第4話
「騙(だま)されたとんでも芝居」
銀座3丁目ガス灯通りの真ん中、焼き鳥屋の隣にある小さなバー 「白カラス亭」は午前零時を過ぎても、 ほぼ満席状態だった。銀座連合会三丁目支部会会長と奥様のお二人のリクリエーション的夫婦喧嘩も一応一段落して、僕はほっと嘆息(ためいき)をついた。しかし、いくら常連客の会長とはいえ、70歳近くの老人の尻を見たいとは誰だって思わない。ところで、六丁目のギャラリー『恋の旅人』のオーナーである山根祐子という女性は某有名○○デパートの社長の愛人だと決定したのだろうか?僕は一抹(いちまつ)の不安と何かすっきりしない、もやもやした気持ちに襲われた。そんな時だった、白カラス亭自慢の木製輸入ドアが勢い良く開いた。3丁目支部会会長と年恰好は同じくらいだが、会長より一回り体格の良い、話題の主、某有名○○デパート の社長がひょっこりと顔を出した。結構赤い顔をなさっている。どこかで相当召し上がって来たようだ。
「いよっ、白カラス亭のマスター。元気かい、商売繁盛だね・・・。おや、奥に三丁目支部会の会長ご夫妻がいらっしゃるじゃないよ。お~い、会長さん!」
「あ、あ、あいつだ。○○デパートの社長だ。」
三丁目支部会の会長が、カウンターの奥から、すっとんきょうな声を上げた。会長の奥様も一緒にドアのところに立つ恰幅の良い中年男性に視線を送った。
「社、社長!お車 をどうしますか、社長!」
男性秘書が某有名○○デパート社長の後を追いかけて、店の中に入って来た。
「あ、君はもういいよ。運転手に送ってもらいなさい。わしは、もう一杯 この店で飲んでから、タクシーで帰るから。」
「もう既に3件もハシゴなさっていらっしゃるのですから、今夜はお帰りになった方が宜しいかと・・・・。」
男性秘書は小さくなりながら、社長に言った。
「あ~ん、何じゃと。わしは、此処(ここ)で飲んでいくんじゃよ。お前はさっさと帰りなさい、ひっく、うっぷ、ひっく! 」
社長が男性秘書をゲップをしながら怒鳴(どな)り飛ばした。
「大丈夫ですよ、大丈夫。僕が責任をもって、社長をタクシーに乗せて差し上げますから。社長もこのように仰(おっしゃ)ってますから、どうぞ、お先にお帰りになってください。」
僕は男性秘書が帰りたがっているのを見て助け舟を出した。
「そうですか、ではお言葉に甘えて、先に帰らせて戴きます。・・・あ、そうそう、これ、○○デパートのタクシーチケットですので、うちの社長がタクシーに乗る時、タクシー運転手にお渡し下さい。社長は財布を持ち歩いておりませんので、今夜の飲み代は私にご請求下さい。」
男性秘書は、僕に○○デパートのタクシーチケットと自分の名刺を渡して、そそくさと退出した。入り口付近に陣取っていた、デパート三人娘 は珍獣でも見るような目付きで、自分の勤務先の社長の顔をじっと見つめた。
「この酔っ払いのオジサンが、うちの○○デパート社長さん?・・・・嘘っそう!」
律ちゃんと黒ちゃんが同時に叫んだ。
「し、し、し。お黙り。本物よ!」
流石に年長の敬ちゃんが若い二人を静かにさせた。松木幸四郎と乳母車のトイ・プードル がきょとんとした瞳で三人娘 と○○デパートの社長を交互に見た。
「あちゃ、ちゃぁ~!」またトラブルにならなきゃいいけど。僕はずかずかと遠慮なく店内に入る○○デパートの社長を目で追った。足取りが怪しいぞ、と僕が思った瞬間、トイ・プードルの入った乳母車を蹴飛ばした。中のトイ・プードル が『キャンッ!』と鳴いた。デパート の社長はほとんど酔っていた。松木幸四郎が目を吊り上げて、椅子から立ち上がった。天井に着きそうな巨体だ。
「俺の犬に何すんだ、この酔っ払いっ!」
100m四方にも聞えそうな大声だった。他のお客様もびっくりして立ち上がった。
「あん?なんだぁ~。この蛸(たこ)坊主!」
流石に1000人からの社員を擁する○○デパートの社長だけある。でかい図体に負けてはいない。
「待った、待った、待った。お二人ともお座り下さい。いいですか、この白カラス亭での喧嘩(けんか)や揉(も)め事は一切お断りです。もし、どうしても喧嘩(けんか)なさりたいのでしたら、直ぐにでもお引取り下さい。如何ですか、お二人とも大人しくお飲みになりますか?」
