から遠ざかり住宅区になると、生活用水はもっぱら井戸頼みとなっていた。神殿で受け取った資料を見てみると、村には二十を少し超えるほどの井戸が、今も生きていることがわかる。
「僕の部屋の近くにも公共井戸があります。普段は大家さんが一日分の水を貯水甕に入れておいてくれるので汲みに行くことはありませんが、洗濯物が多い時とかには自分で汲んで使うこともあるんですよ。ヴィッカリーは水の町ですよね。水道の普及率が高いと聞いていますが」
井戸の状態を調べながら、シアは「高いよ」と答えた。事務的に調査しながら用紙に数値を書き込んでいく。
「一般家庭でも水道は大概通ってるな。使用制限も無いし、ヴィッカリーは寒いから風呂も湯を張った中に浸かるし」
「へぇ。風呂に浸かるなんて東のニル・ホーみたいですね」
シアは小さく笑って「今度遊びに来いよ」と返した。人懐っこいこの少年にとってヴィッカリーはそれなりに楽しめる街だろう。観光都市としても名高いヴィッカリーには、彼の好奇心を刺激するものがたくさんある。
「あとは……あっちかな。あの赤い屋根の家の井戸と……」
「ショア。アレは?」
レインが測量しながら山の中腹を指さした。木々にまぎれてわからないが、何かきらきらと光ってるのが見える。どうやら家が建っているらしい。光っているのは深い緑色の屋根の端だ。ショアが伸びあがるようにして視線を山の稜線へと向けた。
「あっちには何もないはずですけど……かつての集落跡とかですかね」
レインは手元にある水脈地図と山を見比べながら険しい顔をしていた。
「誰も住んでない?」
レインの問いにはショアが首を縦に振る。
「神殿で住人名簿の管理もしていますが、この奥には誰も住んでいないはずです。この村の住人は百年くらい前から二百人前後で増減していないですから、見落とすなんてことも無いと思うんですけど」
「念のため、ちょっと見させてもらおうか。シア、どうする?」
シアは目を凝らして山の中腹を見ていた。
そろそろ陽は山に沈む。この様子ではショアはあの家については何も知らないだろう。
記録に残っていない家。ただの廃屋ならそれでいいが、もしも誰かがあそこに棲んでいると言うなら、夜盗や山賊、もしくは他国からの密入国者という線も捨てきれない。
「今日山に入るのはやめておいた方が良いんじゃないか。この調子じゃ帰りは夜道だぞ。明日、ちょっと寄らせてもらおう」
ショアも頷きながら山を見ていた。
「もし、変な人がいても困りますもんね。僕、報告しておきますよ」
「そうですね、神殿も知らなかったなら念のため」
レインが器具をまとめながらショアに返事をした。
「あ、そういえば、僕も先輩がこっちに来ていて。もし、明日行くのなら先輩たちに来てもらった方が良いかもしれませんね」
シアとレインは顔を見合わせた。
これはもしかしたら。
ショアは得意そうな表情のままに口を開く。
「コスカス治安組はすっごく強いんですよ。変な人がいたって安心です」
ショアの笑みに一点の曇りもない。
その晩、シアたちは神殿の東側にある食堂にやってきていた。
この村では上等な部類に入る店らしく、小さいながらも舞台と楽隊をもち、歌姫と呼ばれる妙齢の女性が出番を待っている。
「へぇ、あんたたちはヴィッカリーから来たのか」
シアはにっこりと笑った。先客はかの有名なコスカス組だ。店の中央に座る男は、きらびやかな衣装を身につけてつまらなさそうにフォークを口に運んでいた。
「はい。昨日到着しまして……なんとか今日から測量に入ったところなんです」
「水路を作るんか。いいぞ、いいぞ。頑張れよ。コスカスにも水道は敷かれてるぞ。しょっちゅう断水するがな。あった方が便利は便利だ。俺たちみたいな必需タイプの仕事じゃねぇけど、しっかりやるんだぜ。真面目にやってたら保安や国防に回れるかも知れないからな」
酒臭い男は、無精ひげもあらわにシアの肩になれなれしく体重を乗せる。保安職らしいが、腹のあたりのたるつきは平和ボケ以外の何物でもないように思われた。
二十人ほどのテーブル席は、ほとんどがコスカスから来た役人や警護の人で占められており、たまたまこの店にいた人たちは店の隅に追いやられている。
「おい、ねーちゃん。こっちに先に持ってこいよ」
「この町が平和でいられるようにって集まったんだからよ、ちょっとは融通きかせてくれよ」
「おい酒はこっちが優先だ」
「さっさと歌わせろよ。ああ? 時間だ? そのくらい良いじゃねぇか」
「ケツを触ったくらいで騒ぐんじゃねぇよ」
店員たちは皆ひきつった愛想笑いで要望に答えながらテーブルの間を抜けて走り回っている。
「みなさんはどういったお仕事でこちらに?」
シアはレインをさりげなく扉に近い席に着かせて、自分はその隣に腰を下ろした。でっぷりと太った保安官がニタニタと笑いながら口元を緩める。
「そりゃ機密ってやつだ。俺たちの仕事には明かせないものも多くて困るよ」
酒を一息にあおり、追加を注文してから保安官はぐっと声をひそめる。
「あんたたちはお仲間だからな、まぁ、教えてやろう。ココだけの話、この村では失踪事件が起きてるんだ。目下失踪者は七人。みんな子供さ。俺たちはその調査をしてるんだ。村の連中には不安を生むだけだから「家出」ってことにしてるが、まぁ、違うだろうな。既に一人、死体も上がってる。あの感じは獣にやられたんだろうが、食われたっぽいからな。獣か山賊かわからねぇ」
「それは……山賊なら物騒ですね。この辺りには山の民もいませんし」
「それで呼ばれたんだよ。死体が見つかったのは川っぺり。山の上から川に放り投げたのなら筋もとおるだろ。山賊の仕業なら、山の治安を請け負う山の民がいない今、俺たちの出番って言うわけだ。死体だって俺たちが見つけたから良かったものの、村の連中に見つかってたら今頃大騒動だ。いらん事件を起こしかねん」
シアは運ばれてきたビールを一気に飲み干した。その様子に保安官は気を良くしたのだろう、自分も酒を一気にあおってさらに注文を重ねる。
「亡くなったのは?」
「……ホマスっていう少年だ。一緒にさらわれたらしいもう一人の少年は目を覚まさないが……両足を持ってかれてるからな。難しいかもしれんな」
レインが小さく背中をつついてきた。
「治療も皆さんで? 医者を連れてきているとか」
保安官はそれはそれは誇らしげに店の中央を指さした。
「俺たちのリーダーが医師の資格を持ってるんだ。ロルダー・アンブレア・コスカス。コスカス領王の第三子。普段はあんな感じだが、いざというときは結構きびきびした若様なんだぜ」
ロルダーという領主の息子は、相変わらずつまらなさそうに舞台を見ながらフォークを動かしている。細身の体からは覇気は感じられなかった。
「気持ち悪!」
レインは部屋に帰りつくなり吐き捨てた。
「なにあれ。領王って何語? 別に保安職になんて就きたくもないんだけど!」
「わかったから、落ち着け。世の中の保安職を敵に回さなくて良いから」
「あの横柄さって何。どこで売ってるわけ。って言うか、そろいもそろってバカばっかり。でかい態度を身につける前に常識と犬くらいの知能とミミズくらいの知性を身につけろ。あれなら百人いたってシアの頭にも及ばないよ」
「いや、最後の一言は余計だから。な、落ち着けって。熱が出るぞ」
ストレートの黒髪がうねっているように見えるのは気のせいか。この相棒は結構身体が弱いのだ。昨日からの強行軍に加えて、これだけのテンションで憤っていればそのうちぱったりといくに違いない。
「それにあのぼっちゃんリーダー。趣味の悪い服着ちゃってさ。リーダーならリーダーらしく横柄に座ってろっての。自分だけは違いますって言う主張かよ。気持ち悪い。あれならシアのほうが千倍マシ!」
「だから最後の一言は余計だっての。いい加減怒るぞ」
うろうろと部屋を歩き回りながら文句を言い続けるレインを力ずくで捕獲して寝台に放り込む。
「落ち着け。お前がコスカス嫌いなのはよくわかったから」
憤りで頬を染め上げている相棒はぶつぶつと文句を言いながらもとりあえずはおとなしく寝台に腰かける。
「ああいう手合いが大嫌いなだけだ。コスカス全体を嫌うにはもう少し理由が足りない」
「お前ね……まぁ、コスカス全体がああじゃないさ。先代領主がちょっと過激な人だったからな」
レインは首を傾げた。無理もない、コスカスはその性質こそ有名だがそれに至る歴史に興味をいただかせるほどの領土も歴史も持たない場所なのだ。簡単にいえば、百年に満たない歴史しかなく、痩せた土地しかない地域。
「初代……といっても事実上先代領主があの地域を手に入れたのは、第二次ハミル戦争で人道支援に尽力したことを評価されてのことだったらしい。当初、あの地域は軍事施設を作る予定だったんだよ。帝国の端に位置していて少し高地だろ。だからあの場所から帝国に攻め入る敵国の抑止力として大きな砦を作るはずだった」
「それは知ってる。結局人足がたりなくなって中途半端に終わったってやつだろ」
レインはぶらぶらと足を揺らしながらそう言った。
「表向きは。実のところは逆だったらしい」
「逆? 人はたくさん居たってこと?」
「ああ。人は多かった。初代コスカス領主は近隣で戦争の被害を受けた人たちを領民として受け入れた。疲弊しきった人々に砦を作る仕事を与えようとしたんだ。砦は順調に作られていったが、同じように順調に人口が増えた。最初が「難民受け入れ」というところから始まった領地支配だからな。途中になって「もう受け入れられません」とは言いにくかったんだろ。
結果人口は領土の力に比べて爆発的に多くなってしまった。執った政策が「地域保安政策」だよ」
「……なんか、シアに教わるってのが嫌なんだけど、とりあえず見えてきた」
「あのな……まぁ、俺が政治に強いわけじゃなくて、昔コスカスの隣に俺んちの土地があったんだよ。それを取られたって曾爺さんがぼやいててな」
「それなら納得」
レインは青い目を輝かせて口を開く。どうやら思考がはっきりしてきたらしい。
「地域保安政策ってのは、近所に行って勝手に警察のまねごとをしてお礼にお金やら食べ物やらをせしめるやつだろ。それにしたってそんなに食い扶持を賄えるとは思えないよな。もっと大々的な口減らしとかしたんじゃないか」
「ご明察。もっともその前に傭兵やら柄の悪いのが流れ込んできたっていう背景もあったけどな。結果、留学制度を設けた。コスカス生まれの子供はもちろん、政策施行当時十歳以下の子供たちの半数近くが「留学」と称して十年間コスカスを離れるという政策を取ったんだ。親がついて行く場合もあったし、子供たちだけの場合もあったらしい。結局子供たちの多くはコスカスに戻らず、そのまま留学先で生活を」
「待って。それって……ホント?」
レインは何かを考えるように指先で顎をつついている。
「俺、ヴィッカリーでも中央学院でも……その前に居た北地方でもコスカス出身者になんて会ってないぞ」
シアは自分の周りを思い浮かべてみる。コスカス出身者。
横柄だが腕っ節が強く、乱暴だが金を払えば危険な仕事も厭わない。ちょっと自己中心的なところと身銭を切りたがらない性質という微妙な印象だけが先行しているコスカス。言われてみれば直接コスカス人に遭うのは今回が初めてかもしれない。
そう思ってみると、ショアはコスカスには珍しいタイプなのかもしれない。
「俺も、ここに来るまで直接コスカス人には会ってないな」
「だろ? 公務員学校にあんまり居ないってんなら他の学校か? それでも多少交流はあったし、他の地方からの留学者なら耳にしたけど」
結論は急ぎたくはない。
急げば暗いゴールが待っていそうだ。
渋るシアをよそに、レインは強い瞳でその線を越えた。
「留学っていうのが嘘だったなら? 半数は本当に「口減らし」をされたのなら? なぁ、シア。この村の人口って適正だと思うか? 二百二十人の住民。街道村だから商業地域に住んでいる人が五十人いたとして、残り百五十人。四人家族ならたったの四十戸弱。井戸の数は二十六。共同井戸にしちゃ多すぎ無いか? しかも生きている井戸で二十六なんだ。今日調査しなかった枯れ井戸を合わせたら優に戸数を超えてしまう」
黙りこくったシアに、レインは鋭さを増した瞳を向けた。
第五条 「井戸と護法」
月が中空に浮かび、星の出る頃。
二人は散歩に出る風情で神殿を出た。入り口に居た職員に「閉門は二時ですよ」と告げられ、軽く手を上げて答える。
どうせどこかで目を光らせているのなら、堂々と向かった方が良いだろう。
井戸らしい井戸は既に調べた。その際、井戸と呼ばれるものがありそうな場所も調べたつもりだ。あとは、あの山の中腹にある家を調べ、一体何の意図でこれだけ多くの井戸が作られたのかを調べなくてはならない。レインが言うにはコスカスにほど近いこの村で、コスカス民が土着していないことも気になるという。水をつかさどるヴィッカリーのような地域でなら個人の井戸や水路を持っていても納得できるが、この地域でそれは無いだろう。
「ちょっとおかしいとは思ってたんだ。今日調べていても、井戸の近くにもう一つ井戸があったりしただろ。枯れ井戸が三つあって、すぐそばに使用できる井戸が二つあるところもあった。あの時は神殿の方針かとも思ったけど、コスカスの話を聞いたらもう一つ想像できたんだよね」
レインは空を見上げながら、とくに感情を乗せない声でそう言った。
「コスカスから何人もの人が「留学」したり「出張」したりするわけでしょ。でも、その人たちは「留学先」や「出張先」でコスカス民として認識されてない。もちろん普通に生活している人もいると思う。でも、こんなに近いアンジェラで派遣兵っていうか、ああいう連中以外のコスカス民をあまり見ないってのはさちょっと気になるんだよね」
シアは無言でうなずいた。
「そもそもコスカスから出ていないか、たどり着いた先で消えてしまっているかだと思うんだよね。もしくはその両方」
二人の間には嫌な沈黙が流れた。
シアは左腰に皮で出来た杖掛けを下げ、そこに二本の赤銅色の杖を差している。レインも携帯用にしている蛇腹折りの法典を腰帯の後ろの方に差していた。レインの杖はとても小さく収納できるので、今は手首の飾りになっていることだろう。
「シア。山に入っても灯り無しで行ける?」
レインは山道の入り口でそんなことを口にした。足元には真新しい足跡がある。少なくともここ数日のうちに誰かがこの道を通ったのだ。
灯りはつけないに越したことは無いだろう。
「月夜だからな。大丈夫だ」
二人は歩をゆるめることなくそのまま山道を辿った。踏み固められた道はそれほど歩きにくくは無い。
神殿からは半刻も歩けば着いてしまう距離にあるにも関わらず、ここにはどことなく陰鬱な気配が漂っている。シアは念のため杖を一振り手に持った。
家は古びたものだった。
はがれかけた外板に割れた扉。遠目に見ても廃屋そのものだ。辺りに人気は無い。念のため上空も警戒してきたが、どうやら今日の見張りはお休みらしい。
レインも同じように感じていたようだ、小さくうなずくのを見て、シアは杖先に灯りを灯した。
「ただの廃屋かな。人気もないし……水脈が通ってるのかと思ってたんだけど、探り探り来たらどうもあの辺でわからなくなっちゃったんだよね」
レインが示したのは家の敷地と獣道を分けていただろう塀の跡だった。
「でもほら」
レインが指し示すのは、何かで覆われた一角だった。近づいてみるまでもない
「井戸……か。でかいな」
それまでの大人が両腕を広げればふちを掴めるほどの大きさよりも、確実に一回りは大きな井戸だ。
基本的に大きな口を持つ井戸は深い。そのため水をくみ上げるための滑車や、そうでなくても紐をかけるための柱があるのが普通なのだが、その井戸の周りには跡すらなかった。
「水を汲むためじゃなかったのかな。貯蔵庫だったとか」
レインはそっと覆いを持ち上げて首を振った。
「だめだ、口には石の蓋がある。覗けないや」
辺りを見回すと、この小屋で使っていたのだろう木材置き場と、斜めになっている棚が見えた。
「うーん。猟師小屋? 獲物をさばいて干物を作るとか」
「普通こんなに里に近い所に小屋は作らねぇがな。俺には蚕棚っぽく見えるぜ。ちょっと普通のとは形が違うけど」
レインは家を一回りしてから割れた隙間から中を覗いた。
「見えない。入ってみるしかないか」
意を決したらしいレインは自分も杖を用意する。シアと同じくらいの大きさにした杖は透明な青と緑が混ざったような色をしている。中にはきらきらと金色が散っているのだが、あいにく今は見ることができなかった。
白っぽい光が灯されて辺りが一層明るくなった。
シアはレインを少し下がらせてドアを引いた。
「何も……ない、か。ただの小屋かな。広いけど」
「やっぱり猟師小屋でもないな。火も炊けないし、獲物をつるせない」
「シアってさ……まるで山育ちみたいな」
「ほっとけ。天下の帝国育ちだ」
シアはそろりと中へ足を踏み入れた。床板がきしむ。
木造の建物内は埃臭さに加えて、どことなく饐えた臭いがした。
「あまり、長居をする場所じゃないかもね。ほら」
レインの杖が一点を浮かび上がらせる。
古びた黒いしみが壁に転々と散っていた。
「血痕か。ああ、それに」
シアが拾い上げたのは、まだ小さな靴。はいていたのはおそらくシアの腰にも満たない身長の子供だろう。シアは思わず息をのんだ。レインに渡そうと動いた腕を無理やり床へと戻す。
「どうした?」
シアの様子にレインがいつになく心配そうに近寄ってきた。
「……。まだ、中身が入ってる」
「……」
レインはひとつ溜息をつくと、その靴のそばにしゃがみこむ。細い指で靴を持ち上げると、中を確認した。「ごめんな」とつぶやいたのち、その靴の紐をほどいていく。腐敗の進んだ小さな足が靴から床へと場所を変えた。
「キュイナ……」
レインが靴の裏側に書かれた名前を確認し、その小さな足に死後の眠りの言葉をささやいた。シアも同じように黙とうする。
次の瞬間だった。突然地面が揺れた。バランスを崩した二人がそれぞれ床に転がる。シアが立ち上がろうとしたときには、首に細い杖がつきつけられていた。
シアは杖を一振りして大きさを変えると、とっさにその杖をはじくように切り結ぶ。押し込められる力を利用して体を回転させて膝を立てると、床に伏せたレインの襟を掴んで乱暴に自分の後ろに押しやった。右腕に力を込めれば杖が反応して光を増した。
相手はおそらくシアよりも体格の良い人物だ。険呑な気配はもはや殺気と呼んで間違いないだろう。
薄暗い小屋の中で顔を見ることはできないが、それでも十分だった。体の位置が分かれば攻撃も加えられる。シアは頭の中が冴えるのを感じていた。
「待ってシア。これは……護法だ」
シアが踏み込みのためにわずかに足に力を入れたのと、レインがそういったのはほぼ同時だった。とっさにシアは手の力を抜く。
「……護法?」
レインは膝立ちのまま部屋の隅に移動する。シアも護法と呼ばれた「ソレ」から視線を放さないようにしながら静かに壁際に身を寄せた。
「ああ。間違いない。……それよりシア。気づいてないみたいだからあえて言うけど」
レインの言葉にそちらを向くと、険しい表情の相棒と目があった。
「嗤ってる。落ちつけよ」
思わず空いている手で顔に触れた。嗤うなんて。
「引きずられるなよ。殺意を持ってるのは護法であってお前じゃない。シア、その殺意はお前のものじゃない」
一つ深呼吸をしてカビ臭い空気を嗅いだ。改めて相手を見る。レインが護法と呼ぶそれは不思議な灰色の人だった。右手に石のような杖を持ち、左手には大ぶりの鎌を持っている。その鎌は少しだけ色を違えていた。焦点の合わない瞳は鈍い赤に見える。
「何かに反応して出てきたんだろうけど……物騒な護法を作るやつもいたもんだな」
