ラン! てっちゃんラン!

タカテン

てっちゃんラン!

「なんだってぇ!?」

 平日の昼間だと言うのに仕事もせず、いつものようにネットの世界を彷徨っていた倉橋和也【三十二歳】は、ある情報を見て驚きを隠せなかった。

 ソース元は某巨大掲示板。「ネタをネタと分からない者は……」でお馴染みのサイトで、情報を鵜呑みにするのはあまりに馬鹿げている。しかし、その情報にはどこか信憑性が感じられた。もしこれが本当ならば、ここで行動を起こさないと後で絶対後悔する。そう考えたら、居ても立ってもいられなかった。

 和也は時計をチラリと見る。

 ――今からなら間に合いそうだ。

 椅子にかけてあったブルゾンを羽織ると、和也は慌てて部屋を飛び出していった。


 この世には「鉄道オタク」、通称「てっちゃん」と呼ばれる人種が存在する。

 鉄道が好きで好きで仕方がない彼らは、しかし、その愛で方も多種多様に及ぶ。

 乗車する事に意義を感じる者。車両を写真に収める事に執念を燃やす者。全国津々浦々の駅を巡る者もいれば、緻密に計算された時間表にうっとりしてしまう者もいる。

 さらに模型の世界にまで目を向ければ原稿用紙が何枚あっても足りないので、ここでは割愛させてもらう事にする。

 とにかく、そんな幅広く奥深い世界に、倉橋和也【三十二歳】もいた。

 そして「我が行く道は、鉄の道」と断言してやまない和也を動かしたものは、やはり鉄道イベントに関する情報なのであった。


 JR山手線内回り池袋駅。

 和也がそのホームに辿り着いたのは、イベントが起きるまさに二十分前であった。

 しかし、間に合ったという安堵はない。むしろその光景に和也は愕然とした。

 平日の昼間という時間帯にも関わらず、ホームの片隅に異様な熱気を纏った集団がたむろしていたからだ。

「遅かったじゃねぇか、和也」

 不意に肩を叩かれて振り返ってみると、そこにはまだ初秋だと言うのにモコモコのダウンジャケットを来た小太りの男が立っていた。

「貴様は、撮り鉄のタクヤ!?」

 『撮り鉄』とは、鉄道写真を専門としたてっちゃんである。が、にもかかわらず、トレードマークである高性能一眼レフカメラを、今日のタクヤは持っていなかった。

 あるはずのものがない事を訝しむ和也に、今度はひょろりと痩せためがね男が声をかける。

「タクヤさんがカメラを持っていないのも当たり前でしょう。だって、今日は写真を写すよりも、むしろ写されるのが目的のイベントですからねぇ」

 メガネがキラリと光るこの男、全国の無人駅を踏破した事で(その道で)有名な、伊東鉄夫その人であった。

「伊東さんまで……という事は、やはりあの情報は本当だったんだな?」

 大物の登場で情報の信憑性が一気に増し、思わずごくりと生唾を飲み込む和也。

「ええ、『超リアルトレインシミュレーターゲーム』の最新作『山手線リアル』の撮影車両が今日運行されます」

 

 『超リアルトレインシミュレーターゲーム』とは、その名の通り、リアルさを売りとした電車運転ゲームである。

 特徴は画面がCGではなく、実写映像を使っている事。運転席から見える本物の映像でプレイできる為、てっちゃんから圧倒的な支持を集めている人気シリーズだ。

 しかし、近年、その人気に少し変化が現れてきた。

 当初はただ実写映像でプレイする事に感動を覚えていたてっちゃん達であったが、やがて自分も作品に出演してみたいという願望を持ち始めたのだ。

 実写であるが故に、製作には撮影するための特別車両を走らせる必要がある。その場に居合わせることが出来れば、実質的に出演も可能であった。

 特にシリーズ三作目「東海道本線リアル 野洲→大阪」の京都駅において、撮影電車とは知らずにホームの端から端まで走って車両を追いかけた子供の姿は、てっちゃん達に衝撃を与えた。同じ出演を果たすならば、かくありたい。そう考えた彼らは、いつしかこの行動を「てっちゃんラン」と呼び「てっちゃんランを決めた者は鉄道を制す」とまで言われるほどになった。


 そんなファン垂涎の「てっちゃんラン」。その夢を果たすチャンスがついに訪れた!