僕もたまには、怒ることもあるのだ。二人は渋々椅子 に腰を下ろした。
乳母車のトイ・プードル を巡って、危うく松木幸四郎と○○デパートの社長のファイトが始まりそうだったが、僕の一喝(いっかつ)で何とか収まった。この僕だって、そうそう何時もニコニコと営業スマイルをしている訳ではない。怒るときは怒るのだ 。
「二人とも追い出されたくなかったら、ここで握手して下さい。宜しいですね!」
僕は厳格(げんかく)な面持ちで二人に言った。
「ああ、すまん。つい口が滑(すべ)ってしまった。謝(あやま)る、謝(あやま)る・・・、許してくれ、ひっく、うっぷ、ひっく! 」
○○デパートの社長が松木幸四郎に天辺(てっぺん)が薄くなった頭を90度下げた 。
「あ、いやぁ~、こっちこそ。すみませんでした、大声出してしまって。ついこの犬 のことになると、我を失ってしまうんで。こちらこそ、申し訳ございませんでした。」
修行は足りないが、やはりお寺の跡取り息子だ。松木幸四郎も巨体を折り曲げるように謝罪した。ま、何とか大事にならなくて済んだようだ。某有名○○デパートの社長は鉄錆(てつさび)色のダブルのスーツをまとい、紫のネクタイと同色のチーフでコーディネートしていた。靴は渋い茶色のサイドゴアブーツを履(は)いていた。流石に大手の○○デパートの社長らしくそれなりの格好をしている。銀座連合会三丁目支部会会長とそっくりな金縁の眼鏡 を掛けている。遠目では二人は非常に良く似て見える。違いと言えば、○○デパートの社長が一回り大きいくらいだ。デパート の社長が三丁目支部会会長の隣に座った。会長の奥様が、会長の前から、会長を押しのけて身を乗り出すように、○○デパートの社長に話し掛けた。
「お久し振りですこと。たった今、社長さんの事、噂にしてたんですのよ。くしゃみがでませんでしたこと?」
会長の奥様は、「貴方の重大な秘密を知っているぞ!」ってな顔で○○デパートの社長に言った。美人の奥様のお顔に余裕の笑みがこぼれている。
「これは、これは、三丁目支部会会長の奥様。お久振りですな。・・・あ、何ですか、私の噂話で、ご夫婦で盛り上がっていらっしゃったんで。それは、それは、ご夫婦仲のよろしいことで・・・。すいません、どうも・・・すっかり酔っ払って、呂律(ろれつ)が少々怪しいのでお許し下されぇ。ひっく、うっぷ、ひっく!」
「社長、相当ぐらついておりますが、ウーロン茶 の熱いのでも差し上げましょうか?」
僕は、これ以上酔っ払った人間を相手にはしたくなかった。
「あん?・・・何の、何の、何の・・・・。うぃっ、何時もの。何時もの、呉れよ・・・、ひっく、うっぷ、ひっく!」
何杯飲んで、何を食べて来たのか、物凄い悪臭のゲップを顔に掛けれれてしまった。ネギとニンニクとニラとクサヤの干物のカクテル臭が充満した。
「うっ、臭(く)さ。・・・え、あ、はいはい。何時ものと仰られてもねぇ。そうそう何時も来られている訳ではないので、何が何時もの、お飲み物か検討付きませんが。」
僕は、三丁目支部会会長に目配せした。
「白カラス亭さん。この人は何時もシングルモルトウィスキー、マッカランの25年のオン・ザ・ロックだよ。確か、白カラス亭さん、お宅と同じ物を愛飲している筈だよ。」
三丁目支部会会長が僕に、何気なく教えて呉れた。しかし、奥様は敏感でいらっしゃった。
「あら、随分お詳しいのですこと。貴方様はこちらの○○デパートの社長様とは何時もご一緒にお飲みになっていらっしゃるのですか?」
「あ、いやいや、何時も、ってなことでは無いよ。時々だよ。時々。彼も銀座連合会の常任理事をしているんで、連合会の定例理事会でお目に掛かるんでね。」
「あら、そうでございましたか。連合会の定例理事会では、お好きなお飲み物 の発表もなさるのでございましたか。結構なお集まりでございますわね。ところで、丁度良い機会でございますこと。社長様に、例の六丁目のギャラリー『恋の旅人』のオーナーの山根祐子さんのこと伺(うかが)ってみませんこと?」
奥様のその一言で三丁目支部会会長の顔色がそれこそ、さぁ~っと青ざめた。瞳が飛び出さんばかりに金縁(きんぶち)眼鏡 の奥で、大きく見開かれた。
