第5話

「割烹板長のとんでも秘密」


銀座3丁目ガス灯通りの真ん中に小さなバー「白カラス亭」がある。銀座通り連合会三丁目支部会会長と中央通りの某有名○○デパートの社長とニューヨークの美人舞台女優は午前2時を過ぎて、「白カラス亭」をあとにした。男3人で友情を確かめ合った満足感にも、それぞれが、さり気無い顔をして「じゃぁ、また・・・。」とそっけなくお互いに言っただけだった。「白カラス亭」の店内にお客様は一人もいなくなった。

今後、三丁目支部会会長の奥様が「山根祐子の妹の祐香(ゆうか)を最近見かけないわね!」ともし仰った場合は、ニューヨークで『恋の旅人』を開店する準備の為、山根祐香(ゆうか)は既に渡米したと言うことになっていた。騒々しく、てんやわんやだった数時間前を思い出しながら、僕は、130種類からなる洋酒の瓶(びん)を1本づつ丁寧(ていねい)に拭きながら、1950年代から60年代にヒットしたポップスの名曲を有線で聴いていた 。コニー・フランシス、ニール・セダカ、パット・ブーン等懐かしい名前と曲が続き、若かった昔を懐かしむ余裕が出て来た自分に驚きながらも、今は亡き妻「ようこ」との過ぎ去った日々を思い出して、一人で苦笑いをした。どんなに店内が混雑しても、決してお客様の座ることがない、一番奥の何時も「ようこ」が居た席に僕は悲しい思い出の視線を送った。

午前2時半 過ぎ、「白カラス亭」自慢の大きな輸入の木製扉がそっと開いて、しょぼくれた中年の男性が顔を覗かせた。

「まだ、開いてる?」

「ええ、勿論オープンしてますよ、太陽が昇る夜明けまで白カラス亭はやってますから、どうぞお入り下さい。・・・・あれぇ、山口さん?そうだ山口さんですよね。珍しいですね、こんな遅い時間に・・・・。」

中肉中背、どこといって特徴の無い、悲哀と無精ヒゲを顔にくっつけたような中年男性の名前を僕は思い出した。

「ええ、そうです。覚えていて下さいましたか。うれしいですねぇ、・・・名前を覚えていて下さるなんて。別れた女房も、『僕の顔を三日見なかったら、誰だったか忘れてしまうわ!』、なんて言っていたくらい特徴の無い男なんで・・・。」

山口と呼ばれた、特徴の無い中年男性が、ドブネズミ色のコートを脱ぎながら、卑屈(ひくつ)に笑った。でも笑いになってなくて、顔が引きつったように見えた。ありふれた、グレーのスーツにグレーのウールベスト、紺色のネクタイと、どれを取っても本当に地味な恰好(かっこう)そのまんまだった。凹凸の少ない顔も眉毛も鼻も口も顎(あご)も何もかも、伸びた無精ヒゲも、はみ出した鼻毛までもが普通で特徴がなかった。警察で似顔絵を作成するのに一番手強い相手かも知れない。

「このような商売をしていると、お客様のお名前に敏感になるんですね。一度お会いしてお名前をお聞きしたお客様のこと、僕は忘れたことがございません。ちょっとは、自慢しても宜しいでしょうか。」

僕は暖かい笑顔で久し振りにお見えになったお客様をお迎えした。寒い12月の深夜に辛気臭(しんきくさ)い顔をしたお客様には温かい笑顔が一番のもてなしだと僕は信じている。

「何か召し上がりますか?お食事は宜しいですか。」

「うん、ビール でいいです。つまみは何でも結構です。」

「ビールは日本の瓶(びん)ビールで宜しいですか?」

「あ、あのう、もし在ったら、デンマークのツボルグを下さい。」

「はい、ツボルグでございますね。ございますよ。」

一本目のビールを一気に飲み干した彼は、もう1本と指を上げた。服装も顔も地味だが、自分の好みはしっかりとお持ちのようだった。しかし、何とも暗い雰囲気の方だった。以前からこのように鬱陶(うっとう)しい雰囲気をお持ちだっただろうかと僕は首を捻(ひね)ったが、何も思い出せなかった。兎に角、特徴の少ない方だった。

ホテルの知り合いから分けて貰った、世界最高峰と呼び名の高い、スペインのイベリコ豚の骨付き生ハム”ベリョータ”をつまみに出したが、山口氏は美味いとも不味いとも何の反応も示さず、ただむしゃむしゃと食べてしまった。

このお客様がどうも不気味で気持ち悪くなった。

ガス灯通りも午前2時半を回ると、人通りもめっきり少なく静けさが戻ってくる。そんな時間に訪れた一人の男性客の素性を僕は、ふと思い出した。中肉中背、特徴の無い顔と特徴の無い声、地味なグレーのスーツと紺色のネクタイ。余りの特徴の無さに、逆に僕は思い出すことができたのだ。

「山口さんは、確かこの1本筋向こうの・・・・あの有名な和食割烹(かっぽう)の板長さんじゃございませんでしたか?」

僕は、さり気無く様子を伺った。中年オヤジを泣かせるパット・ブーンの『砂に書いたラブレター』が、お客様一人しかいない店内で静かに流れていた 。

「パット・ブーン懐かしいねぇ。60年代って本当に素晴らしい歌手が大勢いたよなぁ~!」

僕の問いには何も応えず、違う事を言った。そして山口氏は2本目のツボルグを軽く飲み干した。お客様の答えたくない質問は繰り返さないのが、「白カラス亭」のモットーだ。無口なお客様も結構いらっしゃるので、お客様のペースに併(あわ)せるように、僕も静かにグラスを拭いていた。

「ねぇ、白カラス亭さん、調理人って、一体誰の為にお料理を作るんだろうかね?」

山口氏は、「ぼそりっ!」と視線を下に落とし、僕とは目を合わせずに言った。

「えっ、やっぱり山口さんはあの和食割烹(かっぽう)の板長さんですよね?」

「ええ。・・・今日は明日の宴会のお品書きで、社長と揉(も)めましてね、それに弟子達とも・・・とんだトラブルがあって、こんな時間になってしまって。このまま帰宅しても、また直ぐ出勤になってしまうんで、ちょいと、此処に寄ってみた訳なんです。」