 和也を含むホームに集まった三十名ばかりのてっちゃんは、皆一様に胸にこみ上げてくる感動と興奮を押し隠せずにいた。

 しかし、同時に和也は既に更なる欲望の炎を灯らせている。

 そう、同じ「てっちゃんラン」を決めるにしても、一番この中で目立ちたい! ここまで来たら出演だけでは満足できない、主演になってやる!

 和也はニヤリと笑う。

 が、同じように不敵な微笑を浮かべる輩の存在を見逃す和也ではない。

 果たしてライバルと成り得るヤツはどれだけいるのかと、和也がホームの一団を見渡したその時。


「そう! 今ここ池袋に最強のてっちゃんたちが集まったぁぁ!」

 突然、和也の横で男が叫んだ。


 いきなり始まったナレーションに、集団の視線がその男に釘付けとなる。和也も驚き、慌てて隣に立つ男を凝視すると、男はニッと笑いサムアップで応えた。

「藍沢……」

 誰かがポツリとつぶやく。

「あいつ、藍沢じゃねーか?」

「藍沢って、まさか、あの、どんなつまらないものでもたちまち燃えるシチュエーションに仕立ててしまうという伝説のアナウンサーか!?」

「ヤツが出張ってきたと言う事は、このイベント、盛り上がるぞ!」

 うおぉーと歓声が一団から上がった。

 藍沢はその様子を満足げに見渡すと、おもむろに両手を上げる。その仕草でお約束事のように静まり返る歓声。場が藍沢ワールドに染め上げられる中、藍沢は先ほどとは打って変わり、静かな、しかしそれでいて力強い口調で話し始めた。

「人には自分の世界がある。たとえ世間から認められなくとも、なんとしてでも叶えたい夢がある。ホームを電車が駆け抜けるわずか数十秒の夢。笑いたければ笑えばいいさ。しかし、その数十秒に夢がある、ドラマがある、人生があるっ! 今日、ここに集いし運命の鉄人たちよ、今こそ夢を叶えるがよい!!」

