第3話
「銀座三丁目支部会会長とんでもスキャンダル」
銀座3丁目ガス灯通りの真ん中に小さなバー「白カラス亭」がある。
銀座中央通りの某有名○○デパート の三人娘 と見掛けは恐いが心は優しい、お寺の跡取り息子は妙に仲良くなって勝手に盛り上がっている。散々僕をトラブルに引っ張り込んで、挙句≪あげく≫の果てに素性まで叔父さんだなんて偽って、人権侵害に戸籍詐称に個人情報漏洩だと僕は心の中で罵(ののし)った。しかし、『お客様貴女は神様です!』と、天の声が聞えたような気がして僕は下を向いて項垂≪うなだ≫れた。トイ・プードル だけが、きょとん、とした可愛い瞳で僕を見つめていた。午後11時 を回った頃、白カラス亭自慢の輸入木製ドアが重い音を立てて少し開いた。
「おや、会長。どうしたんですか、そんなところで。中に入って下さい。席も丁度空いてますから。どうぞ、どうぞ。」
銀座連合会三丁目支部会の会長がドアの隙間から、度の強い金縁眼鏡を指で触りながら、顔を覗かせた。おつむの天辺は少々後退気味だが、ゴルフ 焼けし黒光りする顔は、つやつやと健康そうに光っていた。とても60代後半とは思えない精力絶倫の雰囲気だ。
「うちの家内来なかった?」
「会長の奥様?いいえ、今夜は未だ一度も・・・・・。」
「あ、そう。・・・・・変だなぁ?」
「会長、そんなところで立ち話もなんですから、どうぞ・・・。会長のお店も、今夜はもう閉店でしょう?」
「ああ、うん、そうなんだけど・・・。」
三丁目支部会会長は気の無い返事をした。彼は銀座中央道りに明治の初めから店を構える、老舗のすき焼き割烹のオーナー社長である。会長の奥さんがその店の副社長を務めていた。
「ま、兎に角中に入って下さい。お腹空いてませんか、それとも何か・・・飲みますか?」
「じゃあ、ちょっとだけ・・・。」
三丁目支部会会長は再び眼鏡 を片手で軽く直す仕草をしながら入って来た。渋い濃紺のブレザースーツの胸に真紅のチーフと同色のネクタイが良く似合っている。副社長である奥さんが服装に煩≪うるさ≫いらしく、何時もダンディな恰好の社長だが、顔が日焼けしてかなり黒い 。
「おやぁ、白カラス亭に犬 がいる。こりゃ可愛い犬だ。どうしたの、この犬、乳母車なんかに乗っちゃって。」
「犬 ?ああこの犬ですか。ま、事情は今度ゆっくりご説明致しますから、どうぞ奥へ。」
薄暗く狭い白カラス亭の通路を、会長は蟹のように横向きに壁を伝って歩いた。
「あ、あ、どうも。すいません。すいません。」
松木幸四郎が気を利かすように乳母車を、少し横に動かした。しかし乳母車が大きく揺れて、中のトイ・プードル が慌てて落っこちそうになった。トイ・プードルの顔が焦ってるように見えた。その横を通った会長の上着を齧≪かじ≫って引っ張った。
「あ、大丈夫、大丈夫。あ、気にしないで・・・。」
会長は愛想良く松木幸四郎と三人娘 に言った。
「会長、本当にお腹空いて無いんで・・・・飲み物だけでよろしいんですか?」
「う~ん、そうだなぁ、空いて無いって事もないなぁ。」
心此処に在らずという返事を会長はした。どうも何かを考えている風だった。
「今日はローストポークのノルマンディ風 を作ったんですが、重いかなぁ・・・。」
僕はわざと会長を元気付けるように大きな声で言った。
「そうだなぁ、何か軽い物 がいいけど。」
「じゃぁ、『牡蠣(かき)とホウレン草のグラタン・フロレンティーヌ』は如何ですか?」
「ああ、それがいいな。何分くらい掛かる?」
「そうですね、20分もあればできますが。」
「じゃぁそれ作って。出来上がるまで一杯飲むよ。」
会長がやっと椅子 に腰を落ち着かせた。
「何時もの、ウオッカ・マティニーのツイスト・レモン・オン・ザ・ロック。ベリードライですね。ウオッカは勿論ストリチナヤで・・・。」
僕は会長の好みの飲み物を先に言った。
「うん、そう。」
どうも会長の視線 が宙に泳いでいるようで気になった。
「会長、今度ズブロッカ飲んで見て下さいよ。フリーザーに入れてあるんですよ。そりゃもう、トロトロ状態ですから。で、一緒にチェコのビール をチェイサーで飲んだら最高に旨いです。」
僕は横目でカウンター内の大型冷蔵庫に視線を向けた。
「ズブロッカってあの、ポーランドの香草が瓶に入ってる奴?文豪のサマセット・モームが絶賛したという・・・・。」
「あ、会長、お詳しいですね。その通りです。兎に角、香りが良いんです。」
「じゃ今度戴くよ。・・・ねぇ、本当にうちの家内顔出さなかった?」
会長がまた同じ質問を僕に繰り返した。やはり何かが気になっているようだ。
「いいえ、今夜は未だ・・・・。」
「あ、そう。変だなぁ・・・・? 」
どうも何か嫌な予感がしてきた。おいおい、今度は一体何が始まるってんだ 。勘弁してよもう・・・・。僕は何だかしめった気持ちになった。
