第2話
「銀座三人娘のとんでも勘違い」
銀座3丁目ガス灯通りの真ん中に小さなバー「白カラス亭」がある。
ニューハーフ の登美ちゃんの涙交じりの騒動の顛末を聞かされて、僕は客の居ないバーの中で、独り思い出し笑いをした。そのとき、銀座三人娘がドアを開け、どたばたと騒々しく入ってきた。僕は壁に懸かった時計を見た 。午後9時30分を回っていた 。入って来たのは年長の敬ちゃんと30代の律ちゃんと20歳の黒ちゃんの娘三人組 だが、僕は彼女達の本名は知らない。お互いにそう呼び合っているので、僕もそれに倣(なら)っているだけだ。三人は銀座中央通りの某(ぼう)有名○○デパート に勤務している。12月は一年で一番の繁忙期(はんぼうき)なので退社するのは、これくらいの時間になってしまうのだ。一番年長らしい敬ちゃんが先ず口火を切った。
「あ、白カラスのマスターったら、何か良いことあったんでしょう!」
「そうそう、判るわよぅ~、目が笑っているもん。」
敬ちゃんと黒ちゃんとの調度中間の年齢、多分30歳くらいの律ちゃんも同調した。
「目が笑っているって・・・?マスターは顔で笑っているよ。」
成人式を来年に控えた一番若い黒ちゃんがボケてみせた。
「ねぇねぇねぇ、何か食べる物ある ?お腹すいてんだ。」
三人が同時に同じことを言った。
「うん、じゃあ特性のニンニクたっぷり、スパゲッティのぺペロンチーノを作ってあげるよ。それとニース風サラダと君達のデパ地下で仕入れたフランスパン。ローストポークもあるけど、どうする?」
「それも食べるぅ! 」
一番若い黒ちゃんが真っ先に手を挙げた。丸顔で結構立派な骨格の体格をしている。食欲も旺盛そうだ。
「今日のローストポークは林檎を使ったノルマンディースタイルだぞ。」
僕の言葉に若い黒ちゃんと中間年齢の律ちゃんが反応した。
「何、何、ノルマンディー上陸作戦??」
「ば~か、マスターはノルマンディースタイルって言ったの。」
「知ってるわよ。ちょっとボケただけ。」
「二人とも会話が成立してないよ。」
僕がちょっとけなしたら、すかさず年長の敬ちゃんが二人を持ち上げた。
「でもさ、ノルマンディー上陸作戦知ってるなんて、若いのに博学じゃない?」
一番年長で40歳目の前にした敬ちゃんが僕に相槌(あいづち)を求めた。
「第二次世界大戦末期、1944年6月米英連合軍がフランスのノルマンディーに上陸作戦を行ったのは、一般的には常識の世界だと思うけどね。」
僕は彼女達が傷つかないように気を遣(つか)い、料理をしながら背中で応(こた)えた。
茹(ゆ)で立ての1.7mmのパスタ麺に熱々のオリーブオイルとニンニクと赤唐辛子をさっと絡(から)め、茹で汁と白ワインをちょっと垂らして、皿に盛った。ドイツで購入した北海の塩を効(き)かせてある。
「旨(うま)っ、これ旨(うま)っ。ウワー最高! 」
三人が同時に声を上げた。
「でもね、ここはバーなんだよ。何か飲んでよ 。食事も出すには出すけどさ、ここは白カラス亭ってバー だよ。」
「そんなこと、どうでもいいから、次出して、次。そのロースト何とか・・・。」
敬ちゃんと律ちゃんが口を合わせた。
「ローストポーク、ノルマンディースタイルとニース風サラダ頂戴! 」
食欲旺盛な若い黒ちゃんが叫んだ。
全く騒々(そうぞう)しいったらありゃしない。ところが、この三人からまたまた、とんでもない事を聞かされるとは、この時想像もしていなかった。
三人娘が入店してから「白カラス亭」もぼちぼち混みだし、10席のカウンターは奥の1席を除いて満席状態になった。先程から食べる事に夢中だった 、某(ぼう)有名○○デパートの三人娘 もやっとお腹が一杯になって、本来の調子に戻ってきたようだった。
「おいしかったわぁ~。満足満足・・・ 」
「敬ちゃんも律ちゃんも、お腹一杯になった?」
