くもの顛末
オダ マキ
第1話
ある日の夕暮れに、お律は見たのだ。そのひとが飛ぶ様を。
夕日とよく似た、淡い茜色の着物。紺地の帯と紅色の帯締め。裸足のつま先。指先が、腕が優雅に空気を掻いて力を与え、小袖の袂がいっしょに空を切る。
それは雁が飛ぶ姿によく似ていた。
ああ、きれいだ。鎮守様の楠の木の枝に隠れるように、お律はじっとそのひとを見ていた。
空を飛べる「ほし」を持つ人はお律を含め少なくはない、と聞く。ただそのちからを人様に披露するひとはかなり少なく。生業になどしている人など、さらにその半分にもならないだろう。
たぶん、この人もそういったひとりなのだ、だってこの刻のこの鎮守の森には、たいてい人っ子一人いない。お律もより葉の濃い、楠の枝のほうにふわふわと移り、その身をじっと隠して盗み見ることに専念する。
年の頃はお律よりもすこしばかり上だ、このあいだお嫁にいった、隣のお豊姉さんくらいの年頃だろう。色白で切れ長のひとみにきっとした眉。小さくてくるりと丸い鼻の先と、紅色にあかるく厚いが小さめの唇。
きれいなひとだ、空にいるときだけじゃなくてたぶん町でみかけてもきれいなひとだと思うだろう。
飛ぶ姿はいっそう美しく。お律はこの綺麗な姿を絵に描きたい、と思った。
覚えておこう、目に焼き付けるように、夕陽に照りはえるその人の姿をじっと見守る。
だから気づけなかったのだ、お律の今いる真下に、草履がちんまり揃えておいてあることに。
楠の真上で、その人は一回旋回した。それがお律にもわかる、ということはもしかしたら、彼女からもお律が見えたかもしれない。え、え、と思う間もなくお律がいるより低いところの枝にぶら下がって勢いを殺し、すとん、と草履の上に着地する。
まるで最初からそうするつもりだったように。
そのひとはこちらを、無表情に見上げた。
「……」
お律は思わず息を詰める。こんな時って笑えばいいんだろうか大声で謝ればいいんだろうか、あのひとが自分の「ほし」を持て余していそうなことだけはわかる。でもその、盗み見してたのはあたしな訳で、あやまらなきゃ、でもなんて謝ったら。
ぐるぐるとそんなことを考えているとその人は、何事もなかったかのように視線をこちらからそらし。
くるりときびすを返すと、鎮守様の参道のほうに降りていってしまった。
「……も」
呼びかけようと開いた口はすう、と閉じてしまった。だってあっという間にそのひとは、振り返りもせずに町へと続く橋までを早足で歩ききってしまったからだ。
そもそもお律は、友達も多くはなかった。
家の奥座敷で大事にされて育った大店のひとり娘だ。隣の刃物屋のお豊さんとその妹とは幼なじみで、年頃も近く家に招いたり招かれたりはあるが、時々習い事に通う以外は家で一日を過ごす自分を、「お嬢さん」として特別扱いする大人ばかりがまわりにいた。
だから見かけたあの人が、まぶしかったのだ。はだしで、軽々と空を切って飛ぶ姿が。
お豊姉さんは祝言の時に笑っていたんだろうか。しあわせだったんだろうか。真白の練り絹の綿帽子をかぶった姉さんの、お隣の家を出るときの表情はもちろん伺い知ることなどできなかった。
いずれ自分もああやって、どこかに嫁いでいくことになる。でも、それがなんというか。
それでいいのかな、という気がするのだ。
地面に降りて、自分もあのひとと同じように橋を渡って町へと帰る。わざわざ人通りのない小路のほうにまわり、塀から腕を伸ばしている楓の大枝を浮かび上がってつかんだ。
着物を汚さないように気を遣いながら塀を越し、足からふわりと内側に降り立つ。ここまでくればもうこっちのものだ、障子を開けて座敷の文机の前に何事もないかのように座した。草履は用足しにでも出たときに、たたきに戻しておけばいい。
その翌日も「おでかけ」日和だった。暑くなる前のぎらぎらしない夕焼けの空が、お律は何より好きだった。
鎮守様の楠は、町の火の見櫓よりもはるかに高い。お律はその木のてっぺんのいつもの枝につかまって、風に流されないように、周囲をぐるりと見渡した。