どうも会長はお店の副社長である奥さんを先程から捜しているらしい。某有名デパートの三人娘 と、その筋の方より見た目は本物らしい松木幸四郎等から僕は解放された途端、今度は三丁目支部会会長の世話をする羽目になってしまった。乳母車の中からトイ・プードルだけが僕の動きを目で追っていた。僕は店の有線のチャンネルをジャズに回した。ジャズの古典「枯れ葉の子守唄」が静かに店内に流れて来た。
「会長、もう一杯作りましょうか・・・・?」
「いや、一杯だけでいいよ。・・・・本当にうちの奴、何処に行ったんだろうなぁ?」
会長は誰かに言うでもなく、独り呟≪つぶや≫くように言った。
「会長の奥様は携帯電話 お持ちじゃないんですか?携帯に電話してみればいいじゃないですか?」
僕は物凄く当たり前のことを言ったつもりだったが、会長がむっ 、とした顔で僕を睨≪にら≫みつけた。
「携帯なんかは持っとらんよ。そりゃぁうちの家内は持っているが、わしは持っていない。」
会長は毅然≪きぜん≫とした口調で背中を何故かぴん、と伸ばしながら椅子の上で姿勢を正した。
「あ、あ、そうでしたか、会長は携帯 がお嫌いなんでしたね?・・・でも携帯無かったら困りませんか?」
「あんなもん何の役にも立たんし、実に厄介≪やっかい≫な代物だ。使い方だって、わしは知らん。」
余程携帯電話 が嫌いらしい。携帯電話に怨≪うら≫みを持っていそうで恐いから、携帯の話を僕は打ち切った。『牡蠣とホウレン草のグラタンフロレンティーヌ』をフーフー言いながら会長は、スプーンに絡からみつく溶けたチーズと牡蠣を頬張った。やはりお腹は相当減っていたようだ。その時「白カラス亭」の電話 がチロチロチロチロと鳴った。「白カラス亭」だからって、電話はカァ~カァ~とは鳴らない。トイ・プードル が電話に気付いて、ワンワンワンと甲高い鳴き声で教えて呉れた。松木幸四郎の命を救った犬の血統は、やはり馬鹿ではない。
「はい、銀座3丁目ガス灯通り白カラス亭でございます。 」
僕は何時もの営業口調で電話を取った。
「白カラス亭さん、私、静子です。うちの社長そちらに伺ってます?」
三丁目支部会会長の奥様からの電話だった。
「あ、奥様!ええ、会長でしたら先程から来ていらっしゃいます。なんだか、奥様のこと随分と捜≪さが≫していらっしゃいましたけど。」
「あら、変だわねぇ。私、今夜は、お宅のバーの直ぐ先の、ほら有名なエステクラブを予約してありましたのよ。そこでお友達になった方とエステの後ちょっとお食事に行くからと、ええ、うちの主人にはちゃんと伝言してございますことよ。」
「あ、あ、はい。あ~そうだったんですかぁ。でも、会長ぜんぜん記憶にないようですが。ええ、勿論いま、会長とお電話 代わります。少々お待ちください。」
僕は、受話器のコードを延ばし、三丁目会長に手渡した。トイ・プードル が受話器の動きに反応して一緒に身体を伸ばして乳母車から落っこちそうになった。
どうも会長と奥様の会話が、チグハグでずれているようだ。
午後11時半を回って、再び白カラス亭も混雑し始めた。空いている席 はカウンターの一番奥と銀座連合会三丁目支部会会長の隣の2席のみとなった。某有名○○デパートの三人娘とトイ・プードル を連れた松木幸四郎は、まだまだ帰りそうにない。わいわい、がやがやと自分達の世界を楽しんでいるようだ。三丁目支部会会長の様子がどうも最初から変だった。会長のお店の副社長である奥様と電話で話を始めた会長はしきりにハンカチを持った手で、額や首筋の汗 を拭った。受話器をカウンターの上に置いた会長がぼそぼそとした声で言った。
「うちの家内これから、ここに来るって。」
「え、奥様が・・・。副社長がここにいらっしゃるんで?」
「でも、変だよなぁ・・・僕は聞いてなかったんだよ。エステと友達の話。」
僕は洗浄したグラスを一個一個丁寧に拭きながら、会長の言葉に耳を向けた。
デパート三人娘の嬌声≪きょうせい≫が聞こえて来た。あれほど松木幸四郎の事を嫌がってたのに、彼の正体が判明した今、この変わり様は何だろう。「人が変わったように、随分楽しそうじゃないの。」と僕は心の中で、お客様である三人娘と松木幸四郎に向かって愚痴ってみた。そんな賑やかな喧騒とジャズが流れる中、ただ一人、会長だけが浮かぬ顔をしてカウンターの上に溜まった水滴でいたずら書きをしていた。年甲斐も無く、イジ、イジ、イジと何かイジケている様子が判った。その時、白カラス亭の輸入の木製扉が静かに開いて、ミンクか銀キツネらしきコートとフェラガモのパンプスが良くお似合いの初老の女性が細い体を店内に滑り込ませた。トイ・プードル が乳母車から身を乗り出した。銀座連合会三丁目支部会会長の奥様が銀座のバー 白カラス亭に登場した。
