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〝BAR SHIZUKU〟の扉が開かれる。扉の裏側にかけられた小さな鈴が来客を知らせようとするが、その控えめで小さな音はほとんどが風の音に埋もれて消えた。
来客は店に入ってすぐに鞄とコートに積もった雪を払い落し、マフラーと帽子も同様にした。それからそれらを腕に抱えふらふらと店内の奥へ歩いて行くと、その鞄以外を奥から二番目のカウンター席の椅子の下に備えられた籠の中に押し込んだ。肩掛けの小さな鞄は椅子の背もたれにかけられた。
「ホワイトレディひとつ」
その客、青年は注文を済ませると鞄から小さな革のペンケースと原稿用紙を取り出して、さらさらと字を書き始めた。行儀よく並べられた正方形の中をひとつずつ字が埋めていく。原稿用紙は少し黄みがかっていて、テーブルを照らすライトの黄色によく溶け込んだ。
青年の目に熱いものはなく、うつろだった。先週町に振った氷雨のようにもったりとして重かった。原稿用紙の上に延ばされたインクはところどころが照明を強く照り返し白く輝いていたが、青年はどの頁も少し書くとすぐに二つに折り畳んでは鞄の中に仕舞いこんだ。
青年がしきりに頭を掻きながらそれを何度か繰り返して、二杯目のカクテルグラスが空になったとき、店内に激しい風の音が流れ込んだ。店内に入り込んだ風はそのまま一気に店の奥まで駆け抜け、そこで壁にぶつかって砕け粉々になって店の空気に溶けて消えた。入り口には一人の女性が立っていた。
「こんばんは」
少しぎこちなく顔を綻ばせる。女性は一番奥の席に腰かけた。
「あなたのコートは、雪よりも白いんですね」
「そんなことはないですよ。世の中に雪より白いものは無いのです」
「ここのカクテルにすらですか」
「そうです」
女性は子供みたいな笑顔を浮かべた。青年は三杯目に雪国を注文した。
その夜は風の音がBGMだった。忘れられた小さな路地にも風は荒々しく吹きつけ、春を前に水分で重みを増した雪はそれに表面を激しく撫でつけられながらじっと耐えていた。時折横から殴りつけるように降る氷雨が孤独な看板たちを打ちつけた。
「この原稿用紙はあまり白くありません。美しくはないのでしょうか」
「原稿用紙が雪みたいに白かったら、字を書くことができませんよ」
「あまりに美しいからですか」
「そうです」
「でも新雪だって踏み行きますよね」
「いえ、私は新雪は踏みません」
「絶対ですか」
「絶対にです」
女性は先週と同じようにバーボンウイスキーのロックを注文した。今度は青年が待つ番だった。雪国の表面では激しいシェイクで砕かれた氷の粒が、白と透明のグラデーションの上で、グラスの淵に積もった塩の雪に囲まれながら小さく輝いていた。
「乾杯」
小さな声だった。店内は外からの風の音がしていたが、グラスが合わせられる音は僅かに青年の耳に聞こえた。
「何を書いているのですか」
「何も書いてはいません。何かを書こうとしているだけです」
「書き物がお好きですか」
「僕が好きなのはお酒だけです」
「では、どうして書いているのですか」
「ここでなら、何か書けるかもしれないと思ったのですよ」
青年は照れくさそうに笑って雪国に口を付けた。口の周りに着いた塩を指でとって舐め、おしぼりで手と口を拭いた。
「そうですね、手紙でも書きましょうか」
「手紙ですか」
「文通に憧れているのです。手紙ほど美しいものはきっとこの世にないと思います。ここのカクテル以外は」
青年は新しい一頁を破りとった。原稿用紙にボールペンのインクが延ばされていく。言葉はひとつひとつゆっくりと咀嚼され、よく味わい、飲み下されてから綴られた。筆は雪が積もっていくように少しづつ進んで行き、しんしんとしていた。女性はそれを何も言わずに見守っていた。
手紙が完成したのは、それからお互いが三杯目のカクテルを口にしている頃だった。「見せてもらえませんか」という女性の申し出を青年は断らなかった。いつの間にか夜は深まり、氷雨が壁を打つ音は聞こえなくなっていた。
「良い手紙ですね」
「そうでしょうか」
「もらった方はきっと喜ぶでしょう」
「これは出しません」
「どうしてですか」
「もう出す宛もないのです」
青年はカクテルを一気に飲み干した。手紙を書いている間はお互いに手書きのメニューを指さして注文を行っていたので、青年が飲んでいるカクテルの名前を女性は知らない。青年は少しむせて、すぐに次の一杯を注文した。手紙は正しく綺麗に二つに折られ、四つ折り、そして八つ折りにされ、折り目をつけられた後、青年自身の手で折り目通りに破かれてばらばらになった。女性はそれを最初から最後まで見ていた。