自分の住んでいる町の家並みが、ものすごく小さく見える。川を渡ってすぐの瓦屋根は恵比寿様のお堂、もっとむこうの小さな家には、特徴的な鳳凰の屋根飾りがついていた。線を引いたみたいにまっすぐな、網の目の小路沿いに大小の家々が連なり、蜜柑色の夕日に影をくっきりと浮かび上がらせている。
家にずっといるだけだと、町がこんなふうにきらきら夕焼けで輝くのを見逃してしまう。それが嫌なのに父母は、特に母はお律の夕方の散歩をよく思わない。
小さな頃はよく川原で、泳ぐように空を浮かぶお律を幸せそうに見上げてくれていたというのに。
「わあ! ちょっとごめん!」
声が上から降ってきたのは、そんなことをぼんやり思い出していたときだ。はっとして目を上げると、お律がつかまっていた枝めがけてぬっと腕が伸びてくる。
「え」
声を上げてよけようとするも間に合わない。お律の手ごとその枝をつかんだ腕の主は、彼女のあわせのあたりに額をぶつけながらも、どうにか止まったようだった。
足が、おなかから下がそっくり、ぶつかった衝撃で洗濯物みたいにはためく。草履を落とさないようにつま先に力を入れ、どうにか枝に掴まった腕で自分の体を引き戻した。
「え、あ、あの、お怪我、は」
お律の手をまだつかんでいるのは。
木にしがみついて、きょとんとこちらを見ているのは。
「あら、あんただったの。こないだもここらにいたねえ!」
にこ、と笑ったあかい唇。まるい鼻。それは。
はだしで空を飛ぶ、あのきれいな女のひとだった。
心配してくれてありがとう、ぶつかってごめんね。
まずそう謝った彼女は、お篠と名乗った。
「こっちこそごめんなさい、あたしがよけられなかったばっかりに」
だってお篠の鼻は、お律にぶつかったおかげで赤くなってしまっている。手ぬぐいを出そうと懐に手を入れたお律の手を、お篠は涙目で制した。
「いいんだよ、だってあんたがあそこにいてくんなきゃ、きっとうまく止まれなかったし。それにまさか空から『とり』が降りてくるなんて、普通は思わないもんだろう?」
その痛いだろう鼻を押さえてくすっと笑った表情は、なんだかいたずら坊主みたいに見えた。そう思いながら失礼にならない程度に表情を伺うと、右の目の下に小さなほくろ、まるで表情そのものみたいによく動く細い眉。
そんな不躾だろうお律の視線を咎めるでもなく、お篠はにこりと笑んだ。
「……ところで、あんたの『ほし』はいったい、どういうやつなんだい? 見たところあたしと同じじゃないみたいだけど」
楠の下の方の、横に張り出した枝に身を隠すようにふたりは並んで座っている。木陰越しでも夕日の橙は濃く、少しずつ藍を増していく空はきれいに見えた。
「ええ、と。……そらに、浮けるんです。『くも』って言うみたいです」
少々躊躇したが、お律は答えた。手足を川に落ちた犬みたいに前後にかけばゆっくり進める。屋根や木の枝を蹴れば、高いところまででもあがることはできた、時間はかかるけれども。
「へええ。そんな『ほし』のひとに会うのはあたしは初めてだ。」
ほう、と感嘆したようにお篠がこちらを見た。その視線がすこし気恥ずかしくて。
「だ、だって空を飛べるひとって、自分の『ほし』を隠している人がおおいです、から」
うつむいて答えるのを、お篠は見守ってくれているようだった。
「そういうもんなんだろうねえ」
実際のところ、何の「ほし」を持っているのかをお律が他人に告げたのは、これが初めてだった。
なんでそうしたのかは言葉ではうまく説明できなかったけれど。
お篠は改めて、お律の手をぎゅっと握った。
「そらを飛べるもの同士、仲良くしようじゃないか、お律っちゃん」
お篠はすこし大げさにだけれど、お律の気持ちを汲み取ってくれた。
お天気の日ならこうして、この刻にこのへんを飛んでいるかもしれない、よかったら、また来てよ。
そうお篠は言い、少し薄暗くなった橋のたもとで別れた。すっかり夕暮れは終わりだ。お日様の名残はまだ遠くの屋根の上でひらめいてはいるが、一人残されたお律の真上は、もうすっかり灰色の雲としらけた水色で蓋がされはじまっている。