市役所の庶務課の係りの方としか見えない格好と風貌(ふうぼう)で、和食割烹(かっぽう)の板長の山口氏は微笑んだ。微笑んだ筈の顔が怖(こわ)い。このガス灯通り界隈(かいわい)で、山口氏は弟子の板前を50人も使う、頑固(がんこ)で恐い和食の鉄人との評判だった。

「では、夜明けまで、まだ時間がありますので此処(ここ)でお飲み になっていらして下さい。でも徹夜はお疲れになるでしょう。」

「徹夜は確かに堪(こた)えますが、もう少ししたら、午前4時には築地に行きますんで。・・・僕がこんなスーツ姿で築地に行ったら、間違いなく、知り合いの仲買人から失笑を買うだろうなぁ。」

「築地にはお弟子さんが、先に行かれてるんでしょう?」

「ええ、そうなんですが、たまには僕も行ってみなくては・・・・。鮮魚の良し悪しは僕にも責任がありますから。・・・もう1本同じ物下さい。」

全く特徴の無い、地方の市役所の庶務課長の風貌(ふうぼう)そのままのおっさんが、有名な和食割烹(かっぽう)の板長さん、それも超有名な和食の鉄人と同一人物とは、どうしても結び付かなかった。

それにしても、板長の山口氏の顔色が冴(さ)えなかった。何かに悩んでいるようだった。

午前2時半を過ぎて、全く特徴のない冴(さ)えない中年男性がふと現れたのだった。地味なグレーのスーツにウールのベスト、紺色のネクタイと、どれを取っても、小さな町の役場の庶務課長さんにしか見えなかった。なんと、なんと、この銀座でも有名な和食割烹(かっぽう)の板長の山口氏であると思い出すのに、僕も少々時間が掛かった。デンマークのラガービール『ツボルグ』 を3本立て続けに飲み干して、もっと強い酒が今度は欲しいと仰った。

「どのようなお酒がお好みでしょうか?ウィスキー、ジン、ウォッカ、ブランデー、焼酎、その他色々ございますが・・・・・。」

「今、言った物以外には何かあるかぃ?」

このまるで特徴の無い、風貌(ふうぼう)の揚(あ)がらない和食の鉄人、山口氏は相当な酒豪のようだった。

「そうですね、アブサンはもう禁止されて久しいですが、その薬草系でアニスの香りを付けたフランスのパスティス、ペルノ、リカール等は5倍の水で割って飲みます。あと似たような系統ではギリシャのウゾもいいですね。ここいらの酒は、大体45度前後ですね。もっと強いのがよろしければ、中国の白酒(ぱいちゅう)で珍品茅台酒(ちぇんぴんまおたいちゅう)が、53度ですが、高粱(こうりゃん)を原料に10年以上熟成させてますから、それはもう、馥郁(ふくいく)たる香りが特徴で・・・。」

僕は一本、一本飾り棚から手に取って、山口氏に見せた。

「アニスの香りってことは、豚の角煮に使用する八角のことだね。」

流石に板長さんだけあって、食材に詳しいのは当たり前だ。

「では、リカールの水割りを貰おうか。」

「はい、承知しました。通常はこの酒は食前酒として飲まれることが多いのですが、特に食べる物は何も・・・・・?」

僕はリカールの透明な液体を氷の入ったタンブラーに注いだ。そして5倍の水で割った。透明だったリカールが、さぁ~と白濁(はくだく)した。

「食べ物は何も必要無い・・・。うん、確かにアニスや他の薬草類の香りが特別に強い酒だ。ちょっと、この香りは鼻に付くねぇ。」

「確かにそうですね。でも、飲みなれると癖になるそうですよ。」

また、山口氏は無言になった。そっと静かに白濁したリカールを再び口中に流し込んだ。喉仏の上下で、彼が酒を流し込んでいる事を僕は知った。静寂の中で、パット・ブーンの曲だけが静かに流れていた。

「ねぇ、白カラス亭さん、そのぅ・・・つまんない話だけど聞いて呉れるかぃ?」

山口氏が和食の鉄人板長には似合わない、優柔不断な顔でぼそり、っと言った。

「ええ、こんな小さなバーのマスターごとき私で良ければ、なんなりと・・・・。」

「ああ、有難う。今夜は誰かに聞いて貰わなければ、この胸の中が、どうにかなってしまいそうだったんだ。」

中肉中背、顔も頭も何もかも、余りに特徴の無い山口氏が初めて、顔に表情を現した。表情と云うより、ただただ顔の真ん中がくしゃくしゃになったのだ。さて、どんな言葉がこの特徴の無い板長さんの口から出てくるのか、僕は固唾(かたず)を飲み込んで、身を乗り出した。

某有名和食割烹の板長で和食の鉄人でいらっしゃる山口氏が、特徴のまるで無いお顔を歪(ゆが)めながら、ぼそぼそと話し始めた。口の中で喋(しゃべ)っているので、引退した某中年プロレスラー同様に非常に滑舌(かつぜつ)が悪くて聞き難い。どうも板長さんにしては歯切れが常に悪いお方だった。

「先ほど、料理は誰の為に作るのだろうか、などと仰っていらっしゃいましたが・・・」

僕はリカールと青地に白抜きで書かれた瓶(びん)を130種類の酒が並ぶ、棚に戻しながら言った。

「ああ、あれねぇ、ちょっと格好付けただけなんだけど。・・・・この年になって、やっと気付くなんて、遅すぎるよ・・・・。」

特徴の無い顔の、これまた特徴の無い血色の悪い唇で白濁したリカールをちびちび飲みながら、山口氏は自嘲的(じちょうてき)に応えた。

「え、どんな事でしょうか?やっと、気付かれたって・・・私には判りかねますが。」

「あ、いやね・・・今日の今日迄、和の鉄人なんて呼ばれて、僕は自分の名誉とか名声の為にだけ料理を作っていたんだなぁ、って・・・教えられたよ。」

「え、山口さんのような、偉い超有名な板長さんでも、何か教えられることが・・・?」

「うん、そうなんだ。・・・・しかし結構臭いけど美味いねこの酒、何てったっけ。ああ、リカールね。こいつは本当に癖になりそうだな。臭い物が美味いのは料理界の常識だな。」

