第6話
葬儀屋金ちゃんのとんでも間違い
中央区銀座3丁目、ガス灯通りの真ん中に小さなバー白カラス亭がある。山口氏と弟の明氏とニューハーフの登美ちゃんの、三角関係は、もつれることもなく無事解決しそうだった。僕の提案を素直に受け止めてくれた弟の明氏とニューハーフの登美ちゃんが、プロの俳優顔負けのお芝居をしてくれた。それによって、某有名和食割烹の板長で和食の鉄人の山口氏は渋々ではあるが、身を引く決意を固めたようである。
僕は時計を見た。午前4時半を回っていた。師走の遅い夜明けまで、3時間ほどある。あと何人のお客様が白カラス亭にくるだろうか。僕はお客様のいない店内でカウンターを拭きながら、『あの日』以来誰も座らせない一番奥の席に視線を向けた。その時、「白カラス亭」自慢の輸入木製扉が静かにゆっくりと開いた。冷たい風の中から懐(なつ)かしい顔が現れた。
「いらっしゃいませ。・・・あれ、どうしたのこんな時間に、珍しい!・・・金ちゃんじゃないの。」
古くからの知り合いが夜明け前の時間に入ってきたので、僕は一瞬驚いた。
「お久し振りです、白カラス亭さん。こんな時間でも銀座まで出れば、白カラス亭はまだやっていると思いましてね。ちょっと遠かったんですが、タクシー飛ばして来てしまいました。」
「いやぁ~、それは嬉(うれ)しいですね。こんな時間に遠くからタクシーで来て下さったなんて、感激です。」
僕は、小柄な金ちゃんの白髪頭に目をやった。
「いえいえ、それにちょっと、ご相談したいことがありまして。銀座でバーのマスターをなさっていらっしゃる白カラス亭さんなら、良い答えが見つかるかと思いましてね・・・・。」
金ちゃんは、今から20年程前に、僕が以前勤めていたホテルのバーで知り合った古い友人で、その当時から今もずっと北区の東十条で葬儀屋を営んでいる。
「今日はこんな時間にどうなさったんですか?」
金ちゃんが午前零時を回ってから来たのは初めてだったので、僕は当然の質問をした。
「いやね、今夜ってか、昨夜ってか、上野で通夜だったんだよ。ところが、とんだ騒ぎが起きてね、引き上げるのが、こんな夜明けになったんですよ。」
金ちゃんは短い白髪の頭をしきりに片手で撫でながら、高そうな鼈甲(べっこう)のフレームの眼鏡を外し、温かいお絞(しぼ)りで顔を拭いた。
「ふぅ~!」
金ちゃんが深いためいきをついた。
「ところで何を飲まれますか、あ、それとお腹空いてませんか?・・・豚肉嫌いじゃなかったですよね。ローストポークとリンゴを使ったノルマンディースタイルは如何ですか。それにニンニクたっぷりのスパゲッティのぺペロンチーノでも・・・。」
「あ、すまないねぇ。本当は腹ペコだったんだ。何だか良く判んないけど、その豚肉のノルマ何とかと、スパのぺぺも両方戴くよ。良く判んないから、お任せしますわ。それとビール下さい。キリンの中瓶で。」
「はい、直ぐに作りますので、先にビールでも飲んでお待ち下さい。あ、そうそう、お摘(つ)まみにイベリコ豚の最高級生ハム、ベリョータを召し上がって下さい。ホテルの友人から分けて貰いましてね。」
「白カラス亭さん、威張った豚!のベンジョだって?俺の苦手な横文字で言われてもチンプンカンプンだから、何でもいいよ。白カラス亭さんが、美味いって思うものを出してくれるかい?」
「はい、承知致しました。でも、本当に嬉しいですね、金ちゃんがこうして、夜明けに尋ねてくださるなんて・・・・。」
生ハムをむしゃむしゃと頬張る金ちゃんは、何か浮かない顔をしていた。夜明け前に、再びトラブル発生かと僕は緊張した。
午前4時半を回って、懐かしい顔が現れた。20年来の友人である葬儀屋の遠山金四郎、通常『金ちゃん』の愛称で呼ばれている50代後半の職人気質の男である。遠山金四郎といっても例のドラマで有名な桜吹雪の遠山の金さんとは、縁も所縁(ゆかり)もない家系である。
金ちゃんは余程、お腹が空いていたのか、僕の出した、『ポークノルマンディー』とスパゲッティを無言で平らげた。既にビールも3本空けていた。
「ねぇねぇ、金ちゃん。急がないんだったら、もっとゆっくり食べて、ゆっくり飲んだ方がいいんじゃないかい?」
僕は何時もと様子が違う金ちゃんにそれとなく注意をした。
「うんにゃ、いいんだよ、くどくど指図するんじゃないよ。いいから、ビールっ!」
金ちゃんは短い白髪頭をボリボリと掻(か)きむしった。鼈甲(べっこう)のフレームの眼鏡が鼻からずり落ちそうになった。金ちゃんは、とても優しく、誰にでも気を遣(つか)う性格で、愛すべき一途な職人気質の中年男だったが、たった一つの欠点があった。それはビールを3本以上飲むと、悪酔いスイッチが入って、かなり酒癖(さけぐせ)が悪くなるところであった。
「はい、はい。ではご自由にどうぞ。でもぅ・・・何かあったんでしょう、こんな時間に僕の店にわざわざタクシー飛ばして来るのですから。相談事ってさっき言ったけど、何?」
「何って、何よ。相談だぁ・・・?ん、忘れちまったかな。・・・ふぁっ、ふぁっ、ふぁっ、冗談だよ。高いタクシー代払ったんだからな。忘れる訳はないだろうが。聞きたいのか、こら、白カラス!」
金ちゃんは4本目のビールに手を付けた。どうも既に、悪酔いスイッチは入ってしまったようだ。と、いきなり今度はカウンターに顔を伏せて「お~い、お~い、お~い!」と、声を上げて泣き出した。
「金ちゃん、金ちゃん、ほら、ビールがこぼれる。あ、あ、あ、服の袖がお皿に付いて、あ~あ、袖がソースでベタベタになって。・・・金ちゃん、一体何があったんだぃ。相談したい事があったから来たんだろう、それとも、僕に聞いて欲しいだけかい?」」
僕は金ちゃんの汚れた袖口をお絞(しぼ)りで拭いてあげながら、余り刺激しないように金ちゃんにそっと聞いた。
「俺ね、俺ね、・・・白カラスの旦那!俺ね、もう、もう、葬儀屋の商売辞める、辞めるよ、引退するっ!」
「おいおい、どうしたってんだい、金ちゃん。ねぇ、ゆっくり説明してくれないか。」
僕はカウンター越しに金ちゃんの波打つ背中を撫でながら、誰も座らない一番奥の席に何故か視線を投げた。
午前4時半を回って、たった一人で現れた遠山金四郎こと葬儀屋の金ちゃんの欠点は酒癖が相当悪いことだった。四本目のビールで悪酔いスイッチが入ってしまった金ちゃんは、言葉遣いが荒くなったと思ったら、今度はカウンターの上に両腕を投げ出して泣いてしまった。
「おいおい、金ちゃん、そこで泣くのは結構だけど、泣いている理由を教えてくれないか。この僕でよかったら、相談に乗るよ。」
泣き伏していた上体を「ガバッ!」と、起こした金ちゃんは、鼈甲(べっこう)縁の眼鏡を外し、袖口で涙を拭き取った。
「ふん、カラスの分際(ぶんざい)で、お前に言っても解るもんか。だ、だいたいね、お前なんかは何時も人を酔わせて、金ふんだくってんだろう!」
「金ちゃん、『酔わせて金をふんだくって!』とは幾らなんでも。お酒を売るのは僕の商売なんだから。」
「ふぅ~んだ、ちょ、調子の良いこと言って。カラスのお前にね、俺の苦労なんて解りゃしないんだ。」
べらんめえ口調で僕に八つ当たりして、ガス抜きした後で一段落するのが何時もの金ちゃんの悪酔いパターンだった。
「はいはい、金ちゃんの苦労は僕には解りませんよ。解らないから、どうしたのか教えて下さいって、僕は金ちゃんにお願いしているの。」
「な~んだ、だったら最初から素直に謝りゃいいんだ。素直にな・・・。」
何で、僕が金ちゃんに謝らなければならないのか、何時も不思議に思うが、相手は悪酔いスイッチの入った酔っ払いなんで、言う通りにした。
「ご免ね、金ちゃん。何も解らなくて。だから、教えてくれないかなぁ~。」
「お、素直だねぇ~。そうだよ、そうこなくちゃ、教えられないね・・・。ところで、何でこんな葬式みたいな音楽が流れているの?俺が葬儀屋だからって、こんな辛気臭(しんきくさ)い音楽かけるんじゃないよ。・・・・『ハァ~、ドンチャカ、ドンチャカ、スッチャカ、スッチャカ!』ってな派手な音楽にしなさいよっ、なんだ馬鹿野郎!」
僕は、静かに聞いていたクラシックのピアノ曲をロックミュージックに変更した。このお店にロックは似合わないので、何時も流さないが、今は他にお客様がいないので、金ちゃんの指図通りにした。
ロック好きには申し訳ないが、旋律の流れが分からない、派手なドラムの音とベースの響きが耳に障(さわ)ったが、そのままにした。
「あは~、いいねぇ。この音楽は・・・・。ん、これ何、うるさい音楽だねぇ。ま、いいか。あ、あのね、俺ね、今夜ってか、昨日ってか、もう午前様だから昨日だな。昨日の通夜で、お客とね、すっごい喧嘩してしまったの、っていうか怒られちゃったの!」
「ええっ、お客と喧嘩って、葬儀屋さんのお客って、喪主の事じゃないかぃ?」
「そうだよ、喪主だよ。喪主の客だよ、それがどうしたってんだ!」
「おいおい、金ちゃん。それを聞いているのは僕の方だ。」
金ちゃんは、ビールをまた一口「グビリッ!」と飲み干した。それから、「お~い、お~い、お~い!」と山びこ風に泣き出した。
「仏様ってか、神様ってか、キリスト様ってか、に申し訳ない事をしてしまったんだ。俺は本当に罰当たりだ・・・・。ふえぇぇぇん!」
葬儀屋が罰当たりなことをしてしまった?一体金ちゃんは何をしてしまったんだろう。
午前4時半を回って、たったひとりのお客様である、遠山金四郎こと葬儀屋の金ちゃんが、カウンターで泣いたり、わめいたり、と一人で何通りものパフォーマンスをこなしていた。