「あ、あ、あ、いや、いや、今日、今日は、辞めた方がいい。そう、そう、今日は辞めとけよ。彼もこんなに酔っ払っているし、・・・酔っ払いの戯言(ざれごと)で終わってしまうから、ね。 」
「あら、貴方様のことでは無いのですから、貴方様がそのように慌(あわ)てなくてもよろしいじゃありませんの。おかしな方ねぇ。」
「おやっ?」と僕は思った。さっき大団円を迎えた夫婦バトルではなかったのか?確かに三丁目支部会会長の慌(あわ)て様子は尋常(じんじょう)ではなかった。○○デパートの社長は勝手にカウンターの上で、だらしなく、涎(よだれ)に頬を濡(ぬ)らし、眼鏡をすっ飛ばしてうたた寝を始めていた。何だか複雑になって来そうな予感がした。
銀座連合会三丁目支部会会長の話は、あれが全てでは無かったのだろうか?僕はまた心の中に疑問 が浮かんできた。美人で聡明な支部会会長の奥様も、やはり何か不自然なものを感じているらしい。このままだと、朝方まで、奥様は諦(あきら)めずに追及(ついきゅう)の矛先(ほこさき)を○○デパートの社長に向けるに違いないと僕は思った。
「社長、社長、何時ものマッカラン25年のオン・ザ・ロックですよ。」
椅子に座ったまま、今度は仰向けで、いびきを搔(か)き続ける社長に僕は声を掛けた。
「ん、ん、何だ、マッカラン?・・・・注文してないぞ!」
社長はそれだけ言って、再びいびきを掻(か)き始めた 。時々呼吸するのを忘れているようだ。無呼吸症候群に違いない。金縁の眼鏡 はとっくに顔からすっ飛んでカウンターの隅に放り投げて在った。鉄錆(てつさび)色のダブルのスーツに涎(よだれ)が糸を引いて落ちた。
「いやだぁ~、いびき掻(か)いて寝ちゃってるぅ。あの人本当にうちの社長さんなの? 」
黒ちゃんが敬ちゃんに声を掛けた。
「あ~あ、涎(よだれ)が垂れている。ほんとにぃ、この人社長?・・・ただの酔っ払いオヤジじゃん!」
律ちゃんも、汚(けが)らわしい物を見る目つきで言った。
「駄目ですよ、そんな事を仰(おっしゃ)っては! あなた方の○○デパートの全責任を、一人で背負っていらっしゃる方ですよ。・・・この白カラス亭は、そのような方々が安心して、お酒を飲んで、本来の自分を取り戻しに来られる場所でもあるんです。いいじゃないですか、涎(よだれ)を垂らそうが、眠ってしまおうが、オナラをしようが、呼吸を忘れようが、好きにさせておあげなさい。」
僕は三人娘と松木幸四郎にそれとなく言った。何時もは偉そうに威張(いば)ってるが、時々立ち寄る飾り気の無いこの○○デパートの社長が、僕は大好きだった。
と、その時、三丁目支部会会長の奥様が会長に向き直った。美しい横顔に再び怖(こわ)い影が差した。
「貴方様のことを、疑ったりして申し訳ないと、先程は後悔しておりましたの。でもこの社長様がいらっしゃって、少々私にも疑問が生じております。私、これから山根祐子さんにお電話 して、もし可能だったら、ええ、もしお時間がおありだったら、此処(ここ)に来て戴きますわ。」
「そ、そ、そ、そんな・・・・。もうこんなに遅い時間だし、そ、それに、その方にだってご迷惑が掛かる。やめ、やめ、止めようよ。社長さんにだって、彼の名誉がある。非常識だ!」
「あら、貴方様が何故そのように、拒(こば)まれるのか不思議でございますわ。だって、そうじゃありませんこと。山根祐子さんが目の前で、真実を証言されることで貴方様への疑念が払拭(ふっしょく)されるではありませんか。」
「そ、そりゃぁ・・・そう・・だ・が・・・。何も今そのように・・・。」
三丁目支部会会長は返す言葉もなく黙ってしまった。会長の全脳細胞は今、激しく活発に動き出し、この事態をどのように回避すべきか、必死で策を練っているに違いなかった。一難去って、めでたしと思った矢先、再び振り出しに戻ってしまった。三丁目支部会会長の額にまたもや汗が滲(にじ)み出ていた。
銀座連合会三丁目支部会会長の奥様が携帯電話 をシャネルのキルティングバッグ から取り出した。本気で山根祐子さんを呼び出すつもりらしい。三丁目支部会会長が度の強い金縁(きんぶち)眼鏡の奥で目玉を真ん丸く見開いたままで、固まっていた。白カラス亭の壁の時計 が、午前零時30分を指していた。 某有名○○デパートの三人娘 と松木幸四郎が、やっと立ち上がった。
