姨捨山の銀狐

夏鎖

姨捨山の銀狐

    わが心なぐさめかねつ更級や姨捨山に照る月を見て


 夜の帳がおりた山。狼が遠吠えをし、鼫が木の枝をかき分け飛び立つ音が聞こえる。息子が消えた山の中腹で、私は粗末な着物の袖で涙をぬぐった。


「なぜなのだ……息子よ……」


 その声は誰にも届くことはない。息子は――あの男は、どこの馬の骨とも知れぬ女と暮らすようになってから、私のことを粗末に扱うようになった。腰はとうの昔に曲がり、手や足、顔の皺は増え、縄を編むことしか用がなくなった私を――


(もう不要と申すか……!)


 家の近くを流れる川が雨で怒ったような、そんな激情に駆られ、私は蚤のついた髪を両手で掻き毟った。あの女が私の息子を変えたのだ。息子ならざる乱暴な男に変えたのだ! 許さない! 許すわけにはいかない! 


 恨みを込めた瞳で上弦の月を穿つ。すると、どこからか獣の足音がこちらに近づいてきたのがわかった。


(狼か……それとも熊か、野犬か……仮に鹿だったとしても、満足に動けない私の生など角で一突きして絶やしてしまえばいい。家族に見放された年寄りは、元より山に捨てられる運命だったのだ……)


 恐怖を覚えることすら忘れ、私は落葉を踏みしめる四足の足音に耳を澄ませ、死が迫るのを今か今かと待ち続けた。


 しかし、現れたのはこの近辺ではあまり見かけない狐の姿であった。


「しかも、銀の毛皮とは……」


 私は、たった今、この胸に抱いた絶望を刹那のうちに忘れた。月光を反射して夜に燦然と輝く銀色の狐は、まるで物語の中の生き物のようであった。


「…………」


 銀の狐は私の三尺前で立ち止まると、鼻をひくつかせた。


「汝、力を求めるか?」


「力……だと?」


 幽界へ誘うような狐の声に思わず私は声を発した。


「そうだ。汝が復讐を求めるのなら、我は若さと山々の動物を鵺へと変化させる力を与えよう」


 銀狐の言うことが理解できず、私は呆けたようにその黒き瞳を見つめ続けた。


(復讐だと……? 若さだと……? 動物を鵺へ変える力だと……?)


 困惑した。銀狐の言うことが私には理解できなかった。


「なぜだ……なぜこのような老いぼれに力を授けようとする?」


「我が汝に力を与える理由などどうでもよい。力を欲するのか否か。答えよ」


 銀狐はあくまで私に力の用不用を訪ねた。


(銀狐……風のうわさで聞いた限りでは人に鬼神のごとき力を授ける幽界の使い。もしや、幽界で食らう魂が少なくなったために、私に人を殺めさせ、魂の補充をさせようとしているのか?)


 銀狐は幽界で人の魂を喰らうとも聞いた。それが本当ならば、私に力を授けることも納得がいく。


(どちらにせよ、ここで狼に喰われるはずだった運命。狐に化かされるのも死ぬ前の一興か)


 私はそう思い、口を一文字に結び一つ頷くと、銀狐にありったけの声をぶつけた。


「銀狐! 私に力を授けよ! 貴様の臨み通りにしてやる! 幾人もの人を殺め、貴様の喰らう魂にしてやろう!」


 あらん限りの力で叫んだからか、腰に激痛が走った。それに抗いながら私は狐を睨み続けた。


「よかろう……汝の己が息子を憎む姿……非常に面白い……我が力を用いて存分に暴れるがよい」


 銀狐が笑ったように見えた。すると、銀狐の周りで陽炎が揺らめいた。その陽炎は私を飲み込み、体中を高温の火箸で突き刺すような痛みが走った。


「狂え、狂え、汝の本能に忠実に」


 狐が唱えると、私の意識は糸が切れたように霧散した。



 目を開けると、そこには先ほどと同じ景色が広がっていた。一つ異なるのは、あの銀狐の姿が見えないことだけ。


「夢か……」


意識が覚醒しきらないまま上体を起こす。すると、突然耳元から獣の吠え声が聞こえた。


「なっ……!」


 私は驚きに目を見開いた。なんと、気を失っている間に狼の群れに囲まれていたのだ。その数は五。こうなれば死は免れないであろう。


(先ほどの銀狐は私に死を告げに来たのか……)