「白カラス亭」自慢の輸入木製ドアがゆっくりと開いた。冷たい風がすぅ~っと流れ込んで、店内の澱≪よど≫んだ空気を自然に循環して呉れた。店内の客の視線が入り口に集中した。銀座連合会三丁目支部会会長の奥様が登場し、店内に高級な雰囲気が流れ込んだからだ。艶≪つや≫やかな毛皮のコートは店内の薄暗い照明の中でも、それが高価な物であることが一目瞭然であった。会長の背筋がぴんと伸びて、顔が入り口に向いたままだ。片手でメッツラーの金フレームの眼鏡をしきりに触っている。何故か会長の緊張が僕にも伝わってきた。
「今晩わ、白カラス亭さん。・・・おや、お珍しいこと。ワンちゃん もいらっしゃるのね。」
会長の奥様は愛想良く、満面で笑っていたが、その目は笑ってなかった。年齢に関係なく、美人の女性で目まで笑う方は少ないようだ。
「あ、奥様、先程はお電話で失礼しました。どうぞ、どうぞ奥へ。会長のお隣の席が空いておりますので。」
「いいえ、こちらこそ。なんだか、ちぐはぐなお電話を差し上げたようで申し訳ございませんでしたわ。」
会長の奥様は、高価な毛皮のコートを着たまま、会長の方に向かって歩いた。トイ・プードルがコートにじゃれつかないように、コートの裾(すそ)をそっと手で抑≪おさ≫え、気を遣いながら奥様は奥に進んだ。会長が立ち上がって、奥様のコートを脱ぐのを手伝った。
「あ、コートはこちらでお預かりしましょう。高価なコートは壁に掛けておく訳にはいきませんから。ところで、奥様は何か召し上がりますか?先程のお電話で、お食事の方は確かお済みでいらっしゃるんでしたね・・・。」
「ええ、食事は結構よ。冷たくて、優しくて、優雅で美しいカクテル を下さるかしら?」
「おいおい、随分難しそうな注文だな。簡単な物にしたら?」
会長が横から口を挟≪はさ≫んだが、隣に座った奥様は全く無視して僕の方を見ていた。
「では、奥様のご注文に応じて、『ストロベリー・フローズン・ダイキリー』をお作りしましょう。・・・ああ、これですか?これはホワイトラムとライムジュース、ストロベリーリキュール、ホワイトキュラソーを氷と一緒にミキサーに掛けてシャーベット状にした飲み物です。フローズン・ダイキリーは、あの文豪のヘミングウェイの大好物だったんですよ。」
氷がミキサーでクラッシュされと場違いで大きな音が店内に響いた。トイ・プードル がびっくりして僕を見つめた。会長と奥様の静かな神経バトルが開始されたような気がした。
隣に座る会長をまるで無視するように、『ストロベリー・フローズン・ダイキリー』を、細い2本のストローを使い、品の良い唇で吸い上げた。ゴールドパールのネイルが薄暗い照明に良く似合っている。奥様は片手で飾りのミントの葉を摘≪つ≫まみ、会長の空になったグラスにぽいっ、と放り込んだ。あくまでも無言である。会長はしきりに金色のメッツラーの眼鏡 のフレームをいじくっている。「あ~なんだか、まずい、まずい、まずい、この状況は非常にまずい!」僕は心の中で呟≪つぶや≫きながら、二人の間に割って入った。
「あ、奥様。これちょっと食べてみて下さい。最高級品ですから・・・。」
「あら、何、生ハム・・・?」
「ええ、ホテル の知り合いから分けて貰ったんですが、スペインのイベリコ豚の骨付き生ハム『ベリョータ』です。脂に癖が無くって、まるで、とろけるようです。」
「へぇ~、有難うございます、嬉しいわ。あの、栗だかドングリだかピーナッツだかで成長するスペインの黒豚よね。」
「お、な~んだ。そんな美味い物が在ったのか、わしにもそれ、その生ハムを呉れよ。」
会長も身を乗り出すように、言った。そしてついに、二人の視線が合った。会長が恐る恐る奥様に聞いた。
「あ、あ、あのぅ・・わしは、今夜の事は本当に聞いてなかったような・・・・。」
「何を仰≪おっしゃ≫ってるのかしら。私は、今日の午後、貴方様が三丁目支部会の皆様方と会議を始める時に申し上げましたわ。私が嘘でも申し上げたと仰≪おっしゃ≫るのかしら!」
ご年配の美人奥様が怒ると壮絶感が増して、更に美しく見える。
「あ、い、い、いゃ~・・・・そんな意味では。 」
会長がまた、カウンターの上の水滴をいたずらし始めた。60代後半の年齢にしては、どうも子供っぽいところがある会長だ。
「嘘だと仰≪おっしゃ≫るのなら、余程貴方様の嘘の方が見え透いた茶番ですわ。 」
「おいおい、一体全体何の話だ。君が今夜エステに行って、友人と一緒に食事をした話ではないのか?」
会長の奥様がストロベリー・フローズン・ダイキリー を最後の一滴まで、ズ、ズ、ズ、ズ、ズ、ズ~と割と下品な音を立てて、すすり上げた。
「白カラス亭さん、同じ物をもう一杯頂戴できるかしら?」
「わ、わしにもウオッカ・マティニ・オンザロック・ツイストレモンで。」
「貴方様も飲まれるんですか?」
会長の奥様が非難するような視線を会長に向けた。
「おいおい、わしが飲んだらいけないのかい?」
流石に会長もむっ、としたらしい。幾ら奥様でもそれはないかも、と僕が思った矢先にまた奥様が会長に突っかかった。