「レイン?」
レインはシアの声に小さく手を上げてその先を制した。レインは一つ鋭く息を吐くと、ゆっくりとそいつに近付いて行き、じっとそいつを見つめたまま動かなかった。すると納得したかのようにソレはゆっくりと瞼を落とした。
『ユルサナイ』
空気を響かせずに耳に声が届く。
シアの皮膚は一気に粟だった。
影は一瞬で消え去った。レインが疲れた様子で息を吐く。
「怖えぇ……」
レインはそう言って頭を抱えてうずくまる。
「レイン、外に出よう。ちょっとここはやばそうだ」
力の抜けたレインの腕を掴んでシアは小屋から飛び出した。
外に出てみれば月灯りで明るく、二人は顔を見合わせて苦笑した。とんだお化け屋敷ではないか。
干からびた子供の足。
床と壁を染め上げる血痕。
踏み入れたものを殺そうとする「人ではないもの」
そして最後の
『ユルサナイ』
という発言。
「ユルサナイか……何を許さないんだろうな」
「……考えると夜に似つかわしい話が出来上がるよ」
シアの呟きにレインがため息をつきながらそう言った。
「あの小屋入るとアレが出てくるってことか。侵入防止のガードマン? 侵入を許さない、とか」
「まぁ、そういうことだろうね。でも、誰かが何かを守るためにあの場所に設置したんだろ。守るっていうか、それこそ侵入防止のためにさ。でも、シア。お前護法って使える?」
シアは首を振った。
護法というのはとても古臭い魔法だ。
丁寧に設計図を書き、そこにさらに丁寧に順序良く力を注ぐ。するとその設計図を基に形と力を得た物体が出来上がるというものだ。古典魔法と言ってもいい。
今は型と呼ばれる媒体に直接出来上がりの想像を加え、術者の意識にリンクさせる方法を取るのが主流だ。
設計図通りにしか動かない護法よりも、その都度臨機応変に姿を変える使い魔のほうが勝手が良いのだ。
正直「護法」を直に見たのも今回が初めてだった。
「俺も使えない。というか、多分作れるけど……せいぜい数日保てば良いほうで、すぐにダメになると思うんだよな。それがアレは結構な時間を感じられたから」
「しばらくはあそこにあったってことか? 誰かがあの小屋の床だかどこかに設計図を書いて、誰かが踏み込んできたら発動するようにした」
「たぶんね。それに……攻撃性も高いと思う。あいつの手、見た? 杖も持ってたけど、もう片方の手には刃物持ってたでしょ。研いだばっかりってくらいにテカテカのやつ。その上あいつの膝下、法布も何も巻かれてなかった。場所に縛られてるわけじゃない。制約がないんだ。出て行こうと思えば出ていける。条件がそろえばあいつは外へ出るんだよ」
シアは息を飲んだ。
「ちょっとまて。んじゃ、誰かが……それこそ村のガキが忍び込んでアイツに遭遇してさ、やばいって思って逃げて追いかけてきたりして……追いつかれて、獲物でばっさり?」
「……可能性はゼロじゃないけど……護法だからなぁ。「護る」のが本来の存在意義のはず。何かから何かを守ってるんだと思うんだよね。だからちょっと侵入したからって発動しないのかも。すぐには出てこなかったから、もしかしたら少し長い時間あそこにいると発動するのかもしれないな。それよりさ、護法は経年劣化する魔法なんだ。今も生きてるってことは少なくとも保守点検をしてる奴がいる。んで、その保守点検の結果……発動は感知されてると思うんだよね。ほら」
少し小屋から離れて座り込んだところで、山道を上がってくる数人の気配がした。
「まったく、今日はついてないな」
「とりあえず物理的に隠れよう。生活法第五九八条 接近禁止にかかる三法「隠遁」要請」
「……うし」
レインが腰から蛇腹折りの一冊を取り出し、パラパラと開く。該当箇所をシアに指示し、シアの指先がそれを辿った。
二人を小さな粒子がまとい始めると、途端に気配が希薄になっていく。そのまま小屋の入口が見える木の陰に身を隠した。
「護身用の一冊で正解だったな」
レインが濃い草色の本を腰に差し直しながらため息とともにつぶやいた。
山道を踏みわけやってきたのは、人数にして五人。いずれも隙のない兵士たちだった。
この小さな村にいる兵士は、もはやコスカスと同義語だろう。
シアの隣でレインの眉が寄せられる。
「あれは……コスカス領主とやらの息子殿じゃ」
シアは思わずレインを見る。レインも同じ気持ちだったのだろう、シアを見てから頷いた。
男たちに守られるように山道を登ってきた青年は、鋭い視線で辺りを見回すとひとつ頷いた。
男たちが小屋へと入っていく。すぐあとにフードをかぶった人影が続く。傍らには二名のコスカス兵。
数分もたたないうちに全員が小屋から出てきて何かを話し合った後、山道を降りて行った。
レインが詰めていた息を吐いて、気配消しの魔法をはじいた。
夜の空気が二人を包む。深呼吸とともにレインは口を開いた。
「何やってんだ……アイツら」
シアは彼らが消えて行った山道を見ながら、フードをかぶった人物が気になっていた。顔までは見えなかったが、雰囲気ではまだ若々しい感じがする。
「あのフード。魔法使いだろ。かといって系統立てたコントロールはしてないみたいだから土着系の魔法使い」
シアの言葉にレインが振り向く。
「土着の魔法使い……」
レインはしばらくじっと小屋を見つめていたが、やがて意を決したように小屋へ向かって歩いて行った。シアは辺りを警戒しながらそれについて行く。
「緊急対処法第六百二条補則三条。ゴダール歴二百二年弓月判例により、影響遮断許可に基づき「寂燈」」
初めて聞く魔法だった。困惑したのがわかったのだろう、レインは少しだけ笑みを浮かべるとシアの杖に直接手を触れた。
「水系の魔法なんだ。俺が引いた道がわかるか?」
杖を通して感じる派動は、細い糸のようなものだった。しなやかなレインの紡ぐ糸を感じて頷く。
「イメージはそうだな……月灯りかな。その道に青白い光をともすように力を乗せて」
ゆっくりと言われたとおりに力を解放する。さっきまでの高ぶった気持ちを引きずっていたのか、少しだけ暴れる意識を無理やり押さえつけた。跳ねる力が一瞬コントロールを失った。すぐに手元に引き寄せたものの、あわててレインを見ると眉を寄せている。
「すまん」
「大丈夫。それより、展開したみたいだな」
術者であるシアの失敗は、コントロールをつかさどるレインに還る。今も跳ね上がった力はレインに衝撃を与えたのだろう。いうなれば振り回した腕が当たったのに近い。
なんとか安定させて周りを見ると、自分たちの周りだけ気配が希薄になっているようだった。
「透明人間仮死状態。あんまり使うと気が狂うらしいから気をつけてね」
レインは嘘か本当かそんなことを言ってにやりと笑い、不気味な空間に繋がるドアを開けた。
室内を見渡す。部屋の隅に立ったまましばらく様子を見ていたが、護法が発動する気配は感じられない。なるほど透明人間というのはこういうことなのだろう。人にも「護法」にも見えない存在。
室内は先ほどと何ら変わりは無いように思えた。壁を汚す血痕も、あの足も。
いや、足の位置は少し変わっているようだ。あのコスカス兵が動かしたのだろうか。
「シア。何か?」
レインがじっと護法とやらが立っていた場所を睨みつけながら問いかけてくる。
「……断片的に何か引っかかってるんだが、一体何に引っかかってるのか俺にもわからん」
「だったら話せ。俺が考えてやるから」
レインは悔しそうな表情を隠そうともせずにそう言い放つ。
「残念なことに、俺には大した魔法力は無いからな。感知することも、使役することも制限が多い」
そうなのだ。この優秀な魔法使いはその魔法力に問題があった。
帝国の基準値とされるレベルをはるかに下回っている。ともすれば一般人と大差ない。
しかし、そのハンデを補って余りあるほどに法典と法律への造詣は深かった。彼は自分の魔法力を研ぎ澄まして使役する。そのコントロールは学院の教授ですら教えを請うほどだ。
そんなレインが悔しそうな口ぶりでシアを見る。そのまっすぐな視線に何度気押されたことか。
「……レインはどうしてあいつらが護法だってわかったんだ? 俺には何にも感じなかった。人だと思ったんだ。それとあのフード。妙に足の運びが悪かった。何というか、身体が意識について行ってないような。復帰療養中の兵士にああいう動きをする奴がいるけど、そういう感じでもないし」
「一個ずつつぶそう」
レインは彼らが再び戻ってきたらわかるように、小さな鈴を飛ばした。
全国的に良く使われている使い魔だ。子供のカバンにつけて防犯に役立てたりする家庭も多い。
鈴は金色に光ってから小さな羽根を振り回しながら飛んで行った。対になる銀色の鈴を床に置く。これでわずかにでも反応があれば拾えるだろう。
小屋を出て話をすることも考えたが、足のこともある。シアは比較的汚れていない椅子をレインにすすめ、自分は壁に寄りかかることにした。
「……まず、護法についてだが」
レインは静かに話し始めた。
「俺の親父が護法使いだったんだよ。早いうちに魔法使いを志したらしくて、ちょっと懐古趣味って言うか……そんな感じで。両親とも共働きだったから、家には護法がいてくれた。護法の見分け方はすごく簡単だ」
「簡単?」
「ああ。魔法力とか気配とかは一切関係ない。だってもともとがただの「設計図」だからな。一番近いのは術者の「影」だ。影に影は作れないだろ。護法に影は出来ないんだ。あの時シアの杖がべっかべかに光ってたから、俺から見たらそいつらの後ろには「影」が出来るはずだろ。それが無かった」
とりあえず納得はできる。護法に影が出来ないというのは初耳だが、もしかしたら古典魔法を選択していたらすぐに合点のいく話なのかもしれない。
「もうひとつ。なんだって? 歩き方?」
「ああ、あのローブのやつ。足を引きずってただろ。なんか妙な歩き方をしてたけど、怪我でもしてるんかな」
シアはそう言ってあの老婆の歩きかたをまねて見せた。
「……それはちょっとわからん。後回しだな。他には」
レインがちらりと足を見やった。つられてシアもそちらに目をやる。
「あの足だ。あの足……ちょっとおかしくないか? さっきと場所も違うように見えるけど……その、さっきより、もっと」
レインはついと立ち上がると足の傍らにしゃがみこんだ。
触れないようにしながら覗きこんでから、おもむろに取り上げる。
「確かに。さっきよりも干からびてる。もっと大きかった気もする。でも、今はこんな感じだ言い方は悪いけど、カラカラ」
レインは掌に足を置いてシアに差しだす。
その小さな足は、さらに小ささを増していた。骨にかろうじて皮がついているかのようだった。
「俺たちが小屋を出てから、一時間がそこらしか経ってないだろ。この変化はおかしいよな」
シアはその足をつついてため息をついた。レインは苦笑してから足を床へと戻す。
当然さっきとは少し違った位置になる。
「小屋に入った奴らもこの足を持ち上げたのかな。んで、戻した。そうしたら少なくとも位置が違うのは説明がつくだろ。不自然でもないし。んで、シアが言うところの「魔法使い」っていう奴がなにがしかの魔法を使った。んで、干からびた。どう?」
「魔法を使ったってのはちょっと賛成できないな。あの距離で物的魔法を使ったならわかると思う」
レイン一つ身震いをして首を傾げた。夜が更けたせいかだいぶ冷え込む。
遠くで鐘の鳴る音が聞こえた。町の閉門を知らせる合図だ。そろそろ戻らなければ神殿も施錠されてしまうだろう。
「とりあえず、明日もう一度来てみよう」
シアの提案にレインはため息だけで答え、立ち上がった。
何一つ解決の手掛かりを得られないのだ、ため息もつきたくなるだろう。シアは乱暴に後頭部を掻いた。
第六条 「二人の事情」
翌日は小屋に行くことはできなかった。
「出頭命令?」
帰りつくのを見計らったように、乱暴に叩かれたシアたちの部屋の扉には、複数のコスカス兵が鋭い視線を向けていた。
対応に出たレインが対外的には使うことのない冷たい声で復唱する。その険呑さにシアの眠気も吹き飛んだ。
「出頭命令ってどういうことです? 私たちがどんな法律違反をしたと? ちゃんと説明していただけない限り、従う意思はありません」
「レイン!」
声音の鋭さに思わず相棒の名を呼ぶ。振り向いたレインは紙のように白い顔をしていた。
「しまった……」
舌打ちとともに扉に駆け寄って、レインの肩を支えてやる。
張り詰めていたものが切れたように、レインの身体から力が抜けた。膝をついてレインの身体を抱きとめる。
「ずいぶんと乱暴なお招きがあったもんだな。無効化の魔法をかけたのか、罪の確定もしていない、一国民に向かって!?」
「それがどうした。どうも、そちらは無効化されては困る何かをしていたらしいな。身分を偽ったか。外見を偽ったか。それとも両方か? どちらにしろ違法行為だ。出頭命令には従ってもらう」
居丈高に言い張るのは、背の高いコスカス兵だった。
あの夜、食堂にいた一人かもしれないが顔は覚えていなかった。そして昨日小屋に現れた兵士とも違っていると思う。
屈強な身体に、うすら笑いを浮かべたままくず折れたレインに向かって「無様だな」と吐き捨てる。
「……少なくとも違法な魔法を常用しているわけじゃない。調べたいのなら勝手にしろ。ヴィッカリー神殿に問い合わせるなり、出身学院へ連絡するなりすればいい」
後ろから無駄に装飾の施された神官用長衣をひるがえして、銀髪の女が出てきた
「違法な魔法ではないと? 私が感じ取れるだけでも上級魔法をずっと使用しているじゃないの。見え見えの嘘をついて時間を稼ごうとしてもダメよ」
「だから、好きなだけ調べろと言ってるだろ。部屋からも出ないし、妨害もしない。さっさと調べて、さっさと無効化を解けよ」
「そんな調べをしなくてもわかっています。これは流動魔法。あなたのほうから、その黒髪の彼のほうへ力が流れています。あなたではなく、彼がその力を使って外見を変えているのでしょう? 名前も変えてるかしら」
女は不意に言葉を止めた。にやにやと笑っていた男が不審そうにそちらを見やる。
「シア……お、さえ、ろよ」
レインに手の甲をつねられなければ、この女を殴り飛ばすところだった。
「……あなたが、ウィンスキー家出身であることは既にわかっています。御家柄は確かに私たちとは世界の違う話ですが、法律は身分を越えて平等に民の上にあるのです。これ以上反抗するなら、実力行使に出ても良いんですよ」
女は幾分上ずった声でそういった。
「……法が上だなんて誰が言ったんだ」
レインがぼそっと呟いた。
「素人は黙っていなさい。私は弁護官です。調査の権利があるんですよ」
きゅっとレインが眉を寄せた。どうやらきついらしい。何度か深呼吸のように息を吐いたが苦しそうだ。
「ほら、御覧なさい。姿変えなどするから戻すときに辛い思いをするのです。あと半時は苦しいでしょうね。さっさと出頭なさい。そうすれば「復元薬」を差し上げても良いのよ」
左腕が燃えるように熱くなった。
本来、この腕から漏れ出る力はレインに流れ込んでいる。シアの抑えきれない力をレインが受け取って自分の足りない魔法力に置き換えているのだ。
良く言えば協力、悪く言えば依存。
レインが魔法力を受け取れずに倒れたのだから、自分の腕から漏れ出る力は行き場を失って場にたまる。空気の濃度が変わるのがわかったのか女が息をのんだ。
「おとといの夜はどこへ?」
それでも気丈にシアを睨みつけながらそう言うと、レインを杖で差した。
「それに、あなたたちなぜ昨日まで来なかったの」
質問の意図を測りかねて押し黙ったシアに女が続けた。
「返せないの? だったら私が言いましょうか。アルデナで神殿に寄ったわよね。そこから三日もかかってる。しかも遠路? あの遠路はもう随分と使われていない。そのマーキングを見つけるなんて信じられないわ。正直に言いなさい。あなたたち、三日前にはここへ着いていたんでしょう。そしておとといから昨日にかけて山道を進んで、あらかじめ見つけておいたマーキングから神殿に飛んだ。いいえ、その前から潜んでいたのかもしれないわね。私の知らないアルデナ直通のマーキングを知ってるのかもしれないわね。どちらにしろ、あなたたちは数日前からこの町に潜んでいたでしょう。彼の姿は、本当は金髪なのではなくて?」
「ばかばかしい!」
吐き捨てると同時に、乱暴にレインの周りを探り、掌に当たった何かを掴んだ。そのまま無造作に引っ張る。
「何を……!? 放しなさい。そんなものを掴んだところで」
「何もできないと思うか? 龍家と呼ばれるウィンスキーの俺が、あんたごときの力に押し負けると? 法則なんぞ無視しても、あんたの力くらいなら引きちぎれるんだぜ。痛いだろうな。しばらくは辛いだろうなぁ」
シアはそう言って幾分強く手を引いた。
次の瞬間掌にあった負荷が消える。
「……解ったわ。それが答えね。いいわ、調べてあげる。連れて行きなさい」
女は口の端を持ち上げるように笑うと、ヒールのかかとを打ちつけるように去って行った。直後小さく呻いてレインの体が持ち上がった。コスカス兵の一人が乱暴にレインを立たせている。手を伸ばそうとしてもシアの両手は屈強なコスカス兵に掴まれており動かすのは至難の業だ。
レインが小さく首を振った。このままついて行こうということなのだろうか。
シアはじっと相棒を見つめたまま、促されるように立ち上がった。
神殿の地下は異常に冷えていた。
神官が置いた暖房用の明かりもあまり意味をなしてはいない。あたえられた上着と、備え付けの寝台にあった夜具を体に巻き付けて、シアは椅子に座っている。
シアとレインをとらえた女は勝手知ったる様子で神殿へと二人を連れてきた。
声高に二人を犯罪者と呼び、駆け付けたルパートに地下の部屋に閉じ込めるように言いつけてそのまま去っていったのだ。コスカス兵とシア達を困惑の表情で見つめるルパートに、視線だけで女の指示に従うように伝えると、はたしてルパートはゆったりとした動作で地下への道をたどり始めた。
神殿の入り口からわずかに奥、執務室の隅に階段が設置されていた。
二回ほど方向を変えながら降りた先には、人気のない廊下が伸びていた。
聖獣神殿の深部はそれだけで神殿の空気濃度が違う。さすがのシアも息苦しさを感じていたのだが、不意にコスカス兵の意識が他へ向いた。
レインが倒れたのだ。
無理もない、ただでさえシアからの力の供給を断たれ、わずかな力を振り絞るように体を支えていたのだろう。この聖獣神殿の気に耐えられるとは思えない。
シアは素早くルパートに近付いた。
「レインの部屋を外壁近くにしてくれ。出来れば暖を取れるように」
「わかっています。任せて」
ルパートは視線を動かさずに鋭くそう言った。そのまま数歩前に出ると、レインを抱えるコスカス兵に小さな笑みを浮かべて話しかけた。
「すぐそこですから、運んでいただいてもよろしいですか。その後、上で何か温かいものでもお出ししましょう。お仕事とはいえ、いろいろと大変ですね」
「いや、この地方の皆さまのためですから」
ルパートの申し出ににこやかに返し、レインを抱え上げた男が歩いて行く。このやり取りは初めてではないらしい。
「おい。お前はこっちだ」
シアは腕を引かれてそれに続いた。
与えられたのはレインと隣同士の部屋だった。隣会う部屋に入れることを渋るコスカス兵に部屋の不具合を告げてこの配置にしてくれたルパートには後で礼を言わなくてはならないだろう。
その後、レインの部屋に暖房器具が入れられ、数人の神官が出入りしたのが見えた。
シアは自分の部屋に入れられるはずだった器具をレインの部屋に入れてもらい、自分はありったけの衣服と布を身につけて格子の外側にある廊下を見つめていた。