 先ほどとは比べ物にならない、地鳴りのような歓声が集団から上がった。

 さすがは藍沢、良い仕事をする。

「では、夢に挑戦する鉄人たちの一部を紹介しよう。まずはこの人、今日は撮るんじゃない、撮られてやる! 撮り鉄からは、金森タクヤだーっ!」

 タクヤが両手を高々と突き上げた。ホームの集団のテンションもさらに上がっていく。

「乗れないならせめて記録に残したい! 乗り鉄からは授業をサボって尾崎猛がやってきたぞ!」

 ぺこりとひ弱そうな少年が頭を下げた。

「地上最速なんか他のヤツにくれてやる。俺は電車と共に走りたい! 鉄オタスプリンター、宇佐印慕瑠人(うさいん ぼると)だーっ!」

 本命の紹介に場内がどよめくが、本人はいたって笑顔で受け応える。

「相撲界からはこの人、角界の鉄人こと電車道だーっ」

 ごっつあんです。

「時刻表から全ての謎を解き明かす。某巨大掲示板に今回の情報を書き込んだ張本人、綾小路兼人も当然参戦するぞっ!」

 おおー、さすがだ、情報ありがとーと、みんなが頭を下げた。

「全ての駅は俺の嫁! ご存知・伊東鉄夫先生―っ!」

 伊東は上着を脱ぎ捨て、勝負服の『駅嫁』と書かれたTシャツを見せびらかす。和也たちはちょっと失笑した。

「一ミリのズレも許さない。『超リアルトレインシミュレーター』で常にパーフェクトの停車を誇る鉄乙女・喜多川香織だーっ!」

 珍しい女性てっちゃんに数名が写メした。

「鉄道駅員のコスプレでやってきたっ! 駅員声真似芸人・上川礼一も駆けつけてくれたぞっ!」

 小太りの男が指差し確認をした。

「そして、乗る、撮る、巡るのトータルファイター、裏鉄人界のチャンピオン倉橋和也だーっ!」

 和也が右手を上げて紹介に応える。どこからから「裏鉄人界って何だ?」という声が聞こえた。それは和也も知りたかった。

 ノリで選手紹介するんじゃねーよと和也は藍沢を睨みつけるが、当の藍沢はそ知らぬ顔をして

「実況は、あなたのお耳の恋人こと、私、藍沢翔がお送りいたします」

 と、ちょっといい感じに自己紹介していた。


「さて、いよいよ始まります『てっちゃんラン』。解説は時刻表オタクの綾小路さんにお願いいたします。よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

「しかし、先ほどは選手として紹介させていただいたのですが……えーと、解説でよろしいのですか?」

「ええ、あまり表には出たくない性分ですので、裏方でイベントを支えたいと思います」

 情報提供者はとことん謙虚な方だった。

「そうですか。しかし、綾小路さんを含めて、少し予想外な展開となってきましたね」

「そうですね。まさか私も含めて五名もスタート前に脱落するとは思ってもいませんでした。もはやサギに近い様相を呈してきましたね」

「詳しく説明をしていきますと、まず乗り鉄の尾崎猛君ですが、先ほどカンカンに怒られたご両親の方が見られまして、弁明の余地なく学校へと連れ戻されてしまいました」

「帰り際のご両親による侮蔑の眼差しが忘れられませんね。平日の昼間からいい歳した大人が何をやってるんだという」

 あれは確かにキツかったなと和也は胸の痛みをぎゅっと握り締めた。

「続いて力士の電車道。『走るのはキツいのでパスっす。自分はホームで四股を踏んでアピールするッス』と棄権されました」

「ある意味、自分達よりも目立つかもしれませんね。池袋駅のホームで力士が四股を踏んでいるのですから、これはインパクト大きいです」

 ちなみに電車道はすでに浴衣を脱ぎ、まわし姿で早くも四股を踏んでいた。駅係員の迅速な対応が求められるところだ。

「さらに駅員声真似芸人・上川礼一に至っては『ホームを走るというのはさすがに駅員がやっちゃマズいでしょ』と、心まで駅員に成り切ったわけのわからないコメントで辞退しました」

「さすがはプロ根性がありますね。でも、とりあえず自分たちが走るという行為は見逃してくれるそうでホッとしました」

 まぁ、走るなと注意されても、本物でないことが分かっているので全く効果ないけどなと藍沢は思ったが、口にはしなかった。

「最後に鉄乙女・喜多川ですが、こちらも『私、停車位置以外に興味ありません』とすたすたとそちらに向かってしまいました」

「これも結構美味しいかもしれませんよ。だって、基本的にゲームは停車位置に停めるのが目的なわけですから、池袋で止まると必ず彼女を目にするわけですからね。彼女、なかなかの策士ではないかと思います」