「大丈夫、大丈夫。 さ~て、飲むよ 、みんな!」
一番年長の敬ちゃんが号令を掛けたが、真ん中の律ちゃんと一番若い、来年成人式の黒ちゃんが、さっきとは違って浮かない顔をした。
「どうしたの、二人とも冴えない顔をして 。さっきの元気はどこ行ったの?」
言いながら僕はいや~な予感を覚えた。今日は開店そうそうに、焼き鳥屋のメガネ親父からバーボン貸せと言われるし、ニューハーフの登美ちゃんには号泣 されるし、今度は何が始まるんだと背中の産毛がざわざわっと、騒いだ。
午後10時を回り 、一番奥の席を除きカウンターは満席になった。満腹になったらしい三人娘 が話を始めたが、若い二人の様子がおかしくなった。
「マスターに、お願いがあってきたんだ・・・。 」
来年成人式を迎える一番若い黒ちゃんが僕の目をみながら小さな声で言った。
「ああ、いいよ。僕でできることだったら・・・。金と喧嘩(けんか)は駄目だよ。金は無いし、力もないから、喧嘩(けんか)はからっきし弱い。」
顔一杯をくしゃくしゃにして僕は皆に中年オヤジ精一杯の愛嬌(あいきょう)を振りまいた 。
「実は、わたしもなの・・・・。 」
「ええっ、律ちゃんもかい? 」
「ええっ、そ~んな。二人ともわたしにはな~んにも言わなかったじゃないのさ。 」
一番年長の敬ちゃんが二人を睨(にら)んだ。目が怒っている 。
「ま、兎も角二人の話を聞こうじゃないの。おっと、その前に何飲むんだっけ。え~と、敬ちゃんがスティンガーオンザロック、律ちゃんがグラスホッパーね、で黒ちゃんが・・・」
「カルーアミルク。」
「あ、そうか。そうか。カルーアミルクだったね。」
僕は三人の食後のカクテルを出しながら、黒ちゃの話に耳を傾(かたむ)けた 。
「実はね、実は・・・そのぅ、マスターに、わたしの叔父(おじ)さんになって欲しいんだ。 ちょっとの間でいいから。」
「そうなの、わたしの叔父(おじ)さんにも・・・ 」
「ちょちょ、ちょっと待て。黒ちゃんの叔父(おじ)さんでもあり、律ちゃんの叔父(おじ)さんでもあると言うことは、二人はこの際・・・姉妹かなんかになっちゃうの? 」
僕は訳が判らずに、慌てて黒ちゃんと律ちゃんの顔を交互に見た。二人とも真面目な顔をしていた。どうも僕をからかっている様子はない。
「うん、早い話がそうなんだ。」
「先輩の敬ちゃんには未(ま)だ相談してなくてぇ、相談する前に此処(ここ)に来ちゃった訳。」
律ちゃんが謝るように敬ちゃんを見た。黒ちゃんが「ごめんっ!」と言って「ぺろっ!」と舌を出した。
「二人ともいい加減にしなさいよ。 マスターが困ってるじゃないの。」
一番年長の敬ちゃんは、白けていた 。子分同様の後輩二人から、事前に理由を知らされてない屈辱感(くつじょくかん)が見て取れた。
「ま、いいから話してごらんよ。どうして僕が黒ちゃんと律ちゃんの叔父(おじ)さんに成る必要が出来たのか。 」
「有難う白カラスのマスター。」
一番若い黒ちゃんが視線を落としながら言った。
黒ちゃんはデパート地下街、通称デパ地下の洋酒売り場に勤務している。今日の夕方にその事件は起きたそうだ。事件と言えるのかどうかは疑問だが。
「あのね、夕方ね、その筋(すじ)の恐そうな丸刈りのお兄さんが売り場に来たの。それでね、大(おお)瓶(びん)ビール を呉れって言ったの。」
「ほほう、大(おお)瓶(びん)ビール をね。珍しいねぇ、最近大(おお)瓶(びん)ビール呉れって客少ないのに・・・。」
「うん、そうなの。それでぇ、そのお兄さんに、何本ご入用(いりよう)ですかって、わたし聞いたの。そしたらね、その恐そうな丸刈りのお兄さんが黙って片手 を出したの。」
「大(おお)瓶(びん)ビール 5本ってことかい?」