「いいえ、そういう訳ではありませんが、貴方様はお飲みになると、何時の間にか話を違う方向に向けて、ごまかす天才ですから・・・・。」
さあ、どうにも収まらなくなりそうな気配が濃厚になって来た。
銀座連合会三丁目支部会会長と美人奥様の神経バトルが丁々発止と繰り広げられると思ったら大間違いで、奥様の一方的な口撃で始まった。なんせ美人で頭が良くて、ビジネスも男顔負けで、おまけに口が達者ときている。会長が端≪はな≫から敵≪かな≫う訳がないのだ。
「貴方様は、先週一泊でゴルフ に行かれましたわよね?」
美人奥様が2杯目の『フローズン・ストロベリー・ダイキリー』 のストローを形の良い唇で挟みながら早口で言った。視線はカクテルに落としたままだった。パールの入ったゴールドのネイルが細い指を美しく見せている。
「な~んだ、そんなことか。それだったら、三丁目支部会のメンバーもご一緒だったから皆に聞けばいい。それこそ、な~んにも変なことはないよ。此処の白カラス亭さんもわしと一緒に川奈のホテルに泊まったし・・・・。」
会長がほっとした顔で僕を見た。そして、おもむろにメッツラーの金フレームの眼鏡 を外し、白いハンカチで度のきついレンズをせわしなく拭いた。
「ええ、私も良く存じておりますことよ。白カラス亭さんを含め、三丁目支部会の皆様方とご一緒に伊豆伊東の川奈ホテルに宿泊されて、ゴルフ をなさったことは何も疑っておりませんわ。」
お手入れの施≪ほどこ≫された美しく白く細い奥様の指が、2本のストローを摘≪つま≫んで会長の手の甲にぐさりっ、と刺した 。
「あ、いててて・・・ 。な、な、何をするんだね、急に。乱暴な・・・・で、でも、なんで『茶番のような嘘を言う!』って、わしに向かって何故非難めいたことを口にしたんだ。」
会長が自分のグラスのウォッカ・マティニ・オンザロックをぐぃっと飲み込んだ。ちょっとむせてみた。これは、わざとらしい。会長は本当に演技が下手糞だと僕は思った。
「あら、まだそのように貴方様はご自分を正当化しようとなさるのね。 良い死に方されませんことよ。本当に往生際の悪い方ですわね!」
「わしが、何をしたってんだよ、君は・・・・。なぁ、白カラス亭さんもわしと一緒にプレーしたんだよな。言ってやってよ、家内に。」
会長はカウンター越にしきりと僕に相槌≪あいづち≫を求めた。
「ええ、奥様。確かに私も会長と一緒に川奈ホテルに宿泊して翌日ゴルフ を楽しんで来ましたが。何かご不振な点でも・・・・・。」
僕は奥様が何か確信を持って仰≪おっしゃ≫っているような気がした。
「ねぇ、白カラス亭さん。貴方はこの人と一緒の部屋で寝られた訳ではございませんわよね。支部会の皆様方はお一人お一人別々のお部屋を取られてましたわね。」
「確かに。仰≪おっしゃ≫る通りで、我々全員シングル部屋で宿泊しました。確か、幹事部屋で二次会を行い、翌朝ゴルフなので午後11時には解散しました。」
僕はその夜の行動を思い出しながら、奥様に申し上げた。
「つまり、うちの人も三丁目支部会の皆様方も全員、朝食までの間にアリバイがございませんことよ。」
奥様の切れ長の目から出る蔑視光線が会長の後退気味のおでこに当たった。
「うわっ、えぇぇぇっ!まるで警察並みの推論ですね。」
僕は驚いて奇声を発したと同時に会長の首が亀のように縮まって、ブレザースーツの肩と頭がくっ着いたように見えた。
奥様が勝ち誇≪ほこ≫ったように、ご自分のシャネルの定番キルティングバッグから何かを取り出した。
「えっ、何を出したの!」僕はおもむろに、奥様の手にした物体を見直した。
会長の眼鏡の奥の目玉が3倍位に大きく見開かれた。
銀座連合会三丁目支部会会長は奥様がシャネルバッグ から取り出した、物体を見て椅子 から転げ落ちそうになった。
「これは携帯電話 ですわ。それもご丁寧に川奈ホテルが忘れ物として、私宛に送って下さった物ですのよ。」
「そ、そ、そんな携帯電話 なんか、わしは知らんよ。わしの物じゃぁない。・・・・川奈が間違って送ってよこしたんだ。わしは・・・・し、知らんね。だいたい、わしの携帯電話嫌いは有名なんだ。さっきだって、白カラス亭さんに、わしは携帯電話は大嫌いだって、言ったところだったよ。な、そうだよな!」
会長は真顔でしきりに僕に相槌を求めた。
「ええ、先程も、会長は携帯電話は大嫌いだと仰≪おっしゃ≫ってましたよ。」
僕はおろおろする会長を見かねて助け舟を出した。
「あら、変ですわねぇ。貴方様のお部屋から出て来たそうですわよ、この携帯電話。ルーム清掃係がベッドメイクの時に枕の下から発見したとのことでしたわ。貴方様は既にゴルフ でコースに出ていらしたので、ホテルから私宛にお電話がございました。貴方様のお部屋で見つけた携帯電話をどのようにすればよろしいのでしょうかと。ですから、私は丁寧にお応えしましたのよ。東京の私宛に宅配便で送るようにって。」