「策士と言えば、綾小路さんも結構なものですよね?」

「な、何をおっしゃるのですか、いきなり?」

 突然の藍沢のフリにうろたえる綾小路。

「だって解説というポジションでしたら、主役にはなり得ませんが、確実にセリフは増えるではないですか? そういう計算がなかったとは言わせませんよ」

 あ、なるほど。参加者全員が綾小路を注目する。

「そ、それは邪知というものですよ。それよりも今は誰が優勝するのかと言うことを話題にすべきでしょう」

 あ、逃げた。参加者全員が綾小路を小者と認定した。

 綾小路、先ほどまで情報通と尊敬されていたのに、本人が気付かぬ間に軽んじられる存在へと転げ落ちていた。

 藍沢が苦笑いをしながら口を開こうとしたその時。

「来たぞっ! 撮影電車だ!」

 誰かが叫んだ。その場にいた全員に緊張が走る。ついにその時がやってきたのだ。

「あっ、次に参ります電車はっ、通過電車ですっ。危険ですからっ、ホームの内側にっ、お立ちくださいっ」

 独特のイントネーションで上川礼一がアナウンスした。

 ――せっかくの緊張感が霧散した。


 撮影車両が近付いてくる。

 和也たちは、指差し確認をしている上川礼一を除いて、両手を振って車両の到着を歓迎した。目立つための戦いはすでに始まっている。和也は誰よりも大きく手を振った。

「やるじゃないか、和也君」

 ライバルである和也を褒めたのは『駅嫁』Tシャツの伊東だ。しかし、彼は彼で脱ぎ捨てた上着を頭上で回して対抗していた。

「くそうっ、俺も負けていられねぇぜ」

 そんなふたりを見て焦った撮り鉄タクヤは、ジャンプしながら両手を降り始めた。

 そしてついに撮影車両がホームに入ってくる!

「出発進行っ!」

 ニセ駅員・上川礼一の言葉がスタートシグナルとなって、和也たちは一斉に走り出した。

「さぁ、始まりました『てっちゃんラン』。果たして最も目立ち、最も早く停車位置まで辿り着く鉄人は誰なのでしょうか? と、おーと、いきなりこれはアクシデントだっ。一人、スタートラインでうずくまっているぞ」

 いきなりの脱落者、それは……

「なんとっ、撮り鉄タクヤ! 意気込みとは裏腹にいきなりのエンジントラブル。これは、もしかしたら足を攣ったのかっ?」

「そう言えば彼、準備体操もせずにいきなりジャンプして両手を振っていましたからねぇ。無理して高く飛ぼうとしてやってしまったのでしょう。いや、これは残念です。見せ場が選手紹介の時のガッツポーズだけとは、見掛け倒しもいいところですよ」

 綾小路の辛辣な解説が、足を抱えてうずくまるタクヤの胸に刺さる。

 「ちくしょうぅぅぅぅ!!!」

 池袋のホームにタクヤの叫びがこだました。


「さて、気を取り戻してレース序盤の展開を見ていきましょう。やはり飛び出したのは鉄人アスリート・宇佐印。撮影のためスピードを落としているとは言え、電車相手に後ろ向きで走りながらのアピールとは、能力の高さが他の選手と比べてずば抜けています」