僕は黒ちゃんに聞いた。ところが、ところが、黒ちゃんが、とんでもない事をその筋(すじ)の恐いお兄さんに言ってしまったのだった。 ややこしい展開になっているのが何となく分かって僕の眉間に皺(しわ)が増えた。来年成人式を迎える黒ちゃんのところに来た客はまさにその筋(すじ)の方らしい。
「あのね、そのお客さんね、『大瓶(おおびん)ビール 呉っ!』て、仰(おっしゃ)ったんでぇ、『何本ですか?』って聞いたのね、そしたらぁ、お客さんね、黙って片手 を出したのよ。・・・あ、カルーアミルクもう一杯頂戴!」
黒ちゃんが僕に状況を説明した。
「カルーアミルクなんて、どうでもいいから先を続けなさいよ! 」
一番年長の敬ちゃんが黒ちゃんを急(せ)かした。そう言った本人の敬ちゃんのスティンガーオンザロックは既に空で、自分はちゃっかり黙ってグラスを振りながら、僕に無言でお代わりを要求した。
「うん、それでね、そのお客様の手をみたら、小指と薬指がすっごく短くなってたの、それでぇ・・・・。なんで小指と薬指が短いのか、あたし、直ぐには判らなかったのよ。」
「そ、それは、小指と薬指を詰(つ)めたんだよ! まさにその筋(すじ)のお方だよ。」
僕が黒ちゃんに言った。
「詰(つ)めたったって、何の事・・・・?」
「詰(つ)めたってのは、ヤーさんの世界で、不始末(ふしまつ)を仕出(しで)かして、自分の組や親分の顔に泥を塗ってしまった時、その責任を取って自分の指を切り落とすんだよ。そのお客さん、たぶん二度不始末(ふしまつ)を仕出(しで)かしたんだ。」
「手術したの 。」
「違う、違う、違う。判ってないなぁ。自分で包丁とか匕首(あいくち)で切り落とすんだよ。」
「えっ!自分で自分の指切り落とすの? 麻酔なしで・・・・・。うわぁ、うわぁ、それって痛そうじゃん。痛そう。ところで匕首(あいくち)って何?」
「ああ、もう何にも判ってない。この娘。アイクチ(・・・・)ってのは短刀の一種よ。それであんた、そのヤーさんに何て言ったの?」
また敬ちゃんが黒ちゃんを急(せ)かした。律ちゃんは黙って緑色のグラスホッパーを唇に運んでいる。
「あのね、そのお客様にね、大瓶(おおびん) 3本と小瓶(こびん) 2本ですね?って言ったの。」
「えっ、えっ、うわ~、勇気ある発言!」
敬ちゃんと律ちゃんが同時に唸(うな)った 。
「う~ん、それは確かに勇気ある発言だ。だけど、どうしてその勇気ある発言と僕が黒ちゃんと律ちゃんの叔父(おじ)さんになる話が結び付くんだ?」
「うん、あのね、そのお客様ね、わたしの顔をしばらくじっと見てから、大きな声で、ゲラゲラ笑って『気に入った!あんたの名前を教えてくれよ!』って言うのよ。それで押していた乳母車に大瓶(おおびん)ビール 載(の)せたの・・・。」
「ん?ちょ、ちょっと待って、ちょっと待って。乳母車って何の事だ?そのヤーさん乳母車押して来たのかぃ?」
「そう、そう、言わなかったっけ。乳母車押して来たんで、変なお客様って思ったのよ。」
「そりゃ変だよ。全く変だ。何で乳母車押していたんだ。」
「簡単な話よ。乳母車の中に可愛い・・・」
「赤ん坊?ま・さ・か・・・!」
「ううん、赤ん坊じゃなくって、可愛い茶色のトイ・プードル 乗せていたの。」
「乳母車にトイ・プードル 乗せて歩く指を詰(つ)めたヤーさん!」
僕は思わず手にしたグラスを落としそうになった。
黙って聞いていた敬ちゃんがスティンガー・オンザ・ロックをブーッと噴出(ふきだ)した。
再び僕はスティンガー・オン・ザ・ロックとグラスホッパーとカルーア・ミルクのお代わりを出して、僕はカウンター越に来年成人式を迎える黒ちゃんに問い詰めた。
「その怖(こわ)そうなお兄さんは乳母車に茶色のトイ・プードル を乗せていたんだね?」