「金ちゃん、金ちゃん、寝てないで、何が起きたのか教えてよ。」
僕は泣き喚(わめ)いて、寝てしまった金ちゃんの背中をそっと叩いた。
「う~ん、何だよ。折角、良い気持ちで・・・・。むにゃ、むにゃ、むにゃ・・・・。」
「悪いね、折角、良い気持ちで寝ているところを起こしてしまって、でも気になるんだよ、一体何があったの?」
「悪いだとぉ~、だったら、起こすな!」
「はいはい、ではそのまま寝てて下さい。」
「何だとぉ~、カラスの分際で俺の話が聞けないっ、とでも言うのかっ!」
20年来の付き合いだが、金ちゃんの酒癖の悪さには、ほとほと困ったもんだ。
「はいはい、聞きますよ、聞きますよ。何があったんですか?」
「実はなぁ~、実は・・・・三日前ね、何時も仕事貰っている病院でお二人の老人が、ほとんど同時にお亡くなりになったんだ。でね、ご両家からご葬儀のご依頼をこれまた同時に受けたのよ。ご両家とも昨夜中にお通夜をすることになったの。」
「うんうん、それで、どうしたの。お仕事貰えて、良かったじゃない。」
金ちゃんはグラスの中に残ったビールを一気に飲み干した。
「う、温いねぇ、温いよ、このビール。おい、白カラス亭は何時から燗したビールを客に出すようになったんだっ!」
「おいおい金ちゃん、人聞き悪いこと言わないでよ。それは金ちゃんの飲み残しで、ずっと置いてあったビールだよ。」
僕は仕方なく冷たいビールをもう一本冷蔵庫から取り出した。
「金ちゃん、これ以上は飲んじゃ駄目だよ。もうだいぶ酔っ払っているから。」
「何だとぉ、何時から酔っ払ってるだとぉ~!おい、酔っ払いを捕まえて、酔っ払い呼ばわりするな、お前は『ぼったくりバー』のカラスオヤジだな。」
「まあまあ、それで、その続きはどうなったんだよ。」
「うん?・・・通夜の用意を同時に二箇所で・・・・。」
金ちゃんがまた、俯いて鼈甲(べっこう)縁の眼鏡を外した。またまた大粒の涙が豆のような瞳から溢れてきた。金ちゃんが袖口で目頭を拭った。袖口はもう涙や料理のソースやらでベトベトになっていた。それにしてもロック音楽がどうもこの愁嘆場(しゅうたんば)に相応しくなかった。
「あのねぇ、白カラス亭さん。俺ね、すっかり間違えてしまったの。・・・・一軒がキリスト教式で一軒が仏式だったの。ご両家とも、手続きやなんだで、てんやわんやさ。全て俺等にお任せで、お通夜の用意が整った時に、片方の喪主が気付いたんだ、ご遺体が違うし、お式のセットも違うって。」
「ええっ!どうして、そんな間違えが起きたの?」
僕は唖然として、泣き崩れる金ちゃんの背中を擦った。
たった一人のお客様、葬儀屋の金ちゃんが、カウンターで泣いたり、喚(わめ)いたり、眠ったりとまあ、せわしなく大変な状況になりつつあった。
「あのさ、ご両家ともに葬祭場で通夜も告別式も行うことになってたんだよ。そもそも、それを良く注意しなかった、俺の、俺の、俺のあへ、あへ、・・・・・むにや、むにゃ、むにゃ・・・・。」
金ちゃんはビール四本でスイッチが入って、酒癖が悪くなり、五本で眠りだす愛すべき中年男である。鼈甲(べっこう)縁の眼鏡が低い鼻からずり落ちそうになった。
「金ちゃん、金ちゃん、眼鏡が落ちるよ。・・・で、それで、それで、どうしたの!」
僕は、金ちゃんを揺り動かした。眼鏡がカウンターにことりっ、と音を立てて落っこちた。ロックのドラムとシンバルか何かが、「ドッカン!」と鳴り響いた。
「う、う、う~ん、何だってぇ!何がどうしたんだぁ・・・・・。」
「おいおい、それは僕が聞いているんだよ。」
「そうかぁ、じゃあ教えてやるよ。・・・その、そのご両家の葬祭場が、『御霊の杜会館』と『御霊の杜賓館』だった。」
「ああ、どちらも、あの有名な葬祭場の大手チェーンだね。それにしても、『会と賓』の違いだけとは、これは間違えそうだなぁ!」
「そう、その葬祭場大手チェーンが悪いんだよ、でもやっぱり俺が悪い・・・・。」
金ちゃんは再び、ビールに手を延ばした。僕はグラスを既に片付けてあったので、酔っている金ちゃんは、眼鏡を外した酔眼でキョロキョロとグラスを探していたが、諦めたらしい。
「片方が台東区の『御霊の杜会館』でキリスト教式で、もう一方が墨田区の『御霊の杜賓館』で仏式だったんだよ。俺がね、俺が、どういう訳か、メモをうちの会社のスタッフに間違えて渡してしまったんだよ・・・・。というか、俺が書き間違えた。」
「そうか、そういう訳で間違えたんだ。確かに同じ病院で同じ日、同じ時刻にお亡くなりになって、また同じ日、同じ時刻に、同じような大手チェーンの葬祭場で通夜かぁ!それに台東区と墨田区は隣の区だしねぇ。これは金ちゃんじゃなくても、間違えるよね。」
僕は金ちゃんに同情した。本当に紛らわしい。これじゃぁ、参列者だって間違えそうだ。
「俺もね、俺も、間違えちゃいけないと思って、メモ用紙の色まで変えていたんだ、でも、どういうことか、書き込む内容を全く反対にしてしまった・・・。」
しかし、通夜は滞りなく執り行われたらしい。どのようにして、挽回したんだろうか、僕は不思議に思った。
遠山金四郎こと葬儀屋の金ちゃんが、とんだメモの書き間違いをしてしまった。葬祭場を間違えて、更に仏式とキリスト教式の設営を間違えてしまった上に、ご遺体まで間違えてしまったという。
「ちょ、ちょっと、待ってよ。金ちゃん。つまりは全てが入れ違ったんだろう?」
僕は頭をよぎった疑問を金ちゃんにぶっつけた。有線放送のロックが一段と激しく鳴り響いた。
「さっきから、そういってるだろうが!何聴いてるんだ、カラスに耳は無いのかっ!・・・う、う、うぃっ、・・・おい、カラスの脳味噌は小さくて理解できないのか!」
泣いたり、怒鳴ったり、全くもって忙しい中年男である。鼈甲(べっこう)縁の眼鏡はカウンターに落っこちたままである。
「じゃぁ、金ちゃん、解決方法は割りと簡単だったでしょう。」
僕は自分で考えた解決方法が多分正解であろうと思った。
「そ、そ、そうだよ、そうだよ。う~ん、う、うぃっ。・・・ご遺体だけが入れ違っていたんなら、そりゃぁ、もう大変だったさ。ご遺体を取り違えついでに、設営から葬祭場まで、何から何まで、すっかり取り違えてしまったよ、うはっ、はっ、はっ・・・・。」
金ちゃんは、酔っ払いながらカウンター越しに僕の手を握った。
「キリスト様もお釈迦様も、この遠山金四郎にお情けを下さったんだ。」
また金ちゃんが、泣き出した。
「そうか、やっぱり。それぞれの家とご遺体にとって、ご葬儀の方式は間違ってなかったんだ。つまりは、ご葬儀会場を、お互いに取り替えれば解決したんだ。葬儀のご導師も交換すればよかった。それに会場はお互いに近いから、参列者にだって、そうご迷惑をお掛けしなくても、送迎バスを手配すれば何とかなる。そうだろう、金ちゃん!」
「う、うぃっ~、カラスの軽い脳味噌の割りには、いいとこ衝くねぇ、え、するどいじゃないの。・・・・ご親族やご参列の方々の会場を交換するだけで済んだ・・・・。ご葬儀の規模もほぼ同じ、それに関係大手チェーンの葬祭場なんで、お清めも同じ金額だったんだ。」
金ちゃんは目頭をこすりながら僕に答えた。現実に引き戻されて、金ちゃんの酔いも少し醒めて来たようだ。
「そうか、大手チェーンの葬祭場だから、シャトルバスの用意はあるよね。会場変更を知らないで来られた参列者を、ちょっとした手違いということで、お互いにピストン輸送したんだね。」
僕は金ちゃんが答える前に金ちゃんに問いただした。
「そ、そ、そうだよ、その通り。うちの社の社員全員と葬祭場の係りが、総出で対応したんだ。幸運だったのは、台東区と墨田区でそんなに離れてなかったんで、30分の遅れで開式できたんだ。でもね、ご両家の喪主からは散々に怒られた・・・・。何年葬儀屋やってんだっ、て。へい、30年程やってます。って答えたら、もっと怒られた。」
金ちゃんがガクッと頭を下にうなだれた。
「そんなの、全然平気さ、結果オーライだよ、金ちゃん。何とかなってよかったじゃない。もし、ご遺体だけが入れ違っていて、気付くのが遅かったら、それこそ大変な騒ぎになってたよ。感謝、感謝。」
僕は金ちゃんを慰めるように、金ちゃんの手を握り返した。
「でもね、カラスの親分、うぃ、う~・・・カラス亭だったなと。とんだ赤字になっちまったんだ。年末になって社員にボーナス出せなくなったよ。ふぇぇぇん~!」
金ちゃんは、またまた、泣き出してしまった。泣き上戸に怒り上戸で、困ったもんだ。
「ま、他にお客様はいないから、好きなだけ此処で泣いていいよ。」
「うにゃ、へっ?他に客は居ないだとぉ~。嘘を付けってんだ、そっちの端っこに女がいるわいなぁ、っと。」
金ちゃんの指差した方向は、カウンターの一番隅の誰も座らない席だった。
「ええっ、ど、ど、どこに・・・・誰も居ないよ!」
僕は驚いて、舌を噛みそうになった。
午前4時半を回って、入って来た、遠山金四郎こと葬儀屋の金ちゃんが通夜の失敗話を始めて1時間が経過した。ビール4本で悪酔いスイッチが入ってしまう金ちゃんは、もう既に5本のビールを飲んでいた。酔った勢いで、喚いたり、泣いたり、眠ったりと、酒癖のまるでよろしくない金ちゃんに、散々に振り回されたが、何とか話の顛末を一通り聞くことができた。ご両家の喪主から怒られようが、罵られようが、赤字を出そうが、兎に角、通夜をなんとか仕切ることができたんだから、金ちゃんにとっては結果オーラーイだった筈だ。そりゃぁ、予期せぬ出費は痛かっただろうが、この程度で事が済んだのは幸いだった。大手チェーンの葬祭場や懇意にしている病院から出入り禁止を言われなかっただけ、助かったようだ。