足元からしんしんと冷えてくる。空気はそれほどではないが、いかんせん床が冷たい。足元に漂う冷気が質量をもっているようだった。
慎重にレインを気配を探ると、だいぶ落ち着いているのがわかる。シアは自分の手首にある飾りを取ると、一粒を輪から外した。
指先でつぶすと音もなく粉々に砕け、その粉末が空気に広がる。繊細な動きで粒子は線を引き円を描いた。複雑な文様を空気中に刻みながら展開した金色の粉はやがて位置を決めるときらりと一つ光り輝く。
シアはその魔法陣にそっと力をのせていった。
「レイン。受け取れよ」
先ほどよりも輝きを増した魔法陣がレインの上に覆いかぶさるのをイメージしながらシアはぐっと目を閉じる。
シアの手首には透明な赤い玉が連なった飾りがある。レインがシアには描ききれない魔法陣を収納して作った赤い玉は、いわば設計図の塊だ。レインの手首や胸元、ひいては足首を飾るのはシアが作った魔法力を封じ込めた玉を使って作った装飾品だ。シアはそのうちの一つを使ってレインへのパイプを開いたのだ。自分の魔法力を相棒へ受け渡すための複雑な高等魔法。
すぐに隣の部屋からせきこむような声がきこえた。
「ちょっと、も、いらねぇ、よ。これ以上は胸やけしそうだ」
「胸やけって、もう少し言い方を考えろよ」
言いながらも安堵のほうが勝って、シアは壁に歩み寄ろうとした。ふらりと足元がおぼつかなくなる。なんとか踏みとどまるも、足音の乱れを聞きつけたのだろうレインが小さくため息をついた。
「なぁ、俺にエネルギー送るのは良いけどさ。っていうか、歓迎だけどさ。自分がふらつくまではくれなくていいから。シアの範囲内で調整しろよな」
シアはその言葉を無視してどっかりと寝台に腰を下ろす。
壁を挟んで寝台は隣り合っているようだ。その上この壁はお世辞にも厚くはない。
「大丈夫か」
「そっちこそ。ふらついてんじゃん」
思ったよりもしっかりしたレインの声に口元が緩む。
「クソ寒いところに入れやがって。俺、どのくらい落ちてた?」
「長くは無いよ。せいぜい半時くらいだ」
「まだ夜明けには間があるな」
レインのため息が聞こえた。いつもの通りならきっと髪をかき上げているか、目のあたりを掌で覆っているはずだ。
「何て言ってたっけ、あの女」
疲れた様子のレインのあとを引きとるようにシアは口を開いた。
「アルデナから来たにしちゃ時間がかかり過ぎてるとか、遠路マーキングを見つけられたことが信じられないだとか、アルデナへの直通マーキングがあるんじゃないかとか、レインが」
「金髪じゃないかとか言ってたな、そういや」
シアは思わず金髪のレインを想像していた。金髪に青い目の猫。さぞかし高級な餌を食ってそうだ。
「金髪かぁ」
思わずぼそりとつぶやいたセリフに、レイン聞きなれたため息がかぶさった。
「似合うか似合わないかは問題じゃないだろうよ。少なくとも、俺の髪は物心ついたときからこの色だけど」
「猫っ毛だからなぁ」
「だから、そういう問題じゃないだろ。それよりあの女。俺たちが数日前からアンジェラにいたと思い込んでんだろ。もしくはそう思いたい。んなわけねぇのにな。マーキングを見つけられたのは俺が優秀だからに他ならないし、アルデナからの直通マーキングなんてものがあるなら一暴れしたいくらいにはくやしいさ」
アルデナからは旧街道だ。決して道が良いとは言えないし、もし歩いてアンジェラに向かい遠路を一つ使ったのなら丸四日とは言わなくても、あと数刻はかかっているはずだと思われているのだろう。シアとレインはアルデナから半日歩いて遠路を見つけ、丸々一日半の距離を飛んだ。夜を明かして翌日は徒歩で進み、三日目の昼にはまたもや遠路を見つけてアンジェラに飛んだのだ。マイナーな経路選択を信じてもらえなかったらしい。確かに普通の旅人ならば羽根馬車を選ぶ。
通常なら羽根馬車で一日。それが歩いたなら四日。実際は微妙な遠路使用で三日目の昼に到着」
「まったく。自分がマーキングを見つけられないからって、誰もかれもがそんなだと思わないでほしいけどな。でも、なんでまた俺たちが街に潜んでたって考えてるんだ」
瞬間空気が凍りついた。文字通り冷気が増したのだ。
「レイン」
「わかってる、こっちにも見回りが来るかもしれないから黙ってろよ」
地下に広がる冷気は尋常じゃない早さで辺りを埋め尽くしていた。火属性のシアはまだしも、風の性質をもつレインには厳しいはずだ。レインの部屋には暖房器具があるはずだが、それすらも凍りつきそうなほどに温度が下がっていく。
じっとこらえて数分が経っただろうか、冷気は次第に薄まってゆき、わずかに人工的なぬくもりを感じるまでになっていた。
隣に大丈夫かと声をかけようとしたその時、堅い音を立てて地上へ続く廊下の扉が開かれた。白い息を吐いて入ってきたのはショアだ。
「お二人とも。大丈夫ですか。保安部の方からお二人を宿へお送りするよう言われてきたんですけど……地下は寒いですね」
分厚い外套に首も手もすっぽりとしまいこんで、鼻の頭を赤くしながらのんびりとそんなことを言う。
しかし、シアは口を開けなかった。一体何が起きているのかを問いただしたくでも、何から聞けば良いのかすら見当がつかない。
「……ショア。何かあったんじゃないのか」
やがて口をついて出たのは、そんな間抜けな問いかけだった。
何もないとも言いはれるし、何かあったとしても第一声でそれを告げていないなら、シア達には教えたくないことが進行している可能性も高い。どちらにしろまっとうな答えを期待することは無理な問いだ。
「何かって……」
ショアの沈黙は少なくとも善良な沈黙に見えた。
隠しごとをしている様子も、何かと言われて思いつくものもなさそうだ。
「……コスカスさんたちは?」
そんなシアに助け船を出したのは、やはりレインだ。
「僕たちをここへ連れてきたのはコスカスの保安兵でさ。後で説明すると言われてたから待ってたんだけど。帰ってしまっても良いのかな」
「……ちょっと僕にはわかりません。とりあえず宿へお送りしますよ、ここでは寒いでしょうし」
「ねぇ、ショア。宿へ送って行って、僕たちを見張れと言われたんじゃないの?」
ショアはもごもごと口を動かしてから沈黙した。すると小さくレインが笑う。
「まったく、勘違いにもほどがあるよ。実はさ、コスカスの人たちとは面識が無かったんだけど、銀匙亭の支払いに神殿切手を使おうと思っててさ、二日間の飲食代金を付けてもらってたんだよね。そしたらコレ。踏み倒しの旅人か何かと間違えられたのかな。ちょっと手持ちに切手用紙が無かっただけで、明日……って、もう日付は変わったかな。すぐに神殿でもらおうと思ってたところだったんだけど」
「忙しいみたいで、ぽいっとここへ放り込まれちまったんだよ。コスカスさんも大変だな。ま、だからここは平和なんだろうけどさ」
レインの言葉に乗っかってシアは笑って見せた。ショアは少し考えているようだった。
「コスカス兵のリーダーっぽい人と直接話すよ。見失うなってことなら神殿にいても良いでしょ。近くにショアがいれば良い。僕としてはこの寒い地下じゃなくて、せめて上の待合辺りでお仕事終わりを待ちたいんだけどな」
年の近いレインの言葉に、心動かされるものがあったのだろう。ショアは小さく笑って首を縦に振った。
「わかりました。上にご案内します」
通されたのは待合ではなく、事務所内にある小さなソファーセットだった。
ショアが「すみません」と断ってから事務所に施錠の魔法をかけて給湯室へ消えて行く。
「シアより上手いこと術を使うじゃん。結構適性ありそうだけどな」
レインは言いながら手早く近くの机をあさっていた。シアもため息一つで文句を呑みこんで、レインと同じように机を探る。配置からすると、ここはこの部屋のトップか、もしくはそれに次ぐ人物の執務机だろう。その中で黄色の紙束を見つけた。
「レイン。これじゃないか」
一枚をレインに手渡す。その時、給湯室からショアが戻ってくる気配を感じた。すぐにレインに合図を送って何事もなかったかのように席につく。
「すみません、施錠だなんてまねをして」
「いえ。でも綺麗な魔法展開じゃないですか。シアじゃないけど、実務官でも十分通用すると思います」
レインが外息の顔でそう言った。
「いや……じつは。ぼく……検事になりたいんです。だからこそ実務官じゃなくて専門課程に進みたくて」
シアはまじまじとショアを見つめてしまった。右腹をつつかれて我にかえる。
「夢、ですけどね」
「夢とは言わずに頑張ってください」
レインが小さく笑う。これは多分本心だ。
「ありがとうございます。あ、帰ってきましたよ」
ショアの視線にシアとレインは振り返った。ショアはそのまま立ち上がって外から帰ってきたコスカス兵のもとへと走っていく。顔見知りらしい男になにがしかを告げると、シアとレインのほうを掌で示した。シアの視力ではコスカス兵が眉根を寄せるのがみえた。
鷹揚に頷きショアを伴って事務所へやってくる。
シアとレインは立ち上がって軽く頭を下げた。
「乱暴なまねをして申し訳ない」
かけらも申し訳なさそうな素振りを見せずに、男はそう言った。
「この町の安全をつかさどる者として、わずかな疑いも見逃したくなかったんでな。もう、帰ってもらって構わない。だが、街はいろいろと物騒なことも多いからな。出来ればこんな田舎町ではなく、大きな街に滞在した方が安全だろうし、暇をつぶすだけの娯楽もあるだろう」
「僕たちも明日か明後日かには帰ろうと思っていたところです。研修後に一つ街を見て回るのがヴィッカリーの通例でして。なんだかお忙しい時期にお邪魔をしまして申し訳ありません」
レインの言葉に男は少し押し黙った。その後ソファに座りなおして頭を下げる。
「……いや。こちらこそ、本当にすまなかったな。あの人も悪い人ではないんだ。ただ、少し疲れているだけで。今日はもう遅い。宿まで送らせよう」
男はショアにそう言って男は部屋を出て行った。
宿に着く前にショアを神殿に帰し、宿の部屋の扉を閉めてからシアとレインはほっと息をついた。
レインは椅子を引き寄せ腰かける。
「初日に見たあの鳥は、あの女のものだな。遠路使用にやたらうるさかったし」
鳥がシアたちの言葉を聞いていたならそうだろう。ウィンスキーという名前が出ること自体がその証拠だ。
「一体何だったんだ」
何も手がかりがないと嘆いていた一日はあっという間に様相を変えていた。何かが知らないところで進行している。そして今、シアたちの知らないところで事態が進んでいるとは感じているものの、その「何か」の影だけしか見えないのが引っかかる。
「レイン?」
ぶつぶつと文句を言っていると、椅子に座ったままのレインが黙りこくっていることに気がついた。
「レイン?」
じっとうつむいている黒い頭は、ピクリとも動かない。気分でも悪くなったのだろうか。もう一度声をかけようかと迷っていると、急にレインが顔をあげた。
「隙間が埋まったぞ。たぶん方向は間違ってない」
レインはそう言って青い瞳を輝かせた。
第七条「アリバイ」
ロルダー・アンブレア・コスカスは町の中央にある小さな宿に滞在しているという。朝を待つ予定が、意外なほどに深く眠りこんでしまったため、現在の時刻はそろそろ夕刻といってもよいくらいだ。
二人は活気にあふれた中央通りを抜けてきれいに整備された道を歩いていた。
遠くからでも目立つ、高そうな宿。この道はそこへしかつながっていない、長すぎるほどの私道だ。
ロルダーは神殿内にも部屋を用意してもらっているようだが、町の定宿に泊まることのほうが多いらしいと町のだれもが口をそろえる。この町で彼を知らないものはいないようだった。
「ま、あの、悪趣味なびらびらじゃね」
レインが吐き捨てるように言うのを小さく小突く。コスカスの伝統衣装なのだというと、口をとがらせる相棒に自分の耳を指さした。
「あ、それって篝火んとこの親父もやってたな」
「そ。コスカスの伝統衣装は原色のローブやらジャケットやらが多いだろ。でも一番の特徴は耳の房。必ず耳の後ろの毛をのばして、染めた羽をつけるんだ。一般的にコスカスを示すジェスチャーは、こうやって耳を指すことなんだぜ。コスカス人は自分を指すときも耳のあたりに指を置くんだ」
にやりと笑ってみせると、レインもいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「じゃあ、今度コスカス人とハーンを会わせてみようぜ。あいつ精霊族系だっただろ」
精霊族にとって耳を指し示すのは決闘の合図になりかねない。もっとも古い慣習の残っている地域の生まれである場合だけだが。
「……ハーン委員長か。洒落にならんだろ。本当に血を見ることになるんじゃねぇの」
「ハーンがね。あいつ普通の喧嘩はからきしなんだ」
真面目で優秀な同期のハーン委員長。シアは怒られたり馬鹿にされたりすることのほうが多いのだが、ちょっといいことを聞いたと心の中に留め置いた。
そんなことを考えているうちに、宿や護衛との交渉を終えたレインが階段に足をかける。足音をたてない彼に続き、シアは男らしく木の板を踏みしめた。
挨拶をしたいというとルパートは快く部屋を教えてくれた。
この宿にあるもっとも上等な部屋の前で、シアとレインは顔を見合わせた。
少なくとも神官の資格を持っている部下を配しているだろうというシアの予想を裏切り、ロルダーはひとりきりで書類の整理をしていたらしい。
「……そろそろ来ると思っていました。昨晩は無礼なまねをして申し訳ありませんでした」
ロルダーは二人を見るなり立ち上がって頭を下げた。華奢な体をシンプルな白の上着と紺色の細身のズボンでまとめている。銀色の髪はふわふわと外側にはねていた。二人を部屋に招き入れると、所在投げに入口付近に立ったまま、視線床に落としている。
「どういうことです? あなたはあの場にも神殿にもいらっしゃらなかったでしょうに」
レインが冷たく言い放った。
「……実は、私も魔法使いです。物質的な力はあまりありませんが、その分感受能力には恵まれた」
「つまり、感覚でわかったということですか?」
レインの問いかけに、ロルダーは少し困ったように表情を崩した。
勧められるままに上等な布張りの椅子に腰を下ろす。ロルダーもシアたちの正面に腰を下ろした。
「不穏な気配を感じました。悪いとは思ったのですが、その中に多数のコスカス兵の気配がありましたのでとっさに紙人を飛ばしたのです。ご無礼をお許しください」
「おい、シア。お前が答えるべきじゃない?」
レインは「ご無礼と来たか」とあきれた様子でそういった。背もたれに行儀悪く体重を預ける。
「いえ、お二人ともに謝罪させていただきたい」
「シアにじゃなくて? ウィンスキーに謝るんじゃないの?」
ロルダーは首を振った。
そういえばあの趣味の悪い装飾の施された上着を着ていない。
「いいえ、レインさん。あなたにも謝罪させてください。そもそも私からお部屋に伺うべきでしたよね……すみません」
シアはレインと顔を見合わせた。どうもおかしな雰囲気だ。ただの部下のしたことにしては平謝りすぎる。一体あの女神官とはどんな関係なのだろうか。年齢は近そうだが、甘い雰囲気は何となく感じない。その割には言葉に容赦がないような。凍るような銀髪の彼女とは違い、ふわふわと光を反射するプラチナ。質は違えど、銀の髪。そうしていると目元はどことなく似ているような。
「あの……もしかして髪の色からするに、あの女性神官は……」
おそるおそる口を開いたシアに、ロルダーはさらに頭を下げた。
「……姉……なのです」
「ああ! なるほど。道理でなんとなくかぶると思ってた。あの趣味の悪い装飾服と、あの神官の着てた長衣の装飾って似てたわ」
「レイン……」
両手でポンと音を鳴らしてレインが何度もうなずく。
「……あの上着は姉の趣味で……うちに来る仕立て屋が……」
「ああ、あんたはシンプルなほうが好きそうだもんな」
レインのセリフにロルダーは頷く。
「もう、いい加減にしてほしいんです。年々派手になっていくし、コスカス兵を勝手に動かすし。今回だって勝手に兵を引き連れて滞在するし……あわてて追いかけてきて正解でした。姉は……思い込みが激しくて。それに」
「ああ……なんとなく、そっから先はいいや」
シアが苦笑とともにそういうと「すみません」とロルダーはますます小さくなった。
「ちょっと話を聞かせてもらっても良いですか」
レインがそれまでの横柄さをするりと脱ぎ捨ててそういった。ロルダーにも話が変わったことがわかったのだろう、すぐに姿勢を正してレインを見る。
「追いかけて来たとおっしゃいましたよね。あなたはいつ頃こちらへ?」
マルダは少し考えるそぶりを見せてから、重い口を開いた。
「姉が突然こちらへ来ると言いだしたのは、半月くらい前のことです。僕が神官の資格を取って郷里に帰ってきたときは、まだコスカス神殿でバリバリやってましたから。僕はその、こちらに友人も多いのでちょくちょく来ていたんですけど……急に姉がアンジェラ神殿への移動を願い出て、受理されると同時に兵を連れてアンジェラに入ったのです。さすがに慌てました。いくら隣地で交流があるとはいえ、兵を引き連れての移動は物騒すぎます。なんとか兵を使うことだけは阻止しようと、父にコスカス兵の全権を委ねてもらったというのが現状です」
「そりゃ大変ですね。じゃぁ、その後はずっとこちらに?」
レインに向かって情けなく眉尻を下げたロルダーは、仕方が無いと小さくつぶやいた。
「一度、報告のために帰りましたが……それ以外は」
ロルダーはため息をついて両手を膝に当てた。そのタイミングでレインが一枚の紙を出す。
「昨晩のことですが。私たちはコレがらみで拘束されたんじゃありませんか」
ロルダーの前に置かれたのは、昨晩レインに渡した一枚の紙だった。
黄色い紙に大きな文字で「夜間の外出は控えてください。あなたの子供を守るためにも」と書かれている。
黙ったままその紙を見つめているロルダーの顔色は蒼白だ。
「……すみません。これは……その」
「神殿で作ったものではありませんよね。神殿用紙の明度は規定されていますから、この紙は神殿以外のところで印刷されたものでしょう。見つけたのは神殿内部の事務室の中です。私は二つの可能性を考えました。
一つは街で作ったこのチラシを神殿の協力で配布する可能性。もう一つは、配布を禁止するために没収した可能性。もし、前者なら、街の人たちは神殿に協力を依頼すると同時に自分たちでも配布したり、掲示したりするでしょう。でもそんなチラシを私たちは街で目にしたことが無い。そこでもう一つの可能性を考えたのです」
レインの視線はロルダーの表情を見逃すまいとしているようだった。
「配布を禁止した可能性です。でも、なぜ。
街では大きな篝火が焚かれていますよね。そこにいつも誰かがいる。これは夜警を兼ねているのではないですか? 他の場所でも同じような火番が立っているのでしょう。一体何から身を、いいえ、子供たちを守ろうとしているのか。神殿はもちろん事を知っているのでしょう。チラシを握りつぶしていることからもわかります。この地方で起きていることを外部には知られたくない。そうではありませんか。だからこそ外部から来た私たちを警戒した」
「遠路を使ったとはいえ、最初から見張られましたからね。あれはお姉さんの鳥だと思っていましたが、あなたの鳥ですかね」
ロルダーは弱弱しく首を振った。
「……遠路派動を感じて、中央から検査官が来たとは思いました。いつまでも隠しておけることじゃないとわかってはいましたから」
紙を握りしめてロルダーは肩を落とす。
「姉の鳥もいたと思いますが、僕も飛ばしました。緑色の風切り羽の鳥は僕の使い魔です」
そんな鳥がいたかもしれない。
