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 木々の枝にまだ緑はないが、公園や空地の草花はめいっぱい太陽光を浴びながら黄緑色を力強く輝かせていた。アスファルトは全身を現し、日陰や草の上や除雪地帯に積まれていた雪山だけが僅かな名残雪として黒に塗れながら自身が消えゆくのを待っていた。

 青年は〝BAR SHIZUKU〟が海中に沈んでからユキの演奏を二回聞いた。ユキのピアノは何度でも海の中を漂って、海中に差す光の棒や、岩陰に隠れる黄色い魚や、波間に揺れる透き通ったくらげを手探りで探していた。そのどれもがこの海にはなかった。それでもピアノは海中を漂い続けた。

青年は待つしかなかった。ユキのピアノが青年の恐怖を少しずつやわらげたように、青年がユキの身に起きている何かを解決する術を青年は持ち合わせてはいない。青年の言葉は星のように輝くことはなく、海中に差す一本の光の棒にもなりえない。ただ凛としてそこに在ることだけが、青年の言葉たちにできることだった。それでも青年は待つしかなく、いつか自分がユキに見つけられたとき自分に何ができるかを考えながら、青年はピアノの音を聴き、海の中で手紙を書き続けた。

手紙の宛先はユキ以外にはなく、そしてそのどれもが完成することはなかった。しかし完成することがなかったために、破り捨てられることもなかった。それらは全て下書きとして綺麗に折り畳んで鞄に大切にしまわれ、折に触れては何度も青年の手によって開かれた。青年はユキへの手紙の内容をまだ定めることができないでいた。青年は既に青年が手紙を書けなくなる以前のようにユキと話すことができる気がしていたが、青年がユキを待たなければならないこと、そして二人の再会にはそれに相応しい儀式が必要で、それには自分の手紙とこの店のバーボンウイスキーが必ず必要であることを青年は確信していた。

青年はこれまで以上に丹念に言葉を捜し、見つけ、磨き、並べ方を想像して、懐に大切にしまった。青年のポケットは精悍な顔つきをした言葉たちでいっぱいになった。それは今まで青年が扱ったどの言葉よりも精鋭で、場に出さえすれば今までで最高の働きをすることは間違いなかった。

〝BAR SHIZUKU〟が海に沈んで三週目、青年は原稿用紙をもう隠さない。ユキも何かを察したようにそれを覗き込むことはしなかった。二人がこの場所で初めて再会したときと同じように、穏やかで、少し照れくさそうな、喜びを隠せない表情で、青年がユキを出迎える。ユキもそれに応えようとした。しかしユキの顔はぎこちなく引き攣り、ユキは笑うことができなかった。

その夜ユキはピアノに向かわなかった。ユキは店内に入るとそのまままっすぐカウンター席の一番奥まで歩いて行き、そのまま腰かけた。その動作は〝BAR SHIZUKU〟が海に沈む前と何の変わりもないようだったが、リズム良く木の床を打つブーツの音はなりをひそめ、そこには雪よりも白いコートもなかった。ユキが何気なくカウンターテーブルの上に腕を出し、そのまま肘を乗せて指を組ませると、青年はその白くしなやかな手が酷く痛々しい治療の跡に埋め尽くされていることに気が付いた。

「ハンマーで何度も叩かれたの」

 その言葉が二人が三週間に渡って守り続けてきた清らかで透明な沈黙を打ち破った。ずっと傍で二人に寄り添い二人を優しく包み込んでいたベールは冬の吐息のように消えた。

「そんな、どうして、誰に」

「色々あったのです」

 彼女はもはやピアノを弾くことはできず、絵を描くこともできない。彼女の両手は力を合わせてカクテルグラスを持つのが精いっぱいだった。

彼女のピアノが青年を見つけることはない。

「ねえ、ギムレットを飲みましょう」

 青年には断る理由もなかった。青年はギムレットを注文した。マスターがジンと瓶入りのライムジュースを奥の棚の薄暗闇から取り出して、深い赤茶色のカウンターテーブルの上に二つ行儀よく並べる。二つの瓶は黄みがかったライトを浴びて、回ってきた出番にベストを尽くせるよう精一杯凛々しい顔で応えようと努力していた。

 青年は二人が出会った日以来、ギムレットを飲んでいなかった。ギムレットはあの夜、乾杯の鈍い振動と音をもって、二人の間にひとつの星を生み出した。青年にとってギムレットは大切な思い出となっていた。