ところが、話が一段落したところで、金ちゃんがとんでもない事を言った。
「客は誰も居ないだとぉ!俺はねぇ、酔っ払ってなんかいないよ、ほら一番隅の席に、女が一人で座っているじゃないか。」
僕が、金ちゃん以外に誰も客はいないと言った事に、金ちゃんは反発しながら一番奥の、僕が何時もは誰も座らせない席を指さした。
「金ちゃん、金ちゃんは、酔っ払ってんだよ。店の中には誰もいないよ。タクシー呼んであげるから、もう帰りなよ。」
「う、う、うぃっ、・・・なんだとぉ。・・・おい、白カラス亭は何時から、何時からね、酔っぱらった客を追い出すようになったんだぁ!うぃっ、う~、気持ち悪くなって来た。家に帰るから電話して呉れ。」
金ちゃんは再び、カウンターに顔を伏せて、鼾(いびき)を掻き出した。今まで喋っていたのに、もう荒い鼻息で眠っていた。
「金ちゃん、金ちゃん、いくらなんでも午前5時過ぎに電話をしたら、お宅のママちゃんに、僕が怒られるよ。」
「いいの、いいの、今夜は全員徹夜してるから。ママちゃん!、ふん、嫁の分際で・・・ママちゃんに、怒られるだとぉ!何時も、何時もね、嫁に気兼ねなんかしてられるかっ、てんだ。むにゃ、むにゃ、むにゃ・・・・・。」
金ちゃんは器用に寝ながら、片手をひらひらさせて、否定の意思表示をした。
「おい、白カラス亭、・・・そこの隅の女は、あんたの、あんたの、女房じゃないの?・・・むにゃ、むにゃ、むにゃ・・・・。」
金ちゃんはカウンターで寝ながら呟いていた。涎(よだれ)が袖口をベトベトに濡らしていた。袖口はもはや襤褸(ぼろ)雑巾並みにずぶずぶに汚れていた。
「えっ、今、な、何て言ったの金ちゃん!ぼ、ぼ、僕の女房だって!・・・あいつは5年前に死んだよ。金ちゃんが葬儀をして呉れたじゃないの。金ちゃん、金ちゃん、金ちゃんは、まさか・・・・・死んだ僕の女房が見えるのかい?」
そういえば、さっきから、有線で流れていた激しいロックミュージックが、何時の間にか静かなクラッシクのピアノ曲に代わっていた。僕は、有線のダイヤルに触った記憶がないのに、不思議だった。その時、白カラス亭の電話がピロピロピロと鳴り出した。
カアカアと鳴る着信音を探してみたが、今のところ見つかっていない。
ところで、酔っ払ってカウンターの上で眠ってしまった、葬儀屋の金ちゃんこと遠山金四郎がとんでもないことを寝る前に言った。誰も居ない筈の店内の隅の席に女性が座っていると言うのだ。
「おい、白カラス亭、・・・そこの隅の女は、あんたの、あんたの、女房じゃないの?・・・むにゃ、むにゃ、むにゃ・・・・。」
そういえば、何時の間にか有線放送のロックがクラッシクに代わっていた。確かに5年前に死んだ、僕の女房の『ようこ』はクラシックピアノ曲が大好きだった。僕は視線をそっと一番隅っこの席に投げた。誰もいない・・・・・。そんな時、白カラス亭の電話がピロピロピロと可愛い音を立てて鳴った。僕はどきっ、として電話をとった。
「あ、あのう~、銀座のバー、白カラス亭さんですか?」
若い女性の声だった。
「ええ、銀座のバー白カラス亭ですが・・・・・。」
「ああ、よかった。うちのですね、うちのじっちゃん・・・・・。あ、いえいえ、うちの父がお邪魔してませんでしょうか?」
電話は遠山金四郎こと葬儀屋の金ちゃんの息子の嫁であるママちゃんからだった。
「ああ、お久し振りです。ママちゃんですね。ええ、ええ、金ちゃんは此処で鼻水と涎を垂らしながら眠っています。ちょっと今夜は飲みたかったようですね。」
「ああ、よかった。いえね、銀座のバーに行くって、一人でタクシーに乗り込んでしまったので、心配だったのです。でも多分白カラス亭さんだろうって、うちのパパちゃん、あ、うちの主人と話をしていたんです。・・・今夜は色々あったもんで、じっちゃん・・・・・も、あ、父も酔いたかったんだと思います。」
ママちゃんの、感じのいい、ちょと慌てた声が電話口から聞えた。
「今、お店には他にお客様もいませんから、もう少し寝かせてあげて下さい。これは僕からのお願いです。眼が覚めましたら、タクシーを呼んで乗せて差し上げますから。」
「え、お邪魔じゃないですかぁ?・・・父も白カラス亭さんに会いたかったんだと思います。古い友人にでも、今夜のことを話したかたんだと思います。本当にすみませんが、よろしくお願いします。眼が覚めましたらタクシーで帰して下さい。宜しくお願いします。」
ママちゃんが何度も何度も電話口で頭を下げている光景が目に浮かんだ。こんな、気持ちの良い嫁さんが居て、金ちゃんも幸せ者だと僕は思った。僕には家で待っている女房も、子供も、孫も、誰もいない。だから僕は家に帰らずこの白カラス亭の中で寝泊まりしている。家には週に1度帰れば良いほうだ。家で心配する息子や嫁や孫がいる金ちゃんが本当に羨ましかった。
その時金ちゃんがカウンターの上で顔を上げた。
「ごめんね、アナタ。寂しい想いをさせてるわね・・・・、本当にごめんね、・・・ごめんね!」
あれれれ、ど、ど、どういう事だ、金ちゃんの顔が・・・・・!
金ちゃんの顔が、5年前に亡くなった『ようこ!』の顔だった。その『ようこ』の顔が僕に謝った。え、え、え、『ようこ』の顔をした金ちゃんが僕に謝っている。
「あ、あ、あ・・・『よ、よ、よ、ようこ・・・・』。」
僕は言葉が出なかった。脚と手が震え、どっと涙が僕の頬を伝わって落ちた。
午前5時を回って、カウンターの上に両腕を投げ出し、涎を垂らしながら眠りこけていた葬儀屋の金ちゃんこと、遠山金四郎の顔が5年前に亡くなった、『ようこ』の顔になった。そして、『ようこ』の顔をして金ちゃんが申し訳なさそうに僕に謝るのだった。
「ごめんね、アナタ。寂しい想いをさせてるわね・・・・、ごめんね、ごめんね・・・!」
僕は声にならなかった。僕の頬を伝って再びどっと涙が溢れ落ちた。有線放送がショパンの幻想即興曲の流麗な響きを流し始めた。
「あ、あ、あ、あ~『よ、よ、よ、ようこ・・・・!』」
金ちゃんの中年オヤジの顔が、死んだ女房の『ようこ』になって、カウンターの上で横を向いて喋っていた。奇妙と言えば奇妙だし、気持ち悪い取り合わせとも言えたし、恐ろしいと言えば恐ろしかった。しかし、紛れも無く5年前に死んだ最愛の妻の顔に違いなかった。
「何時も、何時も、私の為にあの隅の席を空けておいて下さって有難う。・・・私と貴方が5年前に二人で始めた、この白カラス亭を貴方は守って・・・・むにゃ、むにゃ、おい、白カラス亭!・・・う、うぃっ、ビールをもっと出せ!き、き、気持ちわりいぃ~・・・。吐きそうだなぁっと!」
金ちゃんと『ようこ』がかわるがわる出て来て、目まぐるしい。
「な、なんだ、なんだ・・・?」
僕は開いた口が塞がらないで、驚いていた。
おやおや、顔が『ようこ』のままで、今度は金ちゃんの実体が途中からしゃしゃり出てきた。
「貴方はご存知なかったかも知れませんが、私は霊界に行きましたが、何時も、毎晩、この隅の席で、愛する貴方の姿を見て・・・・お、おい、し、し、白カラス亭、タクシーを呼べ!う、う、うぃっ、お~気持ち悪ぅ・・・。」
最初は、『ようこ』が喋っているが、途中から金ちゃんが喋っている。どうも霊界と現実界で混線しているらしい。霊界からの通信が上手く行かないようだ。あららら、今度は金ちゃんが元の顔に戻ってしまった。あ~あ、涎で袖口がびしょびしょになっている、あ、あ、袖口をしゃぶっている。手探りでカウンターの上の眼鏡をつかみ、低い鼻に掛けなおした。
「ねぇ、貴方、貴方を何時も見つめていたのよ。でも、もう、もう、今夜で終わりなの・・・・。」
鼈甲(べっこう)縁の鼻眼鏡の金ちゃんの顔をした『ようこ』が喋(しゃべ)っている。どうも気持ちが悪い。どう見ても小汚いヨレヨレの中年オヤジのオネエに口説かれているようだ。
「貴方、貴方、ごめんなさい・・・・。何時までもこの現実界にいることは、できないのよ・・・・。」
金ちゃんの顔でそう言われても、何とも微妙に気持ち悪い。金ちゃんの顔のままだと、どうもしっくり応えられない。
「『よ、ようこ』お願いだから、この人、金ちゃんの顔を『ようこ』の顔にしてくれないか。これじゃ、中年オヤジの金ちゃんを抱きしめてしまいそうだよ。」
「ごめんなさい、貴方。この寝ている方のお体を借りて、貴方にお伝えしようと思っていましたが、この方が簡単にお体をお貸し下さらないの。酔っているのでしょうが、心の中で強く拒否していらっしゃるわ。」
金ちゃんがオネエ言葉でしゃべると、オカマの葬儀屋になってしまう。こんな問答が何時まで続くんだ。僕は折角、死んだ女房の『ようこ』と喋れたのに、何の手も打てずに困惑していた。金ちゃんが霊媒体質だったなんて初めて知ったが、本人は全くそのことに気づいていないようだ。
師走の夜は長い。午前5時半を回って、たった一人のお客の葬儀屋の金ちゃんこと、遠山金四郎が、カウンターで酔いつぶれて眠ってしまった。ところが、5年前に死んだ、僕の女房の『ようこ』の霊が金ちゃんに憑依(ひょうい)してしまったようだ。
ところが、様子がどうもおかしい。銀座界隈は因縁の強い場所なんで、霊界からの通信霊波が混線模様になってしまった。西に向かって山の手線を横切れば、東京一の霊界スポット『将門の首塚』が在るし、東北には『小伝馬町の牢』跡も在った。銀座自体がパワースポットなのだ。それと、葬儀屋の金ちゃんも仕事柄、霊に対する抵抗力が強く、憑依(ひょうい)されながら無意識に抵抗しているらしい。金ちゃんの格好で『ようこ』が喋るもんだから、まるでオカマの葬儀屋がオネェ言葉を使っているようなもんだ。顔のクシャクシャの皺まで最近流行のオネエタレントにそっくりだった。