「こちらに来てから誘拐事件がありました。もちろん山賊などの可能性も考えましたが、その後もぽつぽつと人が消えました。山賊に警戒している最中に、です。コスカスは治安を預かると言う名目でこの地での生活を許されている。僕たちは何としても犯人を捕まえたかった。だからこそ、神殿に頼み込み、中央への報告を少しだけ待ってもらうことにしたのです。その間に犯人を捕まえる。そうすればこの町で僕たちの居場所は護られる。姉は焦っているのです。小さな町ですからすぐに犯人を捕まえることができると考えていました。しかし、まったくと言ってよいほど成果は上がらない。そんな中、あなたたちが来た。最初こそ姉も中央からの捜査ではないかと思っていたようですが、あなたたちのアルデナからの旅程に疑問を持ってからは疑いの一途で」
「それで私たちが犯人だと?」
「いえ、もうそれは……犯人ではないと確信しています」
レインが視線を紙に落した。
「昨晩。また子供が消えたのです。犯人はわかりませんが……あなたたちは、地下にいらっしゃったのでしょう」
「完璧なアリバイというわけですか」
ロルダーは力なく頷いた。
第六条 「井戸の中」
「全部が嘘だとは言わないけど、いろいろ隠してる気がする」
シアもレインと同じ意見だった。
何か大きなことを隠したいからこそ、あそこまで饒舌だったのだろう。知らぬ存ぜぬで突っぱねることもできたのに、簡単に一水路管理人に話すには内容が重たすぎる。それが拘束の謝罪代わりだったとしてもだ。
「結局わかる範囲で手を伸ばすしかないんだよな。整理してみようぜ」
レインは部屋で大きめの紙を広げて簡単にこの町の地図を描いた。
台形の上部に神殿。その下に凍りついた噴水。まっすぐに南下する大通りには、その真ん中あたりに公園を描き入れる。神殿から放射状に南東と南西に延びる通りと、三本の通りをつなぐようにある路地。
「蜘蛛の巣みたいだな」
「これに火と川を入れると、こんな感じか」
大通りには四つの篝火。大通り沿いの川とそこから二本の通りまで伸びる水路。二本の通りより山側の部分には井戸がある。
「井戸も描くか?」
シアの問いかけにレインは少し迷う素振りを見せてからペンを動かした。
「シア……お手柄かも」
レインが書き加えた井戸は地図の中で特徴のある分布を見せていた。
「使用中の井戸は……多分川からひいた水路の真上だ。んで、使われていない井戸は井戸で山からの地形に合わせて分布してる。水脈地図があったよな」
シアは荷物を掻き分けていくつかの小瓶を取り出す。ラベルを確認して薄い青の液体が入っていた小瓶をレインに手渡した。
レインは手早く蓋をあけると杖をとりだして空中に陣を描きつけたあと空間に液体をばら撒いた。
水色は瞬く間に広がり、金色の粒子を帯びてかたまっていく。
レインは何度か陣を捜査して水色の網の大きさを変えると、最後には杖を二本にして丁寧に掬いあげた。
書いた地図の上に張り付けて何度か修正すると、レインの口角がはっきりと上がった。
「昔の井戸は水脈の上だ。俺の手書き地図の上ですらこうやって重なるんだから、正確な地図があればはっきり主張できるぜ」
「ってことは水脈の上にあった井戸をつぶして、水路の上に井戸を作りなおしたってことか。言われてみればこの東西の住宅街は少し隆起してるし……井戸の深度も水脈に当たるには浅い気がしたけど」
「ああ。水路はもともとこの東西の二本の通りまでしかなかったのかもしれないな。それを地下に伸ばして井戸を掘った。もとの井戸が使えなくなったからそんなことをしたのか、それともそうしたから井戸を使わなくなったのか。今使ってる井戸には問題は見当たらなかったから……この使ってない井戸が気になるな」
「井戸っていや、飯屋でも井戸があいてるとかあいてないなんて話をしてたな」
レインは宿屋のあった辺りを見ながらそう言った。
「ああ、アレもさ誘拐がらみだったんだよ。あの人たちはあれを家出としているって言ってたし。あの人たちってのはコスカスと神殿。んで街の人は家でだとは思ってない。チラシを作って夜警をするくらいには何かを警戒してるんだ」
「誘拐は……夜?」
「ああ。んでもって多分犯人は金髪か……」
シアはぎょっとしてレインを見た。青い目を見つめたところで思いだす。
「そういやあの女がレインの髪が金髪じゃないかって言ってたし」
「銀髪」
「は?」
シアは思わず声を上げた。レインがポンポンと出す可能性についていけない。
「夜なんだぜ。色なんかそうそう見分けがつかねぇよ。あいつらは犯人の影でも見たんだろ。もしくは目撃者がいるか。どちらにしろきらきら光ってる髪がキーだ。んでもって多分あの女は自分の弟を疑ってる。疑って、でも信じたくは無くて、躍起になって犯人を探してるんだと思う。俺に白羽の矢が立ったのは、シアじゃ体格が良すぎるからだ。俺だったら少し着ぶくれればあのくらいだろ」
なんとも言えなくて押し黙っていると、さらにレインが口を開いた。
「最初にここへ来た時にダイヤモンドダストを見ただろ?」
「ダイヤモンドダスト……ああ、氷鳥の羽とか言ってたやつだろ。それがどうかしたか?」
「本来ダイヤモンドダストが観測されるのは朝なんだ。大気中の水分が凍り、太陽の光に反射してキラキラ光る。寒い朝に観測されるんだよ。夜は光らせるだけの光源がないし、そもそも微弱な光じゃ人間の目に飛び込んでくることもない。つまり、俺はあれ自体に何か光源が混ざってると思うわけ」
「光源か。ヒカリゴケが混ざると氷も光るけど」
「可能性はゼロじゃないけど、俺は神障の可能性が高いと思ってる」
レインは地図を床に置いた。自分は寝台に腰かけ、上から地図を眺めていた。
「最初から、寒冷の原因は神障だろうと思ってたんだ。でも、基本的に土地にしみ込んだ障ってのはその土地全体に影響するものだ。その場合、数か月単位で土地の属性が強くなって、緩やかに収束してくはず。範囲だってこの町をすっぽり覆い尽くす位でないと。事実、何年か前の寒冷期の時は、夏の終わりごろから気温が下がっていって、次の夏まで平均を大幅に下回っていたって新聞には書いてあった。ここって凍りついてるのは神殿前の噴水を中心に半径だいたい百から二百サバンってところだろ。調査書では半月で急激に温度が下がってるみたいだし、範囲も狭すぎる。その分力が凝縮されたみたいに強烈だ。あの噴水に何かあるのかな」
「神殿寒かったもんな……あの地下の部屋っては噴水の近くなんじゃないか、寒かったよな」
レインがコロンと目を丸くした。
「地下……地下か。聖獣神殿の地下」
「レイン?」
「そうか……そうか。コスカス、井戸、水脈、障りは土地じゃなくて……そうか、ここに繋がってるからアレがあったんだ。」
「レイン?」
レインはじっと地図を見つめると、一本の水脈を杖で指した。その水脈は山間を通って街のほうへ伸び、神殿の地下を通ってまた山へと消えて行く。
「シア。わかったかもしれない。でもその前に井戸を調べたい」
翌朝、シアの手の中にはレインの書いた地図があった。地図を頼りに町はずれの住宅街へ足を向ける。
シア達の地元、ヴィッカリーでは井戸はほとんど使われていない。水路の町というくらいだから各戸の足もとには豊富に水があり、たいていの家には浄水器が備わっている。ヴィッカリーにおいて水は無料の恵みだ。四年に一度くらいの割合で水位が上がる年があり、その時は一階の半分は水没してしまうのが難点だ。
「この使ってない井戸が原因だと思うんだ。……俺の予想ではこの井戸を不適切な閉じ方をしたことで水脈のバランスが崩れたんだと思うんだよね。それで神の属性が溜まって噴出した。昨晩気になって調べてみたら、四百年前の氷鳥が来たという記録の前には、数年前から断続的に山崩れがあった。その時も水脈がふさがれたか、汚されたかしたんだろう」
レインはシアの手元を覗き込むようにしてそう言った。
「今回も何か水脈というか、水脈に繋がる井戸に何かしたから冷気があふれてるってことか」
「予想だけど、他に考えられない。昔からの井戸をふさいだのがこの二年。そろそろ何かあってもおかしくない」
「井戸か……なんか俺たち本当に水質調査員みたいだな」
レインも苦笑して頷く。
人気のない住宅街の中に井戸を発見し、シアとレインは二人してその井戸を覗き込んだ。奥のほうには水の気配を感じる。念のため小石を落としてみると、理想的な時間で着水音が返ってきた。
普通の魔法使いなら水の気配を感じることも、簡単にならその流れをたどることもできる。その点、シアは探ろうともせずに気配をたどるだけの魔法力があった。無意識に小石が生み出した波紋の気配を追っていると、不意に背筋に走るものがあった。
「……」
「普通の井戸だよな。水質に問題もない。」
レインの声が遠く聞こえた。首筋にわずかに汗が浮かぶのを感じる。
龍は火の属性を持つ。シア自身もまた火の属性を持って生まれたため、火の気配には特に敏感だ。しかし一方で、その好戦的な血の流れは、火と同じように血にも反応した。命の残滓、魂の抜け殻。シアの中の「龍」がざわめくのだ。近くに何かがある。
シアはふらふらと家一軒分ほどの距離を隔てたもう一つの井戸へ近付いた。
地図を確認すると「枯れ井戸」とされている。蓋は木製の頑丈なものが固定されており、開くことは難しそうだ。
シアはその井戸にすがるように地面に足をついた。気分が悪い。自分の中に何かドロドロとしたものが入り込んでくるかのようだった。
血の気配を探ろうと右腕の龍障に意識を向けたのがいけなかったのかもしれない。はきもどしそうになるのをこらえながらなんとか龍障から意識を取り戻そうと何度か肩を揺らした。
「シア? どうした?」
レインの声が近付いてくる。龍の力はレインに流れる力だ。こちらへ来ればレインにも影響が出るだろう。あわてて手振りで大丈夫だと伝えてみたが、レインはそのままシアの傍らにしゃがみこんだ。
「どう……し」
レインの顔から血の気が引いた。
「何これ。吐きそう」
きっぱりはっきりそう言うと、レインはシアほどこらえる気が無いのだろう、転がるように道の端に移動してひとしきり嘔吐した。
手早く掃除を済ませ何事もなかったかのような顔をして立ち上がったレインに、こちらへ来るなと今度こそ伝えるが、レインは眉を寄せて歩み寄ってくる。
これ以上は自分もこらえられないと目を閉じかけた時、はっきりとした口調でレインが告げた。
「あとちょっと頑張れ。この井戸がおかしいんだろ。探ってやる。それまで感覚を手放すなよ」
レインが鬼に見えた。
自分はしっかりとシアからこの気分の悪さだけを切り離し、井戸に手をかける。
もちろん開く様子は無い。
「ちっ。仕方ねぇな。……二つ位で足りるかな」
レインは手首につけていた玉飾りのうち、青い二つの玉を取り外して掌に握りこむ。かすかに割れる音がすると、レインの周りに紫紺の破片が飛び散ったように見えた。
レインの杖はいつもよりも色を増し、繊細さよりも確固たる輪郭を持って具現した。杖先で井戸の蓋をぐるりとなぞり、口の中で何かを詠じた。
「浮け」
蓋は軋んだ音を立ててからゆっくりと浮かび上がった。隙間から生臭い匂いが漏れ出てくる。
完全に蓋が浮いてからレインはそれを手で脇へと押しやった。
「あ、疲れた」
言うなり魔法が切れたのだろう、蓋は音を立てて地面に転がった。
あわてて辺りを見回すレインだったが、この一角があまり人気のない場所であったことが幸いしたのか誰も音をとがめる人はいなかった。
すぐにレインの頭が井戸の上にかかる。すぐにその頭が戻された。
「シア。お疲れさん。もういいよ」
レインがしゃがみこんでシアの周りでくるくると杖を動かす。杖先から紡がれるのはシアの平癒を願う祈りの文言だ。ヴィッカリーではこっそりファンがいるほどのレインの整った顔からはわずかに笑みが見て取れる。そのまま瞳が閉じられるとシアの周りの空気が澄み渡った。まだあの重苦しい何かに繋がっているが、あのこらえきれない不快感は無い。
「……お。もう、平気そうだ」
シアはそろりと立ち上がる。レインも続いて立ち上がり膝についた砂を払った。
「平気なら見てみろよ。まぁ、無理にとは言わないけど」
レインがそう言って井戸を覗き込み、続いて小石を放り込む。
石はいっこうに音を立てなかった。腐臭と独特なガスのにおい。
「生臭い。腐ってるのか……染みついているのか」
すぐにその目は不機嫌そうに揺れた。
「この下に水脈はあるけど……」
「シア。この蓋戻して。あと、一つ二つは開けてみよう」
言われるままにレインがこじ開けた蓋を戻してやる。先ほど玉を二つばかり使ったレインの魔法はシアがやれば大して力を使わない初級魔法だ。レインは残念そうに自分の手首を見ていた。
「あとでまた作ってやるよ。なんならストックも」
一言で機嫌を直したレインは地図を見ながら小走りに住宅街の奥へと進んで行った。蓋をされた井戸を見つけてシアを呼ぶ。
持ち上げようとしたシアの指先は抵抗を感じとって動きを止めた。
「これ……封印してあるな。どうする? 剥がすか?」
「神殿魔法? それとも訳の分かんない感じ?」
「あー。そうだな。これは神殿魔法だな。あれだモイダー召喚陣あの、ウダリアの表紙になってる奴みたいな」
「ウダリア戦記? お前、良い年こいてあんなの読んでるのかよ」
「うるせぇな。レインだって知ってたじゃねぇか」
「俺は本屋で平積みになってるのを見たの。ウダリアって……子供かよー」
レインがあきれるのにはわけがある。ウダリア戦記は「ウダリア」というタイトルの図鑑に載っていた伝説のモンスターを召喚し、その本に閉じ込めることを目的にした子供向けの童話だ。イラストも多く、最近では動くイラストの本が売れまくっている。もちろんお子様たちに。
こっそり楽しんでいたシアは思わぬところで自分の楽しみを暴露してしまっただけだ。
「まぁ、あの類なら感知系の封印じゃないな。あとで適当なのでふさげば良いだろ。ひっぺがせ」
「うぃうぃ」
シアは杖先に力を込めて蓋を持ち上げた。抵抗ののちにバリっと何かが裂ける音がして蓋が持ち上がる。そのまま横にスライドさせて地面に置く。一瞬で生臭さが辺りに漂った。
レインが杖に光を灯し井戸を覗き込んだ。その光を切り離して井戸の中に漂わせる。
「楽しいもんじゃねぇな」
レインはぐっと眉を寄せた。シアも覗き込むが何かがあるが、暗くてよく見えない。視界が一瞬なにか赤いものを見つけたような気がして、とっさにシアは杖を振った。
「レズィ・オレ」
物を浮かばせる初等魔法に乗って上がってきたのは、汚れた赤と緑の塊だった。レインが無言で描いた分析妖精の召喚陣を発動させ、その紫色の円の中に塊を置いた。すぐに無機質な声が返ってくる。
『タンパク質 脂肪 血液 骨 水分 遺伝物質ニヨレバにんげん族75.688% ソノ他混合 91.8%の確立デ男性デス』
「……コスカス、か」
かわいた声は思っていた以上に弱弱しく耳に届いた。レインも蒼白な顔でそれを見つめている。かつては美しい色を誇った羽根飾りは、今は何ともつかない汚れで固まっていた。
第七条 「考察」
あれから食事を取る気にもなれなかったが、一日中何も口にしないというのも不健康だということになり、シア達は軽食が摂れる店に足を伸ばした。
帝国内にいくつも支店を持つその店は、価格の安さも手伝って多くの人でにぎわっていた。
軽いトレイの上にはパンに肉と野菜を挟んだものと、細く切ったマニ芋を揚げたもの、飲み物の入ったコップが置かれ、人はそれを持って各々席につく。
シアは減退していた食欲が店に入るなり戻ってきたのを確認し、さらに魚を挟んだパンを追加してトレイに乗せた。
レインは標準的なセットを注文したようだが、小さな入れ物があるのを見ると、何か甘いものを追加したのかもしれない。
「結局、食べれるんだから俺たちも大概図太いよな」
レインはそう言ってパンにかぶりつく。
この店の特徴で、女性店員の制服はシンプルなシャツとタイトなスカートだ。食べながらもついついそちらへ目が動く。
「おい、あんまりじろじろ見てると訴えられるぞ。裁判官がセクハラって、結構なゴシップなんですけど」
「俺は日々検事からのパワハラに耐えてるぞ」
「え? そんなひどい奴がシアの周りにいるわけ」
青い瞳が楽しげにきらめく。シアも思わず小さく笑ってしまった。
トレイの上を片付けて、飲み物だけになった頃合いでシアは声をひそめた。
「そろそろ、種明かしをしてくれても良いんじゃないか」
「……うん」
シアの言葉にレインはゆっくりと頷いた。
「最初にさ、どうして井戸をふさいだのかってのを考えたんだよ。何かで汚したにしては、全部の井戸をふさぐってのはおかしいだろ。だから、ふさいだってよりも、何かをそこへ入れて蓋をしたんじゃないかと考えた。何かを入れる器を探していたら井戸が目についたってとこかもしれない。幸い街には川がある。川から水を引けば、井戸が無くても生活できるから、これを入れ物にしてしまおう。そこで何かってのはなんだってことになるじゃん。井戸に入れなくちゃならないくらいには大きくて、水脈を穢すもの。思い当たったのがコスカス人だったんだ。口減らしの話を聞いたときに、死体はどうするんだろとか、処分するのも大変だとか思ってたから余計に……井戸は最適だと思っちゃったんだよね」
「最適……」
「殺さなくていいだろ。上手いこと井戸に落して蓋をすれば勝手に死ぬ。簡単でしょ」
シアは頷けなかった。あふれたコスカス人はアンジェラに押し寄せたかもしれない。この山間の町で彼らを受け入れるには限度もあったかもしれない。それでも、この明るく豊かな街にその歴史はそぐわない。
「あの井戸の蓋は神殿の札だった。ってことは神殿は無関係じゃない。むしろ主犯クラスだと思ってる。もちろん街のお偉いさんは知ってるだろうけど。一般の人たちは新しい井戸を使ってください、古い井戸は閉めますとだけ言われたかもしれない……それでも疑問を持った人はいたと思う。あの食事をしたところの会話を覚えてる?」
あの飯屋で聞いた会話。シアはなるべく丁寧に思い出そうとした。
ヴィッカリーから来た魔法使いだってさ。でも、アレの調査に来たわけじゃないんだって。
魔法使いだって言うだけで危険だろ。
噂じゃあの人たちはアレを家出だって片づけてるそうじゃないか。
めったなことを漏らして俺たちがこんなことを話していると知られたら、何をされるかわかったもんじゃない。
井戸は閉じられてる。
「聞いたときは『あの人たち』ってのがコスカスだと思ってたんだ。でも……大本は神殿。神殿の公式見解が『誘拐』ではなく『家出』だった。そしてここでは神殿に逆らえばそれなりの制裁を受ける。もしくは受けるかもしれないと思ってる」
「それはもしかして」
レインは頷いた。
「コスカス人と同じ運命をたどるぞってね。そうなりたくなきゃ余計な口は噤んでろってことだろ。推測にすぎないけど、街のお偉いさんと神殿はコスカス人を間引いた。ここの神殿はコスカス系だから、いわば同胞の口を減らしたんだ。そしてそれを知った住人の口を閉じさせた。水脈が汚れ、神族の力がゆがんで噴出。ここまでは良いだろ?」
「まぁ、理解はできる」
レインは頷いた。
「んで、今度は噴水に思い当たった。シアが『寒かった』って言っただろ。確かに寒かった。その中でも一瞬冷気が増した時があった」
息をつめて過ごしたあの数分のことだろう。
尋常な冷気じゃなかった。
「その時、外では何があったか。もうわかるだろ、俺たちが犯人じゃないと確信する事件があったのさ。つまりは誰かが誘拐された。同時刻の冷気増大。んじゃ、冷気を発する何かが神殿にいて、この誘拐騒ぎの黒幕だとしたら。冷気が増したときに外へ出てるのだとしたら。神殿は何かを地下にすまわせてる。それはさ……」