「寂しいですね」
女性はマティーニに少しだけ口をつけて言った。
「私はその手紙、好きでした」
「そうでしょうか」
「どの言葉も大切に選ばれて、磨かれた言葉でした。静かで、多くを語りませんでした。それなのにどの言葉も愛情深くて、慈しみがあって、とても語り尽くすことなんてできない二人の関係を優しく照らし出していました。こんなに美しい手紙を私は見たことがありません。……すみません、喋り過ぎましたね」
女性が「その手紙があまりにも素晴らしかったものですから」と取り繕う。青年は返事を返すために膨大な時間を要したが、それは青年が彼女の口数に圧倒されたりそれを嫌に感じたからではない。寧ろ青年は彼女がくれた大きな賛辞と心に相応しい言葉を選んで返そうとしていた。しかし青年の頭に浮かんでくる言葉はどれも彼女に返すために相応しいと言えるものではなく、青年が納得のいく言葉を思いつくことはついにできなかった。
自分の非力のせいで彼女が彼女らしくない取り繕いをしなければならないことが、青年にとって何よりも苦々しかった。
「すみません、マンハッタンください」
マンハッタンはベースのウイスキーとベルモットの豊かな香りの中にアンゴスチュラビターズの鋭く重い苦みを隠し持つカクテルであり、カクテルの王様マティーニと並んでカクテルの女王と称される。青年の元には来たばかりの新しいジンライムがきらきらしながら口にされるのを待っていたが、青年の頭にはもうマンハッタン以外は思いつかなかった。
「僕も、多分今までで一番上手く書けました」
青年がジンライムを一口大きく煽る。コースターに置いてからもジンライムのグラスから手を離すことができないまま、青年は中の氷を忙しなくからから言わせながら続けた。
「次はもっと良い文を書きます。そうしたらまた見てくれますか」
「喜んで」
女性は残り少なかったマティーニを飲み干して、「そのジンライム、いただけますか」と言った。青年はどうぞと返事をした。コルクのコースターがテーブルの上を滑る。黄みがかったライトがそれを柔らかく照らしている。立方体の氷に押し潰され、息苦しそうにしていたカットライムがグラスの中で少しだけ浮き上がった。
二人が店を出るとき、店の前に一匹の黒猫が座っていた。まるで店から誰かが出てくるのをずっと待っていたかのように、その猫は行儀よく、愛想よく、どこかふてぶてしく、薄暗い街灯に照らされながら、雪の白の上に佇んでいた。
「かわいい」
黒猫を撫でる。白い手が黒猫の頭を、それから背中を、尻尾の方に向かってゆっくりと滑っていく。猫は人慣れた様子で、気持ちよさそうにしていた。青年はこの世の何よりも無垢な慈しみを見た気がした。もしかしたら彼女はお酒よりも猫の方が好きなのかもしれないとさえ思った。艶やかな黒い毛を撫でる女性の白い手は、黒猫の毛並みに勝るとも劣らないほどしなやかで美しかった。
「昔猫を飼っていて、この猫のように真っ黒な猫でした。もう少し目がまんまるでしたけど。その猫が私が学校から帰る途中で、小さな女の子に撫でられているのを見たんです。そのとき、その猫はクロって呼ばれてました。本当の名前は全然違うのに」
女性が撫でるのをやめると、猫はもっと撫でてほしそうな顔をして彼女を見上げた。女性は立ち上がってからもずっと黒猫を見つめていた。
「でもどれが本当の名前かなんて、誰が決めるのでしょう。あの頃の私は少しだけ嫉妬したりもしてしまいましたが、もしかしたら猫にとってはどの名前も同じくらい大切だったのかもしれません」
「優しいんですね」
「そうでしょうか」
「あなたに本当の名前はあるのですか」
「私にですか。実は私の名前はクロと言います。ですが猫同様、私のことは好きに呼んでもらっていいのですよ」
「では、ううん、そうですね……白いコートを着ているので、シロ、ではあまりにも捻りがありませんね。そうだ、ユキにしましょう」
「ユキですか、いいですね。雪は好きです」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
次の週もその次の週も青年は店を訪れ、青年が三杯目のカクテルの注文を考えているときにユキは現れた。
町では冬が終わろうとしていた。
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