「何時も貴方を隅のお席から見ていました。貴方、ごめんなさい・・・本当の独りぽっちにさせてしまったわ。・・・・明け方にお店のシャッターを閉めて、週に一度家に帰る途中、コンビニでお弁当を買う貴方の背中に、私は何度も涙を流しました。寂しかったでしょうね。・・・でも、でも、でも、もう私は此の現実界にはいられないのです。あちらの霊界に行かなくてはなりません。私には霊界で新しい仕事が待っているのです。貴方を見ていられるのも、今夜限りなのです。」
カウンターで酔いつぶれて眠っている金ちゃんの、鼈甲(べっこう)縁の眼鏡がカウンターの上に再度ずり落ちていた。眠って閉じている金ちゃんの両眼の瞼(まぶた)から透き通った涙が、じわ~っと溢れ出した。ショパンのピアノ協奏曲が一段と激しく聞えた。
「き、き、金ちゃん、じゃなかった、『ようこ』、じゃぁ、も、も、もう二度と会えないのかい?」
僕はカウンターの上に延びた、金ちゃんの両腕をそっと掴んだ。
「何だとぉ!・・・俺に・・・俺に・・・もう二度と会いたくないってか、お前はそんなにつれない友人だったのか!う、うぃ!・・・ムニャ、ムニャ、ムニャ・・・・。」
今度は金ちゃん本人が喋ったが、内容が混線して二人が被っている。
「『ようこ、ようこ』お願いだから、もう少しだけ僕と話をしていてくれないか!そ、それと、金ちゃんに、ちょっとの間だけ邪魔しないで貰えないかな?」
「なにぃ、『ようこ』だと?『港のヨウコ、横浜ぁ~』っとな、は、は、は、は・・・・お前の女房か?・・・うちの嫁はママちゃんだ。」
また、金ちゃんが被ってきた。僕は大いに迷った。もし、金ちゃんを叩き起こして、現実に戻してしまったら、それこそ、憑依(ひょうい)している『ようこ』はあちらの霊界に戻って、二度と僕は『ようこ』と話ができなくなってしまうかも知れない。
その時、白カラス亭の電話がまた、チロチロチロと切なく鳴った。今度は絶対にカァ~、カァ~、カァ~と鳴る着信音に変えようと、脈絡のない思考が僕の脳をよぎった。
カウンターの上で酔い潰れた金ちゃんこと遠山金四郎に5年前に亡くなった、僕の女房『ようこ』が憑依(ひょうい)した。しかし、霊界と現実界の混線状態のままで憑依(ひょうい)していて、金ちゃんなのか、『ようこ』なのか、非常に判別し難い状況だった。
そんな時、白カラス亭のお店の電話が、またまたチロチロチロと切なそうになった。僕は有線放送のボリュームを小さく絞って、受話器を取った。
「はい、銀座のバー白カラス亭でございます。」
僕は何時もの営業用の声で応えた。
「貴方ね、ああ・・何時もの貴方の明るい声が聞えたわ。そうそう、有線放送のボリュームを下げないで下さいな。」
「ええっ、『よ、よ、ようこ』なのか・・・・?」
「ええ、そうですわ。実はそこで眠っていらっしゃる、貴方のお友達に憑依(ひょうい)したのですけど、私を快く受け入れて下さらないので、困っておりましたら、丁度貴方へお電話が入ったので、私が電話線に入り込ませて戴きましたの。」
「え、じゃぁ、この電話は誰かが僕に掛けて来た訳?」
僕は驚いて、受話器を耳から離して、じっと送話口を見つめた。
「ええ、そこの貴方のお友達の家族の方がお電話してきましたわ。若い女性の声だったわ。」
「げっ、そうか。嫁のママちゃんが金ちゃんのこと心配で電話してきたんだ。」
僕は声に出さずに、心の中で思った。
「あら、電話はこの眠っている金ちゃんって方の、息子さんのお嫁さんだったのね。多分、お話中だと思っているわ。」
「『よ、ようこ』、君は僕の心の中まで読めるのかい?」
「勿論よ。だって私は霊ですもの。時間も空間も私には無縁なのよ。意思の無い物体に作用したり、人間や動物に憑依(ひょうい)したり、人間の意思を読み取ること、それくらいはできますわ。でも、でも、高級霊の方から怒られました。『何時までも、未練がましく現実界に留まっていて、貴方につきまとうなっ!』て高級霊のご命令ですの。」
「『ようこ」、君が望むなら、何時までもこのお店の隅の席に居てくれても、いいんだよ。僕は、君がそこから僕を見ていてくれると思うと、ちっとも寂しくなんかないよ。」
有線放送のクラシックピアノが一段と大きく聞えた。カウンターの上で酔い潰れている金ちゃんが煩(うるさ)そうに、顔の向きを変えた。片方の頬にカウンターで付いた赤い痕が残っていた。金ちゃんがもぞもぞと動き出した。
「おいおい、金ちゃん。未だ起きるなよ!」
僕は再度心の中で祈った。
「ご免なさい、貴方。高級霊に無理を言って、もう5年も霊界のお仕事をしておりませんのよ、現実界で貴方を見守っておりましたが、今日が最後なんです。貴方には貴方に相応しい守護霊が御付きになられます。高級霊との約束は今日の日の出迄の時刻なんです。日の出とともに私は霊界に帰ります。『ようこ』として二度とこの地上界には戻れません。貴方との縁しも、もう終わりにしなければなりません。私は霊界のお仕事に励み、さらに一段上の階層に行かなくてはなりません。ご免なさいね、貴方・・・。」
「『ようこ』、お願いだ。もう一度だけ君の頬や、君の眉や、君の唇に、この手で触れてみたい。もう一度だけ君の肩を抱いてみたい。もう一度だけ君の顔を見せてくれ!」
「ご免なさい、貴方。そのような無理を言わないで下さい。私は霊体であり、物体として存在しておりませんのよ。貴方も死んで肉体という重い衣を脱ぎ捨てた時、私の言った意味がお分かりになると思いますわ。」
「ああ~、なんてこった。『ようこ』に会えたのに、触れることもできないなんて!」
僕は切ない想いを声にだして嘆いた。二筋の涙が僕の頬を伝って首筋に達し、シャツの襟を濡らした。溢れる涙で僕の視界が歪んだ。
優しかったよ『ようこ』、何時も僕の幸せや健康だけを考えてくれていた『ようこ』、子供には恵まれなかったがとっても仲のよかった僕等夫婦だったのに、5年前突然に襲った悲しい別れ。それ以来僕は、誰にも『ようこ』のことは言わず、『ようこ』のことに触れず、『ようこ』と二人で開店したこの白カラス亭を守って来た。
「『ようこ、ようこ』、何とか言ってくれ、『ようこっ!』」
「・・・・・・・・・・・」
ツーツーツーと受話器からは無常な発信音が聞えるだけだった。
時計は午前5時45分を指していた。冬至の日の出は、東京では午前7時半頃の筈だ。『ようこ』が霊界に帰ってしまうまで、あと1時間半しかない。僕は焦った。
電話回線で話をしていた『ようこ』の声が突如として消えた。ま、相手は霊の存在だから、消えても別に不思議ではないのだが、僕は『ようこ』の顔をもう一度だけ、どうしても拝みたいと思った。
ツーツーツーと電話回線の切れた無情な発信音だけが流れる受話器を僕は手に持ったまま、じっと見つめていた。カウンターで酔いつぶれている、葬儀屋の金ちゃんこと、遠山金四郎が何時目を覚ますか、僕は、ハラハラ、ドキドキしていた。もし、金ちゃんが今、起きたら、事の成り行きが理解できずに、てんやわんやの騒ぎになることが、必至だった。
しかし、緊張興奮した僕は受話器を手にしたままで、人間の自然な生理的欲求である尿意を急に催した。中年になって、前立腺肥大が始まり、尿意を意識したが最後、我慢はそうそう長く続かないことを僕は経験で知っている。つまり、漏れるかチビルのだが、トイレが目に前に在る自分のお店でお漏らしをする訳にはいかない。
「なんで、こんな時に・・・まったくぅ、も、も、漏れそうっ!」
僕は、自分で自分の間の悪さに腹が立ち、未練たらたらに受話器を電話機に戻してトイレに入った。トイレの中でも有線放送が聴けるようになっているので、僕は、クラシックのピアノ演奏を聴きながら、幸せな放尿を続けた「ほっ!」と息をついた。最初目を閉じて、放尿の幸せをじっくりと味わっていた僕は、なにげなく、横の大きな鏡を見て、引っくり返るほど驚いた。驚いたついでに、トイレの中に小便を撒き散らし、自分のズボンや足までビショビショに濡らしてしまった。
「ひ、ひ、ひ、ひ、ひぇぇぇっ!・・・・・『よ、よ、よ、ようこ!』ど、ど、ど、どうしてそんな中に居るんだっ、き、き、き、君は何時からそんなに下品な、覗き趣味になったんだ!」
僕は小便でびしょびしょの指で鏡を触った。鏡に僕の指紋がプリントのように付いた。正確には小便による指紋プリントが付いた。
「あららら、汚いわねぇ。ちゃんと洗って下さいな。ご免なさい、脅かすつもりは・・・だってこのお店の中で、鏡は此処しかないのですもの。貴方が私の顔が見たいって、何度も何度も、念じたではありませんか。」
「そりゃ、そうだけど。いきなり出たら、誰、誰だって驚くではないか。それも、小便をしている最中だ。あ~、嬉しいやら、悲しいやら、恥ずかしいったら、あ~あ、小便撒き散らしてしまった。掃除が大変だ。」
鏡の中の『ようこ』が、優しそうな目で僕を見詰めていた。元妻とは謂え、女性に放尿シーンを見られては、流石に僕も恥ずかしい。その時だった。トイレのドアがドンドン、ドンドン、と激しくノックされた。お店の中に金ちゃん以外にお客様がいないので、僕はトイレの鍵を掛けずに入っていた。
「お~い、白カラス亭。便所にいるんだろう?・・・うぃっ、う~。気持ち悪い。吐きそうだ。あ、ああ~吐いちゃう。入るぞっ!」