「私達これで帰りま~す。有楽町駅の最終電車に間に合わなくなるので・・・。今夜は本当にお騒がせでした。 それと、うちの社長よろしくお願いします。」
敬ちゃんが一番の年長らしく、カウンターにうつ伏せで寝る 社長を指しながら頭を下げた。
「お騒がせでした~あ!また、美味しい物食べに、寄らせて貰いま~す。 社長をよろしくお願いしま~す。」
律ちゃんと、黒ちゃんが年長の敬ちゃんを真似(まね)て言った。
「はいはい、何時でもお待ちしておりますよ。でも、できるだけトラブルは持ち込まないで下さいね。ああ、それから松木さん、貴方もこれからは寄って下さいな。」
「はい。これからは、ちょくちょく顔を出させて貰います。犬が一緒でも良いですか?」
松木幸四郎がトイ・プードル の乗った乳母車を押しながら指が2本少ない方の手 で毛の無い頭を掻(か)き毟(むし)った。
「は、は、は、は・・・。今夜だって犬と一緒に入ってたじゃないの。構いませんよ、犬が一緒でもね。」
有楽町駅午前1時の終電が出る前の時間は一旦お客様が引く時間帯だった。白カラス亭の中には、三丁目支部会会長ご夫妻と某有名○○デパートの社長の3人と僕だけになった。会長の奥様が再び携帯電話の番号を押した。一度目は不在のようだった。奥様の美しいお顔に美しい緊張が走った。
「あ、あら、山根様のお宅で?祐子さんよね。私でございます。ええ、静子です。先程は有難うございました。ええ、はい、一度目は電話にお出にならなかったので、もうお休みになられたのかと・・・。ああさようで、お風呂 に入られていらっしゃった。そうでございましたか。ところで、祐子さん。もうこんなお時間でございますが、もしよろしかったら、銀座三丁目まで、これからお出で掛けになりませんこと?私の主人と○○デパートの社長様もご一緒に、ええ、ちょっと飲んでおりますの。祐子さんのお住まいは・・・そうでしたわ、赤坂ですわね。そこからでしたら、タクシーで10分ほどで此処(ここ)に来れますわ。え?・・・もう、メイクを落としてしまったので、これからまたメイクするのは大変。ああ、そうでございますわよね。女性がスッピンで皆様の前に出ることはねぇ・・・。判りましたわ。ではまた、次回と言うことで。ええ、遅くに失礼致しました。ええ、はい、お休みなさい。」
三丁目支部会会長の奥様はがっかりした様子で携帯電話 をシャネルのバッグ にしまった。横で会長がホット肩から力を抜いたように見えた。
「六丁目のギャラリー『恋の旅人』のオーナーはお見えにならないのですね?」
僕はさりげなく、奥様に聞いた。奥様のお顔に疲れが見えたが、それが何とも妖艶(ようえん)だった。
「ええ、『お風呂ですっかりメイクを落としたので、スッピンだからお断りします』っ、て仰(おっしゃ)ったわ。う~ん、本当に残念ですわ。彼女が此処(ここ)に来たら、何もかもハッキリしましたのに・・・」
物事をハッキリさせるのは良い事かも知れないが、世の中、何でもかんでもハッキリさせれば良いとは限らないと僕は思った。
ガス灯通りも、終電に間に合うように有楽町駅を目指し、急ぎ足で男女の群れが通り過ぎる。僕は店内の壁掛け時計 を見た。そろそろ午前1時になるところだった。銀座連合会三丁目支部会会長と奥様は、交わす言葉も少なく、空になったグラスをただ所在(しょざい)無げに触っていた。その隣で○○デパートの社長はカウンターに伏せ大きな鼾(いびき)を立てていた。どうせ彼は、オーダーしたウィスキーに手をつけないだろうと思った僕は、ザ・マッカラン25年のオン・ザ・ロックから氷を取り出しておいた。氷が溶けてしまっては、せっかくのウィスキーの味が台無しになってしまう。時計が午前1時の時刻を指した。壁掛け時計の1時の処の扉が開いて、中からカラスが飛び出して、カァーカァーと鳴いた。特別に作らせたカラクリ時計を三丁目支部会会長夫妻が珍しそうに眺(なが)めた。その時、白カラス亭ご自慢の輸入の大きな木製扉が静かに開いた。外でタクシー が発車するのがチラッとドアの隙間(すきま)から見えた。
