1年

田原泳透

1年

 3月の夜はまだ冷たい。涼太の体は熱くなっていたが、それは自転車を漕いでいるからではなかった。いつも通る長い上り坂でもギアを6のままにして登り切った。


 もう少しで、マリカの家だ。


 彼女の家の前に来て、涼太は時間を確認した。蓄光された腕時計の短針は11を過ぎている。涼太は落ちていた小石を拾い、2階の明かりのついている部屋に向かって投げた。

 カチン、と音がすると、白いカーテンが一瞬揺れた。裏口に回って待っていると、すぐにマリカが出てきた。薄いピンクのパジャマにダウンジャケットを羽織っている。


「待った?」

「……ぜんぜん」


 マリカのポニーテールの髪が解かれている姿を見て、涼太はドキッとした。


「乗って」


 マリカは自転車の荷台に乗った。涼太はマリカのシャンプーのいい匂いに緊張した。


「これいいね」


 荷台には防災頭巾が被せてあった。

 涼太は耳を熱くさせただけで、黙って自転車を漕ぎ始めた。ふらふらしていたが、マリカの両手が涼太のお腹を覆うと、涼太はなんとか持ち直してスピードに乗った。


「どこ行くの?」

「遠いところ、できるだけ」

「でも、明日卒業式だよ」

「それでも、遠くまで行きたい」


 涼太は焦っていた。焦りを車輪にぶつけるしかなかった。背中に触れるマリカのやわらかさはもう女性に近づいていて、背は涼太より13センチも高い。


「卒業すること、どう思う?」


 涼太は後ろのマリカに聞こえるよう大声で訊いた。


「うれしいよ。中学生になったら勉強も部活もがんばるんだ」


 涼太は返事をする代わりにペダルを必死に回した。後ろにいるマリカに自分の気持ちが伝わるように、前へ前へと自転車を漕いだ。

 日常の行動範囲を抜けて、見たことのない住宅街やお店の前を自転車で通っていった。自転車のライトが照らす視界はあまりに狭く、街灯と街灯の距離が短く感じた。涼太は不安を押し殺すのに精一杯で、2人は黙って進んでいった。

 1時間以上かけて初めて来た住宅街の真ん中には、2人だけの世界が広がっていた。


「さみしいの?」


 ふいの、マリカの問いが涼太を捕らえた。

 涼太は、本当に伝わってしまったかも、と思った。

 涼太は突然ブレーキを握りしめて自転車を止めた。きゃ、という声とマリカの体が涼太にぶつかって、涼太は自転車と共に倒れた。マリカは長い脚を地面について自転車から無事降りていた。

 涼太は自転車に片足を挟まれたまま、うつ伏せになった。カラカラと、車輪が空回りしていた。地面からはアスファルトのぬるい匂いがする。


「おれは子どもだ。マリカより背も低いし、声だってまだ高い。力もない。免許持ってないし、遠くにいけない」


 涼太は言わなかったが、まだ下の毛も生えていない。


「だって涼太、まだ5年生――」

「でもマリカは6年生だ!」


 涼太は立ち上がって、涙を隠さずにマリカと向き合った。


「今だって大人にみたいなマリカが中学生になったら、もっともっとすごく大人になって、もうそのまま二度と会えなくなる気がしたんだ。だからカケオチしようと思って」


 涼太はマジックテープの財布から一万円札を広げて見せると、マリカは笑った。涼太には聞こえない声で「うれしいな」とつぶやいた。 


「女の子は成長するタイミングが男の子より早いんだ。男の子はもうちょっとしたら成長するタイミングが始まって、涼太はわたしより背が高くなると思うし、力もつくよ」


 涼太は服の袖で痛いくらい目を擦って涙を拭いた。


「ほんとう?」


 マリカは笑顔でうなづいた。


「声も変わる?」


 もう一度、うなづいた。


「先に行ってるだけだよ。男の子は足が速いから、すぐ追いついちゃうよ」


 涼太はマリカに詰め寄り爪先で立ってすばやく唇と唇をぶつけた。


「すぐ追いつくから。早く卒業するから」

「先に行ってる」


 マリカは、もう一度そう言った。

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1年 田原泳透 @oyogusukeru1991

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