一番恐れていた状況になった。金ちゃんが起きてきた。それも吐きそうだとトイレに遠慮なく入ってきた。ど、ど、どうしよう。床も壁も僕のズボンもびしょびしょだ。鏡の中には『ようこ』も居る。あ~絶体絶命だと僕は思った。
午前5時45分を回って、日の出までもう2時間弱しか僕と『ようこ』には残されていなかった。5年前に亡くなった『ようこ』が霊界に戻ってしまう最後のお別れに、酔っ払った葬儀屋の金ちゃんこと遠山金四郎に憑依(ひょうい)したが、どうも金ちゃんの潜在意識下で『ようこ』は強く拒否されたらしく、今度はトイレの鏡の中に出現した。放尿中だった僕は大いに驚いて、トイレ中にオシッコを振りまいてしまった挙句に、手も足もオシッコでびしょびしょになってしまた。ところが間の悪いことに、金ちゃんが吐き気を催して、鍵の掛かっていない床も壁もオシッコだらけのトイレに飛び込んで来てしまった。この狭いトイレで、まったく大変などたばた騒動が始まってしまった。
「な、な、なんだっ、急に・・・・ト、トイレに飛び込んで来るなよ、金ちゃん!」
トイレに飛び込んだ金ちゃんは僕をトイレの奥に突き飛ばした。
「う、う、うっ~・・・吐く、吐く、吐く・・・・ど、ど、どいてぇ~・・・・!」
ゲロゲロゲロっと、金ちゃんはトイレに飛び込むなり便器に顔を突っ込んで吐いてしまった。狭いトイレの奥に押し込まれてしまった僕は、自分のオ○○○ンを慌てて仕舞い込み、ズボンのジッパーで思いっきり挟んでしまった。オシッコで濡れた指が災いし、手元が狂った。
「ぎぇぇぇ~、ぎゃぁあぁ~あ、痛、た、た、た、た・・・・っ!」
「ゲ~、ゲロゲロゲロゲロ・・・う、うぅぅぅぅ~っ!」
トイレの中は二人の中年男の呻き声やら喚き声やらで悲惨な状態になった。ジッパーで自分のオ○○○ンを挟み込んだ僕の絶叫と便器に顔を突っ込んで、ゲロを吐く金ちゃんの苦しげな不協和音が小っちゃくて狭いトイレ中に響き渡った。僕は余りの痛さに涙を流し、気が遠くなりそうだった。金ちゃんはゲロで喉を詰まらせたらしく、今度はヒ~ヒ~ヒ~と苦しそうな呼吸をしていた。ただ一人というか、ただ『ようこ』だけが鏡の中で恨めしそうな顔で僕等二人をじっと眺めていた。霊魂は笑わないらしい、と僕が思った瞬間『ようこ』の姿が鏡から忽然(こつぜん)と消えた。
僕は焦った。『ようこ』がこのまま、霊界に戻ってしまったら、この夜明けを最後にもう一生、現実世界で『ようこ』の顔を見ることができなくなってしまう。ズボンのジッパーにオ○○○ンを挟めたまま、痛さで頭が痺れ、動きの取れない自分の姿が情けなかった。足も手もオシッコまみれで、おまけに金ちゃんまでが、僕のオシッコの上でダウンしている。あ~もう、どうしたらいいんだか判らなくなってしまった。何時もの気取ったシルバーグレイのチョイ悪中年オヤジ風、白カラス亭マスターも散々だった。
もう余り時間が残されていないというのに、葬儀屋の金ちゃん、こと遠山金四郎と僕は小さく狭いトイレの中で、身動きできない状態になった。将に雪隠詰(せっちんつ)めそのものである。
金ちゃんは便器に顔を突っ込んで、ゲロゲロゲロゲロ、ヒーヒーヒーと唸ったり、白目をむいたりと大変な状況だった。僕は僕で、自分のオ○○○ンをジッパーで挟んで、出血大サービスで、痛いやら情けないやら動けないやら、トイレの隅で何とか脚だけは自由が利いた。しかし、ズボンも手も足も、びしょびしょに、オシッコで濡れていて気持ちも悪い、何とかしなくてはと焦った。
「『ようこ、ようこ』、どこに消えてしまったんだ・・・・。もう直ぐ夜明けだってのに。」
僕は体を捻ってトイレの鏡を覗き込んだが、『ようこ』は鏡の中には居なかった。その時、今迄便器を抱いて唸っていた金ちゃんが、ヒョコッ!と顔を上げた。鼈甲(べっこう)縁の眼鏡はカウンターの上に置いて来たらしく、眼鏡は掛けていなかった。それにしても、吐いた物が便器の中の水で跳ね返って、ベチョ、ベチョでキタネェ顔だった。それに金ちゃんの下半身も僕が床に振りまいたオシッコで、黒く濡れていた。
「あ~ん、あれぇ~ど、どうしたんだ。おい、白カラス何でそんな隅っこで、体折り曲げて・・・・。」
「き、金ちゃん、気が付いたのか!」
「俺か?う~ん、吐いたら気分が良くなった。でも、何で俺は、お前と一緒にトイレにいるんだ・・・・。」
金ちゃんは状況をやっぱり飲み込めていないらしい。自分の顔も手も膝もびしょびしょなのに、未だ気付いていないようだ。金ちゃんは無意識で自分の顔を手で拭った。
「あ、うわわ、顔も手も、グチョ、グチョに濡れている。ありゃぁ、ズボンだってビショビショだっ!」
「そ、そ、それはだ、僕がトイレに入っていたら、金ちゃんが、後から飛び込んで、僕を隅っこに突き飛ばしたんだよ。・・・な、金ちゃん、それより、顔と手を洗面台で洗ったほうがいい。それと僕を此処から出してくれないかい!」
「あれれれ、おい、白カラス、なんで・・・あんた自分のオ○○○ンを出しっぱなしにして・・・・あれれれれ、もしかしてジッパーに挟んで、あ、あ、あ、それに、ジッパーが肉に食い込んで、血が出ている。うわ、うわ~痛そう、手当てしなきゃ駄目だ。しかし、カラスのオ○○○ンは随分とお粗末だな。では俺が手当てしてやるからな、大丈夫だ心配すんなって!で、薬あったっけ・・・・なにぃ、薬は無いのかぁ。そうかぁ、うん、焼酎があったな。あれでいい。・・・ところでトイレの中、水撒きでもしたのか?」
金ちゃんは少し正気を取り戻したようだ。洗面台で手と顔を先に洗った金ちゃんがトイレから出た。引きつる痛みを堪えながら僕は、やっとの思いで脚を動かし、そろそろとエビのように身体を曲げてトイレから出た。何とも恥ずかしい格好だった。わがオ○○○ンを挟み込んだジッパーは上まで上がり切ってなく、相変わらず結構出血していた。こんな僕の惨めな姿を『ようこ』はどこからか見つめているのだろうか?僕は時間の経過が気になった。もう午前6時近いことは確かだった。トイレの中で聞えていた筈の有線放送が、いつの間にか止まっていた。それって、『ようこ』が何かの合図を送っているのだろうか?僕は焦った。
『ようこ』が鏡の中から、何処かに消えてしまった。金ちゃんに頼んで、有線放送のダイヤルを何度か回して貰ったが、どのチャンネルも、うんともすんとも応えては呉れなかった。未だ『ようこ』はこの白カラス亭の中に居るに違いない!僕は信じたかった。
エビのように身体をくの字に曲げた僕は、葬儀屋の金ちゃんこと、遠山金四郎の危なかしい応急手当を受ける羽目になった。
「おい、白カラス亭、どこに焼酎あるんだ・・・こんだけ沢山の酒が並んでいたら、どれが何だかわかんねぇよ!」
葬儀屋の金ちゃんは始めて入ったカウンターの中で、130種類からの洋酒の瓶に驚いていた。カウンターの外から、客として見ていると判らないのだろうが、カウンターの中で、多量に並ぶ100種類からの酒瓶を見て圧倒されたらしい。
「あ、いててて・・・金ちゃん、も、も、もう何でもいいから、持って来て呉れないか。一応どれも酒なんで、アルコールは入っているから大丈夫。」
「そうかい、う~ん何だか、どれもこれも美味そうな酒だなぁ・・・・。」
「た、た、頼むよ。後でたっぷり吐くまで飲ませてあげるから、何とかしてくれないか。」
「うんにゃ、吐くのは、もう結構だね。・・・うんこれが美味そうだな。これに決めよう。」
金ちゃんが瓶棚から何かを1本持ち出し、カウンターの外でうずくまる僕に近づいた。おもむろに金ちゃんが、僕のオ○○○ンの先っぽをそっと摘んで、酒を口に含んだ。
「お、お、お、おおおお~。う、う、美味い。何ともこの、ふくよかな香り。う~ん、もう一杯。・・・・それにしても、お粗末なオ○○○ンだね。俺の半分の大きさしかないな。なんとも、まぁ、こりゃ、縮まって可愛いもんだ。しかし、まぁしっかりとチャックが皮を噛んでるね。」
「お、お、お粗末は余計だっ。金ちゃん、金ちゃん、頼むよ。お願いだから飲んでないで、手当てしてくれよ。」
僕は金ちゃんに哀願した。金ちゃんが、じろっと僕を見つめた。
「うん、判ったから。判ったから、ちょっと待て!もう一口。お粗末なオ○○○ンに掛けるにはもったいない程美味い!」
「えっ、えっ、えっ、未だ待つのかい?」
「黙って、怪我人は黙ってなさい。え~と、眼鏡を捜しているんだよ。俺の、眼鏡、眼鏡、眼鏡ちゃ~ん、どこに行ったのぉ、っと。うい、グビッ、グビッ・・・・。」
「眼鏡はカウンターの上にあるよ。あ、あ、あ、また飲んでいる。手当てが先だろう!」
鼈甲(べっこう)縁の眼鏡を低い鼻に掛けた金ちゃんが再度おもむろに、僕のオ○○○ンを摘み上げ、口に含んだ酒を、霧状に僕のオ○○○ンにシュワーッ!と降り掛けた。同時に金ちゃんはチャックを一気に引き下げた。
「ぎ、ぎゃぁぁぁぁぁ、ぎぃぇぇぇぇぇ、ぶゎゎゎゎ、痛ででででで・・・・☆●◇*#£%#§¢!!」
僕は自分でも訳の判らない言葉を発した。
頭の天辺から足先に激痛と電気が流れた。再び出血したが、金ちゃんがタオルで抑えグルグル巻にした。もう一度、口に含んだ酒をタオルの上から拭きかけた。
「は、は、は、は、・・・白いタオルの恵方巻きオ○○○ンの完成っ!」
金ちゃんはどうも未だ酔いが完全には冷めていないようだ。
芳醇で、強い香りが辺り一面に漂った。今度は余り痛みを感じなかった。僕は何気なく、金ちゃんが手に持っている酒瓶を見て驚いた。
「き、き、き、金ちゃん。そ、そ、そ、その酒・・・・あ~、参ったなぁ!」
「ああ、応急手当完了。どうだい、慣れたもんだろう。・・・え?・・・何、この酒?この酒がどうした?」