レインがふいに口を閉ざした。
わからなくもない。
「障り持ちってことか」
レインはシアを見ずに小さく頷いた。
シアの右腕には炎のような痣がある。肘のあたりから始まって上腕をぐるりと回って首筋まで伸びる黒い痣だ。
世界に残る旧五大家の血を濃く引く一族を、帝国では五大貴族と呼んだ。もちろん貴族待遇は受けているが、それ以上に贖罪めいた地位設定だとシアは思っている。
濃すぎる血に強すぎる力を秘めた一族。
一族の中にはその血に潜む力を薄めるために、時折不思議な力が現れる。人はそれを「血」に取りついた「禍」として「血の障り」と呼んでいた。たいていは一代に一人。いつそれが現れるかはわからない。力が現れた者の大半は力に喰われ、あっという間に死に至るが、稀に生き延びた者は神殿により強固な土地拘束を受けて神殿へ監禁されるのだ。聖獣神殿に監禁されることが多く、世界に聖獣神殿が多く存在していることもその証だった。
シアにその現象が起きたのは数年前。レインと出会って間もなくの頃だった。
奇跡的に障りと共生する道を見出したシアは、その時から右腕に痣を持っている。龍族の末裔とされるウィンスキー家に出る障りは龍障と呼ばれていた。
「俺のときは火が出たよな……ってことは、神の障りは氷ってことか」
「ハルヴョーク校の水道管が破裂するくらいには暴れまくったよな……地面が燃えなかっただけましだけど……水蒸気でサウナ状態だったもん」
シアはボロボロになった校庭を思い出した。
「結構金をかけて作ったらしい学校だったもんな。でも、うちの親父が直したじゃん」
「直したけど、校庭の地面が軍隊使用の砂利だったのはちょっとどうかと思ったよ。足の裏が痛い」
「あのほうが筋力もつくし、健康にもいいんだよ」
そういえば家の女性陣は男どものいない間に庭師を呼んでいたなと思いながらも、シアは口をとがらせた。
「それで、神障についてだけど……神族は水の属性を持つ。水は単純に水として存在もするけど、氷にも、それこそ水蒸気にもなりうる。今回は氷として暴れだしたんだろうな。寒波は気象状況ではなくて、純粋に水が凍り、土地が冷えたんだ。きっかけは、さっきの井戸さ。水の反性質は火。井戸に詰め込まれていたのは」
「死体。つまりは血やたんぱく質だな。確かに火属性だ」
「コスカス人が井戸に詰め込まれ、死体が水脈を穢した。そのせいでバランスを崩した神族の力は土地を冷やし、厳しい冬をアンジェラにもたらした。さっきちょっと調べてみたら、前回の寒波のときには、山の方で土砂崩れがあったらしいんだ。その際の犠牲者が数名アンジェラの川で見つかってる。つまり、前回の寒波も水脈に死体が混ざったことで原因だと考えられないか」
「そうだな……でも、基本的には地の障りだったんだろ。でも、今アンジェラでは神殿の地下を中心に土地が冷えてる。んでもってレインの言うとおりそれが障り持ちがあそこに監禁されてるってんなら、土地の障りと人に出た障りが両方存在してるってことになるぞ」
レインはテーブルの上を簡単に片づけると地図を広げた。
細い指先で中央通りの火の部分を指し示す。
「確かに、最初は地の障りだったと思うんだ。で、その障りが具現化したときに、何かに力がはいりこんだんだと思うんだよ。でなけりゃ局地的な冷え込みも、その冷気があの地下にいたときみたいに移動するってのも不思議だからな。でもな、この火の位置を考えたら一つ話が思い浮かんだんだ」
レインの指は一つずつ火をたどった。
「火の位置は中央通りに四つ。どれも横道と大通りを見渡せる位置にある。でも、それ以上に良く見えるのはこことここ」
そう言って指先が動いたのは大通りの北限、神殿前の噴水と、山の中腹にある一点だった。
「ここ? ここって、あの護法の」
レインは頷く。
「この家、水脈の上に建ってるんだ。その水脈はほら」
きらきらと輝く筋を追っていくと、見慣れた紋章。
「神殿につながってる……な」
シアは思わずつぶやいた。
「町の人たちは見張ってたんだよ。神殿の地下から噴水を凍らせた何かと、あの山小屋からやってくる何かを」
「山小屋からやってくる何か……それは、もしかしたら井戸を通って?」
レインはゆっくりと頷いた。
「だからこそ井戸を塞いだ。町の井戸は塞がれてると思う。俺が蓋を開けたやつも、今考えると神殿の保護符があったような気がするし、シアが開けたのには貼ってあったんだろ。あの山小屋の表にあったやつも蓋はあきそうにない。だけど、どこかにあるんだよ。そいつがたどってくるところが」
「なんでそう言い切れる?」
レインの青い瞳にわずかに決意の色がともったように見えた。
「食堂で聞いただろ。井戸は閉じられてるって。だからこそ、一般の人が見てわかるような場所に通り道があるんだ。閉じられてるかどうかがわかるくらいには大っぴらに」
レインが言葉を切ったその時、一瞬にしてあたりの音が消えた。
「しまった」
シア思わずつぶやいて腰に指していた杖を抜き取る。
ゆっくりとあたりの景色が色を失っていくような気がした。薄く膜が張ったような気配は、どことなく水のそこに沈んでいるかのような錯覚に陥る。
何か言いたげなレインを視線で制し、努めてさりげなくあたりを見回した。
店内は赤を基調とした装飾で、チェーン店らしくそれなりに安いインテリアだ。それでも活気にあふれており、あちこちで話し声や笑い声が上がっている。右隣はまだ子供といってよい年齢のカップルで、左隣の二人連れはどうやら学生らしい少年だった。念のためその隣も確認するが、とりたてておかしなところはない。
空気中に感じられるわずかな気配は、発動した魔法の余波だろう。脆弱な雰囲気からして距離を置いて感知できるほど強力なものではない。
「小屋で使ったやつだと思う。誰かが、近くでアレを使ってる」
レインは目を丸くしてから、そっとあたりを見回した。
「寂燈? ほんとにその気配を感じているんだとしたら……結構近くにいるはずだぜ。あれはそれこそ隣にでもいない限りわかんねぇって書いてあったし。でも、シアだからな」
言外にお前なら分かるかもしれないということを匂わせて、レインはちらりと横を見た。その動きにつられて少し視線を右に移動して初めて違和感を感じた。
何かを見た。
確かに何かを見た。
だかそれは脳に情報が達する前に視界が切り替わってしまったようで、何を見たのかがはっきりとしない。シアは慎重に視線を移動する。
その時、思わず息をのんでしまった。
「シア? 見つけたのか」
レインの問いかけに意識せずに鋭く息を吐いてしまった。
べったりとレインの後ろに張り付くように立っていた女。水気のない赤い髪をぼさぼさにたらし、骨と皮のような体を紺色のローブで包んでいる。ぎょろりとした瞳がじっとレインを見つめていた。
その女はシアの変化に気がついた。とたんに身を翻して店舗の出口へ走り出す。
とっさに立ちあがるが、女との距離が開いた途端に気配は希薄になってしまった。
「くそっ。逃げた。女がお前の後ろにいたんだ」
「げ、俺の後ろかよー」
情けない声を出すも、レインは手早く杖を出した。シアも音を立てて立ち上がる。
「よし、俺はあの女を追う、レインは」
「そいつが寂燈を使ってたんなら追える。調査権限からは外れるけど……今はもう、任務外とか言ってられないだろ。死人も出てるんだし」
シアの脳裏には、小さな塊しか残せなかったコスカス人が浮かびあがった。
レインは一つ頷くと持っていたカバンから使い込んだ書籍を取り出した。
隣の少年たちがレインを見て小さく「魔法使いだぜ」とささやく。「万引きでも見つけたんじゃねぇか」だとか「品質に問題ありだったんじゃねぇか」などと無責任なことをささやいているが、レインはパラパラとページをめくり、中ほどを開くと一点を指差した。
にやにやと少年たちの笑いが目に障る。
反対側のカップルも馬鹿にした様子でこちらを見ていた。
魔法使いなど珍しくはないだろう。こうして仕事をする姿もそれほど珍しいわけではない。ただし、レインのように魔法書を開いて魔法を使う大人など皆無に等しいのだ。
魔法書を使いましょうと習うのは初等科の子供たちだ。せいぜいモノを少しだけ動かしたり、少しだけ水を甘くする程度しかできない。
つまり、この予期せぬギャラリーはレインをできそこないの魔法使いだと思っているのだ。
ほえずらをかくといい。
シアはそんな意地悪な思いを胸に秘めて、にやりと笑った。
レインはそんな周りの様子など気にもせず、むしろ気が付いていない様子で一点をスルリと撫でる。
『聖典弦七条八拍 古言の約により天女羽衣を忘失し、良夫良意にて先行を知り得たり。検索の条に言わしめん寂しげなる迷い子の泣き声を届けよ。行政手続法第九条 情報の提供。展開後補足』
淀みなく読み上げたのは古典法と現代法の二重構造の魔法手続きだった。レインがシアのために編み出した力技だ。
古典魔法はいわば大きな器。大きな力を注ぎこむことで威力を発する。一方、現代魔法は細部までこだわった編み物のようなものだ。
シアは杖先に魔法力を込めて古典魔法に力を乗せる。大きな器から伸びた繊細な糸は、基点に注ぎ込まれた力を吸い取って美しい網目を開き始めた。一度開くとあとは早い。
わずかな風を起こして編みは一瞬で放射状に広がり消えていった。
いつも不思議に思うのだが、レインが敷いた魔法の後には少しだけ、清涼感のある香りが漂う。
見物人は目を丸くしていた。
それもそうだろう。古典魔法は超のつく高度構成魔法だ。意味を正確に理解したものだけが呼びだすことを許される大きな大きな銀の器だと、シアは思っている。
レインはパタンと魔法書を閉じた。その額にはわずかに汗が浮かんでいる。
彼のわずかな魔法力では構成できない高度魔法を使うとき、レインは現代法の発現を魔法書に頼るのだ。その理屈は何度説明されてもシアには理解できないものだったが、こうしてレインは芸術もののの魔法を描く。
天才だと正直に思っていた。
「何を呆けてるんだよ。成功したんだから後で論文でも書こうぜ。後は青系の光を当てれば寂燈の気配を追えるんだ。それこそ足跡みたいに光ってるはずだぜ」
「論文って……え?」
レインは胸を張った。
「組み合わせは俺のオリジナル。ちなみに聖典弦の七条八拍の意味に検索の要素を見いだしたのは、たぶん俺が初めてだぜ」
「そんな……なんか、顔色いいな。餌喰ったばっかの猫みたい」
「だって楽しいもん。これ、認められたら院展に出せるかも。楽しみだな、何色に光るんだろうな」
レインは口元を緩ませたまま立ち上がった。
第八条 「コトリ」
二人は地面近くに青い光の球を漂わせながら道を歩いている。
「シア。言っておくけど……俺たちの任務だから、でかい魔法は使えない。さっきはああ言ったけど結局拘束魔法や、ましてや裁判なんて俺たちにはまだきつい」
シアは「わかった」とだけつぶやいて足元に視線を落とした。
薄闇に沈んでいく町には、足元からあの冷たさの存在を感じるようになっていた。
にぎやかだった大通りも次第に家路につく人の姿の方が多くなり、シアとレインが足元を見つめながら歩いていても不審には思われない。遠く沈む火の光がシアの髪を炎のように染め上げていたが、二人の視線は青い光が浮かび上がらせる足跡に注がれていた。
薄紫色の足跡。
遠く子供たちの声が聞こえていた。
明日の約束をし、母親のもとへ走り寄る声。広場から遠ざかると家々から漏れてくる団らんの声も混じり雰囲気に温かさが増す。その分戸外の冷え込みが増したように感じていた。
「ほら、まっすぐおうちに帰りなさい。コトリが来るわよ」
小さく聞こえたのはどの家からだったか。シアはそちらに顔を向けた。
家は定かではないものの、小さな影が道を走ってくる。透けるような金髪の少年だ。立ち止ったシアをレインが呼んでいるが、シアはその少年を呼びとめた。
「なぁ。コトリってなんだ?」
レインがシアの言葉を聞いて息をのんだ。
「え。兄ちゃんたち知らないの。コトリはあの山からきて、子供を食う化けもんなんだぜ」
少年はにやりと笑った。指先は足跡が示す山へと伸ばされていた。そばかすの浮かぶ顔、薄い色あいの栗毛。光の加減で金髪に見えたが、少年はふわふわとした栗毛をあちこちにはねさせながら
「兄ちゃんたちは大丈夫だよ。もう大人なんだろ。あいつは子供しかとらないんだ。だからコトリって言うんだぜ」
叫ぶように言って走り去っていく。やがて道を曲がる勢いのよい「ただいま」の声が聞こえてきた。
シアとレインは顔を見合わせる。
「コトリは子捕りか。なんだかえげつないな」
「まあな。でもなシア、現実は結構えげつないストーリーを好むじゃないか。俺もお前も良く知ってる」
「この場合のえげつないストーリーってのは?」
レインは歩みを速めた。一度決意するようにその行き先を見つめる。足跡は山小屋の方へ向かっていた。
「金色のコトリは子供を捕るために井戸を這い出て町をさまよう。一人獲物を見つけたら巣穴に持って帰るんだ。俺たちはその巣穴の入り口に向かってる」
「でも、入口には蓋があるんだろ」
レインは頷いた。その後は口を開かずに黙々と足跡を追っていた。
山小屋に着くころには太陽は姿を消し、その残滓があたりを薄く染めていた。雲のあるあたりは灰色になり、それまで青空だった部分が紺色に変わっていく。
シアは小屋の入口に立つと腰の両側に差している杖を腕をクロスさせるようにして抜き取った。今まで赤銅だった杖は一瞬で赤く燃えるほどの色になる。
レインも袖口から青い杖を取り出した。ペンほどの小ささのそれを一振りして腕の長さほどに変えると、シアを小屋の入口に残したまま、傍らの井戸を調べ始めた。ほどなくして戻ってくると、首を振る。
「やっぱりここも同じ。開けてはいないけど……神殿符が見えてる」
「となると、中、か」
レインは頷いた。
「シア、気をつけろよ」
レインはそう言ってシアの返答を待たずに小屋の扉に手をかけた。隙なくシアの杖先は室内を狙っていた。
「
「居ない。足跡は確かにここへ向かってるのに」
シアは床に残る足跡を乱暴に踏みにじった。あたりを手当たり次第にひっくり返して痕跡を探すも、一つも見つけられないままに数分が過ぎていた。
レインはそんなシアの様子を見ていたが、やがてふらふらと小屋の中央に歩いてくると、何度か床を踏み鳴らす。以前もそんな様子を見ていたが、今回はやけに執拗だ。
「どうした」
シアは汚れたテーブルにどかりと腰を下ろすと、ため息まじりに問いかける。
ゆっくりとレインは小屋を見舞わす。その慎重さが今だけはばかばかしく感じていた。どこにもいない。何の気配も感じない。足跡はぷっつり消えた。
「護法が……出てこない。足も……無い」
シアは思わず目を見開いてから、慎重に気配を探った。護法の気配は感じられないとレインが言っていたが、少なくとも何かもめごとがあったのなら場の乱れがあるはずだ。
しかし、小屋の中には何の気配も残ってはいなかった。ただ足元の紫が点々と光っているだけだ。歩幅からすると、あの女は小柄だったのだろう。やけに小さな足の運びだった。
ふと眼を足元にやると、そこにも紫色の光が見えた。もうひとつの足跡まではシアの腕ほど。
「なあレイン。あの女は足を引きずっていたかもしれない。足跡が変だ」
「……片足を引きずる奴なら、この小屋で会ったよな」
「ああ。土着の魔法使いだろ。あの女がそうか?」
レインはじっと足元を見つめていた。
「だとしたら護法を解いたのか。何のためだ。この場所には神殿につながる道があるはずで……」
シアは足跡を良く見ようと床にしゃがみこんだ。指先で床のごみを払う。ふと、床下から冷気を感じた。
無理もない。粗末な板張りの床では地面からの冷気を防ぎきれないだろう。ここに誰かが暮らしていたときだって不便だったに違いない。床の上に落ちていた木枠には、家族で撮ったらしい写真が収められていた。
一番背が高いのは兄だろうか。その隣にふくよかな少女。少しはにかんだ笑みを見せているのはまだ十代の少年だった。三人の前には小さな子供が三人並んでいる。どうやらこの小屋の前で撮った写真らしかった。
色あせてはいるものの、かわいらしい花柄のシャツや、後ろに写る少年と青年が来ている濃紺の神殿ローブの色、そして姉らしい少女の赤毛が見て取れる。
裏返してみると、ほんの一年ほど前にとられた写真らしく、手書きで日付と名前が入っていた。
「シア。見つけた。入口はここだ」
背中でレインの言葉を受けたが、視線は写真から話すことはできなかった。
「俺も見つけた。女とキュイナっていう子供、それからもう一人」
シアが振り返ると、レインは床の杖先で抑えつけながらこちらを見ていた。
「女は魔法使いじゃないな。……まれに適性が出ても届けないっていう違反者もいるにはいるけど」
「少なくとも寂燈と護法は使ってるから知識はあるんだろうな。神殿関係者が二人もいれば書物なんかも事欠かなかっただろうし」
六人の子供のうち、男性年長者二人は神官だ。家に魔法書があってもおかしくない。
「寂燈の性質を知らずに使い続けたのかもしれない。あれは心というか、魂を喰うって言われてるんだ」
「そうか……確かに、変わっちまってたけど」
レインはどう変わったかには言及せずに少しだけ気の毒そうに眼を伏せると、こつんと床を杖で叩いた。
「そろそろ決着をつけようぜ。金色のコトリとやらとさ。護法も消えてるし、中に入れるだろ」
「護法がコトリっていう可能性はないのか。あの女が護法を動かして町に放ってるってのは」
「ないな。前にも言ったかもしれないけど、護法はあくまでも何かを守るために存在してる。操って動かすには不向きなんだよ。確かにあの護法には足に制限がなかったけど……この女が見よう見まねで護法を作ったなら法布の知識が欠けていたといっても納得できるだろ」
「じゃあ、あの女はここで護法に……入口を守らせていた、と?」
レインは頷いた。
「そう。あの女は護法で入口を守っていた。血に反応したんじゃない。単純に人に反応したんだ。出現までのタイムラグは稚拙さだと思う。村人が入口に近づかないように。入口から何かが出てこないように見よう見まねで護法を敷いた」
「でも! でも……あの女は」
「外見がどうであれ、俺はそう思ってる。だけど、その女の顔を見てないから言えることなのかも知れない。なあ、シア。その女はたぶんここから神殿に向かってる。俺たちも向かうべきだと思わねぇか」
レインはぐっと杖を押し込んだ。音を立てて床板が持ち上がる。まばらに接着されていた床板が持ち上がり、床下にはぽっかりと黒い穴が開いていた。
「これで今度ここへ来た村人は言うんだろうな。護法もいない、床板が持ち上がってる」
シアは口元だけで笑みの形を作った。笑うことなんてできない。この穴の先には金色の化け物が住んでいるのだ。手綱が握られているとは限らない。
「井戸が開いてるってか」
レインもまた妙な表情を浮かべていた。
第九条 「金色の獣」
井戸の内部には足がかりとなる窪みがいくつかあった。
先に降りたシアがレインに合図を送ると、レインは乱暴にシアの上に降りてくる。どうやら山がわの水脈筋は急な斜面と大きな岩に阻まれており、隙間から流れる水だけが辿れる道のようだった。
下流へは心もとない道が続いているようだ。杖に灯した光は二人の周りを照らしているが、肝心の道はすぐにカーブを描いているようでその先までを確認することができない。シアはレインに明かり役を託すと、自分はいざというときのために杖を抜いて警戒を強める。
「とりあえず神殿の方へ行ってみよう」
足元の土は水分を含んでだいぶ柔らかくなっている。靴を通してしみこむ水が、それこそ凍りつくように冷たかった。吐く息も白く大気に溶けていく。