「うん、そうそう。でね、あたしがぁ、可愛いトイ・プードル ですね!って言ったらぁ、そのお兄さん急に機嫌が悪くなってぇ、『何が可愛いもんかぃっ! 俺は一生こいつに頭が上がんねぇんだよっ!』って怒鳴(どな)ったの。で、その後で今晩一緒に飯喰(く)おうって 、そりゃシツコイのよ。用事がありますからって、何度も断ったんだけどぉ、聴(き)いてくれないの。それでね、それでぇ、つい上の1階の化粧品売場に姉が勤めてますので、姉に言って下さいって、律ちゃんに振ってしまったの。」
「えっ、1階の化粧品売場に乳母車の怖(こわ)いお兄さん、上がって行ったの?」
僕は黒ちゃんと律ちゃんの顔を交互に見つめた。二人は黙って頷(うなず)いた。一人敬ちゃんだけが、小首をひねって何かを思い出そうとしている風だった。
「で、1階の化粧品売場の律ちゃんのお店に、その怖(こわ)いお兄さん来たの?」
「うん、来たわよ。乳母車にトイ・プードル 乗せてね。全くどうしようもないわよね!内線電話 で事情は黒ちゃんから直ぐに連絡来たけど、あたしだって、どうしたら良いか判(わか)んないじゃない。これ以上、敬ちゃんにでも振ったら、それこそぉ、その怖(こわ)いお兄さん丸刈り頭のてっぺんから火を出して 何しでかすか判(わか)んないじゃない。デパートの男性社員さん達は遠くから見ているだけで、吾(わ)れ関せずっ、てな態度でぇ、できるだけ近寄らんとこっ、 て顔してたし・・・・。だいたい、食品売り場にペット同伴で来るなんて、ルール違反よね、でも誰も注意できないの。」
「判ったっ!それで僕に振ったんだ。そうだろう、律ちゃん。 」
「あたり~い。拍手ぅ、 白カラス大明神様、ぱん、ぱん、ぱん、ぱん。」
律ちゃんは僕を拝むように拍手し頭を下げた。
「そんなに手を叩(たた)いたって、神社じゃないんだから、僕にはそんなご利益はないよ。でそのお兄さんに何て言って追い出したの。」
「あのさ、どうしても妹と食事したいんだったら、あたし達の叔父(おじ)さんが小さなバー を『ガス灯通り』で開いているから、そこでだったら、あたし達姉妹がご一緒しますって、言っちゃったの。」
「ええっ、 何だって。そ、それで、あんた達の叔父(おじ)さんになっちまったの?・・・ま、小さいバーは当たってるけど、僕にその怖(こわ)いお兄さんを振ることないだろうよ。」
「あのね、今夜これから、ここにそのお兄さん来ることになってるのよ。」
「げげげげ、何てこった。心の整理もできてないのに、いきなり叔父(おじ)さんになって、いきなり臨戦(りんせん)態勢(たいせい)に持ち込むのかよ。 」
僕は律ちゃんと黒ちゃんを厳(きび)しい目つきで見つめたのだが、多分他人様には僕は非常に恨(うら)めしい目つきをして映(うつ)っていたに違いない。
店内に流れるオールディズの曲 が何だか物悲しく聞こえていた。
敬ちゃんだけが、無言なのがちょっと気になった。一人で何やら難(むずか)しい顔をしていた。
「ちょ、ちょ、ちょっと、待ってよ。これからその怖いお兄さん、ここに来るの?」
僕は目を白黒させながら二人を見た。
「そろそろ、来ると思う。お願い、白カラスの叔父(おじ)さん!上手(うま)いこと言ってね。」
律ちゃんと黒ちゃんが、拝(おが)むような仕草で僕に手を合わせた。敬ちゃんは未だ一人で何かしきりに思い出そうと考えている風だった。
11時少し前にお客様が数人帰って、店内には敬ちゃん、律ちゃん、黒ちゃんの3人娘と僕だけになった。僕が壁に懸(か)かっている時計を見るのとほぼ同時だった。白カラス亭自慢のイギリスから船便 で送らせた木製手彫りドアが、重そうな音を立て大げさに開いた。身長は190cmはありそうな丸刈り、サングラスのK-1かプライドか格闘技ファイター顔負けのどでかい男が乳母車に茶色のトイ・プードルを乗せて入って来た。真ん中に派手な刺繍の入ったベルサーチのニットを着て黒い革ジャンを羽織(はお)っていた。どういうセンスなのか白のスエットを穿(は)いて、サンダル履(ば)きだ。