「いらっしゃいませ。カウンター席だけですが、どこでも空いているお席にお座り下さい。 」
僕は初めて見る顔のお客様に声を掛けた。入って来たのは、女性だった。黒の大きな鍔(つば)付き帽子に黒のパンツスーツに黒のタートルネックセーター。更に黒のサングラスだ。カシミヤらしい上等なコートも黒だ。ただ、無造作に首に巻いたマフラーだけは鮮やかな赤だった。マフラーに合わせリップも同色の赤だ。近くの宝塚劇場から歩いて来たのかと思うような出で立ちだった。豊かな黒髪が帽子の下から肩に流れていた。夜中に黒のサングラスが見事にマッチしているのが不思議だった。三丁目支部会会長ご夫妻は新しいお客様に、ごく自然に視線 を送ったが、奥様は直ぐに興味なさそうに視線を戻した。ただ、三丁目支部会会長がそっと視線を足元に落としたのが、気になった。
「何になさいますか?簡単なお食事もご用意できますが・・・。」
「あら、本当?・・・私このお店初めてなんですの。・・・食事はもう済ませたので、何か食後の・・・・。」
「では、アイリッシュコーヒーは如何ですか?外は寒かったでしょうから。」
「ええ、そうね。アイリッシュウィスキーは少な目でお願いします。」
彼女はカシミヤのコートと大きなつば付きの帽子を壁のフックに掛け、椅子に腰を下ろした。長い豊かな黒髪が彼女の肩の上で揺(ゆ)れた。一つ席を空けた隣で○○デパートの社長が寝息を立てていた。彼女は○○デパートの社長にチラッと視線を向けた。
僕は、グラスに角砂糖1個とアイリッシュウィスキーを入れ、熱いコーヒーを注いだ。コーヒーの香りが店内に充満した。冷蔵庫からホイップした生クリームを取り出し、その上にそっと浮かべた。熱いコーヒーの上でホイップクリームがグラスの上五分の一にスーッと広がった。生クリームの上にコーヒー粉末を散りばめた。
「どうぞ、グラスが熱いのでお気をつけください。」
彼女はロングスプーンを上手に使って、フロートしたホイップクリームをすくって赤い唇に運んだ。そして、彼女は軽くスプーンを唇で挟(はさ)んだ。何とも色っぽい仕草だった。年齢はサングラスで不明だったが、30代だろうかと僕は思った。初見(しょけん)の女性のお客様がお一人でお見えになるのは、この銀座では珍しい事ではなかったが、僕は何故かこの女性が気になった。
午前1時を回った時、初めて見る妖艶(ようえん)な女性客が現れた。黒いパンツスーツに黒のタートルネックセーター、黒の鍔広(つばひろ)帽子、黒のサングラスと黒尽くめだったが、首に巻いたマフラーが真赤だった。唇にも同色のリップカラーを使用していた。熱々のアイリッシュコーヒーを持ち上げた、形の良い指の爪はやはり同色の赤いネイルが丁寧に塗られていた。二口、三口、アイリッシュコーヒーを啜(すす)った彼女は、おもむろにサングラス を外して、髪を整えるように耳の辺りを触った。僕は、「ほほぅっ!」と感心した。彼女はこの銀座でもあまりお目に掛かることのない、洗練された美人だった。程よく弧(こ)を描く眉、澄んだ瞳、通った鼻筋、形の良い唇に女優のような華やかさも併(あわ)せ持っている。誰だろうか?と僕が思った時、彼女がカウンターで寝息を立てる○○デパートの社長の横に移動した。
「大丈夫、・・・起きて、耕太オジサン!」
女優と言ってもおかしくない彼女が○○デパートの社長の背中を、労(いた)わるように優しく白い手で撫(な)でた。
「ええっ、えっ!耕太オジサン??この方は貴女のオジサン?」
三丁目支部会会長夫妻と僕の3人が同時に同じ驚きの声を発した。
「??・・・私、何か可笑(おか)しな事でも、申し上げたかしら?」
今度は彼女の方が不思議な顔をして、店にいる3人の顔を一人ずつ眺(なが)めた。
「○○デ、デ、デパート の社長の姪御(めいご)さんなのぉ!」
すっとんきょうな声を三丁目支部会会長が上げた 。
「ええ、私は山根祐香(ゆうか)と申します。この人は私達の死んだ母の兄で、古川耕太。ご存知ですわね、銀座中央通りの○○デパートの社長をしてます。」
「ええっ!・・・今何て仰(おっしゃ)いました!山根祐子さんって、だって、エステで私が何時もご一緒させて戴く方は違う方ですわ・・・・。」