「ではもう、一杯お作りしましょうか?」

「ああ、もう一杯貰おうか。4時まで未だ時間はあるし・・・。」

どうも店内が湿っぽく陰気だったので、僕は有線放送のチャンネルをジャズ に切り替えて、山口氏の方を振り返った。音楽には感心が無いらしい。目立たぬグレーのスーツにウールのベストに地味な紺色のネクタイのいでたちで、有名割烹の和食の鉄人板長さんのイメージにはどうしても重ならなかった。タンブラーの中でバースプーンが氷とリカールを軽くミキシングするカシャッ、カシャッ、という音が小さく響いた。。

「実はさ、白カラス亭さん。あのさ、板長らしからぬ、醜態(しゅうたい)を弟子達に見られてしまったんだよ。見習いやパートを含め50人の弟子達に・・・・。 何が偉い板長だ、何が恐い板長だ、何が和の鉄人だよ、全く・・・・!」

山口氏は丁寧に7対3に分けた頭髪の頭を元気なく下げた。綺麗に刈り上げた後頭部が見えた。流石に板長だけあって頭髪のお手入れだけは、しっかりなさっていらっしゃる。それに絶対に髪の毛を手で触らないのも、経験豊富な板場の長としては当たり前だった。

「一体全体、どんな醜態(しゅうたい)を弟子に見せてしまったんですか?」

僕はミキシンググラスの中にバースプーンを戻しながら、彼の顔を窺(うかが)った。

午前3時 を過ぎて店内には、某有名和食割烹の板長で超有名な和食の鉄人である山口氏が冴(さ)えないお顔で項垂(うなだ)れていた。中肉中背、まるで特徴のないお顔立ちと服装に僕は不思議となんの違和感をも覚えなかった。その山口氏が弟子達の前で醜態(しゅうたい)を晒(さら)してしまったと言う。

「あのさ、心底憎いのは鼠だよ。鼠!熊鼠(くまねずみ)・・・・。それも巨大な猫みたいに、どでかい熊鼠(くまねずみ)が出た。」

「えええっ、熊鼠(くまねずみ)が板場に出たんですか?うわ~、そりゃ驚いたでしょう。銀座は日本でも有数の熊鼠(くまねずみ)の生息地ですからねぇ。○○消毒って会社が時々鼠駆除を頼まれてこの3丁目界隈でも行ってますが、ま、あまり効果はないようですね。・・・ところで、その熊鼠(くまねずみ)が出たことと山口さんと何の関係が?」

「白カラス亭さん、実は・・・僕は、僕は、鼠が、鼠が死ぬほど嫌いなんだ。見ただけで吐き気がして具合が悪くなる。ましてあんな巨大な猫ほどもある化け鼠が出て、本当に猫か犬だよ、あのどでかい鼠!冗談じゃなく、それこそ心臓が停まるかと思った。 ・・・今夜と言っても、もう昨日の話だけど、お店の営業が終了して、板場の片付けを見守っていたんだよ。そしたらね、盛り付け台の足元に、ボロ雑巾が山の様に置いてあったんで、『誰だっ、こんなとこに雑巾を山にしておいたのは!』って、弟子達を怒鳴って、ボロ雑巾を掴(つか)もうとしたんだ。その瞬間にボロ雑巾の山が1mも飛び跳ねた。いやいや、何と、何と、ボロ雑巾と思ったのは、それはそれは巨大な熊鼠(くまねずみ)が、何か残飯を漁っていたらしいんだ。その時ね、僕は有り得ない、板長らしからぬ悲鳴を挙げて 、一瞬気絶して床に引っ繰り返ったらしんだ。でね、こりゃ大変だってんで、弟子達が飛んで来て、床に伸びている僕を助け上げたんだ。」

「鼠が嫌いなのは、山口さんだけでは無いですから、悲鳴上げて気絶するのは醜態(しゅうたい)でも何でもないじゃないですか。僕だってそんなでかい熊鼠(くまねずみ)がでたら、小便漏(も)らして座り込みますよ、は、は、は、は・・・・。」

僕は山口氏を励ますように言った。僕も銀座に生息する何万匹と推測される熊鼠(くまねずみ)は好きじゃないが、ディズニーランドのミッキーマウスは大好きだ。

「そうじゃないんだよ、白カラス亭さん。悲鳴を上げて、僕が倒れたのは、板場の長として確かにみっともないが、それだけじゃないんだよ、倒れた場所が床の排水溝の鉄格子の真上だったんだ。弟子達が皆で僕を抱え上げて運ぼうとしたんだ。誰も僕のズボンのベルトが鉄格子に引っ掛かってるなんて思わないから、僕のズボンがすっぽりと脚から抜けてしまったんだ。弟子達の前に僕の下半身が丸見えになったんだよ。 」

この特徴の無い、寡黙(かもく)な山口氏がぼそぼそと、事件の顛末(てんまつ)をこうして話しをするのは、やはり相当に堪えているに違いなかった。確かに、中年オヤジの丸出し下半身なんて余り見たい光景ではないと僕は思った。珍百景にも入らないだろう。

「下半身が丸見えくらい、どうってこと無いじゃないですか。それに板場は男の世界だし・・・。パンツとか褌(ふんどし)とか、一応何かでお○○○んは覆っていたんでしょう?まさか・・・すっぽんぽんで?」

「ま、まさか。そ、そりゃあ、穿(は)いていたさ。ブリーフ・・・・。」

「へぇ~、和食割烹の板長さんだから、いなせな褌(ふんどし)かな、とも思ったんですが・・・ま、ブリーフでもおかしくないですよ。褌(ふんどし)世代でもないですし、それに今日はスーツでいらっしゃる。」