「うわ~、こいつだ。ど、ど、どうしよう・・・・。こいつが例の怖(こわ)いお兄さん。店 壊(こわ)されなきゃいいけどなぁ!」
僕は心の中で罵(ののし)り、背中には大汗を掻(か)いていた。
「いよっ、お二人とも待たせたね!」
律ちゃんと、黒ちゃんを見るなり、結構機嫌よく、お兄さんが体に似合わない高い声を出した。一番端に座っている敬ちゃんは目に入らなかったらしい。
「お、あんたが二人の叔父(おじ)さんって、白カラス亭さんかい?」
長い脚を組むようにカウンターの椅子 に座った。
「えっ、ええ・・・まあ。まあそんなもんで。何かお飲みになりますか?」
僕はどぎまぎしながら答えた。乳母車のトイ・プードル は大人しく我々を可愛い瞳で見つめていた。怖いお兄さんの愛犬にしては、こいつは超可愛い。
「何かお飲みになりますかって?ここは、バーだろう、飲むにきまってるじゃん。あ~ビールだ。ビール をくれ!」
怖(こわ)いお兄さんがカウンターを片手 でドンっと叩(たた)いた。小指と薬指が見事に無かった。
「うわ~、指が二本ないよぉ! 」
僕は声に成らない悲鳴を発した。しかし、何だかこのお兄さん、ノリがお笑い芸人さんみたいだ。お兄さん今度はサングラスを丸刈りの頭に移動させた。大きな傷痕が片方の眉毛(まゆげ)の真ん中を縦断して額から頬に走っていた。出入りで出来た傷に違いなかった。
「ビール は何にしますか?ヘニンガー、ホルステン、レーベンブロイ、ハイネケン、カールスバーグ、ツボルグ、ギネス・・・・・。」
「あ~ん、何だとぉ?俺が横文字苦手だからって、とんでもない物飲ませようって魂胆(こんたん)じゃねぇだろうな! 」
「いえいえ、そんな。色々外国産のビール を置いてありますので、それで・・・。」
僕の背中を流れる冷たい汗 がパンツにまで染(し)み込むのが判った。
「あんたのお奨(すす)めのビール でいいよ。」
「では、デンマークのすっきりとしたラガービール のカールスバーグをお出ししましょう。」
「ああ、ビール だったら何でもいいわ。お、皆もお代わり貰って乾杯しようや。おいおい、叔父(おじ)さんよ、ぼやっとしてないで、皆にお代わり、お代わりぃ!」
お兄さん今度はぐっとトーンが落ち着いた。どうもテンションの上下が激しい性格らしい。律ちゃんも黒ちゃんも首を縮めて、僕とお兄さんのやり取りを聞いていた。敬ちゃんは頭を傾げながら、きつい視線 をこのお兄さんに送っていた。カウンターの上に全員の飲み物が揃(そろ)った。
「おい、叔父(おじ)さん。白カラスの叔父(おじ)さん。あんたも何か飲んでくれよ。今晩は俺のおごりだ。 」
お兄さんやけに機嫌が良くなったらしい。
「では、少々お値段が張りますが、私はザ・マッカラン25年のオン・ザ・ロックを頂戴します。よろしいでしょうか?」
「俺が飲めってんだ、高かろうが安かろうが、お嬢さん達の前で俺に恥掻(はじか)かせるんじゃねぇよ。お、用意が出来たかぃ?乾杯だ、乾杯。かんぱあ~い! 」
こわもてのお兄さんやっぱり軽いノリだ。
その時だった。今まで端っこの椅子で黙って聞いていた、敬ちゃんが突然立ち上がって声を出した 。
デパート女子社員を尋(たず)ねて怖(こわ)そうなお兄さんが、乳母車にトイ・プードル を乗せて登場したのだが、さてさて、この怖(こわ)そうなお兄さん、どうもちぐはぐなテンションの上下を繰り返している。全員で乾杯をしようと、グラス を持ち上げた時だった、一番年長の敬ちゃんが大きな声を出して立ち上がった 。
「ああっ、思い出したわ!あんた、あんたは・・・。」
敬ちゃんがお兄さんを指さしながら、大声で言った。僕はびっくりして手にしたザ・マッカラン25年オン・ザ・ロックを落っことしそうになった。
「け、け、敬ちゃん。ど、どうしたの・・・。知ってる人なの?」