「ああ、奥様ですね。三丁目支部会会長の奥様で、老舗(しにせ)すき焼き割烹の副社長様でしょうか?ええ、そうなんです。私、何時も姉と間違われるんですの。名前が良く似てますので、でも見かけは全然別人のように違いますの。姉は山根祐子で私は山根祐香(ゆうか)です。二人で六丁目のギャラリー『恋の旅人』のオーナーをしております。共同経営者ってとこかしら。」
「で、でも、どうして、今夜此処に・・・・?」
三丁目支部会会長の奥様は突如(とつじょ)として現れた御自分より若い美人に戸惑(とまど)っていた。
「ええ、私と姉は同じ赤坂のマンションに二人で住んでますの。私が先程、帰宅しましたら、お風呂 上りの姉から、伯父がガス灯通りの白カラス亭 で飲んでるから、見に行くように言われましたの。それと3丁目支部会会長の奥様からお電話があったことも。姉からは奥様の事、聞かされてましたので、直ぐに奥様だと判りました。ご挨拶(あいさつ)が遅れて申し訳ございませんでした。つい、酔い潰(つぶ)れている伯父が気になりましたもので・・・・。」
「そうでございましたか、山根祐子さんの妹さんで・・・・。山根祐子さんに是非お会いしたかったのでございます。どうしても、お会いして直にお尋(たず)ねしたい事が・・・。」
「はい。お話しさせて戴きましたように、姉はお風呂上りで、すっかりお化粧も落としてしまいまして。あのぅ、もし私でよろしかったら、ご質問にお応えできるかも知れませんわ。」
この答えに三丁目支部会会長の背筋がぴんっ、と伸びたように見えた。会長の度の強い金縁(きんぶち)眼鏡の奥で、小さな瞳が落ち着きなくキョロキョロしているように思えた。
三丁目支部会会長の奥様は山根祐子さんの妹、祐香(ゆうか)さんに何を聞いて、祐香(ゆうか)さんはどのような答え方をするのだろうか?僕は、三丁目支部会会長ご夫妻には悪いが、興味津々(きょうみしんしん)で成り行きを見守った。○○デパートの社長、古川耕太氏は相変わらずカウンターにひれ伏し、涎(よだれ)まみれで眠っていた。
銀座連合会三丁目支部会会長ご夫妻と○○デパートの社長とそこに突如(とつじょ)加わった、妖艶(ようえん)な美女山根祐香(ゆうか)の話に、僕もつい身を乗り出した。黒尽(くろづ)くめの山根祐香は真赤なネイルの指で優しくアイリッシュコーヒーのグラスの柄の部分を摘(つま)んだ。コーヒーの黒い液体とフローティングした白い生クリームが、形の良い赤い唇に触れた。彼女の白く細い喉(のど)が静かに上下した。
「祐子さんから、お聞きになっていらっしゃるかしら?私、祐子さんとご一緒に食事 をしましたのよ。その時、祐子さんのお口から、お付き合いなさっている男性が銀座中央通りの社長様であることや、その社長様のお尻に蒙古班(もうこはん)が未(いま)だに残っていること等、詳(くわ)しくお聴(き)きすることができましたのよ。お酒 を結構召し上がっていらっしゃったので、お口の方も随分と滑(なめ)らかでしたわ。そのお話を伺(うかが)った時、祐子さんがお付き合いしている男性って、うちの主人ではないかと、私本当に疑ったのです・・・。」
三丁目支部会会長の奥様が山根祐香(ゆうか)に話し始めた。奥様も人並み以上の美人なので、山根祐香(ゆうか)を相当意識しているらしい。既にライバル視している。
「ええ、何時もの事ですわ。姉の悪い癖(くせ)なんです。何時もお酒 が入ると、そのように大げさなお話を創(つく)って、いかにも自分が男性にもてているように言いふらすんですの。一種の自己陶酔(とうすい)ですわね。」
山根祐香(ゆうか)は慌(あわ)てず騒(さわ)がず、自然な調子で話しを続けた。赤いリップカラーと白い歯が美しいコントラストを描いた。
「奥様にお教えしますわね。私の姉が申し上げた、銀座中央通りの社長とは、この眠っている伯父のことですの。伯父は家が武蔵野で遠いんです。夜遅くなった時は運転手に武蔵野迄送らせるのは悪いからと、赤坂の私達姉妹のマンションに泊まることが結構多いんですのよ。伯父は我々姉妹の前でも、自分の家同様に振舞っておりますし、お風呂 上りに平気で素っ裸で、歩き回りますのよ。お尻の蒙古班(もうこはん)とは確かに伯父のことですわ。」
