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 青年は毎週〝BAR SHIZUKU〟を訪れ、カクテルを二杯飲み切るまでの間に手紙を書いた。宛先は別々の中学に進学しなければならなかった旧友であったり、邂逅しえなかった中学の部長であったり、あまりにも憧憬の念を抱くあまり友達にもなれなかった優秀な同期や、世話になった後輩、学校祭で同じ仕事をしたクラスメイト、怪我で青春を駄目にした人格者、一足先に大学に入って先輩として世話を焼いてくれた同窓など、様々だった。その手紙の全てが青年の持てる限りの愛と慈しみをもって綴られた。

青年は自分のことは手紙に書かなかった。相手に何かを尋ねることも季節の挨拶を入れることもしなかった。「お返事お待ちしております」のような言葉は入るべくもなく、青年の綴った言葉は全てが謙虚にただその場に在った。どれもが紙の上で粛々と己の役目を果たした。その佇まいは凛として清く、言葉たちはただその場に立っているだけで良かった。一ミリも動く必要はなかった。青年はそのことを深く理解し、ひとつひとつの言葉を慎重に選び、磨きぬいて、巧みに並べてみせた。ユキは全ての手紙を一文字も見落とすことなく読み、そしてどの手紙をも美しいと評した。

手紙が宛先に贈られることはなかった。青年はユキが手紙を読み終えると手紙をすぐに破いた。宛名に書かれた人物は全てが青年がかつて仲間と呼び多くの時間を共にした大切な存在だったが、同時に青年は彼らの声を聞くことは二度とないだろうと感じていた。青年は自分が手紙を書くのを文を書く練習にすぎない言い、また自ら寂しい気持ちに浸るための自傷のようなものだと嘲った。ユキはどの手紙が破られ捨てられるときでもそこから目を離さなかった。そうして全てを見届けた後で、ロックのバーボンウイスキーを少しだけ多めに煽った。


ある日、ユキが原稿用紙を一枚分けてほしいと青年に申し出た。青年はすぐに原稿用紙の一番表の頁を破いてユキに渡した。それからペンも貸してほしいと言うユキに青年が何でもいいのかと尋ねると、何でもいいと返すので、青年はいつも自分が手紙を書くのに使っている古いボールペンを渡した。

ユキは原稿用紙を裏返すと、そのまま一本の線を描いた。線は流れるような滑らかな手つきで、リズムよく次々と生み出されていく。そのどれもがユキの手のようにしなやかだった。青年は最初それが何を描いたものかを類推し損ねたが、やがて多くの線が面となり影を作り形となっていくにつれて、それがカクテルグラスだとわかった。一筆一筆を描く手の動き、筆遣いの繊細さ、カクテルグラスを見つめる鋭い目つき、その全てが見る者を魅了した。インクが気持ちよさそうに紙面を走った。ひとつひとつの線が自分の良さを存分に発揮した。青年は開いた口を閉じることも忘れてその動作に見入っていた。

 その絵には立体感があった。透明感があった。存在感があった。風格があった。写実的でありながら写真よりも無口で、清廉と呼ぶにはあまりにも気取りがなく、野暮ったいと言うにはあまりにも澄んでいた。そこには名前通り完璧なパーフェクトマティーニそのものがあった。青年はその絵を評するに相応しい言葉を見つけて賛辞とすることもできず、ただ一言だけがその口から漏れ出た。

「こんな文を書きたい」

 青年は思わず口にしていた。印刷が裏に透けて見える薄い原稿用紙の裏に、薄いインクの年老いたボールペンで描かれたカクテルは、青年の心を大きく動かした。

青年にはすぐにわかった。この人には普通の人には見えないものが見えている。誰も気づくことのない美しさを、自分がどうしても見たいと切に願い続け未だに見ることが出来ない境地をこの人は見ることができる。優れた人物が仮にそれを垣間見ることができたとして、誰がそれをここまで完璧にこの世に表せるだろう。

青年の胸はかつてない程に高まり、酔いも手伝って興奮はもはや表情を抑制することもできないほどになっていた。

 しかし青年は喋らなかった。喋ることができなかった。喜びと興奮で今にも席を飛び出して走り回りたいほどの気持ちではあったが、それ以上にこの絵に相応しい言葉以外を口にしてはならないという気持ちが青年を支配していた。絵への敬意が青年の中を血のように駆け巡っていた。すごい、綺麗だ、美しい、流麗だ、美麗だ、華麗だ、全てが蛇足だった。頭に浮かんだどんな言葉でも青年の喉を出ることはなく、青年はついにはこの場面に許された言葉などひとつもないのではないかという思考に突き当たった。言葉はこんなときまったくの無力なのではないかとすら思った。

「逆です」

 青年ははっとしてユキの方を向く。ユキは猫を撫でていたときと同じ表情をしていた。

「あなたの手紙のことを想いながら描いたのですよ」

 ユキはそれから「そうそう、忘れていました」と言って絵の右下に一文字「Y」と小さく描き足すと、青年に向かって言った。

「この絵に〝BAR SHIZUKU〟の字を入れたいのです。お願いできますか」

「僕がですか」

「お願いします」

「ユキさんが描いた方が良いのでは」

「私が字を描くと字がうるさくなってしまいます。どうしてもお喋りになってしまうので。それに私はあなたの字が好きなんです。お願いします」

「……どこに描けば良いのですか」

「お任せします」

 青年は絵に目を凝らした。紙を隅々まで見渡して、この絵の全てを見ようとした。青年は非凡な才能を持ち、丹念に磨き上げられた確かな感性を持っていたが、それでも青年には自分がこの絵の美しさの全てを享受できるとは思えなかった。この絵には自分には気づくことすらできない緻密で繊細な奇跡が数えきれない程散りばめられているのだろうことを、かろうじて感じるのみだった。それでも自分が出来る限りの字を書こうと青年は努力した。青年が目指したのは最も綺麗な字でも、最も美しい字でもなかった。

青年は自分が原稿用紙の表側に文字を綴るとき、言葉のひとつひとつに最も求めるものを〝BAR SHIZUKU〟の文字に投影した。

かくして青年によって描かれた〝BAR SHIZUKU〟は、愛する人のようにカクテルグラスに寄り添った。青年の思い描いた以上に、その文字は無口になった。

「素晴らしいです。私ではこうはいきません」

 ユキが溜め息のような感嘆の声を漏らした。

「きっと原稿用紙の裏だったから、上手く書けたのかもしれません」

 青年は満ち足りた。それは青年が今まで文字を綴り言葉を並べることで感じてきたどんな満足感よりも幸せだった。それは文章とも呼べないただの数文字のアルファベットであり、青年は文字に魂を宿らせる書道家でもなかった。それでも確かにそれは青年の持てる限りの力と、心と、言葉への真摯な想いが絶妙に結実した奇跡だった。

「ああ、とても良い気分です。ありがとうございました」

 青年は気恥ずかしさを紛らわせるために何も言わずただ照れくさそうに笑いながらカクテルに口をつけた。残りの言葉は全て野暮に思われた。


その後、その絵は自身を生み出した主の真っ白な手によってとらわれ、「じゃあ、破きますか」の一言によって終わりの危機を迎えたが、様々な経緯を経て現在は〝BAR SHIZUKU〟のとある場所で立派な額縁に入れられて飾られている。右下には「Y」と「N」がそれぞれ小さく書かれていた。



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