僕は恐る恐る敬ちゃんとトイ・プードル お兄さんを交互に見た。
「誰だ、あんた。この二人のお連れさんかぁ?・・・おいおい、人を指さすんじゃねぇよ。 嫌いなんだよぉ、そうやって人から指さされるのって! 」
「あ、あ~あ、あちゃあ、まずいよ。まずい。お兄さん完全に切れそうだ。怒りそうだ。どうすんだよ。」
僕は心の中で、敬ちゃんを罵(ののし)った。
「な~に、言ってんだ、この唐(とう)変(へん)木(ぼく)。馬鹿息子。能無(のうな)し坊主」
「な、な、なんだとぅ。も、も、もう一度言ってみやがれっ! 」
怖(こわ)いお兄さんが、坊主頭の天辺(てっぺん)から湯気を噴出したように僕には見えた。
「ああ、何度でも言ってやるよ。意気地なしの馬鹿坊主!」
「敬ちゃん、敬ちゃん、いくらなんでも初対面のお客様にそれは失礼だろう。」
僕は場を納めるのに必死だった。律ちゃんと黒ちゃんは、それこそ、口をあんぐりと開け、何も言わず成り行きを見つめていた。
「初対面だって。と~んでもないわ。どうもさっきから、変だなぁ、妖(あや)しいなぁ、とは思っていたんだけど、はっきりと思い出したわよ。こいつが何処(どこ)のどいつかね!」
「う、う、誰だお前は・・・・・・ 」
「だろう、だからあんたは、いかれ坊主。駄目坊主、馬鹿息子って言われてるんだよ。忘れたのかい、あんたの寺の隣に十年以上も住んでいた敬子よ。」
「え、お寺?お寺って今・・。敬ちゃんそう言ったよね。」
「ああ、言ったわよ。こいつはね、下谷(したや)のある寺の住職の息子で幸四郎って馬鹿息子さ。で、あんた、寺は継(つ)いだのかい?」
「えっ、松本幸四郎・・・?」
僕はとっさに歌舞伎俳優の名前を出した。
「ううん、違うの。松木幸四郎って言うの。お寺の住職の息子。」
「あ、あの、あの、あの敬ちゃん・・・!小学校で何時も俺をいじめた敬ちゃんかい?」
怖(こわ)いその筋(すじ)のお兄さんの巨体がいきなり小さく収縮したように見えた。
「そうさ、あの敬ちゃんさ。こいつね、図体ばっかしでかくて、まるで意気地なし。ところがこの体格とこのご面相だろう。み~んなどこかの筋(すじ)の方かな?って思ってしまうのよ。」
「ええっ、じゃ最初黒ちゃんがその筋(すじ)の怖(こわ)い人って言ったのは、思い違(ちが)いだったの?」
僕は一挙に肩から力が抜けて、座り込みたくなった。律ちゃんも黒ちゃんも僕と同時に驚きの声を発した 。
「でも、指は2本も無いし、それにその額から頬への凄(すご)い傷。それにその迫力。まさにその筋(すじ)の方にしか見えないんだけど。」
僕はますます、何が何だか判らなくなって、敬ちゃんに説明を求めた。
その筋(すじ)の怖(こわ)そうな丸刈りお兄さんが、トイ・プードル を乳母車に乗せて入って来たのだが、一番年長の敬ちゃんの幼馴染(おさななじみ)のお寺の跡継ぎ息子と判明し、その筋(すじ)の怖(こわ)そうなお兄さんが一転、お寺の馬鹿息子になってしまった。ま、「松本幸四郎」って超有名な歌舞伎役者に一本足りない松木幸四郎って名前にも少々ずっこけた 。
「あのですねぇ、私はこのような見かけなもんで、何時も損(そん)をしてるんです。初対面で、絶対にその筋(すじ)の怖(こわ)そうな世界の人と思われてしまうんです。 」
松木幸四郎は全体に収縮し小声になった。その筋(すじ)の方に勘違(かんちが)いされていた時の威勢はどっかに吹っ飛んでしまった。本音では本人もその筋(すじ)の方に勘違(かんちが)いされていたいのかも知れない。
「で、敬ちゃんの幼馴染(おさななじみ)って聞いたけど、ちょっと説明して呉れませんか?」
僕は安心感からか、大胆になって聞いた。
「は、なんですか、僕の顔のこの傷ですか・・・?」
「あ、ああ。それもあるけど、その指。どうして指なんか詰(つ)めたの? 」