「川奈め、よ、余計なことを・・・。」
会長が小さな声で罵≪ののし≫った。
「何か仰≪おっしゃ≫いましたかしら?ああ、それと、冷蔵庫の上に、貴方様はピルケースも忘れていらっしゃったそうで、一緒に送って下さいましたわ。本当に川奈は親切なホテルですこと。サービス業はこうでなくてはなりませんことよ。」
美人の奥様はその形の良い鼻梁≪びりょう≫を幾分持ち上げながら会長に向かって言った。
「げっ、ピ、ピ、ピ、ピルケースも忘れて来たんだ。うわぁ~!参ったな!」
会長が俯≪うつむ≫いて小さく言った。会長の度のきつい眼鏡がずり落ちそうになった。後退気味のおでこの汗が、店内の薄暗い照明でも光って見えた。会長の逃げ場がなくなりそうだった。
「け、携帯電話だって、ピルケースだって、わしの前の宿泊者の物かも知れないなぁ~。一度川奈ホテルに問い合わせてみる必要があるよな、うん。」
「何を今更ですわ。とぼけて見せても証拠は未だ沢山あるのですから。」
「な、な、何を言っているんだね、君は・・・・。わ、わ、わしが川奈ホテルで、う、浮気でもしたって言うのかね。」
「ええ、まさに貴方様が仰≪おっしゃ≫る通り、浮気をなさってたんですわ。私の推論では、川奈ホテルに、支部会のどなたも知らない女性が、先にチェックインされてて、支部会の二次会終了後、貴方様のお部屋に忍び込むなんて、ものすご~く簡単なことですわね。貴方様も本当に幼稚な方ですこと。バイアグラを入れたピルケースをお部屋に忘れて帰って来るなんて・・・・。余程ぐっすりとお休みになられたのすかねぇ?翌朝ゴルフ に遅刻しそうになって、相当慌≪あわ≫ててらしたのでしょう。 」
会長がウォッカ・マティニを本当に喉に詰まらせた。これは演技ではなかった。へ、へぇ~、なんと、なんと会長バイアグラを使っていたんだ。僕は会長には悪いが心の中で噴出しながら、成り行きを見守った。
「バイアグラだって?・・・バ、バ、バイアグラは知り合いの社長さんがわしに呉れたのを、そのまま持っていただけだよ。 」
「あら、そのような高価なお薬を下さる社長さんってどなたかしら?・・・大体、この二十年というもの貴方様は全く私には手を触れてはいらっしゃらないのに、外ではせっせとバイアグラを使って浮気に努力なさっているとは、本当に滑稽≪こっけい≫ですわ。 」
奥様の細く優雅な二本の眉毛が逆三角形を描いた。美人も通り越すと夜叉≪やしゃ≫になるようだ。う~ん、バイアグラと携帯電話の二系統で責められて、いよいよ会長は雪隠詰≪せっちんづ≫めになりそうだ、と僕は二人を見ながら思った。ところが、携帯電話の件では、確固たる証拠を奥様は、未だにお出しになってはいらっしゃらないようだった。でも間違いなく何かを掴≪つか≫んでいる表情を、奥様はなさっていた。奥様の整形した鼻梁と法令線が白く浮かび上がって見えた。
某有名デパート 三人娘とお寺の息子のどんちゃん騒ぎを尻目に、銀座連合会三丁目支部会会長と奥様の神経バトルがどんどん派手に、悪化しながら進行していた。状況は圧倒的に奥様有利で、会長はコーナーに追い詰められ、ぼぼKO状態になりつつあった。僕は何時タオルを投げ込もうかとタイミングを見計らっていた。
「それではちょっと、貴方様にお聞きしますが、銀座六丁目のギャラリー『恋の旅人』の山根祐子って女性オーナーをご存知じゃありませんこと?」
奥様が会長の横顔にきつい視線を浴びせながら言った。横顔に当たる攻撃光線が痛いのか、会長はしきりに頬をハンカチで撫≪な≫でていた。
「わ、わしに聞いてるの?・・・・知らんよ、そんな名前の人。」
会長の瞳が驚きでまん丸になった。否定どころか、「その通りでございます!」と会長の小さな目は将に肯定していた。
「あら、貴方様以外にどなたに聞いていると思われたのかしら、ねぇ、白カラス亭さん?」
「あ、はぃはぃ。え~と、六丁目のギャラリー『恋の旅人』でしたら私も少々知っておりますが・・・。」
「あら、白カラス亭さん、山根祐子さんのお知り合い?」
「いいえ、私は何度かお店の前を素通りしただけで、オーナーの方が山根祐子さんということも、今初めて伺いました。」
「まあ、そうでしたの。ところで、先程と同じカクテル、え~と何て仰≪おっしゃ≫ったかしら・・・?」
「ああ『ストロベリー・フローズン・ダイキリー 』でございますね。ええ、直ぐにお作りします。」
僕は敢≪あ≫えてガチャガチャと派手に音を立てて、ミキサーに氷を放り投げた。
「白カラス亭さん、わしにもお代わりお願いします。」
会長が小さな声で僕を見ながら言った。会長の眼鏡の下の小さな瞳が怯えていた。
「貴方様は、お代わりなどしなくて結構です!私の話をじっと聞いてればよろしいのですわ。」