今はなん時だろう、お律はすっかり時間を忘れていた、夕餉の時間に家にいないわけにはいかないのだ、遅れてしまったとしたら。
母親の機嫌が悪くなる。それは避けたくて、しぜんお律は小走りに帰路を急ぐ。もう町は提灯でも欲しいような暗さだ。いつもの楓の枝につかまり、塀の内に滑り込む。周囲を見渡してからそっと廊下の障子を見上げた。
ああ、なんて運のないことに、沓脱石のある障子の前に内側からぼうと照らされた、立つ人影があった。
「どこに行っていたの、そらを飛んでいたわけではないでしょうね」腕組みして廊下で待ち構えていたのは、母親だった。そのお小言は小さい頃からいつもこうだ、そらを飛ぶことを咎めることから始まる。
「表のお庭で夏椿の蕾を見ていたの」
前から考えていた言い訳を言う。ため息をついて、母親は開けた障子から一歩引いた。
「お入りなさい、お父様がお待ちよ。お庭ならまだいいけれどお外はこのごろ、強盗や辻斬りで物騒なのだから」
「はい、気をつけます、ごめんなさい」
ぼそぼそと答え、廊下にあがると草履を取り込む。
「履き物を置いていらっしゃい、もう夕餉の支度は整っているそうよ」
「はい」
町中は物騒なのか。お律はぼんやり思う。
あの夕焼け空は、あんなに穏やかできらきらしているのに。
確かに「町は物騒だ」というのは本当のことのようだ。
お律は翌日小僧さんや、女中奉公のお姉さんたちからそんな話を聞いた。
「溝堀りの昭六さんって人が辻切りにやられたんだって」
「一丁先の、提灯屋の東平さんのおうちが夜中に強盗に襲われてね、お気の毒にお嬢さん以外は亡くなったそうですよ、ええお金も、全部持って行かれちまったって」
そんなことが起こっているだなんて知らなかった。でもそれは自分の身からは遠い話で、どうにも実感がわかない。だからふわふわと、それでも夕餉の刻限には遅れないようにだけは気をつけて、鎮守様に行くのはやめられない。
お篠には会える日もあった、会えない日もあった。
楠のいつもの枝に座って、お篠と話すのが好きだった。
していたのは他愛もない話だった。花や空を眺めているのが大好きなこと、あんまり最近は出歩かせてもらえなくてつまらないこと。母親が口うるさいこと。絵を描くのが好きなこと。
「今度描いた絵、持ってきて見せてよ」「え。巧いわけじゃないですから……、だれかに教わっているわけでもないし……。恥ずかしい、です」
恥ずかしい理由はほかにもあった。「とり」ってどれくらい飛べるんですか、と話を逸らすとお篠は誇らしげに笑む。
「そりゃあ『とり』だもの、遠くへも飛んで行けるよ。こないだは夜明け前の誰もいないときに東の山まで行って、そこの端から、ぱあっとあがる朝日を見たんだ」
お篠についてもわかったことがあった。年はお篠よりもみっつ上なこと、両親は商いをしていること。
こんなふうにかんたんに、お律の知らないところまで行けるのに、「つるべ、って、それ何?」どこかぽかっとおもしろいところが抜けていること。
お律自身ももの知らずの自覚はなくはないが。ひょっとしたらお篠さんは、身の回りのことは全部奉公人がやってくれるような、お金持ちのお嬢さんなのかもしれないと思う。
その生活が息苦しくて、ときどきこうやって、家を抜け出して。
お篠さんはあたしよりも、よっぽど自由のない暮らしをほんとうは、しているのかもしれない。そう思うとこの人なつこさが少しせつなくなる。
「お律っちゃんは、もっとのびのび絵を描きたいと思うかい?」
急に、お篠が尋ねた。
「描きたい、」
ぽろりと言葉がこぼれる。
「そう」
お篠はそう言うと、お律の右手をぎゅっと握った。急にそんなふうにひとからされるのは初めてで、なんだか胸のおくのほうが驚きながら喜んでるみたいな、そんな心地がした。
「なにかお律っちゃんのお手伝いができたらなって、あたしはここしばらく思ってるんだ。だってこんなにいい子なのに、自分のやりたいことが思うようにできないなんて、なにか間違ってるような気がするよ」