「は、は、は、は・・・・あ~可笑しい。可笑しいったらないわ。 」
「ど、どうしたの敬ちゃん。なんか僕、変なこと聞いちゃったかな?」
「だってぇ、白カラスのマスターが真剣な顔して、指詰(つ)めたんですか?なんて聞くんだもん。は、は、は、は。」
敬ちゃんは笑いを堪えるのに必死だった。律ちゃんも黒ちゃんも何がなんだか訳が判らずにお互いに顔を見つめた。
「この指、詰(つ)めたんじゃないです・・・・。実は・・・。」
「そうなのよ、詰めたんじゃないのよ。あ~は、は、は、は。もう可笑しいったら。」
「え、教えて下さいな。その指が無くなった原因を。」
僕は小さくうなだれる松木幸四郎と笑い転げる敬ちゃんの顔を交互に見比べた。
銀座中央通りの某有名デパート の三人娘 とお寺の跡継ぎ息子がトイ・プードルを交(まじ)えて、何だか可笑しなことになって来た。松木幸四郎と名乗るお寺の跡継ぎ息子がどんな事情で指を 二本も失ってしまったのか、彼と幼馴染(おさななじみ)の敬ちゃんが笑いながら話始めた。
「実はさあ、こいつ、幸四郎は本当に馬鹿と言うか、程度(ていど)をしらないアホだったのよ。指 二本失うだけで良く助かったわ。」
「敬ちゃん、なんだか、彼の立つ瀬が無いような言い方だね。」
熊のようにでかい図体に蚤(のみ)の心臓が付いているらしい松木幸四郎が、僕は少し可哀想になった。
その筋(すじ)の方も、一瞬身を引いてしまうようなご面相と体格を持ち、二本も指の無い手を持つ松木幸四郎に、僕は何となく優しくしたくなり、ビール を注(そそ)いだ。
「有難うございます。叔父(おじ)さん。」
松木幸四郎は額から頬へ入った傷を触りながら、坊主頭をちょこんと下げた。
「おいおい、その叔父(おじ)さんは辞めてよ。本当の叔父(おじ)さんじゃないんだから。」
「え、二人は俺にあんたは叔父(おじ)さんだって言ったけど・・・・。」
「ああ、その二人のでっちあげさ。二人は姉妹でもなんでもない。それに僕は彼女達の叔父(おじ)さんでもない。」
「ごめんなさい。」「あ、あ、本当にごめんなさい・・・。」
律ちゃんと黒ちゃんが交互に謝ったが、松木幸四郎はじっと下を向いていた。
「こいつが、確か小学校の2年の時だったと思うけど、その当時こいつのお寺のトイレは旧式な汲(く)み取り式のトイレだったの。このトイレでこいつは、指を二本失って、ご覧の通りのご面相になったのよ。」
敬ちゃんが、軽蔑の眼 を松木幸四郎に向けた。
「あ、違う、違う。・・・2年じゃなくて3年の時。」
松木幸四郎が小指と薬指の無い手 を振って仕草で否定した。
「どっちだって、大して変わらないじゃないの。小学校の2年だって3年だって!じゃ、あんたから、ここの皆さんに丁寧に説明しなさいよ。指はないけど、手抜きしなさんよ。」
大久保(おおくぼ)佳代子(かよこ)似の敬ちゃんの命令口調に松木幸四郎はまるで意気消沈(いきしょうちん)した。それにしても、彼の着ているベルサーチのニットシャツとジャージとサンダルのセンスは頂けない。
「そのですね、うちの寺で檀家(だんか)の会合がありまして・・・それは美人で綺麗な小料理屋の奥さんが、トイレに入ってぇ・・・そのう、いたずらしようと、そのう・・・汲(く)み取り口から覗(のぞ)こうと、蓋(ふた)の鉄板を動かしたんです・・・。」
「ええっ、下から覗(のぞ)いたのか!・・・う~ん、小学校3年にして、もはや凄(すご)い下劣(げれつ)な趣味だ。 」
「白カラスの叔父(おじ)さん、何を感心してるのよ!」
「いや~僕にもその十分の一の勇気があったらなぁ・・・。」
「変な感心の仕方しないでよ! 」
敬ちゃんに僕は怒られてしまった。毒舌を吐く、テレビでお馴染みの「大久保(おおくぼ)佳代子(かよこ)」の顔が浮かんだ。
「そ、それでどうしたの?」
