第2話 死絵師(「七奇職シリーズ」という黒歴史)

 ヴィノの髪は痛んで乾ききっているようだった。細身の身体は、ここ数日食べ物を口にしていないせいで、さらに線を細くしている。

「お前に責任がないなんてふざけたことは言わないよ。ヴィノ、お前のせいだ」

 ヴィノは散らかった部屋の真ん中で、肩を落として座っていた。ぼんやりと床を見つめるヴィノの瞳に、この部屋は映っているのだろうか。もしかすると、あのときからヴィノの心はほんの少しだって動いてはいないのかもしれない。

 キキズは深い溜息をついた。年月を重ねた手をすり合わせて、僅かな暖を取るとゆっくりと立ち上がる。ヴィノの顔を正面から見据える位置にいるのは、この老獪な婆にも、少しばかり辛いことだった。

 キキズは部屋の片隅で湯気を上げる鍋を傾けて床に熱湯を流した。寒い雪山では、地面すら氷のように冷える。石板を敷き詰めた床に、湯気が走った。

「アシアスは二度と戻ってはこない。……言っただろう?ヒトには犯してはならないものがあるのだと。踏み込んではならない場所があるのだと」

 ヴィノはピクリとも動かなかった。

「あたしにもあまり時間はない。知識だって、お前達が思っているほど豊富でもない。だから、ようくお聞き」

 ヴィノはピクリとも動かなかった。声は聞こえているのだろうか、自分の存在を解っているのだろうか。

「ヴィノ!」

 キキズは持っていた熱い鍋をヴィノの手に押し当てた。さすがにヴィノの肩が跳ねる。キキズは鍋をどかそうともせずに、あいた手でヴィノの胸倉を掴んだ。

「お前は行かなくてはならない。行って確かめなくてはならない。確かめて、終わらせなければならない。お前は」

 ヴィノはいまやキキズの瞳を見つめていた。

「許されなくてはならない」

 キキズはそれだけ言うと鍋を持ってヴィノの元を離れた。時をとどめるかのような素晴らしい描き手であったキキズの手は、もはや原型をとどめてはいない。崩れていくキキズの手から鍋が床に転がった。

「お行き、ヴィノ。あたしはあんたなんかに看取られたくないからね」



 ヴィノは世界が奇妙にゆがんで行くのを、不思議な思いで見つめていた。小さな老婆の姿が奥の部屋に消えてしまうと、慌てて立ち上がる。

 弾みで、瞳に溜まっていた水が頬を伝った。思いがけないモノに、驚いてヴィノは頬に触れた。黒く汚れた手は、自分の知っている手ではなかった。節くれだち、ところどころ切れて、裂けて、血をにじませた汚い手。

 ヴィノは自分の両手をまじまじと見つめた。





 アシアスは土色の瞳の綺麗な少女だった。自分よりもはるかに年下の少女は、ヴィノがキキズの元に来るとすぐに宣言した。

「仕方ないからヴィノのそばにいてあげるわ」

 ヴィノは気の強いこの少女を気に入っていた。妹のように。やがて、一人の人として。

 ヴィノがアシアスを子供扱いしなくなってくると、キキズは笑いながらヴィノをからかったものだった。

「ヴァイニバットに曲芸団が来るんですって。ヴァイニバットって中央区にあるんでしょ? 連れて行ってよ」

 アシアスがそう言ったのは、夏も終わりかけていたある夜だった。日付けは覚えていない。

 ヴァイニバットは結構な繁華街だった。商業都市であり、この国有数の頭脳都市でもあった。人の集まる町であった。

「アシアスがいない」

 彼女の父親にそう告げたのは真夜中と言って良い時間だったと思う。彼は通信機越しに大きく溜息をついた。

「曲芸団だなんて嘘だったんだな……あいつは……あいつは、きっと母親に会いに行ったんだ」

 幼い頃に家を出た母を捜しに行ったのだろうと、彼は言う。人の多いこの町で、一人夜中に出歩くことにどんな意味があるのか、わからない年でもなかっただろうに。それでもアシアスはいなくなった。

 彼女はいなくなった。たずねた母の家にも、繁華街にも、曲芸が行われるという建物にも、公園にも、駅にも。彼女はいなかった。

 アシアスらしい少女の姿を見たという、そんな情報が入ったのは明け方だった。ヴィノは霧に包まれる町でアシアスに会おうと走っていた。無事でいて欲しい。しかし、彼女ではなかった。

 もはや人ですらなかった。

 人の仕業とも思えなかった。

 アシアスは。

 ヴィノの手の中に土色の髪が握られた。あたりに散った細かいものは、かつてアシアスだったもの。より集めても彼女には戻らないただの肉。そして骨。

 ヴィノにはわかっていた。死体から生きているときを取り出す絵師であるヴィノには、この散らばったものこそがアシアスなのだと。

 そして、ちらりと何かが頭を掠めた。


 生きた絵を書きたくば、その一筆一筆に命をのせるべし


 ヴィノは悟った。一筆一筆に載せる命、それは抽象的なそれではない。即物的な、そう、まさに目の前にある様な……ヴィノのうつろな目には、ゆっくりと動き出す列車が映っていた。

 もはやヴィノのヴィノでは無くなっていたのかもしれない。狂ったように走り、飛び越え、気が付いたときには大きな、それは大きな金属を抱えて逃げていた。背中に効く爆音も、悲鳴も、アシアスの帰還を喜んでいるようにしか思えない。早く入れ物を持ってこなくては。流れた血を集めなくては。早くアシアスを描かなくては。呼び戻さなくては。

 あんなに喜ばれているのだから。

 もはやヴィノはヴィノでは無くなっていたのかもしれない。





 キキズは寝台に横になると、そっと目を閉じた。ヴィノの「狂い」は痛いほど鋭く、師であるキキズに伝わってきた。そして、ヴィノが犯した罪も。絵師はその身体で絵を描く。凶事を取り込み善を描く。そのたびに絵師の身体に積まれていく「凶」は、やがて絵師を蝕むのだ。

 キキズは死を描くことをやめなかった。たとえ自分の死が早まろうとも、それで良いと思っていたのだ。

「違ったねぇ。アタシはきっとこのためにいたのさ。こうやって、あんたの背中を押すためにね」

 自ら呼び寄せた数多の死に、ヴィノは呑まれていた。肌も髪も目も黒くなっていた。キキズはそんなヴィノをためらい無く描いた。それは丁寧に描いた。

 キキズの身体は黒くなった。黒くなり、腐り落ちていく。

「悪か無かったよ」

 帰ってきたヴィノを見て、キキズは涙を流した。彼は朽ちていない。彼はまだ、全てを無くしたわけではない。

 キキズはゆっくりと闇に落ちていった。



 ヴィノは両手を見つめていた。流した涙が少しずつ、ヴィノの両手を濯いでいく。鍋がガチリと音を立てて転がり、その音にヴィノは顔をあげる。

 腐りきった自分の画材はもう使えない。

 ヴィノはキキズの使っていた画材入れを持ち上げた。何度もその表面を撫でて、何度も口の中で謝った。そして、それと同じくらい感謝の言葉を紡いだ。

 ヴィノは大切そうに画材入れを抱えたまま、そっと玄関を開けた。奥の部屋をちらりと見るも、そのまま家を後にする。

「もう、行くよ。師匠……アシアス」

 ヴィノはまた、ヴィノになった。

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