やりたいことができないのが嫌なのは本当だった。外出するのを疎んじる両親、家事の手伝いと習い事だけ時々して、それ以外はだいたいずっと家の中にいて。何も知らないまま、だれかのところにお嫁に行くことになるだろう近い将来。それがあたりまえで、当たり前以外を多分お律に、誰も望んでいないだろう。
あたしもそらを飛べるのに。誰も飛んでいいと言ってはくれない。
「でもそんなこと」
「できっこないって、思う?」
「……むつかしいと、思います」
「そうか」
会話はそこで途切れた。烏たちがねぐらである、この楠に帰ってきはじめたからだ。
刻限はわからないが、すっかり暗くなってしまった。この間も夕餉ぎりぎりの時間に帰りついたばかりだ、そろそろ言い訳にする庭の花の種類も尽きかけている。
母様が廊下で待っていたら、いったいなんと言おう、そんなことをぼんやり考えながら小走りになっていたら、思わず先を歩いている人にぶつかってしまった。
「ごめんなさい!」
絣の着物を着た男の子だった。お律よりもほんの少しだけ高い背、色白でどんぐりみたいに丸い目、鼻や頬のまわりにはいっぱいのそばかすが散っている。
男の子は振り向くと、ああ、と口の中だけで言う。どやされるのかと身構えたが、お律を認めるとその子はにこ、と笑って言った。
「いやいいんだ、おれ実はあんたに少し用事があったから」
ちょうどよかった。そういう声は少しだけ、家にいる小僧さんに似ていた。
だけど、あたしに用事って何だろう。そしてなんで見も知らないこの男の子が、あたしのことを知っているんだろう。
町は物騒だ、そう言った家のものたちの言葉が頭をよぎってしまっておろおろしてしていると。
突然、彼はお律の手のあたりに顔を近づけて、こう言ったのだ。
「やっぱりだ。あんた、いい匂いがするね」
「……匂い?」
くん、と鼻をきかせてみる。しかしお律にはそれらしい匂いは感じられなかった。
男の子はさらにたたみかけてくる。
「ああお嬢さんには無理だよ、おれはそっちの『ほし』だからわかるってだけさ」
「そっちの?」
「ああ、鼻もきくんだ」
「ほし」は多種多様、そして誰もが生まれてくるときに授かるものだ。鼻がきく「ほし」があったって少しもおかしくはない。
でもだからって、初対面の男の子にいきなりこんなことをされるなんて。どう答えたらいいかわからなくなって、お律はどぎまぎとする。
「ええと、あの」
「ああごめん、悪かった。おれはお嬢さんからこの匂いがするかがわかりたかったんだ」
悪びれたふうもない男の子のその言葉に、お律はなぜだか顔がかあっと熱くなった。
「……!」
ええと、それは。それ、って。
急に彼の目の前にいるのがすごく恥ずかしくなってきて、ぱっと駆け出す。
「不躾でごめんよ、でももうこれでもうちゃんと用事は済んだんだ! またね!」
何が「また」なのか。背中にかかる声に訳も分からず喚き出したくなりながら、お律はいっさんにそこから自宅まで逃げ帰った。
そのあくる日からしばらく雨が降り続いた。天気が良くないと「お散歩」もできないし、行ってもお篠もいないかもしれない。お律は家の手伝いをするほかは座敷にこもって、描きかけの絵を進めていた。
墨だけで描いているものだ。とくに先生に習ったわけではなく、上手いのか下手なのかも自分ではわからないが、好きで描き続けている。
空を舞う、着物をきた人。袖は中振り袖にした。美しく風を切るその指先と腕、それにしなやかに従う袖のはためき。
はだしの足のくるぶし、薄墨で色を付けた帯。小さく下に見えるのは家々の屋根と火の見櫓に鐘つき堂、それに大きな楠。
少し厚い唇。切れ長の瞳の下に、ちいさく泣きぼくろを入れた。
お律の狭い世界の中では、お篠はそんな存在だった。あかるくきれいに空を、伸び伸びと舞っていて。
あまりに熱心に描いていて、気づかなかったのだ、明かり取りの丸障子に人影がさしていることに。
「この雨は夕方には上がるそうだよ」
廊下から聞こえた声に、反射的にお律は描きかけを引き出しに隠す。
聞こえたのは馴染んだ声ではある。でも、どうやって、どうしてここに?