「き、金ちゃん。そ、そ、その酒は1本、仕入れ値で、さ、さ、30万円のラ・フォンテーヌ100年って、超高級コニャックだよぉぉぉぉぉ。あ~、こんなに減っちゃって!」
「超高級コンニャクだ?? こりゃぁ酒だぜ。おい、白カラス亭、痛みで頭が変になったんじゃないか。」
「ち、ち、ち、違うっ、コニャック、超高級ブランデーの事だ。」
「何っ、ブランデー。ほほう、ほほう、ブランデーとはこんなにも美味であったか。」
「何を、気取ってるんだい。あ、いてててて。金ちゃん悪いけど、トイレの横のドアを開けて、僕の小さな事務所兼仮眠室がある。そこに着替えのズボンと下着があるんで取って来てくれないか?ああ、そうそう、そのドア。悪いねぇ。」
僕は、ジッパーの悲劇から解放され、救急車を呼ぶ恥ずかしさから、どうにか免れることができた。もし病院に担ぎ込まれでもしたら、それこそ看護婦さんの間で、ジッパーにオ○○○ンを挟んで、タオルで恵方巻きにした、オ○○○ン血だらけの中年馬鹿オヤジにされてしまうところだった。
ところで、夜明け迄もう時間は30分も無くなっていた。『ようこ』はどこに行ったのだろうか。せめて『ようこ』に一目だけでも会いたかった。
幾ら師走の日の出は遅いと言っても、午前7時30分には太陽は昇ってくる。もう30分もなかった。『ようこ』は何処に消えてしまったのだろう。葬儀屋の金ちゃんこと遠山金四郎の手粗い素人治療で、高級ブランデーを患部に吹き付けられた僕は、オシッコで汚れたズボンと下着を着替え、カウンターの中に戻った。ジッパーに挟み込んだ僕のオ○○○ンはパンツの中で熱と痛みでジンジンと脈打っていた。相変わらず有線放送は黙り込んだままだった。
カウンターに戻った金ちゃんは、ご褒美に超高級ブランデー『ラ・フォンテーヌ100年』にありついていた。
「う、う、う、・・・・うめぇ!。この高級コンニャクは堪らない香りだねぇ、白カラス亭さんよっ。また、何時でも怪我しなよ、俺がこの高級コンニャクを吹きかけてあげるからな。」
金ちゃんが、にやにやと相好(そうごう)を崩した。が、しきりに鼈甲(べっこう)縁の眼鏡を着けたり、外したり、矯(た)めつ眇(すが)めつ眼鏡を検査し出した。
「コンニャクじゃないよ、コニャックだよ。・・・・おや、どうしたの、金ちゃん。眼鏡に何か付いてるのかい?」
「いやぁ~それがね、テレビも点いてないのに、誰か女の顔が、眼鏡に映ってんだよ。眼鏡に何かが反射してんのかねぇ・・・?」
金ちゃんがそう言いながら、再び眼鏡を自分の顔に掛けた。と思ったら気絶するかのようにカウンターにうっぷし寝てしまった。
「あ、あ、あ~、『よ、よ、ようこっ!』」
僕は金ちゃんの眼鏡の中に映った『ようこ』を見た。金ちゃんの眼鏡の両方のレンズに悲しげな顔の『ようこ』が居た。
「貴方、・・・もう行かなくてはならないのですが、実はこの方の眼鏡に入り込んで出られなくなってしまいました。このまま出られなかったら、高級霊との約束を破った罪で未来永劫、私の魂は霊界に行けずに霊界と現実界の間(はざま)を彷徨(さまよ)うことになってしまいます。貴方、お願い、助けて・・・助けて・・・助けて。」
眼鏡を掛けた金ちゃんの口を借りて、『ようこ』が辛(つら)そうに哀願した。どうやら、金ちゃんの意識を封じ込めることはできたようだが、それにしても、今度は『ようこ』自身が脱出できない状態になったらしい。
「ど、ど、どうしたら・・・いいんだ。僕にも、僕にも、どうしたらいいか判んないよ。金ちゃんを起こそうか?あ、いやいや、起こしたら却って大変だ、でも、どうしたら、どうしたら・・・!」
僕は全身に冷や汗を掻いていた。『ようこ』の魂が霊界に戻れず、現実界との間(あいだ)を彷徨(さまよ)うことにだけは、なって欲しくなかった。この霊界と現実界の間(はざま)には、霊界に行けない悪霊共がうようよしていると聞いたことがある。『ようこ』がそんな悪霊に襲われでもしたらどうしよう。オ○○○ンが熱くドキドキと脈打っていた。不思議と痛みは消えていた。
葬儀屋の金ちゃんこと遠山金四郎の鼈甲(べっこう)縁眼鏡の中に閉じ込められてしまった、『ようこ』の魂は夜明け迄に抜け出ることができるのだろうか。もし、抜け出ることができなかったら、高級霊との約束を破った罪で、未来永劫、『ようこ』の魂は霊界と現実界の間(はざま)で彷徨(さまよ)うことになってしまう。今、金ちゃんの意識は『ようこ』によって隅に追いやられているので、金ちゃんが、この場にしゃしゃり出て来ないのは、おおいに助かった。もし、金ちゃんの意識が起きてしまったら、しっちゃかめっちゃか、にされるところだ。
僕は時計を見た。午前7時5分を指していた。あと25分でどうやって『ようこ』を助けることができるのだろう。僕は焦った。焦って、うっかり、金ちゃんが高級コニャックを飲んでいたグラスを倒して割ってしまった。おまけに、グラスを慌てて掴(つか)んで、指まで切ってしまった。踏んだり蹴ったりだった。オ○○○ンはジッパーに挟んで血だらけになるし、今度は指まで詰めるところだった。バーのマスターにあるまじき失態に、自分が腹立たしかった。が、しかしその時、僕は閃(ひらめ)いた。
「指まで、詰める!・・・指を詰める、指を詰める、ああ、あ、あ、そ、そ、それだっ!」
僕は震える指で、指の治療もそこそこに、貰った名刺を束ねたファィルをめくった。
「あ、あ、あ、あった。これだ。これだ。松木幸四郎だ。え~と、え~と、下谷だったな。寺の住職の息子で坊さんの修行中の松木幸四郎。あの男だったら、お経を唱(とな)えることはできる筈だ。」
僕は、急いで電話のボタンをプッシュした。無情な呼び出し音が、数回鳴った。僕は心の中で祈った。
「電話に出てくれ、出てくれ、出てくれ!」
「は~い、もしもし、どちら様ですか?」
「あ、あ、あ、あ、ま、まま、松木幸四郎さん?」
「え、ええ・・・どちら様で?」
「夕べお会いした、銀座のバーの白、白、白カラス亭です。」
「ああ、白カラス亭さん。どうしたんですか、こんな朝早くから。」
事故で指を二本失った、坊主見習い中である松木幸四郎の間延びした声が受話器の向こうから聞えて来た。
「す、す、すみませんが、今直ぐに銀座の白カラス亭に飛んできて下さい。急、急、急用なんです。タクシー代はお支払いしますんで。夜が明けちゃうんで・・・!」
「ど、ど、どうしたんですか、そんなに慌てて。僕は坊主ですから、朝の勤行で、もう起きてましたんで。でも飛んで来いと言われても、カラスじゃないので、飛べないですよ、は、は、は、は、は・・・・。」
「そ、そ、そんな悠長な冗談を言ってる場合じゃないんです。と、兎に角、お経本と蝋燭と線香を用意して。あ、数珠も忘れないで下さい。兎に角、夜が明ける前に、急いで来てっ!あと20分くらいしか無いんですっ!」
僕は受話器に向かって怒鳴っていた。カウンターの上で眠りこける金ちゃんの鼈甲(べっこう)縁の眼鏡の中に閉じ込められた『ようこ』の顔が悲しそうに見えた。
カウンターで眠りこける、葬儀屋の金ちゃんこと、遠山金四郎の鼈甲(べっこう)縁の眼鏡の中に閉じ込められてしまった、『ようこ』が悲しそうな顔で僕を見つめていた。両方のレンズに『ようこ』がいるので、『ようこ』が二乗(にじょう)で悲しそうな顔をしている。僕は白カラス亭の壁掛け時計を見た。午前7時を15分回っていた。夜明けまでもう、何分も無い。僕は腕時計も見た。当たり前だが壁掛け時計と同じ時刻を指していた。正直僕は、焦りに焦っていた。二つのレンズの中の『ようこ』が二人泣いているように見えた。ジッパーに挟んだオ○○○ンの痛みや割れたグラスで切った指の痛みどころではなかった。僕は両手で髪の毛を掻(か)き毟(むし)った。
その時、白カラス亭自慢の大きな木製扉が勢い良く開いて、190cmの超巨体の坊主頭が入ってきた。黒い革ジャンに白のスエットに雪駄かと思いきや、なんと僧侶の正装である、袈裟(けさ)まで掛けていた。眉毛を縦断する顔の傷や薬指や小指が無い手を見たら、どうしても、その筋(すじ)の方としか思えないのだが、今朝は殊勝な顔をしていた。下谷のお寺の住職の息子で、見習い坊主なんだが、とても立派な僧侶に見えたから不思議だった。
「お待たせしました~。で、お経をあげて欲しい方とは・・・・。あ、この寝てる方で?大丈夫です、お任せ下さい。今朝の私は真剣でございます。」
見習い坊主の松木幸四郎がとぼけた声を出した。僕はカウンター越しに客席の方を見た。やっぱり、乳母車の中にあのトイプードルを乗せていた。犬は大人しく中で寝ているようだ。
「あ、あ、あ、待ってたよ。待ってたよ。兎に角急ぐんだ、始めて。ね、始めて下さい。頼むっ!」
僕は怒鳴るように、両手を合掌して松木幸四郎に言った。
「あ、違う、違う、違う。その寝ている男じゃないんだって。その男の眼鏡、眼鏡。眼鏡を外して。」
松木幸四郎が寝ている金ちゃんを起こそうとしたので、僕は慌てて止めた。
「え、眼鏡が・・・。眼鏡がどうしたんで?眼鏡を外せって、外してどうするんで?」
下谷のお寺の息子、松木幸四郎は事情が飲み込めずに、金ちゃんの顔から鼈甲(べっこう)縁の眼鏡を外した。外した眼鏡のレンズを、手にして暫く不思議そうに眺めていたが、急に顔色が変わった。
「ぎ、ぎ、ぎ、ぎぇぇぇっぇ!な、な、な、なんと、なんと、なんと、めがめ、めがめ、いや、眼鏡の中で、じょ、じょ、女性が・・・こっちを見つめているぅぅぅぅぅ~。」
松木幸四郎が鼈甲(べっこう)縁の眼鏡をカウンターの上に放り出し、トイプードルが眠っている乳母車に抱きついた。巨体の割りに意外と臆病で小心な男だ。