 私は笑った。狂ったように。銀狐が力を与えることなどなかったのだ。全ては夢幻であったのだ。

 突然笑い出した私に狼共は一瞬たじろいたが、それでも勇猛な獣である狼は私に向かって飛びかかった。


 そのとき、視界が歪んだ。


「これは……!」


 歪みの正体は銀狐が私の身を焼いた陽炎であった。陽炎はまるで意思のあるもののように動くと、蛇のように五頭の狼の首に絡みついた。

 狼が悲鳴をあげる。しかし、陽炎は狼の身を容赦なく焼いた。


「なんという……」


 狼共が地面へ叩きつけられる。すると、陽炎は消え私の胸へと吸い込まれた。


 そして、蠢き出す。


 狼はその身を激しく振るわせると、頭を猿に、体を狸に、尾を蛇に、足を虎のそれに変え、肥大化した。元の狼の大きさはせいぜい一尺三寸ほどであったが、今では一丈五尺ほどにまで膨れ上がっていた。狼であったものは今やすっかり化け物にその姿を変えていた。


「これが鵺か……銀狐よ……」


 この世ならざるものを見て、私は茫然と呟いた。


『都に向かえ。そこで万の人々を殺め、力をつけよ。己が息子への復讐はそれからだ』


 どこからか銀狐の声がした。私はそれに従い、狼から鵺へとその姿を変えた化け物を引き連れ山を下った。途中、獣道の窪みに貯まる水で己の姿を写し見ると、そこには美しき乙女の姿があった。


「これはよい……!」


 私は今まで自らの声が甲高い女子のそれであると、たった今気付いた。



 鮮血の衣をまとい、百の鵺を従え、千の村で万の人を殺めた乙女。

 その噂が都へ届くと同時に、私もまた都に辿り着いた。

 都へ入ったのは夕刻だった。私は村が焼かれる赤と空の紅、そして血の朱の三つが楽しめるこの時間帯に鵺を引き連れ村を襲うのが習慣となっていた。


「これが都か……」


 感慨深く呟く私の周りを百数十に増えた鵺共が舞い狂う。その身は猛々しく、しかし残酷かつ気味が悪く、いつの間にか鬼火をその身に纏うようになっていた。それがここに来るまで幾千もの村を焼いたのだった。


「美しい」


 鵺が都の人々に襲いかかり、腹を食いちぎり臓物をぶちまけ、頭をかみ砕き脳漿をぶち向ける様を、文字通り血染めの衣を着た私は見つめた。


 それは襲撃でも、保食でもなく、殺戮であった。鵺が暴れ狂うたび、汚物にまみれた人間であったものが私のもとへ飛散し、どす黒く染まった私の深紅の衣にさらなる花を咲かせる。それを見つめながら、うら若き乙女――それも美人だ――となった私は口の端に笑みを浮かべた。

 格子状の都を鵺が人を襲い、鬼火が家々を焼き、鮮血が飛び交う中歩くと、ついに朱雀門の辺りまでやってきた。


「ここが都の中心か」


 感情なく呟くと、それまで散開していた鵺達が私の周りに集まってきた。そして、鬼火で朱色に塗られた門が焼かれると同時に、従える全ての鵺が宮に向かって走った。

 逃げる準備をしていなかったのか、まだ宮の中に残っていたやんごとなき人々は、鵺の餌食となり元が人だと判別がつかないまで食い荒らされ、鬼火で焼かれた。


 都が焼け野原となり、煙が燻ぶるばかりとなった頃には陽はすっかりと落ち、空には綺羅星が瞬いていた。夜風に乗って漂う殺戮の残り香は、人の髪や脂肪が焼けた腐った卵のようなものであった。


(もうよかろう。更級へ戻れ)


 突然頭の中に銀狐の声がした。


「もう、お主は満足したのか銀狐?」


(あぁ、汝の復讐を果たせばよい)


「復讐……」


 息子の顔を思い浮かべる。優しかった息子。変わってしまった息子。それも全て憎きあの女。


 殺せ


 空隙にぽつりと墨が落ちるように頭の中を埋めつくした。


「行こう」


 鵺共に声をかけると、従順な化け物どもは鬼火を焚いたまま私の後に従った。

 夜道を照らす光を頼りに、私は因縁深き更級の地へ向かった。



 更級に至ると、私は真っ先につい数週間前まで住んでいた村へ向かった。


「都を落とした獄炎の乙女が来たぞ!」


 見覚えのある村の男がそう叫ぶと、人々は家を飛び出し、私の姿を見て震えた。


(獄炎の乙女か……)