当然のように発したお篠は座敷の障子を開け、箕笠もとらずに座敷へ上がってきた。
「え? その、ええと、お篠さん?」
「そりゃだって、あたしは『とり』だもの」
どこへでも行きたいところへ行くさ。そう言いながら文机の上をのぞき込んで、おや、と怪訝な顔をする。
「絵を描いてたんじゃないのかい?」
「その……」
家のものにも描いたものは見せたことがない。ましてやこの絵は。
そして家を教えたわけでもないのに、当然のようにここにやってきたお篠にはじめて、少しだけこわいものを感じた。
「……さっき、紙の上で水差しを倒してしまって。描いた絵をだめにしちゃったんです」
「そうかい」相づちを上の空で打ったようだった、膝をつくと彼女は、座っているお律のほうににじってくる。
膝の上においたお律の手を、ぎゅっと握りしめてくるお篠の両手は、雨に濡れて少しだけ冷たかった。
「ところで。八つすぎには雨はあがるからさ。そうしたらいつもみたいこっそり、この家を出たほうがいいよ」
「え?」
その、「家を出る」が、いつもみたいな外出を意味していないことだけは伝わってきた。
そんなこと出来るわけがない。そして、どうして。
表情を読んだのか、お篠はひそめた早口で応える。
「言っちゃいけないんだけど、お律っちゃんは早めにこの家から逃げた方がいい。今晩までこのお座敷にいちゃいけないんだ」
「それは、どういう」
「詳しく説明してもられない。とにかく出るんだよ?」
慌ただしく立ち上がると、座敷の障子を開ける。廊下を蹴ってお篠は、まだ降り続いている雨に向かって飛び立った。
はだしだ。そんなことを呆然と思った。
雨はそれから、まだ呆としているお律をよそに弱まっていく。七つ半くらいになればもう、傘などいらないくらいの霧雨になっていた。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。家にわるいことが起こる気しかしなかった。
家の者に言うのはためらわれる。だってそうしたら、お篠に出会った経緯を洗いざらい説明しなければならなくなってしまうし、それに。
仲良しだって信じたかった。悪い人じゃないって思いたかった。でも疑わせるかのように、お篠は教えてもいないのに家に上がり込んできた。まるで後をこっそり付けてでもいたかのように。
たくさん、たくさん考えなくちゃいけない。それも八つまでに。絶対にだ。
間違った答えを出さないために。そうお律は念じて、普段使わない頭を振り絞る。
八つになった。お律はいつもの塀ぎわの楓の木のところから、誰にも見とがめられていないのを確認して路地に降り立つ。雨は上がったとはいえ、低い雲がまだ、町の上には垂れ込めていた。懐に紙を一枚、地面をおもいきり蹴って、手と足で必死に空気を掻いた。
大汗をかいて雲の中に飛び込む。霧の塊みたいな薄い雲の中、全身を湿らせながらも必死に上空を目指す。
もがくように、まるで河原で溺れかかっている猫の子のようにお律はじたばたと雲を掻いた。ゆっくりしか上がってくれない身体がじれったい。
もう一つ上へ、そうすれば。だって地上から見ていたとき、雲の流れていた方角は。
どれくらいもがいたか。不意にぽかりと、重苦しいところを抜け出た感触があった。銀色した雲の裏側。まぶしい太陽が西北に浮かんでいる。
雲はところどころ淡く切れて、その下から町の屋根がぼんやり伺えた。そして、一番奥には。
よく見知った鎮守様の大楠が、雲の上に大きく張り出していた。楠の位置がわかれば行きたいところへの方角はよくわかる。そこまで風を捕まえて滑っていければいい。
小さいけれど、特徴的な鳳凰の屋根飾りのある家屋。そこはお茶屋だ。
