006
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新しい年度が始まり町はざわついていた。雪は完全に町から消え、代わりに初々しいランドセルやセーラー服やスーツを着た人々が町を行き交っている。その表情は春の町に満ちるたくさんの色のように様々で、喜びに溢れた人や、緊張している人、暗く沈んだ人、しかしその誰もが冬のことなどはもう覚えてはいなかった。
青年は毎週〝BAR SHIZUKU〟を訪れた。やがて春が過ぎ夏を迎え、忘れられた路地の孤独な看板たちが熱帯夜の熱気に滲んでも、ユキは現れなかった。
青年は時々、ユキという人間は元々この世に存在しなかったのではという思いに駆られることがある。そういうとき青年はいつもギムレットを飲んだ。マスターがギムレットを作る動作も、背の低いタンブラーグラスも、飾り気のないコルクのコースターも、黄みがかったライトも、誇らしげに立つジンとライムジュースの兄弟も、何もかもがあの夜と変わらなかった。マスターがシェイクを始め、氷とジュースとスピリッツが砕け混ざり合う音を聞くと、横にユキが居ないことが不自然で仕方がないように思えた。乾杯できないギムレットの寂しさに、泣きそうになった。一人で飲むにはギムレットはあまりにも苦くて、酸っぱすぎた。青年が一口飲んで後ろを見るとそこには彼女が弾いていたピアノが無口に佇んでいて、その上では立派な額縁に入れられたパーフェクトマティーニの絵が飾られている。その右下に小さく書かれた「Y」と「N」、そして「〝BAR SHIZUKU〟」の文字を見ると、青年にとっては抗いようもなく、やはりユキという人間は存在してしまうのだった。
秋ごろに青年はマスターに勧められて〝BAR SHIZUKU〟でアルバイトを始めた。青年は毎日〝BAR SHIZUKU〟で働き、二人が会っていた曜日だけは店員ではなく客として忘れられた路地を訪れた。黒猫もすっかり青年に懐き、マスターと同じように制服のスラックスに黒い毛をびっしりとまとわりつかせてくるようになった。
青年は毎週客として店を訪れるときだけ、それもカクテルを二杯飲み干すまでの間だけ、手紙を書いた。宛先は全てユキだった。青年は何度も手紙を書き直した。手紙の内容は同じ場所を往ったり来たりしながら大きく変化することはせず、使われる言葉も急激に趣を変えることはなかったが、その手紙は書き直される度にそれまでは持っていなかった温かみを手に入れていった。
ユキはこの町には居ないのかもしれない。青年はユキの本当の名前を知らない。そもそもこの町に住んでいたのかもわからない。二人にはそれで十分だった。それは今までもこれからも変わることはない。青年は手紙を携え〝BAR SHIZUKU〟へと向かう。その道中で彼女の白く美しい手が元通りに治り、カクテルグラスを優雅に持ち上げ、どんな言葉をもってしても尻込みしてしまうような絵を描き、黒猫の背中を優しく撫でますようにと祈りを捧げながら。
例年より少し早い初雪が忘れられた路地に降る。アスファルトに次々と黒い染みをつくって消えていく雪を、孤独な看板たちと黒猫だけが見ていた。
月の雫 二階堂くらげ @kurage_nikaido
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