「え、そうなんですの!社長様のことだったのですか・・・・。でも、携帯電話 やバイアグラの件は・・・?伊豆の川奈ホテル から私の主人が泊まった部屋で携帯電話とピルケースの忘れ物があったと、送ってきましたのよ。その携帯電話の着信履歴から、私が電話を掛けたら、山根祐子さんに電話が掛かりましたの。それとピルケースの中にはバイアグラが入っておりましたの。主人は社長様から貰った物だと言い張っておりますのよ。」
「ああ、伯父が川奈のホテル から帰ってきて、携帯電話 を無くしたと騒いでおりましたわ。携帯電話は、私達姉妹が伯父に渡した物ですわ。私達姉妹にとって、伯父は母が亡くなった後、父親同然に私達の面倒を見て呉れてますの。でもう~バイアグラの件について私は存知ませんわ。」
「ああ、そうでございましたか。お父様は、既に・・・・?」
「ええ、父は私達姉妹が未だ幼い頃に病気で亡くなっております。母が女手ひとつで私達を育てて呉れましたが、何時も伯父が何かと助けて呉れておりました。それと、私、伯父の助けで、来月からニューヨークに移り住むことになりましたの。『恋の旅人』のニューヨーク店をオープンしますの。」
三丁目支部会会長の奥様は深い溜息(ためいき)をついて、カウンターにうつ伏せで眠る○○デパート の社長古川耕太氏を、きつ~く見つめた。
「あ~あ何だか、気が抜けてしまいましたわ。私お先に失礼しますわ。夜更かしは、この年になると、後を引きますでしょう。折角エステに行ったのに・・・・・。貴方様もいい加減(かげん)でご帰還(きかん)なさいませ。白カラス亭さん、タクシー を呼んで下さる?」
「タクシーは頻繁(ひんぱん)にこのガス灯通りを流しておりますので、私が捕(つか)まえましょう。」
「申し訳ございませんわね、お手を煩(わずら)わせて。私の飲み物の御代(おだい)は主人から貰って下さいな。」
「ええ、そのように致しますので、ご心配にはおよびません。」
僕は、銀狐(ぎんぎつね)らしい高級なコートを汚(よご)さないように奥様に手渡した。シャネルのキルティングバッグ を肩から提げた、三丁目支部会会長の奥様は、結局なんとなく煮え切らない顔をしてお帰りになった。白カラス亭自慢の輸入の大きな木製扉を開ける際も、未(ま)だ
釈然(しゃくぜん)としない面持ちだった。僕は、奥様の乗ったタクシー が視界から消える迄ドアの外で見送った。
銀座連合会三丁目支部会会長の奥様を乗せたタクシー がガス灯通りからマロニエ通りに左折するのを見送った僕は、白カラス亭自慢の大きな輸入木製扉を静かに開け、店内に戻った。店内には三丁目支部会会長と某有名○○デパートの社長と山根祐香(ゆうか)と名乗る女性が僕を待っていた。
「ねぇ、起きて、支部会の会長奥様はお帰りになったわ。もう起きても平気よ。」
山根祐香(ゆうか)が○○デパートの社長古川耕太氏の背中を優しく叩(たた)いた。
「帰ったか・・・。最初から寝てなんかいなかったよ。寝た振りをするのも大変な努力だな。・・・支部会会長、こりゃ高くつくぜ。」
○○デパートの社長古川耕太氏は、鉄錆(てつさび)色のスーツの上着の皺(しわ)を気にしながら、三丁目支部会会長の方を指して言った。
「すみませんでした。いや~ぁ、助かりました。皆様、本当に有難うございます。うちの家内も渋々納得したようなもんで・・・一時は、全く冷や汗 もんでした。」
会長が両手を合わせ、全員を拝むように答えた。
「このアドリブ代は高いよ。白カラス亭さんから、何とかあんたを助けて欲しいと電話を貰った時は、どうやってあんたの奥方を納得させるか真剣に考えたよ。なんたって、あんたの奥方は才色兼備でIQ150以上のやり手だから、男としては最も扱(あつか)い難い相手なんだ。」
「いやぁ~、もう、それはこの私が五十年近くも家内と一緒におるんですから、一番良く判っております。それにしても、白カラス亭さんが機転を利かせて、古川社長を呼んで呉れたのには本当に感謝ですわ。それにしても、全く見ず知らずのお嬢さんが山根祐子の妹だと名乗って入って来た時は、心臓が口から飛び出しそうでした。」
三丁目支部会会長が○○デパートの社長古川耕太氏と僕を交互に見た。