きついメガトン級のストレートが会長の顎にヒットしたように思える一撃だった。絶対に口では勝負にならないことが見えていた。冷えたサイドウォーターを一口飲み込んで奥様は続きを話し始めた。パールの入ったゴールドのネイルに水滴が飛んだ。
「貴方様が、六丁目のギャラリー『恋の旅人』の山根祐子さんを知らないなんて、良くも白々しく仰≪おっしゃ≫るものですわ。 」
「そ、そんな、知らんものは、知らんって・・・・。」
会長のしどろもどろの否定の言葉は逆に肯定しているように聞えた。追い詰められた会長は、カウンターに落ちた水滴を指で再びイジイジといたずらし始めた。
「私、山根祐子さんとはエステで、つい最近お友達になりましたのよ。何度かお茶 をご一緒してて、山根さんのお口から貴方様のことが話題になりましたのよ。私が、貴方様の妻であることを彼女は全くご存知無かったの。そして、今晩ご飯をご一緒して、貴方様の浮気のお相手が、六丁目のギャラリー『恋の旅人』のオーナーでいらっしゃる山根祐子さんであると、私は確信しましたわ。」
「う、う、う、う・・・・。そ、そ、それは何かの・・・。 」
「間違いだと仰≪おっしゃ≫るのですか? 」
「そ、そうだよ。間違いだよ。君は何かを勘違いしているんだ。 」
「いいえ、勘違いや、間違いではございません。私以外の女性が知る筈の無いことを山根祐子さんは、とっても無邪気にお話して下さいましたわ。それも笑い話のように・・・・。未だに私が貴方様の妻であることを、ご存知ないのですから、貴方様の口から、私が貴方様の妻であると教えて差し上げたら如何?」
奥様の証拠となったのは、携帯電話と一体何だったのだろうか?山根祐子という六丁目のギャラリー『恋の旅人』のオーナーが笑い話にした会長の秘密とは・・・?僕は成り行きを見守った。
狭いガス灯通りも午後11時半を過ぎて、 タクシー を拾う酔漢の怒声が、小さなバー 白カラス亭にも聞えてくる。しかし店内では、もはや、銀座連合会三丁目支部会会長と奥様のバトルが終止符を打とうとしていた。奥様は既に3杯もの『ストロベリー・フローズン・ダイキリー』 を飲み干し、ガソリン満タンF1の高回転出力エンジンのように鼻息が荒くなっていた。美しいお顔が「勝利の凱歌を唄っちゃおうかしらっ!」てな余裕すら窺≪うかが≫えた。パールが入ったゴールドのネイルの指先で軽くルージュの唇に触る仕草は、初老とは思えないほど妖艶≪ようえん≫でもあった。このように素敵な年配の奥様でも、やっぱりヤキモチは焼かれるんだと僕は思った。
「私ね、絶対に山根祐子さんの浮気のお相手は貴方様だと確信をもちましたから、その確信を不動のものにする為にちょっと、いたずらをしてみましたことよ。」
この後の奥様のほっほっほっ、と小さな笑い声が何とも僕には不気味だった。会長は額にびっしょりと汗をかいていた。またメッツラーの眼鏡 のフレームを所在無く触っていた。
「い、いたずら!ええ、な、な、何をしたってんだね、君は・・・・・!」
「あら、そのように慌てられなくても、ちゃんとご説明致しますわ。私、お食事の後でトイレ に立ちましたのよ。トイレ に行く振りをして、物陰から貴方様が枕の下に忘れた携帯電話 の着信履歴から逆に電話を掛けてみましたの。案の定、私が考えていた通りのことが起きましたことよ。山根祐子さんが、彼女のバックの中から、貴方様の置き忘れた携帯電話と全く、色も形も同じ携帯電話 を取り出しましたわ。この目で確かに確認しましたことよ。そして『もしもし、もしもし・・・?』と私の耳に間違いなく山根祐子さんの声が響いて参りましたわ。これでも貴方様は未だ白を切るおつもりなのですか?」
「だから、さっきから言ってるじゃないか!わしは携帯電話 なんぞ持ってはいないって・・・。それに六丁目のギャラリー『恋の旅人』のオーナーの山根祐子さんって方も本当に知らないよ。」
会長は白いハンカチで額の汗を拭き取った。メッツラーの金縁眼鏡が今にも顔から落ちそうだ。なんとも会長の態度も腑≪ふ≫に落ちないが、奥様しか知らない秘密ってなんだったんだろう?僕は不謹慎だが、もっと先を知りたくなった。
「会長と奥様、お代わりをお出ししましょうか?それとも何か違うものにしますか?」
「うん、じゃ、わしは白カラス亭さんがお奨めの、サマセット・モームが賞賛したというズブロッカをショットグラスで貰おうかな。」
会長は女には弱いと思うが、酒にはめっぽう強い体質らしい。
「貴方様は、お酒を召し上がる余裕なぞおありになるのですか!本当に図々しい。貴方様はお飲みにならなくても結構よ。・・・白カラス亭さん、やっぱりフルーティーなカクテル を作ってくださるかしら?」
奥様は横目で会長を睨≪にら≫みながら僕には笑顔を見せて言った。「うわっ、恐っ、魔女の視線だ!」僕は一瞬背筋がぞくっ、とした。
「では、今度はゴールドラムとガリアノとパイナップルジュースとシャンパンを使ったバラクーダというカクテルを差し上げましょうか。ガリアノの薬草の香りとパイナップルの甘さが微妙にマッチして、とても口当たりが良いですから。」