「あ、あ、あ、待てぇ、レ、レ、レ、レンズが割れたらど、ど、どうするのっ!」
僕は冷や汗を流しながら、眼鏡をカウンターの上から拾い上げた。
「あのね、松木幸四郎さん、落ち着いて。落ち着いて聞いて欲しいんだが、眼鏡の中の女性は5年前に死んだ僕の奥さん、『ようこ』の霊魂なんだ。いい、いい、良く聞いて。あと十数分で夜が明けてしまう。夜が明ける前に、『ようこ』の魂をこの眼鏡から救い出してあげないと、神様のお怒りで二度と成仏できなくなってしまうんだ。お、お、お願いだから、今直ぐお経をあげて・・・頼む、頼む、お経を・・・。」
僕は両手を合わせて、何度も何度も松木幸四郎に頭を下げた。
「わ、わ、わかり・・・・ました。できるかどうか、判りませんが、やってみましょう。でも、どんなお経が効くのか分からないんですが・・・?」
「ええぃっ、もう、何でも良いから、法華経(ほけきょう)でも観音経(かんのんきょう)でも阿弥陀経(あみだきょう)でも、般若心経(はんにゃしんぎょう)でも、何でも良いから、時間が無いんだっ!」
「そう言われても、宗派が違うんで・・・・。」
「宗派でも、醜態でも、焼売でも、何でも良いから、御利益のある奴で頼むっ!」
この期に及んでも、ダジャレが出る自分に腹が立った。
松木幸四郎は、カウンターの上にお皿を置いて、蝋燭(ろうそく)を立て、線香を3本、僕が用意した新品のスポンジに挿して火を点した。軟らかい煙が3条くねくねとゆっくり天井に昇って消えた。蝋燭と線香の前に鼈甲(べっこう)縁の眼鏡を置き、松木幸四郎が数珠(じゅず)を手に掛け、お経をあげ始めた。何のお経なのか内容は、ちんぷんかんぷんだったが、熱のこもった松木幸四郎の朗々たる読経が狭い店内に響き渡った。松木幸四郎のお経が始まると、乳母車の中で寝ていた、トイプードルが立ち上がって、不思議そうな顔をして身を乗り出して、大欠伸(おおあくび)をした。
カウンターにそっと置かれた、金ちゃんこと葬儀屋の遠山金四郎の鼈甲(べっこう)縁の眼鏡のレンズの中で『ようこ』が泣いているように見えた。その筋(すじ)の方も真っ青になる、190cmの巨体と風貌を持った、住職の息子の松木幸四郎が指二本の無い手で数珠(じゅず)を擦り合わせて、読経(どきょう)を続けていた。
僕は白カラス亭の壁掛け時計に目を遣った。針は7時25分を指している。あ~もう夜が明ける。どうすれば、『ようこ』は助かるのだろう。僕は心の中で神様、仏様、八百万(やおよろず)の神様に祈った。
「神様、仏様、お願いです。何とか『ようこ』を助けて下さい。私は何時も不信心で罪障ばかり積んでおりますが、これからは、信心に勤めます。どうか、どうか、『ようこ』をそちらの霊界にお連れください。『ようこ』の魂が未来永劫、霊界と現実界の間(はざま)で彷徨(さまよ)い、悪霊たちにレイプされないよう、何とかお助け下さい。」
僕も、松木幸四郎の読経(どきょう)に合わせ、瞑目(めいもく)し両手を合わせた。心臓の鼓動が一段と激しくなり、急性逼迫性頻脈(ひっぱくせいひんみゃく)かと思える程、鼓動が激しく胸を叩く音が聞こえ、僕は片目をそっと開けた。店内は暖房で幾ら暖かいとはいえ、師走である。しかし必死で読経を続ける松木幸四郎の額には玉の汗が光って、首筋に流れていた。
僕は居ても立ってもいられなくなった。毎日お店に配達されてくる新聞を広げ、日の出の時刻を確かめた。ページをめくる指が震えた。グラスの破片で切った指からの出血は止まっていた。
「あ、ここだ、ここだ。え~と、東京、東京の、今日の日の出、日の出・・・・え、え、えぎぇ~そ、そ、そんな。・・・東京の今日の日の出は、午前6時48分!え、え、え、7時30分じゃないのっ!じゃぁ、も、も、もう夜が明けちゃってるんだ。」
僕は自分で夜明けは、てっきり午前7時30分前後だとばかり、思い込んでいたのだ。この銀座界隈はビルが建て込んでおり、なかなか朝日が差し込まないので、完全に勘違いしていたのだ。どうすればいいんだっ!『ようこ』がレンズの中で泣きそうな顔をしていたのが、やっと判った。僕の思っていた夜明けの時間が間違っていたんだ。
僕は自分の勘違いに頭を抱え込んでカウンターの中に座り込みそうになった。
『ようこ』の魂は金ちゃんこと遠山金四郎の鼈甲(べっこう)縁眼鏡のレンズに閉じ込められてしまった。高級霊と今朝の夜明けまでに霊界に戻る約束だった『ようこ』は、僕に助けを求めた。オ○○○ンと指を怪我した僕は、痛みを堪えて、考えを巡らせ、その筋(すじ)の方顔負けの超巨体の坊主見習い、松木幸四郎を呼び出し、お経をあげて貰った。しかし、お経の効果はまるでなく、『ようこ』はレンズの中で泣いているようだった。何故なら、僕が東京の夜明けを午前7時30分頃と、頭から思い込んでいたからだった。朝刊を広げて僕は目の玉が飛び出すくらいに驚いた。なんと今朝の東京の日の出は午前6時48分だった。そうだった、弓なりの日本列島の中で、東京は夜明けの時間が全国でも早い場所だった。僕は白カラス亭の壁掛け時計に視線を向けた。絶望的とも思える午前7時35分を指していた。汗を流しながら松木幸四郎の読経は続いていた。その時、寝ていた筈の金ちゃんが、いきなりくしゃみをして、目を覚ました。
「うわゎゎゎぁ~、あ~、良く寝たね。お、な、な、な、な、何だ、何だ、何だ。此処でも葬式が始まるんか・・・。誰だぃ、この馬鹿でかい坊主は。まるでプロレスラー坊主だな。眉毛を断ち切る向こう傷、『旗本退屈男、早乙女主水之介』でござい、でんでんでんでん・・・それに、指も二本欠けている。こりゃ、まさに極道坊主だな。あれぇ、何で俺の眼鏡がそこにあるの?」
金ちゃんが一人で喚いて、大きな欠伸(あくび)をしながら、伸びをした。
「き、き、き、金ちゃん。お願いだから、お願い。だから、ちょっと黙ってって。ね、ね、ね、後でちゃんと説明するから。あ、あ、あ、あ、その眼鏡は触らないで。そのままで置いておいて。」
僕は慌てて、金ちゃんを制した。
「う、う、う、何だか良く訳が判らんけど、ま、白カラス亭の頼みだから、うん、俺ちょっと外の空気を吸ってくるわ。」
金ちゃんが立ち上がって、再び伸びをしながらドアに向かって歩いた。
「あれぇぇ~、乳母車に犬がいる。お~い、この犬どうしたんだ。過保護犬だな、こりゃぁ・・・。」
金ちゃんが大きな声で喋りながら、白カラス亭自慢の木製輸入扉を開けた。外の冷気が一気に中に吹き込んで来た。外が明るくなっていた。
「おい、金ちゃん。寒いからドアを閉めてくれよっ!」
僕はいらいらしながら、読経(どきょう)の邪魔にならないように小さく怒鳴った。
「いいんだよ、ちょっとは、外の空気と交換した方が・・・。」
金ちゃんが言い返した。その時だった、松木幸四郎のトイ・プードルが見事な3段ジャンプを見せた。乳母車のフレームを踏み台にして、カウンターの椅子に飛び移り、更にジャンプしてカウンターに飛び乗った。そして、カウンターの上の金ちゃんの鼈甲(べっこう)縁の眼鏡の蔓(つる)を咥(くわ)えて、再び飛び降りた。源義経の八艘(はっそう)飛び顔負けの大ジャンプだった。床に降りたトイ・プードルは眼鏡を咥(くわ)えて、金ちゃんの横をすり抜け、ちょいと開いたドアの隙間から外に走り出て行った。僕も、松木幸四郎も、金ちゃんも全員が「あっ!」と言っただけだった。
僕等はただ茫然とトイ・プードルが走り出すのを見ていた。
午前7時35分を時計の針が指していた。金ちゃんこと遠山金四郎の鼈甲(べっこう)縁眼鏡のレンズ中で『ようこ』が泣いているようだった。
くしゃみをして目覚めた、金ちゃんが外の空気を吸いに、白カラス亭のドアを開けた瞬間だった。坊主見習いの松木幸四郎のトイ・プードルが八艘(はっそう)飛びならぬ、乳母車・椅子・カウンター・床の4段飛びを見せ、金ちゃんの鼈甲(べっこう)縁眼鏡の蔓(つる)を咥(くわ)えて、外に走りだした。誰も止めようがなかった。それくらいに素早かった。
「あ、あ、眼鏡、眼鏡、眼鏡~!」
僕が連呼した。声が掠れて裏返った。
「い、い、犬が、過保護犬が外に飛び出したぁ!」
びっくりして言葉を発した金ちゃんが、自分の足元を脱兎の如く走りぬけたトイ・プードルを口をあんぐり開けて見送った。
「あ、あ、あ、あ、まってぇぇぇぇっ!つ、つ、つ、つかまえてぇぇぇぇっ!」
読経(どきょう)を慌てて中断した、松木幸四郎がドアに突進した。驚いたのは金ちゃんだった。仁王のような顔と巨体の坊主が金ちゃんに襲い掛かったように見えた。
「ひ、ひ、ひ、ひぇぇぇっ、ゆ、ゆ、許して下さい!」
金ちゃんはドアを開けたまま、両腕で頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。別に金ちゃんの所為では無いけれど、金ちゃんは自動的に謝っていた。190cmを超すプロレスラー並みの巨体が、意外と鋭い動きで、金ちゃんの頭上を飛び越え、ガス灯通りをダンプカーのように走り出した。傷ついたオ○○○ンの痛みも忘れ、僕もカウンターから飛び出た。金ちゃんが顔を上げた瞬間、入り口の木製扉から駆け出た僕に顔面を蹴られて、金ちゃんは鼻血を出して失神してしまった。金ちゃんを助けなければと思いつつ、僕はトイ・プードルと松木幸四郎を追いかけた。トイ・プードルの脚は早かった。ガス灯通りと交差するマロニエ通り方向に眼鏡を咥(くわ)えたまま、一目散に駆けていった。その後を巨体の松木幸四郎が袈裟(けさ)をなびかせ、ドス、ドス、ドスとまるで巨大肉食恐竜みたいだった。