 そのような異名がつき、この更級まで都を焼いたことが伝わっているのかと驚きながらも、私はかつての息子の姿を探した。


「あれか……」


 辺りを鵺が纏う鬼火が炎で覆い尽くし、村人たちが逃げ惑う中、家の前に立ち恐怖に顔を歪めながらも、鍬を握り私を睨む壮年の男がいた。


 間違いない。私の息子だった者だ――


「去れ化け物め! この村は貴様が居て良い場所ではない!」


 体を恐怖で縮みこませながらも、男は力強く叫んだ。


「化け物か……お主、私のことがわからないのか?」


「知らぬ! 化け物のことなど知らぬ!」


「そうか……」


 いくら乙女の姿になったからといって、男の母だった頃の面影はきちんと残っている。鵺を引き連れ、衣を赤く染め上げたからといって、判断できなくなるほどではないはずだが――


「鵺どもよ、あの男を殺せ。しかし、簡単には殺すな。私を捨てた罰を、そして恨みを、憎しみを込め――」


 喰らい尽くせ。


 五匹の鵺が男に襲いかかる。四匹の鵺が涎を牙の間から滴らせながら男の四肢を前足で抑え、残る一匹が男を蹂躙する。猿の頭から除く犬歯が、脛毛が生えた足に突き刺さり、虎の足の爪が腹を引き裂き、尾の蛇が腕に噛み付き毒を流し込む。恐るべき重量を誇る鵺から男は抜け出せず、ただ絶叫するだけで鵺に成す術を持たなかった。

 私は静かに男に近づき、見るも無残な、生きていることが不思議なほどボロボロになった男を見下ろした。


「まだ……わからぬのか……私が誰なのか……」


「わか……ら……ぬ……」


「そうか」


 私は裂けた腹に履物を脱いだ左足を突っ込み、贓物を踏み潰しながらかき回した。もはや男は声をあげることもできないのか、壊れた笛のようにひゅーひゅーと息をするだけだ。


「汚らわしい」


 私が呟くと鬼火が男を焼いた。それと同時に、排泄物と内蔵の醜悪な臭いが付着した左足を男の腹の中から引き抜いた。

 こうして私は男への復讐を果たしたのだった。



 全てを終えた私は、銀狐に力を授かったあの山に戻ってきた。

 それから泥のように眠った。



 目を覚ますと、腰がひどく痛んだ。

 瞼をこすると、つい先ほどまでとは異なる自分の手の感触に驚き、慌てて両手を見た。


「元の姿に戻ったか……」


 腰はとうの昔に曲がり、手や足、顔の皺は増え、縄を編むことしか用がなくなった私――そんな元の私の姿がそこにはあった。


「あれは夢だったのか……」


 そんなことを考えるが、着ているものを見て確信した。血で染め上げられたこの粗末な着物は、間違いなくあの凄惨な光景を、私が鵺を用いて作り上げたものだということを。


「銀狐」


「目が覚めたか」


 呼ぶと、私に力を授けたあの銀狐が茂みからひょいと姿を現した。声だけは聞いていたが、姿を見せるのはあの夜以来だ。


「汝、復讐は果たせたか」


「復讐か……それなら果たせた」


「左様か」


「貴様も復讐は果たせたのか、銀狐よ」


「……何?」


「都までの道中で聞いたぞ。先々代の現人神に都を追放されたと。つい百年ほど前までは都で神の使いとして崇められていたのだろう?」


「…………」


「復讐は果たせたのか?」


 私が狐に問うた返事は、しかし返ってくることがなかった。

 私と銀狐の前に、一人の童女が現れたのだ。


「見つけたぞ! 化け狐!」


 童女は抜き身の匕首を銀狐に向けた。


(この娘どこかで……)


 記憶を掘り返す。すると、天命が下ったが如くこの童女が何者であるか思い出した。


(あの男と女の子か……!)


 その娘は私の目元を持ち、あの忌まわしき女の口元を持っていた。間違いない。私の血を受け継ぐものだ。


「覚悟ッ!」


 勇猛果敢に銀狐に襲いかかる童女だが、決着は一瞬だった。

 匕首をひょいと避けると、銀狐は童女の手首に噛みつき匕首を奪い取り、地面へ投げ捨てる。そして、体中を陽炎で揺らめかせると、童女の身を刹那の間に焼いた。童女に断末魔をあげさせることすら許さなかった。


「…………」


 人肉の焼ける不快な臭いが漂う中、銀狐は私を見て言った。


「復讐など果たせぬ。人は誰かを恨み、恨み、また恨み、飽くなき復讐を続ける。その輪廻のなかでめぐり続ける。この身も先々代の追放により堕ち、その輪の中に組み込まれただけだ」


 復讐など終わらぬ。


 それが、私が私の意識の中で聞いた最後の言葉となった。銀狐の陽炎が一瞬にしてこの身を焼いたのだ。全てが終わる直前、最後に見た銀狐の瞳は黒く濁ったもので埋め尽くされていた。


             〈了〉

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