「僕も、この狭い店内で会長の奥様に知られないように、古川社長にお電話するのは、冷や冷やもんでした。山根祐香(ゆうか)さんが登場するのは僕も全然知らないことで、いや本当に驚きました。・・・そこまでするかっ、て思いましたよ。」
冷や汗を拭きながら、ほっとする表情の三丁目支部会会長に向かって、僕は古川社長を呼び出した時の状況を語った。
「いやねぇ、たまたま、この彼女がニューヨーク から帰国していてラッキーだったんだ。彼女はニューヨークを中心に舞台で活躍している女性だけど、日本ではそんなに知られた存在ではなかったんで、急遽(きゅうきょ)山根祐子の妹として一役買って貰った訳だよ。ま、こういう芝居は大胆不敵(だいたんふてき)に行った方が、効果は大きいからな・・・。」
「うん、うん、そうだろうなぁ。山根祐子から祐香(ゆうか)って妹がいるなんて、一度も聞いたことが無いし、またニューヨークに店を出すって話も聞いてなかったから、本当に一時は簡単に家内にバレルんじゃないかと、冷や汗もんだったよ。 」
三丁目支部会会長がしきりと汗を拭(ふ)いた。山根祐香(ゆうか)と名乗った美女はやはり、女優だった。それもニューヨークの舞台俳優だった。演技が上手な筈(はず)だ。彼女はにこにこしながら、我々が話す事の真相を聞いていた。
「だいたいね、あんたが川奈ホテルの部屋に山根祐子からの携帯電話を忘れたり、わしが折角あげたバイアグラを置いてきてしまうから、こんなことになるんだよ。それと山根祐子は口が軽すぎるぞ、わしにまで災難が降り掛かって来た。さっきは寝たふりをして、涎(よだれ)まで垂(た)らし、出したくも無い屁(へ)までこいて・・・。黙って聞いていたが、俺に蒙古班(もうこはん)なんか残ってないぞ。よくもまあ、しゃあしゃあと、とんでもない出鱈目(でたらめ)を言うもんだ、あんたからも、よ~く祐子に注意しておくんだな。 」
古川社長は怒っているようでも、30年来の親友である三丁目支部会会長を助けた男の友情に満足していた。
「山根祐子さんは本当に、社長、古川さんの姪(めい)御(ご)さんなんですか?」
僕はもっと知りたくなって、古川社長に聞いた。
「いいや、正確には姪(めい)では無い。山根祐子の死んだ母親とわしが従兄妹同士だったんで、彼女が何時もわしのことをオジサン、オジサンって呼んでいるだけだ。」
「でも、社長は支部会会長と山根祐子さんのご関係はご存知だったんでしょう?」
僕は核心に触れる質問をした。古川社長も三丁目支部会会長も僕にとっては友人ではあるが、そこいらの関係までは詳しく知らない。
「は、は、は、は・・・・ああ、知っていたよ。でも、この人の奥さんや白カラス亭さんが考えているような男女の関係では無いんだ。実は六丁目のギャラリー『恋の旅人』を出店する時、わしも三丁目支部会会長も相当な金額を出資したんだ。ところが、会長はそれを奥方にずぅ~と知らせないで、今日まで来てしまったのさ。」
○○デパートの社長古川耕太氏が同意を求める視線を三丁目支部会会長に送った。
「そうなんだよ、今更家内に正直に言っても、却(かえ)って男女の関係を疑われるだけだし・・・。それに、忘れてきた携帯電話 や、古川さんから冗談で貰ったバイアグラが疑いに火を注いでしまったんで、弁解すればするほど、手が付けられなくなってしまって・・・・、すまん! 」
三丁目支部会会長が皆に深々と頭を下げた。川奈ホテル に山根祐子さんが宿泊していたのは事実だが、絵画の展覧会の打ち合わせだったらしく、全くの偶然とのことだ。ここから今回の話がややこしくなって来たのは確かだった。そして、この僕、白カラス亭が結果的には大芝居をプロデュースしてしまったようだ。ま、それもこれも、僕等男3人の友情に裏打ちされた、咄嗟(とっさ)の大芝居だった。それにしても、山根祐香(ゆうか)と名乗る舞台女優の本名と電話番号を何とか聞き出そうと試みたが、ガードが固く、やんわりと逃げられてしまった。○○デパートの社長古川氏もついぞ教えては呉れなかった。こればかりは、友情は関係ないようだった。
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