奥様は男にも強いし酒にもかなり強いようである。コーナーに追い詰められ、ダウン寸前に見える会長は起死回生の反撃カウンターパンチを出せるのだろうか?僕は会長には悪いと思いつつ、溢≪あふ≫れる興味で成り行きを見守った。
銀座連合会三丁目支部会会長は、 川奈ホテルで愛人らしき女性と密会した事実が奥様に発覚して、追い詰められていた。
「山根祐子さんが、貴方様に渡された携帯電話 を、お楽しみの後で枕の下に置き忘れて来たことや、貴方様のピルケースにバイアグラが入っていたことは、どうにでも言い逃れできますが、これだけは、どう白を切られましょうとも、動かしがたい証拠でございますわ。」
奥様の、形の良いルージュの唇から恐ろしい言葉が吐き出された。バラクーダカクテル も飲み切ってしまい、いよいよ意気軒昂≪いきけんこう≫の奥様の美貌に妖艶≪ようえん≫さが加わった。女性は弁天様や観音様にも成れるが阿修羅≪あしゅら≫にも成れるのは本当らしい。
「君がどのような証拠を握っているのか、わしには全く理解不能だけど、兎に角、兎に角、兎に角、何度も言うけど、全くの濡れ衣だ・・・・!」
会長は同じ言葉を連呼した。選挙運動もそうだけど、同じことを連呼しても記憶中枢へのサブリミナル効果は薄いと僕は思った。会長は落ち着きを失って、メッツラーの金縁眼鏡 に手を添えたり、カウンターの上の水滴を指でなぞったりしている。
「山根祐子さんは、私とのお食事 のお席で、結構お酒を召し上がりましたのよ。だいぶ酔っていらっしゃったようで、お口の方も軽やかに、色々なことを教えて下さりましたの。」
「そ、そんな、ねぇ。単なる酔っ払い女の言うことなんか・・・・。」
「信用できないって、仰りたいのですか?貴方様の仰≪おっしゃ≫る事の方が余程信用できませんことよ。」
僕は立場上、どちらの味方にもなれず困惑してしまった。お二人には悪いが、お二人の言い分を聞きながら、棚の酒瓶を拭いたり、乾いたグラスを並べたりして、どちらかのサイドに、巻き込まれないように注意した。
「山根祐子さんは、ご自分と同じ機種の携帯電話を、銀座中央通りのある社長さんにお渡ししてあることを教えて下さいましたの。でも最近連絡が全然無いのだと、それは寂しがってましたわよ。・・・それもそうですわね。その携帯を今は私が持っておりますもの。山根祐子さんのお相手の社長さんは、60代の後半で、度の強い眼鏡を掛けられていて、御髪が最近後退気味だと・・・・。このように正確な人物描写はまるで貴方様のことではありませんか。 」
美人は年を取っても美人であるが、美人ほど怒ると夜叉≪やしゃ≫に変貌するらしい。
「そんな、似たような感じの男、60代後半で眼鏡掛けている男なんて、この銀座には山程居るよ。その相手がわしだって決め付けるのはおかしい。こんなの絶対におかしい! 」
「ええ、そうですわね。これだけでしたら、私も山根祐子さんのお相手が、貴方様であると断言できませんでしたわ。でも、彼女が貴方様のとんでもない秘密を教えて下さったの。それを聞いた時、私は手に持っていたコーヒーカップ を取り落とすところでございましたわ。」
「えっ、な、な、何だね!そ、そ、そのとんでもない、わしの秘密ってのは・・・・・。」
「白カラス亭さん、ちょっと宜しいかしら?白カラス亭さんも証人になって下さいますこと?私が、六丁目のギャラリー『恋の旅人』のオーナーでいらっしゃる山根祐子さんから聞いた、主人のとんでもない秘密を暴露致しますわ。」
困ったことになったと僕は思った。証人になって、僕にどうしろっ、て奥様は仰るのだろうか?こんなことで、会長を敵に回しお得意様を失うのは勘弁して欲しいと思った。
銀座連合会三丁目支部会会長は奥様からの吊るし上げと、証拠品の携帯電話 を突きつけられて、油汗を掻き掻き、指でイジイジし弁明に四苦八苦していた。
「貴方様が、どんなに無実の罪だと仰≪おっしゃ≫られても、もう言い逃れは出来ませんことよ。」
「もう、勘弁してくれないか。携帯電話 のことだって、本当にわしは何も知らないんだ。 」
会長が泣きべそをかきながら奥様に哀願した。美人の奥様が、心底恐いらしい 。
「それでは、貴方様にお聞きしますが、山根祐子さんが酔っ払って私に仰≪おっしゃ≫ったことについて、どのように弁明なさるおつもりでしょうか?」
奥様が柳眉を逆立てた。こわ~い検事さんのようだ。美人と夜叉≪やしゃ≫が表裏一体とは、先人が言ったかどうか知らないが、多分僕の解釈は的を得ている。
「山根祐子さんが、私に『実は~奥様。その社長さんとお風呂に、ご一緒させて戴いた折に、その社長さんのお尻に、なんとまだ青々とした蒙古班≪もうこはん≫がお在りになったんですのよ・・・。それも二つ。60後半の爺さんのお尻に眼鏡の形をした可愛い蒙古班≪もうこはん≫なんですの。笑っちゃいますでしょう、本当に。ほ、ほ、ほ、ほ、ほ!』と仰≪おっしゃ≫いましたのよ。これでも貴方様は未だ、白らをお切りになるおつもりですか!」