僕は何とか山口氏を元気づけ持ち上げようと一生懸命に彼を正当化する相槌を打った。

「ああ、ブリーフだったんだけど・・・・それが、それが・・・ピ、ピンクのビキニタイプ。」

「ええっ!ピ、ピ、ピンクのそれもビキニタイプでしたかぁ・・・・はぁぁ。」

ピンクのビキニブリーフを穿(は)く男は結構いるだろう。しかし、有名和食割烹の板長で日本でも有名な和食の鉄人との異名を持って、食通を唸(うな)らせる山口氏が穿(は)いているとなると、これはとんでもないミスマッチ、というか、アンビリーバブルと言えた。それもまるで冴(さ)えない、全く特徴のない中年庶務課課長の雰囲気の山口氏とピンクのビキニブリーフは絶対に有り得ない、史上に存在してはいけない組み合わせだった。

「うん、それがブリーフの前部分に、そのぅ、何と言うか、そのぉ・・・ぞ、象の柄をプリントした奴で・・・。」

「あへ、・・・・・・・! 」

僕は絶句し喉を鳴らして唾を飲み込んだ。それは絶対に醜態(しゅうたい)だ、間違いなく醜態(しゅうたい)だと僕は思った。男らしい男の職場、和食の板場に、そんなピンクのビキニで、それも前部分に象柄のプリントが入ったブリーフを穿(は)く、しょぼくれた中年庶務課長風の板長がいるのだろうか。それにしても、そんなビックリなブリーフを一体何処で購入したんだ?象柄のピンクのビキニブリーフなんて・・・。

「僕は鼠に捨てがたいトラウマがあってねぇ。確か5~6歳の時だったと思うが、おやつの焼き芋を手にしたまま、縁側で昼寝していたらしいんだ。その時、焼き芋を狙った鼠に襲われて、尻と腕を鼠に噛(か)まれてしまった。それ以来、鼠は僕の天敵のようなもんなんだ。だいたいね、十二支に子年があること自体許せないんだよ。それも十二支の先頭を切っているだなんて、許せない。ディズニーも大嫌いだ。」

「ちょっと、ちょっと、山口さん。鼠は貴方が倒れた理由でしょう。それよりそのピンクのビキニの象柄で醜態(しゅうたい)を見せてしまったのと、料理は誰の為にするのか、って高尚(こうしょう)なご意見はどう繋(つな)がってるの?」と僕は心の中で思った。

時計は午前3時半を少し回っていた。某有名和食割烹の板長、和食の鉄人、山口氏は本当に目立たないタイプの一人である。その全く目立たないタイプの山口氏が、まさか!と、思えるような醜態(しゅうたい)を演じてしまった。50人の弟子達の前で、ピンクのビキニのブリーフを見られてしまったのだ。それも象さんのプリント柄が前部に大きく入った物らしい 。地味なグレーのスーツにウールのベストに渋い紺色のネクタイで、髪を丁寧に七三に分けた、特徴のまるでない山口氏が口の中で、ぶつぶつと何かを言った。そして、タンブラーの中のリカールの水割りを一気に飲み干した。

「あ、あ、大丈夫ですか、一気に飲んで。結構強い酒ですよ・・・・。」

僕は山口氏を労(いた)わるように聞いた。

「ああ、大丈夫だ。・・・もう一杯呉れないか。」

「ええ、はい。お代わりですね。」

僕はタンブラーと氷を取替え、リカールの水割りを作った。ミキシングスプーンと氷の触れ合う音がカシャッ、カシャッと響いた。店内は静かにクラシックのジャズ が有線から流れていた。

「白カラス亭さん、僕はね、僕は、・・・料理は勿論、お客様に楽しんで、喜んで戴く為に作るもんだと思っていたよ。でもね、でも、それは、僕の名誉や優越感を満足させる方便に過ぎなかったんだ。僕はね、僕は思ったよ、弟子達が僕を白い目で見ているって 。ピンクの象さんブリーフを見た弟子達は、そりゃぁ、愕然(がくぜん)とした筈(はず)だ。そりゃあ当然だよなぁ。でも、でも、僕は見られてしまった事で、逆にプライドも立場も忘れて、この弟子達に僕の技術の全てを伝えることだと思ったんだ。」

山口氏はグシュンッ!と鼻水をティッシュで拭った 。

「偉いですね、山口さんは。・・・私がお客様に偉そうな事は申し上げられませんが、何だか、今夜の山口さんは一皮も二皮も剥(む)けた感じです。益々、立派な板長さん、和食の鉄人にお成りではないですか。う~ん、そうですかぁ・・・・料理とは伝承の歴史ですか、伝える為に作るのですかぁ・・・!文化なんだなぁ。」

僕はこの冴(さ)えない印象の板長、落ち込んでいる山口氏を盛んに持ち上げた。

時計 は午前3時半を少し回っていた。某有名和食割烹の板長、和食の鉄人である山口氏は本当に目立たないタイプの一人である。その全く目立たないタイプの山口氏が、まさか!と、思えるような醜態(しゅうたい)を演じてしまった。50人からいる弟子達の前で、ピンクのビキニのブリーフを見られてしまったのだ。それも象さんのプリント柄が前部に大きく入った物らしい 。地味なグレーのスーツにウールのベストに渋い紺色のネクタイで、髪を丁寧に七三に分けた、特徴のまるでない山口氏が口の中で、ぶつぶつと何かを言った。そして、タンブラーの中のリカールの水割りを一気に飲み干した。

と、その時、ドアがひょっこりと開いた。

「こんばん~わ。遅くにごめ~ん、あら、違ったわ~早くに~だわねぇ! 」

僕はドアから入って来た顔を見て、「あらっ!」と思った。そのとたん、今迄苦虫を潰(つぶ)したような顔をしていた、しょぼくれ中年庶務課長風の山口氏の顔が、初めて見せる、はにかんだ笑顔で、まるで別人のようにパァ~と明るくなったのを、僕は見逃さなかった。

「登美ちゃん、どうしたのこんな遅い時間に、登美ちゃんのお店とっくに・・・」

僕は以外なお客様の来店に声がニューハーフに負けない位に裏返った。

「うん、私のお店はとっくに閉まったんだけど、オネエ達と寄り道して飲んでいたらね、ほら、そこの、そこに座っている、山ちゃんから携帯に電話があって、どうしても会いたいってんで、来た訳。ねぇ、山ちゃ~ん!」