「それで、それで・・・ですねぇ、思いっきり覗(のぞ)き込んだ瞬間、バランスを崩(くず)して、浄化槽(じょうかそう)の中に落っこちそうになって。いや、ほぼ、落っこちて・・・・。汲(く)み取り口の鉄枠にぶら下がったんです。」
「ん、それで、それで、どうなったの。糞まみれになった?」
「いえ、そのう、じたばたと暴(あば)れたんです。その振動で便所脇に立て掛けてあった墓石の竿(さお)石(いし)が数本汲(く)み取り口に倒れて来て・・・。」
「そっかぁ、墓石の竿(さお)石(いし)と汲(く)み取り口の鉄枠の間に指二本挟(はさ)まった・・・・。 」
「そりゃ、痛かっただろうなぁ・・・ 。だけどなんでそんなところに竿(さお)石(いし)が立て掛けて在ったんだい?」
「ええ、数日前の台風で墓石の竿(さお)石(いし)が何本も倒れて、修理の為に石屋がそこに立て掛けてあったんです。」
「小学生の指じゃ切れてしまうよなぁ。うわ、うわ~痛そう。でも良く浄化槽(じょうかそう)の中に落っこちなかったじゃないの。」
「いえいえ、見事に落っこちました。落っこちた時に顔に傷が付いたんです。そん時は指が二本も千切れて、顔に大きな傷が出来たなんて、自分でも気が付きませんでした。それより糞(くそ)壷(つぼ)の中で溺れ死ぬのが怖(こわ)かったです。 ただ、幸運なことに、清掃屋の汲(く)み取りが来た、直ぐ後だったので、腰位の深さしかなくて・・・・。」
「浅くて助かったんだ。じゃその綺麗な奥さんが人を呼んで助けてくれたんだね?」
「違うのよ、白カラスのマスター。指が千切れて、顔が傷だらけで、糞まみれになったのは、こいつがぜ~んぶ悪いの。罰が当たったのよ 。その奥さんは気付かずにトイレを出た後だったの。助けたのはこのトイ・プードルってか、この犬の3代前のお婆さん犬よ。 」
僕の質問に敬ちゃんが説明を加えて応えてくれた。
「へぇぇ~、犬 に助けられたんだ。」
「そう、そう。このトイ・プードルはそれから3代目の犬 なんだけど。こいつ、幸四郎は、馬鹿で助平で、どうしようもない極道坊主だけど、動物にだけは本当に優しいんだ。こいつが糞(くそ)壷(つぼ)に落っこちた時、トイ・プードルも一緒に外で遊んでたのね。こいつが落っこちた時、その犬は気が狂ったかのように檀家(だんか)の会合の中に飛び込んで、めちゃめちゃに吠えまくって、皆を便所に誘導したって訳なの。」
「そうか、それで命の恩人のトイ・プードル を何時も一緒に連れて歩いてるんだ。う~ん、僕から見れば少々と謂うか、とても異常愛 だけどなぁ・・、ま、仕方ないか。でもその当時からトイ・プードル飼っているなんて、洒落(しゃれ)たお寺さんだね。」
やっと謎解きが済んで納得したが、それより怖(こわ)いお兄さんが本当は動物を溺愛する優しいお坊さんだったなんて、それこそ僕は、ほっと胸を撫で下ろしたい気分だった。
「めでたし、めでたし。では、君らの叔父(おじ)さんの役もこれでお終い。」
「いや~ん、これからも、あたし達の叔父(おじ)さんでいてぇよぉ!」
「なにか、めでたいことでもあったんですか?」
松木幸四郎が素っ頓狂な声を上げた。本当にこの男が、怖(こわ)いお兄さんだったと言うのだろうか。第一印象でそう決め付けた黒沢かずこ似の黒ちゃんを、これから少々お仕置きしなくてはならないと僕は思った。
「ま、いいじゃない。もう一回全員で乾杯 しようや。今度は、白カラス亭マスターのおごりだよ。」
「うゎ~、最高!乾杯ぃ~。 」
トイ・プードル が乳母車からちょこんと頭を出し、つぶらな瞳で全員を見ていた。
松木幸四郎が三人娘と結構仲良く盛り上がって、ほっと安心した時、白カラス亭の重い木製のドアが開いて、常連さんが顔を出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます