月の雫

二階堂くらげ

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 誰の足音も湿った雪に消えた。分厚い雲が空を埋め尽くし星の光も月明かりも届かない。にも関わらず、雲の灰色がかえって夜空の闇よりも明るかった。雪は降ってはいない。風さえも吹いていない。誰からも忘れられた小さな路地では車が忙しなく雪を踏み固めていく残響だけが遠くに響き、既に自らの役目を終えた看板たちがその音をただじっと聞いていた。

 ためらうような淡い街灯の光に照らされながら〝BAR SHIZUKU〟の看板は今も来客を待っている。鴉みたいに真っ黒な体に溶けこむような優しいグレーの文字で、はにかむように自分の存在意義を冷たい空気に晒している。既に仕えるべき主を失った看板たちに埋もれそうになりながら、その看板はしたたかに夜を吸い込んでいた。

一人の青年の手によって扉が開かれる。扉は、看板は沈黙したまま喋らないが、代わりに扉の裏側にかけられた鈴が鳴った。青年がカウンターの奥から二番目の席に腰かけると、マスターは何も言わずにメニューとおしぼりをテーブルに置いた。店内にBGMはなく、テーブルを器用に照らす黄みがかった照明だけが雄弁だった。

「サイレントサード、ひとつ」

 くたびれた声の注文にバーテンは品よく上体を前にかがめ、一礼して了承の返事とすると、おしゃべりな照明の奥のひっそりとした暗闇から瓶を二本取り出した。テーブルの下からシェイカーが取り出され、立方体の氷が赤茶色の木の持ち手をしたアイストングでひとつ、またひとつその中へ運ばれていく。スコッチウイスキー、コアントロー、レモンジュースが二、一、一。マスターの手の中で液体は踊るように流れ落ちた。一瞬で秤に吸い込まれては、喜んでシェイカーの中へ飛び込んでいった。

シェイカーが振られ、金属の器の中で氷がぶつかり合い砕ける。その微細な欠片がほんの少し液体に溶けだし、液体は急速に冷却される。激しくも繊細な振動が空気を液体へと染みこませ満たしていく。一連の所作を終えた液体は独特の軌道を描いてシェイカーからグラスへと滴り落ち、カクテルとなる。

 コルクのコースターの上に立ち、サイレントサードは青年の前に差し出された。黄昏色がスポットライトを浴びて、表面を漂う氷の粒がその幾らかを反射した。青年はその身いっぱいに輝きをたたえた円錐形のグラスを注意深く手に取り、カクテルを口に含んだ。カクテルは水よりも滑らかに口の中に滑り込み青年の舌の端を強い酸味で刺激すると、後からは柑橘の匂いを連れたアルコールが鼻へと忍び込んだ。青年は一口目を口の中で小さく転がすようにして含み、二口目を一気に喉の奥へと流し込んだ。カクテルはあっという間になくなった。


青年が二杯目のカクテルグラスを空にしたとき、再び鈴が鳴る。扉が開かれ、店の中の空間と外の世界が一瞬つなげられる。外は凪いで風ひとつなく、町の冷気と夜の闇だけがおどおどと店内に迷い込み、それに少し遅れて来客は現れた。

ブーツが木の床を打つ音がリズムよく刻まれる。女性は店の一番奥まで来ると、次の注文を考えていた青年に向かって「お隣いいですか」と声をかけた。青年はそれに「ええ」と応え、女性は店内の一番奥の席に腰かけた。店内には二人とマスターの他に誰も居なかった。

「ここがお気に入りで。すみません」

「いえ、構いませんよ」

 女性は手書きのメニューに目を通すこともせず、バーボンウイスキーのロックを注文した。銘柄はマスターに委ねられた。裾の長い真っ白なコートが椅子の下の籠に丁寧に収め

られ、肩掛けの小さな鞄は椅子の背にかけられた。青年は迷った末にコスモポリタンを注文した。

 ひとつの飾りもない円柱状のタンブラーグラス、ひたすらにただ透き通る立方体の氷、蓋が開けられ瓶からウイスキーが注がれる動作、一見何の特別さも持たないようなその全てがこの店では意味を持っていた。無骨でシンプルな装いとは裏腹に、グラスの底に広がるバーボンウイスキーは夕闇のような繊細さと深みと少しの寂しさを湛えた。琥珀色は最後にレリーフの入った金属の薄いコースターに乗せられ、テーブルを照らす雄弁なライトの光を浴びて完成した。