「AHAHAHA~、このレース、貰いましたー!」

 調子に乗ってシャキーンとポーズをとる宇佐印。

「くそっ、宇佐印の野郎、目立ちやがってっ!」

「HAHAHA~、和也、負け犬の遠吠えですか? こんなゆっくりとしたスピードなのに、必死になって走っているYOUの姿、笑えまーす」

「ちくしょう。俺も体を鍛えておくべきだったか」

「HOHOHO~、ようやくそこに気付きましたか、おバカさーん。鉄道も『道』と付く以上、体育会系なのですよ~。柔道、剣道、そして鉄道でーす。」

 高笑いする宇佐印に、和也は悔しそうに顔を顰める。

「くそっ、くそっ、くそっ。ああ、もうダメだ。なぁ、宇佐印、ひとつだけ教えてくれ」

「YAYAYA、なんでしょう、ルーズドッグ・和也?」

「『道』と付くものが体育会系ならば、書道も体育会系なのか?」

「え、書道?」

 宇佐印の表情が凍りつく。

「あと、北海道なんてのもありますが、あれもやはり体育会系住民が住んでいるので『道』と付くのでしょうかね?」

 さらに和也の少し後ろを走っていた伊東が追い討ちをかける。

「北海道? いや、それは全然関係ないんじゃ……」

 宇佐印はますます混乱した。

「おい、宇佐印?」

 すっかり動揺する宇佐印に、和也はとどめの一言を言い放つ。

「お前、キャラが変わってんぞ、このニセ外人野郎!」

「ニセ外人、だと? シャラーップ、うっせぇよ、この負け犬がっ」

 宇佐印は顔を真っ赤にして反論した。セリフはブレているものの、分かりやすいキャラだった。

「ミーがこの『てっちゃんラン』の主役でーす。脇役は脇役らしく、とっととリタイヤしたらどうですかーっ!? 体力ももう限界でしょうしね、HAHAHA~」

 ふっきれたのか、宇佐印はさらにこれ見よがしにポーズを次々と決めて、撮影電車にアピールする。

「おい、宇佐印、前、危ないぞ」

「WHAT? 前にはお前達お間抜けなモンキーさんがいるだけグギャアアアア」

 宇佐印が何かにぶつかって大きくよろめいた。

「あ、すまん。お前から見たら後ろだったな」

 すれ違いざま、和也は宇佐印の横っ面に右ストレートを喰らわせる。

「うぎゃあ!」

「まったく、モンキーなのはお互い様ですよ」

 少し遅れて今度は伊東が宇佐印のボディに左膝をめり込ませた。

「ぐぼうぅ!」

 思わず倒れこむ宇佐印。しかもその後に続く有象無象の集団に蹴られ、踏まれ、あっという間にボロ雑巾のようになった。

 そしてとどめとして、宇佐印がぶつかった張本人・幕下力士の電車道の四股が迫る。電車道は当初、まわし姿で四股を踏んで目立とうと目論んでいた。が、四股を踏んでいるうちにそんな事はすっかり忘れてしまっていた。今、彼の頭にあるのは今度の場所こそ念願の十両へ昇進するぞという意気込みのみ。

「今度こそ故郷に錦を飾るッス」

 今日一番の力強い四股が、ニセ外人てっちゃん・宇佐印の顔を掠めた(なお宇佐印は全身の打撲。電車道は次の場所で五勝二敗の好成績を残し、意気込み通り十両昇進を果たしたと言う。おめでとう、電車道!)


「さて、宇佐印が脱落し、レースも中盤に差し掛かりました。優勝は鉄人・伊東鉄夫と、トータルファイター・倉橋和也に絞り込まれてきましたが、果たしてどちらに軍配が上がるのでしょうか、解説の綾小路さんはどう見ます?」

「分かりませんねぇ。しかし、伊東先生は頭脳派の試合巧者ですから、何かしら仕掛けてくるかもしれませんよ」

 藍沢と綾小路がお気軽な実況解説を繰り広げる。しかし、実のところ、和也と伊東はお互いにかなり体力を消耗していた。三十二歳無職ニートの和也。痩せぎすで運動オンチな伊東(しかも年齢は非公開ながら、和也よりもひと回り上の世代であるのは間違いない)。共に体力はすでにレッドゾーンに達しながらも、優勝するんだという強い気持ちだけが今のふたりを支えていた。

 つまり、今や勝負は精神力が決め手となっていた。気持ちが折れた時、それは敗北を意味していた。

 そして、それは伊東鉄夫の得意とするところだったのである。

「和也君、先ほどの宇佐印への罠はお見事でしたよ」

「罠? 罠ってなんだよ、先生」

 体力の限界に近付きながらも話しかけてくる伊東に訝しみながら、和也は聞き返した。

「会話で宇佐印の気を引き付けて、電車道と衝突させる。私も考えていましたが、いやはや和也君のおかげで無駄な体力を消耗しなくて済みました」

「先生も同じ事を考えていたのか、さすがだな。でも、俺と先生では少しだけ俺のほうが体力で上回っている。あれぐらいのハンデでちょうど対等ってもんだろ。ここからは正々堂々勝負だ、先生」

「正々堂々、ですか。いやいや、和也君は本当に素晴らしい心の持ち主だ。でもね」

 伊東はキラリとメガネを光らせた(解説しよう。伊東クラスにもなると自由自在にメガネを光らせる事ができるのだ)。

「私、勝負事は勝たないと意味がないと思っているのですよ。勝つ為にはどんな手段を使っても勝つ。例えば、そう、事前にあそこ立っておられる人物を呼び出したりして、ね」

 伊東が前方を指差す。つられてそちらを見た和也は、一瞬にして顔を引き攣らせた。

「お、お、親父ィ!? なぜ、親父が昼間からこんな所に?」

「おやおやさっき私が言ったことを聞いていなかったのですか? 私が呼び出したのですよ。貴方のニートな息子がハローワークにも行かず、昼間から駅のホームで大迷惑な暴走を繰り広げるつもりです。警察に捕まる前になんとかしてあげてくださいってね」