「困ったときには鳳凰のあるおうちに行きなさい」。子供の頃からこの辺の子供が教え込まれることだった。
そのあとの展望などなにもない、行ったからといってどうなるかもわからない。おめでたいとは思うが、それがお律の限度だった。
そして、風に転がされるように流されてほんとうに雲の上ででんぐり返しをする羽目になった挙句、どうにかその鳳凰のある屋根にたどりつき。辛くもいったんその下の瓦に掴まって軒先に降り立とうとしたとき。
知った顔の人物が、壮年の男性の袂を引っ張ってその屋根の下から出てきて、本当にどうしたらいいのかわからなくなった。
「おれは『狗』なんだ。前に押し込みにあってひとりだけ生き延びた女の子とお嬢さんから同じ匂いがしててさ、親分に頼んであんたのことを見張らせてもらってたのさ」
そう言って男の子 ――この間突然お律に「いいにおいがするね」と声をかけてきた子だった―― はお律に頭を下げた。
そばかすだらけの男の子の名は弥吉。町の顔役のひとり、勘助親分の手下でそんな「ほし」を持っていると教えられたのは、それから一両日が過ぎてからだった。
お茶屋にかけこんでからはめまぐるしく事態は動いた。
自分が瀬戸物を商う梅乃屋の娘、お律であること、親にだまって出かけていた先で「とり」のほしを持つ女の人と仲良くなったこと。その人が家にやってきて、「家を出たほうがいい」と忠告しすぐ消えたこと。
懐に入れていた紙には、描きかけのお篠の絵が描いてある。その絵の中の彼女をじっくり見、親分はいかめしくしていた顔を、「上手だな」言いながらふと緩め、そっとお律の頭を撫でた。
「お律ちゃん、よくやってくれた。総員、段取り通りに。女将、悪いが二階でこの子を匿ってやってくれ」
かけられた声に頷いた女将さんは、「親分さんがついてりゃ大丈夫さ」言って、目を細めながらお律を階段の下まで案内してくれる。
「あ、あの。 父や、母は。お篠さんは。 家の人たちは」
焦ったように言うと、勘助はこちらへ歩み寄り、お律の肩を叩いて応えた。
「おうちはお嬢さんのおかげで、これで大丈夫だ。お篠さん、と言ったかな、その子がさっき見せてくれた通りの人相と『ほし』だったら、心当たりはなくはない、案ずるな、悪いようにはせんよ」
「あのひとは」
わるいひとなんでしょうか、お律がそう言いかけると親分より先に、男の子がお律のほうへ歩み寄る。
そして、急に軽く耳を引っ張った。
「ちっとばかし、お嬢さんの思ってるのと違う感じの人だってだけさ。親分さんも、長官様も、ちゃんと解ってる」
「……」
耳に触れていた手がわずかに伸び、ぱしっと景気付けのように結った髪を軽くはたかれた。
「気にすんな! おれらが八方丸く収めてやるよ!」
「こら弥吉、あんまし調子に乗るな」
お嬢さんがびっくりしてんだろ。軽くたしなめて、勘助は弥吉の耳を引っ張るようにしてお茶屋から飛び出した。
そして心がひりひりするような、むずがゆいよういな夜が一睡もせぬまま明けた翌朝。
お律は勘助親分がお茶屋に連れてきた、心配顔の両親と対面することになる。
お篠は彼女の言う、両親の子ではなかった。
十年前に神隠しのように消えてしまった、大工の娘だった。お律が持ってきた描きかけの、空を飛ぶお篠の絵のおもざしが、右目の下のほくろが。その子供のころの面影に似通っていることと、「とり」のほしであることが決め手になったのだ。
「あの時期は飛ぶことのできる『ほし』を持った子供が何人も行方知れずになって。私たちも娘が外に出ることをその頃からよしとしなくなりました」
父が勘助親分にこう語るのを、初めて聞いた。
