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冬の最後の足掻きだった。炎が消える間際に一瞬揺らめくときのように、冬は最後の輝きを放とうとした。猛吹雪が町を白く染め直し、忘れられた小さな路地の孤独な看板たちを更に惨めな白い塊へと変えた。人も、町も、全てが白い夜だった。

その夜、ユキは現れなかった。

長い間を空けて注文された三杯目のラムコークを飲みながら青年は恐れていた。ユキは卓越しすぎている。見えているものが常人とは異なっている。自分とユキは今まで同じところに焦点を当てて、同じ美しさについて語り合っていたつもりだった。お互いに自分のセンスを惜しみなく発揮して、言葉を選び、冗談を言い合い、表現に淡く自分を滲ませることを楽しんできた。しかしパーフェクトマティーニの絵を描くユキを見て、青年はそれが全くの的外れであったことを理解した。自分はユキの見ているもののほんの一部分の、表面か、あるいは一点か、それしか見えていないのだと知った。そのことがユキに何か特別な影響を与えることはなく、そのせいで二人を取り巻く環境の何かが変わるということもなかったが、青年にはその事実が酷く恐ろしかった。自分にはユキと一緒に居る資格がないのではないかと思うと青年はぞっとした。ユキが離れて行く。そういった予感を青年は振り払えなかった。

青年はその夜あまりの恐怖で手紙を書ききることもできず、雪よりも白いコートを着た女性客が閉店の時間までに店を訪れることもなかった。

 

次の週、青年は店へ向かうのをためらった。またユキが来なかったら、ユキが自分が期待外れの無価値な存在だと気付いてしまったら、あらゆる恐怖が青年にまとわりついた。

青年が三杯目のカクテルを注文するとき、ユキは現れた。先週は大雪のせいで来れなかったと青年に事情を説明し、丁寧に詫びてからいつものように一番奥のカウンター席に腰かけると、バーボンウイスキーのロックを注文する。そこに手紙はなかった。

青年は手紙が書けなくなっていた。少年の綴る言葉は紙の上に暗く沈み、重みに耐えかねてうなだれ卑屈に縮こまっていた。毅然とした佇まいは失われ、無口だった言葉たちは苦しみに呻き声を上げた。言葉たちの悲鳴は目を通して青年へとフィードバックされ、それが青年の焦りと恐怖となり、また青年の言葉たちへと返る。そのやり取りが青年と原稿用紙の間で無限に繰り返される。そのことが青年に耐えがたい苦痛を与え、青年を立ち直れないほどに打ちのめした。青年はユキと今までのように会話することができなくなっていた。かつてユキを感嘆させた文筆家はどこかへと居なくなっていた。

ユキは青年の様子が変わったことにすぐに気づいたが、青年に言葉をかけることはしなかった。寧ろユキは以前よりも喋らなくなった。代わりにその週から〝BAR SHIZUKU〟のマスターがどこからかピアノを取り出してテーブル席のひとつと交換していたので、ユキはよく鍵盤を鳴らした。ユキは初めてピアノを弾くとき「あまり上手くはない」とへりくだって口にしたが、ユキの弾くピアノからは素朴で澄んだ音がした。


 数週間が経ち、路上に残っていた雪はほとんどが姿を消して、アスファルトが久しぶりに顔を出した。少しずつ最高気温が氷点下を上回る日が増え、あちこちで雪解けの雫が滴っていた。だんだんと装いを軽くし春の再来を喜びながら自転車に乗って町を往く人々には、去りゆく冬の姿などは見えなかった。

店を訪れるとき、ユキはまだ白いコートを着ていた。青年とユキの間を行き交う言葉は極端に少なくなり、青年が〝BAR SHIZUKU〟で手紙を綴ることもなかった。その代わりに、ユキのピアノの音が二人の隙間を埋めた。ユキの奏でる音たちは皆自分を良く見せようとはせず、野に咲く花のようにただありのままに在ることを良しとした。ユキは怒ることも焦ることもせず、ただ穏やかにピアノを弾きながら青年を待っていた。二人の間にはひとつの雑音もなかった。多くの時と音を重ねて、青年はいつしか呪縛から解き放たれ、ユキと今でも必ず毎回欠かさずに行っている乾杯の儀式と、ユキの奏でるピアノの無垢な音色に、すっかり身を委ねることができるようになりつつあった。

青年はその日、数週間振りに原稿用紙を鞄に入れて家を出た。そろそろまた文章が書けるのではないかという予感があった。それ以上に文章を書かなければという使命感のようなものがあった。自分がもしまたカクテルを二杯飲み切るまでの間に満足のいく手紙を書くことが出来たら、またユキと以前のように冗談を言い合いながら酒を楽しむことができると青年は信じて疑わなかった。

店へと向かう道中で青年は再起をかけた手紙の宛先をユキにすることを思き、それから青年は店に着くまでの長い時間をその内容について思案することに充てた。自分はユキのことをどう思っているのか、何を伝えたいのだろうか。青年はもう二度と会わないだろうと思った相手にしか手紙を書いたことがなく、書いた手紙を本人に送ったこともなかったが、今回の手紙はまた会うかもしれない人を相手にして、しかも直接渡さなければならない。そのことが青年を少なからず惑わせた。

青年は考え抜いた。普段よりも長い時間をかけて思案した。眼光を鋭くし、カクテルを口にすることも忘れ、必死に手紙の内容を推敲した。その集中力はかつて青年がユキに手紙を褒め称えられていたときを上回っていたが、ついに青年はその手紙を完成させることができなかった。言葉を選び、磨く、その工程以前に伝えたい内容をまとめることができなかった。

 二杯目のカクテルが空になり、ユキが店を訪れる。青年は急いで原稿用紙を隠した。ユキがそれに気づいたかどうかは、青年にはわからない。青年はその時はただユキがいつもの白いコートを着ていないことに驚いていた。

その日のユキはいつもと違っていた。コートを着ていなかったため、いつものようにコートを畳むという動作をしなかった。バーボンウイスキーのロックを注文せず、二人が出会った時から必ずしていた乾杯をしなかった。ユキは一番奥のカウンター席に腰をかけることもしないで、鞄だけをその下の籠にしまうと、そのままピアノの前に座りおもむろに演奏を始めた。

 曲目はドビュッシーの〝月の光〟だった。最初の音はFとG#で、青年はその一音目から違和感を感じた。違和感はフレーズが進むにつれ疑念に変わり、さらに幾つかの音を重ねて確信へと変わった。

メロディーが雄弁すぎる。ピアノの音で満たされた〝BAR SHIZUKU〟は瞬く間に海に飲み込まれ、真っ青に染められた。そのままどんどんと一定の深さまで沈み込むと今度は海底の闇を避けるように沈下を止め、青が一番鮮やかな場所で泳ぎを始めた。ユキの身体に一切の力みはなく、音は水のうねりに身を任せて波間を漂い、赤く腫らした目で黄色い魚を探していた。

 その夜青年とユキが言葉を交わすことはなかった。二人がいつものように閉店時間に店を出たとき、二人の前には一匹の黒猫が座っていた。綺麗に両足を揃え、左右対称の姿で、無表情で、目の中の針だけを鋭く研ぎ澄ませて、黒猫は二人を見つめていた。ユキは黒猫を撫でなかった。黒猫がひとつだけ小さく鳴く。別々の道に去りゆく二人の背中のどちらを黒猫が見ていたのかを、二人が知ることはできない。



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