ソラウララ

濱太郎

ソラウララ


「ねえ、私さ、今から死んでみようと思うんだけど」


 見ず知らずの彼女が、見ず知らずであろう僕に、何事もないような表情で、そんなことを聞いてくる。

 一瞬聞き間違いかと思ってしまいたくなる問いかけに、反応が多少遅れてしまい、すぐに返事をすることが出来なかった。いや、充分に回答の時間を与えられたとしても、その問い掛けに上手く答えられたとは思えない。

 無視された、と思ったのか定かではなかったけど、これ見よがしと言わんばかりに後一歩で十数メートル下の地面に真っ逆さまの場所に立ってみせる。

 そう、今僕がいる場所は学校の屋上であって、彼女が立っているのはフェンスの向こう側。

 そこに今立っているのは彼女であって僕ではないはずなのに、眼前に広がっているだろうその大地を見下ろす光景を思い浮かべてしまうと息が詰まりそうになる。

 そのまま数秒間、また何も言えず呆然と彼女を見つめていると痺れを切らしたのか、雲ひとつない青空を見上げていた顔をこちらに向けてくる。


「ねえ、聞いてる? 君に聞いてるんだよ」


 まるで今の状況を楽しんでいるかのような彼女の語尾に驚く僕を見て、クスクスと小さく笑う。


「理解できないっていう顔してるね」


 笑って見せながら、そんな事を口走る彼女の顔を改めてよく見てみたが、どうやら同学年の生徒ではなさそうだ。もちろんAからEまである合計五クラスの生徒全員の顔を覚えているわけではないが、入学式の春から夏休みが過ぎた初秋の今、大体の把握はしているつもりだ。

 だからといって、断言できるほど女子生徒の顔を把握できているつもりはない。むしろ三年間をかけても把握できる自信はない。

 じゃあ、何故そう思うのか。


「……なんで笑ってるんですか?」


 これから死ぬ。そう告げた人とは思えないほど綺麗な笑顔を持つ彼女の瞳は、頭上に広がる空のように青かった。

 さすがに〈瞳が青い女生徒〉が同じ学年にいれば、他クラスだろうと噂にもなり、多少なりとも僕の耳にも入って来るだろう。半年近く、現在進行形で高校一年生をしているがそんな噂は聞いたこともない。きっと僕よりも上の二年生、もしくは三年生の生徒だろう。

 同学年のクラス間の噂は周りやすいけども、学年間の噂はそこまで広まりにくい。それぞれ学年ごとのネットワークが違うのだからしょうがない。もしくは、ただ単にそういった噂や流行に疎い僕が知らなかっただけなのかもしれないけど。

 僕の問いかけに、首をかしげながら真直ぐに見つめてくる。

 不思議そうに。可笑しいものを見るように。

 そして、


「笑ってる、笑ってたら何かおかしい?」


 当たり前の事のように。


「え、いや、おかしくないです……か?」

「うん、おかしくない。おかしいの?」


  彼女のその答えを、その問いかけを、僕は理解することができなかった。

 それからまた十数秒、彼女と僕の間に沈黙が流れた。そして新しく出来た沈黙を破るのも、また彼女だ。


「よくさ、言うじゃんか『自分の人生は自分で決める』とか、ね。私もそんな事を考えちゃうジャンルの人間なんだ」


 今度は僕の方を見ないで、独り言を喋っているように、足元を見ながら喋り始める。

 恐怖心と興味心がせめぎあいながらも、そこからの眺めは一体どんなものなんだろうか、という思いは膨らんではしぼんでいく。

 そんな僕の考えを遮る様に、彼女は喋り続ける。


「だから私は思うんだ。それじゃあ『自分の死に方は自分で決める』って……ん? あれ、そういえばこれってよく考えてみると『自分の人生は自分で決める』と意味が一緒かも……あはは、いやぁ、まいったなぁ」


 また、彼女は笑う。

 きらきらと太陽に照らされた、宝石のような瞳も相まって、正に輝くような笑顔で。

 それは、見ている僕が跡形もなく消えてしまいそうなほどにさえ思えた。

 傍から見れば、彼女は光で、僕は影。きっとそう見えてしまうに違いない。


「私の両親は、私がうんと小さい頃に離婚してさ、ずっとお母さん一人で育ててもらってたんだよね」


 彼女は喋り続ける。話す声もトーンは変わらずに、また、独り言のように。美しい音色を奏でるかのような彼女の声を、僕の耳はすんなりと受け入れていく。


「お母さんは子供の頃に日本に引っ越してきたイギリス人で、英語はもちろん日本語も日本人顔負けにペラペラに喋れて、得意料理は和風料理全般で、見た目とのギャップしか感じられないんだけど、凄く美味しいんだよね……それに」


 そこで一度止めてから、こちらに向き直って嬉しそうに一言。


「すっごく美人なんだよ」 


 自分の宝物を友達に自慢する少女のような表情で喋る。

 誰かに、誰でも構わないから聞いて欲しかったのかもしれない。

 それが見ず知らずの僕であったとしても。


「……いっつも笑顔で居て、周りの皆もつられて笑っちゃうの」


 嬉しそうに。

 楽しそうに。

 でも、少し悲しそうに、


「でも、死んじゃったの」


 笑った。

 また笑った。

 この世界に存在する何もかもを包み込んでしまうような。

 でも、それはきっと無理やりに。

 強引に、頬を引き上げている。


「……僕にはそう見える」

「え、今なんて言ったの?」

「あ、いや、なんでも……ないです」


 口ごもる僕に近づくフェンス越しの彼女。

 目と鼻の先にいる彼女の瞳は、驚くくらいに澄んでいて、吸い込まれてしまいそうなのを必死に堪える。目線を外したいのに外せない。彼女の瞳にはそんな力があるように僕は、僕達はそのまま逸らさずに、見つめあい、黙っていた。