ウイスキーは完璧だった。芳醇な香りをグラスいっぱいにたたえ、堂々たる構えで女性に口にされるのを待っていた。にも関わらず、女性はそのグラスには触れなかった。ためらうようにただじっと見つめるばかりで、口をつけようとはしなかった。テーブルの上に手を出すことすらせず、ただ一枚の絵画や一輪の花を見つめるときのようにずっと琥珀色を眺めていた。

 しているうちにマスターは次のカクテルのシェイクを終え、青年の前にコースターが置かれる。サイレントサードの時とは違う、丸くて薄く口の広いカクテルグラスがその上に乗せられ、シェイカーから液体が注がれる。液体は独特の軌道を描いて落ちる。青年は液体がシェイクされグラスに注がれていく瞬間を眺めているひとときに、この上ない贅沢を感じていた。

コスモポリタンは木の皮を編んだコースターの上に凛と佇んだ。黄みを帯びた華美なライトの中で、重厚に構えるでもなく、共に光り輝くでもなく、二人で手を繋いで並び立っていた。クランベリージュースの赤は透き通り、絶えず浮かんでは弾ける無数のきめ細やかな泡で満たされ、鮮やかな濃淡となって全てを魅了していた。

 マスターが変わらず「コスモポリタンです」と一言口にすることすらしないままグラスを乗せたコースターをゆっくりと青年に差し出すと、青年も何も言わずにただ頭を小さく動かしてそれを受け取った。BGMもない店内で行われるそのやりとりは奇妙だったが、凪いだ冬の深い夜においては何の不自然さもなかった。

「よかったら、乾杯させてもらえませんか」

 女性が青年に微笑みかけた。愛に満ちた柔らかな笑みだった。青年にはそれがお世辞で使われるような張り付けられた薄い笑顔ではなく、この店か、酒か、あるいはこの夜に向けられた愛情の表れであるとすぐにわかった。青年は純粋で深い愛に出会えたことに嬉しくなり、迷わず「喜んで」と返しグラスを手にした。なみなみに満たされたカクテルを大きく動かすことは難しく、乾杯は女性の方がウイスキーのグラスを大きく近づける形になった。

「乾杯」

 消え入るようなか細い声だった。グラスが触れ合う。初めてするキスのように、音はしなかった。二人はグラスの淵に口をつけ、そのままグラスを傾けた。

「私もコスモポリタンが好きです」

「ええ」

「この色が好きなんです。コスモポリタンの他では、私はこんな赤を見たことがありません」

「そうですか」

「そう」

「じゃあ、コスモポリタン色ですね」

「そうですね」

 二人はふざけ合った。二人は酒の前で嘘がつけるほど器用ではなく、二人の笑みには徐々に温かみが重ねられていった。

店内に時計はない。二人の会話だけがこの店の時間を進めていった。片方が「ええ」と言い、片方が「そう」と言い、その度に秒針が動いた。風は凪いで町にはタクシーの音もしない。マスターは黙っていた。扉も看板も控えめな鈴も黙っていた。その夜は二人の他に誰も何も喋る者は居なかった。

 青年がマスターにギムレットを頼むと、女性もすぐに同じものを注文した。青年が女性の方に首を傾げると、女性は少しだけわざとらしい微笑みを返した。

マスターが一回り大きなシェイカーを取り出すと、続けてジンと瓶入りのライムジュースがテーブルに並べられる。二本の瓶は兄弟のように仲良しだった。氷、ジン、ライムジュースの順に収められ、シェイクが始まる。二人はマスターがショートカクテルをシェイクするときも、ロングカクテルをステアするときも、ロックのグラスに氷を入れて酒を注ぐときも、酒がつくられるときは片時も目を離すことをしなかった。

二つのギムレットが差し出される。二人はそれを同時に手に取ると、顔を見合わせて何も言わずに乾杯をした。鈍い振動がギムレットの中を伝わる。衝撃で氷が回り、からころと音がする。

「ギムレットを飲むにはまだ早すぎるね」

 という台詞を二人は知っていたが、口には出さなかった。青年は特別な意味を込めてギムレットを注文した訳ではなかったが、二人がギムレットのグラスを合わせたときに弾けた小さな音は、二人の間に一つの星が生まれた音だった。

 

二人はペースを落としながら閉店の時間まで酒と会話を楽しみ、店の前で互いに名前を聞くこともしないまま別れた。青年が店を出たとき町には氷雨が降っていた。傘など持たない青年はそのまま氷雨に打たれながら、帰る予定のなかった遠い家路をタクシーにも乗らずに歩いて帰った。


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