慎重に数歩を進んだ時、つま先に何かが当たった。あたりを警戒したままにそちらを見れば白っぽいものが泥の中からのぞいていた。レインがしゃがみこんで確認する。
「……キュイナ、かもな。髪の色が彼女っぽい。レインはそっとその白い部分を持ち上げた。半ば白骨化し、半ば生前のままの姿を残す首。鎖骨より下の部分は無くなっていた。レインはその断面をみてため息をつく。彼女の顔を隠すように置いてあった布はまだ汚れの目立たないものだった。
「もしかしたら金色の……獣かもしれないな。噛み切られてるっぽい」
レインが息を吐いた。どことなく安堵の色が覗いているのは、障り持ちの人間が犯人だったことを考えるよりは気が楽だ。
不意に空気が揺らいだ。シアはレインの背後、今まで自分たちが歩いてきた方向へ明かりを向けた。
誰かがいる。闇に紛れる形で、それでも足音を消しきれない何かが。
「誰だ!」
誰何の声は思った以上に大きく響いた。
「もう一度だけ聞く。誰だ。答えなければ執行妨害を宣言する」
足音はゆっくりと近づいてきた。光の領域に見えたのは、細身の男だった。
「ロルダー!?」
ロルダーは頷いた。ちらりと後ろを見ると、その後から姿を現したのは彼の姉だった。ロルダーとは違いシアたちを見ようとはしない。
「神殿符を剥がされたでしょう? もう、隠しだてはできないと思ってお話をしようと」
「ここまでつけてきたってことか」
レインの言葉に険がこもる。ロルダーは気まずそうに顔をそらした。
「まぁ、いいさ。あんたたちにも関係のある話なんだ。そもそもの原因があんたたちが自分の領土の民をよりによって井戸に詰め込んだところから始まったんだからな。さぞかし苦しかったんだろうよ領の財政とやらがよ。華美な装飾が喰えればよかったのにな」
ロルダーの姉が何かを言いたそうにレインをにらみつけ、またふいと視線をそらした。
「どうやら俺が犯人だってのは考えを改めたんだろ。今度はどんなのが出てくるんだ。あんたらに都合のいい犯人だと良いけどな」
「レイン!」
レインの肩に手を置いて掴みかかりそうな相棒を抑えた。掌から燃えるような怒りが伝わってくる。レインは何度か息を吐くと、無理やり自分を押さえこんだようだった。踵を返しすと後ろを振り向かずに歩き出す。
「わかってる。先を急ごう。あんたらも、来るなら来ればいいさ」
地下のぬかるみにはぽつぽつとかけらが落ちていた。
どれもかつてはヒトの一部だったもの。それもまだ幼いと言ってよいほどの少年少女たちばかり。手足が無い者、頭部らしきかけらだけの者。シア達は一つ一つを確認しながら道を進んだ。
次第に足元が堅くなり、ところどころ石造りの道となる。
神殿の装飾が増え、壁の両脇には悪しき心を喰らい、その吐息で新しい命を生み出すというジャバウォクの物語が刻まれていた。既に年月がたち、手入れもされていないのだろう壁の装飾は、ところどころ剥がれ落ち、その分だけ見る者の心に不安を残す。
ジャバウォクはこの地に染みついた神の力の象徴だったのかもしれない。時折噴き出す冷気に、人は傷つき、疲弊し、命を落とした。しかしその力もやがては治まり、穏やかな気候と新しい命を迎える。そんなサイクルをジャバウォクという名前を付けてやり過ごすのが、この土地のやり方だった。それがただの冷気なら問題は無かっただろう。だが、今回は違っていたのだ。冷気は、神の力は何かに取りついてしまった。その何かがこの道の先にある。
道は冷たい石畳に固められ、申し訳程度に灯る壁に埋め込まれた光る石がその全貌を照らしている。レインとともに杖に灯をともしていたロルダーは壁の装飾を見ながら顔をこわばらせている。
薄暗い道。その中央に何かが落ちていた。
近寄って慎重に持ち上げる。
「ローブだな。黒っぽいけど……あの女のローブに似てる」
シアの言葉にロルダーが首を傾げながらシアの手元を覗き込む。
「あの女……。ああ、これはウィリーの」
「女を知っているのか」
シアは思わずロルダーに向き直って問いただした。言葉の雰囲気からすれば親しげな部類に入るだろう。ロルダーは面食らったように目を丸くして数歩後ろに下がった。
「は、はい。何度か話をしたことがあります」
「シア。落ち着けって。ロルダーと彼女が一緒に小屋に入るところを見たじゃないか」
そうだった。最初に小屋に行った日、ロルダーとローブの女は一緒に小屋に入って行った。あのローブの主は護法に詳しい足を引きずる魔法使いだったはず。それはつまりこの道に降りてきた女を指している。
ロルダーによれば名前はウィリー。
「彼女は……山小屋に住んでいた兄弟の生き残りです。この誘拐騒動が始まった最初の犠牲者である子供たちの姉に当たります」
シアは懐にしまっていた写真を取りだすとロルダーに差し出す。
「ああ。この子たちです。両親を早くに亡くして兄二人が神官として、姉がお針子として一家を支えていました。事件の際、現場に居合わせながらも辛くも助かった姉が犯人の証言をしてくれたのです。それが、金髪の男だったのです」
レインが小さく笑った。
「それで俺ですか? ずいぶんと飛躍しましたよね。俺の髪は生まれてこのかたこの色なのに。よっぽどロルダーさんのほうが近くありません? 光の加減では銀が金に見えることもあるでしょうし」
レインが言い終わるか言い終わらないかのうちに、姉の掌がレインを襲った。乾いた音を立ててレインの頬が赤くなる。
「ふざけたことを! ロルダーのはずが無いでしょう。次期コスカス領主を何だと思ってるの。本当ならあなたのような下賤な民が話しかけることすらできない存在なのよ。コスカスではあなたのような人はせいぜい残飯集めくらいの仕事しか与えられないわ。その貧弱な体、気が強いだけで大した魔法力もなく、傍らの男の家柄にすがるしかないのでしょう。両親に名乗る苗字があるのならおっしゃいなさい。あるわけがないわ、あなたのような穢れた」
「姉さん!」
ロルダーが姉の言葉を遮った。
もう少し彼の言葉が遅ければロルダーの姉とやらを殴り飛ばしていたかもしれない。
「別にかまいませんよ。それでなんですか。穢れた体ですか? 穢れた血ですが? なんとでも言ってくれて結構。私は私ですから。誰に恥じるような生き方はしていない」
レインの瞳は青く強さを帯び、苛烈な彼の性質をあらわしているかのようだった。
「は、恥入りなさい。あなたの家柄じゃ」
「家柄が関係ないと言ったのは貴女じゃありませんか。記憶力にも難が御有りで?」
真っ赤になったロルダーの姉は何度も口を開くが、言葉を接げないようだった。
そんな彼女からあっさりと視線を剥がしたレインは、ロルダーに写真を渡すように要求した。
「これですべてが揃いました」
シアは思わず辺りを見回した。道の先には格子の付いた扉がある。冷気はそこから漂ってきていた。地図を確認してみればわかるだろうが、おそらくは噴水の真下だ。
「まずは神の障り」
レインは壁の装飾を指さす。ジャバウォクと呼ばれた聖獣は神の力の象徴。
「そしてそれをゆり起した者」
次にロルダーと姉を指さす。
「神の力に触れたモノ」
格子の扉の奥に潜むモノ。
「それを見てしまった者」
レインはシアの手に残ったローブを指した。
「そして、すべてを知ってなお、罪を重ねた者」
最後の一つはシアの頭には浮かばなかった。
レインを見れば格子を見つめたままだ。あの奥にいるものが子供を捕り、食い散らかしたモノなのだろう。だがレインはどこか違うところを見ているようだった。
一瞬の沈黙。
その後闇がほどけるようにして壁の辺りから人影が姿を現した。全身黒ずくめの女だった。赤毛は乾ききって艶もなく、斑に染め上げられた顔の皮膚にぎょろりとした瞳。
「ウィリーさん。もう寂燈は使わない方がいいですよ。それ以上は戻れなくなる」
小柄な影は小さくうなずいた。その奥にももう一つ気配がある。
「あなたもそろそろ終わりにしませんか」
やせ細った赤毛の女をかばうように出てきたのは、シアが何度も見ている顔だった。
「レイン……まさか、最後の一人って彼のことなのか。……どういうことです。ルパート書記官!」
思わず大きな声が出てしまった。
シアのポケットにはブラム一家の写真があった。その中で笑みを浮かべる青年。ルパート・ブラムその人がゆっくりと頭を下げた。
アンジェラに寒波が押し寄せた時、町の知識人たちは皆数年に一度の寒波だと甘く見ていた。それがあっという間に威力を増し、家の中にいるにも関わらず凍死するものが現れた。これはと思って調べた時には、既に水脈には隣の領国から押し付けられた荷物を詰め込んだ後だったのだ。この町に送られてくるコスカス人は、コスカスの土地を経由しただけのごろつきや前科者ばかりだ。さもなければ病持ちか子供を抱えた女。飯を喰らうだけで労働力にもなりはしない。コスカス人からも不要とされた人をアンジェラは大量に抱えていた。そんなコスカス人を「処分」し始めたのはいつからだったか。しかし、水脈は穢れてしまった。
慌てた町の有力者と神官たちは古い古い文献から一つ策を講じたのだ。コスカス人で魔法素地のあるものを一人、この神の力のために生贄にしようとした。
つまりは神の力を鎮めるため、その体に神族の地障を移し、神殿地下に押し込めて監禁する。その者が死んだら次のコスカス人を寄り代にすればいい。幸いなことに無機物を寄り代にするための儀式なら執り行ったことがあると一人の青年が手を挙げた。人であっても構成要素はそれほど変わらない。出来ると彼は豪語した。
儀式は神殿の地下でひっそりと行われた。コスカスの少年が一人と、それを取り囲む神官の姿をした死刑執行人。
儀式は難なく進み、あと少しで終わるところだった。
少年が突如、神官の一人に飛びかかり抱きつくまでは。
恐ろしかったのかもしれない。憎しみからかもしれない。
少年の体は凍りつき、同時に神官もまた氷に飲みこまれた。
「呑みこまれた神官の名はアントン・ブラム。私とウィリーのすぐ下の弟です。少年は最前列に立つ私の前をかすめ、アントンに飛びついた。誰もがアントンの死を覚悟しました。コスカスの少年と一緒に礎になってしまったのだと。この地下で長く長く祀って行かなくてはならないのだと。しかし」
ルパートは言葉を切って、少し考えるそぶりを見せた。そして唐突に続きを口にする。
「……氷を破って出てきたのです。変わらない笑みを浮かべて、少しはにかんだ様子でアントンは出てきた。少年を氷に残したまま」
アントンの無事を喜べたのは一瞬だった。アントンは無邪気に笑いだし、圧倒的な冷気とともに穢れた水脈を辿りって小屋から町へ出て行った。
「彼が帰った時。両手にはマルとポティを抱えていました。あの時の無邪気な笑みではない。泣きぬれたアントンの表情でした。アントンはそのまま私のもとに来るとうなだれて『止められなかった』とつぶやきました。
他の子供たちも襲ったようですが、どうしても妹と弟の死体をそのままにはしておけなかったと泣いていました。声と体を震わせていたのを今でも覚えています。彼の体には何重もの古典魔法の鎖が巻きついており、アントンはなんとか立っている状態だったのです」
ルパートはアントンにさらに強力な封じを施し、地下の一室に軟禁した。アントンと、少年が眠る氷柱からは常に冷気が噴き出しており、ルパートですら長くは共にいられない。
「私はアントンに巻きつく鎖を辿りました。辿りついた我が家の床下を持ち上げて中に入ると、ウィリーが泣きながらその鎖の一端を握りしめていたのです。鎖はキュイナの足を礎に具現していました。嫌がるウィリーにキュイナの足をあの小屋に残すことを納得させたのです」
ウィリーが細く声を上げた。
「わたし、学校に行きたかったんです。読み書きだってできる、計算だって出来る。アントンや兄には敵いませんが、私は馬鹿ではないと思っていました。だからこっそり二人の本を読んでいたのです。あの日、家に帰る途中で後ろから誰かに襲われて、かろうじて見えた金色の頭を追いかけて家に帰りつくと、あの穴に引きずりこまれていく弟たちを見ました。私夢中で」
レインは頭を抱えていた。
「夢中で飛び出したのが上級魔法か。鎖は難しいんだぜ。しかも何本も」
ウィリーは悲しそうに眼を伏せた。
「その後は兄に教えてもらって護りの騎士を作りました。何かが出て行くことがあればそれを追いかけるように、誰かがここから神殿に向かおうとすればそれを止められるように。」
あの小屋にあったキュイナの足は、ウィリーが必死で作り上げた護法と鎖の核となっていたのだろう。傷ついたウィリーが残された妹の足を抱いて術を発動させる姿は想像に難くない。キュイナの足は術が進むたびに力を失い、だんだんと干からびてゆくのだ。
シアは知らず知らずのうちに奥の扉を見つめていた。
あの奥にアントンという名の化け物がいる。じぶんと同じように化け物を宿している人間が。
「残念だが、アレを止められなかったんだな」
シアの問いかけにウィリーは悲しげに頷いた。
「騎士は動いていないのに、護りは破られていないのに町では子供が消えて行くのです。私は町の人たちに、犯人に近付くことの無いように、保安部の方に目撃した犯人情報を伝えました。」
「金髪の細身の男ってことだな」
レインが確認すると、ウィリーは頷く。黒目だけが異様に大きくなった瞳が不安定に揺れていた。
「私が余計な手を出さなければ……兄ならもっとうまくできたはずなのに。すみません、私が」
「とても残念ですが、アントンと少年をこの地下ごと封じ込めてしまおうと思います。手伝っていただけませんか」
ルパートは嘆くウィリーの肩に手を置くと、うっすらと瞳に涙を浮かべて頭を下げた。ウィリーもそれに倣う。
確かに大魔法を展開して神殿ごとこの地下を封じてしまえばアントンも少年ももう出ては来れないだろう。寄りしろを得た力は、何十年という時をかけて大気に力を放出し続け、土地が安定した時アントンたちは解放される。通常神殿がやむを得ずに使う寄り代は、複雑な魔法をかけた核と呼ばれる球体だ。何十人もの魔法使いが長い年月をかけて作り上げることもあるほどの、強力な魔法具だ。その魔法具の耐久は基本的に数百年単位。それだけ放出には時間と力が必要となる。
十中八九アントンと少年は死ぬだろう。
家族の死と家族の犯した罪、そしてそれを招いた自分自身。彼らの感情は思うに余る。
シアは自分の身が引き裂かれる思いだった。
確かにルパートは儀式の一員としての責任がある。ウィリーにも姉としての責任がある。それでも四人の家族を失うと言うのはどうだろう。たった一人失うだけでも辛いのに。
シアが「もちろん」と返そうとした時だった。
「お断りします」
きっぱりと言い切ったのはレインだった。
ルパートが悲壮な表情でレインを見詰める。
「もちろん自分勝手だとはわかっています。一度は中央神殿からの手を断った。家族可愛さで報告も遅れていましたし。もちろん処罰も受けます。でもいまはアンジェラを助けたいそのためにはあなたたちの力が必要です」
ルパートはさらに頭を下げる。
ロルダーと姉ですらハラハラとした様子でレインとルパートを見比べていた。
「何度言われても答えは否。あんたの尻拭いをするつもりもないし、俺たちに頼むのは間違ってるぜ。それに俺は嘘吐きは信用しないことにしてるんだ。なぁ、ルパート書記官。いや、コトリのお兄さん。誘拐事件の犯人はあんただろ」
「ちょ、ちょっと待て。だってあの奥にいるんだろ。その、アントンってやつが」
レインは鼻で笑うと、すっとルパートを指さした。
「アントンってのは確かに弟だろうよ。ウィリーの話にもまぁ、取り立てて突っ込むところは無い。だけどあんたの話はいくつかおかしいよ」
ルパートは無表情でレインを見つめた。
「まず、なぜアントンが外に出て行った時に追いかけなかった? 知ってたんだろ、彼が何をするのか。なんであんたたちみたいな中位神官(紺ローブ)が儀式の最前列に立ってる? 儀式に長けていたから? それとも志願? 違うな。あんたたちは最前列に立たされたんだ。何かが起きても良いように。井戸に放り込まれたコスカス人や、生贄にされたコスカス人と同じように。もっと言えば、この儀式を提唱したのはあんただ。」
ルパートは表情を変えない。
「あんたたちの両親はコスカス人だろ。しかも井戸に詰め込まれる側の」
ウィリーが唇を噛んだ。震えるような声を発したのはロルダーの姉だった。
「そ、んな、なぜ。殺すだけでなく、子供達にまでそんな差別を」
「あんたたちもめでたいよな。戦争の時、コスカスは何をした。あの地を牛耳りこう言ったんだろ。来るもの拒まずってな。隣地のアンジェラはどうすればいい? あんたたちの勝手な提唱に引きずられるようにヒトが増え不満が増え。領土も無ければ独自の力も持ちえない小さな町に何が出来る。しかもコスカス本体は口減らし政策を取ってたんだろ。いらないやつは隣に押し付けろって具合にさ。あんたたちのわがままな政策の余波を喰らった町に、あんたたちが文句を言う資格はねぇよ」
レインは柳眉をきりりと持ち上げてルパートを睨みつける。
「護法で出入口を固め、アントンをウィリーの鎖と護法で縛りつける。ウィリーには寂燈を教え込みコスカスからきた正義感に満ち満ちた姉弟と、俺たちを見張らせた」
「仕方が無いだろう。アントンは見張っていても出て行ってしまうような状態だし、コスカスの人にはいつばれるかとびくびくしていたし、中央神殿からヒトは来るし」
「違うね。あんたは自分が動きやすいようにしただけだ。ただ監視したいならなぜ自分でしない? 寂燈なんて副作用のある魔法を妹に押し付けてまでしたかったことがあったんだろ。」
ウィリーは震えながら俯く。
「最大の矛盾は」
レインは一度言葉を切ってからウィリーを見た。
「護法が動いていないってことだ。あの魔法はきっちりしてた。動いてないってことはアントンは小屋を通っていない。でも、外で事件は起きてる。
つまり、事件のたびに外へ出て行ってるのはアントンでも、ましてやその少年でもない。あんただろ。ルパート・ブラム」
永遠にも思える一瞬の空白。
そしてルパートはゆっくりと口の端を持ち上げた。
第十条「質疑と弁論」
「なるほど。聡明な少年魔法使いだな。確かに俺はクソみたいなコスカス人の両親から生まれた。何かあれば殴るくそ親父と、俺をごみのように扱うくそ婆。何度、お前がいなければと言われたことか。だがな、俺は力だけが自慢の、高慢なコスカス人とは違う。だから中央へ行ったんだ。帝都の学院に通うこともできた。学院でも一番だったのに、コスカスの名があるだけで俺たちの世界はこの小さな西の山あいに限定されてしまう。その上配属がアンジェラだ。この辛気臭い町で、コスカスという血を隠して生きる。ばかばかしい。弟みたいにバカみたいに勉強だけを続けるわけじゃない。ウィリーのようにぶくぶく太って家事ばかりする女でもない。正義を振り回し夢を語るような阿呆な子供でも無かったし、商店や職人を目指すほど学が無いわけじゃない。俺は中央でもやれる」
レインはじっとルパートを見つめていた。冷たい瞳のままに口を開く。
「……帝都の学院に入るには強力な後ろ盾が必要だ。あんたの後ろ盾はなんだ。アンジェラ神殿? いや、違うな地方神殿くらいじゃ後ろ盾には不十分。ということは……コスカスか? あんたが言うところの「クソじゃない」コスカス。あんたまさか」
ルパートは当然と言うように胸を張った。
「そうさ。俺は違うということを証明した。まずは自宅の井戸をゴミ捨て場に提供したんだ。神殿、ひいては正派コスカスはみな喜んだよ。俺をコスカス領からの公費留学生として帝都の学院に推してくれた。その後なんとこんな田舎の勤務を言い渡された。でも、ここの神官長が次は帝都の神殿に推してくれるというから俺は戻ってきた。手土産に何とかブラムという夫妻をごみ箱に放り込んでな。悲鳴もあげずに落ちて行ったよ」