 数秒だったか、数十秒だったか、もしくはもっと長かったかもしれないし短かったかもしれない。

 涼やかな風の吹く音。

 名前の知らない鳥の鳴き声。

 自動車のエンジン音。

 誰かが誰かを呼ぶ声。 

 その様々な音は耳に入ってきているはずなのに、鼓膜の一歩手前で誰かがとおせんぼしているみたいに、不思議と無音な世界に感じられた。


「ぼ、僕は」


 このまま時が止まれば良いと思ったのは嘘じゃない。


「なに?」


 だけど、沈黙を破ったのは、僕だ。


「今日、僕はここで、死のうと思ってました」

「……へ?」

「あ、あなたと一緒です」

「それ、ほんと?」

「はい」


 その時、僕自身がどんな顔をしていたのかわからないけれど、心臓は嘘みたいに早く高鳴って、今にもこの場で倒れてしまいそうだった。それこそ死んでしまうくらいに。

 彼女は驚いた顔をしてから、溢れるように大きな声で笑い出した。


「あはははははは……っ!」


 お腹を両手の平で抑えながら、とめどなく溢れだすソプラノの笑い声は、心臓の高鳴りを鎮めてくれるように心地良い。


「そ、そんなに、面白かったですか?」

「ははは……だってまさか、一緒の日に全く一緒の時間にここにきて、全く同じこと考えていたなんて、それがもし君の渾身のジョークだったとしても、なんだか面白くて……さ」


「う、嘘じゃない、です!」

 

 世間一般で言うところの〈いじめ〉に遭っている。だけど、周囲の人間からすればただ〈ふざけ合っているだけ〉と流されてしまう。

 これはもうどうしようもない事象の一つなんだと認めざるを得なかった。世界はそのように出来ていて、誰かが正式に決めたわけでもない見えないルールに囲まれた僕にはどうしようもなかった。

 だけど、だからといってそのまま逃げていたくなかった。逃げる為にではなく、戦う為に。自分の存在を証明するために。そんな思いを抱きかかえたまま僕は、この屋上から飛び降りて死のうと思っていた。


 ひいひい言いながら彼女は深呼吸をして息を整える。涙目になった目をこすってから僕に向き直る。

 目と鼻の先。

 フェンスという壁が無ければ、後十センチくらい。


「それじゃあさ、一緒に死のうか?」


 そんな恐ろしい問いかけも、笑顔で。

 太陽みたいな、なんていう表現はあまりにもありきたりすぎるかもしれない。だけど、そんな表現が一番彼女にはしっくりとくる。

 彼女の笑顔は影でしかない僕に暖かい光を注いでくれる。

 何をしようとしてもうまくいかない。たった半年間という短い期間の中で、誰からも嫌われてクラスに数センチすら居場所のないこんな僕に。


「今日は……」


 空から降り注ぐ太陽の光は、初秋のものとは思えないくらい暖かくて、背中の真ん中の辺りが汗でべたつくくらい。それに伴って、空は雲ひとつない綺麗な青空がどこまでも広がっていて、自分がちっぽけな存在だと改めて教えてくれる。


「ん?」


 僕の命なんてたかが知れているだろう。

 高校一年生の男子高校生が一人ここで死んでしまったところで、この学校は消えて無くなるわけでもないし、この町がどうにかなってしまうわけでもない、変わらずに地球は回り続けるし、世界の歯車は止まったりしない。

 きっとそれは彼女が死んだことでも変わらないだろう。

 人間が、一人や二人、死んでしまったからといって世界の何かが変わるわけがない、そんな事は誰もが考え付くことだし、知っていること。こんな僕にでさえ理解できること。


「―――空が、空が綺麗過ぎるんで、また今度に……します」


 でも今は、この瞬間を。その笑顔を。壊したくないし壊れてほしくない。


「空が、綺麗過ぎるから……? ―――ぷっ、っあはははははは!」


 さっきよりも大きな声で、何か糸が切れてしまったかのように笑い続ける彼女は、仕舞いにはお腹を抱え込みながらしゃがみこんでしまった。


「あ、あの、大丈夫ですか?」

「くくくっ、大丈夫かって? そりゃ大丈夫じゃないよ、君」


 そう言ってからフェンスに寄りかかるようにしてなんとか立ち上がった彼女は、息を荒げたまま、口を開く。


「あはは。君さ、凄く面白いね」

「あ、いや、そんな面白いことを言ったつもりはないんですけ……ど?」


 そう言い終える前に彼女はフェンスを登り始めていた。二メートルほどあるフェンスを、スカートを履いていることなど微塵も感じさせないほどにスルスルと軽やかに上り、その一番上に立つと勢いよく地面に飛び降りた。


「ほいよっと」


 僕の目の前に綺麗に着地してみせると、今までの出来事は何もなかったかのように、ゆったりとした足取りで、入り口のドアの方へと歩いていく。


「あ、あのっ」


 ゆっくりと、僕の方へと振り返る。

 なんで呼び止めたのか自分でもわからない。

 もちろん口から、そのあとに続く言葉なんて出てこない。


「私もさ……今日は、止めにするよ」


 僕が何かを喋ろうとするよりも先に、そう言ってから彼女は人差し指を上空に向ける。

 どこまでも広がる青空のような瞳を持つ彼女は、少し皮肉に、また悪戯っぽく、


「だって、空が綺麗過ぎるからね」


 笑った。

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ソラウララ 濱太郎 @hamajack123

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