お篠はどういう経緯でか、盗賊の夫婦に引き取られ、そこで成長する。両親の仕事がよくないことだというのがわかったのはここしばらくのことだ。
「自分のおまんまも着物も、人さまから盗んだものでできている、ということをひどく気にしているよ。生みのお父っつあんおっ母さんのとこにも申し訳なくて、帰れないってよ」
育ての親たちは死罪だ。盗賊は一族断絶の咎にあたる。
勘助親分はそこまでを一息に言うと、不意に立ち上がって後ろを向いた。
「……提灯屋の東平んとこがやられたのは知っているな。あそこの家では、娘のおさよは生き残った。その子が言っているそうだよ、空を飛べるお姐さんが匿ってくれた、とね」
ところでだ。親分は勿体ぶるようにうっそりとこちらに振り返った。
「なぜわたしがあの娘について、ここまで子細に話しておるのだと思うかね。梅乃屋さん、それにお律っちゃん」
それを聞いたお律の口から反射的に大声が滑り出た。
「お篠さんを助けてください!!」
町の顔役の、どころか親の前でさえここまでの大声を上げるのは生まれて初めてだった。両親はあっけにとられたような顔をし、立ち上がってしまったお律の袖を引く。それを無意識に振り払っていた。
「だってあのひとは、あたしを、あたしのお家を助けてくれたんです! その提灯屋の女の子だって助けてくれたのでしょう? だったら、だったら」
よい子に、従順にと育てられ、それを少しばかり恨みながらも、その親の思いに従うように生きてきた。
だけど今ここで大声を上げなかったら。お篠さんも、何か自分の一部もこなごなになってしまう、そんな気がしたのだ。
昂ぶりすぎて目から涙が落ちる。下を向いてしまっていて前にすと立った人影が、誰か最初は気づけなかった。
「勘助の兄貴、あたしからもお願いします。……だって娘とあたいたちが受けた恩を、その子に仇で返すわけにはいかねえってもんだろう?」
娘を背負うように立っているのは、母親のお政だった。父親がきょとんとした顔で止まってしまっているのは、母が普段とは全く違うたたずまいで、親分に話しかけたからに違いない。
その一家の様子を見て、勘助親分は吹き出した。
「お政。……お前さんは子供んときとやっぱり中身はちっとも変わんねえな。ああ任せろ、それをするのがおれの『ほし』さ」
母親の帯のあたりを叩いて、親分は上機嫌でお茶屋から出ていく。「みんなで立ってないで、お茶でもどうかね」そう女将から声をかけられ、一家はまじないが解けたかのように思い思いの相好に崩れ落ちたのだった。
それからしばらくして。この鳳凰の屋根飾りのあるお茶屋に、ひとり女給が増えた。色白で、右目の下に泣きぼくろのある、気だてのよい娘だとの評判がきこえてくる。
「それで。弥吉さんはどうしてそんなに冴えない顔してるのさ」
その女給さんが団子を出してからかっているのは、弥吉だった。入り浸られるのは別にお代を払ってくれればかまいやしないが、どうにも浮かない顔をされつづけるのははっきり言って、店の空気もよくなくなる。
「だってさあ。あのお嬢さん、外に自由に出られるようになったらもっとおれと仲良くなってくれると思ったのにさ。お篠ねえさんも独り占めしないでくれよ」
「奥様の化けの皮がはがれた」 ――実際のところ、梅乃屋の使用人のあいだでは、すでにお茶屋での親分とお政のやりとりは笑い話になっていた―― 一件から、お律は外に出ることを咎められることはなくなっていた。勿論夕餉に今後一度でも遅れるようなことがあれば、即刻その許可は取り消されてしまいそうではあるが。
そこのところはお律もうまくやっているようだ。