マスターが秤で液体を測りとりシェイカーに落としていく。ジン、それからライムジュース。液体はマスターの手の中で喜びに満ちて踊るように立方体の氷の合間へと滑り落る。捻られた蛇口から水が出ることよりも、マスターの手の中でジュースとスピリッツがシェイカーの中に流れ落ちていく動作は自然に映った。

一回り大きいシェイカーがマスターの分厚い手に優しく包まれてゆっくりと持ち上げられる。シェイカーが振られると液体はシェイカーの中で金属と氷に激しく打ち付けられ粉々に砕ける。青年はその音を聞きながらうすらぼんやりとした気持ちでいた。夢を見ているような気分だった。マスターのカクテルを作る所作はいつでも人を魅了する力を持ち、どんな夜でもそれは遺憾なく振るわれ、今も自分はそれに見惚れている。青年はギムレットがコルクのコースターの上のグラスに注がれる瞬間にこの上ない贅沢を感じる。それなのに青年は喜ぶこともできないまま、ただ遠くに二人が初めてギムレットを飲んだ夜を思い出していた。

二人がギムレットを飲むことは、もうないような気がした。

「乾杯」

 消え入りそうなか細い声だった。

 ユキは背の低いどっしりとしたタンブラーグラスを両手で包み込むようにして手にした。グラスはかたかたと震え、今にも中のギムレットが零れそうだった。それでもなおこちらに向かって来ようとするギムレットを見て、青年の中にふと熱いものがこみ上げた。鼻がつんとした。思わず目をぎゅっと瞑った。青年は何も言わない。あの夜と同じように無言でいることを選ぼうとした。啜り泣く声などあってはならない。青年の方から大きくグラスを寄せる。グラスが合わせられる。こつ、と小さい音がした。鈍い振動がギムレットを伝わる。グラスの中で氷がくるりと揺れた。

「ギムレットにはまだ早すぎるね」

 という台詞を二人は知っているが、お互いの本当の名前は知らない。二人はこの店の外で喋る言葉を知らない。二人はさようならの仕方を知らない。二人は同じギムレットを飲みながら、同じ場所を見ていた。それはこの世で最も美しい場所だった。そしてそこから視線を外す方法も、二人は知らなかった。

「僕ね、ユキさんに手紙を書いていたんですよ」

「では私も先に言わせてください。ずっと思っていたのですが、ユキさんではなくて、ユキでいいのですよ。あなたは猫もさんをつけて呼ぶのですか」

「ええ、私はどんな猫もさん付けで呼んでいます」

「例えば」

「みゃあ子さんとか、みけさん、それにラブさんも居ました」

「昔のおかあさんみたいですね」

「それよりも、手紙の話ですよ」

「そうでした」

「今までのどの手紙よりも、良いものになると思います。いや、なります。これはもう決まっていて、運命なのです」

「どんな運命なのでしょう」

「それはわかりません。わからない方が楽しいと思って、探すことはしなかったのです」

「それは楽しみですね」

「ずっと中身が定められず迷っていたのですが、最近ようやく決まって、今は大切にしまっておいたとっておきの言葉の並べ方を色々と試しているところなんです。来週にはきっとできると思いますよ」

「嬉しいです」

「ええ。ですから待っていてください」

 それが名前すら知らない二人が初めて交わした約束だった。

ピアノの音を失くした〝BAR SHIZUKU〟は海に潜るのを止めた。少しずつ海中から浮き上がって来る最中、黄色い魚が何匹か泳いでいた。淡い光にくらげが透き通っていた。ユキが海から顔を出したときには、世界はもう夜になっていて、ユキは月を見つけることができた。その月はユキがそれまで見たこともないほど大きく、凛々しく、澄んだ冷気を纏いながら空に浮かんでいた。その月の更に奥では、月とその明かりに照らされた海面の丁度真ん中で、小さな星が輝いている。その光は小さいが、決して消えはしない。

「私も、手紙を書きましょう。私だけが貰うのはいけませんしね」

「気にせず、ゆっくり傷を治してください」

「いえ、書かせてください。是非」

「わかりました。では、楽しみにしています」

約束をした次の週、ユキは店に現れなかった。次の週も、その次の週も、ユキが店を訪れることはなかった。

町は春になっていた。



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