ニューハーフの登美ちゃんは、女性も羨(うらや)むような白く細い指で山口氏をそっと指した。

「あ、ああ、あ~そ、そうなんだ。うん、ちょっとね。」

某有名和食割烹の板長で和食の鉄人の山口氏は、頬から耳たぶまで真っ赤に染めて、下を向き口ごもった。滑舌(かつぜつ)が悪すぎて、何を言っているのかさっぱり分からない。

「ええっ、登美ちゃんと山口さんは、お知り合いだったの?」

僕は登美ちゃんのお酒で上気した顔を見た。登美ちゃんも結構沢山飲んでいるようだった。

「いやだぁ~、白カラスさんって、もう・・・・!」

登美ちゃんが細く長い指を、カウンター越に伸ばして、僕の腕をつねった。

「あ、いたっ!・・・ええ、僕、何か変な事言ったかなぁ?」

「そりゃね、あたしは確かにニューハーフよ。でも、だからって、そんな、お尻合いだなんて・・・・。ちょっと直接的過ぎるわよ。はっきり言っていけずよねぇ!」

「お、おいおい。僕は単にお知り合いですか?って聞いただけだよ。何を勘違いしてるんだよ。変な想像しているのは登美ちゃんの方だよ。」

僕は少々慌て気味に弁解した。何も慌てる必要も無いのに、自分でも可笑しかった。店内に流れているクラシックジャズが、なんだか間延びして聞えた。

「ああら、それは、それは御免あそあせっ・・・・・!ついね、地が出てしもうたのよ。痔じゃなくて、地よ地!」

「・・・で、で、山ちゃんに。お話って何なの?」

登美ちゃんが山口氏の隣に座った。登美ちゃんの白く綺麗な指が山口氏のグラスを持つ腕をそっと撫でていた。

「この二人ってどんな関係なんだ?全く不釣り合いの二人だ!」と僕は心の中で呟(つぶや)きながら二人の顔を交互に見つめた。

もうじき午前4時になろうかとしている時、ひよっこりとニューハーフの登美ちゃんが顔を出したのだった。某有名和食割烹(かっぽう)の板長、和食の鉄人山口氏の知り合いらしい。まるで、特徴の無い、どこからどう見ても地方の村役場の庶務課長さんのような雰囲気の、まるで地味な山口氏がどうして、ニューハーフの登美ちゃんと懇意なのか、僕は逆に興味を覚えた。

「登美ちゃん何か飲む、それとも酔い覚ましにお冷でもあげようか?あ~あ、顔が結構赤いよ。」

「あ~ん、うっふん、優しい白カラスさんって、大好き・・・。お冷よりおさけ・・・!」

「じゃぁ、スプリッツァーにしたらどう?結構酔っているようだから。」

「う~ん、じゃぁそうするわ。白カラスさんは、時々、あたしのパパみたいなもんだからね。」

登美ちゃんが何となく吐いた言葉に隣の席の山口氏が敏感に反応した。

「と、と、登美ちゃんって、白カラス亭さんとも、何ていうか、そのぅ・・・・!」

山口氏が此処まで言って絶句した。

「何を言ってんだか、この唐変木(とうへんぼく)、変態、白カラス亭さんは、あたしが困った時に親身に相談に乗って下さる、あたしの銀座のお父さんなのっ!」

登美ちゃんが山口氏の二の腕辺りをぎゅっ、とつねった。

「いっ、て、て、て、て・・・・。ら、ら、乱暴するなよ。」

「ねぇねぇ、登美ちゃんと山口さん、お二人にちょっと質問していいかなぁ?」

僕は有線放送から流れているジャズのボリュームを少し落とした。

「な、何ですか?・・・・恐いなぁ。そ、その前にリカールのお代わりくれるかなぁ。」

僕は山口氏に新しいリカールの水割りを差し出した。新しいグラスと氷のぶつかる澄んだ音が涼しげに響いた。

「じゃぁ、ざっくばらんにお聞きしますが、登美ちゃんと山口さんは、そもそも、どういう間柄なんでしょうか。先ほどから拝見してますと、まんざら、知らない仲でもないようですが。」

「そ、そ、それは~・・・・・。」

山口氏が口に含んだリカールを喉に引っ掛けて、唸(うな)った。

「ふん、男の癖にだらしないわねぇ。よくそれで板長が務まるわ、和の鉄人も実体はこれよ!」

登美ちゃんが山口氏を睨(にら)みつけた。

「いいわ、あたしが全部白カラス亭さんにお話しするわ。」

登美ちゃんがスプリッツァーを一気に飲み干して、花柄のハンカチで唇を拭いた。何とも美しい、女性っぽい仕草に流石の僕もうっとりと登美ちゃんを見つめた。ニューハーフは侮(あなど)れないなと僕は思った。

「あたしがぁ、大根で殴って気絶させた彼氏。今、出ていっちゃって、家にいないんだけど、山口さん、この人は彼氏のお兄さん。・・・そもそも、山口さんがあたしと付き合い始めて、山口さんの奥さんがね、愛想を尽(つ)かして家出して、山口さんとあたしが一緒に住んでいたの。そこへ、見かねた弟が山口さんを連れ戻しに来てぇ・・・そのまま、へ、へ、へ、・・・・乗り換(か)えOK!」

「ははん、ミイラ取りがミイラになったんだ。弟さんの方が良くなって、今度は山口さんが追い出されたんだ。そうでしょう、登美ちゃん。」

「うわ~御明察(ごめいさつ)、ぴんぽ~ん!凄いよ白カラス亭さん。刑事の素質あるんじゃないの?」

「登美ちゃん、そこまで話して呉れたら、誰でもそれ位は推察できるよ。じゃぁ、山口さん兄弟は揃(そろ)って、オネエというかニューハーフがお好きなんですか。」

「そ、そ、兄弟仁義ってなとこ。兄弟であたしを取り合ったの。美しき兄弟愛でしょう。」

「登美ちゃん、それってちょっと違うような気がするけど。兄弟喧嘩じゃないの?」

「うん、ま、一般にはそうとも言うね。でもこの人、あたしが、弟さんの方が好きだって、言ったら素直に身を引いたのよ。やっぱり一流割烹(かっぽう)の板長さんよね。和の鉄人は、男の中の男ってとこ。」