「まてぇぇぇぇ、アサヒっ、まてぇぇぇアサヒっ、まってぇ、まつんだぁっ!あ、あ、あ、車が、車が、あ、あ、あ、あぶ、あぶ、危ないっ・・・。」
すっかり明るくなったガス灯通りを疾駆しながら、松木幸四郎がトイ・プードルの名前を呼んだ。ダンプカーに街宣マイクを付けたような松木幸四郎の巨体が走った。
「ああ、トイ・プードルの名前って、アサヒって言うんだ。・・・・キリン?サッポロ?サントリー・・・トイ・プードルってこんなに足が速かったかなぁ?」
僕は非常に焦っている筈なのに、追っかけながら、ビールメーカーの名前を思い出し、余計な事を考えてしまった。これはもう職業病だと自分で変に納得した。僕は腕時計を見た。7時40分のところに長針が影を付けていた。
「『よ、よ、ようこ・・・ようこ、ようこ!』」
僕は心の中で亡き妻の名前を叫んでいた。
金ちゃんこと遠山金四郎の鼈甲(べっこう)縁眼鏡を咥(くわ)えて、トイ・プードルが脱兎の如くガス灯通りを走り出した。トイ・プードルの飼い主である超巨体の見習い坊主、松木幸四郎が。それを追っかけてダンプカーのように走った。更にそれから遅れて、僕が走り出たが、バーの入り口にしゃがみ込んだ、金ちゃんを蹴って失神させてしまった。金ちゃんのことが気になったが、眼鏡のレンズの中に閉じ込められた『ようこ』の魂の方がもっと心配だった。
「アサヒ~っ、アサヒ~っ、ま、まてぇ~、まてぇ~、まってくれぇ~。」
街宣カー並みに大きな声で松木幸四郎が袈裟(けさ)をなびかせ走っていた。人通りの少ない朝の銀座で松木幸四郎の悲鳴のような声がビルの間で木霊(こだま)した。早朝の銀座の裏通りで、坊主が袈裟(けさ)をひるがえして走る姿を見たら、誰もがきっと驚くだろう。
アサヒと言う名前のトイ・プードルはマロニエ通りを器用に直角に曲がった。その先は銀座中央通りだ。幾ら早朝で車が少ないといっても、中央通りにはそこそこの数の車が走っている筈だ。息切れしている松木幸四郎に追いついた僕は、二人でマロニエ通りを曲がった。
「居た、居た、居たっ~!アサヒ~、動くなよ。そこを動くなぁ~っ!」
松木幸四郎が掠(かす)れた声で怒鳴った。巨体であるが故に、持久力はないようだ。僕もトイ・プードルのアサヒが、一流ブランドのカルチェの前にちょこんと座っているのを見つけた。しかし、眼鏡を咥(くわ)えていなかった。
「眼鏡、眼鏡、眼鏡・・・・。ああああ、あんなところに、眼鏡が、在るぅぅぅぅぅう!」
何とアサヒが咥(くわ)えていた鼈甲(べっこう)縁の眼鏡が中央通りのど真ん中に落ちていた。アサヒが中央通りの真ん中まで運んで置いてきたらしい。僕と松木幸四郎がシャネルビルの前で立ち止まり、マロニエ通りの信号が変わるのを待った。僕は眼鏡を取るタイミングを計って、車の流れを注視した。松木幸四郎はアサヒを捕まえに横断歩道を渡った。
その時だった、ビルの谷間からマロニエ通りに太陽の光が一直線に差し込んだ。師走の朝日が低く延びて、中央通りの真ん中に落ちている眼鏡にも太陽の光が当たった。キラキラと眼鏡のレンズが朝日に反射した。と、その時、レンズから何かが、霧のように立ち昇った。霧が『ようこ』の姿になった。『ようこ』が僕に手を振った。『ようこ』が僕に笑ったように見えた。それは、ほんの一秒の何分の一かの短い時間だったかも知れない。朝日に導かれるように『ようこ』の魂は、静かに、誰かに手を引かれているかのように天に昇って行った。僕は『ようこ』が、この瞬間に霊界に戻って行ったのを確信した。松木幸四郎は、捕まえたトイ・プードルのアサヒに頬刷りをしていた。
「そうか、そうだったんだ。最初から高級霊はアサヒに眼鏡を運ばせる役目を与えていたんだ。アサヒはビールの銘柄では無く、昇る太陽、つまり朝日のことだったんだ。」
僕は、高級霊の粋な計らいに感謝した。
「『ようこ』、良かったね。『ようこ』色々と楽しい思い出を有難う。有難う、『ようこ・・・』。」
実はこの後、『ようこ』が去った眼鏡を拾いに行く必要が無くなった。何故なら、走って来たトラックが見事に、粉々に轢いて呉れちゃったからだ。
「あ、そうだ、金ちゃん。大変だ、金ちゃんが失神したままだ!」
僕は、急いで白カラス亭に戻った。
超巨体で坊主見習いの松木幸四郎の飼い犬、トイ・プードルのアサヒが『ようこ』の霊界行きを助けてくれた。『ようこ』は差し込む朝日に照らされ、高級霊の元に笑顔で帰って行った。僕はビルに囲まれた銀座の狭い師走の青空を暫く見続けていた。
「『ようこ』、有難う・・・僕が今度そっちへ行ったら、また仲の良い夫婦になろうね。」
僕は心の中で霊界に帰って行った『ようこ』にそっと言った。僕の頬を撫でるように、師走の銀座中央通りに一陣の爽やかな冷風が吹きぬけた。きっと『ようこ』が僕にOKの返事をして呉れたんだと思った。カルチェのブティックの前で、松木幸四郎は抱き上げたトイ・プードルのアサヒに、飽きることの無い頬刷りをしていた。歩行者が不思議な光景を見るように、通り過ぎて行く。
「あ、いけないっ。金ちゃんが・・・・失神したままだ!」
僕は慌ててガス灯通りの白カラス亭に走って戻った。白カラス亭の自慢の木製ドアが開け放してあった。失神している筈の金ちゃんが見えなかった。僕の脳裏に不安がよぎった。まさか・・・・金ちゃん、失神して記憶喪失になって、夢遊病者のように朝から銀座を徘徊してる・・・。僕は白カラス亭に飛び込んだ。
「金ちゃん、金ちゃん、いるか、金ちゃん・・・・?」
僕は怒鳴りながら店内に入った。
「あ、お帰んなさい。お邪魔してました。」
明るい笑顔が小顔からこぼれた。チャーミングな20代後半と思われる女性が白カラス亭の中から僕に微笑み掛けた。
「あ、あのぅ~、あ、貴女は・・・?」
「あ、あら、ご免なさい。勝手に入ってしまいましたわ。わたし、遠山金四郎の娘です。正確には息子の嫁ですが。父の帰りが遅いし、夜も明けてしまったんで、タクシーで迎えに来たんです。余程昨夜の通夜の手違いが応えたんだろうって、主人とも話していたんですの。」
笑い顔からこぼれる、白く綺麗な歯並びが印象的な美人だった。
「あ、あ、な~んだ、金ちゃんの家の、ママちゃんでしたか。何時もね、金ちゃんが貴女のことを、ママちゃんって呼んでるんです。金ちゃんとは長い付き合いですが、ママちゃんにお会いするのは初めてですね。・・・ああ、良かった。で、金ちゃんは、どこに。」
僕は店内に金ちゃんがいないので、心配になった。
『ようこ』の魂もトイ・プードルのアサヒのお陰で無事に霊界復帰を果たした。しかし、葬儀屋の金ちゃんこと遠山金四郎の姿が見えない。どうしてしまったのだろうか、鼻血を出して失神して、消えてしまった。娘のママちゃんも金ちゃんを心配して迎えに来ていた。
「金ちゃんを見かけませんでしたか?」
僕が蹴りを入れて失神させたとは言えずに、ママちゃんにさり気無く聞いた。
「ええ、私がタクシーでお店の前で降りた時、お店のドアが開け放しでしたが、父の姿も、どなたもお店にはいらっしゃいませんでしたわ。物騒だと思って私が中でお店番をしておりました。」
20代には見えない、しっかり者の可愛い顔がにこにこと笑っていた。この天真爛漫な、ママちゃんは父親が面倒に巻き込まれたり、事故にあったりとは、まるで考えが及ばないらしい。世の中がこんな女性ばかりだと本当に平和なのだがと、僕は感心して彼女を見つめ直した。その時だった、外から金ちゃんが、大きな声で僕を呼んだ。
「お~い、白カラス亭、どこに行ってたんだ。誰もいないから、この先のスターバックスでコーヒー買ってきたぞ。そこの角でこのレスラー坊主に出っくわしたよ。袈裟(けさ)を掛けて犬を抱いて、まるで坊主らしくないな。俺はね、ちょっとこの坊主に文句があるのよ、そうだろう、俺を蹴飛ばして、鼻血を出させておいて、どっかに消えてしまったんだ。文句の一つも言いたくなるだろうってもんだよな。」
どうも、金ちゃんは失神から醒めて、ティッシュを鼻の穴に詰めて、コーヒーを買いに行ってたらしい。しかし、蹴っ飛ばしたのが僕ではなくて、巨体の坊主見習いの松木幸四郎だと信じているようだった。
松木幸四郎はトイ・プードルが無事だったので、それだけで、金ちゃんの文句に対しては何も弁解しなかった。僕も敢えて訂正しなかった。僕は、松木幸四郎に読経(どきょう)代とタクシー代を払って、お礼を言った。金ちゃんの鼈甲(べっこう)縁眼鏡がトラックに轢かれたしまった顛末を説明すると話が長くなり、また混乱をきたすので、鼈甲(べっこう)縁眼鏡は僕が壊してしまったので、後日弁償することにして、お詫びを言って、金ちゃんは、ママちゃんに連れて帰って貰った。
僕は、独りになって、お店の片づけを始めた。長かった一晩が終わった。この一晩で色々なことがあった。片付けの手を休め、僕は『ようこ』が何時も座って僕を見つめていてくれた一番奥の隅の席に、今はいない『ようこ』の姿を想像した。その時、止まっていた筈の有線放送から、『尾崎豊の『I Love You』が急に流れてきた。そうか、この曲も『ようこ』の大好きな曲だった。きっと『ようこ』は霊界でも『尾崎豊』のコンサートを聞いているのかも知れないと、僕は曲が終わるまでじっと聞いていた。
「有難う『ようこ』、そしてさようなら、『ようこ』」僕の頬を涙が伝った。
今夜もようこそ銀座のバー白カラス亭へ 朱尾 晃輝(アカオ コウキ) @whitecrow583
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