弥吉は悔し紛れか、団子をひとつ大口を開けて丸呑みにした。ところが案配がよくなくて喉にひっかけたらしく、湯呑みを握りしめてぷるぷる震えている。
「あら、あたしが独り占めしてるわけじゃないさ」
ひとしきりその目を白黒させる表情を指さして笑った後、ようやくお茶で団子を流し込んだ弥吉の背中を叩いて言った。「あの子も、ちょっとこれから忙しくなるみたいでね」
「忙しい? まさかお嫁に行っちまうのかい?」
弥吉のほうが青くなったり赤くなったりで忙しいようだ。そんな様子を少しは気にしてやりながら、お篠は懐から紙を取り出した。
「違うってば」
卓の上にざっと広げられたそれは、墨で描かれた見たことのない景色だった。
「これが下書き」
眼下、しらじらとした雲の下にいくつもの屋根が連なる。
整然と並んだ町並み、その町中でいきいきと歩き回る人。軒先の花、井戸まわりで話し込む洗濯中のおっ母さんたち。屋根の上でひなたぼっこをする猫、小窓から顔を出して通りかかった人に餌をねだる馬。瓦版くらいの大きさの紙に、そらから眺めたあかるい町のようすが躍っていた。
「すげえ。これお律ちゃんが描いたのかい?」
「そうだよ。『ひとたらし』のお友達と組んで、刷って売りに出すんだって」
彫り師も刷り師も、その友達が連れてきた腕のいい人で、一目見てお律の絵が気に入ったらしく、とんとん拍子で話は進んだようだった。そのときの様子をこの間、久しぶりに会えたお律はうれしそうに話してくれた。
お篠さんのおかげです。あの子は言ってくれたけれどあたしはそんな立派な人間じゃないし。
せめて、あたしがお返しできるものだけでもお律っちゃんに、世間様にお返しできるように、ちゃんと生きていこう。勘助親分にさとされたお篠は、そう思って今日も働いているというのに。
あの立派な親分さんの手下はこんな女々しいことを言ってるのかい。
「だ、だって商売しようってんだろ? その『ひとたらし』ってのはそういうののやり手で酸いも甘いも咬み分けてて」
「それはどうか知んないけど。いいひとだったなあ、色なんか白くてもち肌で、かわいい娘だったよ」
「むすめ」
また喉に団子をひっかけたみたいな顔をして弥吉が固まっているのを、お篠はあきれて見守る羽目になる。
「ああ。こないだ会わせて貰ったんだけど、お栄ちゃんっていって、あの子のお隣に住んでる幼馴染みなんだって」
「おさな、なじみ?」
駆け出しの絵師とそれを支えようという新米商売人。「ひとたらし」の「ほし」に恵まれていれば仕事はふつうの人よりもやりやすいだろう。
それでも、お篠はいつかのように、「ほし」の加護を願わずにはいられなかった。
「くも」の加護でお律が盗賊から家を守り切れたときのように、自分が「とり」の加護であの生活をやめられるよう祈った時のように。
「どうかどうか、『ほし』のご加護がありますように」
それは生みの両親にまつわる、数少ない記憶だった。ふたりは口癖のように物心ついたばかりのお篠の前で、そう唱えていたのをうっすら覚えている。
無意識に口をついて出たらしく、ようやく落ちついたらしい弥吉が、目を上げてからかい返してきた。
「なんだいそのお題目みたいの」
「いいんだよ」
ひゅっと弥吉の耳を引っ張り上げる。「いてぇ! なんで親分さんと同じとこ持つんだよ!」不快を上げる弥吉の目の前には、さっきお篠が広げた絵があって。
その絵の一角。十手を持った親分に耳を引っ張られて不服そうに歩いている、そばかすだらけの男の子がいることには、弥吉はまだ気づいてないみたいだった。
[了]
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