何だか、登美ちゃんはこの山口氏を褒(ほ)めているのか、貶(けな)しているのか判別不能な状態になってきた。ところで、山口氏は今夜どうして登美ちゃんを呼び出したんだろうか?それとどうして、こんな三つ揃(ぞろ)えのスーツでいるのだろうか?僕は不審に思った。まだ、隠された何かが有りそうだった。

某有名和食割烹(かっぽう)の板長の山口氏とニューハーフの登美ちゃんの関係がこれで判明した。この地味で全く風采(ふうさい)の上がらない、地方版庶務課長風板長で、和の鉄人の山口氏とニューハーフの登美ちゃんが同棲(どうせい)していたとは、僕も驚いた。良くもまあ、週刊誌にスッパ抜かれなかったものだ。しかし、もっと驚いたのは、登美ちゃんが勘違(かんちが)いして大根で殴りつけて、失神させたのが、この山口氏の弟だったとは・・・・・。

「と言う事は、大変失礼な聞き方をしますが、山口さん。貴方は弟に登美ちゃんを寝取られてしまったのですか?」

僕はお客様とバーのマスターの関係を乗り越えて、タブーを聞いてしまった。僕は有線のチャンネルをジャズから何となく大人のクラシックに切り替えた。

「あ、え、あ~。その通りです。私は50人もの弟子を使う板長、和の鉄人と恐がられていてもね、一歩外に出たら、このように地味で風采(ふうさい)の上がらない田舎風のおっさんなんです。それに引き替え、弟は背も高い、がっしりとしたスポーツマンタイプのそりゃ、見るからに格好の良い男前なんですよ。僕はね、僕は、白カラス亭さん、登美ちゃんを弟に寝取られたからって、弟を恨(うら)んでなんかいませんよ。弟が幸せだったら、それで良かったんです。でも・・・、でも・・・・。」

山口氏の両眼から大きな涙が頬を伝って落ちた。隣に座っている登美ちゃんがそっと山口氏の手に花柄のハンカチを乗せた。更にビトンのハンドバックからポケットティッシュも取り出して、カウンターに置いた。

「あ、有難う登美ちゃん。・・・弟の幸せを心底願っていたんです。ところが、明の奴、弟の名前はあきら、って言うんです。明が一昨日ひょっこり私のアパートに現れて、登美ちゃんと別れたって言ったんです。それを聞いて、私の心に、消えかかっていた蝋燭(ろうそく)の火に油が注がれまた燃え出したんです。こんどこそ、登美ちゃんと一緒に居たいと恥ずかしながら思ってしまったんです。だから今晩、このようにきちっとスーツを着て、誠意を持って話をしようと、やり直して欲しいと言いたくて・・・・。」

地味で風采(ふうさい)の上がらない、中年のオヤジと言っては失礼だが、山口氏がこれだけ熱く語れる情熱を持っているとは、僕も気が付かなかった。しかし、きちっと正装したわりには、ウールのベストは無いと思った。イギリスオックスフォードかケンブリッジの教授じゃないんだから、単なる寒がりオヤジにしか見えなかった。

「え、ちょっと、ちょっと、待ってよ、山ちゃん。あたし明と別れたなんて、一言も言ってないわよ。明がちょっと不機嫌になってマンションを飛び出しただけよ。あたしは、明と別れようなんて、これっぽっちも思ってないわよ。だめよ~ん、そんなの無理!」

登美ちゃんが慌(あわ)てて山口氏の言葉を遮るように彼の腕を掴(つか)んだ。

「登美ちゃん。本当なんだ。明は本当に登美ちゃんと別れるつもりなんだよ。僕が登美ちゃんと一緒になりたくて、嘘を言ってる訳じゃないよ。本当かどうか本人に聴いてみればいい。」

「聴いてみればいいって、明は出て行った切りで連絡もないわ。聴きようがないじゃないの。携帯にも出てくれないし・・・。」

「大丈夫、もう直ぐ此処に来る筈(はず)だから。明を呼んであるんで、今夜はきっぱりとけじめを付けようじゃないか。な、登美ちゃん。いや、お登美よ!」

「今夜と言っても、もうすぐ午前4時で、築地もオープンする。山口さん、築地に行かなくていいのかなぁ?」僕はちょっと、心配になった。

山口氏は急に任侠映画ばり、和の鉄人丸出し、板長の風格で話し出した。さっき大粒の涙を流していた本人とは思えない変わり様だった。アルコールの血中濃度が限界に達したのかも知れない。

「ええっ、ええっ!明が此処に来るの、明が来るのぉ、何で早く言って呉れないのよ!シャワー浴びて、着替えて、お化粧直して来るわ。だってぇ、今着ている服って、明の好きな服じゃないんだものぉ~、それに酒臭いし・・・・。」

登美ちゃんの態度が急に女っぽくなった。本当に慌(あわ)てているようだった。ビトンのハンドバックから携帯用のコロンスプレーを取り出し全身に降り掛けた。更に口臭防止スプレーを何度も何度も口の中に吹き付けた。

「そんな、時間はないよ、4時に呼んであるから、もう来る筈(はず)だ!」

山口氏がそう言いながら腕時計を見た時、白カラス亭自慢の輸入の木製扉が音を立てて開いた。

午前4時をちょうど回った時、白カラス亭自慢の輸入木製扉が哀愁を帯びた切ない音と共に開いた。僕達三人の視線が、同時に開いたドアに注がれた。師走の冷たい風が店内に入り込み清涼感をもたらした。

「ようこそ、いらっしゃいませ、どうぞ奥へ。」

店のマスターである僕が、当然一番最初に声を掛けた。

「おう、待っていたぞ。こっちへ・・・・。」

ドアを後ろ手に閉めた弟の明氏に、兄貴らしく山口氏が声を掛けた。30代と思われる明氏が「にこっ!」と笑った。サッカーの日本代表選手の誰かに似ている。はにかんだ笑顔が印象的だった。黒のベルベットの上着に黒のタートルネックセーターを着て、ジーンズを履いた、背の高い細身の二枚目だった。