「兄さんは、父さんと母さんが亡くなったから戻ってきてくれたんでしょ。わざわざここへ帰ってきてくれたんでしょ!」
ウィリーが泣きながら叫んだ。
ルパートはくすくすと笑っていたが不意に笑うのを止め、凶悪な表情でレインを睨みつける。
「それなのにこうだ。「君とアントンは儀式に参加できる。喜びなさい」神殿長のセリフには笑いもこみ上げたよ。馬鹿にしてるだろ。最前列の盾だ。事実アントンはあの汚い子供に抱きつかれて囚われた。情けないだろ」
「……そこまでめでたいってのも、ある意味尊敬するよ。少年はどこに綻びを見つけたんだろうな。知ってるか? 多人数で発動させる魔法って言うのは、意識の集中が鍵なんだ。陣が多少間違っていようと、唱え上げる法呪が多少違おうと、発動者たちの心が定まっていれば失敗はしない。その代わり意識が途絶えればそこから綻ぶ。大きな魔法を使う時に限って大人数なのはそのためだ。国防もしかり、大掛かりな手術もしかり、裁判もしかり。
でもあんたたちの儀式とやらは失敗した。誰かが意識を途絶えさせたんだ。違うことを考えたか、何か他のことに気を取られたか。話を聞くと、それがあんたに思えて仕方が無い」
地下空間にはレインの朗々たる声が響いていた。決して張り上げているわけでもないのに、ついつい聞き入ってしまうほどの声。
レインは魔法力こそ恵まれていなかったが、それでも検事として大切な素質が残った。
人の耳を引きつける声。罪を確定し、世界に問いかけることを許された声だ。
頑ななルパートですらレインの声には揺らぎを見せている。
「あれは調査した神官が俺に情報を伝え忘れたんだ。寄り代になる子供の名が「ルパート」だなんて! 嫌がらせでしかない。優秀な俺を神官たちは妬んだんだろう。だからこそ最前列に置き、寄りによってルパートという名前の子供を用意した。さすがに俺でも動揺してしまったよ」
レインは心底嬉しそうに笑みを浮かべた。いっそルパートよりも寒さを覚える笑みだった。こういう笑い方をするときは気をつけなくてはならない。
彼の中は怒りに満ちているのを、シアはそれこそ身をもって知っているのだ。
「良く言うよ。調査した神官が情報を伝え忘れた? 自分が絡む儀式の調査を、自分ではしなかったていうのか。そりゃただの怠け者だよ」
レインは一歩前に出て口を開く。
(加速するぞ)
シアがそう思うと同時にレインはにやりと笑った。
「結果、あんたは儀式に穴を開けたんだ。その少年がみつけた綻びはあんたの所だった。儀式の最前列にはあんたと弟がいたんだよな。あんたは少年が飛び出てくるのにビビって、隣にいた弟を盾にしたんじゃないか。それともわざとか。なあ、弟とは違うんだろ。弟は完璧にやりこなしたのにな。あんたは次にウィリーに会った。どう思った? 彼女は見よう見まねで上級魔法を展開するほどの才能の持ち主」
「まぐれだ! たまたま展開したんだ! 事実護法は俺が作ってウィリーに管理させてやったのだし、寂燈だって」
「ふざけんなよ。護法も寂燈も誰だって作れるし使える。ウィリーだったらペラペラと本でも読めば自分でできたはずだ」
「本など」
「ウィリーには読めた。あんたよりも正確に理解していただろうよ。傲慢なあんたとは違い、記述は正確に受け取った。あんたは護法すらまともに作れなかっただろうが!」
「何を。護法はちゃんと」
「発動までに時間はかかるわ、足に法布も巻いてないわ、挙句の果てに寂燈? 馬鹿じゃねえのか。あれは自分の存在を隠す魔法じゃない。あれは」
レインはそこまで言うとちらりとウィリーを見た。
「あれは、一時命を消す魔法だ」
ウィリーが目を見開いてレインとルパートを見つめていた。今では涙も止まっている。
「一度の発動で効果は約二時間。その間効力範囲内の生命を一時世界から切り離す魔法だ。つまり、その間は存在を消される。隠しているんじゃないんだ。生死の境の世界に入る魔法なんだよ。何度も使えば帰ってこれなくなる。生気を失い、正気を失う。自分が生きているのか死んでいるのか分からなくなる」
ルパートは家族を愛してはいなかった。
ウィリーももはやそう確信したのだろう。きつく唇を噛んでうつむいていた。
「護法が何に反応するのか気になって使ったけど。なるべくなら使いたくないな。あんたはそれをウィリーに強いた。狂うかもしれないとわかっていて使わせた」
兄弟のことはいつだって蔑んで、面倒を見てやっていると思っていた。ともすれば荷物だと吐き捨てた。だからこそアントンを盾にし、ウィリーにはきつい副作用付きの魔法を与え、ポティやマルを見殺しにした。キュイナの死体を放置した。
「兄さん……」
ウィリーはかすれた声でそういうとじっとルパートを見つめた。何かを決意したようにルパートから目を離さない。
「なあ、ルパート書記官。綻びから冷気が溢れてたんだろ。責任を取れと言われてたんだろ。だから一人で組み直すことにした。でもそれには力が足りない。方法もわからない」
ルパートは近くの壁に拳を打ち付けた。
「方法がわからないだと! この俺が! さっきからごたごた並べているが、その女の命が無くなったからと言ってなんだっていうんだ。大したことじゃないだろう。護法と寂燈? そんな低俗魔法に費やす時間がもったいないだけだ。俺は高等魔法専門だからな」
「では、優秀なルパート書記官はどうやって冷気を鎮めようとしたんです?」
にっこりと笑うレインは、その瞳に一片の笑みも浮かべずに首を傾げた。
「簡単なことだ。礎を増やせばいい。礎は一人ではなく二人三人のほうが強い。もっと子供を連れてくれば」
「それだ!」
レインはぴしりとルパートを指差した。思わずと言った風情で口をつぐんだルパートに、再び口を開かせる隙を与えずに次を続ける。
「なぜ子供を選んだんだ」
「子供の礎は古来からの伝統だろう」
ルパートが勝ち誇った様子でそういった。
そうなのだろうか。少なくともシアにはわからない。昔話で神様に捧げられる子供ってのはそこそこいたように思うが、大きな魔法の核となるのは
「魔法使いじゃねえの?」
シアのセリフにレインは頷く。
見ればロルダーもしきりに頷いていた。
昔からよくある話だ。荒れ狂う龍を鎮めるために龍の背に入るのも、平穏を願って海に身を沈めるのも、山火事をおさめるために一人山へ入っていくのも魔法使い。
「これでわかっただろ。子供はダミーで、礎に選ばれたのはあんただったんだよ」
ルパートはきょろきょろとあたりを見回した。
「あんたが儀式を提案したって言ってたけど、どうやってその情報を得たんだ?」
「……それは、書庫、で」
「書庫を管理してたのは?」
「……」
レインは静かに息を吐いた。
「神殿の人だろ? あんたは嵌められたんだよ。さもあんたが提唱したように仕組まれた儀式。最前列に並ばされ「ルパート」と呼ばれる。当然あんたは反応するよな。子供にはこう言ってあったのかもしれない。「ルパートと言われたらあのお兄さんの所に逃げなさい」ってな」
ルパートは何も言わない。
「あのお兄さんってのは、あんたじゃなくてアントンだった」
レインはとうとうルパートから視線を外した。少し長く息を吐くとこめかみを押さえるようなしぐさをする。
「ルパートという名前を聞いた時、アントンだって意識はあんたに向いただろうよ。だから儀式は発動した。あんたを中心にな」
想像はついた。ルパートはおそらく魔法使いとしての資質は申し分ない。シアが感じている魔法力だけでも結構なものだ。それでも大成しなかったのは、ひとえに出自と肩書にこだわり続けた結果だろうか。
資質を持つ魔法使いだったからこそ儀式は成功してしまった。
「途中までは少年が中心に式が進んでいたからな、あんたが執拗に子供を求めるのは、あの時の少年の意識が混ざっているからだと俺は思ってる。もちろん神殿の連中からのすりこみみたいなものもあるだろうけど」
でも本当にルパートが障りを宿す本人なのだろうか。
アントンが氷から出てきたというは? それにウィリーがつないだ鎖というのは?
ルパートは大きく息を吸い込んだ。自分を落ち着かせようとしているのだろう。そして自分の中の記憶を探っている。
沈黙を破ったのはウィリーだった。
「ねぇ。アントンはどうしてるの。だって、アントンが化け物じゃないなら、あの時見た金髪は誰? 私は顔まで見てるのよ! あの部屋にいるのは誰? 私がつないだのは……あの時死体を抱えていたのは」
その時、軽い音を立てて格子のついた扉が開いた。
頼りない光源のもとに姿を現したのは、火に焼けた金髪の少年だった。泣いていたのかもしれない。目元が赤く腫れているような気がした。
ルパートの手から杖が落ちてあたりを乱暴に照らしだした。
「ショア……」
呟いた名前は誰のものかもわからない。
金髪の少年の名はなんだったのか。
第十条 「裁判」
「ショア」
ロルダーはつぶやいたきり呆然と少年を見つめていた。
「ごめんロルダー。これでいいんだ。僕は終わりにしたかったんだよ」
ショアはゆっくりとそういうと頭を下げた。
「アントン・ブラムと言います。調査書をお送りしたのは僕です」
シアはあわてて腰につけていた物入れから調査書の写しを取り出した。調査官の名はA・ブラム。アントン・ブラムだ。考えてみれば、西日が差す時にあの山の方へ案内したり、地下へ二人を迎えに来たり、これ見よがしにチラシを置いておいたりとショアもとい、アントン・ブラムはやたらと協力的な存在だった。彼が外からの風を切望していたのか。
ぶつぶつと何かを呟き続けているルパートをそっと見やってから、アントンは口を開いた。
「ショアがルパート付きの書記官だと言うのは嘘です。僕は神殿には属していますが、兄に遭遇しないよう外付きの神官をしています。ロルダーとはクラスメイトでした」
すみませんとアントンはさらに頭を下げた。
「僕はあの日から兄が外へ出るたびに追いかけて遺体を回収してきました。追いつけなくて外で遺体が見つかってしまうこともありましたが、遺体の大半はこの地下に運び込んだのです」
埋葬はせずに、ただここへためこんだ。それはあまりにも無責任な後始末ではないか。
「弔いもせず?」
レインの問いかけにアントンは頷く。
「ちょっと待ってくれ。ショア。ええと、アントンって呼んだ方がいいのか」
シアの戸惑いに満ちた声に、アントンは小さく笑った。
「どちらでも」
「じゃあ、アントン。鎖が巻きついたり、目撃されたりしたのはアントンなのか」
アントンは頷いた。
「あの日、兄を追ってきた僕は背中を切られたウィリーを見つけ、家からタオルを持ってこようとしたんです」
遠ざかる金糸。
それはウィリーを助けようとした弟の姿だったのだ。
「すでに家の中は惨状でした。戸惑っている間にウィリーは自力で帰りついた。その姿を見て僕は遺体を抱えて床下の穴に入り、兄を追いかけることにしたのです。これ以上の惨劇を繰り返してほしくなくて、なんとか兄に戻ってもらいたくて。穴に飛び込もうとした時、鎖が巻きつきました。
その後は兄に禁符をつけられあの部屋に。幸いなことにあの部屋は懺悔の間で、聖堂につながっています。神官長様がすぐにやってきて型代に鎖と符を移してくれましたが、念のため家には帰らない方がいいと言われました。その後ウィリーを探しましたが一向に見つかりませんでした。寂燈っていう魔法を使っていたんですね。見つからないはずだ」
アントンは寂しげに笑った。
レインはそんなアントンを見て頭を掻く。
「ルパートは自分とアントンをごっちゃにしてるんだな。降りかかった災いはみなアントンに。それを止めようと奔走する自分。そんな構図を描いて現実に当てはめてしまった。なまじ障りに適性があったのがきついな。障り持ちなのに普段は日常生活ができてしまってる」
「普段は……あの日以前の兄よりも優しいと思うくらいです。感情に波があるようで、不意に神殿を飛び出して……口元をぬらして帰ってきます」
ぶつぶつと何かを呟きながらルパートはいらだたしげに何度も壁を叩いていた。
しかし次の瞬間ルパートの口が大きくゆがむ。左右に避けた口からはとがった歯がのぞいた。とっさにシアは口を開いた
「ウィリー・ブラム。拒絶せよ!」
ハッとした様子でウィリーが背を正した。途端に希薄だった彼女の気配は確固たるものとして存在し、彼女から伸びる光の線が格子の扉に吸い込まれているのが良くわかるようになった。彼女の力を吸い取ろうとしたルパートの意識は一瞬で霧散していく。
「あんたのちんけな封じより、彼女の鎖のほうがよっぽど強そうだな」
レインは「ナイス!」と小さくシアに投げかけてから、瞳を好戦的に光らせてルパートを見た。ルパートはウィリーを睨みつけている。
「生意気だ。女のくせに、妹の分際で、俺に逆らうなんて。お前たちがいなければ中央で」
「無理だな」
シアは即答した。こればっかりはわかる。彼はダメだ。自信過剰でそれでいて疑うことを知らない。きっと良いように言われてきたのだろう。そうやって他者の評価でしか生きられない者に、中央神殿系列の派閥争いはきついだろう。
「うるさい新米魔法使い風情が。……テル・イル!」
ルパートは素早く杖を抜くと鋭く詠じた。風の刃が舞い散る。
シアは両手をクロスするように腰の両側に指していた杖を抜き取って一瞬で剣ほどの長さにすると、詠じることも無く一閃させる。霧散した刃はレインたちのもとへは届かなかった。
「ロルダーの姉とやら。とりあえず弟君とウィリーをよろしく。もちろんイエスだよな。ウィリーは愛すべきコスカス人だぜ」
レインは無理やりウィリーをロルダーの姉に預けると素早く法典を取りだした。
守りの布陣を敷いたロルダーの姉がその様子に目を見開く。
「バカ。テキスト持ちに何が出来るって言うのよ」
そう言って飛び出してこようとするロルダーの姉を視線で制し、レインもまた口に魔法の言葉をのせた。
「刑法第一三〇条 侵入防止。炎蛇」
シアの得意な炎系の魔法だ。ルパートの姉の戸惑うような声が聞こえた。法典を手にしながらレインは複雑な上級魔法を使うのだ。シアはルパートに当たらないように調節して発動させた。大きな蛇はうねるようにルパートに向かう。ルパートの張った防護壁に阻まれて消えた蛇だが、その間にシアはルパートとの距離を詰めていた。手首を打ちすえて杖を落とさせるとそのまま体当たりの要領でルパートを倒す。杖を持っていた右腕を膝で固定し、通常の大きさに戻した杖を二本クロスさせてルパートの首を押さえる。
「大人しくしろ。俺たちは検事と裁判官だ。あんたには黙秘権と弁護官を雇う権利がある。拘束の種類を選ぶこともできる。今から七十二時間以内なら一度自室や自宅に帰ることも許される。正当な裁判を受けるべきだ」
シアの名乗りにルパートはにやりと笑うと、ふっと眼を閉じた。
「シア! 避けろ!」
廊下の奥の方から飛んできたのは、鋭くとがった氷だった。大きなものは避けたものの、小さな氷のかけらが容赦なく襲ってくる。顔の前に腕をかざしてとりあえず目をやられるのだけを避けたが、そのすきにルパートには戒めを抜けられてしまった。
殺気を感じて身を捩る。とっさに床に身を投げ出したが、何かが背中をかすめた。
飛び起きてみれば、ルパートがニタリと笑うところだった。
口元はすでに獣のそれだった。飛びかかってくるルパートを避けると同時に腹をけり上げた。跳ね上がる上半身を抑えつけてさらに一撃加えるとそのまま投げ飛ばす。
「子供たちを噛みちぎったのか」
「炎壁展開 緊急避難特別法五十五条。公務員法公務執行妨害により制限解除要求」
レインの声は変わらない。シアは炎で出来た壁を作りだした。
制限解除要求はすんなりのまれたらしく、シアの中に設定されていた制限の一つが音を立てて外れたような気がした。杖の色と髪の色が燃え上がるような赤色になる。龍性を色濃く残すウィンスキー正統の色だ。
シアは両手に一振りずつ持った杖を勢いよく振り下ろし、再び剣ほどの長さに変える。
ルパートから氷の派動を感じた。おそらくは神の力を使っているのだろう。だとしても強力だ。身体能力も歯の形も獣のようだった。シアは壁で防いだ派動を感じとってごくりと喉を鳴らした。
「お、奥です。奥に氷が」
アントンの叫び声が聞こえた。
「行くぞ、シア!」
シアの隣に走り寄ってきたレインは法典を床に落とした。足でページを押さえつけ、両手の袖から二本の杖を取り出す。細い指揮棒のようなそれを器用に使ってレインは当時に二つの魔法陣を描き出した。右手には空間の崩壊を止める魔法陣。左手ではルパートから氷の魔法をひきはがす魔法陣。そして小さく「着いてこいよ」と前置いてから鋭く息を吸った。
遅れをとるつもりはない。
「検事レイン・ウィッカーフォートの名において命じる。理に従え、流れに従え。よどみはその一切を許さない。具現せよ定石。展開せよ個別認証。刑法第二九八条八則二補。不法浮遊にて氷止「囲」を求刑」
一瞬笑いそうになった。不思議と嫌な気分ではない。レインはこのタイミングで自分を信頼してくれるのだ。名前を出して発動を要求した魔法は、その失敗がすべて要求者に還る。つまり、あの夜失敗した「囲」は今失敗すればレインがそのダメージを受けるのだ。
それでも出せという。
知らず知らずのうちに口角が上がった。
面白い。これほどまで強気な検事に自分以外の誰がついて行くというのだろうか。無防備に命の預けられることの恐ろしさも考えず、ただ傲慢に従えと叫ぶ。
彼の言葉は彼の命をかけた博打だ。
シアの杖先に光が灯った。
「発動!」
次の瞬間まばゆい光がシアの杖からまっすぐに通路の奥へと伸びていった。青く透明な光の線は、すぐに正方形に成形され闇の一角を捕えて固まった。
「……うまくいったか」
シアが少し息を吐きかけたとき、捕えたはずの力が小刻みに震えているのを感じた。今にもはじけてしまいそうなほどにエネルギーを孕んでいる。
目視で扉の右隣に氷の塊を捕えた。シアが作り出した箱の中で冷気をため込んでいる。シアは一歩前に進んだ。
「レイン。もう、助けられないのか」
「……わからない。シアは?」
氷の中には大きなエネルギーが渦を巻いているように感じる。その中にはいくつかの核のようなものがあり、それが人なのか違うものなのかがわからない。
シアはゆっくりと首を横に振った。駄目だろう。もう何が原型をとどめているのかすらわからない。
「ばかばかしい!」
凍りと自分を無理やり切り離されたルパートは、個人認証符に囲まれたままよろよろと立ちあがった。
「子供でも助けるつもりか? せいぜい大人になっても貧相な野菜を売るか、道路を掃除するか、水を売るだけのくだらない人生だ。ここで偉業の礎になることの方がはるかに有意義じゃないか」
ルパートはそういうと力任せに認証符をひきはがしにかかった。レインがその様子を見て鼻で笑う。
「はがせないだろうよ。俺の構築は完ぺきだぜ。あんたみたいに中途半端な知識に胡坐をかいたりしないからな。それに素材は一級の品質を誇ってる」
ルパートは憎々しげにレインをにらむと不自由な手で何かを胸元から取り出し地面に放り投げた。
「ここでみな死ぬと良い。中央には痛ましい事故だったと報告してやろう。そうだ、コスカスの坊っちゃんたちもいたんだったな。残念だな、本当に残念だよ。コスカスの坊っちゃんたちがまさか召喚獣の種を持っていて、まさか神殿の地下で使うなんてな」
にやりと笑ってルパートは素早く魔法を展開した。
「集まれ、固まれ、響け、とどまれ。はねて、あたって、砕いて、つぶせ」