奥様は僕を証人にして、隣の席 に座る会長に最後の証拠を明かした。俯き、いじけながら、カウンターの水滴を指でなぞっていた会長が、はっ、と顔を上げた。
「おい、君。ちょっと待て!今何て言った。確か・・・蒙古班≪もうこはん≫って言わなかったか?」
会長の分厚い度の強い金縁眼鏡 の奥で丸い瞳に、起死回生の光が点灯した。
「ええ、申し上げましたとも。ええ、貴方様のお尻についている蒙古班≪もうこはん≫。70歳の手前のお年になっても青々と消えない蒙古班≪もうこはん≫なんて、・・・そんな男性、この広い東京、いえ銀座に、そうざらにはおりませんわ。」
「ああ、確かに、70歳一歩手前の蒙古班≪もうこはん≫は、そうざらには居ないな。そ、そおうか、あ~判った、判った、これで判った・・・・。」
「何をそんなに落ち着いていらっしゃるのですか!貴方様の浮気の全てがここに証拠として揃っているのですよ。」
「ああ、やっぱり、君の壮大なる、勘違いだ。君はわしともう20年以上も一緒にお風呂に入ってないから、すっかり忘れてしまったんだ。・・・・いいかい、よ~く聞きな、わしのお尻にあるのは、わしが3歳の時に、お尻丸出しで火鉢に座ってしまった時にできた、『火傷の痕』だよ。君はそれを、随分昔に、わしから聞いていた筈だ。しか~し、何時の間にか君は、『火傷の痕』を蒙古班≪もうこはん≫だと思い込んでしまったんだ。なんと言う勘違いをしたんだ、君は・・・。ふん、全く冗談じゃないよ、不倫した浮気の犯人に仕立てあげられてしまった。 」
「えっ?・・・貴方様のお尻にあるのは蒙古班≪もうこはん≫ではなかった!えっ、本当に、貴方様のお尻は・・・。 」
「ああ、そうだ、そうだ。なんだったら、此処で御開帳しようじゃないか!白カラス亭さん、わしは此処でズボンを脱ぐから・・・え、此処じゃ駄目?そうか、じゃぁトイレでも行こうか。重要な証人なんだから、わしの無実を証明して呉れよ!」
うあ~逆転さよなら満塁ホームランが出てしまったか。僕は仕方なく会長のお尻を点検する為に男二人で狭いトイレに一緒に入った。
「奥様、間違いございませんでした。確かに会長の仰≪おっしゃ≫る通り、会長のお尻は『火傷の痕』でした。まず間違いなく、蒙古班≪もうこはん≫ではございません。青いどころか赤く、艶々と光って、引きつってます。まるで猿の座りタコですな。」
「白カラス亭さん、それは無いよ。猿の座りタコは余計な説明描写だよ。」
会長は無実の証明を勝ち取ったと思ったのか、急に明るくなった。さっきのいじけた態度は一体何処に行ったんだ。しかし、枕の下から発見された携帯電話 とバイアグラは、一体全体どこの誰の物だったんだ。僕の疑問同様に奥様もしきりと首を傾げていた。その時会長が、大きな声を上げた。
「あ~、あ~判った。あいつだよ、あいつ、あの男だ!」
会長は中央通りに面した某有名○○デパートの社長の名前を挙げた。今夜はこの某有名○○デパートの三人娘 に散々振り回され、挙句の果ては、その社長のお陰で、夫婦喧嘩の渦に巻き込まれてしまった。
「思い出したぞ、川奈ホテル の二次会が終了して、各自が自分の部屋に戻ったんだ。さあ、寝ようって時に、遅れて到着した○○デパートの社長が、わしの部屋を訪ねて来たんだ。その後、わしの部屋で彼と酒盛りしてて、わしがトイレに立った時、確かに携帯電話のベルが鳴ったような気がする。わしがトイレから出た音で、多分彼が慌て、携帯電話をわしの枕の下に隠したんだ。そうだ、思い出した、バイアグラだって、その時酔った勢いで彼がわしに呉れた物だった。さっきそう言った筈だよ。」
「ま、そんな大事な事、どうして直ぐに思い出さないのですか!誰から頂戴した物かは仰≪おっしゃ≫いませんでしたわ。全く記憶力が悪くおなりですこと。こんな疑いを掛けられるのも、貴方様の日頃の行いが悪いからですわ。」
「おいおい、君だって、わしのこと言えないよ。何時の間にか、わしのお尻の『火傷の痕』を蒙古班≪もうこはん≫だなんて思い込んでいたんだから。色だって青じゃなくて赤だ。早とちりは、君の悪い癖だ!」
あ~あ、僕は何だか急に肩から力が抜けてしまった。「おい、おい、なんだい、なんだい、お二人さん!何だかんだ言ったって、結構仲が良いじゃありませんか。お互いに記憶力の悪さを罵≪ののし≫っているけど、これって、結構お二人の健康トレーニングじゃないの!」僕は心の中で二人に、ご馳走様って言ってあげた。白カラス亭の閉店時間はまだ先だ。今夜は何が起こるか判らないと、僕はじっと壁の時計 を見つめた。
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