「あ、あきら・・・、あきら・・・・・・・ど、どこに行ってたのよ、本当に心配してたんだから!」

登美ちゃんがカウンターの椅子から飛び降り、明氏に抱きついた。明氏はそっと優しく、彼の首に回した登美ちゃんの腕を解いた。山口氏と弟の明氏が、登美ちゃんを真ん中にカウンターに並んで座った。

「何をお飲みになりますか?」

僕はこの後の展開を気にしながら弟の明氏に聞いた。

「兄貴、何飲んでるんだ?・・・え、リカール?臭いなぁ~。・・・え~とキューバ・リ-ブル下さい。」

僕は氷を入れたタンブラーに、大胆に半分に切ったライムをぎゅっと、搾(しぼ)り入れ、ホワイトラムを注ぎ、冷えたコーラを満たし、マドラーを挿してカウンターに置いた。

三人がグラスを合わせた。カチ~ンと音が小さく響いた。誰も先に口を利こうとしなかった。静かな時間が流れた。

有線放送からはクラシックのピアノ曲が流れていた。

「リストの『愛の夢』ね・・・。あたし大好・・・き。」

登美ちゃんの瞳から涙が次々とこぼれてカウンターに落ちた。

どうなるんだ、この展開は・・・・僕はグラスを磨く手を動かしながら、三人の会話に耳を傾けた。

午前4時を回った時、山口氏の弟の明氏が登場したのだった。涙を流す美貌のニューハーフ登美ちゃんを真ん中に、山口氏と弟の明氏が並んで座った。彼等にとっては、残酷とも言える無言の時間が流れた。白カラス亭の中には僕とこの不思議な三角関係の兄弟と登美ちゃんの4人だけが居た。僕を除く3人の当事者達は、僕がグラスを磨くのをただ何となく眺めながら、じっと有線放送から流れるリストのピアノ曲『愛の夢』を聴いていた。

「二人とも、どうする、つもりよ・・・・何か言って!」

しびれを切らした登美ちゃんが視線を下にしたままで誰とも無く言った。指でカウンターに、こぼれた涙で文字を描いていた。

「よりを戻してくれないか・・・・。」

地味で目立たない、風采(ふうさい)のまるで上がらない、地方都市庶務課長風山口氏がポツリと言った。スポーツ選手並みの野性的な弟は無言だった。どうしてこんな両極端な二人が兄弟なのか僕は不思議な気持ちで二人を交互に眺めた。僕が人類学者だったら、この二人の兄弟の違いは立派な研究対象になる筈(はず)だ。

「貴方はどうなの、黙ってないで何とか言って!」

涙で取れたマスカラをそのままに、登美ちゃんは明氏に顔を向けた。

「・・・・・・。」

明氏は依然(いぜん)として黙したままで、ただただ宙を見つめていた。時々思い出したように、キューバ・リーブルのグラスを唇に運んだ。

「ねぇ、どうして、応えてくれないのよ!もう、もう、あたしが嫌いになったの!ねぇ、何とか言ってよ!」

マスカラが涙で流れ、目の周りは真っ黒でまるで新種のパンダだったが、登美ちゃんの必死の表情は美しさを通り越して壮絶だった。登美ちゃんが両腕で明氏のベルベットの上着を掴(つか)んだ。明氏は登美ちゃんの腕を丁寧に解(ほど)いて椅子から立ち上がった。何で椅子から立ち上がったのか、僕は一瞬迷った。明氏の体からシャネルの男性用コロン『アリュール・オム』が香った。

「え、ええっ!ちょ、ちょ、ちょっと、待って下さい。」

僕は驚いて声を上げ、手にしたグラスを床に落っことすところだった。

地味で、風采(ふうさい)の上がらない、某有名和食割烹の板長で和食の鉄人の山口氏とサッカー選手似の飛び切り野性的で長身の、山口氏の弟である明氏とニューハーフの登美ちゃんがカウンターで不気味な静寂に包まれていた。リストのピアノ曲、『愛の夢』が有線放送から流れ、登美ちゃんが大粒の涙をカウンターに落としたところから、凍り付いていた状況が動きだした。それまで終始無言だった、弟の明氏がいきなりカウンターの椅子から立ち上がって、ベルトを外しジーンズを床に落とした。明氏の日焼けした真直ぐで、形の良い長い脚が現れた。『アリュール・オム』が香った。僕は止める暇(ひま)さえなく、拭いていたグラスをかろうじて落とさずに済んだ。

「あ、あ、あきら・・・、あきら・・・、そ、そ、そ、そのブリーフは・・・・!」

登美ちゃんが、全部を言えずに喉(のど)を詰まらせた。明氏の日焼けした長い脚の付け根には黒いビキニのブリーフが、ぴったりと、まとわり付いていた。

「ああ、彼女から貰った。」

明氏はぶっきらぼうに、それだけを言った。

「あたしが、あたしが、揃(そろ)えてあげた豹柄(ひょうがら)やライオン柄や、野生の王国シリーズのブリーフはどうしたのよ、す、棄てたのね。・・・・やっぱり、昔の、昔の、昔の彼女の所に戻ったんだ。」

登美ちゃんの両方の瞳から再び大粒の涙がこぼれて頬を濡らした。その時だった、今度は山口氏が椅子から立ち上がって、勢い良く、ベルトを抜いて、ズボンのジッパーを下げ、彼までズボンを脱ぎ捨てた。弟の明氏とは違って、華奢(きゃしゃ)ですね毛の少ない白い綺麗な脚が見えた。

「と、と、登美ちゃん。み、見てくれっ。俺は、俺は、俺は・・・今でも登美ちゃんが買って呉れた野生の王国シリーズ、ピンクの象さんブリーフを穿(は)き続けているんだ。今日のブリーフは登美ちゃんが、一番気に入っていた象さんの柄(がら)だよ。よ、良く見てくれっ!」

山口氏が悲痛な声で叫んだ。確かに山口氏は、弟子達に見られてしまった、ピンクの象さん柄(がら)のブリーフを穿(は)いていた。

さてさて、どうも変な具合になってしまった。ニューハーフの登美ちゃんを挟(はさ)んで、両側にズボンを下げた男性二人が、真剣な面持ちでブリーフを見せ付けているのだ。とても尋常な光景とは言えなかった。既に帰った銀座連合会三丁目支部会の会長も今日は尻を出すし、今また二人の男性が尻というかブリーフを出していた。『尻取りやってんじゃないよ!』と僕は頭の中に浮かんだ、自分の言葉に可笑(おか)しくって思わず噴出しそうになった。