ルパートの放り投げた小さな赤い石はすぐに通路奥からのわずかな冷気に反応した。せっかくの囲いが砕け散る。レインが小さく呻いて頭を押さえた。
レインの肩を掴んで倒れそうになる体を支えてやると、すぐにレインは自分を取り戻した。
「囲程度じゃ駄目か。それとあいつは……」
レインの目がシアの肩越しの背後を見つめて見開かれた。ゆっくりと振り返ってそれを見つめる。
「わあお。かっわいい」
レインのつぶやきはすぐにほどけて消え去った。
赤黒い塊から手足が飛び出てる。そのいくつかは不自然な格好でうごめき、互いに行動をけん制するようにぴくぴくと跳ねていた。
これはあの小さな粒だろうか。氷の塊はすでになく、ただうごめく手足の生えた塊があるだけだ。良く見ればその手足はいずれもか細い。
小さな足は、子供のそれだ。ぬかるみに散らばっていた命のかけら。
一体何を考えてこんなことをするのか。子供を連れ去り自分勝手に命を奪い、今もまた苦しめようとしている。
湿った音を立てて塊が跳ねる。質量を支えられない足は、下敷きになるたびに嫌な音を立てて折れつぶれた。遠く悲鳴が聞こえるのは気のせいじゃない。痛みに泣き叫ぶ少女の声、恐怖に震える少年の声。
「レイン。もう、駄目だ。もう」
シアの中に渦巻くものが溢れだしそうになっていた。レインが静かに頷く。
「おいこっちだ」
レインはその塊に向かってそう叫んだ。塊は震えながらレインの方へと距離を詰めてくる。レインは細い杖を何本も具現させた。ペンのような杖は空中に浮かび、同時に何個もの美しい魔法陣を描き出す。色とりどりの魔法陣はみな同じ種類だった。
「ここへ来い。そこは子供のいる場所じゃない! 個別認証、多点補足! シア探して。どこかにルパートが。彼の「良心」があるはずだ。いつだって礎になる魔法使いには「自己犠牲」の心が付き物だっただろ。あるはずなんだ、どこかにルパートの心が!」
描かれた色とりどりの魔法陣は空間にふわふわと漂った。まるで綿菓子のようなそれに、震える手の一つが延ばされる。触れた途端その手にはかわいらしい文様が浮かび上がる。
「大丈夫。何も怖くない」
シアは塊に歩み寄ると、そっと手を引いた。ふっと浮かびあがるのは少女の姿だ。すぐに近くにある手も引いてやる。少年や少女が次々に塊から出てきては消えていった。
一人一人手を握り送り出す。塊は静かに泥に戻っていった。その中でいまだうごめくものがある。
「さあ、後は君だけだ。怖かったな、苦しかったな。でももう大丈夫。怖くないだろ」
塊の奥にいる少年に語りかける。
生活に苦しんだ両親からの言葉はつらかっただろう。たくさんの神官に囲まれて怖かったのだろう。これからの死の予感に絶望してもいただろう。ただずっと耐えるしかなかった。誰かを憎みながら耐えるしかなかったのだ。
シアは近くに降りてきた魔法陣を引き寄せた。その形を見て小さく笑う。レインは不機嫌そうにプイと顔をそらしてしまった。
「ほら見よろ。お前への特注品。ウダリアバージョンの魔法陣だぜ。な、みんなと一緒に行こう?」
ちらりと少年が顔をあげた気がした。
もう少し。もう少しだ。
「なあ。もう少しだけ子供でいてもいいんだぜ。きっと魂だってそのうち大人にならなくちゃいけない時が来る。その時まで子供でいろよ。大丈夫、もうお前を苦しませる奴はいないよ。お父さんのこともお母さんのことも自慢していい」
少年の顔が見えた。赤い瞳はそれだけの血を吸った証。それだけの涙を流した証。きっとおとがめ無しというわけにはいかない。それでもここにとどまって利用されるよりは世界は広い。
「悪いことをしたら謝らないとな。人間は間違ってしまうもんなんだぜ。だから間違ったらちゃんと謝る。どうしたら許してもらえるかを考える。な、そうおもわねぇか」
少年は小さく頷いた。
シアが手を出すと、その掌に置いておいた魔法陣ごと小さな掌がつかんだ。
栗色髪をした少年だった。年の頃は十歳に満たない程度。細い手足に利発そうな瞳をシアに向けている。
「僕は、みんなを巻き込んだんだよね」
シアは頷いた。
「ありがと。そう言ってくれて。嘘を言わないでくれて」
小さな頭を下げて、彼は、ルパートは次の道を歩み始めようとしている。
「ねぇ。待っているからと伝えて。ちゃんと待ってるから。僕は、僕を待ってるから」
少年はそういうと他の子供たちのように消えていった。彼のたどる旅路は他の子供たちよりも長いものだろう。それでも流した涙の分だけ少しだけ時間をかけて魂を癒すと良い。シアはそう祈りをささげた。次の瞬間シアのまとう雰囲気が変わる。
突如吹き荒れた風に離れたところで成り行きを見守っていた三人がバランスを崩して尻持ちをつくのが見える。
「ルパート。今度こそ終わりだ」
シアはそう言って杖でルパートを指した。
「おとなしく拘束されてくれ。そして中央で裁判を受けるんだ」
「うるさい!!」
うるさいうるさいとひとしきり頭をかきむしったルパートは杖をまっすぐシアたちに向けた。
知らず知らずのうちに両手が持ち上がった。レインを見ると、レインもまた困惑した表情でシアを見る。
シアの杖は見たことのない真っ白な光を放っている。その杖が大きく空間に円を描くと、円は一瞬消え去って、次の瞬間にはルパートを拘束する。
強固な二つの輪。上半身も下半身も塞がれたルパートは苦しげに呻きながらそれでもシアとレインを罵倒していた。
一体何が起きているのだろうか。これが拘束だと思ってもよいのだろうか。確かにルパートの動きは封じられたが、教科書でも演習でも見たことのない白い輪。レインも青ざめた表情でそれを見ていた。
「レイン、これは一体」
レインは首を振る。額には汗が浮かび、唇が震えていた。
シアは駆け寄ってレインを支えると、顔を覗き込んだ。
「大丈夫か? もうルパートは拘束したから。レイン。終わったんだろ、な?」
レインが戸惑いを隠せない様子でシアに視線を合わせた。
「終わってない、終わってない。嫌だ。やりたくない。嫌だ、シア。俺にはできない……嫌だ」
小さく首を振って顔を手で覆う。
「嫌だ。やりたくない。嫌だ……裁判は嫌だ」
愕然とした。裁判だと。
シアはルパートを見た。ルパートは何かをつぶやきながら暴れている。あれが拘束だとしたら、証拠の提示、犯人の拘束、証言と弁論。裁判に必要な要素が揃ってしまったのか。法律家の仕事は、この世界のバランスを保つこと。世界が修正すべきひずみを感じ取っている時、検事と裁判官はそれを汲んで正確な魔法を発動することを求められる。それは魂に刻み込まれた契約といってもよい。
レインは今、要求されているのだ。ルパートの裁判を。ひずみを受けたこの世界が、ルパートへ下した罪を伝えよと。
「レイン。俺たちだったら、鳥肌モノの裁判ができると、俺は今ならそう思うよ」
レインがちらりとシアを見た。きゅっと目を閉じてから、ゆっくりと開く。そこには強い青が戻っていた。
「……そう、だったな。ごめん……」
レインはふらふらと立ちあがり、震える手で床に置いてあった法典を取り上げた。
ぐっと挑むように虚空を見つめてから「ちくしょう」と呟くのが見える。
レインの視線がウィリーに向かう、アントンを見つめ、ロルダーとその姉を見つめ、そしてシアに固定された。
シアは真っ白に光る杖を握りしめ頷いた。
レインは背を伸ばし、まっすぐにルパートに向き直った。
「検事レイン・ウィッカーフォートが自らの名と生命を賭して求刑します。アンジェラ神殿書記官、ルパート・ブラムに生命流動停止刑「レ・テの刑」を。殺人を繰り返した魂に険しき厚生の道を。そして安寧なる忘却の道を」
シアも唇をかんだ。体を巡るものを止めてしまう魔法。死刑だった。
レインには聞こえていたのだ。世界が彼をこれ以上生かしておけないという声が。死刑だという宣告が聞こえていたのだろう。だからこそ拒んだ。裁判はできないと言った。
死を宣告するのはつらかろう。ただでさえ情に厚い彼は、最後の最後までルパートを救おうとしていたのに。
シアは杖を構えた。杖に集まる力がシアの掌をしびれさせる。レインの求刑が過不足なく認められたのだ。大きな大きな怒りの力。その力にレインがわずかな方向性を見つけてシアに伝えてくる。
世界よ、ルパートを怒りのままに消し去らないでくれというレインの祈りが聞こえた気がした。
「裁判官シア・ウィンスキー。「レ・テの刑」発動!」
抵抗なく杖先から光が伸びた。レインの求刑とともに現れた魔法陣が光を増す。魔法陣の中間からにゅるりと灰色のローブを着た大男が上半身だけを顕現させた。無言でルパートの腕をとって魔法陣の中に引きずり込んでいく。
ルパートは泣き叫びながら、必死の命乞いもむなしく穴の中に吸い込まれていった。
ルパートを呑みこむと魔法陣は一瞬で消滅した。
あたりは静けさを取り戻していった。
レインが呆然と座り込むウィリーの前に膝をついて頭を下げた。ウィリーはそんなレインを見てゆっくりと首を振った。傍らにアントンも歩み寄り、細くなってしまった姉の手をとる。
「これでよかったのだと思います。お手数をおかけしました」
ウィリーの声は震えていた。無理もない、目の前で肉親が死刑宣告を受け、そのまま連れ去られたのだ。死刑のとき遺体は数日後にそのものと関係の深い場所に現れるという。今は遺体すら見えない状態なのだ。
震えながら「大丈夫」と自分に言い聞かせるウィリーに、手を差し伸べたのは意外なことにロルダーの姉だった。
「ウィリー。聞いて。レイン検事はこの世界に「あなたのお兄さんに救いを与えてほしい」とお願いしてくれたのよ」
「救い?」
きれいに色が塗られた爪をもつ、傷一つない手がウィリーの肩をそっと抱いた。
「そう。レ・テというのは死の渡守がいるという川よ。その川を渡るとき、魂は一切の記憶を無くすの。彼の魂が次の生を受ける時、今回の件を思い出さないように。これからたどる贖罪の行程を思い出さないように。
確かにお兄さんは死んだわ。でも、彼はまだ生まれてこれる。世界はルパート書記官の魂の消滅を願ったかもしれない。だけど、彼の求刑が受け入れられたのならそういうことよ」
「そう、魂のリフレッシュがすんだら、苦しい思いを忘れてまっさらで生まれておいでと、レイン検事は道を敷いた。ね、兄さんは次の道へ進んだだけなんだ。罪を償って、傷ついた過去の自分と会って、また次の世界へ行くんだよ」
ようやく頷いたウィリーを立ち上がらせると、アントンとウィリーの姉は格子の着いた扉へと向かっていった。あの部屋は贖罪の間だと言っていた。あの場所を通って遺体を回収し続けたアントンはどうなるのだろうか。
おそらくは追加の裁判が必要となるのだろう。でもそれはきっと正式な手続きを踏んだものになるだろうと思いながらシアは杖を腰に差した。
ふらりとレインが倒れたのは三人の姿が扉の向こうに消えたころだった。
エピローグ
ロルダーと二人がかりでレインを宿屋に運び込んだものの、彼が目を覚ましたのはそれから二日ほど後のことだった。
あの日、夜が明けるとすぐに死刑発動を感知した神殿から連絡を受けたと、青い顔をしたアントンが宿にやってきた。全て自分のせいだと言い張るアントンを制し、昼前にやってくるという高等事務官を迎えてくるように頼むと、シアはレインの持っている空の法珠に魔法力を注ぎ込み瓶に入れてレインの枕元に残した。めったに着ない裁判官の制服である黒のジャケットとズボンを身につけると、ことの次第を話すために長い尋問へと臨んだのだ。
どんな処分を受けてもおかしくはない。
中央神殿の許可を得ずに行った裁判、しかも判決は死刑だ。
「まったく……法珠残してくれんなら、ロルダーに使い方も教えて行けよ。あいつ俺がしゃべれないのをいいことに直接あの珠呑ませようとするんだぜ。医学の勉強したとか言ってっけど、嘘だ。絶対嘘だ。藪医者だ」
「法珠自体が結構珍しいんですから仕方ないですよ。説明書がないんですから用法容量を守って正しく使えるわけがないじゃないですか」
ロルダーはそう言って口をとがらせる。
「考えても見ろよ。あの素材が胃腸にやさしく見えるのか。たとえうまいこと魔法力は吸収できても、消化できなくて手術ってことに」
「あ、僕、外科の方が得意ですよ」
シアは空になった瓶を振って思わず笑ってしまった。瓶の半分以上はあったはずの法珠が空になっている。これを全部呑みこんだとしたら自然に出すのは難しそうだ。
考えていることを当てられたのか、ベッドからレインの脱ぎたて靴下が飛んできた。首をかしげてキャッチすると、おもしろくなさそうにレインが鼻を鳴らす。
ロルダーが引き上げると言うので、シアは送りがてら階下で粥をもらってきた。
「結局……おとがめは無しなのか?」
ベッドで体を起して、薄く炊いてもらった粥を口に運びながらレインは首をかしげた。艶を無くした黒髪は寝ぐせであちこちにはねている。
「俺たちが画策して裁判を起こしたわけじゃねぇけどさ……この土地の力に引きずられたんだって言っても、通常だったらなにがしかの処分は受けるんじゃねえの? まったく無し?」
まったく無しなのだ。
それは別にシアの弁論が上手かったわけでも、見てわかるような状況証拠があったわけでも、ましてや札束で事務官の頬を撫でたわけでもなく。
「実際に来たのが事務官補佐のハーン委員長だったんだよ」
コロンとレインの手から匙が落ちた。木製の匙が布団を転がって床に落ちる。
「ハーンが来てんの!? え、マジで?」
レインはあわてた様子で頭を抱え、次にシアに粥の器を押し付けると、ぱっと布団にもぐった。
「俺はまだ目を覚ましてないから。ハーンが帰った頃にすっきり目覚める予定だから」
「いや……レイン。そんなことを言ってもな。ハーン委員長は恩人なわけだし」
「馬鹿シア! 大馬鹿。お前の眼は節穴かよ。っていうかむしろえぐりだすぞ。お前あれだけ俺が嫌がらせされてんのを見てきて、それでもそんなこと言うのかよ。ふざけんなよ」
「嫌がらせっていうか、あれは」
器をテーブルに置き、何とかレインの布団を引きはがそうとするが、レインは断固としてそれを拒否していた。
「そんなぁ。つれないわね」
ビクリと布団の中身が揺れた。
「心配してたのよー。なかなか目覚めないって言うし、確かに少し体温も下がっていたみたいだし。今日やっと目が覚めたって言うからアタシ腕をふるったのに」
レインが布団の中で「オエッ」と声を出した。
ハーン委員長は褐色の頬に手を置いて首をかしげた。悲しそうに伏せられた目はきれいなラインと絶妙なカールを保持するまつ毛が自己主張をしている。身にまとうのは薄紫色のローブ。金糸の刺繍が上品で、動くたびに手足の動きに従って美しい光沢を放っていた。
ハーンは長い巻き毛を一振りすると、ベッドに歩み寄って一息でレインの布団をはぎとった。
この怪力が肉弾戦に弱いってのは嘘だろう。大方化粧が崩れるとか、顔に傷がついちゃいやんなんて言って堂々と負けを宣言しているに違いない。シアは誰にでもなく頷いていた。
「シア!! 捕獲しろ捕獲。動物園に返してこいよ!」
「やあねー。レ・イ・ン。照れちゃってー。眠ってるあなた、とっても色っぽかったわよ」
ハーンはそう言ってレインのベッドに腰掛けた。レインは身をよじってハーンから逃げるも、片側は壁だ。それ以上の後退ができず、哀れその逞しい腕に捕まってしまう。
「やーめーろー。ジョリジョリ、ジョリジョリする。髭が、髭が生えてるって!」
「やめてよ。乙女にヒゲが生えるわけないじゃない。チクチクするなら……ラメよ。ラメ」
「ラメが剛毛黒毛なわけねぇだろが。ぎゃー。腕の筋肉をピクピクさせんな」
ハーンはレインの肩を抱きこむようにして顔を覗いている。無理やりキスを迫っているようにしか見えない。
ハーン委員長のお気に入り。
レインは学生時代から同級生の間でそう呼ばれていた。
「寄るな変態!」
「あらやだ。あたしは体は男だけど心が乙女なだけよ。変態呼ばわりはひどいわね」
「変態だろ。女でも寝てる姿が色っぽいなんて堂々と言う奴がどこにいるんだよ」
「私は人一倍素直なのよ」
とうとうレインはハーンの掌に口をふさがれた。
「大丈夫だ。もう、全部終わったから」
ハーンがじっとレインを見つめてそう言った。落ち着いた声にレインの目が見開かれる。
「最初が死刑ってのはきつかったな。でも、追跡調査でも穴も発見されなかった。レイン・ウィッカーフォートとシア・ウィンスキーの裁判は正当な裁判として処理された。……登録番号を聞きたい?」
にこやかにハーンが最後の言葉を発すると、レインの肩から力が抜けた。
「レテの守り人に頼んだのはあなたのやさしさね」
レインは首を振った。
「弱さ、だよ」
ポツンと言葉は落ちたが、レインは顔をあげて小さく笑った。
すぐにルパートの遺体が神殿内の自室で見つかり、事情を知らされていない神官たちと村人はルパートの死を悼んで小さな葬儀を執り行った。これからアンジェラ神殿内と村の上層部は中央神殿に呼ばれ、しかるべき処分を受けるという。その中にアントンの名前は入っていない。
「司法取引があったようよ」
ハーンはそう言って朗らかに笑った。
「少年の前途を閉じるような真似を、我らが大神官様がするわけがないじゃない。彼の贖罪はちゃんと自分の人生に責任を持つことだというのがダーリンの判決文よ。いい男はやることが違うわ」
シアとレインが安堵のために笑ってしまうと、ハーンはもう一度笑えとレインに迫ったりもした。
ウィリーは怪我を負ったときに腰を痛めていたらしい。東都の医療施設に送られたそうだが、だいぶ血色も良くなり年頃の娘らしい雰囲気を取り戻しつつあったとハーンは嬉しそうに言った。女の子は可愛くなくちゃダメよねと、普通にしていれば美貌の部類に入る頬にしおらしく手を置いて頷く。
時を同じくして神殿地下から見つかった少年少女の遺体は、損傷の具合から山の獣にやられ、残っていた水脈を流れてきたのだろうということになり、悲しみながら慰霊碑を建てることで落ち着いた。
土地に染みつきいまだに揺らぎを見せる神の力には、中央神殿が用意した核を設置し、ハーンと一緒にやってきた神官たちが井戸に詰め込まれていた遺体の処理を行ったという。
これでアンジェラでの予期せぬ初仕事が終わり、やっとシアたちは古巣へ戻れるのだ。
美しく、陽気なヴィッカリーへ。
事件終結から五日目の朝。荷物をまとめ終え、宿を引き払ったシアたちのもとにハーンが現れた。
「あたしはまだしばらくこっちにいるわ。アンジェラ神殿の人事も決まってないし。んで、これ」
ハーンは紙袋と封筒を差し出した。
「なんだよ。これって」
シアが紙袋を開けると、そこには小さなタッパーが入っていた。レインが覗き込んで声を上げる。
「あ、土の味噌だかなんだか」
「ああ。ビールに合うやつ」
シアが嬉しそうにタッパーをつかむと、レインは「じゃあこっちは金一封とか」と言いながら男らしく封筒を引き裂いた。
無言のまま中身を確認する。
「西都オルビシ地区アルメンド地方二区第四学群学院〈アッティバウザ〉にて稀少図書の盗難事例について精査せよ。事実が判明次第報告書を提出のこと。
任務にあたっては器物破損、人体被害は言うに及ばす、学生・教職員の精神的平穏を壊すことを禁ず。
法曹規定に基づき、任務は最長一ヶ月の甲号とし、杖は第二階までの携帯を許可する」
「む、無理ですダーリン。おうちに帰りたい」
震える声でレインがハーンに頼み込む。
「駄目ですハニー。頑張って」
ぐっと突き出された親指を、レインが両手で反対側に折ろうとする。叫び声と怒声がアンジェラの空に消えていった。
過去の遺物 ナツメ @natsumeakira
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