「先生ェ、あんたって人はぁぁぁ!?」

「和也君、今は私に構っているヒマなんてないでしょう? 聞けば貴方のお父様は今でこそしがないサラリーマンですけど、かつては地上最強の生物に憧れていた程の人物だそうではないですか。ほーら、鬼の貌が見えますよ?」

 ふたりの進行方向に和也の父親が立ち塞がる。

 伊東は撮影電車と共にその脇を駆け抜けた。が、和也は立ち止らざるをえなかった。しばらくして無名の参加者達も次々とふたりを避けて走り去っていく。

 気が付けば、そこには和也とその親父、そして実況解説のふたりだけが残っていた。

「親父ぃ、そこを退け!」

 和也が腹の底から声を張り上げる。しかし、当の父親は涼しい顔をして口を開いた。

「はねっ返りは、すなわち鮮度。よくぞここまで芳醇に成長した、息子よ」

 そして両手を広げて、高く掲げるファイティングポーズを取った。

「今のお前なら俺と死合う資格がある」

「やめろ、親父、今はあんたと戦っているヒマはないんだ」

「この先に進みたければ、俺を倒して行く事だ、和也よ」

 和也父の鬼の形相がにやぁと嗤った。

「さぁ、大変な事になってきたぞ。単なる楽しい鉄道イベントが一変してバトル物に早変わり。この展開、誰が予想できたかぁ!?」

 アナウンサー・藍沢翔がテンションアゲアゲで実況に入った。正直なところ、結構地味な展開に飽きてきていたところだったのだ。そこへいきなりのバトル展開、いやがうえにもテンションがあがる。

「同感です。選手紹介だけでもやりすぎだと思いましたが、まさかここまでやっちゃうとは。ヤバイです、まったく懲りない悪びれない、ですね」

 解説・綾小路兼人も別の意味での展開に驚きつつ、半ば呆れていた。

「さて、和也選手はこの状況をどのように克服するか……おおっと、なんとそのまま親父のもとに歩き出して、あーっと、耳元で何か囁いたーっ! 親父は、親父はどうする? なんだとーっ、すんなりと和也選手を通してしまったーっ!」

「ここに来て『狩○×○人』ネタ!? やめろーっ、もうマジで怒られる前に誰か止めてやれーっ!」

 実況解説のふたりが呆然とする中、和也は意を決して再びレースに戻っていく。父親の方はと言うと、ズボンのポケットに両手を入れて、これまたその場を立ち去ろうとしていた。

「和也君のお父さん、一体何があったのですか? 何を和也君に言われたのですか? クモの情報でも囁かれたのですか?」

 慌てて父親に詰め寄るアナウンサー・藍沢。マスコミの血が騒いだ。

 しかし、和也の父親はその問いに答えることもなく、無言でひたひたと歩いていく。その様子に藍沢は焦燥を覚えた。何があったのか知りたい。でも、このままでは「てっちゃんラン」のクライマックスを実況出来なくなる。

「お願いです、どうか一言だけ。一言だけでもお願いします」

 マスコミらしい決まり文句に藍沢は全てを賭けた。

「……ヤツめ、新人社員の織葉クンと俺の関係をどこで知ったのやら」

 引き出せたのは、その一言だけだった。が、それだけで充分。真相はなんてことはない、爛れた中年男性の火遊びだった。

 つまらない真相だったが、知的好奇心が満たされた藍沢は本来の仕事に戻るべく、全力疾走で駆け出していった。

 ちなみに新人社員の織葉クンが筋肉ムキムキの男性社員だと言うことを、藍沢は知る由もなかった。

 