カウンターに顔を伏せ、声を上げて泣いていた登美ちゃんが、はっと顔を上げた。

「明、もういいよ。山ちゃん、有難う。二人ともズボンを上げて。・・・・明、いいよ、いいよ。もう彼女のところに戻りな。山ちゃん、有難う。山ちゃんの気持ち、凄く嬉(うれ)しいわ。でも、山ちゃんとは、もう元に戻らない。今、たった今、決めたの。

明日から、生まれ変わって、新しい彼氏を捜すわ。ニューハーフにだって、意地はあるのよ。」

がっくりと肩を落とした山口氏の落ち込みようは、可哀想なくらいだった。背中は亀のように丸くなっているし、顔は青ざめ、足は引きずっていた。これが50人からの弟子に恐れられている和食の鉄人とは思えなかった。それから数分後、登美ちゃんを一人残して、山口氏兄弟が静かに帰って行った。

「山口さん、辛いかも知れないけど、貴方には貴方の持っている技術を弟子達に伝えるお仕事が残っていますよ。料理は伝わって行く歴史だって、さっきそう仰ったではないですか。是非、歴史をお弟子さん達に伝えて下さい。」

僕はそっと山口氏の背中に言った。山口氏は振り返らなかった。お店に残っている登美ちゃんのお相手をしてあげなくてはならない。白カラス亭も、人生相談までして何かと忙しいと僕は痛感した。

午前4時を回っても、師走のガス灯通りは、時々酔客が大声で歩いている。山口氏兄弟が帰って、白カラス亭の中は、ニューハーフの登美ちゃんと僕だけになった。

「白カラス亭さん、有線放送の音楽もっと大きくしてくださる?それと、スプリッツアーお代わり。」

登美ちゃんが、マスカラのとれたオネエのパンダ顔で僕に言った。リストのピアノ曲『愛の夢』の後、何曲か流れていたが、今はショパンのオーパス66『幻想即興曲』がその美しい旋律をピアノが奏(かな)でていた。

「登美ちゃん、トイレで顔のメークを少し直した方が良くないか?まるでパンダになってるよ。可愛い新種のパンダだけどね。」

「ええ、有難う白カラス亭さん。このショパンの『幻想即興曲』を聞いたら、直してくるね。」

その時、白カラス亭のドアが静かに開いた。登美ちゃんがはっ、と視線をドアに向けた。ドアから入って来たのは山口氏の弟の明氏だった。冷たい外の空気と一緒にシャネルのオーデコロン『アリュール・オム』が香った。

「ああ、良かった。もし、山ちゃんが戻ってきたら、どうしようかと思ったわよ。」

登美ちゃんがホッと胸を撫(な)で下ろした。

「ごめん、ごめん。しょぼくれている兄貴をタクシーに乗せて帰した。これから、築地市場に行くんだって、頑張っていたけど、帰したから大丈夫、戻って来ないよ。白カラス亭さん、色々と知恵をお貸し下さって有難うございます。」

サッカー選手似の明氏が長い脚を組んで勢い良く、登美ちゃんの隣の椅子に腰掛けた。こうやって二人並んで見ると、本当に美男美女の組み合わせだったが、片方はニューハーフだから世の中は摩訶不思議だと僕は思った。

「いえいえ、山口氏には申し訳なかったのですが、これが一番の解決方法だと思いました。」

僕は登美ちゃんと長身で野性的な明氏に笑顔で応えた。

「ええ、僕も登美ちゃんに大根で頭を殴(なぐ)られて、一時的に頭に来て、兄貴のマンションに転がり込んだんですが、兄貴が未だに登美ちゃんへの想いを、抱き続けている事を知りました。本当にその時、白カラス亭さんに相談しておいて良かったと思います。」

山口氏の弟の明氏と登美ちゃんが何度も何度も僕にお辞儀を繰り返した。

「このような日が遅からず来るとは思ってましたので、この際山口氏には、お二人の土俵からご退場願った方が皆様の幸せに繋(つな)がると勝手に判断しました。これは年の功というより、皆様よりちょっと年を取った、銀座のバーのマスターの直感なんです。それに、山口氏から直接聞いたのでは無いですが、来月年明けに、山口氏はニューヨークの支店に赴任(ふにん)するそうです。世界無形文化遺産となった和食の鉄人として、またニューヨーク店のお料理のテコ入れとのことです。ちょっと以前に、銀座連合会三丁目支部会の会長さんからの情報です。」

僕は二人の知らない情報をリークして、軽くウインクして見せた。

「ええっ、本当ですか?・・・兄貴がニューヨークに。」

「山ちゃん、ニューヨークに。」

明氏と登美ちゃんが同時に声を上げた。明氏の綺麗な歯が白く光って見えた。

「これで、山口氏は登美ちゃんのことを本当に諦(あきら)めてくれると思いますよ。」

「これでも、結構真剣にお芝居したのよ。明に黒のブリーフ買ったり、大変だったんだから。でも本当に泣けてしまって、自分でも迫力本当に感じたわよ。でもさ、明の黒いブリーフちょっと良いと思わない、白カラス亭さん!・・・野生の王国シリーズより良いかも。」

登美ちゃんがパンダ顔のままで笑った。マスカラが流れて頬に二本黒い筋を描いていた。

「ニューヨークかぁ、本場のニューハーフを連れて帰国したりして・・・。あ、いて、て、て、何するんだよっ!」

「本場のニューハーフに鞍替(くらが)えしようってんじゃ、無いわよね。」

登美ちゃんが明氏の腕を思いっきりつねったらしい。

「しかし、兄弟で一人のニューハーフを取り合うなんて、何の因縁なんだろう。」

僕は、誰に言うでもなく独り言を呟(つぶや)いた。登美ちゃんと明氏はこれで無事に元の鞘(さや)に納まるだろうと僕は思った。

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