『駅嫁』。

 Tシャツにでかでかとプリントされたその文字を、伊東はまるでゴールを決めたサッカー選手がユニフォームに刺繍されたチームシンボルをカメラに強調するが如く、撮影電車のカメラに向かってアピールしていた。

 体力は既に限界を振り切っている。しかし、不思議と疲れはなく、今はただこの過酷なレースに勝利したと確信し、その余韻に浸り切っていた。

 だから、不意に和也に声をかけられた時は、死人を見たかのように驚いたのだった。

「か、和也君!? どうして君がここにいるっ!?」

「分かりきった事を聞くな、先生。当然、俺が優勝するからに決まっているだろうがっ!」

 和也はふらふらになりながらも、気丈に優勝宣言を伊東にぶちかました。

 正直なところ、父親に塞がれた時間的ロス、さらにそこから無名とは言えライバルたちを蹴散らしてここまでやってきたのだから、体はもうボロボロだ。もう気力だけで走っている状態であるが、それを見破られまいと和也はさらに捲し立てる。

「違和感があったんだ。乗り鉄の尾崎が両親に捕まった時、どうして両親がこのイベントの事を知ったんだろうって。先生、アレもあんたのワナだったんだな」

「ふふふ、そこまで知られていては黙っていても仕方がありませんね。ええ、当然です。彼は今回の参加者の中で一番若い。宇佐印のような単細胞でもなさそうですから、真っ先にリタイアしてもらう必要があったのですよ」

 くっくっくと伊東は殺した声で嗤う。

「さらに言うなら、撮り鉄のタクヤ。彼が足を攣るように仕向けたのも私ですよ。負けん気の強くてチビな彼の事だ、私が上着を脱いで振り回したもの見て、案の定、ジャンプして自分をアピールし始めてね。普段運動不足な人間があんな事をしたらどうなるか、火を見るよりも明らかでしょうに」

 あーはっはっと、もはや隠す事なく伊東は大笑いした。

「先生、アンタ、最低だ」

「和也君、最低と言うのはね、負け犬の事を指すのですよ。勝負に何も準備する事なく、おマヌケに参加しただけの負け犬の事をね」

 ゴールである停車位置がもう直前まで迫っていた。

「まぁ、和也君がここまで復活してくるのは予想外でしたが、もうどうする事も出来ますまい。ほ~ら、もうすぐゴールですよ。それまでに貴方に何か強烈なアピールが出来ますかね?」

 伊東は今度こそ勝利を確信した。メガネがこれまで以上に眩しく光った(伊東ほどの実力者になると最大五段階ほどメガネの光具合を調整できるのだ)

「先生っ、あんたに見せてやるぜ! 本当の勝者は最後の最後まで切り札を隠し持っているって事をな!」

 言うが早いか、和也は最後の力を引き絞って電車よりも数秒早くゴールの停止位置に辿り着く。そして撮影電車を正面から見据えると、左手を伸ばし、ゴールで待っていた鉄乙女こと喜多川香織を抱き寄せた。

「香織、待たせたな」

「ううん、約束、ちゃんと守ってくれたね」

「ああ、なんせ俺が主人公」

「私がヒロイン、だからね」

 ふたりの顔が近付いていく。

「なん……だと……まさかっ、やめろぉぉぉぉぉ!!」

 伊東の絶叫が響く中、ふたりは撮影電車に見せ付けるように熱い口付けを交わした。

 

 運命の撮影電車が、ふたりの傍を通り過ぎていく。撮影をするだけだから、わざわざ停車するような野暮な事はしないのだ。

 かくしてすべては終わった。

 祭りの後に残ったのは、いまだお互いの唇を合わせる二人と、ホームに跪いて思わぬ敗北に眼鏡が割れて呆然とする伊東(伊東ぐらいの実力者になると以下略)、予想外な大団円に実況解説にも力がはいる藍沢と綾小路、そしてその他もろもろの参加者の皆さんが疲れ果てながらも勝利者の二人に送る暖かい拍手の音だけであった。


 おしまい。



 作者からのお願い。

 駅のホームで走るのは危険です。やっちゃダメ。絶対。

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